好きと言うにはまだ早い

三人目の報告書に目を通し、私は盛大な溜息をついた。それは最早呻き声とも言える音で、隣にいた先輩に憐れみの目を向けられた。

「だ、大丈夫か?」
「まただ……またやられた………」

先輩は「あー」とも「うー」とも形容しがたい声を発し、結局は掛ける言葉が見つからなかったのか「ご愁傷様」と雑な区切りをつけ自身の仕事に戻ってしまった。

携帯を取り出し連絡帳ではなく通話履歴を開く。名前で引くよりこの方が早いのだ。一番上にあった名前を選び電話を掛ける。そして意外にも早く、三コール目で呼び出し音が途切れ『もしもし』と低い声が聞こえた。

「報告書に穴があったんだけど今どこにいるの?」
『うわっこないな時間に電話してきてなんやねんその態度。夜分にすみませんの一言もないんか?教師のくせして教養も礼儀もあったもんじゃないなぁ』

手に握られた携帯がミシリッと音を立てた。その様子に気付いた先輩が「冷静に!」と小声ながらもはっきりとした声で言った。私も些か大人気なかったと冷静になる。

「ごめんなさいね、私も疲れてたみたいで。みんなが出してくれた報告書をチェックしてやっと上がれるって思ったら貴方のものだけ不備があったからつい気が立ってしまったわ」
『短気やと白髪も増えるで。自分まだ嫁入り前やろ?女の呪術師なんてただでさえ貰い手少ないんやから見た目と教養だけは持っとかんと』

何で年下の、しかも自分の生徒にこんなことを言われなければならないのか。
今にも頭の血管が切れそうではあったが、生憎怒鳴る気力もない。それにこのままでは彼のペースにのまれいつまで経っても本題には移れないだろう。

「ご忠告ありがとう。それで、今どこにいるの?寮?」
『夜なんやから自分の部屋おるに決まっとるやろ。そんなことも分からんのか』
「私が寮まで行くから談話スペースのところで待ってて」
『ア?寮まで来るなら俺の部屋ま——』

ブッツリと通話終了ボタンを押してやった。

「なんでこの子はいっつも上から目線なの?!私舐められてるの?!二年目だから?それとも女だからか??あ"ーー!も"ーーー!!」

そう爆音で叫べば先輩だけではなく補助監督の人達にまで同情の目を向けられた。皆、仕事疲れで目は死んでいたが私に温かい言葉をたくさん掛けてくれた。実に優しい。だが、いつまでも愚痴を撒き散らしている訳には行かないので席を立つ。あぁ今日は何時に社員寮に帰れるのだろうか。

「なぁ、」

死んだ目のまま先輩の後ろを通り過ぎようとしたところで声を掛けられる。呪術高専の教師になり今年で二年目、まだまだ分からないことだらけの私に指導者としてあるべき姿を教えてくれる優しい人だ。

「何でしょう?」
「お前の気持ちも分かるがあんまり事を大きくするなよ。御三家の、その中でも禪院家を敵に回したら呪術師としての居場所もなくなるぞ」
「……分かってますよ」

やや不服そうに返事をすれば困ったように笑われてしまった。そんな先輩の表情を目に焼き付け歩き出す。
私はもう一つだけ小さく溜息をついて職員室を後にした。



小さい頃の夢は学校の先生だった。
私の両親は小学校教師。厳しくも優しさを持っていた二人は、兄弟の中で唯一呪霊が視えた私にも分け隔てなく育ててくれた。そして呪霊のせいで不登校気味だった私にもしっかりと勉強を教えてくれた。だからこそ自分も両親のように、家庭や個人に問題を抱えるような子に寄り添い将来を導いてあげられるような大人になりたいと思った。

しかし私は呪霊が視えると言う点においてあまりにも“普通”とはかけ離れた存在であった。だから中学卒業後は呪術師であった曾祖母の伝を辿り、京都の呪術高専へと進学した。そうなれば当然、呪術師にならなければいけない———と思っていたのだが、卒業間近に楽巖寺学長が教師にならないかと声を掛けてくれた。どうやら曾祖母から私の事を色々と聞いたらしい。

もちろん呪術師としての任務も請け負うことにはなるが、私は教師になることを選択した。呪術高専の教師を務められる人間が少ないという事実もあったが、何よりも私の夢だったのだ。
それからは楽巖寺学長のコネで少しズルをして大学を卒業。昨年より正式に教師となり、さっそく新入生の担任を請け負うことになった。

「うっわ同期は猿親の男と田舎出の女が一人。しかも担任が新卒の女教師とかまともな奴は居らへんのか」

夢と希望にあふれた新任初日は一人の生徒により嫌悪と不快感で迎えることとなった。
その男子生徒の名は禪院直哉——あの御三家の、しかも本家の人間。本来、御三家出身者に入学義務はないものの彼の場合は実力証明のために入学したらしい。禪院家と言えば時代錯誤の考えを持つものの現代の呪術界においてその影響力はすさまじい。故に敵に回すと厄介だと言われている。

「禪院、ちょっと外に出ようか」

でも私は彼を特別扱いしなかった。呪術高専という学び舎の中での上下関係は、教師が上で生徒が下なのだ。学長にも指導者として堂々たる振る舞いをしろと言われている。

だからまずは手っ取り早く力でねじ伏せた。“普通”の学校であるなら教育委員会に口を挟まれるところではあるがここは呪術高専。外の世界の常識はある意味通用しない。
言うだけあって確かに禪院は強かったが私だって伊達に一級呪術師を名乗ってはいない。初日で肋骨六本と腕一本を折ってやった。

「お前絶対に許さへんからな!!」
「“お前”じゃなくて“先生”ね。その口の利き方を叩き直してあげる」

しかしそれで懲りたかと思えばその後もめげることなく彼は私に勝負を吹っかけてくるようになった。その度に私は骨を折ったり自身の領域に閉じ込めたりし、悉くねじ伏せていった。

禪院の勝負を受けるようになり早一年。二年生へと上がる頃になると力で勝てないことに気付いたのか最近では嫌がらせを受けるようになった。

つまりはそういうことである。



「複数体の呪霊と交戦した場合はその特徴と等級を記載するように、って私言ったよね?」
「書くとこなかってん」
「そのための備考欄なんだけど」
先生センセ、“備考”の意味知っとるん?“参考のために付け加えること”やで。記載してほしいことあるなら摘要欄か補足欄くらい作ってくれへんと分かりづらくてしゃあないわ」

屁理屈を並べ、報告書への記載がおざなりになったのだ。
寮に入って直ぐの談話スペースで待っていた禪院に報告書を突き返せばネチネチ言われる始末。本当に分からないのなら許すが彼の場合は確信犯なので許してやる義理はない。

「どちらにしろ備考欄にスペースはあったんだから書くところがなかったわけじゃないでしょう?」
「正論に言い返せんからって論点変えよった。物事の本質から逃げるっちゅうのは教師としてどうかと思うで」

脚を組み替え、薄ら笑いを浮かべる禪院に頭が痛くなってくる。このままではストレスで十円禿ができる日も近いかもしれない。最近では髪を洗うたびに確認している自分がいる。

「もう分かったから、備考欄に呪霊の特徴と等級を書いて」
「あ、逃げよった」
「早く書け」
「ハイハイ」

机の上に報告書を置く。ペンを忘れたというのでジャケットに入れていたペンを貸した。
マジで頭痛がしてきた。半分は寝不足でもう半分は言わずもがなストレスである。少しでも気を紛らわすために皺が寄ったであろう眉間に手を伸ばした。すると指先に固いものが触れる。眼鏡だった。そうか、気付かずにそのまま掛けてきてしまったのか。

「眼、悪いん?」
「え…?あぁ、ブルーライトカットの眼鏡。度は入ってないよ」

急に会話を振られ反応が遅れる。
最近の禪院はよく分からない。私に嫌がらせをしてくるかと思えば日常会話もよく振ってくる。そして以外にも聞き分けはいい。現に私が通話途中で切ったにも関わらずここで待っていたのだ。しかし、彼の場合は性格が捻じ曲がっているので手放しには褒められない。

