《小話》凛side


*こちらはシリーズからは切り離し投稿しています。そのためページ送りなし。



「あの、」

自分の席に座ってスマホを見つめていれば声を掛けられた。顔を上げれば自分と同じように真新しい制服に身を包んだ女子生徒が一人。何の用だと相手の出方を窺っていれば、ソイツの口角が僅かに上がった。

「もしかして糸師冴選手の弟ですか?!」
「あ?」

なんだこのクソウゼェ女は。
——それがアイツの第一印象。





兄貴が今の自分と同じ年齢の頃にはすでにレ・アールの下部組織で活躍していたというのに俺はいまだこの窮屈な日本でレベルの低いサッカーをやっている。早くこの国から出たい。そんで兄貴の…——糸師冴の夢を壊すためにフィールドで試合をしたい。

「糸師くんおはよう」
「………チッ」

だからこそ『糸師冴』の『弟』という名は俺が嫌う呼ばれ方だった。それを高校生活初日の、しかもクラスで初めて会話をした人間に言われた。もはや嫌悪しかない。

「二問目間違ってるよ。聖徳太子じゃなくて蘇我蝦夷」
「うっせぇタコ」

だからこそこちらが分かりやすいくらい関わるなというオーラを出しているというのに、隣の席のクソウゼェ女は俺に話しかけてくる。コイツの頭はどうなってんだ?中学時代にも似たように話しかけてくる奴はいたがテキトーにあしらってたら関わってこなくなったのに。

「ごめん、お待たせ」
「……んだよこれ」

しかし一ヵ月経ってもフツーに話しかけてくる。そして小テストの答え合わせに関しては律儀に解説まで書き込んで渡された。こんなアホそうなのに意外と勉強はできんだな。

「糸師くんもそのアーティスト好きなの?」
「…………まぁ」

あれは中間試験間近のときだったか。アイツも同じアーティストが好きなことを知った。この頃にはアイツと話すこともそれほど面倒には感じなかった。工事現場の騒音も毎日聞くうちに生活に溶け込んでいくような、そんな感覚。

「さっきはありがとな」
「役に立てて良かったよ」
「あの先生おっかないからさ、目付けられたらアウトだったわ」
「だよね。そしたら次の授業で集中的にっ…?!ちょっと糸師くん、椅子蹴らないでよ」

でも次第にアイツに対する気持ちが変わっていった。初めはクソウゼェ奴くらいにしか思っていなかったのに他の奴、特に男と話してンの見るとイラつく。誰とでも分け隔てなく会話ができるアイツは友人と呼べる人間も多かった。

「お前は誰にでもしっぽ振ってんじゃねぇぞ」
「はぁ?」

おそらく俺も、アイツの中では『友人』の一人にすぎないのだろう。でも俺はそうじゃない。アイツのことを『友人』だなんて一度も思ったことはない。じゃあ俺にとってアイツは何なのか。兄貴に向ける感情とは違うが、明らかに特別な感情が自分の中にあることは確かだった。

「糸師くんって私のこと好きだったりする?」

アイツからその言葉を聞いた瞬間、どこか腑に落ちたような気がした。しかしそれと同時に戸惑った。今まで告白されたことは何度かあったが自分が人を好きになったことは一度だってなかった。だからアイツに言い当てられた瞬間、一気に頭に血が上って取り乱した。

「テメーはゼッテェ殺す!」
「来週新曲のリリースがあるから嫌かな」
「ざけんな死ね!!」
「生きるが?」

なんでコイツはこんな冷静なんだよ。クソイラつく。人のことバカにしやがって…いや、待てよ。わざわざ確認してきたってことはコイツも俺のこと好きなんじゃね……?

