その言葉が欲しかった

「いやなぁ俺やって早く帰ろ思っとったんよでもな可愛ええ女の子に引き留められたら帰りたなくなるやんまぁ顔は好みやなかってんけどそれで久しぶりに鳳翔飲んだら止まらんくなってなぁお前も分かるやろ?俺が教えてやった酒やもんな気付いたら日付超えとったわーでも別にええやろ自分暇やし明日も用事あらへんのやからあー帰る言うてから五時間は経ってもうたなぁでもまぁしゃーないやろごめんちゃい♡」

このクソ男が。

でも私はにっこりと微笑む。
夫の帰りを笑顔で迎えることが妻の役目なのだと教えられたので。

「お帰りが遅いので心配しました」

荷物を受け取り、彼が靴を脱ぐのを待つ。
一週間の出張だったと言う割には荷物が少ない。明日荷物として届くのか、それとも現地妻でもいるのか。答えは聞くまでもない。

「はぁとにかく疲れたわ。今日は風呂入って寝る」
「はい、お支度ができております」

廊下を歩く男の後ろを着いて行こうとしたところで、その人は身を翻し私を見た。途端、服からむせるような甘い匂いが広がる。玄関に出向いた時から匂った酒よりも強いそれ。女の匂いだ。

「一人で風呂もしんどいわ。なぁ一緒に入って俺の背中流してくれへん?」
「湯も張っておりますのでお一人の方がゆっくりできると思います」

秒で答えた。一切の迷いもなかった。
笑顔でにこにこと。
心の内は曝け出さず仮面だけを貼りつけて。

「いけずやな。可愛げのない女は好かんわ」

うるさい。
ひどい旦那に言われたくない。

風呂場まで見送って私は居間に戻る。
二人で使うには広すぎるテーブルにはたくさんの料理が並べられている。誰にも手をつけられなかったその料理を私は片っ端からゴミ袋に突っ込んだ。

貴方が初めて美味しいと言ってくれただし巻き卵。
自信を持って作れるようになった筑前煮。
鳳翔はここにだってあったんだから。
冷蔵庫にはケーキだってある。私は真っ白な生クリームに大きな苺が乗ってるケーキが好きだけど貴方は甘い物が好きじゃない。だからせめてもとフルーツタルトを用意した。今となってはホールで買ってこなくてよかったと心の底から思う。

夕飯は食べてなかったけれど不思議とお腹は空いていない。それは怒りによりはらわたが煮えくり返っていたからだろうか。きっとそうだ。

貴方は今日―――否、昨日が何の日だったか覚えていないのでしょう。
私だけ張り切って、馬鹿みたい。


片付け終わった頃にあの人が風呂から出て来たので水を用意する。それを飲みきるとすぐに居間を出て行った。よほど疲れていたらしい。

「…………もう、むりだ」

私の声は誰にも届かぬまま床に落ちた。



朝日が昇るのと同時に家を出た。
ほぼ寝ていなかったけれど気持ちがハイになっていて眠気はない。

家を出ようとして朝食を作っていないことに気付く。あの人は酒を引きずるタイプではなかったけれど、深酒した翌日は七分粥と濃いめに溶いた赤味噌の味噌汁を用意した。一度もお礼を言われたことなんてなかったけれど、残されたことはなかったので作ることが習慣になっていた。……まぁ、もういいか。

鍵は閉めずに外へ。施錠せずともこの家自体、禪院家の敷地内に建っているのだから問題はない。

「いってきます」とも「さようなら」とも言わない。
その代わり居間の机には置き手紙をひとつ、


――お暇を頂きます――


年齢にして二十一年と一日。
結婚して一年と一日。

私は禪院直哉の元から姿を消した。





世に言う“普通”とまでは言わないけれど私は自分の人生に満足していた。

呪術師である父と補助監督であった母の元に生まれた。それだけ聞くと呪術師の家系とも思えるが両親はどちらも一般家庭出身。そのため呪術界特有のしがらみもない良い家庭だった。

私に呪霊が視えることが分かっても怖がられることはなかった。二人ともそうだったからだ。そして私に術式が確認されると父はその使い方を、そして母からは“普通”の生活で浮かないような振る舞い方を教えてくれた。
優しくて理解のある両親の元、私には“普通”の友達もできて公立中学にも通うことができた。

だが中学三年の夏、転機が訪れた。

肝試をしようと誰かが言った。
私を含めたクラスメイト四人で。中学最後の夏休み、高校も別々のところへ行くことが決まっていたので最後の思い出作りにと。

私は正直行きたくなかった。そういう心霊スポットには必ずと言っていいほど呪霊がいる。親からも不用意に近づくなと言われていた。でも私がどんなに引き留めても三人は口をそろえて行こう!と言った。
結局止めることは叶わずに地元で有名な廃病院へと行くことになった。

廃病院といっても正確には産婦人科のクリニックだった。
立入禁止のロープを潜り裏手の割れた窓から中に入る。
初めのうちは問題なかった。でも奥へと進むにつれ子供の泣き声が聞こえてくる。他の子には聞こえていなかった。だからそれが呪霊であると確信した。

もう帰ろう、と声を掛けたが遅かった。先頭を歩いていた友人の頭が吹き飛んだのだ。
分娩室から這い出て来たのは大きな肉の塊。でもよくよく見れば太い手足が生えていて、肉の隙間からは開き切っていない目玉がギョロリと動いていた。

おそらく二級―――いや、準一級レベルだ。
私は精々三級ほどの呪霊しか祓えない。
吹き飛ばされた子はもう助からない。だからせめて二人だけでも助けようと私は近くにいた一人の子の手を取った。

「逃げよう!」

今度こそ声を張り上げて走った。
出口へと向かう途中、助けて!と声が聞こえた。振り返れば私が手を繋いでいなかった子が地面に倒れていた。遠目からでも背中に傷を負っていることが分かる。
術式を使い呪霊に攻撃をしてみるが効いている様子はない。何が起きてるの?と私の側で腰を抜かした子を見て、二人とも助けるのは無理だと判断した。

骨が砕ける音と友人の悲鳴、呪霊の咀嚼音を聞きながら唯一残った子の腕を引っ張った。

入ってきた窓のところまで辿り着く。でも外には出られなかった。その先の景色も塗り潰されておりよく見えない。それが帳だということは後になって知ったことだ。

「助けを呼んでくるからここで待ってて」

助けの当てなんてなかったけれど二人で逃げるには武が悪い。だから友人には空き部屋に隠れてもらうことにした。私が囮になり逃げ回っていればいずれ呪術師が来てくれるだろう。それに呪霊は 視える 、、、人間の方を襲う。

「嫌よ!あんただけ逃げるつもりでしょ?さっきだってあの子を見捨てた!」

視えない人には私の姿がそう映るんだ。
そこでようやく自分が“普通”でないと理解した。分かったようで解っていなかったのだ。
パニック状態になった友人は私の言葉に耳をかさず呪霊の方へと走って行った。その子は視えない“普通”の子だったから。

呆気なく肉片となった友人の姿を私は呆然と眺めるしか出来なかった。その子の言葉がぐるぐると頭の中でリピートされて、でも本能と言うべきか私は再び術式を発動した。死にたくなかったのだ。

「なんや、せっかく来たんにほぼ死んどるやないの」

呪霊の体の半分を抉ることができた。火事場の馬鹿力とはこのことか。しかし代償も大きく、太腿に大きな怪我を負った。

そんな時だった。
その場に似つかぬおっとりとした口調で一人の男が現れた。真っ黒な服に、金髪とピアスが特徴的な人だった。

「君、呪術師なん?なら早よ祓えや俺の仕事増やすな。だから女は嫌や一丁前にでしゃばる癖に結局は弱くてすぐ死ぬんやから」
「いや、私はっ……」

男との会話を続けようとすれば呪霊が悲鳴をあげる。金物を切る時のような気持ち悪い音だった。

「うるさ」

一瞬だった。
呪霊と彼との間には二十メートル以上の距離はあった。それを瞬きの間に詰め、そして一呼吸のうちに呪霊は灰になって消えていた。
驚きと安堵で私はその場に崩れ落ちた。太腿からはドバッと血が溢れ出す。

「止血せんと死ぬで」
「あ……」

そう促され上着として羽織っていた服で傷口をキツく結ぶ。目の前の現象が未だ信じられなくて痛みを感じるどころではなかった。

「帳も上がったな。もう二度と俺に迷惑かけるやないで」
「待ってください!」

横を通り過ぎ外へ出ようとした男の脚にしがみつく。立てないので引き止める方法がこれしかなかったのだ。

「ハァ?!離せや服汚れるやろが!」
「あのっ名前、お名前を教えてください!」
「まずは自分から名乗れや!礼儀もしらん女に構っとる暇ないわ!」

それもそうかと自分の名前を告げ、彼を見上げた。先程は顔まではよく見えなかったが非常に整った顔立ちをしていた。学校で一番かっこいいと言われる男子生徒の何倍もその人はかっこよかった。