「眼鏡似合っとんな」

報告書から視線を外し切れ長の目に見つめられる。普段とは違う上目遣いという視線は、何だか心臓に悪い。顔立ちに関していえば彼はモデルやアイドル並みの容姿と色気を持ち合わせているので。

「そうかな?」
「おん、教師もんのAVに出てきそうな見た目しとるわ。センセなら意外と稼げるんちゃう?乳もあるしシャツのボタンもうちょい開けて丈の短いスカート履けばそのまま撮影できそうやわ」
「馬鹿なこと言ってないで早く書きなさい!」
「ヒステリック教師は需要ないで」
「黙れ!」

このクソガキが!!!!
その言葉を飲み込んで、教師としてギリギリの体裁を保つ。
入学当初よりは幾分マシにはなったものの、この性格は最早直らないであろう。

彼が卒業するまであと三年。
私の頭皮は大丈夫かと本気で心配になった、教員生活二年目の始まりだった。





高専二年の大きなイベントと言えばやはり姉妹校交流会であろう。呪術師の繁忙期を避けた夏期に行われる東京校との行事だ。しかし交流会という名ではあるが一言でいうならば呪術合戦。両校の学長が提案する勝負方法を二日間にわたり開催する。今年の開催場所は昨年の優勝校である東京校だ。
そのため、私たちはいま東京へと向かっていた。

「それ、向こうの生徒のデータなん?」

新幹線での移動中、東京校の生徒資料を見ていたら禪院に話しかけられた。彼はちょうど私の席の後ろに座っており上から覗き込むようにして見ている。

「そうだよ」
「俺にも見して」

個人情報ではあるが生徒への閲覧を禁止しているわけではない。それに今回ばかりは禪院が相手校を気にする気持ちも少しは分かった。なんせ向こうには特級呪術師である五条家の嫡男坊がいるのだ。禪院家の次期当主とも呼ばれる彼にとっては相当気になるところではあろう。そのような私情も組み、資料を後ろに送ろうとすれば禪院がいなくなっていた。

「こっちや」
「うわ、びっくりした」

返事を待たずとも見るつもりだったのか、いつの間にか隣の席に禪院が座っていた。しかも私が置いていた荷物が全て床に置かれている。三つシートが並んでいるのだから一番端の空いている席に座ったら良かったのに。それかせめて荷物は床ではなくシートにおいて欲しかった。

「へぇ、悟くん高専に入ってから千件以上も任務こなしとるんか。で、こいつがもう一人の特級かいな。ははっ変な前髪やな」

私のことなどお構いなしに渡した資料をぺらぺらと捲っている。全くもってマイペースである。そして一通り資料を読み終えたら席に戻るのかと思いきや帰る気配が微塵もない。

「何時までいるつもりなの?」
「別に席空いとるんやからええやろ。俺いまから寝るから着いたら起こしてな」

確かに新幹線一両を丸々借りているのだからスペースは有り余っている。何なら一列ずつ空けて皆が席に座っている状態だ。それなら尚のこと私の隣に居座る必要はないのだが。

「うっ…重い……」

勝手に寝だしたので面倒くさくなり放っておく。しかし数分したところで左肩に重みを感じた。確認すれば私の肩に金色の頭が乗っかっている。禪院が私の肩にもたれかかっていたのだ。寝るならリクライニング倒しなさいよ、とも思ったが時すでに遅し。そして人の頭は意外と重い。押し返してもよかったのだがあまりに心地よさそうに寝ていたので起こすのも申し訳なく思えてしまった。

結局、東京に着くまでの二時間余りの時間肩を貸す羽目になった。
そして痺れて左肩が上がらなくなれば「その年で四十肩かいな」と禪院に鼻で笑われる始末。誰のせいだと思ってるんだ。しかし、その後どういうわけかスタバのドリップコーヒーを奢ってもらえたので現金な私は簡単に彼を許してしまったのだ。



道中色々とあったがその後はバスに乗り東京校へ。そしてついに交流会が始まった。
一日目は呪霊討伐レースの団体戦だ。しかし、これはもう完敗だった。秒で負けた。

開始早々、五条悟が順転術式“蒼”を展開し呪霊を一か所に引き寄せ、それをもう一人の特級呪術師があっという間に取り込んだのだ。壁に張られていた呪札が一気に赤色に燃えて散った時は開いた口がふさがらなかった。

「あんたら格下に任せとけんわ。俺が悟くんの相手する」

二日目は個人戦。本来なら二年は二年生同士で学年ごとに対戦相手を組む。しかし団体戦で負けたことがよほど悔しかったのか禪院が五条と戦いたいのだと一歩も引かなかった。

「もう対戦相手はこっちで決めてるから今さら変えられない。それに三年の先輩に向かってその口の利き方はなんなの?」
「弱い奴が出張る必要あらへん。事実を言ったまでや」

二年の時点で禪院の等級は準一級。四人いる三年生の内、一番等級が高い子でも禪院と同じ準一級だった。確かに実力主義の呪術界では力の差と術式により地位が確立する。しかし、もう少し年長者には敬意を払ってほしいところである。年功序列を重んじるわけではないが、長く生きている分経験をもっているのだ。それが一年の差であったとしても。

「私より弱い貴方が意見できる立場にあるのかしら?」
「ア"?」

私が煽ればその場が絶対零度の空気に包まれる。そして蜘蛛の子を散らすように他の生徒達からは距離を取られた。
私にもう少し言葉で解決できる器用さがあればよかったのだが、頭のキレる禪院相手ではそれは時間の無駄になる。それならばやはり力でねじ伏せる。ほら、呪術界はやはり実力主義の世界なので。

「その辺でやめとけ、生徒の自主性を重んじてもいいだろう。お前もいいよな?」

私の先輩であり、三年生の担任教師が生徒にも確認を取る。五条との対戦相手であった三年生にも同意を得られたため禪院が五条と戦うことになった。

「ハッ!よく見とけよ余裕で勝ったるわ」

———と言った禪院は二時間後に医務室のベッドで横になっていた。当然のごとく五条に負けたのである。戦いは一時間にも及んだ。しかしそれは決して戦いが拮抗したわけではなく禪院が五条に弄ばれ掛かった時間なのだ。攻撃は全て無下限呪術の餌食となり完全におちょくられていた。私でさえ禪院に同情するほど可哀そうな試合であった。

「禪院はよくやったよ」
「負けたら意味ないねん!!」

だからこそ医務室で治療を受けた彼に優しい言葉を掛けたのだ。寧ろあの状況下でも最後まで諦めずに戦えた禪院を称賛したいくらいだった。

「試合前に禪院のこと弱いって言ってごめん。十分よくやったよ。正直、三年生でも特級相手にあそこまで粘れなかった」
「結果が全てやねん!俺は敗北者になりとうないわ!」

反転術式で怪我は治っても失った血液と呪力は戻らない。おまけに疲労も。だから見かけよりもだいぶ疲れ切っているというのに威勢だけは落ちていない。人によっては無様にも見えるその姿勢を、私は彼の良いところであると思う。

「思ったより元気そうじゃん。キャンキャン吼えるお前の鳴き声が廊下にまで聞こえてたよワンチャン」
「は?自分、何しに来たんや」

突然医務室の扉が開けられたかと思えば噂の五条悟の登場である。
サングラスが僅かにずらされ蒼の六眼が覗く。その美しさに一瞬だが見惚れてしまった。

「結構痛めつけちゃったから心配で見に来てあげたんだって。それともう一つは先生に会いたくって」
「え?私?」

サングラス越しに視線が向けられ何事かと固まる。それと同時にベッドからは「は?」と先ほどと同じく不機嫌そうな声が聞こえた。

「先生さ、東京校に来ない?術式は見てないけど少し変わった奴らを使役してるでしょ?それに興味あるんだよねーそれとやっぱり美人女教師は欲しいでしょ!俺らの担任なんてガッデムが口癖のむさ苦し——」
「阿保なこと言うのもええ加減にせえ!!」
「ちょっと禪院!?」

