朱の槍
*1000hit記念作品の1つとして作成したものです。
名前がこの世に生を受けてから、何千もの月日が流れた。それは普通の人間では想像もつかないであろう、気が狂いそうな程の永い時間であった。とある呪いを受けた名前は、ある日突然人間という枠組みから弾き出され、死を失ったのだ。
それからというもの、名前は世界を彷徨ってきた。太陽すら拒む深海の底に住まう民にも、雲の上に聳え立つ塔に住まう羽を持つものたちにも、そして地上に住まい文明を広げていく人間たちに出会い、別れた。
最初はただの時間潰しの為に手にした剣や槍、魔術や魔法など、ありとあらゆる術を極めると、彼の後ろには多くの弟子が続くようになっていった。
そしていつの頃であったか、名前を慕うものたちの手により、とある学園が開かれたのだ。名前をトップとして、人種や種別を問わず全ての命に対して開かれたその場所には、家柄の良いもの、親に捨てられたもの、人生に迷ったものなど、数多の背景を持つものたちが集まり、共に学んだ。そうしてやがて新たな志を胸に、世界に巣立っていった。
名前は、常にその学園にいたわけではない。名前は探し求めていたのだ。自分を縛り付ける呪を解く方法を。そして…この先を生きる意味を。
その旅路は、まるで砂漠を歩き続けるようであった。目的地を定めずに、星を詠みながら道を決めて、ひたすら歩く。そこで出会った人々の話に耳を傾け、情報を得たり、時には手を差し伸べる。一つの場所に留まらずに、放浪を続けた名前を留めようとするものは多くいた。しかし、名前が一度もそれに応じることはなかった。その代わりに、名前を留めようと必死に伸ばされた腕を、彼は忘れることはない。気が遠くなりそうな、神々の時間と同じ、永い時間をいくら重ねようとも。
「……あ……、んた……は……」
「……ん?どこかで見た顔だな」
「なっ……!このっクソ兄貴ッ!!
ほんとに、この俺を忘れちまったのか……?」
「……あー、……ああ!お前、セタンタか?」
「ばっか、……ばか……大事な弟を忘れんなよ」
「いやあ、悪いな……。って、最後に会ったのはこんくらいの時だろ?
わかるわけねえわ」
「……っ……!!」
「ああ、もう泣くなって。相変わらず泣き虫だなあお前は」
「な…い、てねえよ!この馬鹿兄貴っ!」
「はいはい、お前も随分でっかくなったな……もうおっさんか」
「兄貴に言われたくねえ」
永い旅路をいく名前は、少し前にとある実験に巻き込まれてしまった。どうやら魔術師の弟子と間違えられたらしく、あれやこれやという内に、何やら施設へと連れ込まれ、数多の少年少女が揃う中で、やっと説明を受けることが出来たのだ。
不死の呪いを受けてから刻を忘れた名前の体は、一見すれば彼らと変わらないでもない。そのため違和感なくその場に溶け込むことができたのだろう。名前は、正直あまり説明の内容を覚えていないが、カルデアという名の施設についてや、レイシフトというシステム、そして英霊という存在について、所長と名乗る女性が淡々と語っていたのだけは、何となく記憶にある。そして気が付けば、何処からか発生した、燃え盛る炎に包まれていたことも。
まだ十代であろう若い少年や少女が、逃げ惑った挙句炎にまかれていく姿は、とても残虐なものであった。流石の名前も、崩れ行く壁に押し潰され、焼かれていく彼らを助ける術はもたない。だからせめて、と名前は部屋の隅で腰を抜かし、震えていた一人の少女に手を伸ばしたのだ。
その少女と、途中で合流した少女と炎上する施設を飛び出して、後から出てきた所長である女性と、かつての冬木という都市を奔走することになった。
もとは人が多く集まる大きな都市であったのだろう。しかし至る所でその身を燻らせる炎により、今では見る影もない。大地すら焼き尽さんばかりの炎により上がった温度で、汗が噴き出すのを感じた。鼻につく嫌な臭いは、建物や植物そして人が焼ける臭気なのだろう。名前はそれらの臭いを良く知っていた。
ふと足を止めた場所で、少女たちの体を休める。名前はこうした場所に慣れていたが、少女たちはそうはいかない。疲弊した顔が痛々しく、名前はそっとその頬を撫でた。その時であった。