「ほんとお前、マジでウゼェよ」
「あ、ありがとう……?」

どうやら本当に両想いだったらしい。





世の中のカップルがどういう付き合い方をしているのかは知らないが、アイツとは昼メシを食うこともあったし時間が合えば一緒に帰ったりもした。サッカーができなくなるから雨の日は好きではなかったけれどアイツと帰れるタイミングが重なるから悪くないと思えるようになった。

「だってお兄さんって世界一のミッドフィルダーなんでしょ。それなら糸師くんも世界一にならないと!」

ブルーロックから声を掛けられた時もアイツは当然のように俺の背中を押した。そしてこれは後から知ったことだがアイツは糸師冴のことを全く知らなかったらしい。話題の一つとして兄貴の名前を出して俺に話しかけてきたんだと。だから『糸師凛』というただ一人の人間に向けられたその言葉が嬉しかった。

ブルーロックにいる間もほぼ毎日電話した。騒音程度にしか感じていなかったアイツの声がひどく懐かしくて、聞くと安心できた。そして自分のやるべきことを見失わずにすんだ。俺の目標はブルーロックで一番になることではない。糸師冴を壊すことだと。

そしてついに俺はU-20日本代表 VS. 青い監獄≠フ試合で兄貴とやり合った。

「兄ちゃんが俺に求めていたモンが分かんねぇ」

試合は三対四で青い監獄≠フ勝利に終わる。俺も一点決めたが目標は達成できなかった。

——凛、俺が見誤ってたよ——
——日本にはロクなストライカーなんて生まれないと思ってた——
——日本のサッカーを変えるのは潔世一、あのエゴイストなのかもしれない——

兄ちゃんに言われた言葉がぐるぐると頭の中を回っている。そして兄ちゃんの興味は潔世一になった。俺のコトなんか見ちゃいなかった。

「じゃあここからだね」

地元の海が一望できる場所。ここで昔はよく兄ちゃんと一緒にアイスを食べた。しかし今いるのは兄ちゃんではなくアイツだ。そして俺を見ながら力強く言った。

「だって糸師凛は世界一のストライカーになるんでしょ?」

あれだけ藻掻いて苦しんで、全てを壊すサッカーでも自分の壊したいものを壊すことはできなかった。それでもアイツはまだ俺の背中を押そうとする。決して褒められたものではない俺の全てを肯定してまだストライカーとして生きろという。

「お前だけは俺から離れんじゃねぇぞ」

その言葉に、お前という存在に、俺がどれだけ救われたかなんて絶対にコイツは分かっちゃいない。でもそれでいい。アイスの当たり棒は今まで何本も捨てたけれどコイツだけは絶対に手放したくはなかった。

それからまたアイツの見え方が変わった。表情が妙にキラキラして見える。元よりサッカーに関係ない人間なんざ全員モブとしか思えずに、クラスメイトの名前はおろか顔すらまともに覚えちゃいなかった。特に女子は髪の長さくらいでしか識別できていないため制服を身にまとってしまえばそれこそ量産型のモブだった。

「……凛の出待ちしている人がいたから」

少し拗ねたように言ったアイツが可愛かった。

「ボールは友達!」

体育三のくせにサッカーを教えて欲しいと言ってきたことが嬉しかった。

「愚痴でも決意表明でもなんでも聞くからね」

寄り添ってくれたことに救われた。
だから兄ちゃんとの過去の出来事もコイツになら話してもいいかと思えた。同情してほしいわけじゃないし、ましてや励ましてほしいわけでもない。ただ、ありのままの自分を受け入れて欲しかったのだと思う。自分という存在を、『糸師凛』がサッカーをする理由をコイツにだけは知っててほしかった。

「軽蔑したか?」
「ううん、凛がそうしたいならそうすればいいと思う。あっでもさすがに警察のお世話にはならないでよ?」
「ならねーよ」
「あははっ」

話し終えてもしかしたら嫌われたんじゃないかって少し不安になった。でも俺の話を聞いてもアイツはアイツのままだった。言ったままを受け止めていつもみたいに笑って、俺のことを特別視するわけでもなくこれからも応援するという。

「……待て」

だから永遠に捕まえときたくなった。俺は明日、日本を発つ。ここからは本当にサッカー一筋の人生だ。下手したら数年は日本に帰らない。

「り……、んっ」

ずっと機会は伺っていた。でも会って話をすれば全てが満たされて次でもいいか、なんて思えて。だが別れた後にすぐ後悔しての繰り返しだった。そして今手を伸ばさなければ一年以上は後悔するんじゃないかと思えた。だからこそ手を伸ばしてアイツを引き留め、唇を奪った。

「いってくる」
「いってらっしゃい」

海外に行くことに不安なんかないけれどその言葉一つで全部が上手くいくように思えた。俺は兄貴のように世界を見てストライカーでいることを諦めたりはしない。
世界一のストライカーになって糸師冴をぐちゃぐちゃにするために俺は日本を発った。





