吉田君、キスする相手間違ってるよ

喧騒と雑踏から逃げるように脇道へと一歩踏み出す。街灯も少なく舗装もままならない道だけれどここを通るのが家へ帰る一番の近道なのだ。

「ねぇ待ってってば!本当に言ってるの?」

正直少し怖いけど前に繁華街の方から帰ったら酔っ払いに絡まれたんだよね。だからある意味こっちの方が安全かも。それに塾終わりってお腹が空くし帰って見たいテレビもあるから時短が優先。

「うん」

三ヶ月前から見ていたドラマが今夜最終回を迎える。旬の俳優さんを使った恋愛ドラマで若い女性を中心に見ている人が多い。特に前話のキスシーンでは今年一の瞬間最高視聴率を叩き出したらしく最終回ではさらに注目が寄せられるようになった。

「これっきり?」
「そうだよ」
「じゃあ最後に……」

放送時間まであと十五分。お風呂に入るのを後回しにしてでも絶対に見なければ。そう意気込み、角を曲がった瞬間だった。

「あっ」

二つの影が重なり合う現場を目撃してしまった。





窓側の一番後ろが私の席。風通しも日当たりも良く、教卓からも遠いから授業中にぼんやりしていてもバレにくい。おまけに前の席の生徒は休みがちだから黒板だって見やすくて文句なしの一等席、……だった。

「おはよう」

鞄の中身を机へと移動させていた私に後ろから声が掛けられた。振り返るより先に視界の端に黒の学ランが映る。それは紛れもなく前の席の主である吉田ヒロフミという男子生徒のものだった。

「……おはようございます」

そして昨夜私が出くわした人物でもある。なぜ今日に限って朝から学校に来ているのだろうか。いや、学生なのだから学校に来るのは当たり前の事。でも吉田君は休みがちで遅刻や早退も多い。だから来ない可能性に賭けたのだが今日は元気に登校してきたらしい。

「なんで敬語なの?」

くすりと笑って、彼は自分の席には座らずにこちらをじっと見下ろしてくる。その真っ黒な瞳は確かに私を捉えていて妙に緊張してしまう。だから汗ばんだ手で古典の教科書を握りしめながらその問いに答えた。

「なんとなく…?」
「そっか」

それ以上でも以下でもない、まるで中身のない会話。でも吉田君の気は済んだのかようやく自分の机に荷物を置いて椅子を引いた。しかし会話は終わっていなかったらしい。彼は体をわざわざずらしてその長い脚を通路側に向けて組む。そして半身を捻って椅子の背も取れに肘を付き私の顔を伺ってきた。

「昨日、会ったよね?」
「会ってないよ」

やはりこれが本題だったのかとどこか腑に落ちた自分がいた。だからといってその誤魔化し方は自分でも驚くくらいヘタクソで食い気味に答えてしまう。もちろんそれには吉田君も気付きクツクツと喉を鳴らして笑われた。

「キミって嘘つけない人?」
「そんなことないと思うけど」
「じゃあ聞き方を変えようかな。昨日、道端でキスしてる男女は見た?」
「キ、キス…?!」

ぶわっと一瞬にして顔が熱くなる。そして思い出されるのは昨日あのシーン。長い髪を巻いてヒールを履き、後ろ姿でも美人だと分かる女性が男の人の首に腕を巻き付けてキスをしていた。路地裏に響く吐息の生々しさにこちらが呼吸するのを忘れてしまうほどだった。そして男の人——つまりは吉田君なのだが、彼と目が合った瞬間にハッと息を吸い込んでその場から駆け出した。

「見たんだ」
「そ、それは…そのー……」

教室の後ろで飼っているメダカよりも早く視線を動かせばまた笑われた。吉田君ってこんなに笑う人だったんだ。学校に来る頻度も少なければ会話らしい会話も今が初めて。それにどことなく大人びた印象の彼からは想像できないような姿だった。

「別に隠さなくてもいいよ。寧ろ変なもの見せちゃってごめんね」
「いや、私の方こそ彼女さんといたのにごめん」
「彼女?」

泳がせていた視線を戻せば顎に手を当てた吉田君と目が合う。その頭上にはクエスチョンマークが浮かんでいた。だから言葉を付け足して、恋人との時間に水を差したことを謝った。でも吉田君が気になったのはその点ではないらしい。

「キミにはあの人が彼女に見えたんだ」
「違うの?」

彼女だから、恋人だから、そういうことをしていたのだと思ったのにどこか他人事のように言う。そんな吉田君の姿にこちらがクエスチョンマークを浮かべる番だった。

「想像に任せるよ」
「はぁ」

私の間抜けな返事はチャイムによりかき消される。そこでようやく吉田君が椅子に座り直しこの会話は終了した。





ゴミ箱を引きずって校舎裏へと歩いていく。教室の掃除当番はゴミ捨てまでが仕事である。でもみんなやるのが嫌だからジャンケンで勝負をした。その結果、見事に一人負けしたのが私である。

「ごめんね、こんなところに呼び出して」

校舎裏の焼却炉はゴミ捨ての時しか人は寄り付かない。加えて白熱したジャンケン大会により他のクラスの人達はとっくに掃除を終えている時間だった。それなのにどうやら人がいるらしい。

