十三年後、唐櫛笥の中で

尊敬できる人は誰かと問われれば、私は祖母だと即答する。

幼少期に両親を亡くし、私は小料理屋を営む祖父母に引き取られた。
その店は京都にあるにも関わらず、観光客にというよりは地元の人に愛されるようなそんなお店だった。
幼子ながらも手伝いをすれば地元のお客さんが私の頭を撫で孫のように可愛がってくれた。
そんな優しい人達が集まる店も、祖父の病死により畳むことになる。

その時の私は七歳。
これからまだまだお金は掛かるだろうと考えた祖母は伝手を頼り仕事先を探した。
今までの接客業と料理の腕を活かし見つけた先は、地元でも有名なお屋敷の手伝いであった。

そこで住み込みで働くことになった祖母の手を握り、緊張して門を潜ったのは今もよく覚えている。

使用人達が住む離れの家で私達は生活を送った。
母家に行くことはなかったけれど、共に生活をする使用人達とは仲良くなった。そうしてまたも優しい人達に囲まれながら私はすくすくと成長していった。

しかし、中学に上がった時からだろうか。
今まで優しかった祖母が急に厳しくなった。
顔を合わせれば「勉強しろ」と言い、最低限のことはできるようにと夜中に使用人用の厨房で料理を教えこまれた。その他にもお茶の淹れ方、挨拶の仕方、目上の人への接し方など口煩く言われたものだ。
当時は反抗期も相まって祖母のことが煩くて堪らなかった。それを愚痴れば使用人達はみな苦笑いをしていた。

中学三年になった頃、私は生まれて初めて祖母と大喧嘩をした。
高校には行かずに就職をしたいと言った私と、絶対に進学しろと言った祖母との衝突。

「うちにお金はないじゃない!早く手に職付けて働きたいの!」

そう言って部屋を飛び出した。
そして近くの本屋で就職に関する本を読み、閉店時間になるまで居座った。

でも私はこの時、一生分の後悔をした。
重い足取りで屋敷までの道を歩いていればどうにもその場所が騒がしい。
そして救急車の赤いランプが目に映った時、私の悪い予感は的中した。

「貴方のおばあちゃん、急に倒れて……」

病気を患っていると知ったのは祖母が亡くなってからだった。
病院に着く頃にはすでに心臓は止まっており、その後手を尽くしてくれたそうだがそのまま還らぬ人となった。

火葬も終え、すっかり小さくなった祖母の骨壺を持っても死んだという実感がない。それでも作業のごとく僅かな遺品を整理した。
祖母が唯一、この家に持ってきた漆塗りの箱の中には写真やら指輪やら宝物だと思われる物が幾つか入っていた。そしてその奥に白い封筒と通帳が隠すように終われていた。

通帳には今までに見たことがない額のお金が貯金してあって、封筒の中には私宛の手紙が書かれていた。

自分の命が長くはないこと。
一人にさせてごめんという謝罪。
自分がいなくなった後は今まで与えられた分だけ人に優しくしなさい。
そして誰よりも私の幸せを願っているのだと、そう締め括られていた。

祖母の厳しさが優しさだったと気付いた私は、その日は目が真っ赤に腫れ上がるまで泣いた。

いつまでも下を向いていてはいられない。
私は祖母の言葉を胸に、高校へ進学する事を決意した。

しかし、ここで問題が生まれた。
お金があったとて、未成年の身寄りのない私が家を借りられるわけがない。それに出来るだけこのお金は無駄に使いたくはなかった。

ほとほと困り果てていれば使用人の中でも上の立場にいる人が、なんとこのお屋敷の旦那様に私の事を掛け合ってくれたのだ。

「貴方のおばあちゃんには色々とお世話になったからね」

この時、私も祖母のような人になりたいと強く思った。
そして私自身もその人に付いていき旦那様にお願いしたところ、条件付きで了承を頂けた。

“私が高校を卒業するまでは今まで通りここに住んでいい”
“ただし、その代わりとして旦那様の息子のお世話係をすること”

私は直接会ったことはないのだが、旦那様には五歳になるご子息がいる。ただこのご子息、他の使用人達の話を聞く限りとても扱いづらい男の子なのだとか。
しかしそんな事に構ってはいられない。
私は二つ返事で受け入れ、旦那様に深々と頭を下げた。

そして高校への進学と同時に、私は禪院直哉様の世話係として働くことになった。





お世話係とはいえ、私自身が学生なのだから正直多くのことはできない。
しかし、この屋敷に置いてもらうからにはしっかりと働かなければ。
私は朝と学校が終わってからはそのご子息の為に時間を当てた。

「坊ちゃん、朝ですよ」
「うるさいっ!」

ガンッ———
朝一、起こそうと声を掛ければ目覚まし時計を投げ付けられる。

「今は勉強時間のはずでは?」
「やりたくない!」

ビリッ———
坊ちゃんのやりたくない発言で犠牲になった漢字ドリルはこれで七冊目だ。

「人参が残っていますよ」
「不味いから食べたくない!」

ベチャッ———
汁が残った皿ごと畳に捨てられる。お陰で染み抜きが得意になってしまった。 

一週間経って私は気付いた。
このご子息、とんだクソガキである。

五歳にしてこの我儘っぷりは些か酷いのではないだろうか?イヤイヤ期という訳でもない。
旦那様は一体どういう教育をしてきたのか。使用人達が匙を投げたのも頷ける。
でもここに住まわせてもらうことの条件が世話係なのだから辞めるわけにはいかなかった。

そうして、ようやく投げられる目覚まし時計を片手でとれるようになった頃、私はあることに気が付いた。坊ちゃんは孤独の中にいることに。

坊ちゃんは十六畳の部屋に一人で寝ている。食事も当然一人で取り、五歳にして小学生レベルの勉強をし、専門家から体術を習っている。その他書道などの稽古事も分単位で組まれ遊ぶ暇なく過ごされている。
幼稚園にも行っていないのだから友達もいないのだろう。それに旦那様はお忙しくほぼ家を空けており、奥様は別宅に住んでいるため会えずにいる。

坊ちゃんはおそらく、親の愛情を知らないのだ。
こんなに立派な屋敷に住んで両親もいるのに、私が普通に与えられていたものがこの子には与えられていない。それに気付いてしまったのだ。

祖母の言葉を思い出す。
今まで私は周りの人達の優しさに包まれ、たくさんの愛情をもらい育ってきた。だからこそ次は坊ちゃんにしてあげたい。
その日から私は物を投げられることにもビビらず積極的に話しかけに行った。

「おはようございます。今日は天気がいいので庭をお散歩しませんか?」
「坊ちゃんは書道がとてもお上手なのですね。きっと硬筆もお上手なのでしょう」
「私が作ったオムライス食べてくださったのですね。実はこれには人参が入ってたんですよ。すごいじゃないですか!」

