闇の鱗片
*女性鯖との絡みがあります。
人が眠り、神々の刻が訪れる。それは光なき無の世界。
夜に鳴く鳥の声だけが囁き、夜風に揺れる木々の音だけが響く時刻だが、今のカルデアは吹き荒れる雪のそれだけに満ちていた。
そんな、静まり返った夜のこと。カルデアのとある一室から、こぽこぽと水音が零れていた。
艶やかな漆の杯に、透明な液体が満ちていく。部屋の外にも漏れる、濃厚な酒の香りが、その液体の正体を示していた。
分厚い雲を押し退け、姿を現した月の明りに浮かぶ白い四肢を、袖を通しているだけの着物から覗かせた『それ』はまるで蛇の如く、盃を呷る名前の体に絡みついた。
「ふふ…、ほんまにいけずな男やわぁ…。鬼のこーんなに濃い酒でも酔えへんとはなぁ…。ますます欲しゅうなる」
臓物を融かし、脳すら蕩けさせる、恐ろしい度数のそれは鬼である彼女らだからこそ口に出来るもの。人間が口にすれば一瞬で意識を失うであろうそれを、名前に差し出す少女の姿をした英霊酒呑童子は、うっとりと瞳を蕩けさせるとその顔をじいと見つめた。
初めはただの悪戯だったのだ。勿論ある程度は希釈したがそれでも、酒豪でも卒倒するような酒であることに変わりない。しかし彼女の予想に反して、名前は顔色一つ変えることはなかった。その代わりというように、彼を兄と呼ぶ英霊の方は動けなくなったが。
物腰は穏やかで、常に優しげな表情を崩さない男。己をこのカルデアに呼び出した名前に、彼女はある確信を持っていた。聖人の如く凪いだこの名前の裏の顔。彼の英霊たちを見ていれば直ぐにわかった。名前もまた『酒』なのだ。芳醇な香りで誘い出し、その身に宿す毒で相手を融かす。そしてじわじわと相手の脳を、心を蝕み、その肉体をしゃぶり尽くす…猛毒の沼。それに気が付いた時、彼女は恍惚に喘いだ。自分がこの『酒』に浸けられ、骨の髄まで蕩けさせられたなら、どんな快楽を味わえるのだろうと。
今まで彼女は、自分が気に入った相手を酒浸りにさせ、頭の先から爪の先までを融かし、呑み干してきた。しかし、名前という極上の酒の香りに、気が付けば浸食される側となっていたのだ。
名前の喉仏が上下し、濡れた唇から熱を帯びた吐息が漏れる。
はだけた着物を引き摺り、彼女はその白い手を名前の頬にあてがうと、その外見に似合わない妖艶な笑みを唇に乗せる。
「なあ…旦那はん…。少しは酔うてくれたか?」
「何度も言っているが酒呑、俺は最初の一口で酔っているよ」
「嘘はあかん…うちの、愛しい…旦那はん。
うちはあんたの乱れた姿がみたいんや…。
ああ…まだまだ足らへんようどすなぁ」
「俺を酔わせて何が楽しいのか…」
彼女の恰好とは真逆の、きっちりと服を纏った名前の手が、小さな頭をそっと撫でる。その手つきはしっかりとしていて、余裕が見てとれた。それに瞳を鈍く光らせた少女は、壁に凭れる名前の足の上に跨り、可憐な顔に妖艶な表情を濃くして、彼にそれを近付けたのだ。
「ほんまにええ男どすなぁ…うちの旦那はんは…。
うちはあんたはんになら…溶かされてもええとおもってます」
「…ふふ…、随分酔っているな酒呑。今日は此処までにしようか」
「あきません…ほんまにあんたはずるいひとどすなぁ…。
わかるやろ…?うちの体も、角も、火口みたいに火照っとるわ。
うふふ…あんたはんのぜぇんぶ、うちが美味しくいただくって、前に言うたやろ?
