インヘリット

ああ、やらかした。そう思うころには肌が裂け、吹き出す血で靴が濡れていた。
澱みを纏う1本の矢が飛来するのを見た。呆然と立つ少年の首根をつかみ、後ろへと放り投げたまでは良かったが、自分の身のことなど考えていなかったのだ。

呪いのごとく、痛みは感じる間もなく無に消え、傷は大きく口を開けた途端に閉口する。こぼれ落ちた血液のみ痕を残して、どうせ消えていくのだから。そう油断していたのだ。

「……兄、さん?」

「……」

衝撃を受け流すために曲げた体に、随分と固くなった手が触れる。微かな震えが伝うそれにそっと触れると見開かれた瞳が満ちていく。戦場において思考停止は死を意味する。揺れる瞳にそう教えるけれど、"それ"でよかったのだこの少年の時代は。"それ"を背負うべきものたちは消え去り、"それ"から逃げぬ強さを持っていたが故に巻き込まれた少年は、神に選ばれたのだろうか。

ぼたり、と落ちる。それは椿の花のように。
ぽたり、と零れる。それは梅の花のように。


「勇者になど、なるものではない」


ずくりと沸き立つ灼熱の痛み。ああ痛みを忘れて幾星霜、こんなにもつらいものであったのか。
自分にしがみつく少年を見る。なんとあわれな人間だ。この少年が選ばれしものなのだとしても、選ばなければ良いのだ。それがたとえ世界への、神への反逆だとしても。神は世界は"選んだだけ"。

「格好付ける相手さえも、この世界にはいないのだから」

たとえ華々しく世界を救おうとも、世界を捨てて逃げ出しても、行き着く先は同じなのだ。いくら献身しようともきっとこの世界の神は微笑まないだろうに。


「        」


振り返れば今日はこぼすことが多い日であった。朝早々に白湯をひっくり返したことから今に至るまで、あの英雄王や太陽王にすら心配させるほどに色々あった。あれはこの予兆であったのだろうか。
勝手に転げ出てきた言葉に、音が乗ろうとした時だった。


「―ーーにいさん」


くすんだ金の瞳が俺を見た。かの英雄王から放たれる眩い限りのそれとは違う、清濁を無理やり詰め込まれ苦しみに藻掻き苦しんでも尚輝くそれはーーー。









「……さん、……―――。にいさん、起きてくれ」

ぱちりと火が爆ぜる。すぐ近くの暖炉の火だ。
敷き詰められた赤い絨毯に影をつくるそれは、はじめからあっただろうか、それとも誰かの考案だっただろうか。英霊は兎も角として、生きた人間にとってはこのあたたかな炎は癒しのそれだった。機械的な部屋が多いこの施設の中で、名前が一等好んでいるこの空間はぬくもりに満ちていた。炎だけではなく、部屋を飾る家具たちも含めてのことである。

「……夢」

毛の長い毛布に包まれたソファーに沈み本を読んでいたつもりであった名前は、いつの間にか寝てしまっていたことにぼんやりと気が付く。ふと視線を上げると、あの金色と名前のそれが交わった。

「ひどい顔だ」

「ふふ、もともとだよ」

「汗もひどい」

「……ひさしぶりに、感じたんだ。身を切る痛みってやつを」

褐色の指先が、熱を帯びた名前の額に触れる。ふと覗き込むその色に影が差した。

「熱いな。風邪かね」

「俺が? 少し、疲れただけさ」

名前は夢の中で溢れ出した自分の血が、ふわりと香り立つのを感じた。額を、頬を、首筋を、撫でる褐色の指先に瞳を閉じる。

「自分が死んだ時を憶えているか?」

その質問が含む毒を知りながら名前はそっと問いかける。すると、ゆるりとその金色は瞬いて、わらった。

「シロウ」

英霊になろうが、いくつかにわかれようが、その存在は名前にとっては何も変わらない。何度出会い、何度別れようとも、名前にとって目の前の存在はー。

「つかれているんだろう。もう休んだ方が良い」

「せめて、お前だけでも取り戻せたらなあ」

「……それは」

吐息と共に吐き出されたそれは、エミヤ・オルタの、エミヤの息を止めた。名前にとってはどのエミヤでも何も変わらないのだろう。しかし、エミヤの、エミヤたちにとっては全く異なるのだ。何故ならば彼らは求めているから、己がこの唯一無二をもう一度手に入れるのだと。