坊ちゃんには褒めて伸ばす教育をたくさんした。
初めは物を投げられたり汚い言葉を浴びせられたりもしたが、徐々にそれは薄れていった。そして一言、二言坊ちゃんから話をしてくれる頃には別人かと思うくらい丸くなっていた。



「やっと来た!遅い!」
「すみません、委員会があり遅くなりました」

学校から戻り、大急ぎで着替えて坊ちゃんの元へといけばぎゅっと腰に抱きつかれた。
どうしましたか?と聞けば「頭撫でて!」と言うので柔らかな黒髪を撫でた。

「あんな、俺も呪力使うて術式使えるようになったんよ!」

顔を上げた坊ちゃんが嬉しそうにそう言った。
呪力?術式?なんだそれ。

そういえば、私は禪院家がどのように財を成しているかは知らない。この大きな屋敷を見る限り由緒正しき何かの家元なのかとは思う。
でも時折、旦那様やそのご家族が怪我をして帰って来るのでひょっとしたらそっち系の仕事の人かもと最近では考えている。

「体術のひとつですか?」
「呪霊も分からん?」
「はい。すみません」
「なら俺が教えたる!」

坊ちゃんは私の手を取り書庫へと案内してくれた。
ガチャリと鍵を開け踏み入れた部屋は少し埃っぽい。しかし、掃除はされているのか換気をしてしまえば気にならなかった。

坊ちゃんは一番近くの棚から本を抜き取り、近くの椅子に私が座るよう促した。それから「抱っこ!」と言われたので抱き上げて膝に乗せてやる。その重さに若干腕が攣りそうになった。

「呪霊とは人間の身体から流れた負の感情が具現化し、意思をもった存在である」

その本は暗記するまで読んだのか、難しい漢字もある中すらすらと声に出して読み上げていく。その他、呪力、術式、呪術師など聞きなれない単語がいくつも飛び出してきた。まるでドラマの設定資料のような現実味のない話である。

「じゃあアレも視えんの?」

ひとしきりの説明を終えても首をかしげていた私に坊ちゃんは窓の方を指さした。
しかし、見えるものと言ったら窓の先にある低木だけである。

「お庭の景色しか見えませんね」
「ふーん」
「坊ちゃんは怖くはないのですか?その、呪霊?というものが視えて」
「俺は強いから怖ない!自分は怖いん?」
「そうですね。呪いと聞くと少し怖いです」

私自身、幽霊や宇宙人などは信じないタチだ。
しかし、坊ちゃんの話とここにある呪いに関する書籍。そういえば旦那様たちが “帳”やら“呪具”やら“呪詛師”という単語を言っていたのを聞いたことがある。頭の中を整理すると、すとんと理解できたような気がした。
そう考えるとやはり呪霊というのは怖いものだと思う。

ぎゅっ、と本の上に乗せられていた手が上から握られる。そこには私よりも一回りは小さい手があった。

「じゃあ俺が守ったる!自分は安心して俺の傍に居ってな」
「ふふ、頼りにしてますね」

少しだけ頼もしく成長した坊ちゃんの姿に笑みが溢れる。そうしたらまた「頭撫でて!」というのでまだまだ子供なのだと気付き笑ってしまった。





その術式とやらの鍛錬の為か、坊ちゃんが怪我をして帰ってくることが多くなった。
擦り傷、打撲は当たり前でいつもお風呂上がりには私は消毒をしたり包帯を巻いたりと手当てをした。

「…っ!」
「染みますか?」
「へーき!」

言葉ではそう言うがその瞳には涙が浮かんでいる。私には想像しかできないのだけど七歳の子供にはきっと辛かろう。
坊ちゃんがせがむ前に頭を撫でてやる。

「さすがです坊ちゃん。普通の人ならばきっと泣いて逃げ出しています。努力家の坊ちゃんならきっとこれからどんどん強くなるのでしょうね」

そう言えば坊ちゃんは立ち上がり私の膝の上に跨ってぎゅっと抱きついた。以前よりも少しだけ大きくなった体。きっともう私では持ち上げる事はできないだろう。

「ぶーたれさんですか?」
「ちゃうもん」
「すみません」

ぽんぽんと背中を撫でると「ゔー」という。やはりぶーたれさんだ。
しばらくすると鼻を啜る音が聞こえた。体勢がずれたので抱え直す。

「俺な、頑張っとんねん」
「ええ、坊ちゃんはご立派です」
「でもな全部出来て当たり前やねん。禪院家の人間なら出来て当たり前。だから出来ても褒めてくれへんし、出来んかったら捨てられる。怪我すんのもっ俺が…駄目や、から……ぅっ、なんっや」

しがみつく力が強くなる。
だから私はもう一度優しく頭を撫でた。

「坊ちゃんは本当にご立派です。誰も褒めてくださらないのなら私がその分坊ちゃんの素晴らしさを語らせてください。貴方は誰よりも努力家で忍耐強いお方なのです」

堰を切ったように泣き出した坊ちゃんを抱きしめた。
我儘から甘えたがりに、ぶーたれさんから泣き虫にと忙しい方だ。
僅かに肩が押され、坊ちゃんが顔を上げる。目元から溢れ出る涙を指先で拭った。

「あんな、自分だけはずっと傍に居ってな。絶対絶対、どこにも行かんといて」
「ええ、坊ちゃんが望むなら私は貴方のお傍におりますよ」

離れたがらなかったのでしばらく抱きしめながら背中を叩いていると小さな寝息が聞こえた。そのまま寝入ってしまった坊ちゃんを布団へと移動させる。
起きている時は大人びて見えるのだがやはり寝顔は年相応である。

私がここにいるのは高校卒業まで。
ずっと坊ちゃんの傍にはいられない。
嘘をついたことはいけない事だ。
でも優しい嘘なら許してもらえるのだと勝手に思う。
 
「おやすみなさい。坊ちゃん」

残りの期間は一年と少し。
私は静かに戸を閉め部屋を出て行った。





季節の変わり目、風邪をひき寝込んでいた私の元に坊ちゃんが訪れた。

「この様なところに来ては行けません。移してしまいますからお帰りください」
「いやだ!俺が面倒見たる!」

他の使用人達の静止を振り切り坊ちゃんは私の部屋から出て行こうとはしなかった。
寝込む私の隣で額のタオルを変えたり水を飲ませたりと世話を焼いてくれた。
誰かに尽くしてもらうのは久しぶりで、こんな状況なのに嬉しく思う自分がいた。

「だから言ったじゃないですか……」
「大したことあらへん!」

そして案の定、風邪が移った坊ちゃんの世話を今度は私が焼くことになった。
体を拭き着替えをさせ、お粥を食べさせたりと甲斐甲斐しく面倒をみる。一先ず食欲があることに安心する。

しかし、一日経っても布団から出ようとしない。
お水だって本当は一人で飲めるだろうに、背中を支え口元までコップを持っていかないと飲まない。風邪のせいで久しぶりに甘えたな坊ちゃんが出てきてしまった。

