二度目の愛の告白を

高校一年の三月、私に告白をしてくれた男の子がいた。

その子はクラスの人気者で、彼の周りにはいつだって人が集まっていた。お調子者で活発でスポーツもできて。そしておまけに顔もいいものだから女の子にはすごくモテてた。私とは正反対にいるような子。だから中学から合わせて四年間同じ学校の同じクラスに通っていたけれど大した接点もなかった。交わす会話は挨拶程度。だからこそ、放課後の教室というベタな場所で告白をされるなどとは思ってもみなかったのだ。



『今年の日本バレー界は勢いに乗ってますね!』

男性アナウンサーのはつらつとした声に、思わずテレビに目がいった。朝は時計代わりにニュース番組を点けっぱなしにしている。大抵いつも同じ番組を見ているのだけれど、昨夜見たドラマチャンネルのまま変えていなかったので完全な不意打ちだった。この番組ではこの時間帯にスポーツ関連の報道をするらしい。

『やはり注目すべきはMSBYブラックジャッカルの宮侑選手でしょうか?』
『そうですね!学生時代から高校ナンバーワンセッターということで期待が高い選手で…——』

画面にはかつての同級生の姿が大きく映されていた。髪をオールバックにし、また以前よりも雰囲気が大人びて見えるのは十代ゆえの顔の丸みが抜けたからか。でも自らが上げたトスをスパイカーが決めた時の表情はあの時と変わっていなかった。

『次はお天気情報です。本日は昨日よりも五度以上気温が下がり…——』
「あっ時間!」

すっかり有名人となった彼の活躍を見入っていればもう家を出る時間になっていた。画面に映るお天気お姉さんの姿を最後にテレビを消す。そして昨日よりも厚手のコートを羽織りよく馴染んだパンプスに足を滑らせた。

すごいな宮君は。本当にバレーボール選手になっちゃうなんて。
それと同時にますます彼の事が分からないなと思う。

なんで宮君は私なんかに告白をしてくれたのだろうか。





家から職場までは電車を使って三十分ほどの道のり。毎朝同じ時間に家を出て電車で顔を合わせる名も知らぬ人たちに今日も一日頑張ろうね、と脳内で挨拶をする。デスクに座って決められた仕事をし、おおよそ定時に上がって近所のスーパーに立ち寄って帰る。金曜の夜はお酒やケーキなんかを買ったりして、一週間頑張った自分を労ってみたりもする。休みの土日は家で取り溜めしたドラマを見たり、偶に友達とも出かけたりして、気楽な独身ライフを謳歌している。

これが一週間の私のルーティン。何の面白みもないけれど不満なことは一つもない。ただふとした時に、こんな生活を送りながら一人で死んでくのかなぁなんてネガティブ思考に突入するときもある。でもそんなこともお気に入りのお菓子を食べればすぐにどうでもよくなっちゃう。入社二年目にして随分寂しいこと言うね、なんて周りからはよく言われるけれど平々凡々の何が悪いのか。ストレスの少ない人生の方がいいに決まってる。これが二十四歳にして辿り着いた私の生き方だった。



「ねぇ来週の土曜って暇?」

この子は大抵暇人——そんな認識が職場の同期の間でも認知されている。でもそれは決して嫌なことではなかった。寧ろそういう機会でもないと私は出掛けることすらしないのだから。

「特に用事はなかったと思うけど……何かあるの?」

昼食時、食べ終えた弁当箱を片付けながら彼女の話に耳を傾ける。そして包みの端を結び終えたところで一枚の紙を渡された。切り取り線が見えたのでコンサートチケットだろうか。しかし書かれていた横文字のアルファベットに目を走らせたときそれが違うものだとすぐに分かった。

「バレーボールの試合?」
「そう、うちの課の人に貰ったんだ。なんか有名なチームみたいよ」

彼女が見せてくれたチケットには『MSBYブラックジャッカルvs立花Red falcons』と書かれていた。どちらもVリーグの中でもDivision1に名を置く有名なチームだ。そして言わずもがな、MSBYには先日テレビで見た彼がいる。

「うん、知ってる」
「そっか!なら一緒に行かない?」

宮君の試合を観に行ったのは一度だけある。しかしそれはインターハイでもなければその予選でもない、他校との練習試合だった。もちろん、どのような試合であれ宮君が手を抜くはずがない。でも、世界で活躍するようになった彼の姿を自分の目で見てみたいと思った。

「いいよ」
「よかった!というか誘っといて言うのもあれだけどバレーに興味あったなんて意外」
「最近、日本の男子バレーってすごいんでしょ?せっかくなら実際に観てみたいなって」

今さら宮君に会いたいとは思わない。というか合わす顔がない。でも、かつての『同級生』として試合を観戦するくらいは許されるのではないだろうか。

「会場の場所分かる?」
「うーん…ちょっと不安かも」

その後、彼女と待ち合わせ場所と時間を決めて昼休憩は終わった。

いつも通り十分ほどの残業をし会社を出て自宅最寄りのスーパーで買い物をする。二割引きの豚肉があったのでそれを籠に入れ、カット野菜と一玉分の麺も追加する。今日の夕飯は焼きそばで、具材は少し残して明日のお弁当のおかずにしよう。

「お会計が三百八十九円になります」

我ながら安上がりな食事だな、と自画自賛しながら千円札を取り出そうとしたところで今日貰ったチケットが目に付いた。なくさないようにと、長財布の中にしまっておいたのだ。

繰り返す日常という名の毎日に訪れた私にとってのビッグイベント。それを少し楽しみに思いながら受け取った釣銭と一緒に再び大事に仕舞い込んだ。





こういうところは初めてで右も左もよく分からない。でも彼女の趣味は野球観戦だから場慣れはしているのか案内されるがまま後ろを着いていった。

「意外と食べ物屋さんも多いんだね」
「こういうところのも結構美味しいんだよ。何か買う?」
「うん」

いくつかあるお店を二人で覗いて、そしてそれぞれ目的の物が違ったから後で合流することにした。思ったよりも人が多くて縫うように通路を逆戻りする。そして藍色の幟が立った店の前で足を止めた。

「あの、すみません」
「いらっしゃいませー」
「梅と高菜のおにぎりを一つずつ。それとお茶も一本くだ……っ?!」

おにぎりの並んだショウケースから顔を上げて、息が止まった。宮侑が目の前に居たのだ。いや、選手なんだからこんなところにいるはずがない。でも帽子の下から覗いた顔はあまりにも彼に似すぎていた。

「あー…お客さんもしかして宮侑のファン?」
「え?」

困ったように目尻を下げた彼を見て、違うことに気が付いた。目の端にチラつく幟には『おにぎり宮』の文字が揺らめいている。それと同時に古い記憶が蘇り、「あっ」と小さく脳内で声を上げた。

「俺、宮侑の兄弟なんよ。よぉ間違われるんすわ」
「宮治君……」
「えっ?!」

次に驚いたのは彼の方だった。それもそうだ。ただのお客がフルネームを言い当てたのだから。でも私は知っている。宮君の双子の弟、宮治。彼も当然、中学高校と同じであった。でも宮治君は私のことは知らないだろう。宮兄弟は学生時代から有名人であったが私は取り巻きの子の中にすらいなかったのだから。

「あ、いえ、すみません…」
「どっかで会いましたっけ?」
「えっと、私稲荷崎高校出身なんです。ちなみに中学は野狐中で…だから宮兄弟のこと知ってます」

どうせ認知されていないだろうけれど、ここで誤魔化すのも失礼かと思い説明をする。
宮治君は私の顔をじっと見つめて、そして「あぁ!」と宮君のような明るい顔をして見せた。そして驚くべきことに私の名前まで言い当ててみせたのだ。

「高一のときツムと同じクラスやった人か!」
「あ、はい。そうです」
「なんやツムが世話んなったなぁ」

そこで『元カノ』と言われなかったことに少し安心してしまった自分がいた。だから緊張の糸を解いて、こちらこそと挨拶をして軽く頭を下げる。その内におにぎりを用意してくれていたので財布を取り出して代金を支払った。

「おおきに」
「ありがとう」
「あとこれオマケ」

カップに入った唐揚げが差し出される。それはホットショーケースに置かれていたもので私が最後まで買おうかどうか迷っていたものだった。ただその申し出はすごく嬉しいのだがそこまで良くしてもらう義理はない。

「流石に悪いよ」
「気にせんといて。あっもしかして嫌いやった?」
「ううん!寧ろ好きだけど……」
「なら貰ってってな」
「じゃあ買うよ」
「オマケなんやからいらんて」

でも…とどうにも引かない私を余所に、宮治君はおにぎりの入った袋に唐揚げを突っ込んだ。本当にいいのかな、と未だに財布のファスナーから手を離せない私の元に一枚の名刺が差し出された。

「ほんなら今度うちの店にも食べに来たって。火曜の夜は比較的空いとるから」

裏面の印刷された地図を見ればちょうど家と会社の中間地点にあった。てっきりMSBYのホームタウンである大阪で店を出しているのかと思いきや地元の兵庫に本店があるなんて。

「分かった」

唐揚げのお礼も言って私は友達との待合せ場所に向かった。



コートエンド側の二階スタンド席——試合全体を見るには適さない座席だ。でもその分、コートチェンジ後にMSBYがこちら側に移動してくれたことで宮君の動きがよく見えた。セッターの彼はコート全体も選手の位置も頭の中で把握できていて的確にトスを上げていた。点を決めて称賛されるのは自分じゃない。でも彼は満足そうに得点を決めた選手に声を掛けていた。そして解説席から自分のセットアップが評価されれば『俺が決めさせてやった』とばかりに胸を張る。宮君は、やっぱり宮君だった。

その夜、私はMSBYのSNSアカウントをフォローした。そんなものまであるとは知らず、帰りがけに同僚に教えてもらったのだ。すでにフォロワー数は三万人ほどおり更新もかなりマメに行っているらしくツイート数も相当なものだった。そして最新の投稿には今日の試合についてのことが書かれていた。

『本日は沢山のご声援ありがとうございました!皆さまのお陰でMSBYが勝利を収めることが出来ました。そして本日のMVPは佐久早選手です!!』

コメントと共に選手全員が揃った画像が投稿されていた。それに『いいね』を押して過去のツイートを遡るべく画面をスクロールさせていく。

『貰えるトスの本数が少なくて気合を入れ直している日向選手の姿です!チビちゃんはまだまだ頑張んないとねー』
『木兎選手がバク転に挑戦!その結果は…?!』
『今日は宮選手の誕生日です!メンバーからはパイ投げのプレゼントが!宮選手はいい顔してますねwww』