「俺が、違うと……?」

「エミヤ? どうした……?」

「にいさんにとって、俺はなんだ?」

「それは」

「俺は、俺だけだよにいさん。相変わらずそういうところが」

そこでエミヤは口を閉ざす。きらい、にくい、はらただしい、などという負の言葉が口の中で消えていく。

「すまない、エミヤ。……ただ俺は、お前と一緒にいきたかったんだ」

しなやかな両腕がその褐色に絡みついて、やさしい力でエミヤを抱き寄せる。抗えるそれを抗わずに身を沈めると、ソファーに座る名前の胸に顔を埋めることになった。

「にげてしまえば、よかった。なにもかもから。おまえとともに」

どくり、と衝撃に胸を打たれる。名前の様子がおかしいと思っていたが、まさかこの義兄がエミヤにそんな声で弱音を吐いたことなど一度もなかったから。

「でも世界から逃げられない俺が、お前を助けられるしあわせにできるわけがない。そう思った」

「……」

「ああ、いたいな。……こんなにも傷は、痛いのか」

名前の魔力が炎のように揺れている。長く永く生きる彼には、たまにこのような揺らぎがあるのをエミヤは理解していた。名前は人であり人ではない。武も知も勇もすべてを極めた超人であるが、神ではない。そのギャップが弱さを孕むのだと知っている。

「問題ないさ、にいさん。オレは今ここにいる」

名前の腰に腕を回すと、エミヤはわらった。

「だから、"オレ"としあわせになろう。名前」

エミヤはこの義兄の甘さと愚かさをよく知っていた。それは蜜の如く甘美で、たまらなくもとめてしまうもの。そこに付け込まれ、多種多様の"羽虫"が集っているに現状にもうんざりしていた。

「にいさんの、血のにおいだ」

不老不死だという名前の体を巡る血は、膨大な魔力が煮詰められたものであり、彼の性質と相まってこれ以上ない"たからもの"である。


「バウ!」


それは突然のことだった。名前の横側から放たれた獣の咆哮が、どこか退廃的なふたりの雰囲気を吹き飛ばしたのだ。それに眉を顰めたエミヤが体を起こすと、白く丸い物体が絨毯を蹴り上げて宙を舞う。

ぽふんと腕の中に落ちてきたそれは、まんまるな白い体に青を差したかわいらしい子犬であった。子犬は目を細めて笑うと、べろりと舌を出して名前の頬を舐める。

「お前は……そうか、あいつの仔か。どうかしたか?」

「バウバウ!バウ!」

「ふん。飼い主に良く似た駄犬に、言葉など解せる筈もないだろう」

「グ ル ル ル ル」

子犬に鋭い眼を向けるエミヤと、エミヤに毛を逆立て威嚇する子犬の姿に名前は口元をゆがませた。彼がぽってりとしたその毛に指先を沈めると、くるりと表情を変えて名前を見上げる子犬が尻尾を振る。

「それで、ご主人様はどうした?」

「バウ!」

名前の問いに、よくぞ聞いてくれたと言わんばかりにまろい瞳を輝かせると子犬はひとつ吠え立てた。

「ふふ。連れていけなのか、連れてこいなのか……。まあ良いか」

「放っておけば良いものを」

「お前も素直でないね。俺よりもこういうのは手慣れているだろうに」

「……記憶にないものでね」

じいと名前の顔を見たエミヤはため息をこぼす。少しは顔色がマシになったようだと心の中でひとりごちた。だがその表情は虚ろで、どことなくぼんやりとして見えた。

「いくのか?」

「ああ」

「おすすめはしないが、どうせ聞きはしないのだろう」

名前は気付いていないのだろう。エミヤの言葉はただの過保護な忠告だと思っているのだろう。己がむせ返るほどの"それ"を纏っていることに。普段は余程近寄らなくては感じないほどのかおり。おそらく魔力を糧にするものたちならば、理性を飛ばすほどの濃密な"それ"に、本人は全く気が付いていないのだから皮肉なものである。

「相変わらずの鈍さだ、賞賛に値するよ」

飢えた獣の群れに飛び込もうとする名前の後ろ姿を見て、エミヤは鼻を鳴らした。そんな愚兄を放っていられるわけがない己も、きっと同じなのだろうと。

「バウバウバウ!」

部屋を出ると見慣れた廊下が広がり、しんと肌寒いほどの静寂に包まれていた。スタッフたちは24時間交代しながら稼働しているのだろうし、英霊たちも好きなように行動しているだろう。気が付けば勝手に増築されるカルデア内の現状を把握しきっているわけではないが、少なくとも名前たちのいる周辺に気配はないようであった。

「こっちか?」

子犬の言葉をなんとなくで理解し進んでいくと、名前はざわりと何かが揺れるのを感じた。その揺れは、背筋を伝い脳を介さずに体へと伝達される。名前が振り返るその前に、後ろを歩いていたエミヤが反応する。

