月華の夢
太陽の加護を受けてきらきらと輝く青い髪
白陶器のつるりと柔らかな頬
ルビーを二つ嵌め込んだ瞳
母の透き通るようなうつくしさと、父の太陽そのものの力強さを受け継いだかのような姿は、まだ赤子の身なれど、見るもの全てを魅了した。
神の加護を纏い生まれ落ちた赤子はセタンタと名付けられ、陽の光を浴びて微笑むその姿に、いつしか光の御子と呼ばれるようになった。
何処までも青い空が広がり柔らかく降り注ぐ日差しは、父君の眼差しを思わせる。
その下で、母君がその御胸に抱いた赤子を慈愛の瞳で見つめていた。
周りに咲き誇る花々は、祝福の為に咲かせたもので、神の国かと思うほどの、美しい光景を彩っている。
……筈、であった。
「だから、どうしていつもこうなるんだ……」
母君の胸に抱かれて眠っていた筈の、赤子は何故か今名前の武骨な腕の中にいる。
昔から彼女のことを知っている名前は、彼女の気性を知っていたし、大人しくしている方が珍しいお方であることも重々わかっていた。だが、まだ一歳にも満たない我が子を、いくら永い付き合いだとはいえ、自分に預けるなんて、と頭を抱える。それに出産後は大人しく療養するように、と言い聞かせていたのだが、無駄であったようだ。
周囲も周囲で、何も言わず微笑ましいものを見るような目で名前に視線を送るだけだ。
信頼されている、ということなのだろう。しかし、いくら永い時を生きているとはいえ、子守をした経験は数えるほどである。
恐る恐る名前は、赤子の顔を見る。そして後悔するのだ。
うつくしい赤い瞳をきらきらと輝かせて微笑む、その子は、確かに名前を見つめて、笑ったのだ。
伸ばされた手に、自分の手を差し出すと、人差し指をぎゅと握られる。
「……セタンタ、か」
可愛い、と一瞬でも思ってしまったその時点で負けが決まったようなものである。
それからというもの、赤子の面倒は名前が見ることになった。
すくすくと育っていく姿を見ることは、素直に嬉しかったし、自分に懐いてくれることも嬉しかった。
永い旅路の中で、数多のものを失って来た名前にとって、赤子との時間はとても貴重であったのだ。
赤子は真っ直ぐに成長していった。
膝で這うようになり、やがて二本の足で大地を踏みしめるようになると、流石あの母君の血が流れているだけあるのか、山も川も厭わずに走り回るようになった。
だが、一人で何処かに行くことはしなかった。何処に行くときも名前と一緒が良いと泣くのだ。
転んで酷い怪我をした時だって、涙を数的流した程度の子が、この時ばかりは泣き喚く。
「にいちゃん!」
「はいはい、そう急くなよ。セタンタ」
小さな柔い手を握り共に歩く道は、時が立つに連れて長くなっていった。
そして、その時は訪れる。
その柔い掌に一本の槍を渡したのは、いつ頃であったか。
丸い大きな月に朧が掛かる、静かな夜であったと記憶している。
「良いか、お前は……守る男になるんだ」
「……うん!おれ、にいちゃんみたいに強くなるんだ!」
大切なものを取りこぼさないように、
後ろに続くものたちの導となるように、
その為には、まず自分を守れる男にならねばならないと。
上に立つものならば、まず自分を勘定にいれなければならないと。
名前は武を勇を知を、そして心を幼子に叩き込んだ。
「……にい、ちゃん」
「どうした、セタンタ」
ぎゅ、と腰にしがみ付いて来た幼子を抱き上げる。すると名前の首筋に顔を埋めて、甘えるように抱き着いた子を何も言わずに撫でる。
「にいちゃん。…にいちゃんは、どこにもいかないよね?」
「ああ。お前が立派な男になるまでは、ちゃんと傍にいるさ」
名前が与えられた部屋は、殆どがこの幼子の私物で埋め尽くされている。
毎晩のように名前のもとに駆け込んでくる子を風呂に入れて、髪を乾かし、寝かせるまでが仕事であった。
いつか兄離れをするだろう、と楽観していた名前も悪いのだが、これは幼子が少年になり、青年になっても、挙句の果てには英霊となっても、続く習慣となろうとは予測していなかったことである。
大きな瞳がじいと名前を見上げると、ぱっと花が咲く。こうして良く笑う子を、名前は可愛くて仕方なかったのだ。
幼子は、どこまでも名前に付いて歩いた。
例え容赦なく薙ぎ払われて地に伏せても、どんなに厳しく叱られても。
成人男性でも裸足で逃げ出した名前の扱きに、付いていったのだ。
「お前は、長髪も似合うなあ」
「んあ?……そうかあ?