「いいよ。話って何?」

聞こえてくる会話に、何となく状況を察して校舎の壁に身を寄せる。そうして隠れながら焼却炉の方へと顔を出せば一組の男女の姿が。そして驚くべきことに男子生徒は吉田君だった。

「実はね、転校してきた頃から吉田君の事気になってたんだ」

そう告げた女の子は学年一可愛いと言われる子だった。この辺りでは規模の大きい我が校でそう言われるだけあってアイドル並みの容姿をしている。現に街中でスカウトされたこともあるらしい。

「そうだったんだ」
「うん。それでね、よかったら私と付き合ってもらえないかなって」

私には吉田ヒロフミと出くわす相でも出ているのだろうか。こんな現場にばかり遭遇する。また変に絡まれたりしたら面倒だなぁと思いつつも先の展開が気になるのも事実。だからその場にしゃがみ込んで身を低くし様子を伺った。

「ごめん」

てっきりイエスなのかと思いきや予想を裏切る返事だった。まさかあの美少女がフラれるなんて。あっでも吉田君には彼女がいるんだっけ。

「え……あの、なんで?」
「今は彼女とか作る気ないんだ、ごめんね」

んん?なんで彼女がいるって言わないんだ?そういえば前に聞いた時も誤魔化されたような気がする。じゃああのお姉さんは本当に彼女じゃないってことかな。キスしてたのに?それでいて彼女を作る気がないってどういうことだ?

「盗み聞きなんていい趣味してるね」
「ひっ…?!」

迷宮へといざなわれていたところで足元に影が落ちた。降り注いでいた日差しが遮られ体感温度が一度下がる。そして反射的に顔を上げればアルカイックスマイルとご対面。どうも、と苦笑いと共にすぐさま立ち去ろうとすればゴミ箱が彼の手により抑えつけられた。

「どうして逃げようとするの?」
「……なんとなく」
「別に怒ってないし取って食ったりはしないよ」
「脅して殴ったりもしない?」
「俺ってそんな印象持たれてるの?」

警戒心があるに越したことはない。酔っ払いに絡まれること然り、世の中には悪魔という物騒な生き物もいる。人の血を好むそれらは常に私達の命を狙っている。だからか小さい頃から両親には警戒心といざという時の逃げ足だけは持っておけと口酸っぱく言われていた。

「そういうわけじゃないけど」

だからといってクラスメイトに対してあんまりな言い方である。でも吉田君は他の子とはちょっと違う感じがして接し方がよく分からないのだ。それは顔が整っているだとか大人びているからだとか、そう一言で表せられるものじゃない。ただ漠然と、自分と違う景色を見ているなと思う時がある。

「けど?」
「いざとなったら躊躇いなくやりそうだから」
「それは間違ってないかも」

今がまさにその時だった。でもそう思ったのはやはり一瞬で、吉田君はそのままゴミ箱を持って歩きだしてしまう。だから私も慌てて立ち上がり後を追いかけた。

しかしそれを私に返す気はないらしく並んで焼却炉まで向かう形になってしまった。そうなると無言も気まずい。どうしようかと考えていれば隣から視線を感じて顔を上げる。目が合えば私の気持ちを見透かすように「何か聞きたい事でもある?」と言ってきたので躊躇いなく口を開いた。

「何で告白断っちゃったの?」

それは一番聞きたい事ではなかったけれど確かな疑問でもあった。ドラマよりも生々しい恋愛観を持ってそうな彼に少し興味が湧いたのだ。

「聞いてたんなら分かるでしょ」
「彼女作る気がないってこと?」
「そうだよ」

焼却炉まで辿り着き、私が扉を開けて吉田君がゴミを放り込む。轟々と燃え上がる煙とその臭いに咳き込めば伸びて来た手に扉が閉じられた。それにお礼を言えば何食わぬ顔で吉田君がまたゴミ箱を持ってくれる。

「じゃあこの前の人は?」

それならまだ会話は続けられるのかと思いさらに踏み込んでいく。この前ははぐらかされたけれど今なら教えてくれそうだ。吉田君は雲一つない空を見てからこちらへと視線を移した。

「キミが思っている通りだよ」
「え、じゃあセ……」

最低な単語が頭を過るが声に出さずに飲み込んだ。いやいや、吉田君がやけに大人びているからといって私と同じ高校生である。さすがにそれはない。隣の彼を無言で見上げれば意味ありげな顔をされたが私の思い過ごしであろう……多分。

「ゴミ箱運んでくれてありがとう」

結局、教室まで行動を共にしてしまった。クラスにはもう誰もおらず、机の上には私の荷物だけが取り残されていた。吉田君の荷物はなく、本当に私に付き合ってくれただけらしい。

「別にいいよ」

意外と良い人だな。
しかし私の中で僅かに上がった好感度も次の一言で急降下することとなる。

「これで貸し一つね」

いや、聞いてないんですけど。
吉田君ってやっぱり謎だ。





さて、塾も終わり早く帰りたいところではあるけれどあの近道を使う気にはならなかった。さすがに吉田君の方が避けてそうだけれどドラマも終わったことだし急いで帰る必要もない。だから繁華街の方から帰ることにした。

「ねぇ、ちょっといい?」

私の塾は駅近くの雑居ビルにあるため周辺には居酒屋が多い。だから酔っぱらいも多くいてその合間を縫うように早足で歩いていたら声を掛けられた。しかしその手の輩に絡まれた経験のある私は今さら動じない。華麗なステップで避けガン無視して先を急いだ。

