甘微熱
ふと、目を開けると一面に真っ白が広がる空間に立っていた。辺りには何も無い。手を伸ばしてみるが何かに触れること無く指先は宙を切るだけ。ここはどこなんだろう、なんでこんな所に立ってるんだろう。思考を巡らせようとしても頭の奥が霞みがかかって上手く働かない。
何となく1歩踏み出してみると足の裏に感じるふわっとした感触。まるで雲の上に居るようだなと思った。不安定な中歩き出してみるが一向に壁に辿り着けない。
誰もいない、音すら聞こえないその空間にだんだん言い様のない不安に襲われ、いつの間にか走り出していた。
こんな所早く出なきゃ、出口はどこ?今どっちから来たっけ?なんか心臓もバクバクしてる。それでも走らなきゃ、あれ、今走ってるのってわたしなの?
思考がぐるぐると頭の中でかき混ざり気持ち悪い。それでも足を止めたらダメだと自分に言い聞かせていると何かに躓き前のめりに倒れ込んだ。
足元を見るとさっきまで真っ白しかなかった空間に突如現れた黒い靄。それはわたしの片足に纏わりつき足首から脹脛へと闇を広げていく。じわり、じわりと身体を蝕むそれは振り払おうとしてもふよふよと形を変えるだけ。
怖い、誰か助けて。
そう叫びたいのに喉からは声が出ず変わりに涙が溢れてくる。
怖い、怖い。誰か……――。
押し潰されそうな恐怖にぎゅっと強く目を閉じる。その瞬間、脳裏に浮かんだ人の顔に少しだけ安堵感を覚えた。
「んっ……」
再び目を開けると目の前に広がるのは真っ白な空間。では無く見た事のない天井だった。視界はボヤけていて、ここはどこだろう……と顔を動かすと肌を滑り落ちる雫に自分が泣いていた事に気付く。目元に触れると溜まった涙が指先を濡らしそのままゴシゴシと拭き取る。
「……あの夢、久々に見たなぁ」
真っ白な空間に1人佇んでいると何処からか現れた黒い靄が襲ってくる夢。それは子供の頃、風邪を引いた時によく見ていたものだった。最近は見なかったのにな、とぼーっとした頭で天井を眺める。
起き上がりたいけど鉛のように重い身体がそれを拒み、どうしようかと考えていると遠くの方で扉の開閉音が聞こえびくっと肩が跳ねる。
誰かいる……?
近付いてくる足音は恐怖心を煽り無意識にシーツを強く掴む。……これはまだ夢の続きなのだろうか?
知らない部屋に1人取り残され逃げ出すことも出来ない状況にまた目頭が熱くなってくる。
誰か、助けて。誰か、……。
「たすけ、て……」
心の中である人の名前を呟くと同時に部屋の扉が開いた。
「やぁ、起きてたんだ。大丈夫かい?」
「……スグルさん?」
扉から顔を出した人を見て目を丸めた。白いワイシャツに黒のスラックス、見慣れたスタイルのスグルさんがコンビニ袋を片手に眉を下げて微笑んでいた。
彼は袋をサイドテーブルに置きベッドの縁に腰掛け手の平をわたしの額に当てる。ひんやりとした手の平が気持ちよくて目を細める。
「……うん、やっぱり熱いね。ゼリーとか買ってきたんだが何か食べられるかい?」
「あ、の……えっと、なんでスグルさんが……」
「なんでって今日会う約束してただろう?会って早々なんかいつもと違うなって思ったら倒れるから心配したよ」
その言葉に頭の中が少しずつクリアになっていく。
そうだ、今日は金曜日でいつもの様に待ち合わせをしていた。少し体調が悪かったが彼に会いたい気持ちの方が強く何とかなるだろうと過信したのが間違いだった。
時間が経つにつれ段々体調も悪化しもうダメだと思った瞬間、彼の姿を見て安心したのが記憶の最後になってる。
「体調が悪かったならキャンセルしたっていいのに」