風を切る音が聞こえたかと思えば、先ほどまで寝ていた禪院が五条の元まで距離を詰めていた。そして殴りかかろうとするがその拳もあっさりと避けられる。そして横っ腹を蹴られ床に転がされた。

「ザッコ!禪院家の行く末が思いやられるわ」
「そんな言い方は…!」
「悟!!こんなところにいたのか!!!」

さすがの物言いに口を挟もうとすれば夜蛾先生がものすごい勢いで現れた。どうやら勝手にこちらまでやってきた五条を連れ戻しに来たらしい。夜蛾先生は五条の頭を鷲掴み、強制的に私たちに謝らせて帰っていった。

まさしく嵐のような出来事だった。
しかし、あっけにとられたもののすぐに我に返り禪院の元まで駆け寄った。

「大丈夫?」
「こんなもん、痛くも何もあらへんわ」

手を差し出せば、一瞬の躊躇いのあと静かに掴まれた。そうして立ち上がらせてやるも禪院は黙ったままだ。いつもの彼らしくもない。五条に対しコンプレックスでも抱いているのだろうか。

「禪院、」
「なんや?」

教師は子供に対し、平等であるべきだ。他校であっても呪術界という特殊な世界で生きる子供という点に違いはない。でも私は禪院を贔屓してしまった。だってやっぱり、自分の受け持つ生徒はどうしたって思い入れが出来てしまう。それが可愛げのないクソガキであったとしても、だ。

「来年も五条を交流会に引っ張り出すから勝ちなさいよ」

基本、交流会に参加するのは二、三年生だ。稀に人数合わせとして一年生を入れる場合もあるがまず四年生は参加しない。それでもこの二日間の惨敗ぶりを見てもう一度チャンスをあげたいと思った。このままやられっぱなしというのは私としても癪だ。

「センセがそない熱なるタイプやったとは意外やったわ」

てっきり禪院も闘志を燃やしてくれるかと思えば、きょとんとした瞳と目が合ってしまった。いや、さっきまでの怒りはどこへ行ったのか。禪院の様子に反し私のボルテージは高まっていく。

「自分の生徒を馬鹿にされて黙っていられるほど私は薄情じゃないよ。それに禪院は強いし、これからもっと強くなるんだから」

確かに彼は最強なのかもしれない。でも私の生徒が劣っているということはないのだ。

「大人気ないなぁ」

禪院には笑われた。笑わないでよ。こっちは珍しく先生っぽく振舞っているんだから。でも笑われたことに対し腹が立たなかったのは、それが馬鹿にしたようなものではないと気付いたからだ。

「次は負けへんで」

初めて禪院と意見があった。

「期待してるから」
「任せとき」

そう言った彼の横顔は、少しだけかっこよかった。





今日も今日とて残業である。
夏は呪霊の動きが活発化するので繁忙期だ。それ故、普段は職員室にいる補助監督の人達も出払っていた。

私はというと書類の山を片付けている。新たに呪霊の報告があった場所を地区ごとにまとめ補助監督の人達にメールを飛ばしていく。これは本来、別の人が担当しているのだが人手不足でその人も駆り出されているので代わりに引き継いだ。教師の場合は生徒への指導が優先されるため外へ行くことは少ないからだ。

一区切り付き、ドリンクサーバーからカップへコーヒーを注ぐ。時計を確認すると二十三時を過ぎていて、あと少しやったとしても今日中にはなんとか社員寮に帰れそうだ。
もう一踏ん張り頑張るかと机の上の籠からチョコレートの包みを取り出したところで職員室の扉が開けられた。

「あっセンセーおった」
「禪院…?」

彼は今日、京都府内の三つの任務に当たっていたはずだ。府内といっても交通の便が悪く、宿も押さえてあったのだがどうしてここにいるのだろうか。

「今日は外泊届出してたでしょう?なんで学校にいるの?」
「あんな雑魚に丸一日掛かるか?移動時間の方が長くて疲れたわ」

いや、移動時間が掛かるからこそ宿を押さえて外泊許可も出したのだけど。

「もうこんな時間だし泊まってくればよかったのに」
「あんなやっすいビジホに泊まるくらいなら寮のボロ家の方がマシや」

本当にこの子は……いいところの坊っちゃんは困ったものである。それでもやはり実力は確かなのだからお小言くらいは貰っとく。
はいはい、と軽くあしらってどうして職員室まで来たのか聞いた。

「今日の分の報告書」
「えっもう書いたの?」
「車ん中で書いた」
「まだ先でもよかったのに……」
「センセに直接見てもろうた方がええと思うて」

最近の禪院はやたら素直だ。素行がいいとも言う。一時期、それが気持ち悪くて「熱でもあるの?」と繰り返し聞いたらブチ切れられたのでそういうことではないらしい。まぁ私の指導の賜物だということで受け入れることにした。

「禪院、貴方は出来る子だったのね」
「何やねん急に……」

夜だからなのか疲れからなのか、妙にセンチメンタルな気持ちになる。お礼を言って報告書を受け取れば彼はすぐ側の椅子を引き寄せて腰を下ろした。

「もう帰っていいよ。訂正あれば明日直してくれればいいし」
「明日も任務やねん。今日中に終わらせた方がええやろ」

確かに彼は明日も任務なのだが夕方からだ。時間はある。でもこういうのは早めに終わらせたいタチなのだろうか。学業の提出物も彼は早めに出すしそういう性格なのかもしれない。

帰る気はなさそうなのでコーヒーをひと口飲んで、受け取ったばかりの報告書を机に広げる。
三件分の報告書に一つずつ目を通していった。
以前指摘した複数体の呪霊についての報告もよく書けている。しかし一か所だけ抜け漏れを見つけ、私はその場所を指さした。

「ねぇ、ここなんだけど」
「どれや?」

パッと振り返ったら禪院の顔がすぐ近くにあって叫びそうになった。距離が近い。それに任務終わりのくせにどうしていい匂いがするのか。シーブリーズなのか香水なのか、シトラスの香りだった。どちらにせよ自分の匂いは大丈夫なのかと心配になる。

確認を終えて距離は離れたものの、先ほどよりも椅子が近付いている。それがどうにも落ち着かなくなって先程取り出したチョコレートを差し出した。

「これあげるから食べて待ってて」
「飴?いや、チョコかいな」
「私のお気に入り。あ、甘いもの嫌いだった?」

禪院の好き嫌いなんて知らないけれど、何となく甘い物は食べなさそう。それに食べたとしても高級上生菓子とか?宿同様、こんなやっすい物いらんわって言われるかも。

「おおきに」

しかし、意外にも彼は素直に受け取ってそれを食べ始めた。何だが少し拍子抜けというか……まぁ良いに越したことはない。

二つ目の報告書に問題はなし。三つ目もおおよそ大丈夫だろうと最後の項目に目を通そうとしたところで耳に何かが触れた。

「穴、開いとるん?」
「ヒッ?!」

耳朶をふにふにと握られて変な声が出てしまった。それに笑われるも、手を離す気はないらしい。禪院の指が耳の縁をなぞる。骨張っていて、皮が厚くて、少しささくれのある指がこそばゆい。

「ピアス付けとったん?」
「え?あ、うん。昔開けてね。でももう塞がってると思う」

答えは出たのに彼の指は私から離れない。やめなさい、と手で払って注意したのだが「別にええやろ」とまた触ってきた。
仕方がないので諦め、そして意識しないよう再び報告書に集中することにした。

「何で開けたん?」
「当時付き合ってた人が揃いのピアス付けたいって言って開けてもらったの。だから右しか開いてな、い"っ?!いったぁ?!」

今度こそ禪院の手を払いのけ耳朶を押さえる。思いっきりつねられた。しかも爪と爪で挟まれたのでかなり痛い。

「ちょっと!何すんの!?」
「いや、俺も開けたろ思て」

こわっ爪で開けられる訳ないでしょ。サイコパスかよ。というか何で禪院に開けられなければいけないんだ。自分で耳朶を擦り痛みを逃がす。こうなってしまえば禪院にはすぐにでも帰ってほしくなったので報告書に視線を戻した。

