コンビニ店員とイヌピー君

店内にお決まりのチャイムが鳴り響き、私は棚出しをしていた手を止めた。

「いらっしゃいませ」
「んだよあの女いきなり蹴りやがって。クソムカつく」
「ま、ボスの妹弟だし仕方ないんじゃね」

しかし私の店員としての声もそれ以上の大声で掻き消される。まぁ私の声など彼等にとってはBGMに過ぎないのだろう。

「飲み物とメシ買うけどイヌピーは?」
「オレはいいや。それより包帯切れてなかったっけ?」
「そうだな。それと消毒液もか?ついでに買ってくか」

お菓子が詰められた籠を邪魔にならないよう一度バックヤードへと戻しに行く。そうしてすぐに店内に戻ろうとしたところで発注業務をしていた店長に声を掛けられた。

「またあの子達?」
「そうです」
「レジ代わろうか?」
「大丈夫ですよ。見かけはああ、、ですけどいきなり殴ったりとかはしてきませんから」
「そう?まぁ何かあったらすぐ呼んでね」
「ありがとうございます」

急いでレジへ向かうと彼等がカウンターに籠を置いたところだった。
お待たせしました、と声を掛け商品のバーコードを読み込んでいく。

「アイツ、信用できると思うか?」
「若のことか?どーだかな。でも東卍は結束かてぇし、弐番隊隊長あたりが出てくるかもしんねぇ」
「三ツ谷か…先に絞めっか」
「イヌピー気ぃ早すぎ。ボスはそんなん望んじゃねぇよ」

私が袋詰めを行っている間も目の前の二人は何やら物騒な話をしている。私は二枚目の袋をカウンターの下から取り出しつつ二人のことを盗み見た。
金髪で火傷の痕がある子と黒髪で長いピアスを付けている子。白の特攻服の背にはドラゴンとBDの刺繍があり、ここらで有名な黒龍という暴走族の物だとわかる。

「合計で3,682円になります」
「ン」

青いトレーに投げ出されたのは一万円札。お会計はいつも黒髪の子だと決まっている。普通なら支払い時にポイントカードの有無を聞くのだが一度聞いたら「ねぇよ」と睨まれたのでそれ以降は確認しないことにしている。

「6,318円のお返しです」

二円くらい出してくれてもいいのに、と内心思いながらお釣りを渡す。そしてレシートはこちらで破棄。これについても最早聞くのすら野暮なことだった。
小銭を黒髪の子がお財布に仕舞っている間に金髪の子が袋を持つ。

「先行ってるよ、ココ」
「おー」
「ありがとうございました」

どうせ聞いてもいないだろうが決まりなのでお礼を言って送り出す。 
そしてしばらくするとバイクのエンジン音が外から聞こえ彼等がいなくなったのだと分かった。

金髪の子が"イヌピー"君で、黒髪の子が"ココ"君。
黒龍という暴走族に所属していておそらく上の立場にいる人。

多分同じくらいの年齢なのだろうけど私とは生きている世界が違う。
私はそんな二人をいつもカウンター越しに見ているのだ。





バイトは月水金の三日、時間は夕方十七時から二十一時まで。家庭持ちのママさんが上がりそして夜勤の人が来るまでの繋ぎの時間に入っている。

コンビニのバイトを選んだのには特に意味はなく家から近いからってだけ。やや住宅街の外れにあるここは朝と夕方こそ混むがピーク時を越えれば疎らにお客さんが出入りする程度でそこまで忙しくもない。

でも、偶に変なお客さんがくるのがキズだ。

「君いつもこの時間に働いてるよね?高校生?」
「はい」
「女の子がダメだよ遅い時間に働いちゃあ。何時に上がるの?送ってこうか?」

早く帰れと心から叫びたいが相手は一応お客なので愛想笑いをするしかない。
最近来るようになったこの男は仕事帰りにコンビニを利用するサラリーマン。年齢は三十代後半で見るからに嫁も彼女もいなそうなタイプ。

「大丈夫です」
「そうなの?もしかして彼氏が迎えに来てくれるの?」

初めは「今日は冷えるね」みたいな世間話程度だったのに最近はプライベートにも踏み込んでくるようになった。でも一々構っていられないので無視して仕事と割り切り事を進める。

「こちらお会計が856円になります」
「あぁはい」

そして極め付けはお金を手渡ししてくる。目の前のトレーが見えていないのだろうか。しょうがないので手を差し出して小銭を受け取る。しかし何故かそのまま手を握られた。
店長もこの客のことは知っているのでいつも代わりにレジをやってくれる。でも今日に限って店長も他のお客さんもいない。