「へぇ顔はまぁまぁやん」

男の手が顎にかかりグッと真上を向かされる。仰け反るような体勢で息をするのも苦しかった。でも真っすぐに私へと向けられた視線を逸らすことはできない。

「俺のこと知りたかったら呪術高専まで来ぃや。女磨いて可愛なっとったら相手したるわ」

顎にかかっていた手が頭に移動し、そのまま鷲掴まれて地面に転がされた。すぐに上体を起こしたが、すでに彼の姿はなかった。
それが直哉との出会いだった。



「私の初恋だったのに!!!」

ジョッキに残っていた生ビールを一気に飲み干し机に叩きつける。怒りを紛らわすには酒に限る。最近では直哉に合わせて日本酒ばかりを飲んでいたが炭酸はじけるビールはそののど越しが癖になる。ただビールはお腹が膨れてしまうのでたくさんは飲めない。

「次はウイスキーのロックをお願いします!あ、ダブルで」
「お嬢ちゃん、もうやめときなって」

店主である初老の男性が心配そうに私を見ていた。

直哉の元を飛び出した私は東京まで来ていた。
あのまま京都にいたらすぐに連れ戻されぐちぐちぐちぐちみみっちい小言を直哉に言われる。それならば五条家のお膝元である東京の方が見つけられる可能性は低い。

新幹線に乗り、当てもなく地下鉄を乗り継ぎ辿り着いたのは町工場ひしめくザ下町。その場末の小さな居酒屋でひとり酒を煽っていた。

「お金はあります」
「そうじゃなくて飲みすぎだよ」

結婚してからは専業主婦であったが高専時代に呪術師として貯めたお金はかなりあった。だから当面の生活に支障はない。それにお酒だって弱くない。酒豪である母の血を受け継ぎ、おまけに直哉の晩酌に付き合うようになってより強くなった。

「夫の元を飛び出してきた記念すべき日なんです。こんな日は飲まなきゃやってられません!ウイスキーと、追加でたこわさもお願いします!」
「はぁ。はいよー」

渋々準備を始めた店主を見つつ手元のジョッキに口を付ける。が、空だった。そうだ、だからウイスキーを頼んだのだった。もしかして私かなり酔ってる?

「さっきから見てたけどいい飲みっぷりだねぇ」

カウンターの椅子を引き、私の隣に腰を下ろしたのは和服が似合う中年の女性だった。化粧はかなり濃く、服からは香水と煙草の混ざった匂いがした。酒に潰されたであろうしわがれ声を聞き、夜の仕事をしているのだとすぐに分かった。

「先にこれでも飲むかい?口は付けてないから安心しな」
「え?あ、ありがとうございます」

薄まった琥珀色の液体が渡される。揺らしたり匂いを嗅いだりしていれば梅酒だと教えられた。酒の種類ではなく毒が盛られていないかを確認した私は相当擦れていたのかもしれない。でも事実それで死にかけたので大目に見て欲しい。

「さっきの話聞いてたけど訳ありかい?」

どうやらこの人は私に興味があるらしい。一人で飲むのも飽きてきた頃だったので彼女の登場は嬉しかった。だから初対面にもかかわらず―――いや、初対面だからこそ私は今までため込んできたものを一気に吐き出した。

私の誕生日でもあり一年目の結婚記念日でもあった昨日、直哉は日付を超えて帰ってきたのだ。仕事なら許せる。特別一級呪術師である彼は忙しくしているし、あの禪院家の次期当主候補でもある。急な任務が入ることも御三家特有の会合なんかもしょっちゅうだ。でも直哉は昨日「帰ってくる」と私に連絡したのだ。だから期待した。私の誕生日を、ふたりの結婚記念日を祝ってくれるんじゃないかって。

でも実際に帰ってきたのは日付を超えてから。しかも酒と女の臭いを漂わせて。絶対にあの人は浮気してる。だってこんなことがあったのは今回だけじゃない。香水は毎回違う匂いだし服にファンデーションが付いていたこともあった。出張に行くと言いながら手ぶらで行くことも増えたように思える。気になってそのことを訊ねれば「付き合いで飲みに行って」「助けた女に抱き着かれて」「向こうで家の者に預けた」など出るわ出るわ言い訳の山。でもあんまり問い詰めるのも妻として失格かなと思いそれ以上のことは聞かないようにしていた。

でもあんまりだ。もう無理。なんで私ばっかり。
というか私達、結婚はしてるけどプロポーズされたことあったっけ?いや式も挙げたけど今思えば付き合ってくださいの一言もなかった。いつの間にか嫁になることが決まっていて、いつの間にかに籍入れてたって感じ。冷静に考えるとマジであり得ない。

「ふーん。じゃあアンタは今から新しい人生を歩みだすってわけか」
「そういうことになりますね。まぁ行くところも特に決めてないんですけど」

梅酒とウイスキーを飲み干し、いまは隣の女性と共に大吟醸を飲んでいた。もうすぐふたりで一本空けてしまうだろう。
そんなことを考えていれば女の人の手が伸びてきて顔の向きを変えられた。びっくりして固まっていればその人はフッと息を抜いて妖艶に笑った。

「見た目は申し分ないし酒も強い。それなりの事情も分かったしアタシの店で働いてみない?」
「お店ですか?」
「そこで経営してるスナック。住む場所ないなら二階の空き部屋使っていいからさ」
「お世話になります!」

これも何かの縁だ。
ママとの出会いにより、私は彼女の店でお世話になることになった。





礼儀作法についてはママから太鼓判を押された。それもそうだ、御三家に入る嫁としてきっちりと仕込まれていたので。禪院家の教育係に何度手を上げられたかは忘れたが一般教養以上の所作は身に着けている。

服に関してはママの私物である着物を貸してもらうことになった。ワンピースタイプのドレスもあったのだがサイズが合わなかったのだ。胸がきつくて腹回りが緩い。そう声を上げればお姉様方に「何食べて生きてきたの?」と言われた。人並には食べるが見た目が良くないとあそこの人間は難癖付けてくるので体型の良さは努力の賜物なんだけどな。



「いらっしゃいませ」
「君が新人の子?これまた偉い別嬪さんだ!」

スナックの客層は五、六十代の男性が多かった。近くの町工場で働いた後にこのお店にぞろぞろと来店する。油と汗と土埃の臭い。それが初めは苦手だったが一ヵ月を過ぎる頃にはだいぶ慣れた。

「最近、娘が反抗期でさ。俺の顔見ると舌打ちして部屋に逃げてくんだよ」
「歳なのか腰が痛くてねぇ。もう辞めようかと思ってんだけど新しい工場長が辞めさせてくれないんだ」

話の内容は家庭と仕事の愚痴がほとんどだ。私は生憎、弁達者ではないので笑顔で相槌を打つことくらいしかできない。

「君に話を聞いてもらうだけでだいぶ楽になったよ」

そう言われることも増えたけれど、実は話を聞く以外にもうひとつだけやっていることがある。それはお客さんに憑いてきた呪霊をこっそり祓っているのだ。
呪術師も心霊スポット等には定期的な巡回しているが、そうでない場所でも呪霊は溜まる。甚大な被害までは及ぼさないが人に害があるというのも事実なので見かけたら祓除していた。

「君、独り身ならうちの息子はどうだ?顔はあれだが好青年だ!」

二ヵ月ほど働けば常連さんの顔もだんだんと分かるようになった。そうなると最近ではこのような話を貰う機会が増えた。それに対して、私は指輪を撫でながら伏し目がちにこう言うのだ。

「せっかくのお話ですが夫のことが忘れられなくて……」

私の左手には結婚指輪が付けられたままだ。本当は書置きと共にあの家に置いてきてもよかったのだが、実はこの指輪外せないのだ。その理由は今でもよくわからない。きっと縛りのせいなのだろうが、これはある日朝起きたらいつの間にかにはめられていたものなのでその記憶もなかった。

ということで私は夫に先立たれた未亡人という設定で通していた。本当の事情を知るのはママだけだ。

スナックのママに、店のお姉様方、そして威勢のいいお客さん。
彼等との出会いにより私の人生は変わった。
呪術界という閉塞的な場所の、さらに禪院家という箱の中で私は随分と狭い世界で生きていたのだと痛感する。外の世界は思ったよりも広くて、汚れていて、それでも非呪術師弱い人間達が懸命に生きている。その中の暖かみは私が欲しかったものによく似ていた。

携帯は新しいものを購入した。直哉名義の携帯は持っては来ていたがずっと電源は切ったままだ。鬼のように連絡が入っているか、はたまた着信の一つもないか。まぁプライドの高い人だから連絡があってもそれは本人ではなく禪院家の人かもしれない。

別に私がいなくてもいいじゃない。あの家の人は一般家庭出身の私を毛嫌いしていたし、直哉も浮気しているし。落ち着いたら離婚届でも送ってあげようか。
きっとそれが直哉に出来る妻としての最後の役目だ。





本当にいいのか?と親に何度も聞かれたが私は進路を大きく変え呪術高専に行くことに決めた。目の前で友人が殺されたのだ。そしてその時に改めて私は“普通”でないと自覚した。でも“普通”でないからこそ私には私の役目があってそれをしなくちゃいけないとも思った―――と綺麗事を並べてはみたが、詰まる所あの人に会いたかったのだ。

私の一目惚れの相手は禪院直哉という人だった。呪術界の御三家が一つの禪院家。その中でも取り分け封建的であり相伝の術式を堅守している家系。つまりはあまり良い噂を聞かないような家の次期当主候補の男だった。