「運動神経良すぎでしょ」

そう笑われた後に名前を呼ばれた。そうなってしまえば必然的に足も止まる。私を呼び止めた人物は私服姿の吉田君だった。

「びっくりした。こんなところで何してるの?」
「キミこそ」
「私は塾帰り」
「そうなんだ。悪いけど少し付き合って」
「え、何に?」
「やっと見つけた!」

人を掻き分けるようにしてやってきたのはショートヘアでライダースジャケットを着た女の人。耳に付けられた長いピアスが街灯を反射して煌めいている。それに目を細めていれば突如壁が現れた。

「追いかけてきたの?」

よく見たらその壁は吉田君の背中だった。私の理解が追いつかない中で二人は会話を続けている。その断片的な内容から察するにどうやら二人は付き合っていたらしい。そして一方的に別れを告げた吉田君を彼女が追ってきたという状況のようだ。うん、デジャブかな。

「っ!?」

面倒事は御免だと逃げようとすれば腕が掴まれた。吉田君の背中には第三の目でも付いているのだろうか。依然として彼女と会話を続けたまま手だけはしっかりと腕を掴んでいる。そして思い出されるのは先日の“貸し”のこと。不本意ではあるが、ならばしょうがないと覚悟を決め吉田君の横に飛び出した。

「ねぇ早く帰ろうよ」

声は上ずらないように平然を装う。突然の私の出現に吉田君までもが驚いていたがその瞳はすぐに三日月に細められた。

「そうだね」
「え?何この子?」
「わざわざ迎えに来てくれてありがとう」

彼女から注がれる視線はかなり痛いが意識したら負けだ。だから吉田君だけを見て、早く何とかしてくれと目力で訴える。私の思いが通じたのかは定かではないが掴まれていた腕が離され、それから指先を絡めとられた。

「彼女を家まで送らないといけないからもう行くね」
「はぁ?彼女とか聞いてないんですけど!ってゆうか浮気してたってこと?!」

ドラマでならテンションが上がるシーンだけれどその当事者になると気分は最悪だった。頼んでもいないゴミ箱一つの恩にしては代償が大きすぎる。でももう引くことは出来なくて繋がれた手を握り返した。

「違うよ。元々キミとは付き合ってないしこの子が本命だから」

やめてくれ、と心の底から叫びたかったがそれを言ったら今以上の修羅場が巻き起こるに決まっている。だから顔を伏せて嵐が過ぎ去るのを只々祈る。不覚にも私のこの行為が照れ隠しに見えたのか吉田君があやすように頭を撫でてきた。本当に、やめて。

「なっ…?!最低!二度と顔見せないで!!」

彼女は周囲の人の注目を集めヒールを鳴らして立ち去っていった。ようやく過ぎ去った嵐にほっと肩を撫でおろせば隣の彼は「じゃあ帰ろうか」なんて平然と話しかけてきた。いや、神経図太すぎでしょ。

「一人で帰れるから大丈夫。じゃあお疲れ様でした」

解散とばかりに手を離すが吉田君が離してくれないので結局繋いだまま。そしてそのままお構いなしにと歩きだす。しょうがないので隣に並ぶ形で着いて行った。

「キミのお陰で助かったよ、ありがとう」
「吉田君、いつか女の人に背中刺されるよ」
「はははっ何それ」

笑い事じゃなくて割と本気で言ってるんですけど。もう巻き込まれたくもないのでこれ以上、詮索する気もないが忠告だけはしておこう。クラスメイトが傷害事件に巻き込まれたなんてニュースを朝から見たくないので。

「遊ぶのもほどほどにってこと」
「遊んでいること自体は非難しないんだ」
「別に私は吉田君の彼女じゃないからね」

もう離して、と付け加えればあっさりと手が離された。繫華街を抜けた先は住宅街が続いてる。私の家もこの先だ。これで本当に解散できる。それでは今日の日はさようなら、またあう日まで。

「じゃあ背後に気を付けてね」

ばいばい、と小さく手を振って住宅街へと歩き出す。しかし、足音が追いかけて来たと思ったら隣に吉田君が並んでいた。えっなに?

「家まで送るよ」
「それってあの場をやり過ごすための嘘でしょ」
「のはずだったけど巻き込んだお詫びに送る」
「借りを返しただけだから気にしないで。それに私まで巻き込まれて刺されたくないし」
「やっぱり刺されることが前提なの?」
「だってそうでしょ」
「例えそんなことがあっても俺が守ってあげるよ」

小首を傾げた吉田君が淡く微笑む。あーなるほど。これはいけないよ、吉田君。顔のいい男がそんな台詞を言ったらそれだけで女の子は舞い上がっちゃうんだから。まぁ今の会話内容は中々に残念なものなのでそんなことにはならないが。

「守らなくていいから巻き込まないで」
「冷たいな」
「それに脚には自信があるからいざとなったら全力で逃げられるし」
「その場合、俺はどうなるのかな」
「警察には通報しといてあげる」
「それは助かる」

そのまま本当に吉田君は家まで送ってくれた。いや、着いてきたと言った方が正しいのかもしれない。そして三度目の正直となる別れの挨拶をしたところで吉田君が私を引き留めた。

「俺は遊び人じゃないからね」

それってわざわざ私に言う事?

