同じクラスの吉田君は海の匂いがする

私には気になっている人がいる。

その理由は決して顔が良いからだとか、左耳だけにやたらとピアスを括りつけているからだとか、時たま体中に包帯を巻いて学校に来るからだとか、デビルハンターだという噂があるからではない。



「あっ吉田君だ。久しぶり」

職員室前の廊下、昼休み時間にここを通ろうとする者はまずいない。私だって日直当番で先生から呼び出しを喰らっていなければこんなところに来てはいない。本来なら今頃は図書室の日当たりのいい席でお昼寝予定だったのだ。

「三日前に会ったでしょ」
「クラスメイトなら毎日顔を合わせるのが普通なんだよ」
「へぇ初耳」

開け放たれた窓からは賑やかしい声が聞こえる。その外からの風に乗ってふわりと海の香りが鼻を掠めた——まただ。

「ねぇ、実は学校サボって海に行ってるでしょ?」

吉田君はよく学校をサボる。現に今日も昼休み時間に重役出勤をしてきた。そしてそんなときは大抵、海の香りを纏わせてやってくるのだ。きっと白い砂浜のビーチへとたそがれに行っているに違いない。

「だったら?」

私の突拍子もない質問に吉田君はアルカイックスマイルで答えてみせる。その瞳は闇よりも真っ暗だし前髪は目に掛かってるわで一見すると犯罪者予備軍に思われなくもない。でもそれも全て彼の顔の良さで『ミステリアス』という肩書に変わってしまうものだから、イケメンとはなんともずるい生き物である。

「海は一回しか行ったことないんだよね。連れてってよ」
「じゃあキミは俺に何してくれるの?」

数メートルほどの距離が、気付いたらあと一歩にまで縮まっていた。吉田君って近くで見ると意外と大きいよね。身長は高いし身体つきしっかりしてるし。そんな彼がこてん、と首を右へ傾けたので私もつられて左に傾けた。左耳のピアスがきらりと光る。

「うーん…ならお弁当作ってあげる」
「お弁当?意外、料理できるんだ」
「あたぼーよ」
「ふっ何でいきなり江戸っ子なの」

右手を口元に添えて小さく笑う。

「約束だよ」
「考えとく」

すれ違いざまに肩の上に何かが乗せられた。それは重くてやたらと硬くて。しかし気付いた時には軽くなっていた。慌てて振り返れば吉田君はこちらに背を向けながら手だけを振って歩いてる。あぁあの手が触れたのだと理解できたときには、彼の姿は昇降口へと消えていた。しかし、すんと鼻から息を吸えばやはり海の香りが残っている。

私は同じクラスの吉田ヒロフミが気になっている。





この街の夜空を綺麗だとは思わない。一面の星空を仰ぎ見ることなんて建物が邪魔して叶わないし、いつもどこか陰気臭いうす雲が空に張っているからだ。でも今夜は満月で、その輝きに触発されたように小さな星たちも力強く輝いていた。だからその日はいつもより少しだけ良い夜だった。



「え、なに?ストーカー?」
「いいえ、吉田君のクラスメイトです」
「知ってるよ」

じゃあなんで聞いたのさ、と頬を膨らませればフッと息を吐き出したように笑われる。
口元意外、無表情なことには変わりない。でも今日の吉田君はどことなく疲れているように見える。満月の光で照らされた顔は白く、覇気がなかった。

「吉田君を待ってたんだ。はい、これプリント」

私と吉田君の家は近く担任の先生にプリントを渡すように頼まれたのだ。この事は私もつい最近知った。ご近所とはいえこの街のほとんどの建物が違法建築。路地もものすごく入り組んでいてあっちこっちにダクトが伸びていたり屋根なのか通路なのか分からないベニヤ板が張り合わされている。

「ポストに入れてくれればよかったのに」
「でもこれは入らないなと思って」

紙袋ごと彼の目の前に持ち上げてみせる。ドアノブにかけようかとも迷ったけれど、最悪今日帰ってこなかった場合腐らせてしまうと思ったから。

「なにそれ?」
「お弁当」
「うん?」
「の予行練習」
「んん?」

唐揚げ、ポテサラ、きんぴらごぼうに卵焼き。そしておにぎりの具は梅、おかか、鮭の三種類。ぱっと見で何の食材が使われているか分かるように作ったからアレルギーの心配もないだろう。