「よくそないな男と付き合ってたな。自分、ピアス開けるキャラとちゃうやろ」
「まぁ好きだったからね若気の至りってやつだよ。はい、報告書の方はもう大丈夫だよ」

最後の項目も確認し、書類をファイルに入れる。明日にでもスキャンしてクラウドに格納しておこう。

「……つまんな」
「なんか言った?」
「疲れた言うたんや」

禪院は欠伸をして立ち上がった。お疲れ様、と声を掛け私は再びパソコンに向き直る。スリープ状態を解除しつつコーヒーへと手を伸ばそうとすればそれは定位置からなくなっていることに気が付いた。

「えっ」
「ごちそーさん」

それは禪院の手に渡っていて、半分ほど残っていたコーヒーは飲み干されてしまった。

「ほなまたな、センセ」

それ、私の飲みかけなんですけど。
もちろんそんなことは言えなくて。

私がさよならと言う前に彼は職員室を出て行った。





私は引き続きクラスを受け持ち、三年生の担任となった。

呪術高専は四年制ではあるが、学生として過ごせるのは実質最後の学年だ。四年生ともなれば実戦とばかりに任務を詰められる。

だから私は色々な企画をした。
高専内だけどバーベキューをしたり、花火をしたり、他の学年を巻き込んでスポーツ大会だってした。

ここを卒業したら彼等は血生臭い世界とずっと付き合っていかなければならない。だから、その人生の中で楽しかったと言える思い出を作ってあげたかったのだ。

「ねぇ先生!今度先生の術式使ってリアル脱出ゲームしようよ!」
「おっいいね!西棟全部使ってやったら面白そう」
「えー?いいけどみんな寝れなくなっちゃうよ?」
「んな子供騙しの術で寝れんくなるわけないやろ」
「禪院、あんた一年の時閉じ込められたからビビってんでしょ?」
「ハァ?お前と一緒にすなクソアマ」
「クソダサ金髪野郎に言われたくないわ」
「ア"?」
「は?」
「先生!またあいつらが喧嘩始めた!」

禪院は相変わらずだけど、悪態をつきつつもクラスで上手くやれてはいるようだった。女の子への対応にはやや眉を顰めることもあるが彼女もそこまで柔じゃない。まぁ一番可哀想なのは間に挟まれている男子生徒ではあるが。

「もう喧嘩しない!じゃあ次の休みにやろっか。他にもたくさん仕掛けを用意しといてあげる」
「本当?すっごく楽しみにしてる!」
「俺も!何か手伝うことあれば言ってね」
「はぁ……阿保くさ」



ずっとは無理だけど、こんな時間が続けばいいと思う。

少しでも彼等と一緒にいたかったし、もっともっと思い出を作ってあげたかった。

でもそんな私の小さな望みはある出来事により断ち切られた。



記録 二〇〇七年 八月
■■県■■市
△△トンネル

任務概要
県境のトンネルで二級呪霊と思われる残穢を確認
その呪霊の捜索と祓除

高専生(京都校三年) 三名にその任務を命ず



現場に着き、息を呑む。
帳を下ろしていても禍々しい瘴気が立ち込めていた。

本来であれば条件を満たさない限り帳は上がらない。しかし、今回は呪符を用いた嘱託式の帳であったため四つの杭を破壊したことですぐに解除できた。

「禪院!?」

帳が上がったのと同時に影が見えた。それに慌てて駆け寄れば禪院が人を抱えて倒れている。一人は両脚を失った女の子、もう一人は腹を抉られた男の子———私の教え子達だった。

「セン、セ……?」

禪院の体に欠損は見られなかったものの状態はよろしくない。頭を打ちつけたのか髪半分は血で濡れていて、呪力耐性がある制服もボロボロであった。

「助けに来た。いま呪霊がどこにいるか分かる?」
「避難連絡坑の先……」
「わかった、もうすぐ応援が来るから禪院達はここにいて」
「待ちや!!」

応急処置用の薬と包帯を取り出して手当てをした。私にできる治療はここまでだ。だからこそ次にやるべきことは呪霊の討伐。しかし、トンネル内に急ごうと足を向けるがそれが阻まれた。足元を見れば禪院が私の足首を掴んでいた。

「アカン、あれは一級…いや、特級にまでなりかけとった!センセでも勝てん。悟くんか、それか一級呪術師三人は連れて来うへんと相手にならん!」

体力など残っていないだろうに、足首を掴むその手は痛いくらいだった。
あまりにも彼が必死に引き留めるので迷っていれば、大きな地響きと共に強い揺れが起こった。思わずしゃがみ込むがこれは地震ではない。トンネルの奥からは呪霊の声が聞こえた。

「白狐、この子たちを安全な場所へ」

念じて名を呼ぶことで私は使役神を召喚する。曾祖母と同じ術式を持つ私は五体の善狐を召喚することが出来る。その中でも最初に調伏させた白狐は理解が早く従順だ。呪力を多めに注ぎ、三人を余裕で運べるほど体を大きくさせてやる。

「嫌や!センセが行くなら俺も行く!」
「禪院だって怪我してる。生徒に無理はさせられない」

しがみ付いていた禪院を引きはがし、無理やり白狐に乗せる。ここで待たせていてもトンネルの崩壊や呪霊との闘いに巻き込む可能性だってあった。

「俺はまだ戦える!連れてけや!」
「子供は黙って大人の言うこと聞いてなさい!!」

再び私に伸びてきた禪院の手を叩き落とした。こんなことしたくなかったし、言いたくなかった。でも自分の生徒をこれ以上危険な目に合わせるわけにはいかなかった。

「早く言って!」

白狐に指示を出し空を駆けさせる。
おそらく一分ほどで彼らを安全な場所に置き戻ってくるだろう。そうしたら領域を展開し、呪霊とタイマンまで持っていく。

「ふざけんなや!!」

禪院は血を吐き出しながら叫んでいた。
すごく怒っていた。でもその根っこは彼の優しさからなのだ。
こんなところで生徒の心の成長を知れるとは。
やっぱり教師になってよかった。

「———闇より出でて闇より黒く、その汚れを禊ぎ祓え」

帳を下ろす。二十歳以下の人間が入れない条件付きで。
全ての責任を負うのは大人だけで十分だ。





真っ白な天井に規則正しい電子音、アルコールの臭いが鼻につき医務室なのだと理解する。

口を覆う人工呼吸器を剥ぎ取り上体を起こした。窓から差し込む夕方の日差しに思わず目を細める。その先にはみんなでバーベキューをした中庭が見えた。
サイドテーブルに置かれた荷物に手を伸ばそうとしたところで腕に繋がれた点滴が邪魔なことに気付き取り外す。バッグの中の携帯を確認するもバッテリーが切れていた。

ベッドから転げ落ちるように抜け出して、重い体を引き摺り扉へ向かう。
引戸に手を掛けたところでそれが横へとスライドされ前のめりに倒れ込みそうになった。

「センセ?!目ぇ覚ましたんか?」

逞しい腕で支えられて転倒は免れる。
現れたのは禪院だった。私は震える手で彼の腕を掴んだ。でも思いの外、力は入っていなかったらしい。体勢が崩れそうになれば、腰に手を添え支えられた。

「よかった、貴方は無事だったのね。他の二人は?」

目が逸らされる。
禪院は無言で私にベッドへ戻るよう促した。黙ってそれに従って、ベッドの縁へ腰掛ける。それでもまだ黙ったままだったから私は彼の腕を掴んでもう一度聞いた。

「………死んだ」

それは分かっていたことだった。
私が到着した時のあの姿を見て、きっともう助からないだろうと思った。でもそれを認めたくなくて、私は禪院に言わせたのだ。

「センセが来る前には死んどった。呪霊見つけて五分も交戦せんうちに桁違いに呪力が跳ね上がった。俺はすぐに距離取ったけどあいつらは間に合わんかったみたいや」

何度も状況説明のために言ったであろう彼の言葉は、右から左へ脳を介さずに流れていった。 
禪院の腕を掴んでいた手がずるずると滑り落ちる。手首の骨に引っ掛かり、いよいよ力が抜け落ちた。しかし宙を舞おうとした手はしっかりと掴まれる。