どうやら公式アカウントの中の人は随分と陽気な性格らしい。バレー以外の投稿も多くそれにも画像や動画が付いている記事が多かった。そして誕生日の投稿に関しては『#本日の主役』というハッシュタグまで付けられている。いいねやリツイートの数ももちろんだがリプライの数が圧倒的に多く、気付けば指をスライドさせていた。

『相変わらず仲がいい!』
『ナイスシャッターチャンスww』
『やっぱり宮選手おもしろいわー』
『イケメンが台無し!でもそこがいい!!』

確かに宮君は変わっていなかった。でも彼を見る周りの目は変わったらしい。
もう私の手には届かない存在なのだと気付いた瞬間だった。





宮治君との約束を果たせたのは試合を見に行った日から一ヵ月以上も経ってのことだった。十二月は師走らしく忙しく、年が明けてもどうにも落ち着かなくて一月の一番冷え込んだ夜に私は店の暖簾を潜ったのだった。

「いらっしゃ…——おっよぉ来てくれたなぁ!」

しかしそんな私を宮治君は笑顔で迎えてくれた。だからこそ私は申し訳なくなって少しだけ肩を縮こまらせて挨拶をした。

「ごめんね、来るの遅くなっちゃって…」
「ええねんええねん。今日は空いとるから好きなとこ座り」
「うん」

やはりテイクアウトがメインなのか、店内はこじんまりとしていた。テーブル席が三つとカウンター席が五つ。平日の夜はお客さんも一組だけだ。その中でも私はカウンター席の一番奥を選んで腰を下ろした。

「ご注文はお決まりですか?」
「じゃあおにぎり定食で」
「具が二つ選べんねんけどどれにする?」
「えぇっと……おすすめは?」
「せやなぁ…女性人気が高いんは明太子と鶏五目やね」
「じゃあそれで」
「おん。ちょっと待っとってな」

おしぼりで手を拭いて熱いお茶に息を吹きかける。それにしても宮兄弟ってすごいな。一人はプロバレーボール選手で、もう一人は自分の店を持っているだなんて。努力もせずにここまで来れただなんて思わないけれど、やっぱり住む世界が違うって感じ。

「ありがとうございました」

一組のお客さんが外へと出て行けば冷たい風が脚を撫でた。身震いしながらお茶を啜れば案の定、熱くて舌を引っ込める。寒がりの猫舌ってとことん損だ。

「はい、お待たせしました」
「わぁ美味しそう」

私でも飲めるくらいにお茶が冷めた頃、食欲をそそる香りと共に料理が運ばれてきた。おにぎりだけでなく小鉢の副菜もお味噌汁もお漬物も全部美味しそうだ。見たままの感想を述べれば「味も確かやで」と自信満々に答えられる。その表情が宮君と重なって少しだけむず痒い気持ちになった。

「いただきます」

お膳を前にして手を合わせてから箸を伸ばす。すごい、お味噌汁もちゃんと鰹節を削って出汁を取ってるんだ。店だからといえば当然かもしれないが自分で作るときは基本粉末だからその美味しさが身に染みた。

「外さっぶ!!」

黙々と箸を進めていれば再び冷気が店内を吹き抜けた。そして思わず入口へと目を向ける。それは寒かったからだとか、声の大きさに驚いたからではない。だってその声は確かに——

「ツム早よ扉閉めぇ!」
「分かっとるわ!」

宮君だった。
テレビ越しでもない、モニター越しでもない彼が、いま目の前にいた。観覧席からみたコート上の彼は人形のように小さく見えたけれど実物は背が高くて体つきもかなりがっしりとしている。当然ながら“大人”になっていた。

「おっこんなところで奇遇やなぁ!」

止まっていた時間が動き出す。気付けば宮君は私のすぐそばまで来ていて、先ほどとは一転、あどけない笑みを浮かべていた。

「え、あ…」
「もしかして俺の事覚えてないん?」
「そんなことないよ!宮侑君、だよね?」
「よかったぁ!覚えてなかったらどないしよかと思たわ。隣ええ?」
「どうぞ」

同級生の店で、同級生に再会した。ただそれだけのことだと自分の中で割り切る。現に宮君の反応もそれと同じだった。この時の会話だって高校の時の友達とまだ連絡を取っているのかだとか、同窓会には行ったかとか。そんな他愛もない話だった。

「そういやこの前の試合見に来たんやって?」

宮君が注文した食事が運ばれてきた時にそう切り出された。きっと宮治君から聞いていたのだろう。私は一つ頷いて食べかけのおにぎりを一度お皿の上に置いた。

「うん。職場の同僚に誘われて」
「もしかしてバレーに興味湧いたか?」

実は高校時代、宮君のことを少しでも知りたくて勉強したんだ。だから基本的なルールは分かるしその面白さも知ってるつもり。でもプロに対してそんな大それたことが言えるわけでもなくて。だから曖昧に頷いてお茶を啜って誤魔化した。

「だって最近の日本のバレーボールってすごく強いから」
「せやろ?うちのメンバーかて主力ぞろいやで」

生憎弁達者でもない私はずっと聞き手に回っていた。でも決してその時間は退屈ではなかった。だって宮君がとても楽しそうに話してくれたから。

「車で来とるから送るよ」

私の方が先に食事をとっていたというのに食べ終わったタイミングはほぼ同時だった。そして当たり前のように一緒に店を出て、当たり前のようにそう言った。久しぶりに会った同級生に対しなんと素晴らしい気遣いなのだろうか。でも私は首を横に振る。

「いや大丈夫だよ。電車もまだあるし」

吐き出した白い息は一月の夜空に溶けて消える。それがなんだか私達の関係を表しているようで、目が覚めたような感覚だった。

「そうか……せや、もしよかったらこれ貰ってくれへん?」

一枚のチケットが差し出される。それは来週行われる試合チケットだった。バレー選手にとってこの時期はオフシーズン、だからこれが今年初の試合なのだと宮君は付け加えるように言った。

「え、私に?」
「せや。他に来てくれそうなやつも居らへんしな」

そんなことはないと思う。だって宮君は友達がたくさんいたから。それに彼の場合は当時ファンクラブまであったのだ。そして今やそのファンの数は世界規模にまで膨れ上がっている。だから来てくれそうな人なんて星の数ほどいるはずなのだ。

「でもこれすごくいい席なんじゃ…」
「おん。だからこのままただの紙くずにさすのも勿体ないねん。自分が貰うてくれると助かる」
「……じゃあ貰うね」

宮君はいつもちょっとだけずるい。こちらが断りにくいよう上手く誘導するのだ。初めてデートに行った時もそうだった。渋る私を、男一人じゃ買いづらいからと言ってクレープ屋まで引きずるように連れて行った。でも今思えばそれは決して悪いことではなかったのだ。だってそれくらいしないと私は動けないような人間だったから。

でもここで流されてはいけない。宮君との関係を断ちたいのなら断ればよかったのだ。そしてこの店にも来なければ会うことだってなくなる。でも私はそれができなかった。だってチケットを渡す宮君の手が僅かに震えていたから。

「気ぃつけて帰り」
「ありがとう。試合楽しみにしてるね」

ありがとうの後に続いた言葉に嘘はない。
でも私は少しだけ後悔した。


◇ ◇ ◇


高校生になって最初のイベントは体育祭だった。稲荷崎高校では秋ではなく気候の安定した五月最後の土曜に体育祭が開催される。だからゴールデンウィーク明けからは種目ごとに出場選手を決め練習を始めるのだ。

「一番足速い奴がアンカーやるんが当たり前やろ。なら当然、俺よなぁ?」

でもこの時、クラスを分断するくらいの事件が起きてしまった。男子選抜リレーの走者順で揉めたのだ。四人とも全員運動部だった。アンカーは当然足が速い人——それなら陸上部のあいつだろうと決まりかけていた時に宮君が先ほどの言葉を言い放ったのだ。どうやら体力テストの成績では宮君の方が五十メートル走のタイムは早かったらしい。でもリレーで走る距離は一人二百メートル。それなら部活でも鍛えている陸上部の子の方がいいのでは、という意見と実際のタイムを比べた宮君との間で結構な言い合いになった。

「バレー部なんて室内で球上げとるだけやろ?普段から外で汗水流して走っとる俺らとは鍛え方が違うねん」
「あ?もういっぺん言ってみ?」

そして一対三という最悪の形でひどい言い合いになった。確かに宮君の言い方も悪かったとは思うけど、陸上部の子の言葉はただの侮辱だった。結局、先生が止めに入り一時休戦に。でもその後の宮君はクラスでも浮いた存在になってしまった。みんな怖がったりして必要以上に彼に話しかけなくなったのだ。

「ゴミ集めに来たよ」

でも私は宮君を怖いとは思わなかった。中学三年間同じクラスで彼のことを見ていた。特に親しくもなかったけれど宮君のことは高校で出会った彼らよりは知っているつもり。宮君は何事にも真剣に取り組める人で、だからこそ周りが見えずに自分の我を貫き通してしまう人だった。

「おおきに」

同じ高校に進学してまた同じクラスになった。でも私達が特別親しい関係になることはなかった。現に高校生になってからも掃除当番で同じ場所を割り当てられたこの時でしか会話らしいものはしていない。だから私は宮君のことを知った風な口ぶりで語るけれどそれを本人に伝えることはなかった。でもそれならば、せめて今まで通りに私は彼に接したいと思った。

「なぁ、明日は俺のとこまでゴミ集めに来なくてええよ」

掃除当番は五人で一つの場所を割り当てられる。今週は中庭でそれぞれ散らばって掃除をしていた。でもこの時期は落ち葉も少ないからみんな掃除よりもお喋りに夢中になる。現に今も私たち以外の三人はお喋りに花を咲かせていた。

「どうして?」
「やって俺と話しとったら自分の印象も悪なるやろ?気に掛けんでええよ」

宮君にとってそれは気遣いの言葉であった。でも私はそれに無性に腹が立った。なぜ宮君がそんなにも引け目を感じなければならないのか。そしてとても悲しい気持ちになった。だって私は宮君に憧れてたから。ちゃんと自分を持っていて人に流されずに芯を通せる彼を尊敬していたのだ。