おどろおどろしい低い呻き声が聞こえたかと思うと、名前たちの周りに黒い影が飛び出してきたのだ。どうやらそれは英霊が黒化したものらしく、何やらを呟きながら無作為に人を襲っているようである。
戦えるのは半英霊と化した少女と、名前だけ。しかしそこは問題なかった。何処からか取り出した槍で、鮮やかに敵を割いて穿ち、少女のフォローをすれば、瞬く間に敵は存在を消していく。
再び静けさが戻ったことに、ほっと安堵の域を吐いた少女は、突如現れた青い男に目を見開いた。いつからそこにいたのか、青いマントに目深く被ったフード、魔術師のような恰好をした長身の男は微動だにせず、どこかを見ている。敵か味方かわからず、その場に走った緊張感を破ったのは、緩慢な動きで己のフードを下し露になった赤い目を見開いて、声を震えさせた男であった。
名前に勢い良く詰め寄った青い男は、セタンタと呼ばれると、ぱあと瞳を明るくした。しかし軽く咳払いをすると、照れたように視線を揺らして、名前にぎゅうと抱き着いたのだ。その手が震えていることに気が付いた名前は、ぽんぽんと軽い調子で青い髪を撫でて、ふと笑う。
ぽかんとした表情でそれを見る少女たちに、弟なんだといい加減な紹介をした名前は、当然ながら彼らからも詰め寄られることになったのである。
「兄貴、……俺と、契約してくれや」
「……生憎、俺はマスターの権利は持たない」
「めんどくせえってのが顔に出てるぜ。
兄貴なら、そんなもんどうとでもなるだろ」
「俺にだってどうにもならないことぐらい、山ほどあるさ」
「嘘つけ。おら、さっさとしねえと離れてやんねーぞ」
「ほんと困った弟だよお前は。この場限りの限定契約だ。それで良いな」
クー・フーリンがまだ人であった時、生まれた時から青年となるまで傍にいて面倒を見続けてきた名前は、年を重ねて、英霊となった彼にも甘いらしいと自分にため息を吐く。
武術だけではなく、人として、上に立つものとしての在り方を厳しく教えてきた名前に、どうしてか彼は良く懐いた。風呂も寝る時も引っ付いて来たなと遠い目をする名前もまた絆されているようである。色々あって名前がケルトを出た後、影の国の女王に師事したらしいので、人間としても英霊としても永く年月を重ねた彼が、自分を覚えているとは名前は、思っていなかったのだ。
限定という言葉に渋い顔をする英霊の額をビシッと指で弾き、仕方ないと笑う名前は、要するに嬉しかったのである。
そうして結成した血の繋がらない兄弟のコンビの相性は非常に良く、強力な英霊相手でも余裕を持って戦うことが出来た。戦闘以外では、ぴったりと兄に引っ付いて離れない英霊に、初めは戸惑っていた様子を見せていた少女たちは徐々に慣れてしまったらしく、今では何の反応も示さない。
そうこうしつつ少女を半英霊として成長させ、辿り着いた先で黒化した英霊を薙ぎ払うと、どうやらこの特異点と呼ばれるエリアはクリアとなったらしい。少女たちがカルデアに行くと決まり、さてどうするかと名前が考える前に、ダヴィンチちゃんと名乗った英霊に『あなたも勿論強制だよ』と釘を刺されてしまったのだ。そこは良かったのだが、問題は顔を青白く染めて名前にしがみ付く英霊の存在であった。
「そんなこの世の終わりみたいな顔をするなよ、セタンタ。
まあ、また縁があれば会えるだろ」
「……アンタにとって、そんなモンでも……俺にとっては」
「そんな顔をするなと言っているだろ。……ああ、もう……ほんと仕方ねえな。
お前に甘すぎるのも考えものだ」
大きな白い手が名前の手をぎゅうと包み込み、瞳を悲しげに伏せたその姿にかつての青年の姿が被る。こうなっては名前は白旗を上げるしかない。名前は服のポケットから掌に収まる大きさの青い宝石を取り出す。深い青色を更に美しく魅せるために特別なカットがなされているそれは、結構な値段がしたものであったのだがとぼやくぐらい希少なものであった。それに自分の魔力を込めると、宝石の色味が少し変化する。英霊と名前の髪の色が混ざり合ったような、複雑な色を放つそれは、思わず見惚れてしまう程に魅力を増した。
首に掛けていたネックレスからチェーンを外すと、その宝石に通して、英霊の青い髪をそっと纏める。男だというのに随分きめ細やかな肌と項が露になり、そこに銀の鎖が巻き付けられた。
