おやすみ、最愛の人

ほぼゼロ距離で見ても顔がいいなんて、この人はほんとにずるい。
夕暮れ時の図書室の一番奥でこっそり交わしたキスの直前、間近に迫った彼の顔を見て、頭の片隅でそんなことを思った。
きりっとした目元、通った鼻筋。睫毛も長い。イケメンというよりは、精悍という表現がよく似合う顔立ちだと思う。あとは男前とか。これで声までいいんだから、本当にずるいと言うほかない。性格については、若干不評と言わざるを得ないけれど。

「余裕そうじゃん。何考えてんだよ。」

唇を離した彼が、ちょっと不満そうな声で私の頬を軽くつねった。

「もう今更、キスで緊張するような関係でもないし?」
「確かに。」

こないだまでガチガチだったのにな、と彼は笑うが、彼だってキス以上もその先も、つい最近初めてを一緒に済ませたばかりではないか。お互い様である。
ふにふに、と彼は私の頬を触ったり撫でたりつまんだりして遊んでいる。怪訝そうな表情だったのか、彼は誤魔化すように笑った。

「いや、女子のほっぺたってやわらけーな、って。なんか、すべすべしてんじゃん。」

優しい手つきで感触を堪能している彼の頬を触ってみる。確かに、自分の頬とは違う感触だ。

「御幸くんのほっぺたは、ちょっとガサガサだね。野球で日焼けしてるからかな。」
「うるせ。」
「あと、お髭がちょっとチクチクしてる。」

彼ははた、と動きを止めて自身の頬を撫でた。

「うわ、ほんとだ。夕方になると伸びてきちまうんだよな…痛い?」
「うーん、ちょっとだけ。」
「わり…気ぃつけるわ。」

ぎゅっ、と抱き寄せられた。制服のポケットからはみ出た、ケータイについている必勝祈願のお守りの鈴が少し賑やかな音を立てた。頭の上に顎が乗っかる。
大きな背中に腕を回して深呼吸をしたら、汗と制汗剤と、グラウンドの匂いがした。

*****
ゆっくりと目を開けた。
空が白けてきたのか、部屋は電気をつけていなくても少し明るい。スマートフォンの電源ボタンを押して時間を確認。大丈夫、まだもう少し寝ててオッケー。
ぐっと伸びをした。なんだか、とっても懐かしい夢を見たなぁ。

「なぁ…起きるの早くね…?」

最近滅法朝に弱くなってしまった彼が、背中越しに呻き声をあげる。寝起きの少し掠れた声は、夢に出てきたあの頃にはなかった色気が乗っていた。

「ごめん、もうちょっと寝てよ。」

背を向けて寝る彼に、後ろから抱きついた。んー、と彼はまだ寝ぼけているような声で答えながら、こっちを向く。見るからに眠そうな顔をしながらも目を開けて、私を見つめながら頭をゆっくりと撫でた。

「怖い夢でも見たのか?」

珍しく途中で起きた私が気にかかるらしく、心配してくれている様子に胸が暖かくなった。

「ううん、逆。懐かしい夢を見たの。」
「そっか…。」

頭を撫でていた手は、そのまま背中に回った。夢と現実の合間の穏やかな時間が流れる。そっと、一也の頬を撫でた。

「ほっぺた、すべすべね。」
「誰かさんのご指導のおかげでな。」
注目されることの多い職業なんだからとスキンケアを勧めて以来、彼は従順にも化粧水と乳液を使っている。根が真面目なのだ。

「それだけじゃなくて…お髭ちくちくしてないね。」

撫でられるがままの一也は、眠さの限界といった様子で目を閉じた。

「なんか昔…ちくちくしてるって言われて悪いなと思ってから剃る回数増やしたような…」

話しながら、そのまま眠りに落ちてしまった。彼の寝顔を見つめる。
きりっとした目元、通った鼻筋。睫毛も長い。あれから年齢を重ねたこともあり、より精悍という表現が似合うようになったと思う。
性格が若干不評であるのは変わらないけれど、ただ優しさを表現するのがあまり上手ではないだけだと理解している。野球にかけてはセンスの塊であることと引き換えにするように、社会生活をおくることにはとことん不器用な人だ。

“御幸くん”は、変わった。彼を応援するのに必要なのは必勝祈願のお守りから、彼の名前が入ったユニフォームや球団の応援グッズに変わった。夏の甲子園の時しかニュースに出ていなかったのに、毎日のように新聞やニュースに載るようになった。ケータイは、スマートフォンになった(すごく嫌がっていたけれど)。
私も、変わった。高校を卒業して、大学生になって、社会人になった。化粧をするようになったし、爪にはマニキュアを塗るようになった。
変わらないものも、あった。私と彼は、お付き合いを続けている。いつか終わりが来ると思っていた関係だったけど、変わったのはお互いの呼び方だけだった。喧嘩は何度もしたけれど、少しずつお互いが嫌な気持ちにならないための伝え方や考え方の理解が進んだ。ここ数年、喧嘩をしなくても考えを伝え、受け入れることができるようになっている。

彼から先日受けた提案によれば、長年たったひとつ変わらなかった私たちの関係は、もうすぐ変わるかもしれない。不安は山積しているが、病める時も健やかな時も、共に歩んでいきたいと思える存在は、一也だけだ。これまでも、きっとこれからもずっと。

あの頃よりもっと広くなった背中に腕を回して、目を閉じた。すぐに眠気がやってくる。
大きく深呼吸をすると、お気に入りの柔軟剤の香りの向こうに、汗と制汗剤と、グラウンドの懐かしい匂いがしたような気がした。






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