「宮君らしくないね」

私達の関係はせいぜい『四年目の同級生』という程度。でもその日、私は『ただの同級生』という一線を超えた。

「自分が正しいと思ったことを言ったんでしょ?だから堂々としてればいいと思う。それでもまだ悪く言う人がいたら証明してみせたらいいんじゃないかな」

確か中学の時のドッヂボール大会でも似たようなことがあった。「あいつバレー部だから大したことねぇぞ」と言った敵チームの男子の顔面に宮君はストレートでボールを当ててみせた。その行為は決して褒められたものではなかったけれど小さく拍手を送ってしまった。それくらい気持ちのいい光景だったのだ。

「は……?」

一息にそう言い切って、ハタと我に返る。目の前の宮君は大きな目をさらに見開いて、おまけに口まで開けていた。

「ご、ごめん!今の忘れて!」

うわっ恥ずかしい。何一人で熱くなってるんだろう。女友達にすらこんな風に自分の意見を言うことなんてないのに。しかも宮君に至っては相談すらされていない。それなのに自分の意見ばかりつらつらと述べてお節介にも程がある。

「自分、案外おもろいこと言うなぁ」
「そんなことは……あの、知ったようなこと言ってごめんね。私の話なんて無視してくれていいから」
「そうはいかんよ。今の言葉めっちゃ嬉しかった」

宮君はその端正な顔をくしゃりと潰して笑った。
その顔は今も私の脳裏にはっきりと焼き付いている。

そして宮君は体育祭にて有言実行してみせた。アンカーとしてリレーに参加して三位でバトンを受け取りその後見事に追い上げ優勝をしてみせた。そうとなれば文句を言う人もいなくなって。そして男の子特有のノリなのか喧嘩した陸上部の子とも仲良くなっていた。

それから宮君はクラスの中心人物になった。彼の周りにはいつもたくさんの人がいてその輪の真ん中で一番楽しそうにしているのが宮君だった。疎外感、ってわけじゃないけれど近づいたと思った距離が勘違いだったのだと気付かされたような気分。きっともう二人きりで話すことなんてないんだろうなと、その時は漠然と思った。





会場近くのコンビニが待ち合わせ場所だった。やはりこれから観戦に行く人が多いのかチームユニフォームを着ている人や応援グッズを持っている人が多く見られる。その人ごみの中で頭一つ抜きんでた人物を見かけた。帽子を深く被っているため顔はよく見えない。あってるかな?と体を左右にずらしながら挙動不審な動きをしていれば先に見つけてくれたらしい。彼の方が駆け足でこちらまで来てくれた。

「今日はよろしゅう」
「こちらこそ。お願いします…!」

宮治君は息一つ乱していなかった。そんな彼に私も慌てて挨拶をする。
どうしてこのような状況になったかというと、昨夜届いた一通のメールが事の発端だった。それは高校生の時から使っている一番古いアドレスのもので、まさか今の時代にダイレクトメール以外のものが届くとは思ってもみなかった。その送信者は宮君からで、彼もまたアドレスを変えていなかった。

「それにしてもツムも回りくどいことするなぁ」

そしてメールに書かれていた内容は宮治君と一緒に来たらどうか、というものだった。一枚しかチケットを渡せなかったことを気に病んでいたらしく一人では寂しかろうと思われたらしい。

「付き合わせてごめんね」
「あっそういう意味やないんよ!まぁVIP席に一人は正直気まずいからなぁ。俺も今日は休みやしちょうど良かったわ」
「え、VIPって……?」

会場まで辿り着き、一般用の入口から入っていく。しかしこの間とは違い一階の奥の通路へと進んでいくことになった。確かに一人だと気後れしてしまったかもしれない。宮治君の後を小走りで着いて行く。そして扉の前でチケットを見せ会場内へと足を踏み入れた。

「わぁすごい!」
「結構近いやろ?」

コートサイド側のアリーナ席。テレビ中継よりも近い位置でコートを見ることが出来る席だ。現に試合前にアップをしている選手達は目と鼻の先だった。

「偶にボールこっちまで飛んでくるから気ぃ付け」
「こんなところまでボールが、——ひっ?!」
「おっと」

バンッ、と横で大きな音が聞こえてからボールが飛んできていたことに気が付いた。しかしそれは私の頭に直撃することもなく大きな手により受け止められる。しかしその事実に着いていけていない心臓が煩く音を立てていた。

「大丈夫か?」
「う、うん。ありがとう」
「すんませんした!……ってなんやサムやないか、それに自分も!」

ボールを受け止めた手が退けられればその先には宮君の姿があった。先日のラフな格好とは違い、ユニホーム姿で髪はオールバックにしている。その姿を間近で見て、あぁバレーボール選手なのだ、と馬鹿みたいな感想が頭に浮かんだ。

「気張り過ぎやでこのノーコンが!」
「喧し!こっから調子上げてくんや!それよかすまへんな、怪我はないか?」

宮治君が投げたボールを宮君は片手で受け取った。そして先程とは一転して眉と目尻を下げて私を見る。ころころと変わる表情も変わらない。それに対し、こくこくと首を縦に振れば「もげるで」とぶはっと息を吐き出すように笑われる。その後も一言二言、言葉を交わしていたところでMSBYの選手に号令が掛かった。

「なんやもう集合時間か」
「宮君、頑張ってね」
「おう!今日のMVPは俺や!応援よろしゅう」



そして言葉通りに、その日の投稿ツイートには『本日のMVPは宮選手です!』の言葉と共に二枚の写真が載せられていた。一枚は選手たちの集合写真でもう一枚は宮君単体のもの。ピースサインでドヤ顔をする宮君はかっこよくて、リプライにもそれを表す言葉が連なっていた。でも私は試合前に向けられたあの顔がどうしても忘れられなかった。



今日とは真逆の暑い日だった。
入学して早半年、学校生活には慣れたものの私は未だに購買部に行ったことがなかった。というのも一年生だからだ。あそこは大抵上級生がたむろしていて一人で行くには勇気がいる。しかし、その日私は一人で足を運んだ。午後の授業で使う分のルーズリーフがなくなってしまったのだ。仲のいい子は皆ノート派で、しかも昼休みに委員会の仕事が入ってしまったので一人だった。

「何やっとるん?」
「うわっ…!?あ、宮君」
「そんなとこ突っ立って何しとん」

だけどやっぱり入口にいた男子生徒の集団に尻込みをし柱の影から様子を伺っていたところで声を掛けられた。私を見下ろしていた宮君の視線は男子生徒へと移る。そして私が質問に答える前に宮君が続けて口を開いた。

「俺も購買に用あんねん。一緒に行くか?」
「…っお願いします!」
「なんで敬語やねん」

ぶはっ、息を吐き出すように笑う。普段教室で見せる顔とは違った雰囲気に私はまた距離が近付いたのだと錯覚した。だって私が困ってると思って声を掛けてくれたのでしょう?現に宮君はその時、パックの野菜ジュースしか買ってなかったから。

「宮君これあげる」

だから恩着せがましくないほどに私は宮君にお礼をした。真夏にチョコレート菓子なんて今思えば逆に迷惑だったかもしれない。それに宮君がチョコレート好きかどうかも知らなかったし。でも彼は少し驚いて、そして「おおきに」と躊躇いがちに受け取ってくれた。



今日、またあの顔を目のあたりにして奥へと仕舞い込んだ感情が疼く。でも見て見ぬふりをするかのように頭を振って雑念を取り払った。だってきっと、二の舞になるだろうと思ったから。





VIP席ともなれば一般で取るのは相当難しい。確かそのチームの会員になり、その中から抽選で当たった人でないと購入することが出来ない席。宮君はあげる人がいないと言っていたけれどそれにしたってこんないいものをタダで頂いたことには気が引けた。



「この前のお礼にお茶でも……いや、食事か?」

ベッドに寝転がりながら唸ること十五分。宮治君経由で教えてもらったメッセージアプリのトーク画面を開き、文字を打ち込んでは消すという作業を繰り返していた。先日のお礼がしたいのだけれど物を渡すにしたって会うことになるだろうしそれならご飯を奢った方がいいのではというところまで辿り着いていた。

「『先日のチケットのお礼にご飯を奢らせてくれませんか?難しいようなら断ってくれてもいいので……』ちょっと文章固すぎる?いや、もういくしかない!」

勢いのままに、えーいままよ!と送信ボタンをタップした。これで任務完了だとスマホを投げ出して布団を頭から被る。先ほどまであんなに緊張していたというのに送ってしまえば胸のつかえがとれたかのようにスッと軽くなる。それはあの時の感覚によく似ていた。



一歩、二歩と前が見えぬ階段を上っていく。足元が見えぬほど積み上げられたノートに私の腕は限界を迎えていた。それでもこの階段を上りきればすぐ側が教室だ。よし、と心の中で気合を入れ直したところで身体がカクンと傾いた。もう一段あると思っていた階段、しかしその先に続いていたのは平坦な踊り場だった。

「痛い……」
「大丈夫か?!」

私の悲痛な声、というよりはノートがばらまかれた音によりこちらに気が付いたらしい。顔を上げれば宮君が大急ぎで階段から降りて来ていた。そんな彼を見て反射的に、ごめんと謝れば「何謝っとんねん」と眉をひそめながらノートを拾い集めてくれた。

「怪我はないん?」
「うん。ごめ……じゃなくてありがとう」
「もう一人の日直どこ行った?」
「えっと…分かんない」

そう、これは日直当番として担任の先生にクラス全員分のノートを運ぶよう頼まれた仕事だった。しかしもう一人はというと当番の仕事もそこそこにどこかに行ってしまったのだ。まぁクラスでもちょっとやんちゃしているような子だったからサボりと考えた方が自然かもしれない。

「ハァ?ほんまあいつはしゃあないなぁ」
「まぁしょうがないかなって」

拾い集めてくれたノートは宮君の方が多かった。それにお礼を言いつつ受け取ろうとすれば彼はそのまま腕に抱えて階段を上っていく。だから私も半分以下の数になったノートを抱え直し隣りに並んだ。

「ありがとう宮君」
「こんぐらいええよ。それよりこれ置いたらあいつ探しに行くで」
「え?」
「日直押し付けるとかありえへんやろ。それに自分も自分や。いつまでもへらへらしとったら、いいように使われるで」

階段を上りきって左へと曲がる。人気のない階段とは一変して廊下は談笑の声で溢れていた。壁に寄りかかって会話をしている子や窓から身を乗り出して中庭に向かって声を張り上げている子なんかもいる。そんな雑踏の中でも宮君の声ははっきりと聞こえた。