三年の月日が流れ俺はP・X・Gのストライカーとして、アイツは大学生としてそれぞれの生活を送っていた。それでもまだ交際は続いている。でも電話で話す頻度が減ったからか、会う回数が少なくなったからかは分からないが微妙に距離を取られている気がするのは気のせいではないはずだ。

「じゃあまたね」
「は?お前はどうやって帰んだよ」
「まだ終電あるから電車で帰る」
「お前も乗ればいいだろ」

日本で行われた国際親善大会後のことだ。一緒に食事に行き、帰りのエレベーター内で耐えきれずに身を寄せたら逃げられた。そして俺だけタクシーに乗せて自分は電車で帰るという。
下心あるのがバレたかとも思ったが、嫌がられる理由だけは分からなかった。付き合って三年も経っている。大人と呼ぶにはまだ早いが、それでもそれが俺たちの関係を進めない言い訳にはならない。

だったらなぜ避けられるのか。可能性としたら他に好きな男でもできたか……いや、アイツに限ってそれはねーだろ。

「おい!なんだよお前!」
「あ゛?テメーこそなんなんだよ」

そう思っていたからこそ目の前の光景に一瞬で頭が沸いた。
アイツのコトをどんなに考えても感情の整理がつかなくて。ホラー映画を見ても気持ちが晴れなかったものだから夜の街へとランニングに出る。その時にアイツが知らない男と一緒にいるのを見た。あり得ないくらい距離が近くて、アイツの肩を抱く男の腕を折ってやろうと本気で思った。

「さっきの奴は誰だ?」

しかしそれは寸でのところで止められて、アイツだけをその場から連れ出した。夜の街を歩き、しばらくして少しは冷静になった頭で問えば、コンパで知り合った奴だという。大学ではこんな合コン染みた飲み会なんてあんのかよ。クソみてぇな集まりだ。

「そうゆうのは仲のいい知り合いとだけやれ、飲み食いだけならそれで十分だろ。お前は初対面の奴とも距離詰めんの早ぇし、そうゆうとこに付け込んでくるクソみてぇな奴もいんだよ。少しは自衛しろタコ」

今までこれほどまでにはっきりと言ったことはなかったと思う。最低限の防衛本能くらいは備わっていると思っていたからだ。でも今のままじゃぬりぃ。大学デビューとでもいうのか、化粧を覚えて毎日私服を着るようになってからコイツは確実にキレイになっていた。美人の基準なんか分かんねぇし、アイドルも若手女優もモデルも相変わらず量産型のモブにしか見えねぇ。だけどコイツのことはずっと見てきたから女性らしく美しくなったと断言できた。

「はくはくはくはく」
「おい、待て。落ち着け、吐くな。落ち着け」

でも中身はまだ大人とは程遠いようで少し安心した。だがここで吐くのはやめて欲しい。
酔いが一気に回ったのか、青ざめた顔になったアイツをベンチに座らせる。酔っぱらいの介抱なんかしたことねぇからどうしたらいいかよく分からねぇ。ただ水分はとらせた方がいいと聞いたことはある。でもさすがに一人置いておくことはできず、様子を見ながら震えている背中を擦る。

「おい、しばらくここで……」
「っ、や…めて」

そろそろ落ち着いたか、と思ったところで手が叩き落とされた。その行為に驚いて、先ほどまで気にならなかった喧騒が耳につく。だがそれと同時にアイツの考えてることも何となく察せれた。きっと今のは自分でも不本意な行動であったのだろう。何年一緒にいると思ってんだ。そんぐらい分かる。

「分かった」

しばらく一人にしといた方がいいか。ならその間に水と二日酔いに聞きそうな薬かドリンクでも買ってこよう。そう思って立ち上がり数歩進んだところで後から俺を呼ぶ声が聞こえた——正確には聞こえたような気がしたから振り返った。

「っとになにやってんだ!大丈夫か?」

そして俺の勘は当たっていた。振り返った先にはベンチの下で倒れ込むアイツがいて、慌てて駆け寄る。そしたら大泣きされた。今までにコイツの泣いているところなんか見たことがなかった。それどころかへこんでいる姿も悲しんでいる姿も見たことがない。

