Beyond the proposal
三層のスポンジ生地の間には真っ赤な苺が挟まれていた。その断面から覗く苺は中心部まで赤く染まり見た目からしても瑞々しさが感じられる。さらに上部にも溢れんばかりの苺が乗せられており生クリームの白が見えない程だった。
「こちらジャイプールのアッサムティーになります」
「ありがとうございます」
赤と白のコントラストが美しいケーキが乗せられた皿は苺ソースとミントで装飾がなされている。これって最終的に食べるかどうか迷うんだよね……という現実的なことは置いておき、旬の苺をふんだんに使ったケーキはそれ自体がアート作品のように完成されていた。
「名前ちゃん久しぶり!遅くなってごめんな」
「玲王くん…!」
紅茶の用意が整ったところで待ち人来たり。このタイミングで来てくれて助かった。なんせ指定された場所に着くや否やそれはそれは丁重なおもてなしをされひどく緊張していたのだから。そんな私の様子が見て取れたのかイスを引かれて向かい側に座った玲王くんは安心させるように微笑んだ。
「もっと楽にしていーよ。凪と付き合ってんならこの手の待遇にももう慣れたっしょ」
「そんなことないよ。それに呼び出したのは私の方なのにこんないいところに連れてきてもらったら緊張するって」
「つっても俺ンとこの店だしな。他に誰もいないし畏まらなくていいよ」
自分の飲み物も用意させれば玲王くんは壁際に控えていた人を個室から下がらせた。そして私にケーキを食べるように勧める。正直、ものすごく食べたかったのでその言葉に感謝にしてフォークをスポンジ生地に差し込んだ。
「美味しい!ケーキの苺って酸っぱいイメージがあったけどこれは甘くて食べやすいね」
「だろ?『苺を味わう』をテーマに今年出した新作なんだ。ターゲット層の女の子からその言葉もらえると嬉しいわ」
玲王くんの本職はもちろんサッカー選手ではあるがご実家の仕事も手伝ったりしているらしい。このケーキも玲王くんのマーケティングにより開発が進められたとのこと。海外チームで現在進行形で活躍しているというのに副業までしているなんて。ここまでくると逆に玲王くんにできないことが何なのか気になってくる。
「ほんと美味しい。無限に食べられそう……あっじゃなくて、今日は忙しいのに時間作ってくれてありがとう」
いけない。ついつい美味しくてフォークが止まらなくなっていた。玲王くんに連絡したのはこのケーキを食べるためではない。
「いいよ、日本にいる間は時間に余裕もあるしさ。で、相談事って?」
玲王くんは自分のカップを持ち上げて優雅にアッサムティーをひと口飲む。彼のことだからその相談事≠ノも見当がついているだろうに私から話し出すのを持ってくれている。その優しさに感謝してフォークを一度手から離して本題を切り出した。
「実は誠士郎にプロポーズされたんだけどね、渡された指輪が高そうで…その、断っちゃった……」
「あー……」
私の言葉に玲王くんは苦笑する。誠士郎に助言をしていたくらいだからきっと彼も指輪選びの時にはいたのだろう。だからこそ私に贈られた指輪がどんなものなのかも分かったらしい。
「デカいダイヤが付いたやつ?」
「そう、それ!」
「やっぱり凪の奴あれにしたのかぁ」
「玲王くんも一緒に行ったんじゃないの?」
「付き添いで一緒には行ったケド用事があったから最後まではいなかったんだよ。だから凪がどれを買ったかまでは知らなかった。でもそうか、いきなりあれ渡されたらびっくりするよな」
「そうなんだよ!」
共感してくれたことが嬉しくて、それを皮切りにとめどなく言葉が出てくる。指輪に衝撃を受け過ぎてプロポーズの言葉が頭に入ってこなかったこと。感動や喜びを通り越して恐ろしく感じたこと。しかしそれと同時に誠士郎が用意してくれたものを台無しにしてしまった申し訳なさもあること——等々、まとまりのない言葉で一気に吐き出した。
「だよな。高校からの付き合いっつっても俺らはほとんど海外にいるし交際期間に対して一緒にいられてる時間は少ないもんな」
「そう!」
