賢者の遭遇
・ヒロインは特殊な力持ち。
・某魔法使い漫画のパロあり。知らなくても大丈夫です。
・キャスニキに対する捏造や改変あり。




名前は、孤独であった。
それは、見えざるものを映す瞳と、人ならざるものが渇望する魔力を持って生まれた代償であったが、勿論それを名前が望んだわけではない。神から下賜されたその力は、名前を人の枠から外したのだ。
不思議な色をした瞳は生みの親からも気味悪がられ、在らぬ方向を見て何かを呟くその名前を周囲は受け入れることを拒絶した。

名前は、人間には嫌悪されたが、動物には愛された。鳥に、猫に、犬に…種族は問わず彼らは名前を愛したのだ。だから山へと捨てられた名前は彼らに助けられ生き続けることができたのだ。

彼らの言葉を学び、彼らから生きる力と知恵を学び育った名前が、とある年齢となったある日、一匹の森に棲む狼はこう言った。




『我らの愛し仔、名前よ、おまえはそろそろ世界を知らねばならぬ』


『…世界?…わたしは、もう外の世界など…』


『ああ知っているとも、幼い頃からおまえが受けた仕打ちは、我らが良く知っている。
だからこそ、おまえは行かねばならぬのだよ。
おまえの世界はこの小さき森ではない、おまえを求めているのは我らだけではないのだ』


『そんな…。わたしはもう、此処にはいられぬというのですか?』


『いいや、違うさ。我らとておまえを手放したくはないのだ。
できるならばお前と共にこれからも在りたい。この森に住まうものは全てそう願っているよ。
しかし…それはおまえの為にはならぬ。人の身ながら神の力を宿した愛しい仔名前よ、旅立ちの時は来たれり。どうか…わかってくれぬか』




紺碧の空に浮かぶ大きな満月が見下ろす丘の上で、名前と狼の影が伸びる。
人の何十倍も大きい体を丸めた狼は、慈愛に満ちたその瞳で目の前の名前を見つめると、そっとそのまろい頬に頬ずりをした。

この森の王である彼は、哀れな名前の往く先を憂いていた。
本人はまだ知らないが名前は『神に還されるもの』であり、『神の花嫁』とも称される崇高な存在である。故に、うつくしい膨大な魔力をその身に宿し、神や精霊といった高位な存在へ直接干渉し、その力を借りることができるのだ。しかしそれは諸刃の剣である。人の身に余る力は、名前の体を削りゆくのだ。
このまま森に置いては、名前の寿命はあと5年もないだろうと嘆いた森の王は、苦渋の決断を下した。




『おまえの往く道は、茨そのものとなるだろう。
しかし決して忘れるな。おまえが望むならば我らはどこまででも共に在ろう。
おまえの怒りは我らの牙となる。おまえの涙は我らの爪となる。
おまえの笑みは我らの祝福となる』




唱えるように紡がれる声は、名前が幼い頃に交わした契約の言葉で。厳かな王の声が微かに擦れ、守り続けてきた大事なものを手放す苦痛に滲んでいた。名前はその瞳を伏せると、1粒の涙を零した。




『泣くな、名前。我がおまえを泣かせては…民に怒られてしまう』


『だって…、わたし…はなれたくない…っ』


『我とて同じこと。しかしおまえが永く我らと歩むために、必要なことなのだよ』


『………っ』




まんまるに浮かぶ大きな満月がゆらりと揺らいだ。水面に映る月に投石されたように、月が、揺れたのだ。




『ほら、名前よ。おまえが泣くから、月の女神が慌てているぞ』 




今にも飛び出して来そうな勢いで名前を覗く、うつくしき月の女神の姿。
人の目に映らないその姿を、名前はしっかりと捉えていた。
ぐいと涙を拭い、王の太い首に抱き着いた名前は、込み上げる嗚咽を堪えて笑った。




『わたし、…ぜったい、またかえってくるから…っ』


『ああ勿論だとも。この森はおまえの森…。いつでもおまえが還りつく場所となろう』




柔らかな月の明かりが見守る中、名前は静かに決意した。
名前から零れ落ちた涙は、大地を濡らし、その大地から何やら蔦のようなものが伸びたかと思うと、名前と同じ背丈となり、ぱっと花を咲かせたのだ。白い花弁に香る匂い…それは、月に恋い焦がれる花であった。