「お利口さんのいい子ちゃん、それって人に好かれるけど自分に得するようなことなんて何一つあらへんで」

後ろ扉を通り過ぎて廊下を進む。途中で教室側の窓から宮君を呼ぶ女の子の声が聞こえたけれど彼はそれを無視していた。しかし今思えば耳に届いてなかったのかもしれない。

「私って偽善者かな?」
「おん」

ただ私の質問に対してはそうはっきりと答えてみせた。自身の歩幅がわずかに狭まる。そうなれば宮君の背を追いかけるような形になった。

「それを悪いとは言いひんけどいつか足元すくわれんで」
「そっか」
「……ってすまん!!」

教室に入る直前、宮君はノートを振り落とす勢いでこちらを振り返った。その突然の出来事に、うん…?という曖昧な返ししかできなかったのは最早必然だった。しかし宮君は私が怒っているのだと勘違いしたらしい。

「なんや自分の意見押し付けてしもうてすまへん。こんなん俺に言われたかないよな……サムにもよお言われんねん。ちぃとは人の気持ち考えろって」

違うよ、宮君。寧ろお礼を言いたいくらいだ。だって今まで私にそう言ってくれる子はいなかったから。私の友達はみんな優しかった。私が落ち込んでいたら励ましてくれて、困っていたら手を差し伸べてくれるような子達。でもその根本まで解決してくれるような子はいなかった。宮君の言葉を借りるなら彼女達は「いい子ちゃん」だった。

「そんなことないよ」

怒ることは勇気がいること。それは一歩間違えれば人に嫌われる可能性もあるから。でも宮君は自身の体裁なども考えずに率直に言ってくれたのだ。宮君にとって私一人に嫌われることなど、学校生活において何一つ支障はないのかもしれない。でも私は彼の勇気とその言葉が素直に嬉しかったのだ。

「日直の子探してくる」

宮君よりも先に教室に入り教卓の上にノートを置く。そして後に続いてきた宮君も同じように荷物を手放した。彼にしては珍しく猫背で、それでもまだ私より背が高いというのにその身はやけに小さく見えた。しかしそんなことは構わずに言葉を続ける。

「仕事手伝ってほしいって言ってくる」

私の一言に宮君は大きな瞳をまん丸にさせる。それはビー玉よりも大きくて零れ落ちそうなほどだった。

「ありがとう宮君」
「ぶはっ!自分、ほんまにいい子ちゃんやな!」

その「いい子ちゃん」が先ほどと同じ意味合いでないことくらい私でも分かった。



目覚ましが鳴るよりも早く目が覚めた。それは部屋の電気を点けっぱなしで寝落ちしてしまったからだ。ほぼ無意識的に手探りでスマホを探す。そして今が何時かを確認するためにディスプレイの灯りをつけたら宮君からの返信があった。

『わざわざありがとうございます。なら飯行こか』

なんで敬語やねん、とツッコミを入れるのは今回は私の方だった。





日時は宮君に合わせて店は私が予約した。半個室の和食メインのお店は雰囲気がよくて私のお気に入りだ。平日の今日は比較的空いており少し早く着いてしまったけれど中へと案内してくれた。そのことをメッセージで宮君に送れば『あと十分で着く』と簡潔な返事が返って来た。

「待たせた!」
「全然大丈夫だよ」

本来の待ち合わせ時刻ぴったりに姿を現した宮君を迎え入れる。店には迷わず来れたらしいが電車の遅れでギリギリになってしまったらしい。たとえ遅れても私は気にしないのにな、と思いつつ一息ついた宮君にタッチパネル式のメニューを手渡した。

「今日は何でも好きなもの頼んでね」
「ほんまにええの?」
「うん」
「ならゴチになります!」

そうしてテーブルの上にはたくさんの料理が並べられた。ただ互いに飲み物はソフトドリンク。私はそもそもお酒が強いわけではなく、宮君も付き合い以外で飲むことはあまりないそうだった。

「ん!これめっちゃ美味い!」
「でしょ?ここの揚げ出し豆腐、私好きなんだ」
「自分の舌ほんま頼りになるわ」

そして私が勧めた料理を次々に平らげていった。試合が近いときは食事制限もするらしいがオフシーズンの今はそこまで厳しく管理はしていないらしい。そして和食だったのも相まって宮君の箸は止まらなかった。

「ご馳走さんでした」
「もう大丈夫?」
「おん。めっちゃ美味かった」
「よかった」

タッチパネルを操作して会計の為に店員さんに来てもらう。宮君は「俺の方が食うたから…」とお財布を出そうとしたが断固として私はそれを断った。そしたら「言うようになったな」とまるでお母さんのように褒めてくるのだから思わず笑ってしまった。

「あの、すみません…!」

精算を終えテーブルへと戻ってきた店員さんからお釣りをもらった時だった。その子は私ではなく向い側の宮君を見ながら声を掛けた。

「なんや?」
「もしかしてMSBYの宮選手ですか?」

こちらを見た宮君と一瞬だけ目が合う。私は二回ほど瞬きをして次の言葉を待った。

「そうやよ」
「やっぱり!俺、大学でバレーボールしてるんです!ポジションもセッターで宮選手は憧れの存在で……あ〜!マジここでバイトしててよかった!」

彼は相当宮君のファンだったようで頬を高揚させて喜んでいる。そして先日の試合も観に来ていたらしく私には分からない専門的な視点から感想を述べる姿にはバレーへの愛も感じられた。その姿に、初めはやや警戒していた宮君だったけれど数分後には笑みを浮かべて会話をしていた。

「もしよかったらサイン貰えませんか?!」
「サインや写真は上からNGでとるんよ、すまへんな」
「そうでしたか…… 」
「握手でもええ?いいトスあげれるよう念送っといたるわ」
「えっあ、ありがとうございます!!」

その光景を微笑ましく見ていたところでこちらを見た彼と目が合ってしまった。軽く会釈をすれば彼は何か言いたそうに唇を僅かに開きかける。しかしその言葉を聞く前に、宮君がその答えを言った。

「高校ん時の同級生。彼女とかじゃあらへんからSNSで拡散とかはやめとってな」

ああ、そうだった。宮君はもう違うんだ。
どんなに彼が私に今まで通りに接しても世間からの見られ方は変わってしまった。プレーも発言も行動も、どれ一つとってもそれはメディア化され注目を浴びる可能性がある。そんな彼を不用意に食事に誘ったことにひどく後悔をした。 

「なぁまだ時間ある?」

店を出て、宮君から食事のお礼を言われた後にそう切り出された。食事に誘った時の私なら二つ返事で答えられたけれど先程の光景を思い出し言葉を詰まらす。もし誰かに写真でも撮られたらきっと宮君にも、そしてチームメイトにも迷惑が掛かる。

「あの、」
「露店なんやけど美味いコーヒー飲めるとこ知っとんねん。寒いからあんま長居するつもりもないねんけど、どや?」
「……じゃあ行こうか」

でも私は自分に負けてしまった。宮君と過ごす時間は楽しくて、あと少しだけ…と欲張ってしまったのだ。多分、今日を逃せばもう二度と二人だけで会うことなんてないと思う。だから今日という日が終わる前に良い思い出を作りたかった。

「熱いから気ぃつけ」
「ありがとう」

そして繁華街の外れにあるコーヒースタンドに立ち寄った。宮君の言う通りそこは店舗ではなく移動式の屋台として存在しており遊歩道の隅に建てられていた。しかし意外にも人気らしく豆の香りに誘われた大人達が列を作っている。そこで二人分の飲み物を注文し宮君が奢ってくれた。

近くのベンチに横並びで座ったところでカップの蓋を取っ払った。ふわっと香ばしい豆の香りが鼻に抜ける。その香りを楽しみつつゆっくりと冷ましてから私はようやくひと口目にありつけた。

「ん、美味しい」
「せやろ」

宮君も私と同じくらいのペースでカップを口へと運んでいく。風も吹かない静かな夜だった。

「宮君はすっかり有名人だね」
「まぁな。これでも日本代表選手やからな」

カップから登る白い湯気が空へと溶けていく。その先を目で辿っていけば赤く輝く星が見えた。冬の大三角形の頂点、ベテルギウスだ。

「すごいなぁ」

そこから視線を左下へと動かせばすぐにシリウスが見つかる。中学の理科は得意というわけではなかったけれど星座早見盤を回しながら空と照らし合わせるのが好きだった。

「自分はあんま変わってなくて安心したわ」

そして三つ目の星を見つけようとして、やめた。
カップを口元へと運び一口飲む。中身はちょうどいい温度になっていた。だから私はあと二口ほど飲み進めてから両脚の上にカップを置いた。

「そう?」
「おん」

ずっ、と隣からはわざとらしい音が聞こえた。ちらりと隣を盗み見れば示し合わせたように視線が交わる。少し、緊張した。

「公式の初めての試合で高校の同級生呼んだことあるんよ。そしたらまぁサインくれやの写真撮ってくれやの鬱陶しゅうて」

乾いた笑い声が夜空に響く。宮君はカップに口を付けてそれを潤すように一口啜る。隣の私もつられたように同じ動作をした。

「やから自分は今まで通りで安心した」
「私は芸能関係に疎いから」

気まずさなのか照れなのか、よく分からない感情を誤魔化すようにコップを握る。そうしたら僅かにへこんで水面が揺らいだ。

「それもらしゅうてええと思うで」
「宮君は色々と私の事を買い被り過ぎじゃない?」
「はぁ?褒めてんのにその言い方はないやろ」
「ご、ごめん」
「冗談」
「ひどい」
「すまへん」

端正な顔をくしゃりと潰す。それを見たらもう許すことしかできない。私はどうやら宮君のこの顔に弱いらしい。まぁそもそも本気で怒ったわけじゃないんだけどね。

再び訪れる静寂——しばらくは道行く人々を遠目で見て互いに飲み物を啜るという時間があった。そうしてカップの中身があと一口で終わるという頃に「なぁ、」と短い言葉で呼び掛けられた。

「なに?」
「どうして俺ら別れてしもうたんやろ」

聞かれたと言うよりは独り言に近かったのかもしれない。そのよそよそしい聞き方は責めたような言い方にならないよう、彼なりの配慮だったのかもしれない。でもこれは確かに私に問う言葉だった。だって別れを切り出したのは私の方だったから。

