三ツ谷夫婦は互いに劣等感を抱いている

遠くで水の流れる音が聞こえる。それが次第に大きくなり、水面に顔を出すように意識が浮上した。

「悪い。起こしちまったか?」

のそりとソファから上体を起こせば掛けた覚えのないブランケットがずり落ちる。そうして瞬き三回。「寝ぼけてんな」と笑われて、そこでようやく隆が帰ってきていたのだと理解した。

「えっあ、いつ帰って来てたの?!」
「明け方。着替え取りに来たらソファで寝ててビビったわ」

昨日は締め日で帰ってくるのが遅かったのだ。帰りにコンビニでご飯とお酒を買ってリビングでだらだらして——というところまでしか記憶にないので寝落ちしたのだろう。

「そうだ、着替えって……」
「積まれてた服は畳んでクローゼットにしまったよ」

洗濯物を取り込むところまではやって休みの今日に畳もうと思っていたのだ。でもその洗濯の山もすっかりなくなっている。そして机の上に置きっぱなしにしていた弁当のゴミもお酒の缶も全て片付けられていた。

「ごめん……私なんにもやってなくて」
「いいって。昨日は締め日だったろ?疲れてたんだろうし仕方ないって」

隆の方が疲れているはずなのに彼は私を責めるようなことは言わなかった。
ようやく自分のアトリエを持てるようになりデザイナーとして独立したばかりだ。そして有難い事に彼宛ての仕事も増えてきた。ここ最近はほぼアトリエに篭りきりで一緒の家に住んでいるというのに顔を合わせるのは三日振りだった。

「本当に、ごめん」
「謝んのはオレの方だって。家のことも最近じゃあ全部任せちまってるし」

今日みたいなことは初めてではなかった。でも隆は一度だって私に怒ったり文句を言ったことはない。いつも笑って許してくれて、その度に私はなんて素敵な人と結婚できたのだろうと思う。でも最近では彼の優しさに触れる度に自己嫌悪に陥る自分がいる。

「簡単なもんだけど朝食作っといたから後であっためて食えよ」
「え?」
「それと昨日風呂入ってないだろ?洗って湯も張っといたからゆっくり浸かりな」

明け方に帰ってきたというのにそんな事までしてくれていたのか。益々申し訳なくなってしまう。隆が帰ってくると分かっていれば休みの日だって私も早起きしてご飯作ったのに。

「隆ごめんね」
「もう謝んなって。じゃあオレは行くからな」
「えっ朝ご飯一緒に食べないの?」
「今日は八戒んとこで仕事だっつったろ」

そうだ、久しぶりに八戒くんと柚葉ちゃんに会えるって言ってたっけ。隆は私の仕事の締め日も覚えているというのに自分ときたら……本当にダメ人間だ。

「気をつけてね。いってらっしゃい」
「おー。オマエはゆっくり休めよ」

ドアが閉まり、また一人きりの空間になる。
温かな湯船に浸かり、化粧したまま寝てしまった肌をしっかりと保湿する。そうして隆が作ってくれた味噌汁を火にかけておにぎりと卵焼きをレンジで温めた。

「ん、美味しい」

将来有望なデザイナーで料理もできてかっこよくて優しくて。こんな素敵な旦那さまは世界中どこ探したって隆以外にいない。それなのに私ときたら妻らしいこと何一つできていない。

だから不安になってしまう。
私と結婚できてよかったって、隆はそう思ってくれてるのかなぁ。





外回りを終え職場に戻ったところで定時は過ぎていた。でもそれは営業職をしていればあたり前のことで、フロアでは多くの人がまだ仕事をしていた。

「お疲れ様」
「お疲れ〜そういえば聞いたよ。先月の売上げまたトップだったらしいじゃん!」

机に荷物を置けば同僚がキャスター式の椅子を転がして私の側までやってきた。浮腫んだ足からパンプスを脱ぎ捨てて私も椅子に座る。

「あー…あれは店舗拡大するっていう事業所がうちの商品を大量発注してくれたおかげ。偶々だよ」
「でもあそこの専務ケチって有名じゃん。それを定価で売るなんてさすがだよ」
「その代わり無料保証期間延長したけどね」
「それでもハタ立ったんだから十分でしょ!」

家でもひとりの時間が増えそれが寂しくて仕事に打ち込んだ結果、今では中々の営業成績を残せるようになった。お陰様で給料は増えたが純粋に喜べない自分もいるわけで。小さな溜息をついてノートパソコンを立ち上げた。