「弱いあいつらが悪いねん!自分らの力量も分からず突っ込みよって!どうせ直ぐ死ぬ運命やったんよ、それが昨日やっただけや!」

禪院に掴まれた手は痛いくらいだった。
悪態を突くその言葉は少し震えていた。それに、死んだと分かっていたのに何であの子達を連れ帰って来てくれたのか。彼だって大怪我を負っていたのに。

「私が、もっと早く着いていれば………」
「ちゃう!今回は間違いなく例外やった!他の奴らもそう言っとった!」

そう、間違いなく例外だった。
でももっと早く対処できたかもしれない。先日、東京のほうで二級呪霊の討伐任務が一級案件にまで跳ね上がったのだと報告を受けていた。土地神クラスにまで成り上がった呪霊ではあったが、早急に駆け付けた特級呪術師に祓除され大事にはいたらなかったらしい。

こちらだってもっと注意していれば、最悪の事態を想定できていれば、違う未来になっていたのかもしれない。
守らなければいけなかったのだ。私はあの子達よりも強くて、年上で、そして先生なのだから。

「禪院、貴方は私より先に死なないでね」

二つ下の弟が死んだ時のことを思い出した。弟は普通の子だったけれど運悪く呪霊に遭遇し殺された。親より先に逝くんじゃない、と父も母も泣いていた。私だってそう思った。

「当たり前やん。俺を誰だと思うとんねん」

嗚咽は必死に耐えたけど涙だけは止められなかった。

もう帰ってくれてよかったのだけど、禪院は私が落ち着くまでそばにいてくれた。
涙を拭ってくれた。
彼なりの優しい言葉をかけてくれた。
手はずっと繋がれたままだった。

私は教師失格だ。
生徒を助けられず、子供みたいに泣き崩れて。
そして、自分の教え子を好きになってしまったのだから。





生徒は一人になってしまった。

二人が亡くなったことは本当に悲しかったけれど、時間が傷を癒していった。
弟然り、大切だった人が死ぬのは今回が初めてではない。決して人の死に慣れてしまったわけではないけれど、立ち直りは早かったように思える。
それはもしかしたら禪院のおかげだったのかもしれない。

禪院は学校に来ると決まって私に会いにきた。報告書を渡しに、勉強で分からないところを聞きに、任務先で買ったお菓子を持ってきたりと理由をつけては訪れて長話をした。
まぁ会いに来ると言ってもそれは私が担任だからだ。彼にとって深い意味はないのだろう。もしかしたら傷心中の私に気を遣っていたのかもしれない。

でも素直に嬉しかった。
私は彼のことが好きだったから尚更そう思った。 

あまりにも優しかったからもしかしたら彼も同じ気持ちかも、と考えたこともあった。しかし、それは私の妄想に過ぎないだろう。言い方は悪いが、彼は女を選べる立場にある。それならば年上で教師である私が選択肢に入るわけがない。

しかし、頭で分かっていても気持ちの整理はそう簡単につくものではない。
だからこの恋心だけはもう少しだけ持っておくことにした。誰にも見つからないように大切にしまって。



「もう板書せんでもよくない?」

ある日の授業中、禪院がそう言った。
確かにもう生徒は彼だけで一人の生徒相手では黒板の必要はないのかもしれない。

「こっち来て直接教えて」

だから家庭教師のような形で授業をするようになった。彼の机に広げられたテキストを指で示しながら解説をする。でも、禪院は頭が良かったから一度教えればすぐに理解してしまった。

その日の範囲が終えれば雑談をするようになった。
物理的にも関係としても、距離は益々近くなった。

私は彼のことが好きだったけれど、傍から見れば絵にかいたような理想の教師と生徒を築けていると思っていた。
でもそういう考えでいたのは私の方だけだったらしい。



午後の教室には小春日和の暖かな日が差し込む。

その時間は数学の授業で禪院には問題を解いてもらっていた。椅子の背もたれに体重を預け解き終わるのを待つ。
でも連日の疲れとちょうどいい気候につい眠ってしまった。頭の片隅ではいけないことだと思いつつも、睡魔には抗えない。

うつらうつらと夢と現実の狭間を意識が行ったり来たりしていると近くで気配がした。問題が解き終わったのだろうか。僅かに動く脳みそがそう判断する。しかし瞼は重くて持ち上がらない。まどろみの奥底で僅かな理性が泳いでいた。

「………っ」

瞼越しに光が遮断されたのが分かった。
睫毛に風があたりこそばゆい。
すん、と息を吸えばいつかのシトラスが鼻につく。
目が開くよりも先に意識が覚醒する。
しかし、それよりも早く唇に何かが触れた。

「えっ、ぁ、ぎゃあ」

体勢を崩し、情けない声と共に椅子から転がり落ちた。そして机の角におでこを思いっきりぶつける。反動で机は五センチほど動いてしまった。

「涎垂らしたまま寝とったで。しっかりしいや」

小さく笑ってそう言われた。
いや、笑えない。

「ごめん……」
「センセーほんまダラシない」

ダラシないのは貴方でしょ。

「ぶつけたん?大丈夫か?」

大丈夫じゃない。
これは非常によろしくない。

「大丈夫」

前髪が払われ、赤く腫れているであろうそこを撫でられた。
私はもう一度、大丈夫と言って立ち上がる。

椅子と机を元に戻し、彼が解いたノートを引き寄せる。全部解き終わっていた。それを赤ペンで採点していると、彼も席に戻り頬杖をついて私の顔を覗き込んだ。

「………怒っとる?」
「なんで?寧ろ私が寝てたから禪院が怒ってるんじゃない?」

馬鹿だと思われてもいい。私は自衛の為に気付かないふりをする。それに、これは彼にとっても必要なことだ。

「はい、全問正解!さすがだね」

小学生のドリルのように大きな花丸をつける。
そこで丁度チャイムが鳴った。授業の終わりを知らせるチャイム。
私は自分が座っていた椅子を片付け荷物をまとめた。

「センセ、」

教室を出て行こうとすれば声を掛けられた。
不自然にならないよう、いつも通りの声色で応える。これでも普通の大学を出て、普通の友達もいたから空気を読むのは得意な方。愛想笑いもおべっかも、自然にできるよう身についている。

「今日は職員室におるん?」
「いや、このあと任務なの」

これは本当の話。生徒二人がいなくなった分の穴は私が埋めなければならない。呪霊は人の死を憐れんで待ってはくれない。

「明日は?」
「職員会議がある。でも明日は禪院が任務でしょう?」
「……せやったわ」
「奈良だっけ?お土産期待してまーす」
「生徒にたかんなや」
「お金は渡すよ。じゃあ今日の授業は終わりだから、お疲れ様」

笑顔で教室を出て、真顔に戻る。
何だか私、女優みたい。彼の前で全力で演技をして、裏にきた途端自分に戻った感じ。

禪院にキスされた。
嬉しい、よりはこの気持ちは絶望に近い。

だって両思いにはなりたくなかったもの。
叶う恋でもないし、実らせたい恋でもない。

私は彼より大人で、恋愛が勢いだけでどうにかならないことを知っている。
彼が禪院家の次期当主候補となれば尚更だ。

ならば私は彼をちゃんと導いてあげたい。
だって私は彼の先生なんだから。





禪院は家の事で忙しいらしく学校にはあまり来なくなった。任務に出てもその報告書は彼の家の者が届けたりとしばらく顔も合わせていない。

まぁ少なからず寂しさはあるが距離が取れてほっとする自分もいる。

師走という名の通り、慌しく十二月を過ごしていると大学で同じゼミだった人から連絡が来た。忘年会且つ同窓会のお誘いである。大学卒業後からこの手の誘いは何度かあったが私は全て断っていた。行く暇があったら寝たかったし。でも今回は気分転換がてらに行くことにした。

クローゼットの奥に追いやられたお気に入りの服を引きずり出し、新色のアイシャドウも買った。そして美容室に行ったときにはオプションのトリートメントまで付けてしまった。私は思っていた以上に同窓会を楽しみにしていたようだ。