「食べられないものや嫌いなものがあったら教えてね」
「いや、そこは好きなものを聞こうよ」
「私料理上手だから食べたら全部好きになるよ」
「は?……ぶっ!すごい自信だね」

夜の空に吉田君の乾いた笑い声が響く。しかもそれは止まらない。なんでそんなに笑うのかな。「アンタは平々凡々なんだから胃袋で男掴めるようになりなさい!」という母の教えの下に頑張った努力の賜物なんだけど。そう伝えれば吉田君はヒィヒィと過呼吸になりながら咳き込んでいた。えっほんとに失礼だな。

「笑い過ぎですー」
「もしかしてこの前の約束本気にしてるの?」
「あたぼーよ」
「二度目は笑えないかな」
「ひどい」

吉田君の笑いのツボは謎である。最適解を見つけたと思ったらそれが二度は通じないだなんて。でもそれが吉田君らしくって。少しは顔色が戻ったようで安心した。

「家まで送るよ」

ここから近いから必要ない、というと「魔人が出たら危ないよ」と言われた。魔人——人の死体を乗っ取った悪魔のこと。それは平気で人を襲ってくる。しかし私は魔人どころか悪魔すら実物を見たことがなかった。

「大丈夫だって。それよりもちゃんとご飯食べてお風呂に入ってゆっくり休むこと!」

だから精々教科書とテレビくらいの知識しかない。そしてそんな恐ろしい奴等もデビルハンター達が倒してくれるのだからイマイチ恐怖心や危機感が薄かったりする。

「いや、ちょっと待って」
「海で遊ぶのもほどほどにね!」
「は……?」

丸い月夜の下、立ち尽くした彼に大きく手を振った。





五限目に体育の授業を割り振ることについて、一度職員会議で検討した方がいいと思う。一日の最後に生徒達を集団で走らせるだなんて最早いじめでしかない。現に体育教師は私達が走り終わるまで木陰でうたた寝してたし。

「んー……」

家に帰るまでの体力を失った私は図書室でHP回復に努めていた。この窓側の席は図書室のカウンターから見てもちょうど死角になっている。それに日当たりもいいので、寝てくださいと言われているようなものだった。

「起きた?」

水の底から引き上げられるように意識が浮上する。
薄っすらと目を開ければそこには黒い塊がいた。

「おはよう吉田君」

焦点が合うより先に声を掛けた。それは彼がいることが分かったからではなく、彼がいたらいいなと思ったからこそ出た言葉だった。

「もう夕方です」

そして私の願望は現実となって目の前に現れた。吉田君は私の隣の席に座っていて頬杖を突きながらこちらを見下ろしている。そして彼の指が私の髪を救い上げればその姿はよりはっきりと見えた。

「おはようは目が覚めた時に言う言葉だよ」
「俺は朝起きた時に言う言葉って教えてもらったんだけど」
「文化の違いだね」
「家庭の違いだと思う」

へらっと笑えば吉田君は口元にだけ笑みを添えた。

「図書室は本を読むところですよ」
「吉田君も読んでないよね」
「俺は寝坊助さんが起きるのを待ってただけなんだけど」
「あだだだだだ」

顏に跡付いてると言いながら人差し指を頬に押しつぶしてきた。吉田君、これは『付いてる』んじゃなくて『付けてる』って言うんだよ。

「痛いって」
「目は覚めた?」
「お陰様で」

上半身を机から起き上がらせて伸びをする。テスト期間中でもないこの時期は図書室の利用者も多くなく空席が目立つ。それに下校時刻も差し迫っているときたら椅子に座っているのは私達くらいしかいなかった。

「これ、ご馳走様でした」

私が先ほどまで体をくっつけていた場所に紙袋が置かれる。それはあの夜に渡したものと同じで、中には洗われたタッパーが入っていた。

「嫌いなものはあった?」
「なかったよ。全部美味しかった」
「じゃあ全部好きってことだね」
「うん、好き」

穏やかな海のような、聞いてて心地のいい声色だった。
吉田君はまた頬杖をついている。でも私が身を起こしたことで自然と上目遣いでこちらを見ていた。窓から差し込む金色の光が吉田君の髪に天使の輪を作っている。

「吉田君ってかっこいいよね」
「よく言われる」
「じゃあ海で女の人から声掛けられたりするの?」

ギッ、と。机か椅子か、木の軋む音がした。吉田君が身を起こしたことで次は私が見下ろされる番となる。でもそれもすぐに吉田君が椅子の背もたれに寄りかかったことで視線の高さは同じになった。