そんな人とはつゆ知らず、私は彼に会うために高校デビューならぬ高専デビューをきめて入学した。女らしい子が好きなようだったから髪は伸ばして手入れも怠らなかった。脚の傷も痕が残らないよう治し肌荒れしないようスキンケアにも力を入れ化粧だって覚えた。もちろん食事にも気を遣いしなやかな曲線を描く体を作った。

そうして入学し偶然にもすぐに再会を果たすことが出来た。彼は三年生だった。

「あの時の子なん?へぇ半年でまた随分垢ぬけたなぁ乳のデカさも顔立ちも申し分ないし一度くらい抱いてやってもええな。当然自分、処女やろ?」

はい、クズでした。

しかしそれでも嫌いにはなれなかった。
私の一目惚れの相手で、そして初恋の人だったのだ。あと単純に顔がタイプだった。あれはずるい。ついつい見入っていれば目が合って、それで馬鹿にされたように笑われるのが好きだった。

きっと直哉も私の気持ちに気付いていたのだろう。
でも敵わない恋でよかったのだ。あの人といても自分は幸せになれないと分かっていたから。

性格悪いのは変わらないし、口は悪いし、御三家だし。
あの時逃げていれば、私の人生変わったのかなぁ。





朝から空砲の音がして、今夜は花火大会があるのだと教えてくれた。

「今日は店を閉めて外でお酒を売るからね。アンタも着物じゃなくて浴衣を着な」

夕暮れ時から賑わいが増し、日が落ちれば工場近くにある河川敷が人でごった返した。町内会主催の花火大会は規模こそ小さいが昔から地元民に愛されているお祭りなのだとか。

夜空に大きな花が咲き、客足がまばらになったころ休憩が与えられた。小ぶりなリンゴ飴を一つ買ったら隣に置いてあったブドウ飴もおまけしてもらった。リンゴ飴は包んでもらい、ブドウ飴から食べ始める。初めて食べたが美味しかった。

しだれ柳を思わせる冠菊が夜空に咲く。手を伸ばせば掴めそうなほど長く尾を引くその花火が私は好きだった。



「火の粉がここまで落ちてきたらそれこそ人災やで」
「先輩には夢も浪漫もないんですね」

偶然、というには出来過ぎていたと今では思う。
高専一年の夏、学校の屋上で花火を見ていたら直哉が姿を現した。

この頃の私は禪院家という家のことを御三家とは知りつつもどれほど大きな力を持っているのかまでは分かっていなかった。だから直哉に対しても先輩として敬うことはあれどそれ以上の敬意を払うことはなかった。

「女はすぐ目に見えん物を語りよる。夢だのなんだの阿呆らし。あぁ、あと愛について語る女も鬱陶しいな」
「先輩って人を好きになったことあります?」
「あらへんよ。ちゅうか俺ほどになると女の方から言い寄られるんや自分も俺のこと好きやろ ?」

胡散臭い笑みを浮かべた彼の言葉に、自分の本心をぐっとこらえる。

「………頭、大丈夫ですか?」
「お前の目ん玉引きずり出したろか?」

自意識過剰の男尊女卑野郎を好きになる人間はいないと思います。
私以外には。



左手を伸ばし花火を掴む。
でも、当然掴めるわけでもなく。
揃いの指輪だけが私の指に残った。





十五夜の日だった。
その日はママと一緒にお客さんに振舞えるよう朝から月見団子の仕込みをしていた。日本酒もいつもより多めに発注する。酒を飲む口実になるのだからと、こういった行事をママは大切にしていた。

「ごめんください」

まだ開店まで二時間はある。そんなとき、身なりの良い男が店の戸を叩いた。
来客用にお茶の準備をしていれば先に男と話していたママが私を呼んだ。そうして急いで彼らの元へと向かえば座るように促される。

「君、銀座の新店舗で働いてみる気はない?」

引き抜きだった。銀座の高級クラブが敷居を低くして新店舗を構えるらしい。
その男の人は私の噂を聞きつけわざわざ足を運んだのだとか。着物を来て接客をする若い美女がいる、そしてその子に話を聞いてもらうと身も心も軽くなるのだとちょっとした有名人になっていたらしい。まさか善意で祓除していたことがこのような形で噂になるとは。下手にやるものではなかったか。

この男の人も身分は確かなもので、親元のクラブ自体も怪しいところではないとママは言っていた。そしてママとしても離れるのは寂しいがせっかくのチャンスなのだからと私を後押ししてくれた。

でも私は断った。別に私は夜の世界で有名になりたいわけでもないし、お金を稼ぎたいわけでもない。ここに来るお客さんの悩みや愚痴を聞いて、それで帰っていくときに「ありがとう」と言われるだけで十分だったのだ。人に感謝されることで、自分が必要とされているんだってそう思えるだけでよかったのだから。





第二、第四日曜がお店の定休日だ。
だからその日は散歩をするのが習慣になっていた。

夜型の生活になってからは昼過ぎに起きるようになった。以前は六時起きが常だったというのに、今となってはそれも遠い過去のように思える。

叔母様達が井戸端会議をする農道に、戦後から続く商店街、高校の運動場からは野球部員の声がする。その光景が、音が、好きだった。

夕飯という時間にしては早かったがお腹が空いたので近くのパン屋でパンを買った。この仕事をしていると食事も不規則になる。そういえば直哉はちゃんと食べているのだろうか。彼は疲れていると食事も取らずに寝てしまう。いつもではないがそういう日が続けば無理やり食事を取らせていた。スプーン片手に直哉の口に物を入れる私の姿は中々に面白かったと思う。

公園のベンチに座りパンを食べていれば人慣れした鳩が一羽二羽と集まり出したので千切って与えてやる。徐々に増えていく鳩に焦りながらまだ増えるのかと顔を上げるとジトリ目のカラスがこちらを見ていた。パンをご所望なのだろうか。狙っているのか。いや、狙われているのか。

「お久しぶりですね冥冥さん」
「おや?随分と察しがいいじゃないか」

カラスが大きな声を上げるとそれに驚いた鳩は一斉に飛び立った。そうして一人の女性が姿を現す。会うのは三年ぶりくらいか。

「こんなところまで任務ですか?」
「少し野暮用でね。そういえば噂になってるよ、禪院直哉が嫁に逃げられたって」

顔を覆っていた髪を持ち上げて彼女は笑った。私も笑うしかない。
これはもう確実に戻れないなと思った。自尊心の塊ともいうべき男の面に泥を塗ったのだ。あの人はあの性格故に敵も多いし随分と笑い者にされていることだろう。

「一応離婚はしてないですよ。まぁ私はしてもいいんですけどね。その方があの人も幸せになれるんじゃないですか?」
「自分のものさしで人を測るものじゃないよ。でも、今更出ていくなんて何があったんだい?」

何もなかったから出ていったんですよ。
流されるままに結婚をした私にも非があったとは思う。でも、結婚したらそれなりの生活は送れると思っていた。だから花嫁修業にも耐えたし結婚してからは呪術師を辞めて家に入った。親戚付き合いも直哉に合わせた生活も、大変だったけれど私なりに努力はした。

でもあの家で耳にするのは私への陰口だけ。
ある日、使用人達の会話を立ち聞きした。曰く、私は禪院家次期当主の妻には相応しくないらしい。直哉は幼い頃から良家の娘と多くの縁談をし許嫁もいた。そういう家柄の確かな女を迎え入れるはずだったのだと。

直哉の血縁に近い者、というよりは禪院家の伝統を重んじる保守派の人間がこぞって私を嫌っている。「呪術師ならば胎としてなら迎えてやる」と皆口を揃えて言っていた。だけどそれに関して私はあまり気にしていなかった。悲しいけれど事実だし。直哉に認めてもらえたならいいかなって思ってた。

でも直哉も結局は私のことを認めてはいなかったと思う。だからわざわざ禪院家の敷地に家を建ててそこに私を住まわせた。しかも直哉の許可がないと少しの外出もできない。こんな妻を外に晒したくなかったのだろう。そんなに私の存在が恥ずかしい?じゃあなんで結婚したの?私には何にも話してくれないし、挙句自分は遊んでいる。私がいる意味ある?