「これなら、良いだろ」
宝石に宿された名前の魔力が、英霊を包み込むように脈動する。思わず息を詰めて名前を見上げた英霊に、名前は優しく微笑んだ。
いつだって名前は自分の我儘を叶えてくれるのだ。……たった一つを除いて。高鳴りを増す熱い胸に身を焦がしながら、英霊は目を伏せた。宝石に込められた術の意味は、なんとなく感じることができたから。
そして、槍を持つ自分ではない、自分に与えられたそれに込み上げてくる何かを英霊は必死に飲み込んだのであった。
*************
カルデアを訪れた名前は、まず少女たちと軽い現状の説明を受けたあと、尋問紛いな質問をされることになった。自ら戦闘を行い、令呪を宿さないながら英霊と契約を結んでしまったのだ、覚悟はしていた。そして、カルデアの幹部たちも名前の正体を薄々察していたようで、自分の名を告げた名前に、ああやっぱりねという声が上がったのである。……ダヴィンチという英霊が、うつくしい顔に似合いの笑みを浮かべて、散々毒を吐き散らかしたのはまた別の話であるが。
それらを乗り越えた名前は、やっと与えられた自室で体を休めることが出来た。確か隣の部屋を宛がわれた少女はとうに寝てしまっているだろう。先ほどチェーンを外してしまった宝石だけ失くす前に処置しておこうと、持って来た荷物から小物入れを取り出すと、予備として入れておいた新しいチェーンを取り出した。魔力を込めて扱うものたちは、そのものの純度も術に影響する。はっきり言ってしまうと、純度の高いものであればあるほど、込める魔力の質も高くなるのだ。
きらきらと部屋の光に輝く白金の鎖に宝石を通すと、深く澄んだ赤いそれが揺れる。慣れた手つきでネックレスを付ければ、しっくりと肌に収まる感覚にふと息を吐いた。
「召喚、…ねえ。別に俺は主軸で動くつもりはないんだが」
これもまた何かの縁か、と呟いた名前は、自分の身の在り方について暫く頭を巡らせた。何となく自分が紛れ込んでしまったこの場所は、自分が好き勝手動くべきではないと、感じていたから。あくまでもあの少女のサポートという形で動いていこうと、巡りに廻った思考が行き着いたその答えに、そっと瞳を閉じた。
一拍置いて腰を上げた名前は、そのまま部屋を出る。手にしたのはお試しだと渡された虹色の石達で。
「それに…どうも、気が晴れん」
別れを告げたばかりの弟の顔が、名前の頭を離れない。そんな自分に頭を抱えたくなるのを抑えて、召喚室へと歩き出した。
そうして、辿り着いた部屋は、代り映えしない白い壁に囲まれなにやら複雑な機械が並んでおり、名前は目を瞬かせた。そういえば電気でどうたら言っていたな、と昔に比べあっさりした召喚方法に、思わず時代の流れすら感じてしまう。
「さて…どうするか」
昔のように魔法陣を描いて、媒介として自分のネックレスをセットすれば良い。多く英霊を抱える気は今のところ無かった名前は、暫し足を止めて悩んだ。郷に入りてはという言葉もあるので、カルデアの方法での召喚の方が良いかもしれない。一通りのメリットとデメリットを並べて、結局召喚装置の電源をつけて、起動させ、聖晶石を4つ投げ込んだ。その瞬間、バチバチという音を立てて光が弾けたかと思うと、眩い光に部屋が満たされる。目を焼くほどの強い光がやがて小さくなり、そこに人影を覗かせた。
「やっと呼んでくれたか、すっぽかされると思ったぜ」
「お前は、どれだけ気が短いんだ」
きらりと光る青い宝石に、赤い瞳がきらきらと輝いた。ゆっくりとした足取りで近づいてきた英霊は、名前の顔を見上げて、端正な顔に笑みを浮かべる。この英霊が呼ばれることはわかっていたので、名前は短くそう返して、視線を向けた。
「気が短い?そんなわけねえだろ、もう充分待ったんだ…アンタが俺のもとに帰って来る日をな」
「……」
「あれから随分探したぜ。地上だけじゃねえさ、影の国まで行った」
「それは、お前の嫁のためだろ」
ある日突然に姿を消した名前を、どれだけ探し求めたことか。名前がいなくなった穴はとても大きかった。ケルトの猛犬と謳われた男を、苦しめて追い込んだ挙句狂わせるほどに。その穴を埋めようと英雄は、戦に明け暮れ、女を求めた。少しでも気に入ったものは、どんな手を使っても逃がしはしなかった。それは全て、一番大事なものを失くした英雄の抱えるトラウマが影響しているのだろう。