「久しぶりー!まさか来てくれるとは思わなかったよ」

記憶の奥底から同級生の顔と名前を引っ張り出して目の前の人物と照らし合わせていく。いい意味で変わっていない子もいれば、既に結婚をして子供までいる人もいた。

店に入りお酒を飲みながら思い出話や仕事の話などに花を咲かす。呪術高専は表向き宗教系の学校ということになっているが、話せば色々と細かい事が聞かれるであろう。だから私は知り合いの個人塾で塾講をやっていると嘘をついた。

「ねぇ俺のこと覚えてる?」

コース料理も終盤で、お座敷個室の席もあってないような状況になる。そしたらいつの間にか隣の席に来ていた男に話しかけられた。驚きつつもじっと彼の顔を見れば名前が思い出された。苗字しか分からなかったが名前を言えば嬉しそうに笑ってくれた。

「覚えててくれたんだ!よかった」
「大学の時目立ってたからね。それより私のことを覚えててくれてた事にびっくりした」
「もちろん覚えてるって!うちのゼミのクールビューティーで有名だったし!」

何だそれ、と思わず飲んでいたお酒を吹き出してしまった。多分それは学業と任務との両立で死んだ顔をしていただけだ。 
私が笑ったことが意外だったらしい。ゼミでも中心人物であった彼は今も変わらずよく喋る。私的には"普通"の人の話を聞くのは楽しかったので彼の話をうんうんと聞いていた。

宴もたけなわ、あっという間に三時間が過ぎ店を出た。この後は二次会と称してカラオケに行くらしい。生憎、そこまで付き合うつもりはない。それにカラオケに行ったところで流行りの曲も知らないし。

「このあとどうする?」
「もう帰ろうと思って」

先程の彼に声を掛けられる。私がそう答えれば耳元に唇が寄せられた。この人にはパーソナルスペースというものがないらしい。さすがに距離を取りたかったが生憎後ろは車道だったので諦めた。

「もしよかったら二人で抜け出さない?この辺りに行きつけのバーがあるんだ」

正直飲み足りなかったしバーなんて行ったこともないから憧れる。でも二人か。それがどういったことを意味するのか分からないほど、私は純真無垢ではない。

「行こ?」
「あ、うん」

でも気付いたら頷いていた。
まぁそうと決まったわけでもないし、せっかくだし行ってみるかと楽観的に考えることにした。

雑居ビルの三階にそのお店はあった。扉を開けて意外と広い空間だったことに驚く。オーセンティックバーというのだろう、薄暗い店内に耳障りではないBGM。なんだか私大人みたい、と馬鹿みたいな感想が浮かんだ。それは私が世間知らずなのか、それとも自身が思っているよりも子供だったのかは難しいところではある。
私が初めてだと言えば、バーテンダーの人がオリジナルのジントニックを作ってくれた。

彼との会話はそこそこ弾む。まぁ私は相槌を打つくらいしかしていないのだが彼が嬉々として色々と話してくれるので個人的には楽しめた。お酒も美味しいし、なんだか年相応に遊べているようで嬉しかった。

お手洗いに立ち席に戻るとすでにお会計がなされていた。時計を確認するともう日付は超えている。思いの外、時間が経っていた。
せめて半分は出させてもらおうとバックから財布を取り出す。すると、その手に彼の右手が重なった。

「二人で休める場所に行きたいんだけど、どうかな?」

やっぱりこうなるのか。だから会計までしてくれたのかと冷静にもそう思えた。

「私、遠距離の彼氏がいるんだけど……」

一応、防御線を張ってみる。
別に一度くらい寝たって構わない。でもこれが付き合いにまで発展したりセフレ関係になるのは嫌だった。公にできない仕事をしていて、現に私は彼に色々と嘘をついている。だから密な関係にまではなりたくない。

「俺も海外留学中の彼女がいる」

うわっ私よりもクズだった。
そんな彼を見ながら一度冷静に考えてみる。

別に欲求不満というわけではない。でももう数年そういうことはしていないわけで、女としてこのまま廃れていくのではないかという不安はあった。私だってそれなりにお洒落を楽しむし、女として口説かれれば嫌な気はしない。

だから、酔ってしまったことを自分への言い訳にし彼の手を握り返した。
彼女さんには悪いけど、誘われたのだから大目に見て欲しい。

ここは繁華街の裏路地のため、目的の場所はきっと近くにあるだろう。年末だからか夜が更けても人が多い。人にぶつかりよろければ腰に手を添え支えられた。その手は離される気配がなかったので男の胸元に擦り寄っておく。入る前の雰囲気作りは大事。

目的の場所まで辿り着く。彼の方が随分慣れた足取りだったので今までもこうやって女を連れくることがあったんだろうなと思った。まぁ下手よりは上手い方がいいので悪態はつかなかった。

「段差気をつけて」

手を引かれ階段を上ろうとしたとき、ヒュンと何かが横切った。そして隣にいたはずの彼が数メートル離れた地面に転がっている。しかし視認するより先に呪力の気配で何が起こったのかを理解した。いや、でもまさか、何でこんなところに……

「あれー?呪霊かと思たらデカい猿やったわ」
「禪院?!」

教え子の姿がそこにはあった。いつもの黒制服ではなく私服姿のため見間違いかと思った。しかし、夜でも目につく金髪と態度の大きい話し方で確信を得た。

「こんなところで何してるの?」
「それはこっちの台詞やねんけど。うわっ酒くさ!酔っ払っとるから男にこないなとこ連れ込まれんねん。早よ行こ」

私の腕を掴み、否応無しに連れていかれる。倒れ込んだ男は意識が飛んでいるものの怪我はしていないようだった。
私は彼に心の中で謝りつつ、引かれるまま教え子の後ろをついて行った。

「未成年がこんなとこ来ちゃ駄目でしょう」
「偶々迷い込んだんやって」
「何それ……って、顔どうしたの?」

大通りまで連れて行かれ、交差点の信号が赤になり立ち止まる。隣に並んだ禪院の顔を見上げれば左の頬が真っ赤に腫れていた。唇の端も切っているようだ。

「殴られた」
「誰に?」
「……………」

言いたくないらしい。でも彼が呪霊やそこら辺のチンピラにやられる訳がない。となると大方想像できるのは禪院家の人間か。

「コンビニ寄っていい?」
「別にええけど」

信号が青になり、渡り切った先にあるコンビニに入り消毒液やガーゼを買った。寮に戻ればもっとちゃんとした薬も揃っているが彼一人ではきっと手当てはしないであろう。そう判断し、自分がやろうと思った。

行き交うタクシーに、酔っ払い達の大声。居酒屋のキャッチを避け地面に寝転がっている人を乗り越えて公園に入った。滑り台とブランコの遊具しかない小さな公園だ。
側にあったベンチに彼を座らせ、タオルを濡らして戻ってくる。

「手当なんかせんでもええのに」
「痕が残ったらどうするの?せっかく整った顔してるんだから」

血を拭って腫れた箇所を冷やす。しかし、殴られてから随分と時間が経っていたらしく皮膚の色はすでに青ずんでいた。
消毒をし、ガーゼを張ってテープで固定する。剥がれないように手当てした頬を優しく撫でていればその手が不意に掴まれた。

「俺、結婚せなあかんのやって」

私の目を見て言ったけれど、それは独り言に近かった。
私は彼に掴まれた手をゆっくりと退けて隣のスペースに腰掛けた。

「誰と?」
「今日初めて会った女と。お見合いみたいんは今までもあったけど正式決定やと。今日の女は使える術式持ちなんやって。確かに呪力も豊富やったわ」

禪院の口から吐き出した白い息を眺めた。それは直ぐに夜に溶け、消えていく。

「いい子だった?」
「ハァ?十五の乳臭いガキやったわ」

私の十個下か、とすぐに脳内計算した。彼からしたらその子は二個下でお似合いなように思える。若い方が可愛げがあり、また子もたくさん産める。そして確かな術式と呪力が備わっていれば相手として相応しい。封建的な考えを持つ禪院家ならばそう考えるだろう。

「それにアレは顔がダメや。ダンプに引かれた蛙みたいな顔してん。エラが張っててなぁ俺より顔のデカい女なんて恥ずかしゅうて後ろにも歩かせられへんわ」
「それを見合いの席で言って殴られたわけだ」
「うっ」