「偶には風邪引くのもええな」
「何を仰いますか」
「やってずっと傍に居ってくれんのやろ?」

女を落とす様な台詞をサラッと言う坊ちゃんに、将来が不安になったりもした。

「風邪を引かなくても傍にいますよ」
「ほんまやな?」
「はい」

お決まりの様に頭を撫でれば私の腰に抱きついた。今日の甘えたはどうやらかなり重いようだ。

「林檎食べたい!」
「でしたら擦り下ろして蜂蜜を入れましょうか」
「それ食べさせてくれるんよな?」
「坊ちゃんが望むなら」
「食べ終わったら本読んでな」
「はい、わかりました」

頭から額へと手を滑らすと、もう熱は下がっているようだった。
でも今日だけは特別だと、坊ちゃんの我儘を全て叶えることにした。





「見とってや!」

庭を散歩していれば坊ちゃんが灯籠の方へと駆けて行く。「そこで見てて!」と言われたので様子を見ていれば、坊ちゃんが印のようなものを結んだ。
途端、小さな破裂音がしたかと思うと空中から灰のようなものが風に流されていくのが視えた気がした。

「視た?俺が祓ったんよ!すごいやろ」

一瞬すぎてよくわからなかったが、褒めて褒めてと言わんばかりの坊ちゃんの目を見て私は大袈裟に声を上げた。そして坊ちゃんと同じ目線になる様に屈んで頭を撫でてやった。

「たかが蠅頭一匹祓った程度で騒ぐでない」

一部始終を見ていた旦那様の言葉はやはり冷たかった。
しかし、坊ちゃんもさすがはその息子というべきか旦那様の背に見事な飛び蹴りを決めていた。
私は心の中でガッツポーズをした。でも、きっと旦那様は分かっていて避けなかったのだと思う。蹴られた後の表情は柔らかかった。まぁその一秒後に鉄拳を喰らわせていたが。

「もっともっと強なるからな!ちゃんと見とってや!」
「はい。今後のご活躍楽しみにしております」

そろそろ嘘をつくのも心が痛くなってきた。





月日が経つのは早いもので、私が坊ちゃんの世話係になって三年が経った。
出会った頃は手も付けられないクソガキ———否、やんちゃだった坊ちゃんも今では分別が付けられるようになった。
まだ八歳ではあられるが、私などいなくともきっとご立派に成長されることだろう。

あとひと月で高校の卒業式、そこで旦那様との契約も満了だ。
在学中に就職に有利な資格をいくつか取り、春からは中小企業の事務員になることが決まっている。家具付きの社員寮があるので手続きをし、ここを出ていく目処も着いたことから私は旦那様の元へ挨拶に伺った。

「今まで大変お世話になりました。このご恩は一生忘れません」

三つ指を着き、頭を下げる。
旦那様は相変わらず酒を飲んではいたがちゃんと話は聞いてくれた。そして今日は機嫌がいいのかいつもより声が大きかった。

「それはこっちの方だ。あいつの世話を投げ出さなかったのはお前だけだ。感謝しとる」
「私の方こそ、あのお方の成長に立ち会わせて頂き嬉しく思います」
「お前が辞めると言ったらあいつも寂しがるだろうなぁ」
「そうでしょうか…しかし、私がいなくとも今の坊ちゃんなら———」
「はぁ!?辞めるなんて聞いてへんで!!」

スパーンッ、と景気のいい音が聞こえたかと思えば坊ちゃんが目を見開いてそこに立っていた。そして旦那様の許可も取らずに部屋へと足を踏み入れ、座ったままの私の肩を掴んだ。

「俺は辞めるって聞いてへん!!」
「坊ちゃんには旦那様に報告をしてからお伝えしようと……」
「なんで辞めるん?俺が昨日の勉強サボったから?それとも勝手に部屋に行ったから?一緒に寝てってお願いしたからか?なぁ、なんで?」

坊ちゃんは、瞬きをすれば流れてしまうほどに目に涙を溜めていた。まさかこんなにも好かれていたなんて思いもよらず、私まで泣きそうになってしまう。でもこれは仕方のないことなのだ。私の為にも、そして坊ちゃんの為にもいつまでも一緒にいることなどできやしないのだから。

「元より私が高校を卒業する三年間までと決められていたのです。それに、私がいなくとも今の坊ちゃんなら大丈夫でしょう」
「嫌や!親父ふざけんな!俺は認めへん!!」
「ハッハッハッ!言うようになったなぁ直哉!」

坊ちゃんが今にも旦那様に殴りかかろうとしているにも関わらず、当の本人は呑気なものである。怒る息子と途方に暮れている使用人を見ながら酒を煽っているのだから。

「この人は俺の世話係や!俺は許可せえへん!!」
「馬鹿言え!雇用主は儂じゃ。まぁ、ただ条件を満たせばお前の我儘を通してやってもいいぞ」

え、待って旦那様。
なにを勝手に話を進めているの?

「何だってやったるで!」
「先日教えた禪院家相伝の術式。あの内の一つを会得出来たらこれからも世話係を着けよう」
「そんなんすぐにやったるわ!」
「期限は一週間。精々足掻くんだな直哉!」
「一週間なんていらへん、三日で充分や!見ときよクソジジイ!ほれ、早よ行こ!」
「え、ちょっと坊ちゃん!?」

坊ちゃんに手を引かれ旦那様の元を後にする。引きずられながらも出ていくときに頭を下げれば、旦那様はまた豪快に酒を煽っていた。

「坊ちゃん!何を仰っているのですか」

術式と言うのは未だによく分かっていない。でも坊ちゃんが今覚えようとしている相伝の術式はとても難しいものというのは私でも分かる。そのうちの一つと言えども、八歳の子供が覚えるには早すぎると彼の親族もまた陰で言っていた。

「俺と離れて、自分は何とも思わへんの?」

坊ちゃんが足を止め、握られている手に力が籠められる。
先ほどのように大声を出されるかと思っていたが、発せられた言葉は想像以上に弱々しいものだった。

私は腰をかがめて、「坊ちゃん」と優しく声を掛けた。
そうして振り返った幼子の瞳にはまた涙が溜まっている。見かねてハンカチを取り出そうとすれば私の首元に手を回し、抱き着いてきた。

「俺は嫌や。自分がおらへんかったらこの家は息苦しゅうて住みとうない。俺から離れんで。一人にせんといて……」

今まで嘘をついてきた罪悪感が一気にのしかかったように思えた。
あまりの申し訳なさに、何も言えずに坊ちゃんの背中を擦っていれば身動ぎをされたので腕の力を緩める。

「俺やったるから、見とってな」



そして坊ちゃんは本当に三日のうちにその術式を覚えてしまったのだ。
約束通り、私は再び坊ちゃんのお世話係として禪院家に仕えることになった。
春からの勤め先にも辞退の連絡を入れ、入寮手続きも止めた。今まで準備してきたものが全て無駄になってしまったようで少し悲しい。