「タイミング、かな」
「なんやそれ」

宮君のカップはとっくに空だったらしい。それを片手でぐしゃりと潰してみせた。

「高二のときクラスが別になった」
「俺は気にせん言うた」
「部活も違うし会う時間が作れなかった」
「昼飯一緒に食おう誘った」
「宮君はいつも部活の人と食べてたじゃない」
「毎日やなくても予定合わせればええ話やった」

怖いくらい今まで触れてこなかった会話が続いていく。それは一つ一つ答え合わせをするかのようで胸が苦しくなった。

「……ごめん」
「別に今さら謝ってほしいわけやない」

そうだよね、と脳内で同意しながらも私は一切声を発しなかった。

「俺のこと嫌いになったん?」
「それはない」

でも続く言葉にははっきりとノーという答えを出した。
宮君は今も昔も私にとって憧れであり、尊敬できる人だ。だから嫌いになったなんてことはない。でも「好き」かという問いに対して私は首を縦にも横にも振れない。それは今も昔も同じだった。

「また連絡してもええ?チケット貰うてくれる子なんて自分くらいしかおらへんから」

宮君はずるい。いつも私が断れないような聞き方をしてくる。

「……うん」

でも宮君の気持ちを知ってて断らない私は、もっとずるかった。


◇ ◇ ◇


校舎裏にひっそりと植えられた木蓮が花開き春の訪れを知らせたその日、私は宮君に告白された。



「なぁ、」
「え?」

さて帰るかと席を立った時だった。顔を上げれば宮君が目の前にいて、手にはノートと教科書を持っていた。そんな彼は首筋に手を置いてイケメンだけが許されるであろうポーズを取りながら私を見ていた。

「英語教えてくれへん?」

明日は英語の小テストがある日だ。英語の先生は特に厳しいことで有名で小テストでも悪い点数を取れば通常の倍以上の課題を出してくる。

「私?」

だから皆、小テストに備えて勉強はするのだけれど何故宮君は私に声を掛けたのだろうか。だって宮君には友達がたくさんいたから。私に声を掛けなくたって頼れる人は多くいるのだ。

「おん。やって自分教えるの上手いやろ?」
「いや、えーっと…どうだろう」
「赤点常習犯のあいつが前回平均点取れたんも自分が教えたからやろ」
「なに侑、私の悪口〜?!」
「うわっ出よったな地獄耳!」

宮君が「あいつ」と呼んだ私の友人がひょっこりと顔を出す。そして宮君を後ろからド突く。確かに彼女は前回の小テスト前に私が勉強を教えてあげたところ赤点を回避していた。

「なぁ俺にも教えてくれたってええやろ?」

彼女をなんとか追い払って宮君は両手を合わせて頭を下げた。そこまでされてはこちらも引き受けるしかない。私は担ぎ上げた荷物を再び机の上に置き自分のノートを取り出した。

それから確か一時間くらい、誰もいなくなった教室で宮君に勉強を教えた。授業が終われば大抵すぐに帰るか部活に行くかをしていたのでこんな風に居残るのは初めてだった。それは宮君も同じで今日は部活が休みなのだと最後にペンケースにシャープペンを仕舞いながら教えてくれた。

「そうなんだ。男バレは毎日部活があるイメージがあったから意外かも」
「体育館の修繕工事なんよ」
「じゃあ今日に限ってはラッキーだったね」

西日差し込む教室は昼間の喧騒を感じさせない独特な雰囲気があった。茜色に染まった椅子を引き荷物を持って立ち上がる。日はのびてきたと言えどもこの季節はまだ日暮れから夜までがあっという間だ。だからこそ、もう帰ろうかと宮君に声を掛けようとした。しかしその台詞は宮君により遮られる。

「自分に言いたい事あんねんけど」

宮君の大きな瞳は私だけを捉えていて目が逸らせなくなった。教室が静まり返ってグラウンドにいる野球部の声がよく聞こえる。でもそれを超えるほどの鼓動が私の胸をノックしていた。

「なに?」
「自分の事好きやねんけど付き合うてもらえませんか?」

口の中はカラカラで頭の中は真っ白になる。でもすぐに、あぁ罰ゲームかという現実味を帯びた答えが私の中で導かれた。だって宮君が私のことを好きになる理由が何一つ思い浮かばないもの。共通の趣味もなければ見た目で惚れられる要素もない。それならばクラスで一番怒らなそうな女子として罰ゲームの相手に抜擢されたと考えた方がよほど納得がいった。

「えーっと……他の人には言わないからもう帰ってもいいかな?」

無難な笑み浮かべてそう言えば宮君はその大きな瞳をさらに見開いて口を半開きにさせていた。そこからやや視線を逸らして彼のネクタイの結び目を見つめる。そして肩にかけていたスクールバックの持ち手を握りしめ言葉を続けた。

「他の子にはやらない方がいいよ。ほら、宮君かっこいいから本気にしちゃう子もいるだろうし」
「は?」
「じゃあ私は帰るね。ばいばい」

回れ右をして足先を扉の方へと向ける。本当は今すぐにでも駆け出したかったけれど、あからさますぎる態度を取るのは如何なものかと思い早足で廊下を目指した。

「俺には好きな人がいまぁぁす!!」
「っ?!」

三月の風が吹き抜け髪を乱す。振り返れば宮君が窓を開け放ち茜色の空へと身を乗り出していた。そして大きく息を吸い込んだ姿を見て私は鞄を捨てて駆け出した。机に体をぶつけるが気にしている暇などなかった。

「俺が好きなんっ、うぉ?!」
「待って!!」

そして勢いのまま横脇腹へとタックルをかました。後先考えなかったせいで宮君の身の安全などは二の次だったけれど彼が倒れることはなかった。寧ろ私を支え、抱きしめるような格好にこちらが恥ずかしくなってしまったくらいだった。

「びっくりした」
「それはっ、こっちの台詞だから…!」

宮君の腕の中から抜け出して距離を取る。頭の中でパニック状態の私とは裏腹に宮君はやけに冷静だった。

「今のは何?!」
「告白しよ思て」
「だからって……」
「やってああでもしないと信じてくれへんやろ」

そして宮君は私を真っすぐ見つめ先ほどと同じ言葉を述べた。

「俺と付き合うてもらえませんか?」

もう罰ゲームだなんて思わなかった。これが冗談で言っているのならば宮君は役者にでもなった方がいいと思う。それほどまでに嘘がない言葉だった。

「なんで私なの……」
「そんなん、」

宮君の言葉が詰まり目を逸らされる。時間にして恐らく三秒ほど。その間、私は息を止めていた。そして宮君のかすれ声と同時に息を吐き出した。

「気ぃついたら好きになっとった。これじゃ信じてもらえへん?」

私は首を横に振る。宮君の気持ちは十分に伝わった。それと同時に宮君への“憧れ”の気持ちが“好き”へと昇華した瞬間だった。告白を受けて好きになるなどあまりにも都合が良すぎる。でも考えるよりも先に答が唇の隙間から零れ落ちた。

「私でよければ、その…お願いします」

宮君とのお付き合いはこのようにして始まったのだ。





待ち合わせ時間は昼前だというのに普段の出勤時間よりも早く目覚めてしまった。小さい子が遠足や運動会の当日に早く起きるような、そんな感じ。そしてもっと的確な表現をするならば宮君と初デートした日と同じ感覚だった。つまり何が言いたいのかというと私はすごく緊張していて、それでいて今日という日を物凄く楽しみにしていたということだった。



「すまん、待たせた!」

待ち合わせ時刻の五分前、宮君は人を掻き分けながら大股歩きでやって来た。本当は気付いていたけれど宮君に声を掛けられるまでは気付かないふりをして、私ははっとした表情を浮かべて宮君を迎えた。

「ううん、私も今来たところ」

本当は十五分前から待っていた。でも浮かれているだなんて悟られたくなかったからわざと自分を取り繕った。

「ほんなら良かったわぁ」

コートの襟から僅かに覗く首筋には汗が滲んでいた。そしてそれを辿る様に宮君の全身へと視線を走らせる。オーバーサイズのロングコートは背の高い彼によく似合う。そして足元はイタリアブランドとコラボしたハイカットスニーカー。そのラフさは完全にプライベートの服装といったところで彼もまた今日という日を特別視してくれたようで嬉しくなる。でもそこで私は一つ気になる点を見つけてしまった。

「その恰好で大丈夫なの?」

宮君は伊達眼鏡も掛けてなければ帽子も被っていなかったのだ。彼は日本代表のバレーボール選手だ。俳優やモデルと比べてしまえばその知名度こそ低いが有名人であることには変わりない。この間の食事然り、知る人が見ればトップスター選手である。にも関わらず彼は変装のひとつもしていなかった。

「げっもしかしてこのコート似合わへん?!ちょいデカすぎたかなって自分でも思うとるんやけど?!」
「ち、違うよ!そうじゃなくて顔が見えてるから……」
「え…俺の顔そんな嫌いやったん……?」
「じゃなくて!」

盛大な勘違いに対して慌てて説明をすれば宮君はようやく納得がいったように「あぁ!」と声を上げる。そして私の心配をよそに余裕そうに笑った。

「ゆうてユニフォーム着てなきゃ分からへんて」
「でも……」
「それにこのイケメン隠しとく方が勿体ないやろ?」
「それは宮君が言うことじゃないでしょ?」
「自分が言ってくれへんからやろ」

拗ねたような言い様に、思わず笑みが零れれば宮君は不服そうに唇を尖らせる。だから私は、ごめんねと謝った後にかっこいいよと彼のことを褒めた。でも私にとって宮君の見た目はどんな姿であれ気にならなかったのだ。確かに宮君はとても整った顔をしているけれど私は彼の強く、芯の通ったところが好きだったから。



「当時、サムと見に行ったんが懐かしいわぁ」

二人で向かったのは商業施設内に完備されている映画館だった。この場所を提案したのは宮君で、なんでも十年ほど前に放映されたアニメ映画が4DXになったのだとか。

「まさかこんな形で上映してるだなんて思わなかったよ」

それは当時、私も友人と一緒に見に行った。今では夏になると金曜九時にテレビで放映されることもある。だからか映画館のフロアには私達のように懐かしい気持ちで来た人の他に親子連れや中高生の姿も目立っていた。