「ずっと思ってたんだけど、どうして俺が海にいると思ってるの?」
「だっていつも海の香りがするから」

今日は薄っすらとしか香らない。でも確かにするんだよね。ただ、今は吉田君から海の香りがするというよりは、その香りそのものが吉田君って感じがする。

「え、そう?」

ワイシャツの首元を掴んで鼻を寄せる。「磯臭いのか…?」と極めて深刻な顔をしていたから思わず笑ってしまった。確かに海の匂いは磯の香ともいう。でも生臭いとかそういう意味で言ったんじゃないんだけどな。

「私はその匂い嫌いじゃないよ」

吉田君だって大人びてはいるけれど思春期真っただ中の少年だ。気を悪くさせてしまったのではないかと声を掛ければこちらをじっと見返してきた。そしてシャツを掴んでいた指先が私の元に伸びてくる。正直、この時はデコピンの一つでも飛ばされるのではないかと思っていた。

「キミはバニラの匂いがするね」

でもそんなことはなく、私の髪の人房が吉田君の手の中にあった。そしてそれは彼の顔の近くまで持ち上げられる。吉田君、ちょっといきなりすぎでは?

「吉田君、それは吉田君がかっこいいから許されるのであって普通にやったら変態だよ」
「じゃあ俺は許されるね」
「ずるいなぁ」
「男はずるい生き物だよ」

するりと髪が手から落ちて意地悪く笑う吉田君と目が合った。しかしそれは一瞬のことで次の瞬間には私は吉田君のことを見上げていた。

「ソフトクリーム食べたくなった」

座っていた椅子を机の下に仕舞い込む。そうして自分の荷物を持って未だに座ったままでいた私に視線を戻した。

「キミのせいだから付き合って」

全くもって意味が分からない。でもよくよく考えてみれば私が海に行きたくなったように、吉田君もバニラに匂いでソフトクリームを食べたくなったのかもしれない。ならしょうがない。付き合ってあげますか。

「食いしん坊だね、吉田君は」
「寝坊助さんといい勝負でしょ」

二人並んで夕日に染まった図書室を後にした。





生温い風が吹く、嫌な夜だった。
西の空には黒煙が濛々と立ち上がり電力も絶たれたのか住宅街も真っ暗だった。木材の焦げた臭いが風に乗ってばら撒かれサイレンの音がけたたましく辺りに響く。

「何してるの?」
 
吉田くんの家の前、そこの段差を椅子がわりにして膝を抱えていれば待ち人が姿を現した。今日はマフィンを作ってきた。お弁当にはデザートの用意も必要かと思ったんだ。それにこの前はソフトクリームを奢ってくれたからそのお礼も兼ねて。

「吉田君を待ってた」

すくっと立ち上がり駆け出そうとしたところで足が動かなかった。たった数メートルの距離がひどく遠く感じる。明かりもない空間にぽつんと立つ彼はこの世界から浮いたような存在だった。

「どうかした?」

吉田君は今笑っているのだろうか。それは分からなかったが生温い風が吉田君の髪を撫でた。……血の臭いがした。

「もしかして怪我してるの?」

小さく笑ってこちらへと歩いてくる。私はただただ彼のことを見つめて。気付けばあと一歩の距離にまで来ていた。

「キミは臭覚の悪魔でも飼ってるわけ?」
「ううん私は普通の人間だよ」

吉田君の頬へと手を伸ばす。しかし触れることは叶わなかった。何故なら彼に届く前に手首を掴まれてしまったから。そして彼は何の予兆もなくにっこりと笑った。

「そうだね。キミは普通の人間だった」

手首を離してそのまま私の横を通り過ぎていく。すぐに追いかけようと思ったけれど彼の背中をみたらそれを望んでいないことが分かった。

「またね吉田君」

彼が家に入る直前に掛けた言葉。その声が届いたかまでは分からない。

街灯がぽつりぽつりと灯りをともす。もう少し早く電力が復旧していたら吉田君の姿をはっきりと見ることが出来ただろうか。そうすれば吉田君が怪我をしていないかはっきりと確認することが出来ただろうか。
だって彼の頬にはべっとりとした赤い血が付いていたから。