「俺な、この屋敷を覆うほどの帳も下ろせるようになったんよ!」

今日も坊ちゃんは鍛錬に励み、褒めて褒めてと私の腰にしがみつく。少しだけ位置が高くなった頭を撫でる。そうすれば誇らしげに笑った坊ちゃんと目が合って、まぁいいかと楽観的に考えた自分がいた。





学校へ通うこともなくなったので春からは本格的に母屋で働くことになった。
まぁ今まで坊ちゃんの世話以外にもそれなりの仕事はこなしていたので苦ではない。

年齢でいえば十八なのだが、この屋敷に仕えて三年。
そのため、春に新しく入った人に仕事を教える立場になったのだ。

「本日からよろしくお願い致します」

そのうちの一人は使用人の中でも珍しい若い女性だった。といっても年齢は私の四つ上の二十二歳。大学を卒業してここに来たらしい。
何か訳ありなのかなぁと思いつつも接していれば、仕事以外の時間に彼女から積極的に話しかけてくるようになった。曰く、彼女は京都の老舗旅館の跡継ぎなんだとか。所謂、若女将。

「修行しにここに来たってことですか?」
「せやねん、家の方針なんやわ。って、すみません敬語外れとりました!」
「いえ、気にしないでください。仕事中じゃないですし、私の方が年下ですから」
「ほんま?そんなら私に敬語もいらへんよ。こういうとこじゃ若い人も少のうて寂しいんよね。だから仲良うしてな」

高校卒業後は、友達とは随分と疎遠になっていた。だから彼女の申し出はすごく嬉しかった。
“友達”というには彼女はすごく面倒見が良くて、“お姉さん”と呼ぶにはどこか茶目っ気がある人だった。
休日も、今までなら部屋にこもっていることが多かったけれど彼女に連れられて出掛けることも多くなった。

「自分は化粧とかせえへんの?」
「う〜ん、あんまりそういうのやったことなくて……」
「せっかく整った顔しとるのに勿体無い!こっち来いや」

彼女のおかげで私は化粧することを覚えた。他にもいま人気なアーティストや流行の食べ物、最新ファッションなんかも教えてもらったりした。
そのおかげで確実に私の世界は広がっていった。



「化粧しとるん?」

休み明けに顔を合わすと坊ちゃんにそんなことを言われた。
化粧道具一式そろえ、ようやく自分一人でできるようになったお化粧。大人になったら化粧をすることもひとつのマナーだと思い、私は仕事中にもすることにしたのだ。
それを朝起きがけの坊ちゃんに目ざとく見つかった。

「はい。……変でしたか?」
「よお似合っとるよ。可愛い!」

坊ちゃんは割とストレートにものを言う節がある。お顔も整っているし、きっとご学友の中には坊ちゃんのことを好きな女の子も多いのだろう。だからこそ、ふしだらな男に成長しないか心配でもある。

「ありがとうございます」
「でもなんや寂しいな。一人で大人なってくみたい」
「私も一応は大人ですからね」

学校を卒業し、本格的に働き始めた。まだお酒は飲めないけれど一人立ちはできていると思う。それにここ最近の私は自分の世界が広がったようで、少し気が大きくなっていたのかもしれない。

「俺も早う大人になりたい」

朝のなんて事のない雑談。
だからこそ、その言葉の真意に当時の私は気づけなかったのだ。





坊ちゃんが中学へと進学する頃には、私は名前だけのお世話係となった。
その歳になれば流石に身の回りの事も自分でできる。それに、最近では旦那様や黒スーツの人と出掛けることが多くなっていた。
おそらく呪術師としての仕事なのだろう。

これで世話係も卒業かと思っていれば、旦那様の実の弟である禪院扇様に呼び出された。
もしや何かしでかしたかとヒヤヒヤしながら赴けば、自分の娘の面倒を見てもらいたいとの事だった。

扇様の双子の御令嬢であられる真希様と真依様。今年で五つになるという。
旦那様から当時五歳の坊ちゃんの世話をしていたことを耳にし、私にお願いしたいとのことだった。

「術式も使えん失敗作よ」

御令嬢方をそう言ったことには些か腹が立ったが、だからこそ私は彼女達の世話係をやりたいと思った。
彼女達もまた親から愛情を注がれない。だから私がその分愛情を注いでやらねばと自身の母性本能がそう告げたのだ。

「本日からお二人の世話係を勤めます。よろしくお願い致します」

冷めた目をした真希様と、怯えた表情で見た真依様に私は深々と頭を下げた。





一卵性の双子の為、確かに顔は似ているが性格は真逆だった。

真希様はとにかく行動派。とりあえずやる、文句があれば言う。大人に怒られようとも自分の芯を曲げない。
片や真依様は内向的な性格。いつも周りの様子を伺いながらそれに合わせた行動を取る。そして彼女は視える側なのか時折何かにひどく怯える。その時は決まって真希様の服の裾を掴んでいた。

彼女達の場合は坊ちゃんのように暴れることはなかったので気が楽だった。
初めは主に真依様に警戒されていたものの、毎日顔を合わせ会話していれば自然と打ち解けることができた。

「今日は呉服屋さんに行きましょう。新しいお着物の採寸を扇様から言い使っております」
「めんどくせぇー」
「……行きたくない」

禪院家総出の顔合わせのために仕立てられる着物。彼女達にとっては"失敗作"だと嘲笑われる会合のための服などいらないのだろう。
しかし扇様のご命令とあらば私は背くことが出来ない。

「それでしたらさっさと終わらせて遊びに行きましょう。行きたい場所はありますか?」

だからこそ折衷案とばかりに私は提案をする。
お二人は坊ちゃんに比べたら稽古事は詰め込まれていない。しかしそれは期待されてない故の放置なのだ。その割に自由がないのだからなんとも理不尽である。現に私用での外出には扇様の許可がいる。

「あ、じゃあ私ハンバーガーが食べたい!」
「私はフライドポテト!」
「承知致しました。では行きましょうか」

真希様と真依様がジャンクフード好きと知ったのはごく最近のこと。禪院家ではおおよそ食べることができないそれを私はこっそり彼女達に与えている。

私の右手を真依様が握り、私達の前を真希様が歩く。
三人で会話をしながら進んでいけばすぐに禪院家御用達の呉服屋に着いた。といっても私が実際に訪れるのは初めてなのだが。