「うそ、まだ仕事する気?月初めなんだから早く帰ればいいのに」
「帰ってもやることないし」

まぁ朝急いで出たから脱ぎっぱなしの寝間着は散乱しているし、アイロンをかけないといけないシャツが溜まってはいるがその程度だ。隆は今日も帰ってこないだろうし深夜番組を見ながらやればいい。

「奥さんがなに言ってんだか。あ、でもあのスパダリなら家のこと何でもやってくれそうだよね」

隆の面倒見の良さを彼女は良く知っている。というのも、会社の飲み会があればいつも隆が迎えに来てくれて、その度に顔を合わせているからだ。そして酔い潰れた私をよそに「二日酔いでもオレの作った味噌汁飲めば生き返るんで」「えっ隆さん料理もできるんですか?すごい!」なんて呑気に話していたこともあった。そのため隆の良夫っぷりは折り紙付きだ。

「ほんとそう。それなのに私は……」
「先輩すみません。いま少しいいですか?」

俯きかけた顔を上げれば今年入社をした新人君が立っていた。手にはノートパソコンと資料が握られている。先月から彼も担当先を持ち自分で提案書や見積書を作るようになっていた。だからきっとそのどちらかの質問なのだろうと思った。

「どうしたの?」
「あ、はい。実はお客様から相談を受けたんですけど、どの商品を勧めたらいいのか分からなくて……」
「時間あるし私でいいなら一緒に考えるよ。ごめん、話の続きはまた今度」
「うん、じゃあ私はもう上がるわ。お疲れー」

同僚はキャスターを滑らせ自分の席に戻っていく。
私は近くにあった椅子を彼に勧めてまずは手持ちの資料に目を通した。



「すみません、遅くまで付き合わせてしまって…」
「気にしないで。それにわざわざ送ってもらってこっちが申し訳ないよ」

新人君に付き合い一時間ほどの残業を経て帰路につく。普段の通勤はバス。でも最悪徒歩でも帰れる距離だ。まだバスも通っている時間帯だったのだが車通勤である彼が送ると言ってくれたのでその申し出を有難く受けた。

「先輩の旦那さんってどんな人なんですか?」
「え?」
「実はさっきの話聞こえてて気になったんです」

まさか面と向かって聞かれるとは。後輩に聞かせるには恥ずかしい内容でもあるが「俺も彼女がいるんでぜひ参考にさせて頂きたいんです!」なんて言われてしまえば話すしかなかった。

「物凄く出来た人だよ。私のダメなところも全部カバーしてくれるし怒らないし喧嘩だって一度もしたことない」

多少の口喧嘩はあるが、それもその日のうちに互いに謝って解決してしまう。それに隆はよく気が回るから私が爆発してしまう前に上手く立ち回ってくれるのだ。

「先輩は仕事もできますし上司からの信頼も厚くてダメなとこなんてなさそうですけど」
「いやぁ家では本当にダメ人間だよ。ゴミ出ししても新しい袋掛けるの忘れたり、電気点けっぱなしで寝たりもしてさ」
「なんか意外です」

他の人からもよく言われることだった。でも隆はそれを「意外だ」とは言わずに「いいじゃん」と言ってくれた。外で頑張ってんだから家の中でくらい抜けてていいんだよ、と私を肯定してくれたのだ。そのときに私は隆と結婚したいなって思った。私のダメなところも全部ひっくるめて好きになってくれたのだ。でも今思えば、私はその言葉に甘え過ぎていたのかもしれない。

「送ってくれてありがとう」
「こちらこそ提案書の方も手伝って頂きありがとうございました」
「気を付けてね」
「はい。それと、また旦那さんの話聞かせてくださいね!」
「それはちょっと恥ずかしいというかなんというか…」
「いいじゃないですか」
「えーっと、お…?」
「お疲れ。同じ職場の人?」

車から降りてマンションの前で話していれば急に肩が引かれた。バランスを崩しそうになるもしっかりと支えられ、擦り減ったパンプスで踏み止まる。気付けばすぐ横に隆の顔があった。

「え、隆!?」
「もしかして貴方が…」
「夫の三ツ谷隆です。いつも妻がお世話になってます」

新人君は目を輝かせていた。同性ですら惚れこませる隆のイケメンっぷりって本当にすごいと思う。
その後は一言二言世間話をして、彼は車を飛ばして帰っていった。

「荷物貸して、オレ持つから」
「大丈夫だよ」

と言ったのにA4サイズのバックはすでに取り上げられていた。隆だって荷物が多いのに。それとさっきから目も合わせてもらえないし無言で少し怖い。
部屋の前まで辿り着きせめて鍵は開けようと思い、隆のポケットからキーケースを抜き取った。ガチャリと開けて、あ……と絶望的な声が漏れる。扉の先には悲惨な現実が広がっていた。