あれからも吉田君はいつも通りだ。学校には来たり来なかったり。でも避けられているのは何となくわかった。声を掛ければ返事はしてくれるけれど向こうに会話を続ける意思がない。放課後捕まえようとしてみても気付けば教室から姿を消している。



「どうしたもんか……」

黄昏時の公園にて一人ブランコを漕ぎながら考える。吉田君が私を避けるようになった理由は分かる。きっとあの噂は本当だったのだ。

「デビルハンターだったんだ」

キィキィ鳴くブランコの声と共に独りごつ。膝を大きく曲げて勢いをつけ最高到達点まで行って空を見た。きっと立ったらもっと高くまでいけるのだろうけれど怖いので座ったままだ。

『デビルハンター!デビルハンター!』
「っ?!」

耳をつん裂くような大声。びっくりして足を地面につけてブランコを急停止させた。自分の立てた砂埃により思わず目を閉じる。そしてバサバサという羽音を耳で拾いながらゆっくりと目を開けた。その正体は鳥だった。大きめのオウム、それが目の前の柵の上に留まった。そしてその状態で尚、羽をバサバサ揺らしながら何度も同じ言葉を繰り返していた。

「びっくりした……逃げてきたの?」
『逃ゲテキタ!逃ゲテキタ!』

きっと誰かに飼われていたのだろう。そのオウムは『元気出シテ』『話キク』と友好的な言葉を口にした。ただ覚えていた言葉を言っているだけなのだろうけど今の私にはちょうどいい。話し相手になってもらおう。

「最近、仲がいいと思っていた子に避けられてるんだ」
『悲シイ!悲シイ!』
「そう!私はその子のこと嫌いになんかなってないのに!」
『優シイネ!』

このオウムはかなり賢いらしい。それこそオウム返しくらいしかできないと思っていたのに会話ができている。だからこちらもお喋りが加速してしまう。

「海に行く約束もしてたんだよ?」
『海!イイネ楽シソウ!』
「そのためにお弁当のおかずのレパートリーだって増やしたんだから」

避けられてからも家に行ったりしたのに会えなかった。居留守なのか、それとも本当に不在なのかは分からない。でもある日下駄箱に『ご飯食べてお風呂に入ってゆっくり休むこと』というメモ書きが入れられていたので私が行っていたことには気づいていたはず。

「あーあ、やっぱり一緒に行けないのかなぁ……ん?」

忙しなく羽を動かしていたオウムがピタリと動きを止める。しかし突如激しく体が振動し始めた。そしてそれに比例するかのように体が膨れ上がっていく。

『じゃあボクが一緒に行ってあげる!』
「は……?」

目の前のオウムが流暢に喋り出す。そして瞬きの間にそれは大きな肉の塊となった。オウムの面影はくちばしと足くらいしか残されていない。しかしくちばしはシャベルカーのアームほどの大きさになっていた。それが私の頭上に覆い被さる。これが悪魔なんだと理解した時には目の前が真っ暗になっていた。

「悪いけど先約は俺だから」
『プギャ…?!』

死を覚悟した瞬間、腹が圧迫されたと思ったら体が背後に引っ張られた。手足が宙に放り投げられる感覚。お腹に回された何かに手を掛ければそれは冷んやりとしていた。

「大丈夫?」

足は未だ地面に着かずプラプラと揺れている。でも聞き慣れた声に恐々目を開ければ吉田君がこちらを見上げていた。

「う、うん」
「今降ろす」

ゆっくりと降下して行き両脚が地面に着けばお腹に回されていたものも解かれた。それには吸盤がたくさんついていてタコの脚のようだった。しかしその全貌を見ることは叶わずに吉田君の背後へと消えていく。

「助けてくれてありがとう吉田君」

そう伝えれば吉田君は少し驚いたような顔をしていた。私はお礼もまともに言えない人間だとでも思っていたのだろうか。心外だな、思ったことは良くも悪くも口にするタイプなのだけれど。

「いや、驚かないの?」
「えっクラスメイトの体に触手を巻き付け…——っいだだだだ」
「言い方」

先程腹に巻き付いた腕よりも強い力で頬を抓られる。冗談だよ、とおどければわざとらしくため息をつかれてしまった。でも今日は私から逃げないらしい。

「吉田君はデビルハンターだったんだね」
「そうだよ」
「すごい、正義のヒーローだ」
「そんな大義名分掲げてないよ」
「でも私にとってはヒーローだよ」
「……キミは怖くないの?悪魔に襲われかけて、それで俺も悪魔を付けている」