兄貴が言うなら、このまま伸ばすかねえ」
「ああ、そうすると良い。
尾を引く髪は海の如く…きれいだから」
「……っ。……かみ、だけか?」
「ふふ……お前は全部、きれいだよ。セタンタ」
鍛錬や勉学を除いて、名前は子のことを良く褒めた。
その時の己を見つめる優しい瞳が、どうしようもなく好きだった。
それを理解できたのは、ふと街に出た時に、名前が顔見知りの女性に対して似たような瞳を向けて褒めていたのを見た瞬間で。こみあげて来たのは、絶対の信頼を置いていた名前に裏切られたような、足元から崩れ落ちるような衝撃であったのだ。
この時はまだ幼い身であったので、初めてのその感覚と、名前を取られた絶望感にただ泣き喚いてしまったが、幼子が少年となり青年となる頃には、その時の感情にも、名前に対する感情にも、名前が付いていた。
「兄貴。なあ……それ、」
「これか? ピアスだが」
「俺もそれ、付けてくれよ。アンタとお揃いが良い」
「……お前の体に穴をあけるのは、申し訳ないよ」
「それも今更だろ。鍛錬という名目で散々槍やら剣やらぶっ刺してくれてんじゃねえか」
「お前のことを思ってだろう。感謝してくれても良いんだぞ」
名前の面倒見の良さをそのまま移したような、真っ直ぐで人懐っこい青年へと成長してくれたことは、ありがたいと思う。だが、問題は口の悪さである。と名前は毎回のように嘆いていた。
赤子の世話をするようになって以来、振舞いにも仕草一つ一つにも気を遣っていただけあって、名前は過去の自分を殴りたくなる。
気配の絶ち方を完璧に覚えた青年は、こっそりと名前のもとを訪ねるようになった。
それは幼い頃からのことであるが、問題は、名前の休日まで監視するようになったことである。
名前は、子が青年へと成長してからというもの、今までは完全に絶っていた酒や煙草を再開した。だが無暗矢鱈に飲んでいるわけでも吸っているわけでもなかった。行きつけの飲み屋だけでそれらを嗜んでいたのだ。
そこで交わされる会話も、名前にとっては情報収集の一環であるので、一石二鳥ならぬ三鳥である。
尾行されていることに気付いてからは、毎回捲いてか店へと入るようにしていた。しかし遂に店を突き止められ、全部暴かれてしまった。此処からが、名前の最大のミスである。
薄暗い名前の部屋にくゆる煙に、勝手にシガレットケースから抜き取られた1本の煙草が近づけられる。
バレてしまってからというもの、名前は開き直って寝る前に一服をするようになったことを知っている青年は、いつもこうして名前が吸う時だけ、吸うのだ。
名前の口に咥えられた煙草の先端に、青年が同じように咥えた煙草が触れる。じりと軽い音を立てて移された火が、暗闇に揺れた。
「おにーちゃんは、お前にこれ以上悪いコトを教えるワケにはいかんのよ。」
「はっ。今更だろ」
どうやら、名前の耳に揺れる銀の飾りが次のターゲットらしい。
名前の魔力を練り込んで作られたそれは、良質の銀を使用した世界に一つだけのデザインである。
そしてこの時代、ピアッサーなどというものは勿論無いので、耳に穴を空けるのも自力だ。
「……誕生日プレゼント、まだくれてねえよなあ兄ちゃん?」
「あのなあ……」
呆れた顔をして、形の良い耳朶に触れる。柔らかなそれは幼い頃の、掌を思わせる感覚であった。
あまりものを強請らない青年の頼みならば、叶えてやりたい気はする……辺り、名前もブラコンなのだろう。しかし、こればかりは踏ん切りが付かなかった。
「……まあ、良いか。お前ももう『立派な男』だもんな」
じいと見つめる赤い瞳に、どうしたものかと思考を回していた名前は、ふうと息を吐き出す。
お守り代わりに、良いだろう。と行きついた結論は、今思えば、別れの時が近いことを示していたのかもしれない。