「彼女意外とキスする人は遊び人だよ」

帰り道はお気をつけて。
それだけ伝えて振り返らずに家に入った。





二度の夜の出会いを機に、吉田君にやたらと話しかけられるようになった。
朝の挨拶はもちろんのこと、今日は雨が降りそうだという世間話から休んでいたところのノートを見せて欲しいというお願いまで。会話内容はクラスメイトの範疇ではあるけれど、私に聞くことか?とは言いたくなる。学校に来る頻度は少ないにしろ吉田君にも男子生徒の友達はいるのだから。

「ねぇ、アンタって吉田と付き合ってるの?」

だからクラスの女子にそう勘違いされるのも無理はなかった。もちろんその質問には首を激しく横に振ったわけではあるがそれと同時に一つ気付いたことがある。だから放課後、前後の席でありながら吉田君を屋上まで呼び出した。

「改まってどうしたの?」

長い前髪が風に吹かれその下から黒の瞳を覗かせる。青空の下でも一切の光を宿していない目を見つめながら私は重い口を開いた。

「吉田君、わざとやってるでしょ」
「何が?」

靡く髪を鬱陶しそうに手で払いながら屋上の手すりに寄りかかった。私もつられるように手すりに近づき同じ体勢を取る。空には一本の飛行機雲が描かれていた。

「皆のいる場所で私に話しかけたり名前を呼んだりすること」

クラスの人は基本的に苗字呼びだ。その中で彼は私のことをわざわざ下の名前で、そして「ちゃん」付けで呼んでくる。もはや確信犯としか言いようがない。

「嫌だった?」
「うん」

即答で答えたら何故か意外そうな顔をされた。いや、でもそうか。吉田君くらい顔が良いと女子から拒絶されるという経験がないんだな。確かに私もかっこいい俳優さんやアイドルに胸をときめかせることはあるが、生憎吉田君はその対象にはなりえない。

「私と付き合ってるって皆に思わせたいだけでしょ」

それはやはり出会い方の問題で、どうしたって遊び人のイメージがこびり付いているからだ。付き合うなら一途で誠実な人がいい。そう、彼氏いない歴イコール年齢の私は思っている。

「その理由は?」
「断わり文句の彼女が欲しいから」
「正解」

だから遊びでもフリでもお断りである。それに私がわざわざ付き合う義理もない。加えて彼の場合は私よりも適役がいるはずなのだ。

「それならこの前の告白を受けたら良かったのに」

偽物を作るより本物の方がいいに決まってる。例え彼女のことが好きじゃなかったとしても付き合っていくうちに好きになる可能性もある。しかし私の提案はため息により否定された。

「嫌だよ。だってあの子は自分に釣り合うかどうかしか見てなかったから」

そういえば彼女は「好き」という言葉を使っていただろうか。傍から見たらお似合いのカップルに見えたのだけど吉田君はそれじゃダメだったらしい。

「そもそも彼女とは一言も喋ったことないよ」
「それは確かにあんまりいい気はしないね」

意外とそういうところは気にするんだ。彼が人の内面を見ていたことに感動を覚えるが彼自身はというとクズである。どちらにしろこれ以上私を巻き込まないでくれ。

「だからキミに彼女になって貰いたいんだ」
「丁重にお断りします。あと迷惑だから必要以上にクラスで話しかけてこないでね」
「そっか、困らせてごめんね。じゃあお詫びにケーキでもご馳走させてよ、今日の放課後は暇?」
「そうやって既成事実作ろうとするのバレバレだからね」
「作っちゃいけない?」

どの口が言うか、と睨みつけるも吉田君はどこ吹く風のすまし顔。世の女の子達はこの姿を「クール」と呼ぶのだろうか。生憎、私にはいけ好かない野郎にしか見えない。

「いけないよ。だって吉田君のことが本当に好きな子から命狙われたくないし」
「キミってどうしていつも物騒なの?」
「だってそういう人ってドラマだと恨まれて酷い目に遭ってるから」
「それはあくまでフィクションの話でしょ」
「吉田君そのものがフィクションだからだよ」
「それってどういう意味?」

顔がよくて高身長でミステリアスで、夜な夜な遊び歩いていて彼女じゃない大人のお姉さんと関係を持っている。ドラマの役者のような設定をこれでもかと詰め込んだ彼は“吉田ヒロフミ”という名の俳優にしか見えなかった。

「なるほど。それは面白い解釈だね」

顎に手を添えながら他人事のように頷く。そして何か思いついたように小さく声を上げて私を見た。

「じゃあキミがヒロインになる気はない?」

恋愛映画のキャッチコピーに使われそうな台詞である。もし上映日が決まっていたら絶対に見に行くだろう。それほどまでに刺さる一言。しかし実際は別の意味で刺さった。

「うわぁ…その台詞、実際に言われるとキツイ……」

全身に鳥肌が立つ。無理無理無理、と首を横に振ればハイライトのない目が僅かに伏せられた。

「今物凄く傷ついたかな」
「全くそうには見えないよ」
「見えないように必死に取り繕ってるんだけど」
「役者魂だね」
「いや、違うけど」
「今年のブルーリボン賞も夢じゃないよ」