「あの、手を……」
「あ、ごめんごめん」

気持ち悪すぎて、でもせめてもの抵抗で心の中で呪いの呪文を唱える。もちろん私に魔法が使える力はない。しかし、そこで奇跡が起きた。

「っ、いらっしゃいませ!」

店内に電子音が響き来客を告げた。男の力が緩んだ隙に手を引き抜く。
そうして入口を見ればイヌピー君がいた。今日は一人でしかも私服だった。別に助けてくれなどとは思わないが居てくれるだけで有難かった。

「レジ打ちますね」

一瞬目があったイヌピー君は驚いた顔をしていたように見えた。しかしそんなことを気にしている暇なくレジを打つ。さっさと男を帰らせるためだ。

「ありがとうございました」

お釣りはわざとトレーの上に置く。そして袋を差し出した。

「で、君は今日何時に上がるの?」

メンタル強すぎでしょこの人……私がこれだけ拒絶しているのにまだ言うか。絶対にこの人今まで彼女いたことない。というか友達すらいないのでは?

「あー…ははは」
「もうすぐ終わるなら——」
「オッサン邪魔なんだけど」

絶望して俯いていた顔を上げれば男の後ろからは金髪が除いていた。蒼の瞳で男を見下ろし無表情のまま「買ったなら退けよ」と静かに言った。

男は引ったくるようにレジ袋を持って店を出て行った。唖然としてその光景を見ていたらトン、とカウンターにペットボトルが置かれる。

「あ、いらっしゃいませ…」

先程までは男への恐怖が勝っていたがイヌピー君の様子を見て別の恐怖が生まれた。
レジを待たせた挙句、不快な思いをさせた。しかも相手は暴走族の不良。もしかしたら殴られるのではないかという恐怖。

「128円です」

しかし特に何を言われるわけでもなかった。それならできるだけ早く済ませようとトレーに置かれたお金を受け取る。しかし焦りすぎていたのか硬貨を床へと落としてしまった。

「す、すみません!」

しゃがんで拾うも、そんなことより早くレジを打ってお釣りを渡した方がいいのでは?という考えが浮かぶ。

「いった!?」

だからこそ拾うのを後回しにし立ち上がろうとしたところでレジに思いっきり頭をぶつけた。そうだ、会計ボタンを押してレジの引き出しが開いたままだった。

「大丈夫?」

さすがにイヌピー君も驚いたのか声を掛けてきてくれた。何だかもう、恥ずかしすぎて堪らない。

「大丈夫です。すみません…お釣りです、あ」

しかしレジから取り出した一円玉二枚も私の手からするりと抜けて転がり落ちた。しかもカウンターを挟んだ向こう側——つまり、イヌピー君の方。

「すみません!」
「別にいいよ」

カウンターの仕切りを開け慌てて向かうが既に拾い終えた後だった。もう今日は最悪だ。でもイヌピー君は何も悪くないわけで、私はもう一度彼に頭を下げて謝った。

「他に店員いないの?」

これですぐに帰ると思ったのに、意外にも彼は私に話しかけてきた。初めはそれに気付かず顔を上げて三秒ほどじっと彼のことを見つめてしまった。そして小首をかしげられたところでようやく私に言ったことなのだと理解した。

「あ、えっと、いつもは店長がいるんですけど今日は不在で…」
「そっか。ああいう奴にははっきり言った方がいいよ」
「すみません…」
「いや、オレに謝られても」

確かにもっとちゃんと言うべきなのかもしれない。でも言う勇気もなければ、変ないちゃもんをつけられて店にクレームを入れられたくはない。だから私としてはあれが精一杯というところでもあった。

「努力します」
「あっそ」
「ありがとうございました」

個人的になのか、それとも店員としてなのか。
どちらとしてかは分からないが私は彼の背に声を掛ける。

しばらくするとバイクのエンジン音が遠ざかっていった。





あ、バイクの音だ。

「いらっしゃいませ」

そして姿を現したのは特攻服を着たイヌピー君とココ君だ。今ではすっかり彼らのバイク音を聞き分けられるようになった。最近はその答え合わせをしてみては一人楽しんでいる。

そして続けてもう一度チャイムが鳴る。珍しくお客さんが多いなと扉へと視線を向けたところで顏が強張った。例の男客だった。
店員としていらっしゃいませ、と声を掛ければ親しげに手を振られるがその男と親しくなったつもりはない。しかし角が立つのも嫌なので小さく頭を下げて煙草を補充する作業に戻る。そこでマルボロの在庫が少ないことに気付いた。しばらくレジに人も来そうになかったのでバックヤードにいる店長に声を掛けに行った。