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ふわりと意識が上昇するのを感じて、名前は目を空ける。
朧な意識を何となく動かして周りを見ると、どうやら随分懐かしい夢を見ていたらしいことに気が付いた。
背中と胸に感じるあたたかな温度と、シーツに散らばる青い髪。
伏せられた瞼と月に照らされるうつくしい寝顔。
香り立つのは、名前が好んで窓際に飾っている花のそれだろうか。夢の中でも確か、名前はその花を部屋に飾っていたことを思い出す。
寝返りも打てない体勢に苦笑いを零しつつも、随分と懐かしい夢の余韻に浸る。
「……」
無意識に伸ばした手が容易にその頬に触れる。
起きるかと思ったが、どうやら完全に寝入ってしまっているようだ。
相変わらず名前と寝ると朝まで何があっても起きないらしい。
しっとりと、手に吸い付くような肌に先程から幼子のそれが重なって仕方がない。
どうやら昔の夢が、名前に感傷を味合わせているようである。
勝手に頭の下に敷かれている自分の腕を動かして背中に回すと、ぎゅうとその身を抱き締めた。
固く筋肉質な体は、幼い頃のそれとは比べ物にはならない。だが確かに、それは可愛い子のものであった。
額に掛かる髪をそっと払うと、露わになった額に小さく口付ける。
あの頃はこうして添い寝をして寝かせていた、と記憶をなぞるように体が動いた。
そうしていると、また穏やかな眠気が名前を襲う。抗う理由もないので、そのまま目を閉じると……。
「おい、兄貴。俺はこっちだろう?」
横にしていた体を後ろから引っ張られたかと思うと、もう片方の手も同じくらいの重みに襲われる。
そして、胸にすり寄るように体を絡めて来た英霊に、名前は視線を向けた。
「起きていたのか……?」
「ああ、……えらい、懐かしい夢を見ちまってな」
「……。そう…」
元々睡眠を必要としない筈の英霊だが、名前がマスターとなったことや昔の記憶も相俟って性質が変わっているのかもしれない。どうやら、相手の過去の記憶に引っ張られることは同じようであるが。
いつもよりも強くすり寄るキャスターも、同じ夢をみたのだろう。これはその反動なのだ、と名前は納得して、片手を動かして長い髪を掬う。
「やっぱ、お前は長髪が似合うよ」
「綺麗、って言ってくれねえのかい?」
「ふふ……きれいだよ、セタンタ。お前は昔から……」
うとり、と舟を漕ぎつつも、優しい瞳がキャスターを見つめる。
英霊が強請ると名前は髪を梳いて、魔力を流し込んでくれるので、元々質の良い髪は常に艶々と輝いていた。
ランサーにも同じようにしているが、やはり魔力に関してはキャスタークラスの方が上なのだろう。
「波うつ…海のようだ」
優しい月光の帯が広がる、夜の海のようだと呟く名前を、キャスターは見つめる。
昔から、名前が髪を褒める時は決まって海に例える。口には出さないがきっと、この男は海が好きなのだろうということはわかっていた。そして、それが危うい願いだということも。
海は、全ての命が生まれ還り付く場所とされる。
永遠を彷徨う名前は、恐らくそれを願っているのだ。いつか自分が還り付く場所として、海というものを、焦がれている。
「かえりたいのかい、兄貴」
「ああ……。もう、俺は……」
充分に生きたと、いうのだろう。もう充分だと。名前はいつも叫んでいる。
それを知っていてキャスターは静かに笑うと、己の唇で名前のそれを塞いで、その言葉を飲み込んだ。
「ざーんねん。……いかせねえよ」
「セタンタ。いくらお前でも、止めることは許されない」
「そりゃねーぜ、ダーリン。
あんたにゃ……責任取ってもらわなきゃならねえんだ」
「責任ならもう果たしたさ。男前に育ててやったんだ、文句はねえだろ」