やったね、伝えれば盛大なため息をつかれた。だから幸せ逃げちゃうよ、と続ければ「元よりないよ」なんて悲しいことを言う。吉田君ほどの人なら私より持ってるものは多そうなのにな。でもだからこそ気苦労も絶えないのだろうか。現に学校も休みがちだし人には言えない事情があるかもしれない。

「とにかく彼女になるつもりもフリもしないから。私達はただの友達ってことで」

だからクラスメイトから少しだけ昇格させてあげた。しかし呼び方が変わったからと言って関係を深めるつもりはない。でも存外、図太い神経の彼はこの言葉すら都合よく捉えていた。

「あぁ、友達以上恋人未満ってやつね」
「違うよ。他人以上親友未満」
「それってただの友達だよね」
「だからそう言ってるじゃん」
「そうなの?」

どうしよう、もう友達止めたい。





期末テストの日は学校が早く終わる。だから友達を放課後遊びに誘ったら断られた。なんと彼氏ができていたのだ。そんな話聞いてないんだけど?!といつかのショートヘアのお姉さんのように食って掛かれば「アンタだって吉田とのこと黙ってたじゃん」と怒られた。これぞ吉田ヒロフミによる風評被害。

「今日は一人なの?」

これからデートと言った友人らの背中を見送り一人で校門を潜れば追いかけてくる足音が一つ。振り返れば奴がいるのは学校じゃなくて病院だったと思うんだけどな。

「誰かさんのせいでね」
「それは大変だったね」
「えぇ本当に。だから一人で帰るの」
「じゃあ今から出掛けない?」

私が一人になってしまった元凶とも言える吉田君からの提案に思わず毒づきそうになるが考えを改める。まだ日も高いし友人達が楽しく遊んでいる中、一人でいるのも正直虚しい。それに今さら風評被害を気にしたところで収まらないし拡大もしないだろう。だから彼の誘いに乗ることにした。

「どこに?」

陽気な日差しとは不釣合いに吉田君が笑った。



今なら角砂糖に群がる蟻の気持ちが分かるかもしれない。目の前には長蛇の列がありその先からは甘い香りが漂ってくる。すれ違う女の子達は生地に巻かれたたっぷりの生クリームを美味しそうに頬張っていた。

「クレープ?」
「そう、食べてみたかったんだよね。男一人だと来づらいでしょ」
「確かにね」

その気持ちは分からなくもない。現に今列を成している客のほとんどが女性だ。何人か男の人もいるが様子を見るに彼女と一緒に来ているようだった。

「キミは食べたことある?」
「うん。その時はカスタードクリームを食べたけど美味しかったよ」

中々ここまで来る機会もないしこの列に並ぶ気力もないので一度しか食べたことがない。でも甘くて美味しかったからまた来たいとは思ってたんだよね。

「そうなんだ。じゃあそれにしようかな」
「他にもイチゴやバナナが乗ってるやつもあるよ」
「結構種類があるんだね。迷うな」
「なんか意外かも」

列の中でも頭半個分ほど飛び出している吉田君を見上げる。「何が?」と首を傾げた彼にやっぱり太陽が似合わないなぁと小さく笑えば眉を顰められた。今日はやたらと感情豊かである。

「甘いもの食べるんだね」
「意外?普通に食べるけど」
「たこわさびとかエイヒレしか食べないと思ってた」
「それって酒のつまみでしょ」
「あっ飲酒はしてないんだ」
「ちょっと待って。俺はキミと同じ高校生なんだけど」
「そうだったね」

少しむくれた彼はようやく年相応に見えた。そうゆうところをこれからも周りに見せたらいいんじゃないかな。そうすればちゃんと吉田君の内面を見てくれる人は現れると思う。

「どうしたの?」

列も大分進み次の次が私達の番。しかし前が進んだことにより列を詰めようとしたところで吉田君の足が止まった。彼の視線の先を辿るが私と吉田君とでは身長差がある為、いまいちどこを見ているのかが分からない。

「ごめん、すぐ戻るから俺の分も買っておいてくれる?」
「え?」
「一番豪華なやつでお願い」
「ちょっと?!」

財布を投げられ目の前でキャッチする。そして私の呼び声虚しく吉田君は人混みへと消えていった。

——その約十五分後に吉田君は戻って来た。
無事にクレープは買えたものの店近くのガードレール付近で待っていた結果、生クリームの上のところは溶けてしまった。

「ごめん」
「何があったの?」
「ちょっとね」
「ふぅん」

おそらく女性であろう。聞く方が野暮というものだ。
だからそれ以上は何も聞かずにクレープを差し出す。吉田君ご所望の生クリームとカスタードクリームとイチゴとバナナが乗った一番豪華なやつ。そして一番高かったものだ。

「ありがとう」

しかしそれは受け取らずにもう片方のクレープへと手が伸ばされた。彼が手に取ったのは私が頼んだカスタードクリームのクレープ。

「吉田君のはこっちだよ」
「もしかしてイチゴとかバナナって食べられなかった?」
「食べれるけど」

寧ろ好き。でもやっぱり果物入りって高いし、見た目は良いけど三切れくらいしか入ってないんだよね。そうなると貧乏性の心が疼き手が出ないのだ。

「じゃあそれ食べて」

お金はいらないから、と付け加えて吉田君はカスタードクリームをひと口頬張った。手元に残されたクレープには真っ赤なイチゴとチョコソースの掛かったバナナが乗っている。本当に良いのだろうか。しかし迷っている間に生クリームが滴り落ちそうになったので私も慌てて頬張った。