「ずっと見に来たかってん。せやから今日来れて嬉しいわぁ」

にこにこと笑う宮君に私も自然と笑顔になる。学生の頃は「侑の笑顔は胡散臭いわー」なんてクラスメイトに揶揄われていたりもしたけれど私は嫌いではなかった。
発券機へと向かう前に何か買うかと宮君に聞かれる。映画は約二時間、確かに飲み物くらいはあった方がいいだろう。そう伝えてフードコーナーの列へと並んだ。

「何にするん?」

列が進んでいき電光掲示板のメニューが見える位置まで近づいた。それを見上げつつ少し迷った後に、ミルクティーのホットと私は答えた。こういうところの物はやたらと値段が高くてやらしいな、、、、、と思ってしまう。一瞬香ったキャラメルポップコーンに気を取られてしまったけれど、買ったら負けな気がして直ぐに目を逸らした。

「次の方どうぞ」

店員さんの声の方へと二人で足を進める。私よりも歩幅が大きい宮君が先にカウンターへと辿り着き手元に置かれたメニュー表を見ながら注文をしてくれた。

「ミルクティーのホットのMと、ポップコーンセットを一つ。飲み物はコカ・コーラゼロでポップコーンは……キャラメルでええやろ?」
「え?」

お財布を取り出そうとしたところで唐突にそう聞かれた。びっくりして思わずバッグの中に財布を落下させる。目の前には宮君、そして横からの店員さんの視線に私は何も考えずに返事をした。

「あ、うん」
「ほなキャラメルで」
「かしこまりました」

店員さんは合計金額を伝えた後、すぐに準備のためにレジから離れていった。
宮君は私の為にわざわざポップコーン付きの物を選んでくれたのだろうか。となるといくら払えばいいのだろう。小銭もないし千円で足りるかな。

「あの、」
「ポップコーンセットでもよかってんけどさすがにLはデカすぎかと思て」
「そうだね。あのお金は…」
「いらへんて」

宮君がトレーにお札を置いたタイミングでドリンクとポップコーンを乗せたトレーが出てきてしまった。そして仕事のできる店員さんの手により精算からトレーの受け渡しがあっという間で私が口を挟む隙などなかった。

「お金、ごめんね」
「こんくらい別にええねん。そろそろ入場時間やな」
「そうだね——あれ、券売機そっちじゃないよ?」
「もう買うてあるから」

え?という私の声は人の溢れたフロアの雑踏でかき消された。唖然としている私の様子に気付いているのかいないのか。それは分からなかったが「ちょお持っとって」と言われ宮君からトレーを受け取った。

「今は何でもスマホで予約できるから便利よな」

そう言いながら入場入口でバーコードを読み取らせてすんなりと中に入ることが出来た。

「トレー持つで」

そして数秒だけ私の手の上に置かれていたトレーが奪われていく。

……これって本物のデートだよね。
そう気付いたときにはシアターの照明が落とされていた。





その後も宮君との交流は続いた。
予定が合わず映画の時のように二人で出掛けることはなかったけれどおにぎり宮で食事をすることはあった。その度に宮治君が「逢瀬の場にすんな」と茶化してきて、でもすぐに宮君が「独り身男の嫉妬はやめてくださーい」なんて言うものだから私としてはどう反応すればいいか分からない。しかしそれでいて黙っていれば「なにチベスナみたいな顔しとんねん」「角名のモノマネせんといて」なんて私が標的にされるものだから二人に負けじと言うようになった。

宮君の性格上、偶に人を食うような喧嘩っ早いところはあるけれど私の前では比較的温厚だ。でも先日、宮君の試合が見たくて自分でチケットを買ったら何故か怒られてしまった。「そない遠い席じゃよお見えへんやろ。言うてくれたら最前列用意したんに」と言われ、それに対し私は少しムッとして「引きで見た方がセッターの動きが分かりやすいよ。それに宮君はコートを良く動き回るから前の席だと視界から見切れるの。でもこの席だと宮君の事ずっと目で追えるんだから」と言ってしまったのだ。しかしすぐに調子に乗り過ぎたと反省したときには宮君には目も合わせてもらえなかった。ただそれは宮君の体勢の問題で、どういうわけか猿が反省するようなポーズを取っていた。こちらとしてもどう反応すれば分からなかったので「モニターでアップになるから宮君のイケメンもちゃんと見れるよ?」とフォローすれば「喧しい!」と顔を赤くしてキレられた。

メッセージのやり取りは頻繁ではないけれど週末の夜には通話をするようになった。SNSで見た通り、MSBYのメンバーは仲がいいらしく三日に一度は何かしらハプニングが起きてそれを聞く度に私は笑い転げた。「そない笑い上戸やったん?」と聞かれるくらいには意外だったらしい。でもそれは私ですらこんなに笑えたのだと疑問に思うほどだった。



「シーズン最後の試合お疲れ様でした」

日曜二十時、私は付けていたテレビの音だけを消して宮君からの電話に出た。

『おおきに』
「これで一ヵ月くらいオフシーズンになるの?」

買い換えたばかりのスケジュール帳を捲ればそこには桜のイラストが描かれていた。年度末の二週間は慌ただしい日々を送っていて帰宅後はすぐに眠りにつくことが多かったけれど明日からは少しだけ気が楽になる。しかしそれもすぐに新人教育で忙しくなるのだろうけれど。

『おん。そしたらまた一緒に出掛けへん?気になる店がいくつかあるんよ』

でもそんな少しだけ憂鬱な気持ちも宮君からの一言で私はすぐに吹き飛んだ。お気に入りのお菓子に新作の缶チューハイ、そしてご褒美のケーキよりも宮君の言葉は偉大だった。

「いいよ。そうなると私は週末になっちゃうけど大丈夫?」
『もちろんそっちに合わせるわ』
「ありがとう。それだと一番近い日で次の土曜日かな」

スケジュール帳を眺めながら答えるもそこにはまだ一切の予定もなく暇人であることが少し恥ずかしくなる。でもそれでいい。だってこの手帳に初めて書き込める予定が宮君との約束になるんだから。

『俺もその日ならー…ってあかんかった!』

突然の大きな声に驚いて耳からスマホを離す。そして私は机にスマホを置きスピーカーモードにした。始めからこうしとけばよかった。

「びっくりした。どうしたの?」
『その日は予定があったんやった。ちゅうか聞いてくれ、俺今度モデルやることになった!』
「えぇ?!」

次に大きな声を出したのは私だった。これは本当にスマホを机に置いてよかったのかもしれない。僅かだけれど声が遠くなったから。

『急に大きな声出さんといて、びっくりしたわ!』
「宮君がそれを言わないでよ。というかモデルってどういう事なの?」
『実は…——』

まだオフレコだけれどファッションCMのオファーが宮君の元へ来ていたのだとか。しかもそれはとっくに撮り終えていてその商品発表会が土曜に行われるらしい。

『ずいぶん昔に撮ったからすっかり忘れとったわ』
「すごいね!それってMSBYの他のメンバーも出るの?」
『いや、あの中では俺だけや。各スポーツ競技から一人ずつ選ばれとんねん』

一般人向けのスポーツウェアの宣伝らしい。宮君の他にも、私ですら名前を知っているくらい有名なサッカー選手やテニス選手がCMに出るらしい。

「そうなんだ。それってテレビで見れたりする?」
『多分…まぁ夕方のニュース番組にちょろっと流れる程度だと思うねんけど』
「そっかぁ宮君がドヤ顔で話す姿が見たかったな」
『自分、最近俺に対しての物言いに遠慮なくなってけぇへん?』
「じゃあ宮君の性格が移ったのかもね」
『なんやと〜?』

宮君とここまで会話ができるようになるなんて誰が想像できただろうか。これは私が精神的に大人になったためか、それとも宮君に対する気持ちに大きな変化があったからか。きっとそれはどちらも答えなのだと思う。

「そのCMっていつからテレビで流れるの?」
『土曜の発表会後直ぐやと。時間とチャンネル分かったら連絡しよか?』
「ほんと?楽しみにしてるね」
『おん。ならもう一方の楽しみは日曜日でもええ?』
「分かった」

その後、一言二言会話をして終了ボタンをタップする。
季節は変わり、宮君と再会してもう四ヵ月は経とうとしている。その間、私は自分と向き合って感情の整理をした。そしてあの時の告白の、本当の返事をようやく見つけることが出来た。

次の日曜、私の気持ちを伝えよう。


◇ ◇ ◇


恋愛に対しては奥手だ。というよりは鈍いといった方が正しいのかもしれない。
好意を抱ける相手がいてもそれが“尊敬”なのか“憧れ”なのか“恋愛”なのか見分けがつかなかった。でも今の私なら確信をもってはっきりと断言することができる。



「好きなんだよね、宮侑」

僅かに浮かせたカップは口元に運ばれる事なく机の上に逆戻りした。そのカップを両手で握りしめて息を殺す。水面に描かれたラテアートはまだ形を保っていた。

「誰それ?」
「スポーツ選手。イケメンで有名なんだけど知らない?」
「スポーツは見ないからなぁ」
「CMにも出てる人!ほら、この人なんだけど……」

直接的には見てないけれど彼女達がスマホを見ていることは分かった。私はカップの縁を指先でなぞりながら耳を澄ませる。彼女達の他にももちろんお客さんはいて左右からも話声が聞こえてくる。だからこそ集中して次の会話を待った。

「えっやば!背高くてイケメンって!」
「でしょ?バレーボール選手なんだ。でさ、こっちのSNSも見てよ」

それはおそらくMSBYの公式アカウントなのだろう。時折、彼女たちの笑い声が聞こえた。その間にカップを持ち上げて一つ息を吹きかける。白い泡のハートは一瞬形を崩すがしばらくするとまた輪郭を取り戻していった。

「この人すごく面白いね」
「でしょ?ギャップ萌えって感じがいいんだよね」
「他にないの?」
「写真はこれだけかな。あっでも今月発売の月バレのコラム侑だったかも」
「えっ見たい」

ずっ、と啜ったカプチーノで唇と舌が火傷した。カップの中では薄茶と白が混ざり合ってもう何が描かれていたのかも分からない。唇にハンカチを押し当てている私の後ろで彼女達は椅子を引いて立ち上がった。

集中を解いたからか次第に周囲の音が耳に届いてくるようになる。同い年くらいのカップルの話声に、男子高生のイヤホンから漏れるポップミュージック。パソコンのキーボードを叩く音に、遠くでは店員さんがオーダーを通す声が聞こえた。なんだか目が覚めたような感じだ。どうやら私は都合のいい夢をずっと見ていたらしい。