撤回や…撤回…。もう…うち、我慢ならん…。うちを美味しくいただいて、おくれやす…なあ?旦那はん…」
艶やかな紅の塗られた唇が、名前のそれにゆっくりと近づいていく。
懇願するような視線。鬼であるとか人間であるとか、そんなことはもう頭になかった。ただ目の前の名前が…たまらないほどに愛おしい。このまま自分の酒でつけて…自分だけのものにしてしまおうと思っていたが、それも叶わないらしい。本当に酷い男だ。どんなに歪み捻じれた感情も穏やかに受け入れる名前は、確かに拒絶をすることはない。しかし肯定もしないのだ。中途半端な期待と、裏切りに、焦らされて歪んでいく。ああ酒浸りにされているのは…己なのだ、と英霊は悦に瞳を濡らした。
自分の上に跨り、食べられることを望む彼女に、名前はただ優しく微笑む。
それは少女にとって、己の心を容赦なく引き裂く、あまりにも非情で、残酷な…。いとおしいものであった。
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「…ちょっと、名前!!聞いているの?
この私の声を無視するなんて、ありえないわ!」
「聞いているさ、今日の任務に同行したいという話だろう?」
「なによ、ちゃんと聞いてたんじゃない!反応しなさいよね。
それに…ちょーっと浮気が過ぎるんじゃないの、お兄様?」
「……なんの話だ?」
「こーんなに、濃厚なマーキングされちゃって。ほんっと腹立つったらありゃしない!」
「お、…おにい…じゃなかった、名前。お、お酒の匂いが強いのだわ。
昨日も部屋にいなかったし…一晩中飲んでいたの?」
「どこかの怖い鬼さんに、捕まってな。死ぬほど呑まされたよ」
部屋に戻った頃は、もう既に夜の帳は昇る太陽に掻き消され、相変わらず吹雪で荒れたカルデアにも、その恩恵が降り注いでいた。シャワーを浴びて、着替えはしたものの、やはり染み付いてしまったその強い香は落ちなかったようだ。
時間が時間だけに、寝ることを諦めた名前は暫く自室で仕事をして、食堂へと向かったのだが、すれ違う全ての者に向けられた眼差しの意味は、薄々わかっていた。そして食堂でもそれは同じで、朝食の乗ったトレーを名前に手渡した赤い英霊は、『いつも以上ににこやか』な顔をしていた。普段はクールな顔を崩さない英霊だが、名前に対しては一変する。それは周知の上だ。しかし今日のその瞳は、笑っていなかったなと名前は心で呟いた。
そんな気だるげに朝食を取る名前に、滑らかな黒髪を宙に浮かべた女神が近づいて、その真向かいに座ったかと思うと、その中身ならぬ外見をまるっきり出したような話し方で、名前に詰め寄ったのだ。
そしてのらりくらりといつものように『かわされる』言葉に、女神である英霊は、更に青筋を立てた。
そんな2人の会話に恐る恐るといった様子で入り込んだ、黒髪の女神に似た顔をした女神は、名前の隣に座ると、そわそわとした仕草で顔を見上げる。傍から見ると修羅場のような光景だろう。モテる男は辛いねぇ…と近くの席に座り頬杖を付いた赤い瞳の英霊が、全く笑っていない目で口角を上げたのが、名前の視界に映った。
「へええ…。本当に、呑まされただけかしら…」
「何が言いたい?」
「いいえ、私のお兄様はもてもてですものねぇ?
お腹を空かした鬼さんに、食べられてたら大変かなーって思っただけよ!」
「た…っ、食べられ…。お、おにいさ…じゃなかった、名前があんな鬼に食べられるわけないでしょう?ね?ま、マスターそうよね?」
「暴走しすぎだぞ、イシュタル。エレキッシュガルに無駄な心配を教えるな」
「……だ、だって、仕方ないじゃない…っ!