「……ごめんなさい。スグルさんに会いたくて」
「そう言ってくれるのは嬉しいが無理はしないでくれ」
まったく、と半分呆れ顔で袋から取りだした冷えピタを貼ってもらう。どうしよう、迷惑かけちゃったな。申し訳なくて顔を隠すようにシーツを引き上げると嗅ぎなれた香りがふわっと漂う。
あぁ、これスグルさんの匂いだ……あれ、そう言えば今日こんなブカブカなスウェット着てたっけ?これもスグルさんの匂いする……と思った瞬間ある事が頭をよぎる。
ホテルとは造りが違う部屋に彼の匂いがするベッド、買った覚えのないスウェット。
「あ、あのスグルさん」
「うん?なんだい?」
「ここって……」
「あぁ、私の家だよ」
やっぱり、と息を飲んだ。
「スグルさんの、お家……ですか?」
「さすがにあのままホテルに連れて行くわけにもいかないだろう?君の家まで送るか迷ったがこっちの方が近かったし服は……汗をかいてたから着替えさせた貰った。勝手に触れてしまってすまないね」
「い、いえ!迷惑かけてすみません……」
「迷惑なんて思ってないよ。今日はもう遅いからこのまま泊まっていくといい」
「とま、!?」
「心配しなくても病人にどうこうしようとは思わないから。……まぁ、ナマエちゃんがそういうの好きなら話は別だがね」
「……っ!スグルさんのえっち!」
枕に手を置き顔を近づけると意地悪な笑みを浮かべて囁く彼の顔を押し返す。その手を取られ痛いなぁと笑ったと思ったら真剣な表情になり胸がドキッとする。
伸びてきた手が頬に当たり無骨な親指が下まぶたを優しく撫でる。涙のあとが残っていたのか皮膚と擦れてカサっと音を立てた。
「……もしかして泣いてた?」
「……ちょっと、怖い夢?見て。子供の頃、風邪ひいた時とかによく見てた夢なんですけど。大人になっても泣いちゃうなんてみっともないですよね」
「そんな事ない、怖かったね。……もう大丈夫」
スグルさんは優しく笑うとぎゅっと抱きしめてくれた。その温もりと優しさにまた涙がこみあげてくる。
恋人でもないのに何でこんなに優しいんだろう、今日だって適当に家まで送ってそのままにしたって誰も文句は言わない。わざわざ自分の家に連れ帰って甲斐甲斐しくお世話して抱きしめてくれて。
そんな事をされたら自分だけ特別なんじゃないかと勘違いしてしまいそうになる。
でも、きっとこの人は誰にでも優しい人だから。食事に行った時の店員さんへの態度とか、声を掛けてきた女の人の扱い方とかもちゃんとしてた。仕事も出来て部下からも慕われているんだろうなぁと想像がつく。
「何か食べて薬を飲んで今日はゆっくり休むといい。ゼリーとアイス、どっちがいい?」
「……じゃあ、アイスで」
「わかった、ちょっと待ってて」
ふわりと頭を撫でると部屋を出ていった。扉を眺めながら大きなため息を吐き出す。
会う度に風船のように膨らむ気持ちはいつか破裂して溢れ出てしまわないかとハラハラする。最初に言ってたじゃないか、特定の
「痛い、なぁ……」
勝手に想像して勝手にズキリ、と痛む胸をぎゅっと押さえる。熱があると碌でもない事を考えてしまうのは大人になった今も変わっていない。
「お待たせ。起き上がれるかい?」
だから今日は熱のせいにして彼の優しさに甘えてしまおう。……これも全て熱があるせいだから。
「スグルさん……」
ちょっぴり高級なバニラアイス片手に戻ってきたスグルさんに両腕を伸ばす。少し震えた声で「抱っこ」と呟くとゆるりと口角をあげ抱きしめてくれた。
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