「禪院家に私は相応しくなかったという話です」
「旦那にそう言われたのかい?」

“旦那”という響きに、蓋をしていた感情が僅かに揺らぐ。その感情の名前を私は知っている。

「いいえ。でも愛のない家庭に戻るつもりはないので」

夢だの愛だの阿保らし―――
そういう考えの男に何かを求めた私が愚かだったというだけのこと。

「私、そろそろ行きますね」
「引き留めて悪かった。また会おう」

冥冥さんはどこからか飛んできたカラスの群れに包まれたかと思うとあっという間に姿を消してしまった。

遠くで様子を伺っていた鳩がまた一羽二羽と寄ってくる。残りのパンを全て彼らに上げて私は足早に公園を出ていった。

秋を迎えた日暮れは早く、西の空は茜色に色付いている。
その景色を見ると奥底に仕舞い込んでいた思い出が溢れ出す。



初めてキスしたのは夕暮れ時の教室だった。

立て続けの任務により報告書の山を片付けていた時のこと。
突然姿を現した直哉は椅子をわざわざ持ってきて机を挟んだ私の正面に座ったのだ。その時の私は二年で彼は四年生だった。四年生ともなればあまり学校には来なくなる。だけどその日はなぜかいて、そして二年の教室にまで足を運んだのだ。

「自分まだ準二級なんか。弱い奴の尻拭いはこっちに回ってくんねん。早よ補助監督か窓にでもなり」
「余計なお世話です。だったら先輩が私を一級呪術師に推薦してくれません?」
「誰がするか」
「ケチ…」
「女は男の三歩後ろを歩いとくべきなんや。出しゃばる女は死に急ぐのと同じやで」

この頃の直哉は少し変だったと思う。女の私が口出ししてもあからさまな嫌悪を表に出すことはなかった。その距離感と甘い時間にまた恋に落ちそうになった自分がいたのも事実。でも一般家庭出身の私とて、彼がこの先どのような人生を歩むのかは容易に想像できた。呪術界という息の詰まるような世界で、重圧とプライドを背負って生きていく。大変な人生なんだろうな、でもこの人なら楽しんで生きていきそうだと客観視して彼のことを見ていた。

「先輩は何しに来たんですか?」
「俺が何処で何しようと勝手やろ」
「暇なんですか?」
「忙しいわ阿呆。一級呪術師舐めとんのか」

私に会いに?なんてつい自惚れてしまう。でも結局この人は揶揄いがいのある私で遊んでいるだけなのだ。どうせ「阿保面を見に」とか「仕事邪魔しに来た」とかそんな理由。

直哉の小言に相槌を打ちつつ報告書を書いていれば不意に会話が止まる。初めのうちは気にも留めていなかったがその空気に耐えきれなくなりペンを止めた。私の筆音がなくなればいよいよ教室内が無音になる。

「せんぱっ―――」

どうかしましたか?
そう問いかける隙なんかなくて。

言葉を飲み込んだのと唇が触れたのはほぼ同時だった。

その時間は意外と長かった、と思う。瞬きを六回はした。先輩の金髪が明るくて目がチカチカするほどだった。

「目ぇ瞑っとけや」

唇が離れた後の第一声がそれだった。
いや、先にもっと言うことあるでしょ。

「何するんですか」

意外にも私は冷静だった。
直哉も冷静だった。

「別に減るもんやないしええやろ」
「いや、減りましたよ」

初めてだったんだから――と言ったら馬鹿にされそうだったので黙った。
互いに見つめ合って。そして先に目を逸らしたのは直哉の方だった。初めて私が彼に勝てた瞬間だったのかもしれない。別に勝ち負けなんてないのだけれど。

「自分、日曜は暇なん?」
「まぁ…今週は任務なかったはずですけど」
「ほな空けといて。あとこれから毎週日曜は空けときや」
「毎週は流石に…任務割り振ってるの私じゃないですし」
「任務入れられへんようにするさかい、絶対空けときや」
「え、何でですか?」
「お前は口答えせんでええ」
「いだっ」

頭を叩かれる。今のは口答えではなく質問だったのだが通じなかったらしい。
ほんと自分勝手だ。いつもそう。でも未だに初恋を引きずってる私はそれをつい許してしまう。

それ以降、毎週直哉と出掛けるようになった。卒業までの間、本当に日曜に任務が入ることもなくなった。彼の都合上、一時間しか時間が取れない日でも必ず会った。なぜ直哉がそうまでして私に会おうとしたのか、その理由を一度だって言葉にしてくれたことはなかった。私も聞かなかったし。

でもそれは、私の中の紛れもない青春だった。



―――それを思い出させた夕日を僅かに睨む。
工場からの煤の匂いにユスリカが湧く河川敷。夕刻を知らせる学校の鐘は音が外れていて、野良猫がゴミ箱を漁る。
綺麗、とは言い難いがこの町が好きになった。
でも、もうお別れだ。





その日の直哉は浮かれていた。

やっとだ。結婚してから一年、だがしかし実質動いていたのは高専卒業後からなのだから四年か。

まずは自分に近い人間から根回しをし、親族、分家、そして上層部の老ぼれ共を言いくるめるのにこれほどの時間が掛かるとは。
特に年寄り連中を黙らすのには苦労がいった。未だに名家との繋がりを大切にするなど実に馬鹿らしい。その点、直毘人には優秀な術式持ちの女だと言えば簡単に彼女のことを認めたのだから容易かった。

自分が当主となれば横との繋がりなどどうとでもなる。それに今さら禪院家がその繋がりを強固にする必要がどこにある。現に直哉が婚約破棄をした名家は今も変わらず禪院家に忠実な犬として従っている。
だから全てが自分の思い通りになると思っていた。

その日が何の日だったかは当然覚えていた。
しかし上層部の中でも最もカビ臭い考えを持つ年寄りが今日なら会えると言ってきた。四年間こちらがどれだけ下手に出ても動かなかった耄碌がようやく腰を上げたのだ。またとないチャンスだと思った。

高級な酒も若い女も用意して、店を貸し切った。
出てきたのならこちらのもの。ほかの年寄り連中と同じく酒を飲ませ、女をあてがって頃合を見て縛りを結んだ。

その男で最後だった。これで彼女はようやく自分の妻として認められる。禪院家次期当主の妻だと言ってやれる。そうすれば嫌がらせもなくなる。あの離れの家に閉じ込めなくても済む。母屋で堂々と過ごさせてやることができるのだ。

時計を見れば二十三時を過ぎていて、今日中に帰れないことが分かったから酒を追加で注文した。今日という日を一人で祝う。自分の容姿にか、それとも金目当てかは分からないが店の女に擦り寄られた。不愉快だったが気分がよかったのでそのまま放っておいた。

彼女の誕生日であり結婚記念日である今日を共に過ごせなくとも、明日からは今までよりも遥かにいい生活をさせてやれるのだ。肩身の狭い思いをさせずに済む。老いぼれ共のための接待も行わなくてよくなるのだから彼女と過ごす時間も増える―――はずだった。

「『お暇を頂きます』ってなんやねん」

彼女はいなくなっていた。
電話は繋がらない、母屋にもいない、心当たりのある場所を探したが見つからない。
日付が変わっても帰ってこない。その次の日も、またその次の日も帰ってこない。

直哉は任務も会合も放り出して探した。しかし時間だけが流れていった。残穢も残されていないのだから彼女の呪術師としての有能さをこの時ばかりは恨むしかなかった。

こんなことなら揃いの指輪により強力な縛りを付けておくべきだった。現状掛けた呪は“互いの了承がないと指輪の取り外しができない”という簡素なものだったのだ。浮気防止のための役割しかない。

一週間自力で探して無理だとわかると家の者も駆り出すことにした。それにより“嫁に逃げられた男”という笑い者のレッテルが直哉には付けられたがそれどころではなかったのだ。

「冥さん久しゅう。人探しやってもらえへん?金はいくらでも払う」

無能な連中は当てにならず、使えそうな人間に連絡を取った。金を払えばどんな仕事でも引き受ける女を、直哉は彼女の次くらいには気に入っていた。

「見つけたよ。東京下町のスナックで働いていた。でも、きっともう居場所を移しているだろうね」

夫が居ながら他の男に媚びを売るなど絶対にあってはならない。

その知らせを受けすぐに動いた。新幹線で東京まで行き、そこからは術式を使って店まで飛んだ。

「あの子、突然いなくなって……」

そう言って彼女の書置きを店主である女が直哉に見せた。
今までの感謝と突然姿を消したことへの謝罪。自分に残したものよりも長く綴られたその手紙を握りつぶした。手掛かりなしにも思えたがその手紙は書かれてからそこまで時間が経っていなかった。だから辛うじて残穢を辿れる。
直哉は礼も言わずに店を出た。

その男の姿に、店主の女は溜息をついた。
実は彼女、突然いなくはなったが黙っていなくなったわけではなかった。「旦那に見つかったから出ていく」とちゃんと教えてくれたのだ。そして女は彼女が何処に行くのかは粗方見当がついていた。でも男には教えなかった。自分から声を掛けた手前最後まで面倒は見てやろうと思っていたし、何より娘のように可愛がっていたのだ。しかし深入りはしない。その線引きを間違えないことが夜の世界で生き残る秘訣であると女は知っていたからだ。しかしせめても彼女の幸せを願い、言いつけ通りにあの手紙を男に渡したのだ。

「苦労人だねぇ」

誰もいなくなった店に、女の声だけがこだました。





自分の名前で部屋を借りれば足が着くと思った。だから新店舗から親元である高級クラブの方に移っても私は未だに店が所有する寮で暮らしていた。

「ねぇ、まだ寮にいるって本当?」
「うん。マンション借りるのめんどくさいし」
「お金とか盗まれない?私、昔住んでた時何度かパクられたわ」
「鍵しっかりかけてるから平気」

呪術師としての力が今では防犯程度にしか使えていないことが笑えてくる。祓除するとまた何が起こるか分からないし。でもさすが銀座というべきか、呪霊を乗っけてくる人は少なかった。

「銀座高級クラブのナンバーワンになったっていうのに貴方変わってるわね」
「よく言われる」

仕上げにルージュココの新色を唇に乗せて完成。さて、この新しいリップに今日来る何人の常連客が気付くだろうか。

人並程度におしゃれするのは好きだったがここ最近では特に力を入れていた。まぁ夜の仕事だからと言ってしまえばそれまでなのだが周りに評価されることが嬉しかった。着飾れば褒められ、トークを回せば指名が増える。そしてそれが売上という数字で分かる。そうすればオーナーからも期待された。自分の存在価値が見出せたようで仕事に打ち込んだ結果、トップにまで昇りつめた。