というか、名前が簡単にほいほい誘いに乗るのがわるいのよ!!」
「カルデアの英霊を、信頼してのことさ。
勿論、お前たちのことも信頼しているよ」
「…っ!!、ば…っばっか、!そ、…そんな話をしているんじゃ…」
「……お…、おにい…さま…」
ゆるりと、その瞳が穏やかに細められる。それに文句をつけることはいくら女神に名を連ねる2人であっても、できなかった。白い磁器のような滑らかな頬を赤らめたイシュタルは言葉を飲み込み視線を逸らし、同じようにエレキッシュガルも、その大きな瞳を揺らした。完全に名前の勝利ということである。
食事を終えた名前は、2人にまた任務の時になと声を掛けると、2人の頭を撫で、トレーを返しに席を立った。
残された女神たちは、己の頭に残るその柔らかな指先の感覚に、心臓を擽られたような…妙な気持ちがこみ上げたのを感じ、そっと己の胸を撫でたのである。
「やるじゃねぇか、色男。
あれじゃあ…あの口煩い女神サマたちも、黙るしかねぇなァ」
「…見ていたなら、助けてくれたって良いだろう。キャスター」
「残念。浮気ものの旦那に貸す手はないさね。
…まあ、見返りがあれば…考えなくもないが、なァ?」
食堂を出た名前は、青いフードを被った英霊にそう声を掛けられた。自分より少し遠くで、壁に凭れる英霊の瞳は見えない。名前が女神たちと話をしていた時に、近くの席に座っていた彼が、態々先回りしてまでも名前を待ち伏せていたのだ。『何か』の用があることは確かだろうと、名前は彼に近づいた。
「浮気、か。…まさかお前に言われる日が来るとはな」
「ははっ。そりゃ勘弁してくれや。
俺はケルトの英雄クー・フーリンであって、そうじゃねぇ。
前に言っただろう?…英霊クー・フーリンは、あんたのモンだって…な。
ああ、勿論キャスターのって言葉が付くがな」
愉快そうに名前の口角が上がるのが見えた。その飄々とした物言いは彼の中でも、キャスターである彼が一番似合っている気がする。しかしその言葉に乗せられる声音は、決して軽いものではないことが、名前にはわかっていた。
「と言っても、どーせあいつらのことさね。
同じようなことをあんたに言っているんだろう?」
己の前にまで近づいてきた名前がその手を伸ばす。
すると伸びてきた英霊の白い手が、それを掴み己の方へと引き寄せたのだ。名前の体は前に倒れ、そして反射的に英霊の顔の両脇に手をつくと、フードからやっと覗いた赤い瞳と目が合った。
「こうやって、…俺だけを見てりゃ良いのに。酷ェ男だよ、名前」
「見ているさ…。お前も、な」
「ああ…本当に、殺してェぐらいだ」
言葉とは裏腹に、赤色の瞳が段々と甘みを増していく。今この一瞬だとしても、名前が見つめているのは己であることに変わりないのだ。英霊の腕が目の前の名前の首に回り、彼の手が彼のフードを外した。
露になったうつくしい顔立ちに、名前はそっと目を細める。そして流れた深海を思わせる青い髪を撫でた彼は、穏やかな微笑みを一瞬…崩した。
その一瞬を見逃さなかった英霊はぞくりと、背筋を震わせると同時に、言い知れぬ快楽が体を駆け巡るのを感じた。全身を流れた電流に息をすることさえ奪われた彼は、求めるように腕の力を強くする。
しかし…英霊の懇願をするりと受け流した名前は、いつもの顔で、微笑んだのだ。
「また、任務でな」
去り行く背中に、崩れ落ちる体。
廊下の壁を背にしゃがみ込んだ英霊は、恐怖にも似たその感情に、心臓を震わせた。
そして、緩やかな笑みを刻むと、蕩けた瞳で、見えなくなった名前の背中を見つめたのだ。
***************
「兄さん、少し…良いか?」
「ああ、エミヤか…どうした?」
いつも以上に荒れた任務を終えた名前は自室に戻る前に、一人の英霊に呼び止められた。
赤い衣を纏う英霊は、名前にとってある意味で大事な存在であった。それを示すように、彼の表情と声が和らぐ。エミヤと呼ばれた英霊に向けられた視線は、酷くやさしいものであった。