それでも尚、英雄は満たされることはなかった。燃え盛る都市で、見慣れた槍を振るうその姿を見るまでは。
「……もう、何処にも行かせねえからな」
「お前が俺を導く、か。まあそれも面白い」
英霊の手にした杖に視線を向けた名前は小さくそう呟く。求めていたものを得れた悦びを瞳に浮かべる英霊の言葉の意味を、きっと名前は理解していないのだろう。名前が『執着』を持たないことを英霊は理解していたから、仄暗いその胸の感情はまだ伝えることは出来ないのだ。
「流石に疲れた。部屋に行くぞ」
「ああ、何処へでもついていくぜ……名前」
くるりと身を反した名前の一歩後ろを歩く英霊は、静かに微笑みを浮かべていた。
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部屋に戻り、シャワーを浴びると言った名前に何故かそのまま付いていった英霊は、満足気に白いタオルを首に巻いていた。黒いインナーのみを身に着けた英霊の髪を拭いた名前は、呆れた顔をしてソファーに腰掛ける。そして慣れたように火をつけた煙草に口を付けると、横から伸びてきた腕が煙草の箱から勝手に一本煙草を取り出した。それを口に咥えた英霊は、名前の体に腕を絡ませると、煙草の先を火の付いた名前の煙草の先にくっ付けたのだ。小さな淡い火が、じりという音を立てて燃え移っていく。
「……随分キツいの吸ってんな。前のとはえらい違いだ」
「ああ、もうこのくらいじゃないと吸った気がしないのさ。
よく覚えていたな。……まあ、昔からお前は俺の煙草ばかり吸っていたが」
「アンタが教えたんだろ?」
「そこまで教えた記憶はないが」
「いいや、酒も煙草もアンタの影響さ……」
「まあ……確かに、女以外は教えたも同然か」
「あん?また忘れてんのかい。呆けるにはまだ早いぜ、兄貴」
ふ、と薄い唇から吐き出した煙に名前が視線を移すと、ぎらりとした赤い瞳が名前を捉えた。
そもそも酒も煙草も名前が好んでいたから手をつけたのだ。そのうちに己も好むようになったが、一番の理由は名前を想いながら酒を煽り、煙草をふかすことで、記憶を保つことにあった。一つ一つの仕草も、名前が纏っていた香りも、何一つ忘れたくはなかったのだ。
そして、あれは確か名前が消える前の夜のことだ。己の想いを自覚した日からずっと求め続けてきた名前が、たった一度だけ己を受け入れた。英霊は、今でも鮮明に覚えている。あの日の名前の指遣いと、甘い唇、そして己の中へと吐き出された熱に融かされる体を。
それらを思い出し、段々と英霊の赤い瞳が熱を増して溶けていく。それを静かに見ていた名前は、肺に溜まった煙を英霊にふき付けると、煙草の火を消した。
「寝るぞ、セタンタ」
「……幼名で呼ぶの、止めろって」
「俺に勝てたらな」
「そりゃ……無理だろ」
くつりと喉を低く鳴らした名前に、あしらわれた英霊は拗ねたように視線を外す。そんな英霊を横目にベッドへと上がった名前は瞳を和らげて、ぽんぽんとシーツを叩いた。
「添い寝ぐらいならしてやるさ、ほら」
それに目を輝かせた英霊はどれだけの年を重ねても、名前にとっては可愛い弟なのだ。甘やかさずにはいられない自分も、仕方のないもの。そう無理やりにでも納得してしまえば、問題はない。
勝手に名前の腕を伸ばして己の頭の下に敷いた英霊は、猫のように名前の胸に擦り寄る。求めていたその香りが、体温がそこにある。求めていた人に触れられる。胸を締め付ける感情を噛み締めて長い手足を絡ませる英霊に、名前は何も言わずに目を閉じた。
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瞼を閉じていても、なんとなくわかる光に名前はその瞳を開ける。どうやらそのまま寝てしまったらしい。体に感じる重さとあたたかな温もりは、ぴったりと隙間なく体をくっ付けて眠る英霊のものであろう。
「……寝顔は、変わらないな」