「今日は君のためにこれを用意したんだ」
「まぁカルティエのブレスレットじゃない。でも、さすがにこんな高価なもの頂けませんわ」
「君につけてほしくて、どうか受け取ってほしい」

銀座に来て半年、そしてこの店に移ったのは四ヵ月前。一ヵ月前にナンバーワンの称号を得て最近では湯水のように高価なプレゼントをもらう機会が増えた。しかし、何故みんな赤の他人にこうも貢ぐのかは全くもって理解できない。そしてプレゼントはかさばるので正直ご遠慮いただきたい。寮の部屋は六畳と狭いのだ。

本気でいらないので断っているのだが男性からしてみるとこれが“謙虚”に映るらしい。もう一度断ってみるが私の声は届かず、無遠慮に手を取られブレスレットが付けられた。これいくらするんだろ。後で同僚に聞いてみよ。
客の男性はスリットから覗いた太腿を一撫でした後、私の手に指を絡めた。お触り厳禁だがこれくらいは暗黙の了解だ。

「失礼致します」

にこにこしながら客の話を聞いていればボーイに声がかけられる。客からは見えない角度で指示が出されたので断わりを入れ席を立った。

「VIPルームで一名様が来店中でね。待ち合わせをしているようなんだけど相手が来るまで入ってもらえる?」

てっきり他の常連客が来たかと思えば新規さんの相手であった。VIPルームに来ているということはかなりすごい人なのかもしれないがわざわざ私を着かせる意味とは。先ほどまで私が付いていた男はこの店から見ても太客なのだ。あのまま私が付いていれば追加でボトル二本は確実だった。

「他の子はいないんですか?」
「それが結構変わり者のお客さんでね…あと顔が良いから他の子着かすと仕事にならないんだよ」
「はぁ…」
「その点君はそういうのに感心なさそうだし、何より虫よけも付けてるから安心で。オーナー指示だから頼んだよ」

なんかとんでもなく損な役回りをさせられた気がする。これも未だ外れぬ指輪のせいかと恨んでみたり…まぁナンバーワンとはいえしがない従業員であるので上の言うことには黙って従うことにする。

ボーイに案内されVIPルームへ。
ドアが開けられるのと同時に顔を作る。

「ようこそお越しくださいまし―――っ五条悟?!」
「なに?僕のこと知ってんの?君はー……あぁ!禪院直哉の嫁じゃん!何やってんの?出稼ぎとか??ウケる!」

一人ゲラゲラ笑いだした白髪の美丈夫。御三家が一つ、五条家の嫡男にして無下限呪術と六眼の抱き合わせ―――現代最強呪術師である五条悟の登場に高層ビルの窓を突き破って逃げたくなった。

五条と私は学校こそ違うが同期だった。年に一度行われる姉妹校交流会では当然のごとくコテンパンに負けていた。なんせ当時、東京校には五条の他にもう一人特級呪術師がいたのだから。その特級呪術師が呪詛師になり一時期は相当荒れたと聞いていたが、目の前の五条は以前と変わらないように思える。つまりは息を吐くように人を馬鹿にするということだ。

「違います!というか貴方こそ何してるんですか?」

五条が人払いをし、VIPルームは二人きりの空間になった。念のため帳も下ろしておく。非呪術師の耳に入れたくない話もでそうだったので。

「夜蛾学長に話があってね。僕、高専で教師やろうと思ってその相談。もうすぐ来るんじゃない?あ、僕下戸だからお酒はいらないよ。ノンアルでお願い」

重度の甘党だったことを思い出しプッシー・キャットを作る。とても成人男性に出す代物ではないが私が作れる中で一番甘いドリンクだ。グレナデンシロップは通常の三倍入れてやった。
それにしてもあの五条悟が教師とは中々に興味がある。先生達も手を焼くほどの問題児だったのだがどういう風の吹き回しか。

「で、君はなんでホステスやってんの?あの束縛男から逃げてきたとか?」

こちらの事情に関してはあまり首を突っ込んで欲しくなかったのだが五条は土足で踏み込んできた。躊躇も気遣いもなくズカズカと。一応、お客様でもあるのでノンアルカクテルを渡し背筋を正した。

「家出です。浮気されたのでこっちに逃げてきました」
「浮気ぃ〜??あっこれ美味い。次はもうちょい甘めでお願い」

グラスの中身はすでに半分ほど減っていた。相当お気に召したらしい。血糖値は大丈夫なのだろうか?きっと彼の腎臓は悲鳴を上げているに違いない。

「毎回違う女の香水の匂いがするんです。日付け超えて帰ってくるのなんてしょっちゅうで記念日も忘れられました」
「へぇ〜〜」

私の話をニタニタ聞きながらドリンクを煽っている。もうなくなりそうだったのでご所望通りにシロップを先ほどの倍は入れてみた。作り終えたのと同時に空のグラスを受け取り、新しいものをコースターの上に置く。そうしたら「さっすがナンバーワン!」と口笛を鳴らされた。これは誉め言葉でなくただの野次だ。

「あの禪院直哉が君を差し置いて浮気ねぇ」

どの禪院直哉だよ、とツッコミを入れてやりたかったがあの人の名前を出すことも嫌だったのでだんまりを決め込む。グラスに付いた水滴だけを眺めていたら不意に左手が持ち上げられた。気配も感じなかったその動きに、やや怖くなり引こうとすれば逆に引っ張られた。そして薬指につけられた指輪をするりと撫でる。

「これ外せないでしょ?」
「はい。おかげで私は未亡人扱いを受けています」
「ハハッ!ちょーウケる!僕なら外せるけどどーする?」

マジか。いやしかし何の見返りもなしに外してくれるような男ではない。

「対価は何ですか?」
「おっ!察しがいいね。呪術師やらない?それか補助監督。僕の下でこき使える人間が伊地知以外にも欲しくてさ」
「丁重にお断りします」

呪術関連の世界に戻れば間違いなく直哉に見つけられる。さすがにいつまでも逃げ続けるわけにはいかないがまだ会いたくはなかった。

「東京ならあいつも下手に手ぇ出してこないでしょー最強の僕なら君くらい余裕で守ってあげるって」
「現役から一年以上離れているので役に立たないですよ」
「君一級でしょ?」
「準二級です」
「マジか」

私も喉が渇いたので何か頼んでいいかと聞けば好きなものを入れていいと言われた。一応、「何でも?」と確認を取ると高いのでいいよと言われたのでお言葉に甘えアルマンドの黒を入れた。これで常連客分の売上は巻き返せたはず。五条ならば財布の心配もいらないだろう。

「そういや君の昇格を邪魔してるやつがいたな。まぁ誰なのかは言うまでもないけど」

一級呪術師に昇格するにはいくつかの条件がある。でもそれなりの任務をこなしても私の階級は一向に上がらなかった。それどころかいつの間にか私のことを推薦してくれる術師もいなくなってしまったのだ。

「あの人ですよね。女の呪術師が相当嫌いなようですので」
「うーん、というよりは君を戦線に立たせたくなかったからじゃない?」
「女は男の三歩後ろに、ってやつですか?そんな女、二十一世紀社会で絶滅危惧種ですよ」

ボーイが運んできたボトルに手を伸ばせば私よりも先に五条がそれを掴んだ。「はい、どーぞ」と言われグラスを手に取れば注いでくれた。こんなに気が利く男だったのか、と少し感動する。

飲みなれていなかったはずのシャンパンの味にもだいぶ慣れた。でも時折、日本酒の味がひどく恋しくなる。あぁ、酔仙の鳳翔が飲みたい。あれを冷やして飲むのが好きだった。

「“普通”の君にはあいつの歪んだ愛は重かったのかもね」
「あの人から愛を貰ったことなんてないですよ」

愛ってなんだ。本当に誰か教えて欲しい。
現実は小説のように、ドラマのようにうまくは回らない。

「悟、待たせたな」

ボーイのノックに返事を返せばガタイのいい男が姿を現す。あの夜蛾先生が今では東京校の学長か。私が離れていた間にも呪術界は目まぐるしく動いている。それを目の当たりにした時間だった。

「お待ち合わせの方が来ましたね。では私はこれで」

ナンバーワンらしくにっこりと微笑み席を立つ。そして夜蛾先生には会釈を一つ。私が挨拶をする必要もないだろう。もう一般人だし。

「禪院直哉の奥さん」

話しは済んだと思ったのに五条は私のことを呼び止めた。側にいた夜蛾先生が小さく「え、」と呟いたのが聞こえた。
私の気に障るような肩書きで呼び止めて。この男は本当に良い性格をしていること。

「さっき指輪は外せるって言ったけど君にかかってる呪いは祓えないよ」

別にいいよ。指輪も呪いも。

「愛ほど歪んだ呪いはないんだから」

そうなのかな?
でもね、愛がなくても男は女を抱けるんだよ。

ホールに戻る前に更衣室に戻りバッグの中から封筒を取り出す。ずっと持っていてよかった。
そしてVIPルームの担当になっていたボーイを呼び止め封筒を渡した。

「白髪の男に渡してください。内容は見れば分かると伝えて」

私の居場所は、もうあの人の隣りじゃない。





高専卒業後、私は呪術師として働くことを決めていた。その事は直哉にも話していた―――というよりは聞かれたので素直に答えたのだ。

これからの一人暮らしのため寮を引き払い荷物を新居に移したところで直哉が現れた。そしてまだ開封をしていなかった段ボールをそのまま別のトラックに詰め持って行ってしまったのだ。全くもって意味がわからない。これに関してはさすがの私も怒った。

