グツグツと、底が煮える音がする。
身体の中の憎しみが、憎悪が、グルグル渦を巻いて煮え滾っている。それは煮え滾ったまま、熱を帯びたまま、肉を焼きながら身体中を駆け巡った。
神経が焼き切れていくようだった。だが、不思議なことに痛みは全く感じなかった。むしろ、その焼き切れていく感覚が、清々しく感じるほどだった。

「私」が焼き切れていく。「俺」が燃え尽きていく。「僕」が灰になっていく。体が、腕が、足が、耳が、瞳が、頭が、心臓が、全て全て煮えて焼けて、ドロドロと形を崩していった。人が人でなくなる感覚。
そして、何かが形作られていく。体が、腕が、足が、耳が、頭が、心臓がーーーー




ーーーそうして、「わたし」が生まれた。





×


「キミ、いいね。どうかな?歓迎するよ、私達怪人協会にーーーー」
「悪いけど、興味ないんだ」


瞬間、抉られ歩きづらいアスファルトの地面に赤が広がる。割れて隙間だらけのアスファルトに、じわじわと染み込んでいくそれは、今まで人を襲っていた異形の怪人の血液だった。
弾け飛んだ肉体からは絶え間なく鮮血がにじみ、次々と地面に吸い込まれては流れていく。見るも凄惨な光景ではあるが、つい先ほどまで暴れていた怪人のお陰で、人間は辺りに存在していなかった。ー1人を除いては。

「あーあ、汚い。あまりに煩いものだから、ついやってしまったよ。まったく、いけないね。悪い癖だ、直さなくては」

いまだ小刻みに痙攣する怪人の死体を眺めながら、ぽつりと青年が呟く。背格好は普通の青年と変わらないが、その姿は普通とは言えないほど、恐ろしいほどに"真白"だった。

青年は、少しも血に濡れていない白く長い手をふるりと振ると、まるで何事もなかったかのように踵を返して歩き出した。質の良い革靴の音が、崩れかけた街中に染み込んでいく。軽快な音を鳴らし歩くその姿は、まるで何かの映画のワンシーンのように様になっていて、これが現実というには、あまりにも浮世離れした光景だった。

「あぁ…なんてーーーー…この世は醜く汚いのだろうね」

唄うような声が瓦礫の街にこだまする。
青年は、美しい背筋のまま崩れた街を歩く。


「白く、白くしなくては。美しいものに。綺麗なものに。そうでなければ…この世は醜すぎる」

うっそりとつぶやかれたその言葉は、誰の耳に届くことはない。






「なんてこと。まさか、こんなことが…。いや、あんな人間がいるなんて…」

深い深い地下の底。自分だけの一室で、小刻みに震える手を抑えながら、女ーーサイコスは低い声で呟いた。
今しがた自分の肉人形が壊されたのに、サイコスは恐れ慄いていた。いや、肉人形が壊されることは、大した問題ではなかった。問題は、肉人形を壊したその"相手"である。


サイコスは、地上の偵察も兼ねて肉人形を放っていた。己の計画の一部になるような掘り出し物の怪人でもいないかと、ちょっとした気分転換のつもりでもあった。
肉人形を介し、街中を観察する。いつも通りのなんてことない呑気な人間どもを見、うんざりしつつも目ぼしいものはないかと観察を続けていたところ、サイコスの眼前に血気盛んな怪人が飛び込んできた。
人間を蹂躙し、破壊のかぎりを尽くす怪人は、まあまあ悪くない逸材であった。見た目こそ弱そうではあるが、そのパワーと残虐さはサイコスの好みに近いものであった。
怪人といえど、その生態は様々である。中には、その残虐さやパワーを進化させ、圧倒的な力を手に入れるものも存在する。
今眼前で暴れている怪人のレベルはせいぜい"鬼"がいいところであろうが、サイコスの目にはそのレベルが成長する伸びしろを感じたのだ。後ほど使い物にならないとしても、スカウトしておいても損はないだろうと判断し、ヒーローも来ていないのをいいことにその怪人と接触を図ろうと近づいた時だった。

パァン!!

