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 金魚が死んだ。ずっと飼っていた大切なあの子が死んでしまった。

 あの子が入っていた水槽はもう空っぽだ。まるで私の心の中のように。
昨日まで優雅に泳いでいたあの子は、今日は白い腹を見せ水の上を漂っていた。


 あの子は人のようだった。
 学校から帰り、水槽の前に立てば『おかえり』と言っているように近寄ってコツンと頭でガラスに触れる。
そして餌をあげる度に跳ねて、構わなければ拗ねたように近寄って来なかった。


 昨日だってそうだった。いつものように、家から帰ってあの子の前に行けば近寄ってきてくれた。
 でも私は見たのだ。私が居なくなった後、苦しそうに水面に向かって呼吸をするあの子を。
 何もしなかった。気のせいだと都合の良いように決め付けた。そして、君は死んだ。

 少し暖かくなった気温を肌で感じながら宛てもなく歩く。
どこに行っても考えるのは、自分が死なせたあの子のことばかりだった。


 自問自答をひたすら繰り返し、辿り着いたのは小さい頃よく遊んだ公園。
 早朝の今は誰もおらず、沈黙がそこを支配していた。
 しばらくそこで立ち尽くしていると、少し寒い風が私の髪をなびかせる。そして突然肩をポンと軽く叩かれた。

「やぁ、早いね」

 振り返って相手を見る。話し掛けてきたのは綺麗な橙色の髪をした青年だった。
綺麗な色だった。染めた髪ならここまで綺麗な色にはならないのではないか。この橙色は地毛なのだろうか。

 そんな考え事をしていると、青年が「大丈夫?」と顔を覗き込んできた。
 突然声を掛けられたため驚いた私は少し後ずさる。青年は私に「待って」と酷く焦ったように言った。今まで聞いたことのない透き通った綺麗な声だった。

 私達はベンチに腰掛け、青年は私の手を繋いでいる。
今日初めて会った知らない人のはずなのに、彼の冷たい体温は私を酷く安心させた。

「あなたは、誰?」
「俺のこと? んー内緒」
「はぁ」
「そんな顔しないでよ。ねえ笑って、俺君の笑った顔が好きなんだ」

 怪訝な顔をする私とは対象的に青年は私に眩しい笑顔を向ける。
 おかしい。笑った顔が好きだなんて言われても、私は彼とは初対面だし、彼と会ってから笑った記憶がない。
なのに彼はそれが好きだと言う。何で私の笑顔を知ってるの? 何で今笑えなんて言うの?

「何も知らないくせに」

 笑えるものか。いくら笑えと言われようとも口角はピクリとも動かない。
大切なあの子が死んだのに、私だけ笑うことなんて出来やしない。
 下唇を噛み、繋がれた手に力を込める。それでも青年は私に優しい笑みを浮かべている。
そういえば、あの子は目の前の彼の髪と同じ淡い橙色をしていたっけ。またあの子を思い出して目頭が熱くなった。
 だめだ、この人の前で泣いては迷惑だ。でも涙は止まってくれない。頬を滑り落ちた涙は着ていたコートを濡らす。

「泣かないで。俺、君が泣くとここが痛いよ」

 青年は今にも泣き出しそうな顔をして、繋いでいない方の手で胸の辺りをギュッと握る。

「ごめん、止め、られない」

 一度溢れ出した涙は止まらない。この人と話す度に、触れる度にあの子との思い出が溢れ出してくる。
ああそうだ、きっと同じ橙色だからだ。あの子も、この人も。
 彼は私の涙を長い指で取り除く。それから、そっと私を抱きしめた。

「ずっと好きな人がいたんだ。でも俺は見ているだけ。彼女と一緒に居る筈なのに、俺はあの子の辛い時も悲しい時も触れることさえ出来なかった」

 青年の声は微かに震えていた。泣いているのだろうか。彼の苦しみが伝染するように私の胸も苦しくなった。

「神様はいつだって意地悪だ。最後になって勝手にチャンスを押し付ける。
俺なんてこのまま消えてしまえば、いつかは君の記憶から消えたのにね」

 青年の身体が私から離れていく。私たちの間を吹き抜ける風が冷たい。
彼は泣いていた。そして私も泣いている。なぜだろうか、分かってしまった。どうして彼が泣くのか。

「君が好きだ。ずっとずっと昔から大好きだった。だから泣かないでほしい」
「君が俺の為に流す涙はとても綺麗で美しい。自惚れたんだ、君の中での俺は大切なんだって」
「でもね、君の泣き顔を見るのはとても辛い。胸が苦しくなるんだ」
「ねぇ大丈夫だよ、俺が死んだのはごく普通の出来事だったんだ」
「俺は君と出会えて幸せだったよ。ずっと、ずっと。だから、もう泣かないで」

 青年は、あの子はいつものように私に近寄る。そして私の額にコツンと彼が額で触れた。

「さようなら。どうか君が笑顔でありますように」

 触れるだけの口付けをした。酷く冷たい唇で、酷く愛おしい口付けだった。
 涙はいつの間にか止まっていて、目を開けるとそこにはもうあの子は何処にもいなかった。

 家に帰って水槽に水を張る。そこにはもう何もいない。水にそっと触れると少しだけ暖かい気がした。


11/04/27
22/07/27 修正