「ごめんください」

開け放たれた戸を潜り、暖簾を払いのけ足を踏み入れる。
声を掛ければ奥からパタパタと走る足音が聞こえた。

「いらっしゃいませ。本日はどの様なご入用で?」

出迎えたのは二十代前半くらいの若い男性であった。坊ちゃんにしろ同僚の若女将にしろ、由緒正しきお家柄の子供は大変なのだな、と他人事の様に感心した。

「ご連絡させて頂いております禪院家の者になります。この度はこの子達の着物の採寸をお願いしたく参りました」

背中に手を添え少し押してやれば真希様と真依様が一歩前に出た。ただ真依様におかれては緊張しているのか真希様の服の裾を掴んだままだ。

「あぁ!いつもの女性ではなかったので分かりかねました。申し訳ございません……どうぞお上がり下さい」

勧められるがまま、上がらせてもらい二人の採寸をお願いした。採寸は女性スタッフが行い、それを待つ間先程の男性に話しかけられた。

「僕と同い年くらいの人がいるなんて驚きました」
「私も驚きました。この業界では中々同じ年齢の方に巡り会えないものですから」
「もしかしてあいつの事知ってます?」

そこで同僚の若女将の名前が出た事で私達は意気投合した。彼は彼女の幼馴染らしい。旅館の跡取りと呉服屋の跡取りとして昔から親交があったのだとか。

「疲れたー!」
「終わったよ!」

話に花を咲かせていれば真希様と真依様が戻ってきた。そして来る前の約束はちゃんと覚えていたのか互いに私の両脇を固めて「早く行こう!」と手を引っ張りせがんだ。

「ではそろそろお暇しましょうか。本日はありがとうございました」
「こちらこそいつもご贔屓にありがとうございます。仕立て上がりましたらお届けに参ります」

深々と頭を下げた若旦那に挨拶をし呉服屋を後にした。

「あいつ、絶対惚れたよ」

外に出て数歩歩いたところで真希様がにやりと笑った。私の手を握っている真依様も「うんうん!」と大きく頷いている。

「何を仰りますか。初対面で数分話した程度の人間を好きになるはずないでしょう」
「一目惚れだよ!ひ、と、め、ぼ、れ!」
「きっと着物を届けに来るのもあの人だよ!」
「そうですかねぇ……」

恋愛ごとに関心がないと思われたお二人も、やはり女の子なのか年相応にませているようだ。
はいはい、とお二人をいなしながら本命の場所であるハンバーガー屋を目指した。





もしかしたら真依様には未来を見通す力があるのかもしれない。
一週間後、禪院家の門を叩いたのは先日の若旦那だった。

「お久しぶりです、お着物を届けに参りました」
「こんにちは。ご足労頂きありがとうございます」
「とんでもない、また貴方に会えるとは嬉しい限りです」

にこにこと話す若旦那に嬉しくなって玄関口で話していれば、ちょうど若女将が通りかかった。

「あれ?二人は知り合いやったん?」

経緯を伝えると「ほんまか!」と彼女も会話に加わった。
ふと時計を確認すれば随分と話し込んでいた。若旦那もこのあと別の用事があるそうで私たちに頭を下げて帰っていった。

「ええ感じやん!」
「何がですか?」
「照れんでええよ。あとは私に任せとき!」

そう言って彼女も自分の持ち場に戻っていった。まさか、彼女も真希様と同じように考えているのだろうか。私はそのあたりのことに疎いのでなんとも言えない。

さて、私も仕事に戻らねばと着物を持ちその場を後にした。




禪院家総出の顔合わせの日———

この日は朝から着物や袴の着付け、それから料理の準備など兎に角慌ただしかった。
扇様からの指示もあり私は真希様と真依様の着付けにあたっていた。
真希様は瑠璃紺、真依様には緋色の着物を着せる。
先日採寸したそれは着丈もよく、お二人に似合っていた。

「くるしー」
「もう脱ぎたい…」
「お二人ともとてもお綺麗です。髪飾りと帯留めも付けましょうね」
「あんな集まり出たくねー」
「私も」

何とかお二人を宥め、奥の箪笥から幾つか色味の合うものを見繕う。そうしていればやたらと外が煩かった。
何かあったのかもしれないし、一応確認しといた方がいいだろう。そう判断し、二人に断りを入れて戸を開けた。

「ここに居ったんか」
「坊ちゃん?!何故こちらに?殿方の着付けは別のお部屋では……」
「そんなん関係あらへん。で、何で真希ちゃんと真依ちゃんと一緒に居るん?」

視線を私から後ろのお二人へと移すと、坊ちゃんの顔から表情が抜け落ちた。

「お前には関係ねぇだろ」
「ま、真希…!」
「真希様と真依様の着付けのため私がこちらにご案内しました。申し訳ございません」

坊ちゃんに深々と頭を下げる。
なぜこの時、自分が謝ったのかは分からないが真希様と真依様に被害が及ぶことは避けたかった。坊ちゃんは、お家柄なのか古い考えをお持ちになっているところがある。時たま男尊女卑ともとれる発言をされると使用人の間でも噂になったりしていた。

「なあ、真希ちゃん真依ちゃん」

頭を下げたままの私の側を通り過ぎてお二人に近付いていく。
真希様が真依様を庇う様前に立ち坊ちゃんの事を睨み付けていた。背になっているため坊ちゃんの表情は分からない。しかし、おそらく相当怒っている。

「この人はな、俺の世話係やねん。俺の物やねん。人の物取ったらあかんってパパから教わらんかった?」

私は急いで坊ちゃんと真希様の間に割って入った。

「私は扇様よりお二人の世話をするよう言い使っております。旦那様にも許可は頂いております。なので———」
「はあ?俺は何も聞いとらんけど?」

真希様達から私へと視線が移される。
聞いてないって…坊ちゃんには旦那様から話しておくと言っていたはずなのだが。あの人、絶対忘れたな。

「ちょお二人は出てとってくれる?俺はこの人と話あるから」

一瞬、真希様と目が合うと大きく頷いてくれた。
真希様が真依様の手を引き部屋を出て行く。それを見送ると坊ちゃんがぴしゃりと戸を閉め私の方へと向き直った。

「あいつらの世話係ってどういうことや?」
「私が当時五歳の坊ちゃんのお世話をしていたことを扇様が耳にされたらしく、話が回ってきました」
「何で勝手に承諾してん?俺の許可なしに」
「旦那様からのお言葉添えもございましたので……それに坊ちゃんは随分と成長されました。もう私のお世話は必要な———」

風を切る音と大きな音で私の言葉は遮られる。
驚いて横を見れば壁際に立っていた私の両側を坊ちゃんの腕が塞いでいる。そして数センチ先には彼の顔があった。

「何で勝手に決めるん?俺がいつ自分が居らんくなって大丈夫言うた?」
「坊ちゃん…?」
「成長した言う割にずっと坊ちゃん呼びやん。あいつらの事は名前で呼ぶくせに」

勢いがあった言葉も徐々に語尾が窄められる。
坊ちゃんは時折物凄くへこむ時がある。その理由はあったりなかったり。でもその時の対処法はよく分かっている。

私は手を伸ばして坊ちゃんを抱きしめた。そして柔らかな黒髪を撫でる。
気付けば身長は私と同じくらい、いやもう越されてしまったか。坊ちゃんの頭が肩に乗っかり重心が傾く。支える様に腕に力を込めると、坊ちゃんも私の背中に手を回した。