「店長、マルボロのカートン残り一つです」
「どっち?」
「ボックスの方」
「ありがと、発注しとくね」
「あと例のお客さんが……」

そしてついでにレジを変わってもらおうとしたら店長の電話が鳴った。さすがにそれを遮るわけにはいかないので諦めて店内に戻るとレジにお客さんが立っていた。その金髪を見てイヌピー君だということに気付き慌ててレジに戻る。

「お待たせしました…!」

カウンターへと入る扉にぶつかりつつ声を掛ける。でも彼は特に気にするつもりもなくペットボトル一本分のお金をぴったりトレーに置いていた。バーコードをスキャンして店名の入ったシールを貼る。レシートが印字されるのを待っていたらそれよりも先に「いらないから」と言って出て行ってしまった。

待たせすぎて気でも悪くさせてしまったのだろうか。チャイムと共に店を出ていく背中を見ていたらカウンターの上に物が置かれる音がしたので慌ててそちらを向く。

「いらっしゃいま…」
「いやぁ今日は仕事が長引いて疲れちゃったよ」

親しげに会話をしてくる男に、嫌悪が顔に出ないよう表情筋に力を込めた。そうなんですね、と適当な相槌を打ちながらバーコードを読み取っていく。こちらとしては早く出て行って欲しいのに麺類の温めを要求された。これ一番時間かかるんだよね…他の商品を袋に詰め終えても尚、電子レンジが止まることはなかった。

「今日はこの後用事あるの?」

そしてまた私の予定を聞いてくる。店長に来て欲しくてカウンター下にある呼び鈴を押すがバックヤードから出てくる様子はない。まだ電話中なのだろうか。それならば自分で何とかするしかない。私はイヌピー君に言われたことを思い出して勇気をかき集めた。

「プライベートなことは困りますので」
「照れなくてもいいのに」

私にしてははっきり言ったつもりだった。しかしメンタル最強の男には何も伝わらなかったらしい。
そういうやり取りをしたいのならそういう店に行って欲しい。たかがコンビニ店員に変な期待しないでよ。

「お待たせしました」

ようやく鳴った電子レンジを急いで開けて用意していたもう一つの袋に詰める。そしてさっさと渡そうとしたところで袋に添えていた手を掴まれた。

「ねぇこの後ッ、ガ!?」
「ウゼェなぁ!」

気持ち悪い、と思う間もなく男の体が横へと吹き飛んだ。
私が状況を確認するより先にそれを見ていたココ君が笑い出し目の前に白の特攻服が揺れた。

「さっきから目障りなんだよ。退けよクソが」
「ひぃっ…!」

イヌピー君に蹴られた男は悪役さながらの情けない声を出して店を出ていった。でも購入した品はちゃんと持っていった辺りその神経の図太さが垣間見える。

「イヌピーが珍しいじゃん」
「キモすぎだろあのオッサン」
「あ、…」
「外行ってる」

しかしお礼を言う前にイヌピー君はまた店を出て行ってしまった。外から見ていて、わざわざ戻って来てくれたのだろうか。そうだお礼、お礼を言わなきゃ。

「ン、会計」

しかしココ君がカウンターに商品を置いたことで追いかけることが出来なくなってしまった。そうなってしまえば私は仕事をするしかなくなってカウンターの内側でバーコードリーダーを手に取った。





イヌピー君のおかげか、あの男は店に来なくなった。
店長には「不良たちが問題でも起こしたのか?!」と怒っていたが私が事情を説明したら納得はしてもらえた。

そしてイヌピー君にはお礼を言いたいのだが最近コンビニに来てくれない。それにココ君も。そういえば風の噂で黒龍という暴走族が解散したと聞いた。確か二人ともあのチームにいたと思うのだけれどそれが関係しているのだろうか。

「黒龍から東卍だぁ?」
「特攻隊長も落ちたもんだな!!」

バイト帰り、夜道を歩いていたところで穏やかじゃない声が聞こえてきた。それは大通りから一本入った道の方で聞こえてくる。

「大寿の下にいりゃあ金が手に入ると思ったのによぉ!」
「オマエもココも簡単に寝返りやがって!!」

ココ君の名前が聞こえ嫌な予感がした。
薄暗い路地裏に足音を忍ばせ入っていく。そうすれば痛々しい打撃音が徐々に大きくなっていった。また、声を聞き分けるに相手は四、五人ほどいるらしかった。