「キャアアアア!!」
「逃げろ!怪人だ!!逃げろー!!」

「…!?」

人々の喧騒の中、突然その怪人が弾け飛んだ。ヒーローはまだ来ていない。警報だって鳴っていない。現に、逃げ惑う人々は走ることに必死で、背後の怪人が弾け飛んだことに気が付いていない。
綺麗に上半身だけ吹き飛んだ怪人は、無様に倒れ血液を垂れ流している。完全に死んだのだろう。"将来有望な怪人をスカウトする"というサイコスの目的ははかなく崩れ去った。いつもであれば、ここで興味を無くし退散するサイコスであるが、今日は何かがおかしかった。明らかな異常が目の前にあった。
何が起こったのか。誰がやったのか。何も見えなかったし、感じられなかった。これはサイコスにとってあり得ないことであった。
なにせ、サイコスの災害レベルは"竜"である。そこらの怪人とは訳が違う、街一つ潰せる圧倒的な破壊力と技術を持った恐るべき怪人である。自惚れではないが、S級ヒーロー程でなければサイコスに傷をつけることも不可能であると思っている。というか、現にそうなのだ。
そんな自分が、目の前の怪人が倒される瞬間が見えないなどと、何が起こったのか理解ができないなど、そんなことはありえないのだ。では、怪人の自爆か?ーいや、ありえない。楽しんで人間を蹂躙するような怪人が、ここからだというところで自爆するはずがない。ではなぜ?何が起こったのか?自分の見ている前で、理解のできない出来事など起こり得るはずが、

「何か用かな?ずっとそこにいるようだけど」
「ーー!!!!!!」

ーー声だ。思考の海から一気に浮上し、勢いよく後ろを振り返る。
男、男だった。自分の背後になんてこともないように普通に佇むのは、やけに綺麗な真っ白の男だった。
面倒そうに目を細めたその男は、汚いものでも見るような顔でサイコスを眺めていた。

「いつの間に…」
「目障りだ。なんの用もないのなら今すぐ消えてくれるかな」
「…あれはキミが?」
「あれ?…あぁ、あれ。あまりにも汚かったから。掃除してしまったよ」
「掃除…。掃除か…」

ピリピリとした視線がサイコスを差す。居心地が悪いにも程があるが、サイコスは目の前の疑問を払拭する方がずっと大事だった。
どうやら、この惨状を作り出したのは目の前の男であるのは確かであるようだ。なんでもないように答えたその男は、羽虫一匹殺せそうにないような、儚げな見た目をしていた。真っ白な髪に、真っ白な肌。透き通った水のような、蒼とも碧とも取れるような不思議な瞳はとても美しく、それに負けないくらい顔も体も整った造形をしていた。一言で美しい。この世の美を全て集めて固めたかのような男だった。
しかし、男は明らかに異質だった。人間の見た目をしているのに、どこか人間ではないような感覚。その瞳から感じられる、深く渦を巻くような濃厚な憎悪。まるでこの世の全てを憎んでいるような、どこまでも澄んでいるのに暗く澱んだ瞳。この感覚に、サイコスには覚えがあった。まるで、自分が"あの男"に出会ったときのような、そんな既視感。見つけた、と思った。


「…キミ、いいね。どうかな?歓迎するよ、私達怪人協会にーーーー」
「悪いけど、興味ないんだ」


瞬間、視界は黒く途切れた。
元の肉体に戻ってきた感覚に、サイコスの背筋が粟立つ。
おそらく、壊された。だが、どうやって壊されたのか、何をされたのかがまったく認識できなかった。無理やり電源を落とされた、そんな感覚だ。
また見えなかった。あの一瞬で死んだ怪人のように、同じようにして自分も殺されたのだ。わからなかった。何もわからないまま死んだ。もし、もしもこれが本体であったならーー。そんなことを考えて、サイコスは恐怖に体を震わせた。

「なんてこと。まさか、こんなことが…。いや、あんな人間がいるなんて…」

地上の人間について、ある程度調査を進めていたつもりであった。ヒーロー達の実力がどれほどのものかも、それを踏まえて、自分たち怪人協会がどれだけの戦力を持っているのかも、全て理解しているつもりだった。
そう簡単にやられない自信があったし、実力もあった。簡単には行かないのを理解はしていたが、だが、まさかこんなことがあるなんて。にわかには信じられないが、サイコスの目の前で起きたことは現実である。直に見て、そして殺された。この事実は揺るぎようがない。サイコスの眼前にあったのは、たしかに"災厄"であった。

「あんな人間が…まだこの地上に居たっていうのか…!?だが…私の計画に問題はないッ…!」

震えが止まらない。自身が育てた"怪人王"で勝てるのか?いや、分からない。分からないからこそ、恐ろしい。唯一の救いなのは、あの男がこちらにまったく興味がなさそうなことだ。だが、興味が無いからこそ、危うくもある。しかし、誰であろうと、計画の邪魔はさせない。

「ふふ、ふ、…私は何を恐れている?
…もし、彼を懐柔できたとすれば…、いい素体になるじゃないか…!これはチャンスと言ってもいい。それまでに、さらに力を集めなければ…!」

サイコスの震えが止まる。忙しなく動き始めた脳内には、新たな計画の設計図が描かれていく。パズルのピースが噛み合うように積み上げられていくそれは、サイコスの心に余裕を与えていく。そうだ、きっとうまくいく。私は支配者だ。そして、新たな王が生まれた暁には、世界が従うようになる…。そこに、例外はない。誰であろうと。

「手に入れる…手に入れてやるぞ…、お前を!」

地下1500メートル。地中奥深くで、女は薄く笑った。

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