白いシーツに散らばる青い髪と、整った顔に浮かぶ安堵の表情を見て、思わずそう呟いた名前は、絡む肢体をそっと解いていく。普段は人の機微や動作に鋭い癖に何も反応がないことから、完全に寝入ってしまっているのだろう。はだけたシーツを直して肩に掛けた名前は、ベッドから立ち上がると身支度を整え、魔術礼装を身に纏った。
壁に掛けられた時計を見るとまだまだ日の出の時間であったので、散歩がてら施設の地理でも把握しておこうかと、そのまま自室を出たのだ。
カルデアの職員たちが仕事に追われているらしく、早朝の時間でも必死にパソコンを叩いたり書類を捲ったりしている姿が見えた。恐らく徹夜コースであっただろう。これは人手不足だなと、疲れた顔をした彼らを見て悪い癖が騒ぎ出すのを感じた名前は、そっとため息を吐いて、取り敢えず廊下を走る職員を捕まえることにしたのである。
それからさり気無く職員に加わった名前は、今までの経験と知識をフルに活用して次々に仕事を終わらせていった。元々こういった事務仕事は嫌いではないし、より効率の良い方法を追い求めることも苦ではないので、仕事の傍らで改善できる部分を次々に纏め、プログラムを作成していった。
魔術は科学である。世界に存在する数多くのルールを理解し、その流れに従い組み替えていく。それにより結果が魔術に値するものだ。それは人間が作り上げたコンピューターにも当て嵌まる。プログラムという理を作ってさえしまえば、後は目的に合わせて組み替えれば良い。要は応用するだけで良いのだ。名前にとっては造作もないことであった。
そんなことを時間を忘れて進めていた名前は、気が付けば職員の会議にも駆り出されていて、カルデアのトップたちとディスカッションを行っていた。無意識の内に歯車の中に巻き込まれていたのだ。そして、それが終わったのは朝食の時間になろうという頃であった。
食事など取らなくても問題のない体であるが、職員たちは違う。珈琲の大量摂取を行っている彼らの胃は大変荒れているだろうし、まだ事件が起きたばかりであるのでストレスも物凄いだろう。
それを考えてしまうと、名前は動かずにはいられなかった。静まり返った食堂と呼ばれる場所まで足を延ばした名前は、まず初めに掃除を行うことにした。どうやらまともな食事を取っていなかったのだろう。使っていないことがわかるシンクに薄らと埃が溜まっているのに気付いてしまったのだ。
そして、一応食糧は潤沢であるらしく、痛んでもいないらしいことを確認すると、早速料理に取り掛かり始めたのである。
「……っと、危ないじゃないか……セタンタ。
急にどうした」
一度初めてしまえば、持ち前の集中力を発揮してしまう名前は、後ろから回された白い腕に軽く目を見開いた。ただ何かの足音は聞こえていたので、そこまで驚きはしなかったのだ。
くつくつと良い匂いをあげて音を立てる鍋から一度目を離すと、恨めし気な目をした英霊が名前を見上げていた。どうやら怒っているらしいと察した名前は、体を上手く反転させると、英霊に向き直った。
「悪い夢でも見たか?」
「夢見は最高だったぜ?
だがな、目覚めは最悪だった。アンタは何度俺を置いていけば気が済むってんだ」
「大げさだな。同じ施設内にいるだろう。
それに魔術回路(パス)が繋がっているんだ。問題ないだろ」
「……大ありさね、この馬鹿兄貴」
ぽんぽんと宥めるように筋肉質な背中を撫でると、胸に頬を寄せてぎゅと抱き着いて来た英霊に、少し戸惑う。どうやらこの英霊…いや弟は、名前に置いていかれたことが随分トラウマになってしまっているらしい。もしかしたら、その生涯ずっとこうして苦しんでいたのだろうか。そう思うと、名前は口を噤むしかなくなってしまう。
「すまないことをしたな」
「そう思うなら……次から一人でいかないでくれ」
「……善処しよう」
こうして名前は、作り上げた朝食の匂いにつられて少女をはじめとするカルデアの職員が、食堂に集まってくるまで、英霊の背中を撫で続けた。
血の繋がりのない弟に甘い名前は、これから増えていく弟たちに頭を悩ませることになるとは、この時はまだ想像もしていなかったのである。
*終わり*
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