それに気付いているエミヤは、微かに耳を赤らめて、兄と呼んだ名前を見る。
「大したことじゃ…ないんだ」
「そうか、なら部屋でゆっくり話そう」
昔から、名前は…血の繋がらない弟の話を聞かなかったことはない。その逆はあったような気もするが、それは未熟であった己の罪なのだろう。とこみ上げてきた苦い気持ちを殺した。
中へと誘われたエミヤは、名前自身の私物は殆どない、言い換えると英霊の私物と、贈り物だらけの部屋にため息を零した。名前の傍は居心地が良いのだ。個性豊かでその心に様々なものを秘める英霊たちにとって、まさにオアシスのような場所である。だからこうして、名前の周りには英霊たちが集まるのだろう。人のことは言えた義理ではないが…と複雑な表情を見せる英霊を背に、名前は紅茶を淹れる準備を始めた。
「兄さん、それは俺が…」
「偶には良いだろう?」
きっちりと時間を計って淹れられるそれは、上品な香りを立て始める。
かつて名前の妹分であった少女が、えらくこの紅茶を気に入っていたなと、香りに誘われるように現れた記憶にふと苦い笑みが零れた。
「……ああ、…美味しい。やはり兄さんの淹れる紅茶は最高だ」
「ふふ…。お前によくせがまれたからなぁ。
それにお前の舌を鍛えるのも、俺の役目だったしな」
かつて、炎の悪夢に憑りつかれた少年は死んだ目で、名前を見上げた。それを哀れに思った名前は、あたたかな紅茶と料理を振る舞い、少しずつ少年を立ち上がらせていったのだ。
そして少年の器用さに目を付けた名前は、武道だけではなく料理も彼に教えた。味覚を鍛えるために味付けを工夫し、見た目にも気遣った。そうしてそれらを受け継いだ少年は、気が付けば自らの足で、立てるようになっていたのだ。
懐古するように細められた名前の瞳が、そっと閉じられる。何かを祈るようなその仕草には覚えがあった。きっと何もかもを失ったあの名前のことを考えているのだろう。己と同じ顔を持つ、腐った英霊のこと。
思わず唇を噛み締めたエミヤは、『知っている癖に』憂いを醸し出す名前に、口を開きかけてやめた。
「…それで…何か、あったか?」
「………いや、本当に大したことじゃないんだが…。
いつもよりも、顔色が良くない気がして、な」
「俺の、か?」
「ああ、当然だろう」
心配の色を宿した灰の瞳が、名前に向けられる。
心当たりがあるとすれば…昨晩の飲酒か、それとも不眠か。最早恐ろしい程に機微が顔に現れない自分の、微妙な変化を見抜くのは、とある少年の特技であったな、と名前は思考を回す。
「二日酔いのようなものだ、あまり気にするもんじゃないよ…エミヤ」
「兄さんが二日酔い…?冗談だろう」
「おいおい、流石に俺でも…鬼の酒を飲めば、頭も痛くなる」
「…普通はそれでは済まないのだが…」
いくら酒豪の英霊と酒を交わしても、乱れた姿を晒したことのない名前は、翌朝もしゃんとしていた記憶しかない。とエミヤは半分呆れたように呟いた。
「…兎に角、今日はもう寝た方が良い」
「心配性は変わらず…か。お前も、俺も」
「当然だろ、…」
家族なんだから、と脳裏に響いたのは未熟な己の声で。それをなぞることはもう、英霊にはできなかった。勿論今でも名前を…義兄として尊敬しているし、何よりも大事な存在であることは変わりない。しかし…それよりも、上回ってしまったとある感情が、それを堰き止めたのだ。
「なあ…兄さん」
「どうした、エミヤ」
柔らかく返される声、己の名を呼ぶ…唯一の、福音。
カップを置いたエミヤは、静かにその音を聞くと、彼の様子に気が付いた名前は静かに指先を揺らして、手招きをした。くゆる指先を見つめていると、催眠術にでも掛けられたのかと思うほど、勝手に体が動き出す。近づいたエミヤに、軽く自分の膝をノックした名前は、戸惑いの表情を浮かべた彼の肩に手を掛けるとぐいと引き寄せた。
抵抗も許されず、名前の膝の上に倒れた英霊は、赤くなった頬をそのままに真上にあるうつくしい顔を見上げる。長い睫が蝶の羽の如く瞬いた。
「……兄さん、」