「おねがいだから、いかないで」

それは寧ろ俺のセリフだ。勝手にどっか行っちまいそうなのはお前の方じゃねーか。でも、お前からその言葉は聞けたってことは信じていいんだよな。

それからその場で寝落ちしたコイツを抱き上げてタクシーに乗せ、一人で家に帰すのも不安だったから自分が泊まっているホテルに運んだ。ツインルームだったのが幸いしたが理性を抑えるのには苦労した。さすがに彼女であってもこの状況で襲うのは人としてマズい。

「テメーが見惚れてる赤髪の話だタコ」
「はぁ?!なんでそこで千切選手が出て来るの?!」

だがぶっちゃけ後悔した。
翌朝になればある程度、体調は回復したらしい。そして点けっぱなしにしていたテレビに映った知り合いの男にアイツの視線は向いていた。そういや前に、丸顔で童顔っぽい感じの男がタイプだと言っていた。千切豹馬がその枠にはまるとも限らないが、確実に自分とは違う顔立ちの人間がコイツの趣味だ。

「じゃあ凛は何が言いたいの?」
「お前の中での一番は誰かって話だ」

だが見た目の好みなどどうでもいい。かといって自分の性格がいいとも思ってはいない。でもそういったことも全部ひっくるめて傍にいてくれているのだと思っている。だからこそそれを証明するたった一言がほしかった。

「……そういえば週明けに提出するレポートがあるんだった。急いで帰らないと」

でもアイツは逃げた。だが当然逃がすつもりはない。しかし、タイミング悪く買い出しを頼んだマネージャーが部屋へと戻ってきてしまった。そこからしばらく会話もできなくて。ようやく二人きりで話せるようになったのはアイツをアパートへと送り届けた時だった。
昨夜、捻ったであろう足の手当てをしながら話をした。……でも、もう無理だって思った。

「お前のぬりぃ考えを聞かされる度に心の底から殺したくなる」

気が短い方だということは自分でも分かっている。でも俺なりに時間をかけて向き合ってきたつもりでいた。だけどコイツが俺のことを今も好きでいる確証がいよいよ持てなくなった。そしてこれだけ人の心を搔き乱しておいてはっきり物を言わないのも気に食わねぇ。

この終わり方に未練がないと言ったら嘘になる。だが俺の目標が達成されていない以上、ここで時間を無駄にするわけにはいかないのだ。糸師冴も潔世一も、全員殺さなければ気がすまない。それこそ俺の生きる理由が、サッカーを続けている意味がなくなる。アイツがいなくたって俺は今まで通り一人でやっていける……

「もしかして糸師凛選手ですか?」
「…………は?」
「ファンなので声掛けちゃいました」

こっちが必死になってアイツの存在を忘れようと努力しているなか、アイツは何の前触れもなく俺の前に姿を現した。
日本を発つ日、搭乗までの時間を展望デッキで潰していたところで声を掛けられる。いつもの調子で当たり前の顔をしていた。でもその声は俺が知っているものよりは硬かった。

「これ、コーヒーと使い捨てのホットアイマスク。よかったらどうぞ」
「……いい」

そしてこの時、逃げたのは俺の方だった。これ以上コイツのことを見ていたら気がおかしくなりそうだった。せっかく忘れられそうだったのに、一人でもやっていけると断言できそうだったのに。名残惜しくなって手放したくなくなって。このまま攫って閉じ込めたくなっちまう。

「私がサッカーに興味持てたのって凛のおかげなんだよね。凛に教えてもらわなかったら未だにルールも分からなかっただろうし、ゴールを決めるまでの過程の面白さにも気付けなかった」

だけど人の気も知らねぇコイツはペラペラと勝手に話し出す。しかもその内容は今さらなことばかり。もう遅ぇよ。でもじんわりと胸が熱くなる。

「私が糸師凛の一番のファンだから」
「やめろ!」

そんで俺が欲しかった言葉を最悪のタイミングで投げつけた。いっつも唐突に自分のペースで事を進めやがって。覚悟決めて日本を離れようってときに未練がましいコト言ってくんじゃねぇよ。