「勝手にどっか行かんといて」
「はい」
「あと坊ちゃんって呼ぶのやめてや」
「では直哉様でよろしいですか?」
「呼び捨てでもええ」
「他の者もおります。直哉様とお呼びしますね」
「おん」

体を引き寄せられ、息苦しくなるほど抱きしめられる。
体は成長してもまだまだ甘えたがりだったのか。反抗期がなくて従順期があるというのもおかしな話だ。

「俺も早う大人になりたい」
「なろうとしなくても、いつの間にかなっているものですよ」
「自分は化粧覚えて大人なったくせに」
「それは…!まぁ、そうですが……」

顔を上げた直哉様は無邪気に笑っていて、きっとまだまだ大人になるには遠いだろうなと思った。





旦那様と扇様から直接の話はなかったが、私は真希様と真依様のお世話係を外された。
新しい人がお二人に付いていたので決定事項なのだろう。

「直哉様、さすがにそれはお受けできません!」
「なんで?世話係なんやから近くに居った方がええやろ」

そして直哉様専属の世話係とでもいうように、私には直哉様の隣の部屋が割り当てられそうになっていた。たかが使用人が母家に住むなど許されない。乳母以外は。
そのためかれこれ三十分は直哉様とこの押し問答を続けている。

「せめて旦那様に確認を取らせてください」
「俺から話しとく」
「私の雇主は旦那様になります。ですから旦那様の許可がないことには困ります」

まぁ許可されても困るのだが。
私がどうしても譲らない様子を見て「わかった」と静かに言った。これだけではどうにも終わらなさそうだが一先ずこの場を収めることはできた。

きっと一時の気の迷いだ。
すぐに考えを改めるであろう。

そう思っていたのに数日後、直哉様は傷だらけの体で一枚の紙を持って帰ってきた。

「雇用契約書は奪えんかったけど許可は貰うてきた」

それを見れば、走り書きではあるが私が母家に住むことの許可と旦那様の署名があった。

「あんのクソジジイ、準二級の俺に一級の任務行かせるとか頭おかしいんとちゃうか」

呆然としていれば直哉様がそう愚痴を言っていた。内容はよく分からなかったがどうやら随分と苦労して手に入れてきたらしい。

「これで問題あらへんやろ?」

ダメ押しとばかりに笑顔を添えて尋ねられる。ここまで来たら断ることもできやしない。
私が渋々頷けば、また嬉しそうに直哉様は笑った。





新しい住まいは以前の部屋の倍は広く、簡易キッチンまで付いていた。トイレとお風呂はないので使用人の共同スペースを使うしかないがかなり快適に過ごせそうである。

直哉様が、十五歳になられると週末は泊まり込みで何処かへ出掛けることも増えた。時には中学校も休まれているようなので私としては学業が少し心配でもある。しかし、直哉様は勉学においても優秀なのか以前見せてもらった成績はかなり良かった。

「今ちょっとええか?」

おおよそ日曜の夜、直哉様は私の部屋にお土産を持って遊びに来る。隣の部屋の為か要がなくてもお茶が飲みたいと言って来る。母家でなら高級玉露もあるのに私が買っている安い煎茶を飲みたがるのだ。何故なのかとも思いつつ、最近では庶民の生活に興味がある御曹司みたいなものだろうと考えるようにしている。

「どうぞ」
「おおきに」

直哉様を中へと招き入れ、座布団に座ってもらいながらお茶を用意する。
机の上に湯呑みを並べると、直哉様は嬉しそうに大きな包みを私の前に差し出した。

「今日はな、兵庫の方に行ってきてん。その帰りにこれ買うてきたんや。お土産」
「いつもすみません。ありがとうございます」

焦茶色の袋に赤いリボンが結ばれている。それを紐解いていくと中から可愛らしいテディベアが顔を出した。大きさは六十センチくらいで腕に収まるサイズ。

「この部屋に合うと思ってな。かわええやろ」
「はい、すごく可愛いです。ありがとうございます」

初めて私の部屋に訪れた直哉様はその物の少なさに驚いていた。別にミニマリストというわけでもないのだが必要最低限の物しかない殺風景な部屋。それを不憫に思ったのか、それからご当地のお土産などをもらうようになった。

「そこの棚空いとるし、この子の場所にしよか」

私の膝の上に乗っていたテディベアを手に取り、入口近くの飾り棚へと置く。
そこにはハーバリウムやアロマキャンドル、ステンドグラスの写真立てなんかが飾られている。全てが直哉様からの頂き物だ。それを見ながらこの部屋も随分と部屋らしくなったなぁと他人事のように思った。

「こんなんあったか?」

テディベアが置かれた下の段にある多肉植物の鉢を手に取った。
あまり手間をかけずに育てられるから初心者にも育てやすいらしい。そう教えてもらい先日出掛けたときに購入したものだ。

「知り合いに勧められて買ってみました」

先日、呉服屋の若旦那と一緒に出掛けた。いや、もう彼氏と呼んだ方が分かりやすいのかもしれない。
若女将伝手で連絡先を交換した私たちは、何度かやり取りを重ね二人で出掛ける間柄になった。そして三度目に一緒に出掛けた時に告白され、それからは男女の仲になった。
休みが合わない日が多いけれど、それでも毎日連絡を取り合ってそれなりに上手くやれていると思う。

「ふぅん」

一度立ち上がった直哉様は座布団の上ではなく、私のすぐ隣へと腰を落とした。そして腕をついたかと思うと、ごろんと私の膝の上に頭を乗せた。
この体勢になることは、つまりは甘やかしてくれという“坊ちゃん”の合図だ。

「直哉様にあまり反抗期は見られませんでしたが、甘えたさんは直りませんね」
「外ではちゃんと反抗期やっとるもん」
「何ですかそれは」
「別に分からんでもええ。俺も早う大人になりたい」
「最近はそればかりですね」

大人になりたいという割に、私の膝からどくわけでもなく「頭撫でて」と言ってくる。
体が大きくなろうとも私の中で彼はいつまでも子供で、そして“坊ちゃん”なのだ。





直哉様が無事に中学を卒業された。
そして今年からは宗教系の高専学校へと進学される。でも実のところ、そこは呪術師となるべく人間が通う学校なのだとか。
この高専への進学を機に、また直哉様も大きく成長されるのだろう。禪院家の次期当主となるのも夢ではないのかもしれない。

今日は直哉様の進学祝いの食事の席が設けられる。一部の親族だけの小さな食事会ではあるがいつもお忙しくされている旦那様やそのご兄弟が集まるため私達使用人は朝から気を張っていた。

そしていよいよ食事会が始まる時間となるが、宵の明星が西の空に見えても直哉様がお戻りになられない。
昼過ぎに出かけてくると出ていったが、誰がこんなに遅くなると思ったか。電話を鳴らすが出てくれない。当の主役がいなくては食事会も始められず、待たせている旦那様達の様子を見て使用人たちの胃も痛くなってきた。