「それに名前ちゃんは今年から社会人だろ。新しい環境になるって時にどうしたって他のコトに気ぃ使ってられないだろうしその反応は普通だよ」
「玲王くん…!」
私は今カウンセラーと話をしてるのかってぐらい、欲しい言葉を全部くれる。そんな玲王くんに甘えた私は、誠士郎怒ってるかな……とこれまためんどくさい質問をしてしまった。
実はプロポーズを受けたその日、私は一度保留にしてほしいとお願いしていた。そうすると誠士郎は黙って指輪を仕舞い、それ以上詰め寄っては来なかったのだ。しかしその後ギクシャクはしている。
「凪が怒るのなんざ精々フィールド上だけだ。それもかなり稀だけど」
「そっか」
「そんで、それぐらいのコトで名前ちゃんのコトを嫌いになんてなんねぇから安心しな」
「うん」
言わせたみたいになってしまったが玲王くんからその言葉をもらい、胸につかえていたもやもやが少し晴れたような気がした。
一気に喋ったため喉の渇きを覚える。少し冷めて飲みやすくなった紅茶に口を付け一息つけば、玲王くんがテーブルの下で足を組み直しこちらを見た。
「ただ、凪の奴は本気だぜ?今すぐ答えを出すのは難しいと思うケドこのままなぁなぁで日本を発たせるのだけはやめてほしい」
「それは、分かってる……でも、なんで急に結婚なんて考えたのかな」
正直、誠士郎に結婚願望があるとは思えなかった。確か指輪を渡されたときに「傍にいて欲しい」と言われた気もしたがそこまで急ぐ理由も分からない。
「それは本人の口から聞いてやって。ただ、俺から先に言っときたいのは凪は勢いだけでプロポーズしたワケじゃないってコト。アイツもアイツなりに色々考えてんだよ」
だよね。誠士郎は無鉄砲に行動するタイプじゃない。この前は私に余裕がなさ過ぎてあしらうような形になっちゃったけどもう一度誠士郎の口からちゃんと聞こう。それで私の気持ちも伝える。
「うん、ありがとう玲王くん。誠士郎と話し合ってみる」
「それがいい。あ、ちなみにウチのグループ企業にブライダル関連の会社もあるから必要なら声かけてくれよな」
気が早いというか営業トークが身についているというか。しかしその言葉にようやく笑うことができる。そして安堵すればお腹が減るというわけで。私は美味しいケーキを頂くために再びフォークを手に取った。
◇ ◇ ◇
テーブルに突っ伏したその襟首に手を掛けて力任せに起き上がらせた。
「うぇっ」
「おい凪!いい加減、飯食えって!」
「いらなーい……」
お決まりの「めんどくさい」という前置詞を付けずに発せられた言葉には疲労が窺える。それもそのはず、凪にしては珍しく朝から晩までトレーニングをみっちりとやり込んだからだ。しかもオフシーズンで日本に帰ってきているこの時期に。
「朝も昼も菓子パンしか食ってなかったろ!食べることもトレーニングだっつーの!」
「じゃあそこのパンだけ食べる」
「肉を食え!肉を!つーかさっきまで肉食いたいっつってたろ!」
そして御影コーポレーションが経営するジムで生きる屍と化した凪を回収し自社のホテルに持ち帰って今に至る。玲王は午前だけ顔を出して午後は別の仕事に行っていた為、凪がどんなトレーニングをしていたかは知らない。ただジムのスタッフから話を聞くに、通常の倍以上の負荷をかけて筋トレを行っていたとのこと。
「もう食べたくなくなったー部屋戻る」
このホテルの最上階には凪の部屋が抑えてある。神奈川が実家の凪ではあるがオフシーズンといえども多少なりとも仕事が入っている。そうなると東京で過ごした方が楽だと考え玲王がこの部屋を提供したのだ。しかしそれだけではない。凪自身にも東京にいたいと思う明確な理由がある。
「戻ったってどうせ名前ちゃんのコト考えていじけるだけだろ」
それを言い当てられ、そして傷口に塩を擦り込まれた凪は首だけを動かして玲王を見上げた。その様子に玲王は掴んでいた襟首をパッと離す。凪は先ほどのようにテーブルに倒れることなくイスの背もたれに体を預けた。
「なんで分かったの?」
「お前のコトならなんでも分かるっての」
「レオこわぁ」
鎌掛け半分での話題であったが玲王の予想は的中していた。
もう逃げることはないだろうと判断し玲王も再び席に着く。