「美味しい!」

お預けを喰らったせいでもあるが物凄く美味しかった。溶けているけれど生クリームと混ざると甘味は増すし生地との相性もいい。これなら少しくらいお金を出して買う価値もあるのかもしれない。

「よかったね」

吉田君は初めからこのつもりだったのだろうか。でも過去の経験から察するにこれが“貸し”カウントにされる場合もある。だから先手を打つことにした。

「吉田君は好きな食べ物とかある?それか今欲しい物とか」
「どうしたの急に?」

面倒ごとに付き合わされるくらいなら今この場で返しておこうという魂胆である。クレープ代はケチったがお小遣い日後なので持ち合わせがないわけではない。

「また巻き込まれたくないからね。今日のうちに精算しておこうと思って」
「もしかして既成事実を作るために誘ったと思われてる?」
「違うの?」
「違うよ」

ガードレールに寄りかかりながらひと口頬張る。この時間帯は学生が多いのか制服を着た子達が街を賑やかにしていた。酔っぱらいが溢れる夜とはまた違った光景である。

「あぁそっか。クレープ食べる為か」
「キミとね」
「えっ私は次何をさせられるの?」

クレープでも既成事実を作る為でも貸しを作りにきたわけもない。ならその心は?と問いたくなるくらいの怖さはある。見返りを求めないことなど吉田ヒロフミに限ってあり得ない。

「またこんな感じで付き合ってくれればいいから」

既に三分の二ほどの大きさにクレープは減っていた。私のことをちらりと見ながらそれをまたひと口頬張る。軽い感じで言っているように見えても目が合ったときに言われてしまえばこちらも意識せざる負えない。だから私も同じようにクレープを頬張って視線を投げた。

「他の人誘ったら?」
「キミといるのが一番楽なんだよ」

やっぱりフルーツは上だけで下の方はクリームしか入ってなかった。でも今日はそこにチョコソースも混ざっているから少し豪華だ。まぁほとんど溶けてるけど。

「それは喜んでいいのか微妙なところだね」
「素直に喜んでよ」
「でも吉田君と仲良くなりたい子は多いと思うよ」

私が吉田君と付き合っていないことを伝えれば紹介してほしいと言ってきた子は多くいた。もちろん彼の見た目あってのことだけど私と話す姿を見て純粋に話してみたいと言ってくれている子もいた。

「それって女子?」
「うん。あっでもさすがに学校内で遊ぶのは止めた方がいいよ。噂が広まるのは早いから」

先日、吉田君が振った女の子の話も広まるのも早かったな。私は誰にも言ってないけどああゆうのは常に誰かが見ているものだ。因みにその子は失恋の傷心を癒やしてくれた先輩と今は付き合っているらしい。それはあの日から一週間も経たないうちの出来事だった。

「あのさ、」
「なに?」
「まだ遊び人って思われてる?」

吉田君はとっくにクレープを食べ終えていて包んであった紙を手で握りつぶしていた。かという私は残り三口ほど。でも今ちょうど口の中に入れたからあと二口かな。だから咀嚼しながら一つ頷いた。

「ねぇ、悪魔って見たことある?」

唐突に始まった話題に首を横に振る。授業やテレビで写真や映像くらいは見たことはあるけれど実物は見たことない。というのも日本にはデビルハンターという悪魔を倒してくれる人たちがいるからだ。

「悪魔って人と契約をして鳴りを潜めていることもあるんだよね。それに食べる人間を選り好みする悪魔もいる」
「悪魔にも好き嫌いがあるってこと?」
「そう。例えば若い男好きの悪魔がいたら綺麗な女性と契約して男を誘き寄せるんだよ」

一連の出来事が頭の中で繋がっていく。残り二口となったクレープはまだ手の中にあってこうしている間にも溶けたクリームが滴っていた。でも食べる気は起きずに吉田君を見つめ返した。

「詳しいね」
「デビルハンターだからね」

そうか、だから他の人と違う感じがしたんだ。うちの高校にもデビルハンター部というのが存在するが吉田君が言っているのは本物の方だ。お遊びなんかじゃなくて命がけで戦っている方の。

「じゃあさっき走っていったのもその仕事の関係?」
「うん、俺が今追いかけている悪魔がいた気がしたからね。まぁ見失ったんだけど」

この行き交う人の中にも悪魔がいると思うと怖いなって思う。でも実物を見たことがない私はやはりどこかフィクションのような感覚で悪魔を捉えてしまう。だから悪魔云々の話よりも吉田君の事が気になった。

「デビルハンターのことは他の人も知ってるの?」
「うちの生徒だといないかな」
「そんな大事なこと私に話してよかったの?」

クリームが解けてしまえばクレープは残りひと口ほどの大きさになってしまった。食べ物を些末にはできないが今はそれどころではない。

「キミだから話したんだけど」

吉田君はずるい。そう言われたら嫌な顔もできないし拒絶もできない。一方的に寄せられた信頼に無関心ではいられない。貸し借りの時点で私のそういう性格を知っててこの言葉を言った吉田君はずるい人だ。