「なにひとりで決めとんねん。俺の許可も取らず勝手なことすな」

しかし何故か逆ギレされたことは今でも納得できていない。
そうして私の荷物が運ばれた先は禪院家と同じ地区にあるマンションだった。私が最初に借りようとしていた部屋の五倍は広くファミリータイプのマンションだった。オートロックでインターホンまで付いていて明らかに社会人一年目の人間が住むような場所じゃなかった。

「ここが今日からお前の家や」
「いや、意味わかんないんですけど。というかここ分譲マンションですよね?」
「せやな。ほんなら家賃代わりに副業してもらおか」

その一言により私は週三で禪院家に行きそこの手伝いをやらされることになった。何度も逃げてやろうと思ったが朝六時にインターホンを鳴らされそして車で拉致られるのだから逃げようもなかった。

でもさせられたのは結局手伝いではなかった。
料理の基本、袴の手入れの仕方に着物の着付け。お茶の淹れ方、言葉遣いに礼儀作法の勉強―――まさか花嫁修業をさせられるとは思いもよらなかったのだ。

そして私の家には当然のように直哉が上がりこむようになった。というかソファもテーブルも新しいものを用意し一室は自分の部屋として使っていた。当然の如く鍵も持っていて、これでは一緒に住んでいると言っても過言ではない。

「普通に居座るのやめてもらえません?」
「マンションの名義は俺やろ」
「じゃあ直哉さんが住めばいいじゃないですか。私はここを出ていきます」

正直、直哉に居座られることが嫌だったわけじゃない。強制イベントの花嫁修業だって本気を出せばいつでも逃げられた。でも私はそうしなかった。だって、やっぱり好きだったから。

恋愛経験ゼロの私でも直哉と私が先輩後輩以上の関係であることは気づいていた。
「先輩」ではなく名前で呼ぶようになった。
出掛ける時は手を繋ぐようになった。
別れ際にはキスするのが当たり前になっていた。

でも直哉は一度だって私に言葉はくれなかった。「好き」とも「愛してる」とも、「付き合って」の一言すらなかった。それが寂しかった。でも私が自分から言い出すことはなかった。己のプライド、というよりは夢を見ていたのかもしれない。好きな人からの言葉は引き出すものではなく無条件に与えて欲しかったのだ。

「おい、こないな時間にどこ行くつもりや」
「今日は同期のところに泊まります。どうぞここは好きにお使いください」
「ハァ?お前の同期全員男やんけ」
「だから何ですか」
「ふざけんな」

初めての大喧嘩だった。直哉は玄関のドアノブを壊すし私も私で暴れた末に壁に穴を空けた。今思えばよく警察呼ばれなかったなって思う。
軽い口喧嘩程度なら今までもあった。でもその時は私の方が先に謝って終わり。しかし今回は違った。私は謝らなかったし出ていくことも譲らなかった。というか私に悪かったところなんて一つもないし。

「他の男のとこに行くゆうことは覚悟できてるってことやんな?」

結果として私はその日に処女を失った。
ソファに押し倒された時点でそうなることは決まっていたのかもしれない。

キスの時はそれなりに雰囲気もあったのに、こちらの初めてはムードもクソもなかった。さすがに泣いた。「やめて」って言ったのに最後までやったし、最後まで謝ってはくれなかった。そのくせ事が終われば優しく私を抱きしめてきた。マジでクソ男だ。

でもそんな男を嫌いになれなかった私はもっとクソだった。





嵌められたと気付くのに思いのほか時間が掛かってしまった。

手紙の残穢を辿り東へ西へと奔走し、行き着いたのは京都の伏見稲荷大社だった。真っ赤な鳥居を幾重も潜り、禪院家が奉納した鳥居まで辿り着いて直哉は盛大に息を吐き出した。

灯台下暗し、などということはなくこれは彼女が仕掛けた罠だった。

「なんやねん、ほんまに……」

自分の何がいけなかったのか直哉は分からなかった。
そもそも彼女の方が先に自分を好きだったのだ。だから自分も好きになればそれは両想いになるわけで。

結婚に関しては勝手に進めた節もあったがそれまでに二人で出掛けたし、キスもしたし、同棲もしたし、肌も合わせた。禪院家に相応しい人間にする為あの家での作法も教え込ませた。

何もかも順調だった。でもやはり一般家庭の彼女を毛嫌いする人間も多くいる。それらを黙らせる為に結婚後、直哉は動いた。彼女に毒を盛った分家の人間は始末したし陰口を言った使用人も片っ端から首にした。上層部の老いぼれ共には縛りを結ばせ逆らえないようにさせた。
直哉なりにこれ以上ないほどに尽くしたのだ。

鳥居に書かれた文字に目を落とす。そこには鳥居を奉納した先代当主の名前が刻まれていた。
そういえば初めて二人で出掛けた場所はここだったか。この鳥居を見て「先輩ってお金持ちなんですね」というやや的の外れた会話をしながらペタペタと手で触れていた光景が今ではすごく懐かしい。

成果もあげられないまま迎えの車を呼ぶ。
離れの方ではなく母屋側の出入口に車を停めた運転手に舌打ちをしつつも車を降りた。彼女のいないあの家は静かでつまらなくて帰りたいとも思わなかった。だからこの方が都合が良かったのかもしれない。

そこでハタと彼女はもしかして淋しい思いをしていたのではないかと気付く。
害が及ばぬようあの家に閉じ込めて置いたがそれがいけなかったのだろうか――ここでようやく直哉は彼女気持ちを理解し始めてきた。

「直哉様…!」

出迎えの挨拶より先に名前を呼ばれたことに苛立ちを覚える。しかし嫌味の一つも言う気にはなれなかった。後悔と疲労の混ざった脳では声を出すのもしんどかったのだ。

「お客人がお目見えです」
「聞いてないで」
「先ほど突然お越しになられて……」
「なら早よ返し。相手しとる暇はない」
「それが、五条家の……五条悟様が奥様のことで――」

使用人の言葉を最後まで聞かず玄関からではなく庭を突っ切り客間に向かった。
靴を脱ぎ捨て音を立て廊下を歩く。そのただならぬ様子にすれ違う使用人達は直哉の顔も見ずに頭を下げた。 

「久しぶり〜!元気にしてた?嫁に逃げられた直哉くん」
「ははは、相変わらず品のない会話しか出来ひんのやね悟くん」

声も掛けずに戸を開ければ白髪の男が茶菓子を食べていた。よくもまぁここに来てこれだけ寛いでいられるものだ。禪院家と五条家の間には先代当主の死による深い深い溝がある。
親しげな口調とは裏腹に二人の間には嫌な空気が漂う。

「あいつが何処におるか知ってるんか?」
「まぁまぁ焦らないの。急かす男は嫌われるよ?」
「早よ言えや」
「はいはい。まずはこれを先に渡しとくよ」

机の上に茶封筒が投げ捨てられる。表にも裏にも何も書かれておらず、封もされていなかった。指を滑らせ折り畳まれた紙を取り出す。

「おい!どうゆうことや?!これお前が書かせたんか?」
「焦るなって言ってんじゃん。人の話し聞けよ」

机に乗り上げ直哉は五条の胸ぐらを掴む。その高圧的な態度に怯みもせず五条は黒の目隠し越しに目の前の男を見た。可哀想な哀れな男を。

「この前会った時にお前に渡してくれって頼まれたんだよ」

中に入っていたのは離婚届。彼女の欄だけが綺麗に埋められている。
彼女がここまでの行動を起こすなど信じられない。五条に絆されたに決まっている。

「あいつがこんなもん書くわけないやろ。笑えん冗談やなぁ―――表出ろや」
「お前がそんなだから逃げたんだよ」

直哉の腕を掴みそのまま襖の方へ投げ飛ばす。音を立てて壊れ、隣の部屋まで直哉の体は飛ばされた。

「クッソ…!」
「別にお前らが別れようがどうなろうが知ったこっちゃないけどさ、数少ない優秀な人材を囲うだけなのはよくないんじゃない?」
「あいつに呪術師やれ言うとんのか?禪院家に嫁いだからには外に出る必要なんてない。家ん中で綺麗な べべ、、着て後継ぎ産んでにこにこ笑っとけばええねん。それがあいつの幸せや」
「その自己中心的なクソデカ感情に吐き気がするわ」

オ"ッエーという仕草まで付け足した五条を睨みつつ直哉は立ち上がる。いくら相手が最強であってもここまで無様な醜態を晒すことになろうとは。これでは“嫁に逃げられた男”だけではない第二のレッテルが貼られる日も近いかもしれない。

「お前には関係ないやろ夫婦の問題や。あいつの居場所知っとんなら早よ教え」
「じゃあ約束しろよ」

黒の目隠しを引き上げ直哉を見る。
その姿を見て、ほんの少しだけ同情した。だから予め用意していた内容とは少し変えて縛りを提示した。

「あの子の話しちゃんと聞いてやって。で、呪術師やってもいいって言ったら教鞭執らせてよ」
「ハァ?なに勝手なこと言っとんねん」
「お前に言われたかねーよ。で、どうなの?」
「あいつは絶対言わないで」
「文句なしってこと?じゃあ縛り成立ってことで」