図星だったらしい。もう少し見た目意外で人を見た方がいいと思う。ただでさえ御三家という格式の高いお家柄。その上こんな男の元に嫁ぐ覚悟のある女性は少ないのだから。………私だったら———と考えようとして、やめた。

「勝手に話を進められて苛立つのも分かるけど、女の子にはもう少し優しくしなさい。あっちだって親に組まれた見合いだったろうし」
「あんな不細工に優しくする義理あらへん。それに……俺は、好きな奴にしか優しくしいひん」

痛いくらいの視線が向けられる。
あーあ、さっきコンビニ寄った時にお酒も買ってくればよかった。そしたら酔った勢いに任せて本能のまま動けたかもしれないのに。

「まさか禪院の口からそんなロマンティックな台詞が聞けるとはね」
「なっ…馬鹿にすんなや!ちゅうかロマンティックとか古っ!」
「お黙り!」

ストン、と彼の頭頂に手刀を落とし立ち上がる。すっかり酔いも覚めてしまった。理性があれば私は容易に自分を繕えるらしい。

「ほら、寒いし帰ろう。寮まで送ってあげる」

人がいないことを確認し、白狐と黒狐を召喚する。まぁ人がいたとしても一般人には見えやしない。
白狐を禪院に付かせようとしたら黒狐の方が先に彼に近づいていった。あの子が自主的に行動するなんて珍しい。善狐たちに自由意志は備わっているが、黒狐はその中でも気難しい。もちろん言うことは聞くが私に懐いている様子はない。

「センセ」

自分は白狐に乗る。スカートだったので横座りだ。そして禪院が黒狐に乗れるか見守っていたら目が合ってしまった。逸らすのも変なので見つめ返す。

「なに?」
「今日のセンセ、めっちゃ可愛ええな」

あぁ、もう。本当に………

「それくらい、世の女性に優しくしなさいね」
「やから俺はっ、うぉ!?」

禪院が何か言い出す前に狐に空を駆けさせた。

子供はいいね、何も考えずに突っ走れて。
大人は損得勘定と打算込みでしか物事を考えられないの。少なくとも私はそうだ。

人の気も知らないで。
こんな両思い、互いに不幸になるだけだ。





昨夜未明から降り続いている雨は断続的に降り続き今日一日ぐずついた天気になるでしょう。地域によっては突発的な集中豪雨に見舞われる恐れがあります。お出かけの際には雨具を———そう、画面越しのお天気お姉さんが伝えていた。

そんな日の夜、私は任務に出ていた。
最近では呪術師の任務をこなすことが多くなった。その理由を挙げるとするなら四年生となった禪院がほとんど学校に来なくなったからだ。四年生ともなればそれは当たり前のこと。しかし彼の場合はそのお家柄だけに実家関係で色々と忙しいらしい。

具体的ではないにしろ、何故私がそのことを知っているのかというと禪院が連絡を寄こしてくるからだ。毎日ではないがメールや電話を多くするようになった。

距離を取りたいと思っていたのに、それを嬉しく感じる自分もいた。
二、三行だけのメールでも今では件名に“re:”が何個も連なっている。仕事かと思い取った電話が禪院からで、そんな間違いが度々続いたので彼のだけは違う着信音に設定した。

そういえば一度、充電をしないまま寝てしまい丸一日電源の切れた携帯を使っていたことがあった。そうすれば禪院は安否確認のため真夜中に社員寮にまで訪れた。どれだけ心配性なのか、とも思ったがそれは私への想いの表れなのだろう。だから私は自虐気味に笑って「心配してくれてありがとう」と言うしかなかったのだ。



一日で四つの任務をこなし、完了メールを補助監督へ送る。するとすぐに連絡が来て迎えに行けないので直帰していいとのことだった。私の場合疲れはするが術式で移動できるため無問題である。

まだ時刻は二十時過ぎ、少し行けば繁華街まで出られるし夕飯でも食べて帰ろうか。
車が行き交う大通りまで出たところでぽつりぽつりと雨が降り出す。それがあっという間に大きな雫となり一気に雨足が強くなった。

近くのコンビニに逃げ込んでしょうがないので傘を買う。しかし、みな考えることは同じなのか安いビニール傘は売れ切れで結局千円も出して黒傘を買う羽目になった。

正直帰りたくなったがお腹も空いているし、こちらまで来る機会も少ない。それならば自分へのご褒美としてお高いものでも食べて帰ろうと思った。

そんなちょっとした気紛れで、私は見たくもないものを見てしまったのだ。

路地裏にある立派な門構えの料亭、その目の前には黒塗りの車が一台。
先程まで耳障りだった雨音が聞こえなくなって、その場の空間が切り取られたかのようだった。

禪院がいた。
上質な袴を着ている。
そしてその隣には同じように上質な着物を着た女性がいた。女性といえでもその顔立ちは緩くかなり若いのだろう。やや着物に着られているようにさえ思える。

雨から守るように二人の周りには傘をさす大人がいた。その人間のほとんどが黒スーツを着ている。何だか刑事ドラマに出てくるボディーガードのようだ。
車は禪院家のものだったのか彼の方が先に乗り込んだ。女の子の方は彼女の両親と思われる大人と共に深いお辞儀をしている。

禪院が乗った車がこちらの方に走ってきたので慌てて道の端に除け、上から傘をすっぽりと被った。

雨が降っていてよかった。
黒い傘でよかった。

やっぱり住む世界が違ったんだ。
それをようやく理解できた瞬間であった。
頭では分かっているふりをして、私は何一つ理解できていなかった。

私は大人のふりをした、馬鹿な子供だったのだ。





恋をしようと思った。
異性との付き合い経験はある。でも教師になってからは慌ただしさもありここ四年は彼氏がいなかったのだ。

失恋を癒すには新しい恋である。
年上の男でも捕まえるかと、私はバーに通うようになった。昨年、経緯はどうであれバーに行ったことであの空間が好きになったのだ。耳心地の良い音楽が流れ普通の人達が何気ない話をする場所。初めのうちは一人で行くのにもやや抵抗があったもののマスターに顔を覚えられ常連さんと話すようになり意外と楽しめている。

呪術師でない人達の話を聞くのは楽しい。そして出掛けるためにお洒落することで自分の自尊心が満たされるようにも感じた。

そして努力の甲斐ありと言ったところか、久しぶりに彼氏を作ることができた。三歳年上で府内の私立大で助教を務めているらしい。私が高校で教師をしていることを言うと意気投合した。まぁ呪術関連のことは一切話していないけれど。



「もしもし?」

府内で初雪が観測された日、私は職員室で禪院からの電話を取った。
彼からの連絡は実に数か月ぶりだった。「忙しくなる」と電話で話したっきりメールも何も来なくなっていた。だからこそ私に彼氏を見つける時間が出来たのだが。
久しぶりに聞いた着信音。しかし画面に表示される名前を見ても、もう何を思うことはなかった。

『今どこおるん?』

不躾な質問に、思わず笑う。職員室だと答えれば『分かった』と言ってすぐに切られてしまった。実に彼らしい。

「センセ、久しゅう」
「久しぶり。元気してた?」

電話をくれた一時間後に禪院は現れた。制服姿の彼は確かに私の生徒だが、いつかに見た袴姿が脳裏にチラついた。それと同時に身体つきや顔立ちがまた大人っぽくなったなと思う。

「これお土産」
「あんみつだ!しかも名店の。よく買えたね」
「まぁな」
「ありがとう。禪院も食べるでしょう?」
「おん」

二つのカップを用意し、一つは禪院用に煎茶をもう一つにはコーヒーを注いだ。最早カフェイン中毒なので和菓子であってもコーヒーを選ぶ事を許して欲しい。

「他の奴らはおらんの?」
「あー……教員と補助監督の中でインフル流行ってるんだよね。だからほとんどいないの」

普段なら職員室に常駐している人くらいいるのだが今は私と禪院しかいなかった。
二つのカップを持ち席に戻る。

「実家の方は忙しいの?」
「おん、でもようやく一区切りついたんよ。俺、炳の頭になった」

炳———禪院家最強と呼ばれる呪術師集団のことだ。準一級以上の実力者が揃い、噂ではかなりの手練が集まっていると聞く。
この若さで頭になるなど、相当凄いことだ。だからきっとそのことで忙しかったのだろう。しかし禪院自身、すでに一級呪術師なのだから時間の問題だったのかもしれない。