「すまへん!遅くなった」

カップの中身が残りひと口となった頃、宮君は現れた。深く帽子を被って今日は伊達眼鏡まで掛けている。でも背の高さと声の大きさ故に目立っていてあまり変装の意味はないように思えた。

「大丈夫だよ。とりあえず座って?」
「せやな」

机に置かれたショートサイズのプラスチックコップからここに長居する気はないことが分かった。そして中身のアイスコーヒーはあっという間に宮君の口の中へと消えていく。余程急いできてくれたらしい。

「お疲れ様。大変だったね」
「本当はもっと早く来れるつもりやってんけど道端でファンやゆう女の子に出くわして…——」

その後にどんな話をしたかは覚えていない。ちゃんと会話は出来ていただろうけれどおそらくそれは相槌程度のものだったと思う。

「出掛けるのやめようか」
「いや、でも……」
「何かあったら宮君だけじゃなくて他の人にも迷惑掛かっちゃうでしょ?」

そうしてカフェを出て私達はすぐに解散した。
大通りに沿って歩き、一人駅を目指す。そしてスクランブル交差点で足を止めた時、商業ビルの大型モニターにあのCMが映し出された。日本を代表する有名スポーツ選手達がワンカットずつ流れていく。そこには私の知らない彼がいた。





春休み最初の土曜日。その日は他校との練習試合があるのだと宮君がメールで教えてくれた。宮君のバレーは体育の授業でしか見たことがない。そのときは確か宮治君が相手チームにいて「双子対決!」なんて周りが囃し立てて白熱した試合を行っていた記憶がある。でもその時は二クラス分の生徒がコートの周りを取り囲んでいたため私はボールがネットを超える光景しか見えなかった。だからこそようやく宮君のバレーが見れるのだと、嬉しくなってすぐに『見に行くね』と返したのだった。件名の『Re:』の羅列によりもう初めの件名が分からないほどだった。

でも試合を見に行って後悔した。
場所は稲荷崎高校の第三体育館、そこは全国レベルの強さを誇る男子バレーボール部の為に新設された場所で二階には観覧席もある。試合当日は対戦相手である他校生も多くいたのだけれどそれ以外にも私服姿の女の子達が多くいた。そして彼女達の中には選手の名前が書かれたうちわを持参している子もみえた。

「うわっまた来てるよ」

一緒にいた友人も彼女達の存在に気付いたらしい。友人は女バレに所属していて何回か練習試合を観に来たことがあるからか彼女達のことをよく知っていた。

「あの子達は何者なの?」
「宮兄弟のファン」
「ファン?!」
「そう!アイドルかって感じだよね」

確かにうちわには宮兄弟の名前がそれぞれ書かれていた。そして観覧席をよくよく見れば他にも似たような子達が何人かいる。その光景に唖然としていたところで、小さな歓声が上った。

「ほら!選手達出てきたよ!」
「今回は治君スタメンに入ってるかな?」
「侑ー!こっち向いてー!!」

そこで改めて宮君の人気を知ったのだ。中学高校と合わせて四年間同じクラス、彼が誕生日に山ほどプレゼントをもらうことも、バレンタインに何人もの告白を受けていることも知っていた。でも『彼女』となった今、それをまざまざと見せつけられて頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

まだ私達の関係はおそらく誰も知らない。少なくとも私は言ってないしクラスの男子も揶揄ってこないことから宮君も言っていないと思われる。でもきっとずっと隠しておくこともできない。その時私は宮君の『彼女』だとはっきりと言うことが出来るのだろうか。



青ではなく、緑の点滅は着信の合図。それに驚きつつも携帯を開けば宮君の名前が表示されていた。

『途中で帰ったん?』

電話に出たときの第一声がそれだった。私は胸に針を刺されたような気分になりながら、ごめんと一言だけ伝える。今日の試合、四セット目で稲荷崎の勝利を確信した時点で私は体育館を後にしていた。

『なんかあったん?』
「家の用事があって……ごめんね」

うそ。本当は嫌だったんだ、宮君が他の女の子達に囲まれてるのを見るのが。
いつの間に自分はこんなにも嫉妬深くなったのだろうか。ふわりと揺れるスカートに花のような笑みを添えて、可愛らしいラッピングをされた差し入れを宮君が受け取るの。これはこの先、ずっとあることなのだ。

『ならしゃあないか。できたら一緒に帰れたら思たんやけど』

そしてそんな彼女たちに向けて自分が『彼女』であると言う自信がなかった。嫉妬と同時に芽生えた劣等感。そしてそんなことを気にする自分が嫌になって私は逃げた。

「せっかくの機会だったのにごめんね」
『ええねん!来てくれただけで嬉しかったんやから!』

おやすみの挨拶と共に終話ボタンを押して携帯をバッグの中へと投げ入れる。それはぬるくなったスポドリに当たり鈍い音を立てた。



「は?今なんて言うた?」
「……別れたい」

だから別れを切り出した。校門前の桜はとっくに散っていて、新一年生たちの部活動が決まり始めた時期だった。
自分の部活動を終えて宮君にメールを一通入れる。今日一緒に帰れないか?という誘いは私から初めて宮君に声を掛けたものだった。

「本気なん?」
「うん、ごめん」
「なんで?」
「彼氏とかじゃなくて宮君とは友達でいたいと思った」

あらかじめ用意していた答えを私は唱えた。それは呪文のように何度も何度も自分に言い聞かせたものだった。

そしてまた、私は同じことを繰り返すこととなる。





ゴールデンウィークを跨いで国内合宿をするらしい。そうなると大きな合宿施設のある山奥で一カ月ほどトレーニングを積むことになるのだとか。だから今日しかないと思った。



「ねぇまだあの露店のコーヒー屋さんってあるのかな?」

食事を終え、お店を出たタイミングでそう切り出す。夕食は創作フレンチが有名なお店だったけれど食後の飲み物は注文しなかった。その理由は私の先程の一言に尽きる。

「どやろ。ここからそう遠くないし行ってみよか」
「うん」

宮君は帽子を被り私はマスクを付ける。日に日に暖かくはなれど夜になればまだ肌寒い。スプリングコートの隙間から入り込む冷気が冷たくて裾を掴むように指を折り曲げた。私と宮君の間には拳一つ分の距離があってその隙間をひゅうっと風が通り過ぎる。その距離は縮まることなく平行線をたどり十五分ほど繁華街の外れに向かって歩き続けた。

「おっまだあった」

以前と変わらぬ立ち住まいで確かに同じコーヒースタンドがあった。時間帯が良かったのか店に列はできておらずすぐに買うことが出来る。そしてそれぞれのカップを受け取り近くのベンチに横並びで座った。幸いにも周囲に人はいない。だから私はマスクを鞄の中へと仕舞い、宮君も鬱陶しそうに帽子を外した。

「なんや未だに信じられへんわ」

一口飲んで空を見上げるも生憎の曇りで星は見えない。視線を隣りへと向ければ宮君のプラスチックカップの中では氷が揺れていた。カップの表面に着いた水滴が掌を滑り底をなぞって地面へと落ちる。その黒い染みを私は見つめた。

「何が?」
「やってまた自分に会えるとは思てへんかったから。で、隣座って茶ぁしばくなんて考えられへんかったわ」
「お茶じゃなくてコーヒーだよ」
「一々細かいこと言わんでええ」
「わっ?!もー押さないでよ」

肩に肩をぶつけられカップの中身が波を立てた。しかしそこまで強い衝撃でもなかったため零れることなくすぐに静まり返る。ホットのカフェラテは濁っていて私の顔も空の景色も写していなかった。

「すまへん」
「それ本当に思ってないでしょ」
「思うとるよ」
「うそ」
「本当やで。やって自分に嫌われたくないねんもん」

宮君はずるい。いつも絶妙なタイミングで、それでいて私が迷っているときにいつも先手を打ってくる。

「なぁ、」
「あのさ、宮君に話があるんだけど」

でも私はもっとずるい人間だから宮君の言葉を遮った。
地面の黒い染みから視線を宮君へと移動させる。その顔を見た瞬間、罪悪感が胃の中をせり上がった。

「なに?」

片膝の上に頬杖を付いてその手の上に右頬を乗せて私を見る。そうすれば自然と宮君の目線が低くなるから私が見上げられるような形になった。あぁ、イケメンとは全くもってずるい生き物である。

「私達、今まで通りの関係に戻らない?」
「……どういう意味や?」

宮君は本当に意味が分からないといった様子で大きな目をまん丸にさせた。私は自分が傷付きたくなくてすごく回りくどい言い方をした。それを反省し、小さく息を吸い込んでから再び口を開いた。

「学生の頃に四年間クラスが同じだった、ただの同級生に」

一般人とプロのバレーボール選手として、戻ろうと思った。学生の時とは比べ物にならないほど宮君は本物の有名人になってしまった。それこそ本当に雲の上の存在だ。

「なんでいつも勝手に決めるん?」

宮君が私に怒ったのはこれが二度目だった。でも一度目とは違う冷たさが混じった声だった。

「それが私の気持ちだから」
「嘘やろ。メッセージのやり取りも電話もデートも、俺はめっちゃ楽しかった。それは自分もやろ?」
「だから“戻る”の」
「意味わからへん」

宮君はカップの中身をすべて飲み干してベンチの上に乱暴に置いた。氷の砕けたような音が鈍く闇に響く。だから私も自分の分を飲み切ってカップは潰した。舌はヒリヒリと熱くなった。

「私達が再会できたのって本当に偶然だったでしょ。私がチケットを貰わなければ、おむすびを買いに行かなければ、そしてお店にまで行かなければ宮君に会うことはなかった」

キッカケと偶然が重なって今がある。だからそれを紐解いてなかったことにすればいい。そしたら今まで通りの日常を取り戻せる。

「それは偶然やない。運命や」

宮君はロマンティストだ。二十四歳にして人生を悟り平々凡々に生きていこうとした私とは正反対の人。

「言うたことなかってんけど自分が初めての彼女だった。そんで初めてフラれたんも自分やった」

そんなの私もだよ。初めての彼氏が宮君で、初めて振ったのも宮君だった。

「自分と別れた後、他の子とも付き合うたけど長く持たんくてすぐ別れた」

知ってる。二年の時に学年一可愛いって言われてた子と付き合ってたことも、三年の時に年下の子と付き合ってたことも。付き合った翌日にはその彼女が周囲に言いふらしてたから噂が回るのも早かった。でもすぐに別れていたことまでは知らなかった。

