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縦令之話

 
洞窟の中に男がいた。

「こんなところにいたのか」

カツ、カツ、羽ペンを一心不乱に動かす男の背後から、涼やかな声が飛び込んだ。羽ペンを動かしていた手を止め、男は振り向きざま「先生、」と、声の持ち主の身分だけを口にした。
蝋燭の火に照らされた深緑の髪がばさりと揺れる。合間から覗く朱色の目は暗く、絶望に染まっていた。

先生と呼ばれた男は眉を潜めた。

「根を詰めすぎだ。少し休んだほうがいい」

先生と相対する男はげっそりとやつれている。
喋って動くので生きているとわかるが、男の容姿はひどい有様だった。もう何年も使っているだろうローブは端がほつれ、見る場所によれば破けている部分もある。羽ペンを持つ手はもはや骨と皮だけでできているといっても過言でなく、目の下には黒い隈が色濃く存在を主張していた。
倒れるようにして眠っていれば死んだように見えるだろう。先生は頭の隅でそんなことを考えた。

気遣うような先生の言葉には、一言、「いいえ」としか返ってこなかった。

「効率を考えるなら休むんだ」
「いいえ」
「休むよう言っている」
「嫌です」
「…、」
「嫌だ、お断りします」

先生は顔をしかめて男の腕を掴んだ。擦り切れたローブの厚みを合わせても細すぎる腕に驚くことはなく、その腕を手前に引く。
簡単に引っ張られる体と裏腹に、男の暗く澱んだ目が鋭く先生を睨めつけた。「邪魔をしないで」

「効率の問題じゃありません。休んでいたら、きっとこの魔法は完成しない」
「時間はたっぷりあるはずだ」
「いいえ、先生。時間がないのです」

ぴくり、先生の指先が微かに震える。
虚を突かれたような反応を返した先生に向けて、男は畳み掛けるように言葉を並べ立てる。

先生、物事には限りというものがあるのです。時間もまた有限で、僕たちを決して待ってはくれません。
タイムターナーでさえ巻き戻せる時間に限りがあることをご存知のはずです。いいえ、いいえ、もしかして限りなく遡ることもできるやもしれませんが、誰も試したことがないでしょう。恐竜時代になんか誰も行こうと思わないでしょう。戻る術を知らず、魔法の限界を知っているのだから。

先生、僕はこの限界を知りたくはないのです。知る前に戻ってしまいたい。これ以上手遅れになってしまうのはごめんです。取り戻せないものを自覚したって何にもならないのです。
先生は僕が何をしたいのか知っているでしょう。僕がやろうとしていること、その限界は誰も知らないことでさえも。ゆえに僕は焦っているのです。

僕は過去を変えたいのです。タイムターナーでは"巻き戻るだけ"になってしまう理論を一から覆さなくてはいけない。巻き戻るだけでは意味がないのです。"過去を変えなくては"。
そのための研究は人一人分の人生では賄えないことくらい、先生も知っているはずだ。僕一人だけでは成し得ない確率のほうが高いのです。
だから僕は焦らなくてはいけません。この研究は僕が完成させなくては意味がない。ほかならぬ僕のために、早急に新しい魔法を生み出さねばならないのです。

「一人のために、そこまで狂ってしまったのかい」

思わずこぼれたような先生の言葉に、男がうっそりと笑う。

「先の賢人たちは皆狂っている。あなたも、あのダンブルドアでさえ、歪な性格だったのですから」

愛してしまった人のためなら、人は狂うことさえ良しとする。
先生は腕に込めていた力を抜いた。男はその一瞬で先生の手を振り払い、元いた場所に座り込む。小さく燃える蝋燭がわずかばかり存在を主張していた。

「意識を過去に戻して、憑依の形で自分の体に定着させる…タイムターナーの原理はこっちに…」

ぶつぶつとつぶやき始めた男の後ろで、先生は口を開いた。

「本気か、名前」

君がしたかった研究は、目指していたものは、こんなものじゃなかったはずだ。

「人は変わらないとお思いなのですか、グレイソン先生。それは詭弁だ」

そう告げて以降、男は先生の言葉に耳を傾けようとはしなかった。
数日後、改めて先生がその洞窟を訪れると、男の姿はすっかり消え去っていた。小さな空間の中、魔法がかけられた蝋燭は未だ小さく命の光を灯している。

男が持っていた羽ペンも、こぼれたインクも、様々なことを書き記していた羊皮紙さえも、男がいないことを除けばそのまま放置された形になっていた。
羊皮紙にはマグル界で使われる何かの式や魔法の原理が細かく書かれていた。生憎とマグルにさほど詳しいとは言えなかった先生には、わからない式というのも少なからず存在していた。

先生はその後、名前と呼ばれる男を見ることはなかった。

それは物語の始まりだった。
長い時間旅行の始まりを最後に見届けたのは、先生と呼ばれる不老の男だった。

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