最後にセックスをしたのはいつだっただろうか。勤務中、しかも白昼堂々私は自分の頭の中で下品な記憶を探っていた。
昨日戦場からやってきた敵国の兵士のカルテを整理しながらぼんやりと思い出す。最後は、たしか3年前。別れた彼氏と別れ話をした当日にしたのが最後だった気がする。
あの時、彼がどうしても最後にしたいというからそれに応じた。彼は名残惜しそうに私を抱きしめながら何度もゆっくりと出し入れを繰り返していたが、私は淡々としていた。
別れる男とするのだから当たり前だ。とくに気持ち良くもなかった、と思う。そもそも私は彼とするセックスが好きではなかった。彼はじっくりとじわじわと体を隅から隅まで舐める。
耳の裏から足の指の間まで、とにかく入念に。その後ようやく胸を揉み始め下に触れと、のろいにもほどがある。じれったくされるのは嫌いではないが、彼のは何か違う。
嫌な焦らし方だった。時間の無駄だと思えるほどに。

別に欲求不満だとか、愛情に飢えているだとかそういうわけじゃない。ただ、なんとなく気になった。自分が"女"だったのはいつまでだっただろうか、と。
女として見られ、女として扱われ、女として正しく生きていたのは果たして何年前の話だっただろうか。なんだか遠い昔の夢だったようなな気がする。それくらい今の自分は
女から遠のいてしまっていた。

カルテを棚に戻すと、私は自分のお腹に手を当てて優しくさすった。そこは空っぽなのに。
先日、同僚の看護師が子供を授かり結婚した。わたしと同じ25歳の彼女には幼馴染の婚約者がいて、妊娠をしなかったとしても今年か来年には結婚して仕事を辞めるつもりだと
話していた。25歳には見えないあどけない顔をしていたがやることはしっかりやっていたらしい。本当に人は見かけによらない。

結婚式の日。華やかで洗礼された真っ白いドレスをまとった彼女を見て、うらやましいという気持ちが湧き上がってきてしまった。結婚してお腹には子供もいて、
彼女は女としての幸せをすべて手に入れた。そしてこれから子供を産み、その子を育て、いずれその子は大きくなり結婚して子をもうけるだろう。生物としての本能。
子孫を残す。彼女はこれからその使命をまっとうするのだ。それに比べて自分は……なんて、比べてもしょうがないと分かっていても羨ましさと同時に劣等感を感じてしまった。
彼氏と別れた直後までは「いい人見つけて結婚して今度こそ幸せになってやる」と意気込み、躍起になって新しい彼氏を探したが、うまくいくわけもなく。
1年後にはもういいかと、火が消えたように諦めがついた。焦って見つけなくてもそのうちいい人に出会えるだろうと。あれから2年が経過したが、同僚の結婚と妊娠によって
諦めていた"結婚・出産"への願望がじわじわと染み出してきてしまった。しかしそれは過去に抱いた幸せになりたい願望だけではなく、劣等感という厄介なものまで
引きつれてきてしまったようだ。あの頃は純粋に幸せになりたいと願っていたが、今は違う。不純物が混ざってしまった。心が黒く染まっていく。

「エマ、あなたの担当の部屋の人、外の空気を吸いに行きたいから松葉杖を貸してくれって」

背後からいきなり声をかけられて肩がびくっと震える。ありえないことだけど頭の中を見透かされているのではと焦ってしまった。
振り返ると同僚のジーナがいた。彼女は眼鏡をかけていて、透明なレンズの奥の瞳が「こいつ今仕事サボってたな?」と言いたげにギラつく。
仕事に関しては厳しいことで有名なジーナはいつも目を光らせている。

「わ、わかった。どの人?」
「窓際の一番奥の……確か……クルーガーさん?だった気がする。間違ってたらごめん」
「あぁ、たぶん合ってるから大丈夫だよ。行ってくるね」

じろりと睨みを利かせる彼女の横を通り過ぎて私は急いで松葉杖を持ってクルーガーさんの病室へと向かった。
クルーガーさん……さっきちょうどカルテで見ていた人だ。彼は確か――心的外傷を負った……

「エルディア、人……」

悪魔の名を、私は口ずさんだ。


「クルーガーさん。こんにちは」

窓際のベッドに座っていた彼に背後から声をかける。クルーガーさんはこちらを見ずに
「午後は雨は降らないのか」と訊いてきた。
窓の向こう側には真っ青な晴天が広がっている。雨は降りそうにない。

「こんなに晴れているのに雨なんて降るはずないじゃないですか。松葉杖、持ってきましたよ」

「さぁ、行きましょう」私が肩に触れようとするとクルーガーさんはそっと振り返った。彼の肩まで伸びた髪がさらりと私の手に触れる。
長い前髪の隙間から金色の光が見えた。キラキラと輝く金色ではない。憂いを帯びた鈍い光を放つ金色だ。
微かに見えた何かを睨みつけるような双眸。顔に熱が集中したのが分かった。私は思わず顔を伏せ、松葉杖を突き出し
「ど、どうぞ」と不自然に上擦った声をあげた。

「あぁ、ありがとう」

彼は私の手から松葉杖を受け取ると杖を使いゆっくりと立ち上がり、すれ違い際に「外のベンチに座っている」と言い残して部屋を出ていった。
病室に残された私はぼんやりとしていた。彼はいなくなった。でも、まだ顔が熱い。こんなの、久しぶりだ……。
昨日挨拶に来た時は髪の毛の所為で顔がほとんど見えなかったけど、まさかあんなに整った顔をしていたとは――。
しかもあの目。どこか鬱々としていたが、奥には強い意志を秘めた恐ろしいほどきれいな目だった。あんな目で誰かに見られたことなどない。
胸の奥がざわざわする。と、同時に体の奥が熱を持って疼いた。

「早く戻らないとジーナに怒られちゃう」

まさか、という予感をかき消すように独り言をつぶやくと、私はクルーガーさんの病室を出た。病室を出て病院特有の消毒や薬品の香りを嗅ぎ、さっきまで自分は
彼の匂いに包まれていたんだと気付き、また顔が火照り私の奥は疼いた。どうしようもないほどに本能は彼を求めていた。(←あとで消してもいい)
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