「はっ、似合わねえこと言うなよ。
あんたに釣り合うように、育ってやったんだ。
最後まで面倒見てもらわなきゃ、困るって話よ。なあ?」
「……いくら同じ『俺』であっても、胸糞悪ぃぜ。
否定はしねえが、お前が言うセリフじゃねえ」
白い指先がつうと名前の肌を伝う。首筋から胸板そして腹筋をなぞり、色を宿した瞳が名前を射抜く。
それでも夢幻を移ろう瞳は、ただ虚無を浮かべるだけであった。それに内心で腹を立てながら、口元に笑みを浮かべた英霊は、ゆるりと開かれた己のそれではない、赤い瞳にくつりと喉を鳴らす。
先ほどまで穏やかな寝顔を見せていた英霊…ランサーも、どうやら覚醒していたらしい。擦れた低い声が余裕の素振りを見せているキャスターへと噛み付いた。
「両サイドで喧嘩するなよ。おかげですっかり目が覚めちまった」
英霊たちが勝手に枕としていた両腕をずるりと抜いて解放させた名前は、気怠い体を起こして、枕元に置いていた大きなクッションへと凭れる。そして、シガレットケースから煙草を一本咥えると、横から伸びてきた二本の手がケースから一本ずつ煙草を漁り取り出した。
「兄貴、火ぃくれや」
「お前自分のクラスもう一回確認して来い」
あれだけ炎をぶっ放しているくせに、と呆れた顔でそう言い放つが聞く気はないらしい。
強請るような眼差しに再び溜息を吐いた名前は、指先に炎を浮かべてキャスターの手にする煙草へと近づけるが、さらりと逃げられてしまう。
にい、と口元に浮かんだ笑みに何を言っても無駄だと諦めた名前は、自分のそれに火を灯す。
途端に近付いてきた二本の煙草がじりじりと音を立てて、煙を吐き出した。
「いい加減、兄離れしたらどうだ」
「……そりゃ無理だ。アンタを放って置くと兄弟が増えちまう」
「あのマスターにも、世話焼く気だろ?」
良い意味でも悪い意味でも人を惹き付ける名前は、非常に面倒見が良いのが問題であった。
それを嫌というほど知っている英霊たちは、名前の膝にすり寄ると、目を細めて見上げる。
四つの赤にじとりと見上げられ、苦く笑った名前は、それ以上何も言うことはなかった。
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人類最後のマスターである少女…藤丸立夏は、タイミングを窺っていた。
あの始まりの日に炎の海からリツカを助け出した名前に、実はまだ満足に礼も言えていなかったのだ。
リツカも会話をする時間もないほど走り回っていたし、彼はそれ以上に忙しい男であったから。
重役会議からキッチンまでその姿を見せる名前を捕まえるのは至難の業であり、一息吐いている姿だって、ただ一度も見たことはない。
「先輩? どうかされたんですか?」
「うーん。どうしようかなと思って……」
「ああ、あの方のことですね。やはり食事の配膳の際にアポを取るのが一番かと思いますよ」
「……そうなんだよねえ……。でもさ、」
「クー・フーリンさん達ですか」
「鉄壁の防御って、ああいうののこと言うのかなーなんて」
蜜柑色の髪をぐしゃぐしゃと自らの手で乱した少女は、深い息を吐く。
令呪を持たないマスターという特殊な立場の人であっても、一度話してみたかったのだ。
しかし冬木という都市で出会った英霊であるキャスターや同じ顔をしたランサーが、引っ切り無しに名前の周りを固めており、中々近づくことが出来ない。
気にせずに話しかければ良いのはわかっているが、己以外の存在が名前に話しかけようとするときに一瞬向けられる、深淵のような瞳をリツカは偶然見てしまった。それ以来、普段は明るくて兄貴肌の彼らが一切の温度を消して向ける表情も瞳も、とても恐ろしいものとなったのだ。