「この前の指輪、マジであげたの?」
「うん。そしたら拒否られた……いや、保留?」
凪の話を聞きながら玲王は一人頷く。そもそも自分もそう思ったから助言はしていたのだ。しかし目の前の男はそれを無視しゼロ七個はつくバカ高い婚約指輪を買い渡したのだ。相手がこれで喜ぶ女なら御の字だが彼女に限ってそうではない。また付け加えるならばその手の女は金目当てだからやめておいた方がいい。
「せめて指輪はもう少し手ごろなやつにしとけよ。二十代前半の女の子が好きそうなブランドピックアップしといてやるからさ」
そしたら自然と指輪も十万から高くても五十万くらいには収まるだろう。そんな玲王の提案を片耳で聞きつつ、凪は目の前の白い丸パンに手を伸ばしながら首を緩く振った。そしてひと口大にちぎったパンを口に詰め込みもそもそと口を動かす。
「値段とかブランドじゃなくて、俺がダイヤを送りたかったからあの指輪にしたの。指輪なら何でもいいってワケじゃない」
そういえば指輪選びに着いて行った時も凪は店員の話に熱心に耳を傾けていた。ダイヤモンドはその圧倒的な透明感と硬度から純潔≠竍不屈≠ニいう意味を持つ。また『ダイヤモンドは永遠の輝き』と表されるほど変わることのない美しさがあった。
「なるほどね。つっても凪がそこまで『形』にこだわる奴だとは思わなかったわ」
そもそもプロポーズしたいと言い出した時も驚いたのだ。凪に結婚願望があるとも思えなかったし、プロのスポーツ選手としても肉体が全盛期の今、サッカー以外のことに神経を費やすとは思えなかった。
「だって取られたくないから」
掌ほどの丸パンをようやく食べ終わり凪は手に着いたパンくずを皿の上に叩き落とした。そしてイスに深々と座りその上で両膝を立てる。そのまま膝を抱え込むように丸くなって組んだ腕の上に顎を置いた。その様子はどことなく捨てられた猫を彷彿とさせた。
「名前、大学に行って綺麗になったんだよね。元々可愛かったケドなんか周りの空気がキラキラしてる感じ。社会人になったら今までよりも交友関係広くなりそうだし目に見えて牽制できる物があったほうがいいでしょ」
人に取られたくないということはずっと一緒にいたいということ。そしたら自然と結婚を考えるようになって。その分かりやすい証が指輪だったのだ。
玲王は凪の話を一通り聞き、指輪にこだわる理由がようやく腑に落ちたような気がした。このめんどくさがりがここまで動いたともなるとその気持ちも本物なのだろう。ただそれと同時に彼女の葛藤にも気付けてしまった。
「お前の言いたいコトは分かったよ、凪。ただこれから社会に出て一人前になろうとしてる相手にそれは少し生き急ぎ過ぎてんじゃねぇか?」
結婚というものは人生の中でもビックイベントのひとつに上げられる。女性からしてみればその事の大きさは男の自分らよりも意識せざるおえないターニングポイントだとも思う。だからこそ大学卒業したての彼女に『結婚』というパワーワードをぶつけるのは如何なものかと感じたのだ。
「……どうゆう意味?」
凪の大きな瞳が玲王を見上げる。
玲王は脳内で言葉を選びつつ口を開いた。
「凪が名前ちゃんを他の男に取られたくないってのは分かる。でも、そもそも名前ちゃんが浮気すると思ってるわけ?」
「思ってない。……でも他に好きな人ができるかもだし」
「だから結婚って……もうちょい名前ちゃんの気持ちも汲み取ってやれよ」
「俺がそうゆうのできないの、レオも知ってるでしょ」
青い監獄≠ナ多少なりとも人付き合いが出来るようになり、そして今や玲王以外にも『友人』と呼べる相手ができた凪ではあるが未だにコミュニケーション能力は乏しい。空気は読めても何と声を掛けていいのか分からないのだ。
「ンな難しく考えなくていーんだよ!素直に、これからについてどう考えてるかって聞きゃいいんだよ!」
しかし凪は良くも悪くも裏表がないのだ。そして変に取り作ろうともしない。だからこそ直球で聞いたとて嫌味にならないし圧力にもならない。
「名前がこれからのコトをどう考えてるか……」