「あー…」
「ごめん!後輩の相談に乗ってたら思いのほか帰るの遅くなっちゃって…!」

いや、言い訳は良くない。彼からの相談がなかったとしてもきっと今くらいの時間に帰っていたのだと思う。でも呆れられたくなくて咄嗟に出た言葉だった。

「いいって。片づけとくし夕飯も用意するから先にシャワー浴びてこいよ」
「でも、」
「車で送ってもらうほど疲れてたんだろ。早く行けって」

特別大きな声で言われたわけでもない。でもその言葉が痛く頭に響いた。

浴室で頭から冷水を被ってもそれは収まらない。
そして残ったのは自己嫌悪だけだった。





あれから隆とは少し気まずい。
向こうの仕事も落ち着いたのでアトリエで日を跨ぐようなことはなくなったが、家で顔を合わせても何となくぎくしゃくしてしまう。

でも今日は名誉挽回をはかるつもりだ。隆からは「夕飯はいらない」と連絡は入っていたけれど仕事を早めに切り上げて翌日にも食べられるようスープを作った。洗濯物も畳んだしお風呂には湯を張ってお気に入りの入浴剤も入れた。

いつ帰ってくるのかとそわそわしていたが十一時を過ぎても玄関からは物音一つ聞こえない。今日には帰ってこないのかなとネガティブ思考になっていたところで部屋に通知音が響き慌ててスマホを確認した。

しかし残念ながら相手は隆ではなく同僚からだった。やや落胆しつつも彼女からのメッセージを確認すれば飲みに行かないかと言うお誘いだった。そういえば最近二人で飲みに行ってなかったな。私が結婚する前は週一で飲みに行く仲だったのだ。

「もしもし?いま大丈夫?」

彼女に電話をすれば二コールで出てくれた。職業柄なのか、私も彼女も一問一答のようなメッセージのやり取りは好まない人間だった。数分の電話で日にちも時間も場所も決められるのならその方が早い。

『うん。久しぶりにどうかなって思ってさ』
「私も行きたい。いつもの会社近くの焼き鳥屋でいい?」
『もちろん。でさ、日なんだけど来週の火曜でもいい?直近で空いてるのがその日しかなくて…六時半には会社に戻れると思う』
「いいよ。じゃあ来週の火曜七時で予約入れるよ」
『え?即決して大丈夫?』
「その日なら夕方からのアポもないし早く上がろうと思ってたから平気」
『そうじゃなくって旦那の予定は聞かなくていいの?』

あー…確かに今は時間に余裕があるようで私より先に家に帰って夕食を用意してくれる日もある。でもこの前、新しい仕事を二件ほど貰ってきたと言っていたし、またすぐに忙しくなるだろう。だから———

「どうせ向こうは仕事だろうし大丈夫」

カタン、と物音がして慌てて振り返る。しまった、と気付くのに時間は掛からなかった。
いつからそこにいて、そしてどこまで私の話を聞いていたのだろうか。でも間違いなく、私が今さっき言った言葉は彼の耳にも届いていただろう。リビングの扉の前で固まってしまった隆を見て、そう確信した。

『そっか。じゃあ店の予約お願いね。おやすみー』

おやすみの返事すらできず、スマホが手から滑り落ちた。
うそ、さいあく、どうしよう。
何か言わなければと頭の中でぐるぐると考えていれば隆はこちらに背を向けてしまった。その今にも消えてしまいそうな後姿に私は慌てて声を掛ける。

「隆、ごめん!これはっ…」
「別にいーって。同じ職場のあの子とだろ?オレに気にせず行って来いよ」

違う、違うよ。いや、相手は合ってるんだけど私が言いたいことはそうじゃない。だってあの言葉だけ聞いたらすごく嫌な気分になったよね。だからちゃんと謝らせて。隆はそうやっていつも私のこと甘やかしてくれるけど、それじゃ私はどんどんダメな人間になってしまう。

「でも…」
「でもさ、」

同じ言葉が重なって、互いに口を紡ぐ。
ようやくこちらを見てくれた隆は泣きそうな顔をしていて。でも瞬き一つの間に困ったように笑っていた。あぁその顔。最近はそんな風に無理やりな笑顔ばかり作らせちゃってるね。