「勝手に完結させないでよ——私の一番は凛だよ」

なら自分の言葉に責任取れよ。もうゼッテェ手放さねぇかんな。
腕を掴んで引き寄せて、そのまま喰ってやろうとした。しかし寸でのところで顔の前に手を滑り込まされ唇がぶつかった。テメーマジふざけんな。

「あ?邪魔だ、退けろ」
「まだ私の話が終わっていないんだが?」

しかし揉める前にタイムリミットを告げる電子音が響き渡る。マネージャーからの通話を終えれば目の前にどことなく嬉しそうなアイツの顔があった。

「いってらっしゃい!」

それから初めてアイツの方から抱き着いてきた。いつから決まりごとのようになっていた見送りのときに背中を叩かれる行為が、今日は後ろからのハグだった。日本を離れる前にアイツの顔はもう一度目に焼き付けておきたかったけれど、この時ばかりは正面からではなくて本当に良かったと思った。何故なら俺の顔は情けないくらい真っ赤で、緩んだ顔をしていたからだ。





八月下旬から始まったリーグ・アンの第三節でもP・X・Gは順調に勝利を収めていた。今シーズンの調子は悪くない。寧ろ好調で積極的に試合にも使ってもらえている。これも一重にアイツがフランスに来るからかもしれない。

「だから気を付けろって言ったろ!」
「返す言葉もございません……」

自分でも分かるほどに浮かれてはいたがそれはアイツも同じだったらしい。その隙をつかれて早々にスリにあってスマホをなくしていた。
そこから諸々の手続きをしてアイツに説教もして。それで泊まる場所へはどう行くのか、となった時にやはりスマホなしでは不安に思えた。その時、妙案が浮かぶ。元より少しは観光案内してやるつもりだったけれど、これなら過ごせる時間が増えると思った。

「お前、俺の家泊まれ」

家はほぼ寝泊まり目的でしか使っていないため片付いてはいる。それに洗濯は昨日回したため溜め込んでいるわけでもない。そして寝るところも問題ない。備え付けのベッドは二人用だ。加えて欧州のデザインだから日本のダブルベッドよりも広い。そんでアレ≠焜xッド横のキャビネットにある。いける。

「電話終った。そういや飯どうすっか、また外出るか宅配頼まねぇと何も……マジか」

だが俺の気持ちを余所に家に着いて早々寝やがった。まぁ張りつめていたものもあったのだろう。でも俺の中の熱は当然冷めやらない。これを一人でどうしろと?同じ部屋にいるのにまた手も出せねぇのかよ。しかもヤバいのは今回に至ってはベッドが一つしかないということ。据え膳を前にしておあずけ喰らうのはキツすぎんだろ。
悪いがこの日ばかりはこのままソファで寝てもらうことにしよう。

翌日、クラブでの練習を居残りなしで早々に切り上げ家に帰る。でもアイツの姿がない。攫われた…?なんて物騒な考えが過ったが家の鍵は掛かっていた。まだ警察に連絡するのは早いと考え荷物を置いて家を飛び出す。

「おい!どこ行ってた?!」

幸いなことにマンションから数百メートルほど離れたところで見つけられた。その場で怒ればアイツはまたいつもの調子で警察署に言ってきたという。だが勝手に出て行ったことに少なからず罪悪感はあったのか二言目には謝罪の言葉が発せられた。だからこちらもこれ以上は何も言えなくなり手を掴んで家までの道を歩いた。

改めて考えるとコイツが自分の家にいるのは変な感じだ。そう、昼食のパンを食べるコイツを見ながら思う。あまりにも見ていたせいか腹が減っていると思われてパンを千切って差し出された。特に食いたくもなかったけれどせっかくなのでもらっておく。そしたら残りを一気に食い出したから驚いた。腹減ってんなら俺に食い物分けんなよ。

それから一緒に夕飯の支度をしたりそれを食ったりした。その後、俺がランニングに行くと言ったら自分は食器洗いをすると申し出る。そのやり取りを交わしながら結婚でもしたらこんなかんじなのかと漠然とした未来が見えた。案外、悪かねぇかもしんねぇ。

「……でけぇな」
「でかいよ」

そんで寝間着を忘れたというから自分の物を貸した。が、これが思いのほかヤバかった。海外のホラー映画では特有の濡れ場のシーンがあり、そこでは女優が男の物ワイシャツを着ている描写などもある。明らかにそれより露出は少ない。しかし自分の物を着ているというその姿に劣情を煽られた。