背もたれに頭のてっぺんをくっつけるような形で顔を上げた。視線の先では天井から吊るされたガラスの照明が部屋を照らしている。光の屈折によりときより虹色にも見えるそれは先日買った指輪を思い出させた。しかしその輝きは到底及ばない。
「そうそう!二人のコトなんだからさ、一回ちゃんと話し合えって!」
「そうだね。ありがとレオ」
「おし!じゃあ肉食え肉!ヒョロい体じゃ名前ちゃんにも愛想尽かされちまうぞ、ほら口開けろ!」
「あー」
フォークにミディアムレアのステーキ肉を刺して突き出せば凪がようやく重い口を開けた。肉は冷めてはいたものの筋が残っているわけでもなく数回の咀嚼でほぐれては喉の奥へと流れていく。そして凪は与えられるがまま食事を続け、部屋に戻ったら寝落ちする前に彼女に連絡しようと決めたのだった。
◇ ◇ ◇
玲王くんとのお茶会により幾分か晴れやかな気持ちになって帰宅する。スプリングコートを脱いで干してあった洗濯物を取り込んで。それから部屋を片付けて夕飯の準備に取りかかった。
今夜、誠士郎が初めてうちに泊まりにくる。そして会うのは先日のプロポーズ以来だ。とりあえず夕飯を食べて落ち着いた頃に話し合おう。そう考えながらスープ用の野菜を切っていたところでスマホが通知を告げた。
『もうすぐ着く』
画面右端を確認すれば約束の時間になろうとしていた。そのメッセージにスタンプを送り、切り終えた野菜を鍋の中へと投入する。それから予め形成しておいたハンバーグの種を冷蔵庫から取り出し、フライパンに油を敷いて四つのハンバーグを等間隔に並べて蓋をした。
そしてその数分後、来客を知らせるインターホンが鳴った。
「いらっしゃい。迷わなかった?」
「うん、フツーに来れた」
扉を開ければそこには深々とキャップを被り黒のマスクをした誠士郎の姿があった。すっかり有名人になった彼のお決まりのファッションである。初めこそ変装をめんどくさがっていたがファンやパパラッチに声を掛けられる方がめんどくさいと思ったらしく最近では徹底している。
「よかった」
ふはっとマスクを顎へとずらし改めて表れた誠士郎の顔を見てほっとする。私の言葉には誠士郎と今まで通りに話せていることも含まれていた。
「なんかいい匂いがする」
「ちょうどハンバーグを焼いてるんだ。どうぞ、中に入って」
「おじゃまします」
そこまで広くない1DKの部屋へと案内しジャケットを預かり適当にくつろいでもらうよう促す。
その内に再びフライパンの前へと戻りハンバーグの様子を確認。もう少しかかりそう。だからその間にサラダ作りと副菜を盛り付けることにした。
「美味しそう」
冷蔵庫と食器棚を行き来しながら用意していれば誠士郎がこちらに顔を出す。ゆっくりしてていいよ?と声を掛けたが首を横に振って物珍しそうに料理風景を見ていた。そしてチラリと私の顔を覗き込む。
「じゃあ手伝ってもらってもいい?」
「うん。でも難しいコトはできないよ」
「簡単だから大丈夫!」
ボウル皿を二枚並べ、手を洗ってもらった誠士郎にレタスを丸ごと渡す。それを適当に千切ってもらい、その間にトマトを切りそしてドレッシングも作った。
「ドレッシングって作れるんだね」
「うん。一人暮らしだと一本買っても使いきれなさそうだから作ってるんだ。それにこの方が塩分や脂質の管理もできるから健康にもいいんだよ」
「ほえー」
最近は料理の勉強もしたりしているので一丁前に知識自慢をしてしまう。
そうこうしている内にハンバーグが焼き上がる。これもお馴染み豆腐でかさましした豆腐ハンバーグである。本当にこんなものでいいのかとも思ったが誠士郎たっての希望だったので今夜のメインは豆腐ハンバーグだ。
「これで完成です!」
「わー美味しそう」
サラダとスープと作り置きの副菜と、それと箸休めの漬物をローテーブルに並べる。そこに主役のハンバーグと白米までも置けばローテーブルはいっぱいになった。一人暮らしをし初めてからはほぼ一品料理で手を抜いていたので一汁三菜が揃っている夕食に自分でも感動してしまった。
「「いただきます」」
手を合わせてお箸を取り、そして誠士郎の様子を窺う。ハンバーグに箸をつけひと口大にし、それを口に運ぶ姿を固唾を飲んで見守った。