「確かに仕事入ってるかもしんねぇけど、オレの予定くらい聞いて欲しかったわ」

…そうだよね。私も早く上がれて、隆の仕事もないなら一緒に夕飯食べられるもんね。そういえば結婚した時できるだけ一緒にご飯食べようって約束したっけ。お互いの仕事上、休みも合いにくいからせめてご飯だけは、って。

「ごめん…」
「もういいって。風呂行ってくるわ」

静かに扉が閉められて隆の姿が見えなくなった。

終わった。
完全に嫌われた。





柚葉ちゃんの紹介で出会って、その一年後に隆に告白された。
当時の私には彼氏がいてその愚痴や悩みを隆にたくさんしていた。告白されたのはそんな私が彼氏にフラれ大号泣している日だった。他に好きな人が出来たと言われ、二年間に渡る交際はあっけなく終了した。

「うぅ……私の何がいけなかったんだろう」
「オマエは何も悪くねぇよ。っつーか今までの話聞く限りデートドタキャンしたり誕生日忘れたりってロクな奴じゃなかったろ」
「でも好きだったし」
「オレなら絶対にオマエを悲しませるようなことはしねぇよ」
「三ツ谷くんは優しいからなぁ」
「好きな奴にだけな」
「え?」
「オマエのことずっと好きだったんだけど」

さすがに即答はできなかったけれど、その一ヵ月後にはめでたくカップルになっていた。柚葉ちゃんは「まんまと傷心に付け込みやがったな三ツ谷!」なんて言ってたけどその傷心を癒やしてくれたのが他でもない彼だった。

友達だった時も、彼女だった時も、そして結婚してからも隆は私を悲しませたことは一度もない。でも私はどうだろうか。私はいつも隆に悲しい思いをさせている。





「このままじゃ捨てられる!」
「あんた飲み過ぎ!」

そして窮地に立たされた私は焼き鳥屋にて、同僚の前で大泣きをしていた。
今の私には隆に嫌われる要素しか残っていない。いつ離婚届を突き出されてもおかしくない。指輪を置いて出ていかれる日も近いかもしれない。

「帰って隆の荷物全部なくなってたらどうしよう!」
「あのスパダリが勝手にいなくなるわけないでしょ。ほら、水飲みな」

えぐえぐ泣きながら目の前に差し出されたグラスを傾ける。冷えた水が食道を流れ、少しだけ脳もクリアになる。それでもマイナス思考なのは変わらない。

「嫌われた…もうダメだ。というかそもそも好きとかではなく同情で付き合ってくれていただけかも」
「そんなわけないでしょ。ドレスプレゼントされたの忘れたの?」

一年前に挙げた結婚式。お金もそんなになかったからテラスのある洋食屋を貸し切って身内だけ集めて行った。私は招待状や席次表を作り、隆は衣装を用意することになって。でもまさか一からウェディングドレスを作ってくれていたとは思わなかったのだ。それにお色直し後のドレスも。

「あれすっごく綺麗だった。あんたに似合っててさ、好きな人のために作ったっていう彼の気持ちが伝わってきた」

会場の装飾品だって全部自分たちで作ったり手配したりした。二人でリビングで寝落ちすることもしょっちゅうで。「隈ヤバすぎ!」なんて言って笑ってたっけ。毎日が寝不足で、でも楽しかった。そんな忙しい中で隆は私のためのドレスを二着も用意してくれていたのだ。それなのに私ときたら。

「私には勿体ない旦那さまだった……」
「過去形はやめなさい」

同僚に引きずられるようにして店を出る。
このまま家に帰るの嫌だなぁ。本当に合わす顔がない。

「ドーモ。ソイツ迎えに来た」

そして幻聴まで聞こえてきた。ついに末期か、それとも神様が最後に見せてくれた夢なのか。
隆が私の名前を呼んでくれたような気がした。

「あっスパダリ…じゃなくて隆さん!お久しぶりです」
「久しぶり。いつも面倒掛けて悪いな」
「いえいえ、彼女には仕事で助けられていますから。ほら、お迎え来たよ!」
「あー…歩くの難しい感じ?背負って帰るから乗せてもらっていい?」

覚束なかった足が宙に浮き、温かな上に乗せられる。ベッドよりも硬いけれどこの場所は嫌いじゃない。
小さく小さく左右に体が揺れて、薄ら目を開ける。そうすれば二色の髪の境目が見えて私は好きな人の名前を呼んだ。