五条はポケットから取り出した黒い名刺を投げた。金色の筆記体で綴られた店の名は、調べなくてもどういう場所かは分かるだろう。

「お金たくさん持ってった方がいいよ。ナンバーワンは高くつくから」

無言でそれを拾い上げた直哉に声を掛け五条は部屋を出て行った。



「こっちも随分と呪われてたな」

立派な日本家屋の廊下を歩きながら五条は独り言つ。
いつもは堅苦しいまでに締められているシャツのボタンは開けられ、袴の裾には泥が着いていた。目の下の隈にやつれた頬。六眼で見なくとも呪力の流れが不安定のは分かる。

五条としては二人がどうなろうと興味はあれど関わりたいとは思わなかった。夫婦喧嘩は犬も食わないと言うじゃないか。

それにしても勿体ない子だった。呪術界のしがらみも知らない、まだ善人に近いような子だったのにあんな男に目を付けられて。その先に待つ未来など、容易く地獄だと想像できる。
まぁ助けを求められたら助けてあげよう。こちらとしても禪院家から腐った蜜柑共を引き摺り出すためのパイプくらいには利用させてもらうつもりだし。

「あっねぇ君!さっき出してくれたお菓子どこの店の?お土産に買って帰りたいんだけど」

―――と、これからの呪術界への未来図を描くも五条の興味はすぐに逸れたのだった。





今日のために用意したセクシーかつ上品なドレス。自分へのプレゼントとしてオーダーメイドしたものだ。いつもより華やかに仕上げてもらった爪先に、エステにも行ったのでボディメンテにも抜かりなし。そしてジミーチュウのヒールを履けば完璧な私の出来上がり。

今日は私の誕生日。こんなに楽しみな誕生日はいつぶりだろうか。
店では私のためのパーティーの準備がされている頃だろう。常連さん達も当日はプレゼントを用意して行くと言ってくれていた。

ジュエリーボックスを開き装飾品を選ぶ。ネックレスとイヤリングを選び終え、ブレスレットを手に取ったところで自分の薬指が視界に映った。そこにはあの人との結婚指輪が今も輝いている。プラチナ素材のためかその輝きは二年前と何一つ変わっていない。



直哉がマンションにいることが最早デフォルメになり、自然と肌を合わせる回数も増えた。
その日も直哉の部屋に連れて行かれ、翌朝に私が使っているものよりも広いベッドの上で目を覚ました。

今日は休みだ、まだ寝れる。でも仕事の連絡だけでも確認しておこうかとスマホに手を伸ばした。その時、左指で何かが光ったのだ。
目を擦りまじまじとそれを見つめる。
左手の薬指、シンプルだけれどダイヤモンドがあしらわれているプラチナリング。

「あの、」

私は隣で寝ている直哉に声を掛けた。しかし起きる気配がない。ものすごくぐっすり寝ている。それもそうか、昨日は三回戦まで縺れ込んだのだから。私だって下腹部が痛いし腰が重い。

「直哉さん、起きて。私の指になんか付いてます」
「んー……」
「これ外れないんですけど。どういうことですか?起きてください」

機嫌が悪くなるのは百も承知で肩を揺らす。そうすれば鬱陶しいとばかりに手をはたき落とされた。その時、直哉の指にも同じものがついていることに気付き左手を掴んだ。

「直哉さん、これもしかして本当に結婚指輪ですか…?」
「朝から喧しいな、なんやねん」
「いや、どういうことですか?……え?結婚、いや、あの、えっするんですか?」
「せやな」
「は?私、何も聞いてないんですけど。え?ほんと、どういうことですか?」

状況が飲み込めず同じ事しか言えなくなった私を直哉は眠そうな目で見ていた。いや、これ大事な事だからちゃんと説明してよ。

「あの…」
「今日の午後は和装の試着行くからな。で、来週結納で再来週に式やから」
「は?」

「は?」しか言えなかった。なんか色々と順番おかしくないか?というか時間がなさすぎる。というか式って結婚式?誰と誰が?

「直哉さん説明をお願いします!」
「まだ寝れるやろ。二時間後に起こしてな」
「この状況でよく寝れますね!?起きてください、式ってなんですか?それより先に指輪の説明をお願いします!…ちょっと、ねぇ。……ねぇってば!…………起きろや直哉!」

というのが指輪を貰った―――否、はめられた時の話であり結婚式までの経緯である。
因みにこの日から私は直哉と呼ぶ様になり敬語を使うのもやめた。……まぁ禪院家に入ったら一部の人間に女が生意気だなどとぐちぐち言われ旦那様呼びと敬語になったのだが。



薬指の指輪は相変わらず外れない。でも最近では毎日外れないことを確認し安堵している自分がいる。だってこれが外れてしまえばいよいよ私達の関係がなくなってしまうと思ったのだから。

離婚届を書いてなお、まだ何かを期待している自分がいる。そしてすごく惨めだと感じる。だからそれを見せないよう、私は目一杯着飾って崩れないよう武装する。

結局ブレスレットはつけぬまま。薬指の指輪と共に部屋を出た。


◇ 


行きつけの美容室で髪をセットしてもらう。
ハーフアップにまとめられた髪にはパールが散りばめられており、今日の主役と言わんばかりにティアラも乗せてもらった。

美容室の外に回してもらったリムジンに乗り店に向かう。今日は従業員用ではなく正面から入るよう言われていたので玄関ホールからエレベーターに乗った。

階数を表示する電光掲示板を見て胸が高鳴る。
ポーンという電子音と共に開いたドアの先を見て私はおかしな事に気付いた。

「えっ誰もいない…?」

お客さんどころか他の嬢もボーイもいない。そして誕生日ならまずは店のエントランスのところにスタンド花が所狭しと飾られるのだがそれもない。

あまりにも静かな空間に驚きながらもエントランスを歩いて行く。
もしかしたら私へのサプライズでみんなお店の中にいるかもしれない。新たに生まれた期待と共に店に続く重厚なアンティーク仕様のドアに手を掛けた。

押し開けて初めに気付いたのは花の香り。店には店内を埋め尽くすほどの薔薇の花びらが敷き詰められていた。スタンド花も全て薔薇。黒のシックな壁紙と相まってその赤がよく映えた。

そして次に目についたのはウェディングケーキを思わせるほどの立派な三段ケーキ。真っ白なクリームにリボンの様な模様が描かれている。そして上には溢れそうになるくらいの苺が飾り付けられていた。

他にもシャンパンタワーやバルーンなどの装飾もあるけれど店の中には誰もいない。サプライズにしてもそろそろ顔を出して欲しいのだが。
店の扉を閉め恐る恐る中へと踏み入る。

「あのー…皆さんどこですか?」
「誰も居らんよ。結婚記念日に他の奴はいらんやろ」

声の主を探すより先に回れ右をして扉へと向かった。

「そろそろ鬼ごっこは終いにしよか」

ドアノブを掴み思いっきり引っ張ろうとしたところで背後から伸びてきた腕に阻まれた。ドアを開けさせない様、そして覆い被さる様に迫ってきた男の気配に息を呑む。私の顔のすぐ左にあるその手には揃いの指輪が着けられていた。

「こっち見ぃや」

何故ここがバレた。冥冥さん?いや、でもあの人には口止め料として今はお金を払っている。それとも五条悟だろうか。

「おい、」

自分の肩を掴まれそうになり、私は身を捻って逃げ出した。
合わす顔がない、というよりも会ったら殺されると思ったからだ。

「待てや!」

床に敷き詰められた薔薇に呪力を流す。
私の術式は付喪操術の派生に近い。無機物に呪力を流すことで己の意のままに操れる。これには私の呪力が使われ残穢も残るので場合によっては囮を作ることも可能だ。

向こうに術式を使われたら捕まる。投射呪法の前に速さに勝つことなどできないのだから。
花吹雪で距離を取りつつ脱出経路を探す。裏手の従業員出入り口から逃げられないだろうか。早く行かなければ。この店に帳でも下ろされたら尚更逃げるのが難しくなる。

「鬱陶しいなぁ」
「は、えっ……?きゃあ!」

室内に突風が吹き呪力を乗せた薔薇が舞い上がり、またひらひらと床に落ちる。しかし私が再び呪力を込めても浮かび上がることはなかった。

「呪具なんてけったいな物使いたなかったけどしゃあないな」

手に持っていた扇子を畳み懐に仕舞った。呪力の伝達を遮る呪具か。
お互いの間に遮る物はなくなり、再び静寂が訪れた。

「……五条さんから受け取らなかったんですか?」
「久しぶりに会って最初の一言が他の男の名前とかなめとんのか」
「私は離婚届を書きました」
「あんなもん破り捨てたわ」

一歩距離を詰められ、私は後ろに下がった。

「なんで」
「それはこっちの台詞やねんけど。急にいなくなって連絡も取れんくなって、挙句離婚届送りつけるとかどういうつもりや」

一方的に捲し立てられるかと思いきや、意外にも会話をする気はあるらしい。
警戒心は緩めぬまま私は静かに口を開いた。

「旦那様は私のこと好きじゃないですよね?」
「ハァ?」
「酒の匂いに混ざっていつも違う香水の匂いがしました。服にファンデーションが付いてたりポケットの中に女の子の名刺が入ってたり……浮気ですか?それとも女遊び?どちらにしろ私はそんな人と一緒にいたくないです」
「接待言うたやろ」