「ぐッ……ガハッ!!」
「…!」

男たちの真ん中で蹲る金髪が見えた。やっぱりイヌピー君だ。しかも五対一は中々に卑怯だ。それに相手はバッドや木片等を持っていた。

助けなきゃ。でも警察を呼ぶにしても来るまでに時間が掛かる。また、大通りに出て人を呼んだとしてもあの不良相手に助けてくれる人などそうはいないだろう。
イヌピー君の苦しそうな声が聞こえる。一刻も早くなんとかしないと。それに彼は私のことを助けてくれた。

「…ッお巡りさん喧嘩です!こっち!!」

日頃のバイトの賜物か。自分でも驚くくらい大きな声が出た。
建物に囲まれた狭い空間、そのアスファルトを跳ねた私の声は男たちの元までしっかりと届いた。

「げっサツかよ!」
「さすがにヤベェな」
「オマエらずらかるぞ!!」

私は物陰に身を隠しその足音が過ぎ去るのを待った。再び夜道に静寂が訪れる。それでも私は三十秒ほど心の中でカウントしてから辺りを伺った。
道の真ん中、金髪の男の子が背を丸めて蹲っている。その光景を見たら先ほどまでの恐怖も全部吹っ飛んで駆け出していた。

「あのっ大丈夫ですか?」
「うッ…」

呻き声一つ上げて顔を上げた彼と目が合う。口元は切れていて鼻からも血が出ていた。そして頬も目元も腫れている。また、お腹に手を当てているところから大分蹴られたのだろうことまでは分かった。

「これ使ってください。あと、手当てできるもの買ってきます!」
「え?あ……」

イヌピー君に自分のハンカチを押し付けて私は元来た道を駆けだした。
数分前に出たばかりのバイト先に戻り傷薬やらガーゼやら使えそうなものを一通り購入した。いつもイヌピー君達がこの手の物を買い占めてくれるので他のコンビニに比べて商品は充実している。それがこんな形で助けられるとは。
お会計をしてくれた夜勤の人は私が戻ってきたことに大分驚いていた。でも急いでいることが分かると深い事情は聞かずに「気を付けて」と送りだしてくれた。

急いで戻っては来たが現場を目撃してから二十分は経っていた。でもイヌピー君は約束通り倒れた道の端に寄って私のことを待っていてくれた。

「遅くなってごめんね」

彼の傍にしゃがみ込み顔を見る。鼻血は止まっていたが殴られた場所は先ほどよりも赤く腫れ上がっている。こうなるとしばらく腫れは引かないだろう。
生憎近くに水道もないので買ってきたウェットティッシュで傷口周辺を綺麗にする。イヌピー君が血の跡を拭きとっている間、私は消毒液やガーゼの包装を開けた。

「さっき『警察』って叫んでくれたのキミ?」
「うん」
「そっか。助かった、ありがとう」

ごく自然にお礼を言われ少し驚く。ここまでのことをしておいて、でももしかしたら余計なことしたのではという不安もあったからだ。

イヌピー君は二枚目のウェットティッシュを手に取る。徐々に彼の顔が見えるようになって改めてイヌピー君だなと思った。別に親しくもなければ会話すらまともにしたことないけどいつも近くにいると私が勝手に思っていた人。それが今、確かに私の近くにいる。

「いや、先に助けてもらったのは私の方だから」
「え?」
「お客さんに絡まれてたの、助けてくれた。そっちはそんなつもりなかったのかもしれないけど……でもずっとお礼を言いたかったの、ありがとう」

イヌピー君にとっては本当に目障りなだけだったかもしれない。虫の居所が悪かっただけかもしれない。でも私にとっては十分すぎるほどに助けられたのだ。ずっと言いたかったお礼をやっと言うことができた。

「消毒するね。こっち向いて」
「あぁ」

こそばゆくなって手当てに集中する。でも逆に悪手だったのかもしれない。だって向き合って見つめ合う体勢になってしまったのだから。せめて意識していることに気付かれぬよう、私は顔の傷口だけに集中して黙って手を動かした。

「随分手慣れてるね」

じっとしていたイヌピー君の口が動く。私は目の上の腫れあがった場所に湿布をはりながら、なるべく自然に聞こえるように声を発した。

「弟がいるんだけどね、しょっちゅう怪我して帰ってくるんだ。家でも手当てしてるからかも」

中学生の弟もよく喧嘩をする。でもヤンキーと言うよりは調子乗ってる中坊という表現がしっくりくる。暴走族のような集団には入らずに友達同士でバカやってつるんでる。でも最近、六本木で有名な兄弟に目を付けられたらしくボロボロになって帰ってきた。それに懲りてか今は大分おとなしくなった。