彼らが兄貴と呼び慕う名前に関することでなければ、頼りになる親しみ易い英霊たちであることはわかっているのだが……。少女が話し掛けたいのは、彼らの中心にいる名前なのである。下手に手を出して噛み付かれた日には……。
ぐるぐると余計なことにまで思考が回るのは、それだけ不安だという証であろう。
青い顔をするリツカを、心配そうに相棒である菫の髪の少女が肩を叩いた。
そうして、ぶつぶつと呟きながらカルデアの長い廊下を歩く少女たちは、ふと聞こえてきた足音に気が付く。ふと顔を上げてその姿を確認すると、少女はその大きな目を見開いた。
「あ…っ、ああ…!」
風をきって歩くその姿は、まさに少女が探し求めていたヒトのもので。
思わず小さな声を上げてしまった少女は、ぴたりと足を止めた。
「ん?…ああ、リツカ。この時間に合うなんて珍しいな」
はくりと口を開けて自分を見つめる少女に穏やかな微笑を浮かべた名前は、そう言って少女たちに近づく。
顔もスタイルも良い英霊の中でも、決して埋もれることのない寧ろ輝きを放つ名前は、今日もうつくしい。頬の紅潮を隠せない少女は、身を固めたまま、視線を何とか動かした。
「あ…あの、」
「うん?……どうした、体調でも悪いのかい?」
いつも以上に柔らかな口調は、庇護の対象と判断したものたちの前でのみ切り替えられる。要するに昔からの癖であった。リツカの傍にいるマシュにも声を掛けて、ぽんとその髪を撫でた名前は、心配げにリツカの顔を覗き込んだ。
「……っ、……だ、だいじょうぶです…っ!
そ、それよりも…。あの、一度、お話をしたくて…」
「ふふ、そう緊張しないでくれ。俺はそこまでの男じゃない。もっと気軽に接してくれて良いんだよ」
「じゃ…、じゃあ、今日の…夜とか、時間ありますか…?」
「勿論さ。あれらがいると、碌に話も出来なくなるから…。そうだな…食堂に来てくれ」
「は…はい」
まだ強張ってはいるが少しは慣れたのだろう。きらきらとした瞳が名前に向けられる。
髪を揺らして勢い良く頷いた少女の頭に、名前はそっと手を伸ばした。
人間の身で永い時間を彷徨おうとも、その性質は殆ど変わらない。いや名前はそれを変えることを拒んでいた。それを変えることは、人間であることを捨てるのと同義と思ったのだ。
しかしその一方で、『うしなう』ことに慣れてしまった。故に名前は執着を持たない。
カルデアのとある英霊は麗しい微笑みを浮かべて言った『人間のフリをしたなんとやら。酷薄という言葉が服を着て歩いているようなものさ』と、歴史的天才が吐き捨てたその言葉の意味を、少女が理解するのはまだまだ先のことであろう。
約束だと、悪戯に笑って指切りをして立ち去った名前の後姿を見送った少女は、あたたかな気持ちをぎゅと胸に抱いて、相棒に笑みを向けた。
その日一日中そわそわと落ち着かない体と、ふわふわと覚束ない心を持て余して過ごした少女は、とても微笑ましいものであったと相棒は語る。
そして、主にリツカの頑張りで数の増え始めた英霊で、どんどん賑やかになっていく食堂での食事を終えた頃。打って変わって静まり返ったそこで密会が開かれようとしていた。
会議だと言って、なんとか周りの英霊を追い払った名前は、蜜柑と菫の並ぶテーブルにティーカップを並べた。澄んだ緋色の液体は、爽やかな甘さを含んだ香りをくゆらす。
「お嬢さん方、甘いものはお好きかな?」
彩り豊かなフルーツが積み上がり、艶やかにコーティングされた体を宝石のようにきらめかせる。フルーツタルトは如何かな?と切り分けたそれを少女たちの前に置くと、ぱあとその顔が華やいだ。
大人に囲まれた施設に突然連れて来られ、魔力のまの字すら縁のなかった少女に背負わされた重みは、日に日にその表情を奪っていく。名前はそれを心配していたのだ。そして名前がそれを憂いていることをあの英霊たちは悟っていた。