「戻ったで」

数人の使用人が捜索に出た数分後、いつも通りののんびりとした口調で直哉様は帰ってきた。しかし、それを見て喜ぶものは誰一人としておらず、時が止まったかのように皆が口を開けたまま動かなくなった。

「直哉様、その髪はどうされたのですか?」

目があった私が、何とか声を発する。
何度瞬きしたって目の前の光景は変わらない。

「染めたんよ。似合っとるやろ?」

そう言った彼の頭は昨日までの黒髪ではなく、眩しいくらいの金色に染まっていた。しかも耳にはピアスの穴が開いている。
きっと旦那様の許可は取っていないだろう。
親族が集まる大事な食事会の前、これは非常にまずい。

「似合っておりますが、なぜ……」
「もう義務教育も外れたしええやろ。さぁておっさん共にもお披露目したろ」



そのあと行われたのは食事会ではなく、旦那様と直哉様の大乱闘であった。
朝から仕込んでいた料理は全てひっくり返され厨房スタッフは泣いていた。そして深夜にまで片づけの作業に当たった使用人たちも泣いた。

「もう子供でもあらへんし、俺の好きにしてええやろ」

あばらを折られ、額から血を流しても自分を曲げない精神はすごい。
しかしこのままで本当に大丈夫なのだろうか。進学すれば人里離れた土地で寮生活となる。ご学友はできるのか否……

私の心配などよそに、直哉様は大手を振って高専へと旅立った。





直哉様が家を出られ、そして同僚であった若女将も自分の旅館へと戻っていった。
身近にいた人が離れていき寂しくもある。しかし、それを埋めるように私は若旦那とどんどん仲を深めていった。

先日、ついに彼のご両親に紹介された。一緒に食卓を囲み会話をして楽しかった。大勢で囲む食事は久しぶりであれが家族なんだと知った。そして、その中に自分がいるというのはとても不思議な感じだった。

また、同時に憧れてしまった。
あんな家庭を持てたらいいなと、私は夢を見たのだ。

「僕と一緒になってほしい」

ついにプロポーズをされた。
しかし、私には後ろ盾もなければ身寄りもない。方や彼は老舗の呉服屋を継ぐ大事な跡取り。
話しを聞けば、やはりご両親は結婚となるとそこまで私のことを認めてはいないらしい。
私も私で色々なことを背負う踏ん切りがつかず、話がまとまらぬまま時間だけが過ぎていった。





風光る空、真っ白な雲が青い背景によく映える。
数ヶ月ぶりの直哉様のお帰りを、使用人達と共に出迎えた。

「おかえりなさいませ、直哉様」
「どうも久しゅう。元気しとったか?」
「はい。直哉様もお元気そうで何よりです」

にこにこと話す直哉様は少し顔付きが男らしくなったように思えた。そして、背もまた伸び身体つきが大きくなったように見えた。

荷物を中へと運び入れ、お茶の用意をし部屋と向かった。

「今日はプレゼントがあんねん」

今までお土産と言って物を貰うことはあれど、プレゼントと言われて渡されたのは初めてだった。びっくりして固まっていれば「開けんの?」と言われたので慌てて包装をはがしていく。
そして蓋を開ければ、そこには白のフレンチヒールが収められていた。シンプルだけれど品がある。ヒールもそこまで高くなく、足首にストラップもついていたため普段履きなれていない私でも歩けそうである。

「これは……」
「学生ゆうても任務に当たれば給料は出るからな。それは初めて貰うた金で買った」
「え!?いや、貰えません!」

初任給と言えば、大体は親か自分のために使うお金である。幼少期から世話をしてきたとはいえ、受け取るわけにはいかない。それに、これは今までもらったお土産の比ではないほど高価なものである。現に箱に書かれたブランド名は疎い私でも知っているものだ。

「別に俺の金をどう使うてもええやろ」
「それはご自身のためにお使いください!私のために使うものではありません」
「履かんの?」
「ですからこれは…」

私が持っていた箱を取り上げ、直哉様は私の手を引き立ち上がせた。そしてそのまま庭が見える縁側まで連れていかれ、直哉様はつっかけを履き外に出る。そうして私に座るように指示をし、その真新しい靴を私の足に当てがった。

「サイズ、大丈夫か?」
「はい、ですが…」
「よかった」

直哉様に支えてもらい、地面に立つ。使用人用の服とヒールのミスマッチ。でも履けば尚のことその靴は素敵に思えた。

「似合うとる」
「ありがとうございます。では、これは有難く使わせていただきます。ですが金輪際は…」
「あんま固いこと言わんといて」

これは私のお世話係としての不手際なのだろうか。
もしかしたら私は直哉様をとんだマザコン男に育ててしまったかもしれない。母として慕ってくれる分にはよかったのだが、これは流石に行き過ぎている。かといって、問題が問題なだけに旦那様には相談できない。

どうかこれが最後であってくれと願い、私は靴を箱へと閉まった。



しかし、状況は一向に改善されない。
靴を貰ったかと思えば、次はネックレスを貰った。その次はワンピース。ブラウスにスカート、ストールにコート。今まで貰ってきたものは飾り棚に収まっていたのに、それがクローゼットにまで占拠されるようになった。そして一年が経つ頃にはオールシーズンの服が揃ってしまった。

「直哉様、もう充分です。私は貰いすぎています」
「別に俺の勝手やろ」

以前はそれなりに話を聞いてくれたのに、今は私のことなどお構いなしである。
でもやはりあれだけの物を貰うのは使用人の立場から見ても良くないことだ。傍から見れば私は“次期当主様に取り入っている卑しい女”にしか見えないだろう。
また、これから直哉様には縁談話も舞い込んでくるはずだ。そうなれば私への依存も早いうちに断ち切らねばならない。



長期休みで直哉様が実家で過ごすことになった際、私ははっきりと「やめてほしい」と言った。
しかし結果としてはさらに悪い方向へと転がってしまった。

「じゃあ物じゃなければええんやろ?」

それからは食事に連れて行かれるようになった。そういう問題ではないのだ。
どうにも我慢できなくなって私はもう一度、直哉様に声を上げた。

「私、恋人がいるんです。お相手にも悪いのでこれ以上の施しは受けられません」
「なんで俺が遠慮せなあかんの?」

もう無理だと思った。

それもひとつの引き金であったが、私は若旦那との結婚を本気で考えることにした。
相手の親に認めてもらえず破談になったかと思った話も、ずっと若旦那が説得し続けてくれていた。
私も嫁に入った際には一から学ばせてもらいたいということ。また、これから先も彼と一緒にいたいことを真摯に伝えた。