「はい、できたよ」

湿布を張り終え顔全体を確認すれば我ながら完璧な手当てが出来たのではないかと自画自賛した。でもその時、ふとイヌピー君と目が合ってしまい慌てて逸らした。今さらながら随分と馴れ馴れしいことをしてしまったな、という羞恥が沸き上がってきたのだ。

「ありがとう」
「ど、どういたしまして…」

だからせっかくのお礼もどこか素っ気なくなってしまった。
手当てした際に出たゴミを片付けていたところで私の携帯が鳴った。その拍子に時間を確認すれば時刻は大分遅くなっていた。電話をかけてきたお母さんはおそらく相当怒っていることだろう。

「ごめん、もう帰るね!」
「あ、ちょっと…!」

私はその場から逃げ出すように夜の路を駆けた。





仕事帰りのOLさんは大分疲れているらしい。籠に詰め込まれた酒類のバーコードを一つ一つ読み取り袋へと詰めていく。合計金額を伝え、籠をカウンターの下へと移動させたところでバイクのエンジン音が聞こえた。目の前は道路なんだから当たり前に何台もバイクは通る。でも私の耳に着いたのは聞き間違えることのない彼のバイクの音だった。

OLさんのお会計を終え、店の外を確認しようとしたところで煙草を買い求めるお客さんが来てしまった。彼の姿を確かめることが出来ないまま再び仕事に戻る。でもその最中に入店を知らせるチャイムが鳴り思わず扉へと視線を向けた。やっぱりイヌピー君だった。

目の前のお客さんの会計を終えれば店内にいるのは私と彼だけ。
でも私はこのカウンター扉を開けて会いに行く勇気はなかった。

「いらっしゃいませ」
「どうも」

だから商品をもってレジに来た彼に声を掛けた。といっても挨拶は店員のそれだ。
あの日から十日ほど経っていた。でも久しぶりに見たイヌピー君は元気そうだった。未だに顔にガーゼをはってはいるが腫れは引いたように思える。

「怪我は大丈夫ですか?」

イヌピー君が挨拶を返してくれたから、私は一度店員という肩書を取っ払って話しかけた。これくらいの会話ならきっと馴れ馴れしい奴だとは思われないだろう。

「お陰様で」
「よかったです」

以前よりも距離は近くなったように思えるが私達の間にそれ以上の会話はない。だってカウンター越しに会えば店員とお客さんで。だからあんな出来事があったとはいえこの関係性は変わらないものだと思っていた。

「お会計が——」
「あのさ、」

買った商品はペットボトル一本とガム。端数の小銭があればいいなと毎回思う会計時。でも今の私の役割はレジを打つことではないらしい。
目の前の彼は、私を店員としてではなく“私”として見ていた。

「この前のお礼がしたいんだけど」

お礼だなんて……それに元はと言えばこの前の出来事が“私のお礼”だったのだ。お礼にお礼を貰うのはおかしい。

「いや、気にしなくていいですよ」

ディスプレイには会計金額が表示されたまま。支払いをしてくれなければこの状態は変わらない。でもイヌピー君はお財布を取り出す仕草すら見せない。
台に乗せられた商品だけを見ていた視線を徐々に上へと上げていく。そうすれば当然イヌピー君とも目が合うわけで。彼は首に手を当てながら少し気まずそうに私のことを見ていた。

「あー……ごめん、はっきり言うわ」

ガーゼで頬は見えなかったけど、金の髪の隙間から覗く耳は赤かった。

「キミのこと好きだから仲良くなりたいんだけど」
「ぁ、え…?」

全身から空気が抜けたような間抜けな声が出た。イヌピー君の耳は赤いけれどその顔は眉一つ動かない。だからこそ真剣さが読み取れてしまった。そういえばバックヤードに店長いたんだっけ。防犯カメラの映像を見たら静止画かってくらい私は動いていないのだと思う。

「だからさ、帰り送らせてくんない?」

石のように固まってしまった私にイヌピー君は淡々と言葉を続ける。
だから私は半開きになってしまった口だけを動かして、こう答えたのだった。

「よろしくお願いします」


まさかこんなに近くでエンジン音を聞く日が来るとは。
バイトが終われば彼がいる。
それが当たり前になる日が来るとは、その時の私は夢にも思わなかったのだ。