「死ね」

「おっとお!」

予備動作なしに構えられた銃剣に、背後からの奇襲者は声を上げて大きく仰け反った。はらりと青のフードが落ちて、追うように群青の髪が流れ落ちた。

「キャスターか、」

「へへっ、この姿でも中々やれるだろ?」

つるりとしたルビーのような赤い瞳が名前に向けられる。その目つきがいつもとは違うように見えたのは気のせいだろうか。

「なあ、飼い主を知らないか?」

「……ああ、知ってるぜ」

細められた瞳と、ゆるやかに歪む唇に、機嫌が悪いわけではないのだなと名前は首を傾げた。そもそもクーフーリンの名を冠した英霊たちは千差万別である。彼にとって、一番わかりやすいのがプロトタイプ、剣、槍であり、一番わかりにくいのがこの杖を持つクーフーリンであった。だから、いまいち目の前の青い英霊の機微を伺うことができないのだ。

「そう目くじらを立てるもんじゃないさね、"オレ"は理性的なんだぜ」

「はっ、笑わせる。自分の顔を見てから言いたまえ」

にたりと笑うクーフーリンは、いち早くそれに気付いていた。まるで穴でも開いたかのように突然広がったそれが誰のものであるかを。

「オレが塞いでやる。このままじゃあマズいだろう?」

「おい、なんの話を……!」

クーフーリンがぱちりと指を鳴らすとその姿が光となり霧散した、かと思うとすぐに名前の眼前にその長身が現れる。名前に視線を合わせると、口元の笑みがあっという間に消えていく。

「こいつは、ひでえな」

そうして形の良い眉を顰めると、槍のそれよりは細い指先を名前の胸に宛がう。そこに1つの穴を見た。そう先ほどから毒々しいまでの濃厚な"魔力"を垂れ流しているのがクーフーリンには"見えた"。みえてしまったのだ。

「……っ!?」

襲い来る痛みは一瞬であった。すぐにそれは心地よいものへと変貌し、快楽すら感じるようになる。
ぐらりと頭が揺れて、視界がぶれ、むせかえるほどの、のうみつな……。

「キャスター? どうした?」

ぶれる視界の中で名前の薄い唇が動く。ここでクーフーリンは自分のやらかしに気付いた。

「くそ……っ、てめえ、知ってやがっただろ……!」

「オレは無駄打ちが嫌いでね。忠告を聞かないのはお家芸だろう?」

「ちっ、マジで性根の腐り散らした野郎だぜ」

「さっさと塞いでくれたまえよ。なに、できないのなら無理することはないさ。代わりなどいくらでもいるのだから」

呆れを表すように腕を組んだエミヤは、涼しげな顔でそう吐き捨てた。そこで完全に置き去りにされていた名前が首を傾げながらも口を開く。

「まてまて、こんな廊下で喧嘩はいけない。さっきからなんなんだお前たち」

「……はあ?なんだよ、無自覚かあ?」

「どういうことだ?」

「あのな、名前さんよ。お前さんは今ひじょーにやべえ状態なんだ。例えるなら……。なんだ、あー。そうそう、血ぃ流しながら鮫のいる海を泳いでるようなモンだぜ」

「例えになっていないが?」

「一々うるせえな、クソ野郎!ってかこんな状態のやつを連れ出すなよ」

「どこかのクソ餓鬼がやらかしてくれてね。仕方なくだよ」

「バウバウ!」

名前の腕の中の子犬が無邪気に吠える。2人の英霊の言い争いをどこか他人事のように聞いていた名前は、なんとなく状況を察していた。

「なるほど、破られたか」

どうやら先ほどの夢は単なる夢ではなかったようだ。何かの精神攻撃を受けたのか、それとも呪いか、あるいは祝福か。どこかぼんやりした様子で考え始めた名前をエミヤはただ見つめる。
"昔"からこの義兄は己を顧みないのは知っていた。それが影響してか、その類まれなる才故の感は決して義兄自身に発揮されることはないようであるが、なまじ身体が頑丈すぎるのもあり、一周回って何事もなく解決してしまうのだ。結果的に割を食うのは周囲なのである。

「……しゃあねえなあ」

それを甘えだと一蹴するには、彼らは名前との付き合いが長すぎたのだ。それにこのままだと確実に大惨事が起こるだろうことは目に見えている。神々ですら抗えないその魔力は今も尚だくだくと流れ落ち撒き散らされ、泥のようにこびり付いて堆積していく。これでは任務どころではないだろう。バーサーカーたちが暴走するかもしれないし、不安定な英霊を不用意に刺激する可能性すらあった。

「まずは叩き起こさねえとな。まあちと短絡的だが手っ取り早い方法知ってるぜ」

杖で自分の肩を叩いたクーフーリンは、いつものように笑う。ぎらりと輝くその赤色に、名前は誰かの背を見た気がした。




続く
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