まだ納得はしてもらえていないが、着実にいい方向へは進んでいる。
頑張ろうね、と彼と約束のキスをして私は呉服屋を後にした。

夜も更けた頃、ようやく屋敷へ戻り自分の部屋の戸を開けたところで私は息をのんだ。
目を凝らし、落ちている物を踏まぬよう部屋の明かりをつけた。

「なんでこんな事に…」

部屋の中はひどく荒らされていた。それは空き巣とかそういう荒れ方ではなく、獣が暴れまわったような後の様子に近かった。畳は引き裂かれ、箪笥も倒され中身が飛び出している。仕舞われていた着物も引き裂かれており、コルクボードに張られていた写真は焦げたような黒い灰になっていた。

「どしたん?」

隣の部屋にいた直哉様が異変に気付いて飛び出してきてくれた。今日はこちらに戻ってきていたのか。でもそんなことよりも目の前の光景が信じられない。

「呪霊の仕業やな」
「呪霊はこんなこともするのですか?」
「まぁな。でも安心し、俺がちゃんと守ったるからな」

震える肩が抱き寄せられた。そして「大丈夫や」と耳元で囁かれ、安心させる様に頭を撫でられる。
その腕の中に今では私が収まってしまう。
昔とすっかり立場が逆転してしまった。

とてもその部屋で寝ることはできなくて、その日は客間の方で休ませてもらうことにした。
翌日、怖いながらも部屋へと戻ると荒れた部屋の面影もなく畳も箪笥もすっかり片付けられていた。直哉様が朝早くに使用人たちに命じて元に戻させたらしい。

「使えなくなったもんは捨てといたで」

そう、本当に 元に戻っていた、、、、、、、
誕生日に若旦那から頂いた着物はない。大切に育てていた観葉植物もない。コルクボードに張られていた二人の写真もない。
残ったのは飾り棚にあったものと、私には不釣合いなブランド物の洋服だけだった。





この日までに二年かかった。
ようやく、私は向こうの両親に認められた。

何度も何度も話し合い、二人で頭を下げてお願いし、試験とも取れるようなご両親の期待にも応えた。そうして、私は呉服屋の嫁として迎え入れられることになった。

涙が出るほど嬉しくてその場で泣いてしまえば、向こうのご両親も涙目で「息子をお願いします」と言ってくれて私はぐずぐずになるまで泣いた。
私の情緒が落ち何時いた頃、お義母さんが奥から着物を持ってきた。曰く、それは代々呉服屋に嫁入する女に受け継がれている物なのだとか。

それをさっそく着付けてもらい全身を見る。
渋い色味の着物は、まだまだ私の身の丈に合わなかったけれどこれから見合うほどの女になろうと決意を新たにした。
髪も着物に見合うように簡単にまとめてもらい、ご両親と私達で四人の写真を撮った。
なくしたものも、これからまた増やしていけばいい。

せっかくだから着て帰りなさい、と言われ私はそのままの服装で帰路につく。
未だに実感がわかなくて、でもその度に着物を見ては幸せを噛みしめた。
明日は祖母の元へ報告に行こう。貴方が育ててくれた私は立派に成長しました、と。
そしてもちろん若女将にも。きっと彼女も喜んでくれるはずだ。

現実味を増した未来への空想を描き、使用人用の裏口を開ける。
真夜中というわけでもないのだが、この廊下の先には直哉様と私の部屋くらいしかないのでやけに静かだった。

この屋敷に来て二十一年、直哉様の世話係として十三年、気付けば私の年齢は二十八だ。
直哉様ももう十八になられた。日本で言えば結婚ができる年齢である。
私は十分この屋敷に尽くし、そして直哉様にも尽くした。
この家には恩も思い出もあるけれど、私はここを出て新たな一歩を踏み出したい。
この家での私の役目ももうお終いだ。



「随分遅かったなぁ。デートは楽しめたん?」



もちろん鍵は閉めて部屋を出た。
それなのに何故、私の部屋にいるのだろう。

「あと十分して戻らへんかったら探し行こ思てたところや」

元に戻ってしまった部屋で、彼の定位置となっている座布団の上に座り楽しそうに何かを見ていた。
月明かりも届かぬ部屋の中、それが何かは分からない。しかし、よくよく足元を見ればたくさんの写真が散らばっていた。

「なにこれ……」

手に持っていた荷物を放り投げ、足元の写真を掻き集めた。
掃除をしている私、食事をしている私、寝ている私、着替えをしている私、デートをしている私、キスをしている私。
私、私、私———
おそらく隠し撮りであろう身に覚えのない写真。

「出ていった時と服が違うなぁ。俺があげた物はどないしたん?まぁ知っとるけど」

目の前にまた数枚の写真が舞い落ちる。
今の服装と全く同じ私がそこには写っていた。
貰った着物を着て、四人で呉服屋の前に並んでいる写真。しかしその中の大半は私だけピンで写っていた。

「ずっと、見ていたんですか…?」
「当たり前やろ」
「なんで?」
「だって自分、俺の物やん」

大きな手が私の頭を撫でる。
いつから私が撫でる立場から撫でられる立場になったのだろうか。
その手つきは愛玩動物を撫でるようにひどく優しかった。

「非呪術師が自分のこと守れるとは到底思えんな。あんたは黙って俺の傍に居った方がええよ」
「いくら直哉様でも今のお言葉は許せません。私たちのこと、何も知らないじゃないですか」

頭を撫でていた手が頬にまで下りてくる。そして顎を掴まれ上を向かされた。

「でも自分のことはよう知っとるで。好きな物は最後に食べること、甘えられたら弱いこと、今日着けとる下着も腰に二つ並んだ黒子があることも全部全部知っとるよ」

怖くなり後退る。
棚に腕がぶつかり幾つかの物が倒れた。床に落ちたテディベアは、その柔らかな見掛けとは裏腹に鈍い音がした。

「それ以上、来ないで……」
「そう怯えんといて。ちっさい頃、言うたやん。俺が守ったるから自分は安心して俺の傍に居ってなって」

立ち上がれるほど足腰に力は入らない。彼に追い詰められるよう部屋の奥へと這うように逃げる。
外へと続く戸は静かに閉められた。

「ずぅっと世話されっぱなしやったけど、これからは俺が面倒見たるからな」

散らばった写真に手を取られながらも逃げる。
迫る彼は散らばった写真は踏み潰す。

「まずはその服脱ごか。あの男の物みたいで嫌やし、俺が選んだ物以外を着とるのも気に食わん」
「やめてっ…!」

強く襟元を引っ張られ、胸元がはだける。
抵抗しようと胸板を押し返すが逆にそれが刺激になったのか、覆い被さるように押し倒された。

「これからは俺が世話したるからな。十三年間の恩を俺の一生を持って返したる」
「直哉様、おやめください…」
「様とか付けへんでもええよ。もう自分が俺以外の人間に会うこともないしな」

右手が彼の指と絡まる。
私よりも一回り以上大きくなった手。


「ずっと一緒やで」


あの日の坊ちゃんはもういない。
どこからやり直せばいいかももう分からない。

私の頭を優しく撫で、無邪気な笑顔を見せる。

その男———禪院直哉を育てたのは十三年前の私だった。