「じゃあ親友になっちゃうね」
「つまり昇格できたってこと?」
「秘密を共有されたらしょうがないよ」
「やったね」

友達だろうが親友だろうが大した興味もないだろうに。でも私にとってこの認識の違いは大きなことであった。彼の見方が変わった瞬間だった。

「え?」

不意に横から手首を掴まれ目の前からクレープが消えた。何事かと自分の腕を目で追っていけば吉田君の口元へと辿り着く。彼は私の手首を掴んだまま「美味しいね」と言った。

「クレープ……」
「親友なら許されるかなって」

口の端に着いたクリームを舐めとって勝ち誇ったように笑われた。





吉田君がパッタリと学校に来なくなった。今日で三日目くらいかな。以前にも確か同じように休んでいたことはあったけれどここ最近毎日顔を合わせていたから変な感じだ。でもきっと休んでいるのはデビルハンターの仕事が忙しいからなのだろう。



「ねぇいいでしょう?」
「いや、ここはさすがに……」
「だって私待ちきれないもの!」

塾帰りの夜道にて声が聞こえて来た。繁華街の裏通り、スナックの裏口だけが並ぶような細道からだ。近くにはホテルもあるしきっとその手の男女だろう。でももしかしたら吉田君かもしれない。気付いたら暗闇へと足を延ばしていた。

「しょうがないなぁ」

しかし徐々にはっきりと聞こえるようになった声は吉田君のものではなかった。それがよかったのか悪かったのかは自分でも分からない。ただ私には覗き見という悪趣味はないため急いでその場を後にすることにした。

「う゛ッ…ごほ?!」

排水溝が詰まったような濁った声と共に、ドサッと重いものが倒れる音がした。次いで女の笑い声。息を殺してすぐさま壁に身を寄せた。そして目を凝らして暗闇の先を見る。

『やっぱり食べるなら見た目も大事よね』

鼻歌を口ずみながら女は手に持ったものを何度も地面に向かって振り落としていた。胃に響くような鈍い音に、時折布を割く音が混じる。すでに絶命しているのか男の叫び声は聞こえなかった。

「っ、」
『だぁれ?』

逃げようとしたところで落ちていた空き缶を蹴ってしまった。振り返った女の手には
包丁、そして顔の鼻から上も鋭利な刃物になっていた。今さら説明されなくたって分かる。あれは悪魔だ。

『待ちなさい!』

脳が危険と判断する前に本能的に駆け出した。入り組んだ裏路地を無我夢中で走っていく。追いかけて来た悪魔は顏こそ異形だが胴体は人と同じで脚を使って追いかけてくる。瞬発力があり直ぐに追い付かれそうになるが目についたゴミ箱や室外機を蹴り飛ばすことで時間を稼いだ。

『すばしっこい奴!!』

あと少しで大通りに出られる。そこには交番もあるからきっと助けてくれるはずだ。乱れた呼吸を僅かに整えペースを上げようとする。しかしその時、背中に激痛が走った。

「いッ…!?」
『最初からこうすればよかった』

思いっきり前に倒れ込み膝と胸をコンクリートに打ちつける。その衝撃で背中に再び刺すような痛みが襲った。いや、現に刺さっているのだからおかしな例えだったのかもしれない。悪魔が投げた包丁が背中に突き刺さっていた。

『女は趣味じゃないけど特別に食べてあげる!』

金属が擦れる音と共に悪魔が近付いてくるのが分かる。まさか背中を刺されるのは私の方だなんて。これを知ったら吉田君は笑うのかな。その顔を想像しては自嘲気味に笑ってしまった。

「墨」

目の前が黒い霧に包まれる。そして視界の端で蛸の脚が蠢いていた。体が動かないのも相まって定点カメラからの映像を見ているかのようだった。這いずる音と金属音、それから天を切り裂くほどの断末魔の後に視界が徐々に晴れていった。

「大丈夫?」

頬を軽く叩かれ薄目を開ければ目の前には吉田君がいた。彼にしては珍しく汗をかいてる。いつも学ランの第一ボタンまで閉めている彼からは想像もできない姿だった。笑うどころか私の予想に反し、酷く心配をしてくれているようだった。

「物凄く痛くて死にそうです」
「うん、大丈夫そうだ」

吉田君の手が優しく頬を撫でる。その行為でようやく助かったのだと安心することができた。しかし緊張の糸が切れてしまえば背中の激痛に襲われる。

「肩甲骨の下あたりに包丁は刺さってる。痛いだろうけど今抜いたら出血多量で死ぬからもう少し我慢してね。でも臓器や神経の位置からずれてるから後遺症は残らないと思う」

私の気などお構いなしに淡々と状況説明をする。しかし今思えばその方が返って有難かったのかもしれない。刃物が刺さっているという事実に軽くパニックになりそうだったから。

「まさか吉田君より先に背中を刺される日が来るなんて」
「ったくキミは……ねぇ、どうしてあんなところにいたの?」
「吉田君がいる気がしたの」

見知らぬ女性とキスでもしてようものなら後ろから飛び膝蹴りぐらいは喰らわせてやろうと思っていた。刺されるよりマシでしょ?言えば「そうだね」と小さく笑った。でも直ぐに視線が冷たいものに変わる。