「隆…?」
「オマエ飲み過ぎ。あんま無茶な飲みかたすんなよ」

お酒はそこまで強くない。でも上司からの誘いは断れなくて、それにその場の空気を悪くするのもなと思いペース配分を考えずに飲んでしまう。その度に潰れて、でも毎回隆が迎えに来てくれる。そして呆れながら今のセリフを言うのだ。いつもならそれも愛されてるなって思えるのに、今の私は気が気でなかった。

「捨てないで…」
「は?」

縋るような思いだった。涙は枯れたと思っていたのにまた溢れ出してきた。隆の上着に濃い染みを作り、それが幾重にも重なっていく。

「今までごめんッ…これからはちゃんと洗濯も畳むし、ご飯も作るからぁ…うぅ、隆との時間も大切にッひっく…するから、…だから離婚するって言わないでぇ……」

肩に顔を埋めれば隆の匂いがした。同じ柔軟剤で洗っているのに私とは違う。安心して、そして私が大好きな彼の匂いだった。

「オマエと別れるとか、絶対ありえねぇから」
「ほ、ほんとう?」
「本当。昔も今も好きなんだからさ」

でも私はダメ人間なんだよ?もう飽きられて捨てられてもおかしくない。寧ろ別れを切り出される方が自然だ。私より素敵な人はたくさんいる。そして隆もその人と一緒になった方が今よりも幸せになれるかもしれない。それを嗚咽に混じりながら伝えた。

「オマエこそオレでいいのかよ」

ぽつりと言われた小さな声も距離が近いから聞き取れた。
鼻をすすりながら私は首をかしげる。

「どういう意味…?」
「いや、だってオマエ仕事できるだろ?オレより稼ぎもいいだろうし…営業職は男の方が多いって聞くから他に好きな奴が——」
「ありえない!」

思わず叫べば隆は足を止めて首だけで振り返った。
こんな素敵な人と結婚できた私は世界一の幸せ者だ。かっこよくて優しくて、そして何より私のことを一番愛してくれている。

「私が好きなのは隆だけだし!隆以上にいい人なんてこの世に一人もいないんだから!」

路上の中心で愛を叫べば、ひゅーと何処からか口笛が飛んできた。「おにーさん愛されてるねぇ」なんてほろ酔いのおじさま方の声も聞こえる。普段こんなこと、二人きりの時ですら言わないのだがお酒の力は恐ろしい。「恥ずかしいからやめろって!」という隆の言葉も無視して私は続ける。

「私は隆の奥さんなんだからね!この場所は誰にも譲らないんだから!」
「もう分かったって!」
「ほんと?」
「本当!」

隆の耳は真っ赤だった。この位置からでは表情を伺うことはできないけれど、おそらく顔も同じように真っ赤なのだと思った。それに気付けば、途端と物凄く愛おしい気持ちになり私はしがみ付く腕をわずかに強めた。

「ねぇ、これからは遠慮せずに言ってね」
「うん?」
「だって一生の付き合いになるんだよ。私は隆みたいに気の回る性格でもないから思ったことは何でも言ってほしい」

気付けばもう家の近くまで来ていた。この道も二人で歩くのは久しぶりだ。スーパーへの買い出しにはこの道を使う。そして手を繋いで家に帰った。同じ家に帰れる喜びを噛みしめながら。

「じゃあ何でも先に謝るのやめて。オレがしたくてやってんだから『ありがとう』って言ってほしい」
「分かった」
「飯はできるだけ一緒に食おうな」
「うん」
「あと男と二人きりになるのはダーメ。迎えが必要ならオレを呼ぶこと」
「うっ…分かった」
「そんで一日一回は『タカちゃん好き』って言うこと」
「えぇ?」
「で、いってきますとおやすみのチューをすること」
「なっ…!?」
「何でもつったろ?」

そこでようやく揶揄われていることに気付いた私は、もう!と怒って背中を叩いた。そうしたら隆が笑い出して。それで私もなんだかおかしくなって馬鹿みたいに笑ってしまった。こんな風に笑ったのなんて久しぶりだ。でも今まで上手く笑えなかった分、これからはこんな笑顔を増やしていきたい。

「オレはオマエの笑った顔が好きなんだよ。これからも隣で笑ってくれよな」
「私も隆の笑った顔が好き。だからこれからはいっぱい笑わしてあげる!」
「何だよそれ。あーやっぱオマエと結婚してよかったわ」

それはこっちのセリフだよ。
これからもよろしくね、私の旦那さま。