『まったく…王サマったら、急に追い出すなんて!!
ひどいにもほどがあるワ!!女のコを身一つで送り出すつもりだったのかしラ!』


『ほんとよネ!!しかも人間の言葉をちょーっとしか知らないのに、急すぎるワ!!
ほんとうに大丈夫?』


『大丈夫だよ。…なんか向こうで全部用意してくれるらしいし』


『人間なんて信用できるハズないワ!!良い?なにかされたらいつでもいうのよ?
私は風の妖精、あんたの声はいつでもあたしに届くんだからネ!』


『そうよ、わたしは水の妖精…。水の在る場所なら、どこにいたってあなたに会いにいけるの』


『あらあら!!それなら火をおこすと良いワ!!気に食わない人間なんか、私が焼き払ってあげるんだかラ!!』




遠い山の向こうから太陽が顔を出し始めた頃、青い花に覆われた森の中で、名前と名前の周りを囲う妖精たちが、旅立ちの支度をしていた。その青い花は、ブルーベルといって、人間たちの言葉では妖精の花という意味もあるらしい。瑞々しく咲き誇る花はまるで名前の旅立ちを祝福するかのようであった。




『さあ…さびしいけど、旅立ちの時間よ…あたしたちの愛しい子、名前』


『でもずっと、傍にいるから、さびしくはないわネ!!』




小さな茶色の皮のポシェットを肩に掛けて名前は立ち上がった。
ふわふわと浮かぶ妖精たちの寂しげな微笑みに、じわりと涙腺が緩みそうになるが、それをぐと堪えた名前は、ゆっくりと歩き出す。




『あーあ、結局王サマは姿をみせないのネ』


『しょーがないわよ、自分の愛娘が遠くに旅立っちゃうのヨ?
今頃涙で頬を濡らしているに決まっているワ』


『でも最後くらい…。ちがうわネ、きっと最後じゃないかラ…』


『そうヨ、大丈夫、きっとあの仔はうまくやるワ!!
だって名前は…あたしたちの、愛しいコだもの!』




くすくすと笑う妖精たちは、くるりと回るとその姿を消した。
静まり返った森はいつも通りの姿を取り戻す。

しかし、夜明けを告げる、太陽の強い光が森に満ちたとき…。
どこからか聞こえる狼の遠吠えが…名前の姿が森から見えなくなるまで、ずっと…ずっと、響いていたという。






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名前は王から教えられた通り、森を出ると汽車に乗って街へと向かった。
自然豊かな土地から段々と人の気配が濃くなっていき、がやがやとした活気に満ち溢れた街が姿を現したのだ。様々な店が立ち並び、食べ物のにおいが食欲をそそる。しかし名前にとっては息苦しい場所以外のなにものでもなかったのだが。

妖精に言われるがままに新しい服へと着替えた名前は、精霊からもらったワンピースの裾を揺らし、汽車を降りた。まずは人に馴染むこと、と口煩く言われたので、名前の姿はあっという間に街に馴染むことができた。だが勿論、森で日々を過ごしていた名前にとって人混みは直ぐに慣れるものではない。

目的地が記された紙を手に進んでいたつもりであったが、どうやら道を間違えていたようである。
こういう時は、普段ならば直ぐに助けを呼ぶのだが、ここは町中で、しかも人の目が多くある。そんな中で下手なことをしたら、また迫害の的になることを名前は良く知っていた。

仕方なく、人目の少なそうな細い道へと向かう。
この街は比較的治安が良いらしい。朝日に照らし出された路地は、綺麗に清掃がなされていた。

だからこそ…。綺麗な道にぽつりと浮かぶそれが、名前の目に留まったのだ。




『…血…?』




それを見て思わず口から零れた声に、名前ははっとした。人の街にいる時は人の言葉を使わねばならない。と言った妖精の怒り顔が目に浮かぶ。恐る恐る回りを見渡しても、人の気配はなかった。

ほっと安堵の息を吐いた名前は、その血痕を辿っていく。野生と共に生きてきた名前にとって、血はそこまで珍しいものでもなかった。細い道を警戒しながら歩むと、ついにそれは姿を現した。
山積みの木箱の影に身を隠すように横たわる…見慣れた姿。

名前よりも大きく、森の王よりは遥かに小さいそれは、白い毛を赤に染めた『犬』だったのだ。山犬という部類だろうかと近づいた名前は、その犬につけられた傷に触れる。するとぴくりと耳が震え、犬がその顔を持ち上げた。唸り声を上げようと開かれた大きな口は、名前を見るや否や閉じられる。