故にいつか少女に声を掛けようと名前もタイミングを計っていたのだが、まさか少女から声を掛けられるとは、予想外であったが都合が良かった。
「それで、俺に話があったのだろう?」
「…っ!!そ、そうだった…。
あの日、助けてもらって全然お礼も言っていなかったから…、ずっと気になってて」
「ああ、そんなこともあったか。
気にしなくて良いさ。これもお前の運命だ。
……いつか、俺を恨む日が来るかもしれないよ」
「恨む…?」
「リツカ。お前はついこの前までは普通の少女だった。
だが今ではこんな重りを背負わされている。戦いは怖いだろう?傷は痛いだろう?」
「………っ」
「しかし、お前はそれでも立ち続けなければならない。
あの日…あの場所で、炎に融けていたら……こんな思いはせずに済んだ筈だ」
「なっ!!……先輩が助からなければ良かったと…っ?」
「そう思う日が来るかもしれない。あくまでも可能性の話さ」
「………」
思わず声を上げた菫の少女は、名前を睨みつけた。
しかし、名前は穏やかな表情を変えることはない。
そんな名前の顔をちらりと見るとリツカは静かに顔を伏せた。
目立つ傷の増えてきた体を見る。戦闘においても、英霊たちによってフォローされているがまだまだ上手く意思の疎通ができていない。カルデアの職員とも会話が成り立たないこともある。
カルデアに来てから、自分が如何に無力で無知な人間であるかを、毎日のように思い知らされていた。
「ここは、自分の意志に関係なくつれて来られた場所。
弱音を吐けば意志が弱いと責められ、逃げることも許されない。
傷つく事が怖いだろう。
失う事が怖いだろう。
信じる事が怖いだろう」
謡うように紡がれる言葉たちに、少女は震える体を隠すことは出来なくなっていく。
リツカの心の闇を引き摺り出そうとしているようであった。
そんな少女を悲痛な表情で見つめたマシュは、やめてくださいと小さく呟く。しかし名前の唇が止まることはない。
「俺はね、ずっと考えていたんだよ。
永い旅路の中を往く中で、偶然にもあの実験に巻き込まれてお前を助け出したことを。
もし俺があの場にいなくとも、お前は助かって此処に来たかもしれない。
もしくはあの場で息絶えていたかもしれない。それはわからない。
予定調和など、人の数だけ選択しがあるものだ。議論するにも値しないだろう。
だから、今を考えることにした。
俺が今…このカルデアにいる意味を、ね」
低く穏やかなその声音に、ふと顔を上げたリツカは息を飲む。
目の前のヒトが浮かべるその表情は、胸に渦巻く孤独を打ち消すかのように、じんわりと染み込んでいく。
「リツカ、俺は…お前の、話し相手になりたい。
所謂友達というやつかな」
「…え…」
「ふふ、年齢差なんて野暮なものは考えないでくれよ
こうして偶には三人でお茶会をしようと言っているんだ」
名前はやんわりと唇を歪める。それは月夜に咲く月下美人を想わせる儚くも優しい微笑みであった。
「随分意地の悪いことを言ってしまったね」
「いえ、……私、なんかで良いんですか」
「お前だから良いんだよ、リツカ」
勿論、マシュもね。と先程とはがらりと雰囲気を変えた名前は、明るい調子でそう言った。
顔を見合わせた二人は軽く頷くと、名前のそれにつられるように、微笑む。
仄かに感じていた影はそこにはもうなかった。
そこからは、少女たちが話すターンであった。
今までずっと堪えて来たことを話し始めた彼女たちは、決壊したダムのように、感情をぶつけた。
多感期の少女たちにとって、口を噤むことはどれだけ苦痛であったのだろう。彼女たちの話しぶりはそれを感じさせるものであった。
ふと胸の蟠りを押し出すように流れ始めた涙。