貴方は人に媚を売るような人じゃない。これならまだ会合と言われた方が納得できた。
あからさまな嘘をつかれ苛立ちが増す。

「もう私に飽きたんでしょう?それに禪院家の人達から見れば私は時期当主様に不相応な家の出の女なようですし。旦那様だって陰で色々言われてたんじゃないですか?」
「そないな奴等、全員消してやったわ。時期当主の反逆者や言うてな」

直哉の言ってることが本当かどうかは最早どうでもいい。今もこれからも、きっと全ては直哉の思い描くままに進んでいく。そして私も直哉の中で都合の良いように使われていくに決まってる。

「それよりなんやその格好は。化粧はケバいし露出も多いしそんなんただの痴女やで」
「……ッ!なんでそんなこと言われなきゃいけないのよ!!」

私のことなんてお構いなしに!
テーブルに乗っていたグラスを思いっきり投げた。呪力は込めていない。あの扇子がある限り無効化される。それならば腕力で投げて物理で抵抗するしかない。

「ここにいればみんな私の事を綺麗って言ってくれるんだから!プレゼントも貰えるし優しくしてくれる!」
「ちょっ、何やねん急に」
「今日だって私は盛大に祝われるはずだったの!それを、去年に続き今年もめちゃくちゃにして!」

手元のグラスがなくなったので隣のテーブルに移動する。ノーコンなので直哉に当たる事はなかったが流石に近付いては来られないらしい。

「私がどんな気持ちであの日待っていたか分からないでしょう?可愛い女の子に引き止められたとか言って帰ってきて!」
「それはお前を揶揄っただけやって!遅く帰って来ても文句一つ言わんし名刺だって問い詰めて来たことなかったやろ?」
「旦那様には逆らうなと、禪院家の教えを受けたからよ!躾という名の暴力付きでね!」

あの家の教えに順応させておいて、私のせいみたいな言い方しないでよ。

「お前を殴った奴はとっくにクビにしたわ!」
「そうですか。でも私は貴方からも暴力を振るわれたことあるんですけど!」
「適当なこと言うなや!俺がいつお前のこと殴ったん?!」
「私のこと無理やり押し倒して襲いましたよね!?あれは暴行罪に匹敵します!」
「そ、れは……でも自分やって途中から気持ちようなってよがっとったやん!」
「なっ…!早漏れ男に言われたくない!!」
「ハァ!?誰が早漏れやねん!!」

バカラのグラスを二十は割った。どうせ費用は直哉持ちだ。
手元にグラスがなくなったので次はアイスペールを引き寄せた。そして中に入っていた氷を豆まきの要領で投げつける。ネイルが氷に引っ掛かるが構っていられない。

「いっつも直哉は自分のペースで私のこと考えてくれない!」
「お前のため思てこっちは不細工な女隣置いて老ぼれ共に酒注いどった……冷たっ!」
「そんなこと私は望んでいない!」

氷がなくなったのでアイスペールを床に叩きつける。
直哉がやろうとしてくれた事は分かった。それは確かに私の為で、そんな手の掛かることをしてくれていたのだと初めて知った。
本当はありがとう、って言いたかった。でも私が直哉にして欲しかったことはそうじゃない。何で伝わらないんだろう、何で伝えられないんだろう。離婚届を書いたことで私は自分で自分を相当追い詰めてしまったようだ。

「領域展開」

もういいや、全部ぶっ壊してやる。
負のエネルギーこそ呪力の根源。いくら何でもイカれてるって?イカれてなければ呪術師なんてできないんだよ。目の前で友人三人を失ってなお、その時の記憶より一目惚れの淡い記憶の方が色濃く脳裏に残っている。“普通”じゃないならその道を堂々と踏み外してやる。

「待ちや!さすがにアカンて!落ち着け、な?」
「離してよっ…!」

領域が完成する前に印が乱され空間が戻る。さすがに現役の呪術師には勝てないか。というか直哉が本気を出せば私など簡単に捕まえられたのだ。

「いやだ!離して!」
「落ち着きや、話しは聞いたるから。手も冷えとるしガラスも落ちとって危ない。せやからもう暴れんといて、な?」

抵抗できないよう抱きしめられて、でもそのぬくもりの中から逃げたくてもがく。直哉の胸元を何度も何度も叩いた。でもびくともしない。

直哉の熱が私に伝わってくる。彼の匂いが息遣いが、私の居場所はここなんだと教えてくれている様で涙が溢れた。
直哉は何も言わなくて黙って背中を摩ってくれて私のペースに合わせてくれた。だから自分から伝えないといけないと思った。私がずっと言いたかったことを。

「私は、貴方の後ろを歩きたくない」

だって顔が見えないもの。

「敬語も使いたくないし、旦那様なんて呼びたくない」

好きな人は名前で呼びたいんだから。

「守ってもらうほど弱くないし」

隣に並ぶために強くなった。

「嫌がらせも陰口もどうでもいい」

私のことをよく知りもしない人間に興味はない。

「でもっ……」

でもね、好きな人からはめいっぱいの愛が欲しい。

出掛ける時は手を繋ぎたい。
一日の終わりにはキスがしたい。
屋上で見た花火に、教室に差し込む夕陽の橙色。
高専時代の青い春を、私は今でも夢に見る。

「直哉は私に何もくれなかった」

私の初恋もファーストキスも穢れていない体も全部あげたのに。

「マンションも指輪もあげたやろ。このケーキも薔薇も。それとも宝石が欲しかったん?ドレスか?靴か?」
「ちがうっ…!!」

物はいらない。
それはこの仕事をして分かったことだった。高価なバッグをもらってもフルコースを奢ってもらってもどれだけ高いお酒を入れてもらっても満たされない。

ナンバーワンになって色んな人から好意的な言葉ももらった。"綺麗"も"可愛い"も"好き"も"愛してる"も。でもやっぱり満足できなかった。だってそれは―――

「直哉に一度だって好きって言われたことない!」
「は…?なんで今さら……」
「今さらじゃない!」

ずっと思ってた。
それ以上のことはしていたけど、神様の前で誓いの言葉も述べたけど、私に対して一度も言葉をくれたことはなかった。

「自分だって言ったことあらへんやろ」
「うるさい!」

渾身の力で直哉の胸を殴る。でもびくともしなかった。呻き声の一つすらあげなかった。悔しい。何もかもが悔しい。

「落ち着きや」
「じゃあ今言う!」

私ばっかり好きみたいで。

「私はあの夜助けてくれた貴方に恋をした。だから高専まで行った。結局、直哉は私の思っていた様な性格じゃなかったけど好きになったの。自己中だし口は悪いし顔以外のいいとこなんて思いつかないけど、でもっ私は直哉のことが好きなんだから!!」

絶対自分からは言いたくなかった。言ってやるもんかって思ってた。
でも会わなかった一年間が淋しかった。

「ぐふっ」という声と共に直哉の肩が揺れ始め私にまでその振動が伝わってくる。それは次第に大きくなっていき、数秒後には大きな笑い声に変わった。

「アハハッ自分ほんま俺のこと好きやんな!こんな笑うたの久しぶりや、腹痛い!」
「わ、笑うな!」

またも殴ろうとすればその手が奪われる。振り払おうとするがより強い力で引っ張られた。

「あの時と同じ阿保面しとる。初めて会うたとき脚にしがみつかれたん思い出したわ」

やっぱり言うんじゃなかった!
恋愛は好きになった方が負けだ。これではこれからも私が直哉のペースに乗せられたままになってしまう。対等じゃなくなる。今までと変わらない。それじゃあ意味がない。

「私は、あの時からずっと貴方のことが好きなの!」

でももう止められなかった。
こんな男に惚れた自分は本当にクソだ。幸せになんかしてくれっこない。

「あーもー分かった分かった」

掴まれていた手が離され、それが頭の上に移動する。そして優しく撫でられた。初めて会った時は鷲掴みにしてそのまま投げ飛ばしたくせに。

「俺は世界一の幸せ者かもしれん」
「私は世界一の不幸者ですよ」

目も合わせてやんない。
背中に手も回してやんない。
貴方に合わせてやらないんだから。

「なんでなん?」

怒られた子供のように俯いていれば頬に手が添えられた。いつもは顎を掴まれるのに、と先に思った私はだいぶ毒されていたと思う。

「このままでは私は一生片想いです」
「ハァ?」

直哉が腰を折り目線が同じになった。
それに驚いて固まってしまえば容易く唇が奪われる。

「物分かりの悪い嫁には一生かけて口説き落とさなあかんな」
「はぁ?」

次に間抜けな言葉を吐いたのは私だった。
そしてもう一度唇が奪われる。それに怒るでもなく、私はただただ見つめ返す事しかできなかった。

「愛しとるよ。何よりも誰よりも」

空っぽだった心が満たされるのを感じた。
もっと早く欲しかった。遅すぎだって。
その言葉をどれだけ私が待っていたか。
だから許してやんない。

「私の方が愛してるよ」

私の人生をかけて貴方を呪ってあげる。
愛の名の下に。