『…ひどい傷…、ちょっとまってて』




刀のようなもので切られた切り傷は、犬の脇腹を深く割いていて、今もなお血が大量に噴き出していた。名前は小さな手を合わせると、呟くような小さな声で問いかける。すると名前の頭の中にとある声が響き、ぽうと優しい光がその手に宿った。手を犬の傷に翳すと、その傷はあっという間に塞がり、傷跡すら見えなくなったのだ。

それを確認した名前は、ポシェットに入れていた小瓶を取り出すと、中に入っていた水で毛についた血を洗い流す。体の大きさなどもあり、完全に落とすことは出来なかったが、ある程度目立たないくらいにはなった。次に白いタオルを取り出すと、できる限り乾くように体を拭きあげる。




『ここでは、これしかできないけど…ごめんね』




白いタオル全体が赤く染まったところで、名前はそれらをポシェットに戻して、犬の頭を撫でた。
妖精たちが見たらまた煩く言われるのはわかっていたが、捨てていくわけにもいかないので、ポシェットへと入れるしかなかったのだ。




『…あ…っ、…いけない、時間だ』




腹を見せて懐いてくる犬をついつい構ってしまっていた名前は、はっとして慣れない手つきで時計を見る。すると約束の時間まであと5分もないことに気が付いて、立ち上がる。
くうん、と寂しげな声を上げた犬に、ごめんねと笑うと、名前は手にした紙を確認しつつ走り出した。




「………ほう、ありゃ随分と珍しいモンだな」




走り去った名前を見つめて、赤い瞳が見ていたことには、勿論気が付かなかった。
それは足元にすり寄ってきた犬を、長身を屈めて撫でると、形の良い唇が弧を描く。




「お前さんも、気に入ったかい?そりゃ結構だ。
やっぱ好みは飼い主に似るんかねぇ…」




犬の傷のあった部分を、長い指が撫でる。
くつりと喉を鳴らして笑ったそれは、ゆるりと立ち上がると、フードを被り名前が向かった方へと歩き出した。






******************






「……え……」


「ですから、あなたの引き取り手であった魔術師がですね。なんだか事件に巻き込まれたようで、遺体で発見されたんです。それで…あなたも住むところないと困るでしょ?
丁度空きが出たので、新しく引き取り先を探せば良いのではと思いまして。あなたを商品として出品させてもらうことにしました」


「…しょう、…ひん?」


「くくく…。そんな顔しないでくださいよ。
聞けばあなた、その道のひとがみれば…とても魅力的なものをお持ちだそうですねぇ。
ええ、ええ、それは素晴らしい。芸のある人間は長生きできますよ。…良い値が付きますし」




あれから何とか道に迷いながら辿り着いた約束の場所で、名前を待っていたのは、胡散臭い笑みを張り付けた長身の男であった。黒縁の眼鏡を頻りに弄りながら、名前を値踏みするかのように、頭の先から爪先までねっとりと見つめた男は、満足げに目を輝かせて笑った。

話を聞くに、名前の引き取りてであった魔術師が何者かに殺されたらしい。
随分名の通った魔術師だっただけに、大層な事件となったそうだ。それについては現在調査が進められているようだが、まだ犯人は見つかっていないとのことであった。
憐れむような口調で、その男は、名前の引き取り先についても説明した。それは身勝手極まりない話で、引き取り手のいなくなった名前は、勝手にオークションの商品として登録されたらしい。

自分に関する情報が何処で漏れたのかなど、名前にはそんなことを考える余裕はなかった。
真っ白になった思考で、目の前の男をただ見上げる。




「ちなみにもう拒否権はありません。
もしあなたが逃げたら…。そうですねえ…あなたのいた、森が…山火事にでも巻き込まれて消失、なんてことになるかもしれませんよお?」


「……っ、どういう…こと…?
もしかして、貴方が…何か、したの…?」


「この私に、なんてことを…全く躾がなっていない餓鬼だね…っと、失礼。
私は、なにもしていません。何故ならば私はこのオークションの、支配人ですから。それ以上でもそれ以下でもないのですよ」




その瞳は、最早名前を人間として…いや、生き物としてみていなかった。
男にとって、名前は、ただの商品なのだ。今宵のオークションで磨かれて、極上のダイヤモンドよりも、価値を成す可能性のある。まさに原石。

にたにたと悪い笑みを浮かべ、衝撃のあまり目を見開いて固まる名前に近づくと、男はその手を伸ばす。思わず後退した彼女は、あまりのことに体は動かなかった。男の腕が名前のそれに触れた瞬間。彼女の頭にとある映像が流れた。