「どうかな…?」
「うん。フツー」
そこはお世辞でも美味しいって言うところじゃないのかなぁ。そんなことを思っては怒るでもなく笑ってしまう。だってその感想はとても誠士郎らしいから。有名になってお金をたくさん稼ぐようになってもそうゆうところは変わっていなかった。
「とりあえず不味くなくてよかったよ」
舌が肥えて「え、なにこれ…」と言われることも覚悟していたので及第点をもらえただけよしとしよう。それにこれは誠士郎の通常運転なので今さら気にすることでもない。
「あ、違う」
自分も食事に手をつけようとしたところで誠士郎が慌てたように口を開いた。それは話し方こそいつも通りだったけれど足をテーブルにぶつけたのかガチャンと食器たちが揺れるほどだった。それに対して誠士郎は「ごめん」と謝ってから「えっと……」と目を伏せて言葉を続けた。
「名前の料理は美味しいよ。変わってなくて安心したっていうか……いつも食事なんて必要だから取るだけであんま味とか気にしたコトなかったから言葉が見つからなくて…ごめん」
最後はチラリとこちらに視線を向けた。
今日の誠士郎はちょっと変だ。この前のことがあったからだろうか。私の様子を逐一窺っているような気がする。確かに私だって気にしていないわけじゃないけど誠士郎が普通に家に来たから普通にしようって思ってたのに、どうやら私の想像以上に誠士郎の方が気にしていたようだ。
「大丈夫、言いたいことは分かってるよ。ありがとう」
「うん……」
その言葉を最後に会話が途切れ、点けっぱなしのテレビの音がやけに耳に付いた。流れているのはなんてことのないバラエティ番組。そこからは時折、歓声やら笑い声が聞こえこの場とは正反対に賑やかしかった。
「あのさ、」
そしてCMに切り替わったところで私はお箸を置いて体の向きを変えた。本当は食事が終わってからって考えてたけど一刻も早く話し合った方がいいかもしれないと思ったのだ。
彼の名前を呼べば食事の手を止めてこちらを見てくれた。
「誠士郎、この前プロポーズしてくれてありがとう。それでその時ちゃんとした返事ができなくてごめんなさい」
小さく頭を下げれば誠士郎も察したらしい。私と同じようにお箸を置いて向き合ってくれた。そして首を緩く横に振る。
「ううん。俺こそ急すぎた、ごめん」
「そうだね……でも私は嬉しかったよ。誠士郎が私との未来を考えてくれてるんだって分かったから」
あの時はパニックになっちゃったけど帰って来てからはじわじわと喜びが滲み出てきたのだ。誠士郎と付き合えた時とはまた違った高揚感。いつかは、と夢見ていた結婚というものが現実として考えられるようになった。好きな人と永遠の愛を誓えることはやはり嬉しかった。
「ただ、今は自分のことでいっぱいいっぱいなんだ。誠士郎のことは好きだしこれからも一緒にいたいって思うけど、そこまでの覚悟ってゆうか……勇気がまだ私にはない。だから結婚まではすぐには考えられない。ごめん……」
誠士郎は表情を変えずに私のことをじっと見ていた。怒られたわけでも泣かれたわけでもないのに何故だか罪悪感が胸をついて、最後の方は弱々しい声になってしまった。
しばしの沈黙。
心臓がキリキリと痛む。テレビはまだ点いているけれど音なんてほとんど聞こえていなかった。
「俺の方こそごめん」
身をぎゅっと強張らせていれば静かな声がその場に落ちた。
違う、誠士郎に謝らせたいわけじゃなかったのに。そう声を上げそうになった私を誠士郎は制した。「最後まで聞いて」と言われたから、一度座り直して耳を傾けた。
「俺、焦ってたんだ。少し会わないうちに名前はどんどん綺麗になって、俺の知らないところで俺の知らない人たちと出会って。いつかどっかに行っちゃうのかなって思ったら怖くなった」
今までも同じようなことを言われたことはあった。綺麗になったね、とかその集まりに男も来るの?とか。その断片的に言われてきた言葉の数々を誠士郎はひとつひとつ丁寧に繋げて、誰にともなく言い聞かせるように静かに言葉を紡いだ。