「ん?」
「やはり…酒くさいぞ」
「ふふ…。大目に見てくれ。いくらお前が弱いとはいえ…。
こんな薄い残り香で酔わないだろう?」
「…………兄さん」
「…おや…、仕方のない子だ」
脳を揺らしたのは、強いアルコールの匂いではなかった。妙に甘ったるく感じる…その、残り香は、比較的最近に召喚されたとある英霊の、それと同じで。ざわざわと胸の奥が燻りちらちらと火を上げていくのが良くわかった。火は炎となり、衝動を孕む。エミヤは己の腕を、名前の腰に回すとぎゅうと抱き着いて顔を埋めた。それをどう捉えたのか、変わらない瞳をエミヤに向けた名前は、指先で白の髪を撫でる。
名前に歪みを向ける英霊たちとは違い、この英霊は積極的ではない。しかし一歩引いているわけでもなかった。だからこそその胸に燻る想いは…長年に渡り蓄積されてきた塊のようなもので。月蝕の如く、灰の瞳を蝕み始めた感情は、己が制御できるものではなかったのだ。
「エミヤ」
「……昔から、そうだ…。兄さんは、俺の…なのに。
気が付けば、誰かと、いて。俺はいつも…置いて行かれる…」
「………」
「なあ、兄さん。俺を…見てくれ。
衛宮士郎という未熟者ではない、この俺を」
「……」
「頼む…兄さん、くるしいんだ…っ」
「……エミヤ、…お前は、お前だよ」
「なら…っ!それなら、俺に、…本当の、兄さんを…見せてくれ」
「……何を、」
「知って、いるんだ。兄さん。…いつも優しい兄さんの、その裏を…。
誰にも見せたことがない、俺だけの…」
「………エミヤ」
それは遠い記憶だった。名前が一度感情を吐き出した時の記憶は、強烈に英霊に刻み付けられていた。
心の底からの憎しみを露わにしたその瞳は、蔑みの色を以て鋭く輝く。
口から吐き出される呪いのような言葉は、低い低い地獄の音色であった。
誰にそれが向けられたのかは覚えていない。だがそれを見たとき…エミヤは、仄暗い悦びに満たされた、あの感覚を今でも忘れてはいないのだ。
慈愛に満ちたやさしい瞳も、穏やかな口調も…勿論いとおしくて仕方のないもの。しかしあの瞳を…声を…求めてしまう、己に、気が付いていた。
「…………そう、か」
「……に…、いさん…?」
「悪い子だなァ…エミヤ、…知っているか。
好奇心は猫も殺すってコトバを」
ふ、と…文字通り空気が変わった。その瞬間ふわふわの雲の上から、針山の上に落とされたような…『痛み』が走り、背筋が凍り付いて息が止まる。…これは、誰だ、とエミヤは見開いた瞳をそれに向けた。優しい兄が…禍々しいそれに喰われてしまったような、恐怖が彼を震えさせたのだ。
しかし、その瞳は…荒々しくも、息を呑むほどうつくしく、彼の目に映った。囁かれる低い声もまた甘美な響きを以てエミヤを襲う。
「あ…ああ…、…に…い、」
「どうだ、エミヤ。これがお前の望んだ…ものか?」
歪な弧を描いた唇に、どうしようもない熱が体中から湧き上がるのを感じて、息を吐きだす。
荒いだ吐息は、みっともない程欲望に忠実に、色づいたそれを名前にも己にも示したのだ。
「ははっ、お前も大概じゃないか。
荒っぽいのが好きなんだろう。お前のことなど、全部知っているさ」
「…っ、…」
「だがな…まだ、時じゃあない。
忘れろ、エミヤ。暫し…眠れ」
「なっ…!にい、さん…。なんで…」
「案ずるな…俺の弟は、お前だけだよ…」
伸びてきた手がエミヤの顔を覆う。いくら抵抗しようとしても、何故か力の入らない体ではどうすることもできなかった。意識が沈んでいく。何故だと問おうとしてももう口は動かなかった。流れ込んでくる魔力に抗おうともがくエミヤだが、質も力も名前には及ばない。やがて、眠りへと落ちたエミヤを、見下げる名前の瞳は、氷のように冷え切っていたのだ。
「パンドラの箱を、開けるもんじゃないさ」
嘲笑にも見えるそれを浮かべると、名前は静かに目を閉じた。
*終わり*
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