立ち上がって少女たちの後ろからそれを拭った名前は、ぽろぽろと流れ落ちる涙が段々とうつくしい透明なそれになっていくような気がして、何も言わずに耳を傾ける。
すると、ぼふという軽い衝撃を感じたかと思うと、両側から少女たちに抱き着かれていた。
『どっかの誰か』を思わせるそれを、受け止めた名前は、蜜柑と菫の髪を撫でる。
「……相手の痛みを知らぬものは、なんとでも言うさ。
相手の痛みに寄り添うことを知らぬものは、それだけの器しかないんだ。
それに一々屈していたら、お前を本当に信じてくれるものを裏切ることになる。
お前たちには共に歩むものが在るんだ。きっと乗り越えられる。
そうしたら、お前たちを馬鹿にするものには決して見えない、広い世界に辿り着けるだろう」
下らない人間に穢されないように高潔であれ、そう呟いた名前は、この人理修復という大きな任務を終えた、その先をも見据えて祈りを込める。しかし今はまだ、その意味を知る必要はないとしても、無能な人間に潰された人間たちの絶望を見て来た名前は、同じ苦しみをこの少女たちには味わって欲しくなかった。
「おにいちゃん、……みたい」
ぼそりと呟かれたそれに、思わず苦く笑ってしまう。
「やめておけ、お前の兄だったら……もっと良い人間が良いだろう」
「そんなことない!……だから、その……」
名前の服に顔を埋めてくぐもった声で言ったその言葉に、名前は頷くしかできなかった…というわけである。
****************
「おい、兄貴。昨日マスターと何話してたんだよ」
「……あー。まあ、あれだ…女子会だ女子会」
「返事が適当すぎんだろ!!しかも女子会っておい、おっさんがなにいっt「あ?」…ごめんなさいオニイサマ」
先を歩く名前の腕に自らの腕を絡めて歩く二人の英霊を軽くあしらい、颯爽と歩いていると、たた…と軽い足音が後ろから聞こえた。男性のものではないそれに振り返ろうとしたが、その前にどんという軽い衝撃が後ろから走った。
「おはよう!おにーちゃん!」
結い上げたオレンジの髪が揺れて、昨日よりも明るい弾けるような笑顔が名前に向けられるが、生憎後ろから抱き着かれたために名前はそれを見ることはできない。
取り敢えずおはようと返した名前が、何かを言おうとする前に、両サイドの英霊が絶句して引き攣った声を上げた。
「お…っ、……お兄ちゃんって、おま…っ」
「……兄貴…マスターにまで、手え出したのかよ」
「不可抗力だ。その言い方やめろ」
「だーから言ったじゃねえか!世話焼きも大概にしろってよ…!
あんたを兄と呼ぶのは俺だけで充分だろ……」
大らかで器の大きい兄貴肌の英霊もこればかりは我慢ならないようである。
兄と呼ぶ名前に対しては前々から、その器を圧縮させる気があったことは知っていたが、と名前がため息を吐く。
「いいじゃん!あなたたちだけの、兄さんじゃないでしょー」
ぎゅうと少女の細腕に力が籠められる。
頬を膨らませて、英霊たちにそう言ったリツカは、べーと舌を出した。
「……マスターといえど、容赦はしねえz「こら、大人げないぞセタンタ。リツカ…そこにいられては、動けない」」
「ごめん、お兄ちゃん」
ぱっと手を放して、名前の前に回ったリツカは太陽のもとに咲く向日葵を想わせる笑みを向ける。
そして青筋を立てる英霊たちに憶することなく、噛み付いていく姿を見て、安堵の息が零れると共に、三人のその姿が兄妹のようにも見えた名前は、静かに笑みを浮かべた。
またもや後ろから響いて来た軽い足音と共に、菫を揺らしながら兄さんと、名前を呼ぶことによって、更に英霊たちの青筋が深まることになるのだが、これはまた次の話としよう。
*終わり*
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