「…っ、…」




そこに映っていたのは、暗い色のローブを羽織りフードを被った男と白いローブを羽織った初老の男であった。名前には彼らが誰なのかわからない。しかし、暗い色のローブの男が何やら叫ぶと手にしていた短剣を振り下ろしたのだ。初老の男は何故かその場を動かなかった。だから…そのまま。
それを見つめていた、誰かが動いた。どうやらその場には3人の人間がいたらしい。
暗い色のローブの男、初老の男、そして…、それを見ていた、この…男は…。




「暫く、大人しくしていてくださいねぇ…?
大丈夫ですよお嬢さん。あなたならきっと…いい買い手が現れる」




名前の手に鉄製の手錠をかけた、男が、映像の中の男と…重なった。






*****************






暗い石畳の牢獄のような場所に入れられた名前は、冷たい石が重なる壁に背を付けて自らの膝を抱えた。どうしてこんなことになっているのだろう。そう考えると、どうしようもなく森の住人が恋しくなった。やはり人間の世界は怖いものだ。こんなことなら森を出なければ良かった。
込み上げる涙を堪え、ただじっと時が過ぎるのを待つしかない。
いつだって名前は、そうして何かが過ぎるのを、目を閉じて待っているだけだったのだから。他に術を知らなかったのだ。

どれくらいの時が過ぎたのだろう、名前の耳に微かに聞こえて来た足音に、びくりと体が怯えた。
かつん、という音が複数聞こえやがて止まる。恐る恐る顔を上げると、そこには派手な色のスーツを身に纏った先程の男と、厳つい顔をした複数の男たちが、冷たく名前を見下げていた。




「ごきげんよう、待たせたねお嬢さん。
さあさ、出番ですよ…。いきましょうか」




やけに芝居じみた口調が恐怖を誘う。
鉄格子の扉に掛かっていた重々しい鍵が外され、入って来た男たちによって乱暴に立たされた名前は、足に付いた枷を引き摺るように歩かされる。その姿は罪人のようであった。




「…………」




筋骨隆々な男たちに囲まれて、小さな名前は只管歩く。
そしてやっとその足が止まると…そこは、別世界が広がっていた。

強い光を放つスポットライトが名前の瞳を焼いた。
毛の長い赤い絨毯の上に立たされた名前は、眩む視界で辺りを見回すと…。そこには数多の目があった。ぎらぎらとした好奇を露わにした、人間の目だ。思わず足が竦むが、後ろにいた男が名前に着けられた鉄製の首輪から伸びる鎖を、荒々しく引いた。

派手なスーツの男は、声高らかに何かを叫んでいる。だが聞きなれないその言葉を、名前は理解することが出来ない。そんな名前を後目に、次々に人間たちが何かを叫び始める。雄叫びの如く獣の唸りを思わせるその声に、名前は体を震わせることしかできない。

ふ、と…誰かの声を最後に、沈黙が走った。火が急に消されたように、誰しもが口を噤んでいる。
名前は、伏せていた瞳で派手なスーツの男を見て、悟った。
にたりと、歪んだ…醜い顔。それは悪魔のそれだった。先程男が言っていた通り、良い値が付いたのだろう。しかも男が思うよりも高く。名前は幼い頃の記憶からそれを、理解したのだ。

そして、派手なスーツの男が何かを叫ぶと、1人の男が名前に近づいて来た。
その男もまた、同じような笑みを浮かべて、瞳をぎらつかせていた。大柄な男であった。その男を目にした瞬間更なる絶望が名前を襲う。醜く崩れたその体型、思わず嫌悪の眼差しを向けてしまう程の嫌な臭い、全てが醜悪だった。とても耐えきれなかった。

ぶよぶよに弛んだ腕が名前に伸ばされる。その男が何かを言い、ねっとりとした視線で彼女を見つめると、その腕が名前に触れた。その時、再び彼女の頭に映像が走ったのだ。




「………っ、あ…」




映像は、とある見覚えのある路地で始まった。これまた見覚えのある白い山犬の姿が唸りを上げている。しかし痺れ薬でも使われたように、その肢体の動きはぎこちなく感じた。
それでもなんとか体を這うように動かして逃げる山犬に、近づいた影。そのシルエットを見て名前はとある確信を持つ。その影の正体を明かすように雲の切れ目から月が覗くと同時に、男の手にしていた短剣が振り下ろされたのだ。…山犬の、脇腹を裂くように。深く。