「ほんで、また自分に会って確信した。俺は今も未練がましく自分の事想うとったって」
「でも、それは私があしらう様にして宮君を振ったからじゃないの?」

人は良かった出来事よりも嫌なことの方がよく覚えているという。私は宮君のプライドを傷つけた。だからその過去の出来事を脳内で都合よく美化しただけなのだと思う。人の脳みそは自分の都合よく記憶や感情を改ざんできるから。

「そうかもな。でもだからこそ俺は自分の気持ちを確信した」

宮君は昔も今も私が尊敬できる人だ。私が言葉に出来なかったことをこうもはっきりと言ってのけたのだ。でもその度に私は劣等感を抱く。

「俺じゃ駄目だった理由を教えてくれ」

でももう逃げてはダメだと思った。こんなにも真摯に向き合ってくれているというのにこれで逃げたら私は一生後悔する。そして宮君がそう言ったように私だって宮君に嫌われたくはなかった。

「私じゃ宮君に釣り合わないと思った」

ポツリと言った私の言葉に宮君は怒りも笑いもしなかった。ただ静かに受け止めてゆっくりと首を横に振る。

「釣り合う釣り合わんの問題じゃない。自分の気持ちを俺は聞きたい」
「私にとって、それは自分の気持ちを揺るがすほどの問題なの」

宮君にとってはちっぽけな悩みかもしれない。でも普段、仕事以外で人からの評価を受けない私からしてみたらそれはとても大きなことなのだ。解ってくれとは言わない。でも気持ちくらいは汲み取ってほしかった。

「俺らが周りからどう見えるんかは、当事者の俺は分からんよ」

宮君は淡々と事実を述べる。その静かな声色に私は少しだけ冷静になれた。

「でもな、自分は俺にとって必要な存在なんよ。高一の体育祭、覚えてるか?」

選抜リレーで揉めて俺がクラス中からハブられてた時の事——もちろん覚えているに決まってる。宮君にとってはあまりいい思い出ではないとは思うけど私にとって初めてまともな会話をしたのがその時だったから。

「俺があの時、自分の言葉にどんだけ救われたか分かってけぇへんやろ」
「宮君だったら自分で立ち直れてたよ」
「タラレバの話はもうええねん!」

そこで初めて宮君は感情を表に出して怒った。私はその様子をどこか遠くで見ているような気持ちになりながら、でも目が合ってすぐに現実へと引き戻された。宮君は今、私とちゃんと向き合おうとしてくれている。

「でも元を辿れば告白の時、俺がちゃんとしいひんかったからいけないんや」

宮君が体の向きを変えたので私も向き合う様に体を捻る。そのとき膝が僅かにぶつかった。恥ずかしながら宮君に触れたのがこの時が初めてだった。

「振るならこっぴどく振ってくれ。じゃなきゃ諦めつかんねん。やから——」

もう一度だけ告白させて。

真っすぐ届いたその言葉に、私は首を横に振った。
宮君は無表情のまま。でも目の縁だけが街灯に照らされ光っていた。言葉の代わりに「は、…」とため息に近い音が発せられて右手で髪をくしゃりと握りつぶす。そして立ち上がろうとした瞬間、私は宮君の左手を掴んだ。

「私は宮君の芯が通ったところに憧れた。周りに流されなくて自分を持ってるところは尊敬した」

これは今も昔も変わらない。
でも言葉にしなきゃ伝わらない。

「でも私は小さい人間だからそんな宮君が眩しすぎてずっと逃げてばかりいた。本当にごめんなさい。だけどもう逃げないから」

ずるくてごめん。でも私から言わせて。

「宮君のことが好きなの。私と付き合ってもらえませんか」

ずっと言いたかった。

「いっつも自分は……」

宮君の声は掠れていて、目の端は相変わらずキラキラと輝いていた。そして私の手から宮君の左手がするりと抜ける。ただその指先もすぐに絡めとられた。

「不意を突いて恐ろしいこと言いよる」
「ごめ……んっ」

きゅっと手が強く握られたと思ったらそのまま引き寄せられて唇が触れた。そして角度を変えてもう一度重なり合う。コーヒーの苦い味がして、あぁこれは夢じゃないなと確信した。だから私は返事をするかのように手を握り返した。

「俺に告白させへんとか。ずっと機会を伺ってた告白リベンジ失敗したわ」
「え、あ……ごめん」
「もう『ごめん』はいらへんから『好き』が欲しい」
「宮君は?」
「は?」
「告白してくれないの?」
「うわっずっるいなぁ!」

ついに私の本性がばれてしまった。でももう宮君に隠していることはない。自分の気持ちに正直になれた今のテンションも相まって私は無敵だった。

「何年片想いしたと思うとんねん。一言じゃ足りないくらい自分が好きやねん。これから毎日言ったるわ。何よりも自分の事好きやよ」

そして私も好きと言いたかったのに、唇はすぐさま塞がれた。
本当にずるい。でもそうゆうところも好きなんだ。


◇ ◇ ◇


百八十越えの男が通るには些か狭いつる薔薇のアーチを潜り曲がりくねった石畳を踏み歩く。右手にはセージ、モナルダ、ジキタリス。左手にはアナベル、ビンカ、ラムズイヤーが景観に色を与え、まるでファンタジーの世界へと迷い込んだような気持ちになる。現に銀からは「まっくろくろすけ見つけた!」とアラン君の頭部画像が送られてきた。

足元が石畳から枕木に変われば左右の景色も北欧の田殿風景へと変わる。手押しポンプに小さな水車、そして兎のオブジェが並べられている。花だけではなく植木も見られるようになり設置された巣箱には本当に鳥が住んでいてぴちぴちと囀りまでもが聞こえてくる。そして木の枝には麻の紐が結ばれていてそこには二人の男女の写真が何枚も括りつけられていた。言わずもがな本日の主役である。

「命の大樹あるんだけど」角名がそういうのも無理はない。辿り着いたガーデンには立派な木が植えられていた。このシンボルツリーは樹齢百年にもなる立派なもの。決して背が高いというわけではないけれどその風格は確かなものだった。現にこの木が決め手で式場でもないこの場所を会場に選んだのだと言っていた。

「やっぱりあかんて!!」

建屋の二階からゲストが集まるガーデンを見下ろしていれば扉の向こうから何とも喧しい声が聞こえて来た。ずっと俺の隣にいた喧しい奴の喧しい声。同じ日に同じ母親から生まれて来て、飯の早食いから部活での走り込みまでどっちが先に終わらせられるかなんてしょうもない勝負をたくさんやった。そして今日、俺より少しだけ早く生まれた双子の兄が結婚をする。

「もーそんなこと言わないでよ」
「いいやあかんて!!」
「なに騒いどんのやツム」
「あっ!!」

俺の存在に気付いたツムが大慌てでこちらを振り返りバッと手を広げた。はぁ?なんでお前とハグせなあかんねん。このガーデンのせいで西洋かぶれでもしたんか?

「しゃあないなぁ。今日だけやで」
「はぁ?!いきなり何すんねん!きっしょ!」
「いや、それはこっちの台詞やねんけど」

伸ばした手を叩かれて適当に手をプラプラとさせる。こいつは着替えもせえへんで何やっとんねん。今日の主役の一人はお前やねん。ちゅうかもしや『本日の主役』襷がないと意識しないタチか?近くにドンキはあったやろか。

「治君、助けて……」

ツムの後ろから顔をのぞかせたんはもう一人の本日の主役。というか主役はこっちでツムは付き人Cくらいの立ち位置でええかもしれへん。やって彼女は白いドレスに髪に花飾りをつけてRPGに出てくる姫さまみたいな恰好をしていたから。その姿はすでに身内となった親しい間柄の自分から見ても綺麗だった。

「びっくりした。ほんま綺麗やわ」
「ほんと?ありがとう」
「話すな見んなあっち行け」
「うざっ」

ツムの気ぃは分からんでもないけれど普通にうざい。その様子に花嫁はほとほと困りはてた様子で小さくため息をついていた。

「侑君も早く着替えてきて」
「なぁこの姿で皆の前に出るのやめへん?やってこんっっな綺麗な花嫁さん見たら皆惚れてまうやろ?!」
「そんなことないから」
「なに昭和の親父みたいなこと言うとんねん」

駄々をこね始めたツムは彼女を抱きしめては離さない。それに対し、ドレス皺になっちゃうから離してと冷静に言った彼女はなんかまぁ随分と肝が据わったなと思った。もっと内気な性格だったと思っていたのだが今では凛とした顔つきになったとさえ思う。

「せめてもう一着のカラードレスの方に着替えへん?」
「侑君!」

そしてその変貌を裏付けるように彼女はツムの両頬を手で挟んで顔の向きを固定させた。

「せっかく皆来てくれたのに主役が台無しにしてどうするの?MSBYの皆や高校の先輩方だって悲しむよ」
「おん……」
「ぶっ!」

初めてみる片割れの姿に思わず吹き出せば鋭い視線が飛んでくる。でもそれを彼女が許さずに、侑君聞いてる?の一言でまたシュンと静かになった。大層お似合いの夫婦や。ほんまにツムは良い人を見つけたんと思う。

「私ね今日をすっごく楽しみにしてたんだ」
「俺もやよ」
「じゃあ準備しよ。それで私が侑君の妻ですって皆の前で言わせてよ」
「惚れた!!」
「私も惚れてるよ」

なんの茶番を見せられてるんだと冷静に思う自分がいる一方で、少しだけ羨ましいと思ったり。今まで結婚願望なんて微塵もなかったけれど少しだけ興味が湧いた。

「着替えてくる!」
「あっあとね、」

ようやくたツムが動き出せばその背に彼女が声を掛ける。自分はお茶の間にいる視聴者になった気分でその二人の様子を見守った。

「皆が私達の事を見ていても、私は侑君しか見てないからね」
「〜〜っ!好きッ」

はい、ごちそーさんでした。これは早く部屋に戻ってブラックコーヒーを飲もう。念のためおかわりも頼んでおいた方がいいかもしれない。

大安吉日日本晴れ。窓の外を見下ろせば懐かしの面々が大方出揃っていた。あとは主役の登場を待つばかり。これは本当に時間がない。だから再び彼女に抱き着こうとしたツムの首根っこを掴み回収した。

「ぐえっ」
「はよもう着がえんで。んで、とっととリア充爆発させてこい」

これからは惚気話を聞かされる生活になるんかな。
でもまぁ、永くお幸せに。