「行かないでヨ」

表情を読み取ることなど出来るはずもないのに、君は悲しげにそう呟いた。縋り付く小さな子供のように、何度も何度も引き止める。欠片でさえも逃さないように、私の手を取って。離す気はないようだ。

必死に引き止める君に対して、私は少々困った表情を浮かべる。けれど、君はそんな表情など気にしない。一緒にいてくれることを何よりも望んでいるのだから。

そうと分かっていても、この手を離すことが最善の策であり、私の願いでもある。やんわりと、けれども強く離して欲しいと訴える。それでも君は頑なに離そうとしない。


ようやく固めた決意が、揺らいでしまう。

此処に、いつまでもいたいと願ってしまう。
許されることではないのに。

あんまりにも悲しい顔をするものだから、そんな君を見て、私はとうとう困り顔をやめて笑顔を見せた。それを見て、君は満足そうに頷いた。


「ずっと一緒が一番だヨ」

鼻歌でも歌い出しそうなくらい嬉しそうな君を見て、泣きそうになるのをぐっと堪えた。






何処まで行けば、この奇妙な感覚はなくなるのか。知らない感情に心が、体が、応えようとしているのが分かる。怖くて怖くて、私じゃない私になっていくようで、とにかくじっとしていられなかった。

外へと続く道はこっちだと、分かるような気がした。ううん、気がしただけ。こんなところ、私は初めて来たはずなんだから。知らないはず。それでも、次の角は右へ曲がればお城の出口だと分かっている。どうしてなんて考えたくもない。

私は私、誰でもない私。
きっとよく分からない夢を見ているだけ。だからおかしなことが立て続けに起こるんだ。カカシが喋ったり動いたり、マンティコアって言う大きな動物(幻獣らしいけれど知ったこっちゃない)が喋ったり私を食べなかったりするんだ。

曲がり角にたどり着き、乱れた呼吸を整える。目の前に見えるあの扉を開けば外だ。


本当に、それでいいの?

誰かが囁いた。
きっとまた悲しむことになる。

またって、私はその前を知らない。知らないんだ。それは私じゃない。


「行かないでヨ」

不意に背後からそんな声が聞こえた。
クロウだ。

とても寂しそうに、やっぱり表情なんて分かりっこないのに泣きそうで、私の足は根を張ったように動かなくなった。

やめて、やめて。
あなたなんて知らないの。

同じことを言うんだねなんて、何かの間違い。必死に頭を振る。

「また、僕を置いていくノ…?」
「……え…?」
「アレ、なんでこんなコト思うんダロ。ドロシーじゃ、ないのにネ…」

そう、私はドロシーと言う子じゃない。
そんな知りもしない誰かと私自身を重ねないで。


「そうダ、君の名前を教えてヨ!」

先程と打って変わり、クロウは明るい声でそう聞いてきた。何だろ、もやもやとしたものが残っているのは私だけなのだろうか。いきなり何だと言い出しても、このカカシはきっと首を傾げるに違いない。大きくため息を吐き、出来るだけ明るく答えた。

「私、自分の名前が分からないの」
「そうなんダ?」
「うん。だからさ、クロウが私に名前をつけてよ」
「……名前、ボクがつけるノ? ボク、カカシだヨ?」
「駄目かな?」
「脳ミソはないケドいいノ?」
「クロウにつけて欲しいの」
「ワカッタ! 頑張って良い名前考えるネ!」
「………ありがと」

一所懸命に考えてくれているクロウを見て、自然と笑みが零れた。





透明色に見えるけれど此処に
確かに存在しているの。今いる“私”と、知らない“私”が。

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