確かデビルハンターの大半は悪魔と契約してるんだっけ。本来なら倒すべきである悪魔を使役しているというのはちょっと不気味に聞こえるのかもしれない。でも私は難しいことはよく分からないので都合よく考えることにした。

「吉田君は怖くないかな」
「悪魔は?」
「吉田君の悪魔は怖くないかな」
「それ答えになってないんだけど」
「じゃあその答え合わせは次会う時までの宿題だね」

その時の吉田君は言葉では言い表せないほどの珍妙な表情をしていた。普段、悪魔に見慣れている人がそんな顔をするなんて。きっと宇宙人並みの生物に出くわしたに違いない。そんな生物が本当にいるなら私にも紹介してほしいくらいだ。

「変な奴ってよく言われない?」
「今日初めて言われたかな。吉田君こそ思い込み激しくて意外と内気な性格って言われない?」
「もしかして避けてた事怒ってる?」
「あたぼーよ」
「ふっ」

あ、笑ったね。これが三度目の正直…ってわけでもないね、一回目は笑ったし。でも吉田君とまた普通に話せることが嬉しくって私も思わず笑ってしまった。

「海、いつ行こうか」

そしてあの日の約束がようやく果たされることとなった。





さて、念願かなって人生で二度目の海とご対面である。

「うわっ汚い!」

そしてこれが海を見た時の私の第一声である。目の前に広がるのは白い砂浜に青い海ではなく、ゴミが散らばる砂浜にドブ水を煮詰めたような濁った水だった。

「だから言ったでしょ」
「こんなに汚いとは思わなかった!」

せっかく砂の感触も楽しめると思ったのにガラスの破片も落ちてるから裸足で歩くこともできやしない。ビーチサンダルも持って来たけれど履き替える気にはならなかった。

「帰る?」
「いやもっと近くで見る」

スニーカーの裏で砂を踏みしめながら海の方へと歩いていく。真っ黒な砂浜には二人分の足跡が残された。

「なんか変な臭いしない?」
「近くに工場も多いからね」

ほら、と指差した方に目を向ければ空に伸びる煙突から煙が立ち上っていた。その風下である砂浜では海の匂いも何もあったもんじゃなかった。

「何一つ海を感じられない……」
「じゃあ俺の匂いでも嗅いどく?」
「それもいいかもね」

もう海には一生来なくてもいいかもしれない。海を感じたくなったら吉田君という名のお香を頼ることにしよう。彼がそこにいればいつでも白い砂浜と青い海を見た気になれそうである。もう吉田君さえ傍にいてくれたらいいのかなって、そう思う。

「ちょっとこっち来て」
「なに?どうし…——」

一歩踏み出したら体が傾いて、砂浜でバランスを崩したのかと思った。でもそれはどうやら目の前にいた彼のせいらしい。しかもそれは確信犯。彼の長い前髪が私の頬を撫で、そして唇同士はぴったりとくっ付いていた。

「吉田君、キスって無理やりすると暴行罪に当たるんだよ」

未だに吐息が当たる距離で、真っ黒な目を見つめてそう言った。
でも吉田君に悪びれた様子など一切ない。

「嫌だった?」
「その聞き方はずるいなぁ」
「知ってるからわざと聞いた」

こつんとおでこを突き合わせて彼は笑う。この人は、自分の魅せ方というものを十二分に熟知しているようだ。

「なら言葉で伝えあうのが先なのでは?」
「じゃあせーので言おうか」
「はい?」
「いくよ、せーの」
「えっ?!あ、す——」

き。までは言えずに、言葉ごと吉田君に飲み込まれてしまった。本当に、本当にそういうところだぞ吉田ヒロフミ。

「この世にずる男常習犯詐欺取締法があったら吉田君は一発で捕まってるよ」

唇が離された瞬間に一息でそう言ってやった。私だけ言わされたようでちょっとだけムカついたから。

「そうなの?まぁキミになら捕まってもいいかもね」

私としては渾身の一撃だと思ったのに彼は無傷だった。

「好きな子に捕まるのなんて男の本望でしょ」

そして大ダメージを受けたのは私の方だった。

言葉を失った私はぼすんと吉田君の胸に顔を埋める。うるさい心臓を落ち着けるよう大きく息を吸い込めば、私の好きな彼の匂いがした。