「でも俺がいると思ったんなら来ちゃいけなかったよ。キミは普通の子なんだから」

確かに私は悪魔と戦えないし結果的にこのザマだ。吉田君にも迷惑かけちゃったし褒められた行動ではない。でも一言だけ言いたいことがある。

「私を巻き込んでおいてよく言うよ」

そっちから声を掛けてきて、恩を売って利用して、友達名乗ってクレープを食べて。それでいて今さら関わるなとか言わないでよ。少なからず気にはしてるんだから。

「軽はずみな行動は謝るけど心配くらいはさせてほしい」

吉田君がいない三日間は寂しかった、とまでは言わないけどね。
痺れて感覚のなくなった指先に何かが触れた。そしてそのまま持ち上げられて包み込まれる。吉田君の体温は低かったけれど今の私にとっては十分温かいと感じられる温度だった。

「ありがとう」
「ううん……あと、迷惑かけてごめんね」
「迷惑じゃないけど行動は改めてほしいかな」
「うん」

遠くでサイレンの音が聞こえる。もうすぐ救急隊が来てくれるのだろうか。そう分かると次第に体から力が抜けていった。

「それより背中の包丁って本物なの?痛そうに見えないんだけど」
「これでもかなり痛いし意識も朦朧としてきてる」
「とてもそんな風には見えないよ。これなら今年のブルーリボン賞はキミで決まりだね」
「ねぇ、吉田君って根に持つタイプ?」
「まさか。記憶力がいいだけだよ」

会話の途中なのに次第に瞼が重くなっていく。昨日も七時間程寝たというのに眠くなってきた。しかし現実の世界へと引き留めるように手を強く握られる。地面に伏せて冷え切っていく体のなかでそこだけが熱を持っていた。

「守ってあげられなくてごめん」

どうやら本当に記憶力がいいらしい。そういえば前にそんな話をしたなぁとぼんやりと思い出す。でも吉田君が責任を感じる必要は何一つない。

「本当だよ」

でもきっと私がどんなに許しても彼は納得しないんだろうな。仕事とはいえ女の人を引っかけるし図太いしマイペースだし。しかしそれと同じくらい繊細で優しくて義理堅い人なのだ。

「……ごめん」
「溶けてない一番豪華なクレープ奢ってくれたら許してあげる」

親友だから、特別にね。
そう伝えればようやく強張った顔が和らいだ。





吉田君の言った通り背中は後遺症も傷跡も残らずに完治するらしい。でも傷口から菌が入ったのか熱を出してしまい三日ほど入院をすることになった。そしてようやく体調が回復した頃に吉田君が病院に来てくれた。

「これお見舞いの品」
「わっすごい!」

差し出されたのは絵にかいたようなフルーツバスケット。「キミは花より団子でしょ」と言われたときには胸に引っ掛かるものがあったが事実でもあるので何も言うまい。お礼を言って有難く受け取った。

「いつ退院できるの?」
「明日。ねぇそこの棚からお皿と果物ナイフ出して」
「今食べるの?」
「うん」

だって家に持って帰ったら家族に全部食べられちゃいそうだからね。フルーツバスケットの中から真っ赤な林檎を取り出して切っていく。利き腕を怪我したわけではないのでこれくらい問題ない。皮もむいたけどちゃんとウサギの耳分は残してある。そしてフォークと共にカットできたものを行儀よく皿の上に並べた。

「吉田君もどうぞ」
「ありがとう」

ひと口かじれば甘酸っぱい酸味が口の中に広がる。病院食はひどく味気ないものだったから物凄く美味しく感じられた。

「吉田君もこれで学校に来られるようになるの?」
「うん。でも仕事が入ったらまた休むことになる」
「しばらくは大丈夫なんだよね?」
「日によるけどね。何かあるの?」
「クレープ奢ってくれる約束したでしょ」
「あぁ、デートのお誘いってわけね」

すごい発想の転換だね。それさえなければ少しは誠実そうに見えるんだけどな。あくまで一ミリくらいだけど。

「さすが遊び人は言葉一つとっても言い方が違うね」
「だから遊び人じゃないんだけど」
「でもキスしてたじゃん」
「あれは向こうが勝手にしてきたんだよ」
「へぇ」
「信じてないでしょ」
「もうどっちでもいいよ。ただ、これからは好きな人とだけした方がいいよ」

ウサギの背中にフォークを刺しながら言ってやる。そして私は黙々と食べ続けた。自分の感情を噛み砕くよう十分に咀嚼して。

「そうだね」

フォークを持つ手がいつかのように不意に掴まれた。またひと様の物を食べるつもりなのだろうか。こういう軽率な行動を改めない限りいつまでも「遊び人」って呼んでやるからな。というか「吉田ヒロフミ」と書いて「遊び人」と呼ぶのでは?現に彼女でもない私に今まさにキスしてるしね。

「ねぇ、」
「なに?」

パッと手を離され何食わぬ顔で彼は椅子に座り直す。指先で唇をなぞればまだぬくもりが残っていた。目が合えば「もう一度する?」なんて聞いてきた彼に、そういえば神経が図太かったことが思い出される。はたして今までの私の話を聞いていたのだろうか。

「吉田君、キスする相手間違ってるよ」

だから嫌みを言ってやった。

「あってるけど」

しかしそう言って再び顔を近づけてきた彼に、私はもう何も言えなかった。