「束縛とかしたいわけじゃないケド、名前には俺がいるんだって周りに示したかったんだ。これはただの俺のエゴ。それに名前を付き合わせて、ごめん」
私って愛されてるんだなぁって、この状況でそう思ってしまった私は調子の良い女だろうか。数秒前まで抱いていた感情とは真逆すぎて掌返しもいいところ。
「ねぇ、この前の指輪まだ持ってる?」
「? うん、今もリュックの中にあるケド……」
「もう一度見せてもらってもいい?」
誠士郎のエゴでプロポーズをしたというならば私も私のエゴを貫き通してもいいだろうか。自分勝手だって言われちゃうかな。でもさっきの誠士郎の言葉を聞いて、私が誠士郎に嫌われることなんてないって自信持っちゃったからもう止めらんないや。
「どうぞ」
真っ白な小箱を両手で受け取り開いてみれば、二度目ましてのダイヤの指輪が鎮座していた。照明の光を受け、傾ける度にその表情は面白いくらいに変わる。この地から見える星のきらめきを全て集めたとてこの輝きには及ばないだろう。それほどまでに私が今まで見たどんなものよりも眩しく、美しかった。
「やっぱりこの指輪貰ってもいいかな?」
だからこそ憧れた。平凡な私には一生を経てしてもこの指輪が似合う女性にはなれないのかもしれない。でも諦めたらそれこそそんな日は一生来ない。
「無理してない?」
私は首を横に振ってにこりと笑う。
だってこれは誠士郎に気を使って受取るんじゃない。私のエゴ≠ナ欲しいものだから。
「してないよ。私はこの指輪が似合う人になりたい。そしたら誠士郎の隣に立っても恥ずかしくない人間になれる気がするんだ。だから私の目標としてこの指輪を付けたい」
結婚する覚悟も勇気も今の私にはない。それがどうやったらつくのかも正直手探りではあるけれど、ある日この指輪を付けた自分を鏡越しに見た時に『やっぱりこれがなくっちゃね』と思えるほど体の一部になっていたらそれがその時なのだと思う。
「名前は相変わらず真面目だね」
「真面目なんかじゃないよ。これが私のエゴ」
そうきっぱりと言い切ると誠士郎は笑った。
声も出さずに柔らかな笑みを浮かべたのだ。
「俺は今のままでも充分名前は素敵だと思うし、寧ろ俺の方が隣にいて恥ずかしいと思う。でも、名前がそれで納得するなら待つよ」
だけど浮気はしないでね、と小声で付け加える。その言葉を聞いて私も笑う。
「神に誓って絶対にしないよ。私が好きなのは昔も今も誠士郎なんだから」
「じゃあ俺に指輪をつけさせてくれる?」
プロポーズの時とは打って変わり誠士郎は胡坐をかいたゆるい姿勢。私もラグの上でお尻をぺったりと付けていた。緩み切ったこの空気の中、生まれて初めて左手の薬指にリングを通す。でもこれが私の身の丈に合っていて、そして私たちらしくもあった。
「綺麗……」
「名前の方が綺麗だよ」
「もうそうゆうことは言わなくていいから」
「もしかしてお世辞で言ってると思われてる?」
「そうじゃなくてこれ以上幸せな気持ちにさせないで。にやけが止まらなくなっちゃうから」
「えっなにそれ可愛いんですけど」
幸福度が降り切れればあとは破顔するだけである。
堪らず顔を両手で覆った私を、誠士郎は全身を使って抱きしめた。腕だけでもなくその長い脚まで使って、私は木の幹か?ってぐらいぎゅっと抱き着いてきた。もはや誠士郎はコアラだった。でも注意すべき点はこのコアラは草食性ではなく肉食だってこと。
「ご飯より先に名前を食べちゃいたい」
「ダメ。誠士郎のために作ったんだからちゃんと食べて」
「据え膳食わぬは男の恥って言わない?」
そのきらい≠ヘ全くなかったのだと思うのだけど、自分で都合よく解釈し直さないで欲しい。これがエゴイストってやつか。でもこのままだと誠士郎に流されるのは明白。だから私は沸騰しかけた頭で思考して妙案を彼に突きつけた。
「デザートは最後に食べた方が美味しいと思いますよ……?」
自分がとんでもないことを言ってしまったと気付くのに時間は掛からなかった。
だからもう、その後は色々と物凄いことになってしまったわけだけど後悔はしていない。
「名前だいすき」
何故なら全身で誠士郎の気持ちを受け取ることが出来たからである。