「……待って」
「あ?」
「今何しようとしたの?」
「分かんだろ」

もう文句は言わせねぇ。そう思い衝動のままにソファへと押し倒そうとする。それでもこの期に及んでアイツは抵抗してみせた。だがもちろん向こうに合わせて譲歩してやるつもりはない。こっちがどんだけ待ってやったと思ってんだよ。

「え、いや、私たちそうゆう関係じゃない……よね?」
「そうゆう関係だろうが」
「付き合ってるの?私たち?」
「そもそもお前から言い出したんだろうが」
「えっ言ってないよ」
「言った」

しかし予想外のところで雲行きが怪しくなってくる。なんで今になって付き合ってる付き合ってないの話になんだよ。俺らはもう三年以上付き合ってんだろうが。放課後の教室で、一人日誌を書いているときにお前から言ってきたんじゃねーか。

「いやいや、あれは確認的なもので決して告白というわけでは」
「その後『ありがとう』っつたじゃねぇか」
「はぁ?!もしかしてそれで付き合ったと思ってたの?!」
「あ?テメーも周りに聞かれて否定してなかったじゃねーか!」

部室棟で昼メシ食って時間が合えば下校もして、ブルーロックから戻ってきたときには出掛けもしたし何よりキスだってした。寧ろ付き合ってねぇ方がおかしいだろーが!

「俺と付き合ってるつもりはなかったのかよ」
「うん……」

ただそれが分かったおかげで今までの矛盾やコイツの態度にも全て納得がいった。頭が痛くなるほどの現実だ。でもそれが分かったのであれば分かりきった答え合わせをするだけだ。

「嫌なら腕振り払って逃げろ。そうしねぇならこのまま押し倒す」

カウントダウン付きの脅迫とも言える問いかけ。アイツは俺の服をぎゅっと握って目を泳がせていて。でもカウントダウンが一を切ったところでこちらを見てはっきりと言った。

「凛のことがす…——、っ」

だが言い終えるよりも先にこちらの限界が早かった。唇を押し付けてそのままアイツの上に覆いかぶさる。アイツの左手首を押さえつけ逃げないようにすれば、もう一方の手が俺の服を小さく握った。その後に潤んだ瞳で発せられた「好き」の言葉も飲み込んで唇を食べる。

サイズの合っていないスウェットの中に手を滑り込ませて肌を撫でた。一瞬、身体が強張ったことが分かったが逃げるつもりはないらしい。するすると滑る肌の体温は温かく、また想像よりも皮膚も体の線も細くて驚いた。抱き潰さないか心配になる。

さすがにソファでは場所が狭かったので抱き上げてベッドに移動した。そこで電気を点けようとしたら断固拒否されたのでヘッドライトだけで我慢する。そして服を脱がせてしまえばあとは二人で溺れていくだけだった。

肌の熱が、吐息が、名前を呼ぶ声が。全てが熱くて欲情を搔き乱した。ただただ夢中で、数回の行為が終わった後はかなりぐったりしていた。胸にも背中にも紅い痕を散らした姿に、もう一回なんてことが頭に浮かんだけれどこちらも明日に響きそうだったので我慢する。サイズの合わないスウェットを着させその上から抱きしめてその夜は眠りについた。

翌朝、寝るのは遅かったが日々のルーティーンのおかげでいつも通りの時間に目覚めることはできた。そして腕の中にはアイツがいる。そのことに昨日の出来事は夢ではないと再確認できて安心できた。
それにしてもコイツの寝顔が幼すぎてビビった。そんで寝息も静かで微動だにしないものだから生きているか心配になった。しかし抱きしめれば確かに鼓動とぬくもりが伝わってきたので生きていることが分かる。名残惜しいけれど今日も練習がある。だからそっとベッドから抜け出して寝室を出た。

そして家を出る前にもう一度寝室を確認しに行った。まだ静かに眠っている。その顏はずっと見ていたくなるようなとても穏やかなものだった。だから常識も理性もすべて取っ払ってカメラに収めておいた。別に余所に流出させるワケでもねぇし問題ねぇだろと自分に言い訳をして、ほぼ反射でやった行為だった。