「……あ、…あなた…、が」



痛みに呻く声、流れ出す血。彼らは人の言葉を使うことができない。それがどんなに悔しいことか。
名前にとって動物は家族だ。彼らは人間のように余剰を求めることはない。自然のままに、あるがままに、全てを受け入れる。この人間のように、意味のない殺しはしない。
家族を苦しめられたなら、痛めつけられたのならば、どうすれば良いのか彼女は学んできた。




『忘れるな。おまえの怒りは我らの牙となる。おまえの涙は我らの爪となる』




名前の怒りが形を成していく、名前の涙が呼び寄せていく。
異変を感じた男は訝しげに彼女の顔を覗き込んだ…その時。




「…ちょいと待ちな。まだコールには早いだろうよ」



ふわりと草原の匂いが名前を擽った。それにはっと意識を戻すと、男のその後ろ…広い会場内の階段に、1つの影があった。

目深く被ったフードに、青い羽織と黒いインナー、下半身には青い布を纏っている。長身故にすらりとして見えるが、覗く肌からはがっしりとした筋肉が見えた。気だるげに手にした杖についたチャームが揺れる。
ぼんやりとそれを見ていた名前は、フードの下に隠された瞳が、自分を見たような気がして、小さく目を見開いた。




「………おやおやおや、これはこれは…まさか、あなたのような方がお見えになるとは…」



ざわざわと囁くような、潜められた声が会場を再び騒めかせた。
驚いたように声を擦れさせてそういった派手なスーツの男は、どうやら動揺は隠せないらしい。震えた手を握り、唇を噛み締めていた。それを不思議に思った名前は、その場の空気が一変したのだけは理解したが、聞き取れるのはわずかな言葉だけなので、いまいち状況の把握ができなかった。




「…『  』だすぜ。文句はねえだろう?」


「な…っ!!!…『  』……なんと…、え…ええ、と、も、勿論…ですとも、」


「なら、即決だな。そのお嬢ちゃんは俺のモンっつーことで、異論はねえわな」


「…ッチ!!なんのつもりだ…!こ…これは、おれが…買った!!
い…いくら、森の賢者だとしても…っ、譲れるか…っ!!」


「そうかい。なら…アンタには償いをしてもらわなきゃならねえ…なあ?」




青い男の足元に現れた白い山犬が、名前の目の前の男を睨み付けて高らかに吠える。剥き出しの鋭い牙がぎらりと光った。それを見た男は驚きに腰を抜かした。そんな…なんで?殺した筈なのに…と、呟いたその言葉は、確かに会場内に響いていったのだ。




「わ…っ、わかった‥‥わかった、…これは、おまえにやる…っだから…っ」


「だから、アンタが下らねえ研究目的に、人ん家の犬殺して回っているのを内緒にしてくれ…って言いたいんだろ?」


「…っ、…!!!」


「え…っ」




ワントーン落とされた冷たい声に、身を震わせた男は、次の瞬間目を血走らせて名前に飛び掛かった。体を羽交い絞めにされ更に動きを奪われた彼女は、首に突き立てられた刃先にぐと息をのむ。震える不安定な刃先が、微かに名前の肌に食い込み、ぷくりと赤い血が滲んだ。痛みに顔を歪めた彼女は、限界であった。
元々緩みかけていた涙腺から、一粒の…涙が零れ落ちる。そしてそれが赤い絨毯へと落ちた…その時。




『だーからわたし、言ったのよ。人間の住む世界なんてロクなもんじゃないって!!』




それは、いつも名前の傍に在った…妖精の声であった。
少し前にわかれたばかりなのに、何故か懐かしく、頼もしく感じるのは、街に着いてから名前が妖精の言うようにロクなめにしかあっていないからなのかもしれない。零れ落ち始めた雫は、決壊したダムのように次々と湧き上がる。




『わたしたちの名前を痛めつけて泣かせた報い…思い知るといいワ!!』




その涙は濃厚な名前の魔力の結晶である。それを糧にすれば、この床の地下を流れる水を操り、名前を捕らえる男の首を絞めることなど容易いことなのだ。

突然地下の水道管が破裂し床を突き破り噴出した水が、手のような形と化して男に襲い掛かった。
脂肪に覆われた野太い首を水の手が掴み、ぐと力を込めて締め上げる。その力は怒りだ。妖精の、そして彼女を愛おしむものたちの、怒りが込められていた。

人の、悲鳴が上がる。名前にはそれがとても醜い音に聞こえて思わず耳を塞いだ。
人の、逃げ惑う姿。名前にはそれがとても忌まわしいものに見えて思わず瞳を伏せた。




『もう安心だワ、名前。こんな怖い思いをして可哀想に。さあ…わたしと森へ還りましょう?』


「そいつは出来ねえ相談だな。水の精霊(ウンディーネ)のお遣いサンよ。
そのお嬢ちゃんは、もう俺のモンになったんだ。悪いがおまえさんだけで還んな」


『…っ、森の引き籠りが何の用ヨ!!この仔はあなたには渡さないんだかラ!』


「まあ、待ちな。…なあ、お嬢ちゃん…。取り敢えず落ち着け、もうおまえさんを傷つけるもんはいないさ。流されちまったからな」




名前に近づいた男が、ぱさりとそのフードを取り、視線を合わせるように屈んだ。ぽろりと涙を零した名前はふとその瞳を見開く。赤い、澄んだ色の…ルビーが頭に浮かんだ。うつくしいその色に、見入るように男を見つめた彼女は、はっとして周りを見る。会場は浸水しており、人の気配はもう皆無であったのだ。

ふわりと草原を思わせる香りが名前を包み込んだかと思うと、あたたかな温もりに抱き締められた。一蹴んの出来事に体を固まらせた彼女は、息をするのも忘れ、じんわりと広がるその熱を感じた。




「…おまえさんは、今日から…俺の弟子だ。文句はねえだろ?」


「………で、し…?」


「そうさな、俺のことは師匠と呼んでくれや。ああついに俺も弟子を取るのか…なんか感慨深いぜ」


「……し、ししょ、う」


「お…っ、今のいいぜ、こうぐっと『黙りなさい、この女たらし!!さっきから黙ってみていれば…っ!』おお怖…。そんなに怒るなって。このお嬢ちゃんワケありだろう?どちらにせよ、専門家に預ける予定だったんだ…。俺でも構わねえよな」


『…………わかったワ。あなたの力だけは認めているヨ。
でもネ。あなたが…この仔を泣かせるようなことをしたラ…。泥沼に沈めてやるから覚悟なさイ!』




忌々しげに青い男を睨み付けた妖精は、その表情を一変させると柔らかな微笑みを名前に向けた。いつでも呼んでねと彼女の額に祝福の口付けを落とした妖精は、くるりと身を躍らせるとその姿を消したのだ。
それを見届けた名前は、恐る恐る目の前の男に視線を移すと、改めて男が非常に整った顔をしていることに気が付く。人間の男をそれほど見たことがあるわけではないが、その中でも飛びぬけてうつくしい造形を持っていたのだ。

珍しいものを見るように己を見つめる名前に、にんまりと口角をあげた男は、そのまま彼女を横抱きにして立ち上がると、何やら呪文のような言葉を紡いだ。
すると名前を縛っていた鉄の首輪から手錠、枷が音を立てて砕け散ると、満足げに頷いた男が口を開いた。




「まずはおまえさんに、礼を言わないとな」


「…礼?」


「こいつのことさ。おまえさんが助けてくれたんだろ。
俺の使い魔の1匹だ…。ありがとな」


「……使い魔、…」


「………おまえさん、…そうか、」




ぎこちない言葉遣いと、言葉に対する反応の薄さに何かを感じた男は、考えるようにじいと名前を見つめた。そしてにかりと快活な笑みを見せると、取り敢えず帰るかと彼女の頭を撫でまわす。




「じゃあ、まず…テストだ。気を楽にしてくれや」


「………?」


「そんで、集中。そうさな…羽をイメージしてくれ。
どこまでも飛んでいけるような、力強いやつな」


「………」


「いいコだ。…これなら充分だろ。
ほら、さっさと帰んぞ名前」




名前の体を巡る魔力、その特殊性を理解している男は、それを媒体にルーンを刻むと凄まじい力が男の体に満たされる。予想はしていたがそれ以上であったその力に顔を歪めた男は、名前を強く抱き締めると、術を口にする。その瞬間、光が弾けて大きな翼を成した。その翼が力強く羽搏いたかと思うと、2人の姿はもう何処にもなかったのである。



こうして、神々に愛された名前は外の世界へと羽搏いていった。
青い導きに誘われ踏み出した世界で、名前は何を知り、何を得て…何を失うのか。

それはこれから語るとしよう。







*終わり*
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