「じゃん!明日の観戦チケットです!」

そしてこの日も早めに切り上げて家に帰り、風呂を済ませてリビングにいるとアイツが唐突にそう切り出した。確かにそれは明日行われるP・X・Gとモナコの観戦チケットだった。何も言ってこないからてっきり見に来ないか、試合があること自体知らないと思っていたのだがそんなことはなかったらしい。試合を見に来ることが嬉しくないわけではないが来させるわけには行かなかった。

「こっちの試合は日本みたいに穏やかじゃねーんだよ。試合の勝ち負けでサポーターは暴徒化するしスタジアム周辺では交通規制だって敷かれる——明日は家から出んな」
「凛の試合見たかったなぁ」

発せられた本心に心が揺らいだ。クソッ初めから分かっていれば関係者席を抑えられたかもしんねーのに。さすがに今からではそれは無理だ。だからその代わりでもないけれど明日の点はコイツに送ろうと思った。

「ハットトリック決めりゃそれなりにニュースになんだろ。お前が帰った後も日本で報道くらいはされる。そしたら何度だって俺のゴールが決まる瞬間が見れんだろ」

自分のゴールをコイツのために。そう宣言したら笑われた。分かりやすいくらい嬉しそうに声を上げたのだ。
その表情に駆り立てられ、結局昨日と同じ流れになったのは言うまでもない。寝間着を買ってこられたせいで自分のサイズの合わないスウェットを着ていなかったことだけは恨んだがそれでも同じように熱い夜だった。

しかし唯一前と違ったのはアイツの方が早くに目覚めたことだった。最もほぼ同時だったけれど、まだ起きる気にはなれなかったので目を瞑っていた。

「…………、え?」
「はよ」

だがおかげでいいモノを見えた。いや、味わったと言った方が正しいか。アイツからキスされた。おまけに独り言まで聞けた。かわいいなんて言われたかねーけど悪くなかった。そんで本当にかわいいのは俺じゃなくてお前だ。

そして迎えたP・X・G対GSモナコ戦——結果として俺は三点のゴールを決めたがそれは納得できたものではなかった。

「糸師凛にとってはハットトリックではなかったと?」

全てを受け止めてアイツは俺のことを褒めて労った。同情ではないその言葉に、これ以上捻くれないですんだ。まぁデコピンは痛かったが。しかしおかげで張りつめていた糸も切れ、ようやく深く呼吸が出来たような気がした。その日はフランスに来て一番、よく眠れた日になった。

「一日早いけど、誕生日おめでとう」

フランスを発つ前に誕生日プレゼントをもらった。地元の海の写真がはめられたそれはアートパネルというらしい。親元を離れてからはプレゼントを貰うこともなくなり、精々当日にチームメイトから祝いの言葉を投げられる程度。そもそも自分の生まれた日に興味もないがそれでもアイツが俺のために考えて送ってくれたプレゼントは嬉しかった。それも手作りだ。この世に二つとして同じものはない。

「凛はもう何でも買えちゃうくらいお金持ちだから考えるの大変だったんだよ。このプレゼントは満足して貰えた?」
「あぁ。大切にする」

どこに飾るか迷ったけれど寝室に掛けることにした。これを見れば自然とアイツの顔も思い出せるから、よく眠れると思った。

「じゃあ行くね」
「あぁ」

そしてついに時間になった。本当は空港まで送りたかったけれど騒ぎになると丸め込まれて着いて行くのは諦めた。

「……本当に帰んのか?」

頭では分かっているのに、アイツを困らせるだけだって分かっているのに体は言うことをきかなかった。後ろから抱きすくめて腕の中に閉じ込める。耳元で縋るように言ったけれど、アイツははっきりと帰るという。分かりきっていた答えなのにイラついた。

「今年の年末は日本に帰る」

一年後の留学まで待てなかった。だからすぐにでもまた会いたくて自分から行くことにした。本来なら兄貴も実家に戻るであろう時期に帰省なんかしない。でも今回はこれ以上待つことが出来なかった。とはいえ、三ヵ月という期間ですら長く感じる。でも、

「いってきます」

アイツもきっと同じ気持ちだと思っているから。

「いってらっしゃい」

今その背中を押すのは俺の番だ。