「凄いじゃん。まぁこれから人の上に立つんだから部下に愛想尽かされないようにね」
「あんなとこ力こそが正義や。誰も俺に逆らえんわ」

着実に禪院は力をつけ前に歩き出している。だから私も前に進む。彼とは違う道を選択して。

「可愛いいお嫁さんも貰えるわけで、本当に次期当主になれるかもね」

彼の将来を想像し、そしてどこか他人事のような感想を述べた。
事実、彼が卒業したら教師と生徒という関係は断たれ私たちは他人になるのだ。もしかしたら他に呼び方があるのかもしれない。でも私としてはそれ以上の名前を付けるつもりはなかった。

「………それどういう意味や?」

カップの底の、粉っぽいコーヒーを飲み切った。禪院もあんみつを食べきっていて机の上には空の容器が二つ並んでいる。私はそれを片付けながら会話を続けた。

「結構前だけど袴姿の禪院が料亭から出てくるの見たんだよね。隣に赤い着物を着た女の子もいてさ、あの子がお嫁さんじゃないの?」

以前教えてくれた結婚相手でないのかもしれない、その後の数あるうちの見合いの一つだったかもしれない。でも女の勘ともいうべきか、きっと二人は一緒にならなければいけない関係なのだと思った。

「あんな不細工との縁談、断ってやったわ」
「またそう言って……見た目も大事だけど中身も知ろうとしてあげないと」
「なら、何で着飾るようになったん?」

キャスター付きの椅子を滑らせ禪院に距離を詰められる。そして遠慮なく伸ばされた手で右耳を触られた。ようやくホールが安定した今ではシンプルなスタッドピアスが付けられている。これは両耳で揃いのものだ。

「また付けたくなったんだよ。そういえば禪院はどこでピアス買ってるの?おすすめのお店あったら教えてよ」
「男でも出来たんか?」

会話を逸らしたいのに、一向に空気を読んでくれる気配はない。禪院の指が私の耳から離れなくて、その部分だけが熱を持ったように熱くなる。

「できたよ」
「は?誰やのそいつ」

きゅっと耳を握られて、痛くはないけどくすぐったい。
そこで私はようやく禪院の手を払いのけて真っ直ぐに彼を見た。静かだけれど、彼は確実に怒っていた。

「禪院の知らない人。年上の、優しい人だよ」
「どうせ寝るだけの男やろ」
「は?」

次に怒気のこもった声を発したのは私だった。そうしたら彼は勝ち誇ったように鼻を鳴らす。

「あの時も連れ込まれそうになったんやなくて行こうとしてたんちゃうの?」

煽り、ではない核心をつく一言。おそらく彼は分かっていたのであろう。その上で私を助けただなんて随分と身勝手だ。

「さぁ?もう忘れちゃった。でも少なくとも今付き合ってる人はそんなんじゃないよ」
「否定しないんやな」
「覚えてないから否定も何もない」

ガンッ——と思いっきり机を叩かれて煎茶が溢れた。幸いにも書類などには掛かっていない。

私は禪院を睨んだ。
いつまでも子供の恋愛事に付き合っていられるほど私は暇じゃない。呪術師やってても結婚というものに憧れるし、教師やってても恋愛したい。

でもその対象は彼ではないのだ。御三家で、その後継ぎで、そして自分の生徒に恋するほど私は夢見ていない。というかもう夢から目覚めたのだ。そして地に足ついて、今では現実を見ているつもり。

「急にどうしたの?」
「いつまで惚けとるん?全部気付いてんのやろ」
「ごめん、言ってることよく分からないや。あんみつご馳走」

布巾を取りに行こうと立ち上がる。誰かさんがお茶を溢したので。そして、暗に早く帰れと彼に言う。

「おい、」

強い力で腕を掴まれる。呪力なしで戦ったら彼の方が確実に強いだろう。それを自覚し、女として少し怖くなった。"生徒"という括りで見ていた子供が"男"なのだと自覚させられたのだ。

「なに?」
「はぐらかすつもりなら全部言ったるよ」

一歩、距離を詰められる。
引こうとするが腕が少しも動かせず、身動きが取れなくなった。

「俺の気持ちも、自分の気持ちも」

シトラスの香りが鼻腔を掠める。それを懐かしいと思ってしまったのは、良いことなのか悪いことなのか。その答えすら私は知りたくもない。

「やめて」
「やめんよ。だって俺の気持ちはずっと変わってへんもん。———俺は、」

私は彼の香りを吸い込んで、自由の利く手で胸ぐらを掴んだ。
自分の体重をかけ彼を引き寄せ、そして唇を重ねる。

「はっ……?」

唇が離れた時の禪院の惚けた顔。
湿った唇は意外と厚くて、柔らかかった。

「これであおいこだから」

勝手にキスをしたこと、本当は怒ってたよ。
だってあれさえなければ私は夢から覚めずにずっと貴方に恋していられたんだから。

「な、んで…こないなこと……」
「もう話は済んだでしょう?帰りなよ」

黒狐を召喚し、禪院を運ばせようとするが今日は機嫌が悪いのか顔を顰められた。使役しているため逆らうことはないがその様子に腹が立ち白狐も素早く召喚し禪院を追い出させた。

誰もいなくなった職員室で、濡れた唇を拭う。
舌先にはほんのりとした甘味が残っていた。それが黒蜜の味かと合点がいって、じゃあきっと禪院はコーヒーの苦味しか残らなかったんだろうなと思った。

馬鹿だね、こんな女に惚れちゃってさ。
二人でいても不幸になるしかないんだよ。





あれから禪院とは一度も顔を合わせていない。
自分勝手なことをした手前、嫌われたとしても文句はない。寧ろその方が都合がよかったのかもしれない。

それならば新しい恋人とは上手くいったのかというとそうでもなかった。週に一度は必ず会っていたというのにいきなり音信不通になったのだ。その状態がしばらく続き、久しぶりに連絡が来たかと思えば「別れてくれ」の一言だけ送られてきた。

そして今までバーにいればそれなりに男の人に声を掛けられてきたのにそれもパッタリとなくなった。自分は意外とモテるのだと思っていたがそれはどうやら一時のモテ期であったらしい。というか寧ろ異性からは遠巻きに見られるようになりバーに通うのもやめてしまった。

そんな寂しく寒い冬を乗り越え、春になった。
学校の桜は卒業式に満開を迎え、はらはらと舞い散るそれが卒業生を見送った。

「てっきり来ないかと思ってた」
「センセのために来てやったんよ。やって俺が唯一の卒業生やんか」

数か月ぶりに顔を合わせた禪院は相変わらずだ。
あの時の出来事が嘘のような、穏やかな再会だった。

「卒業おめでとう」
「おおきに」
「学校生活はどうだった?」
「悪くはなかったと思うで。教え子に手ぇ出すふしだらな女教師にも会えたしな」
「その言い方は…」

ぐうの音も出ず押し黙れば笑われた。
もう笑い話にまで昇華されたということは過去のことに成りえたという証なのだと自己完結させた。

四年前よりはるかに成長した私の教え子。
私は教師としてはまるで駄目な大人だったけれど貴方という存在は私の誇りだ。

これから私の手の届かない世界で彼は生きていく。でもこの四年間の思い出は私の胸に大切にしまっておく。
最後まで自分の気持ちをごまかしてきたけれど、私は確かに彼のことが好きだったのだ。

「元気でね、禪院」
「さよなら、センセ」

私達の関係に終止符を。
私の初めての教え子は、この学び舎を去っていった。





ここで終われば小説としてもドラマとしても、美しい終わり方になっていたのかもしれない。

でも私は今日、禪院の“先生”を卒業したのだ。
もう彼に「センセ」と呼ばれることはない。

それが分かった瞬間、私は駆けだした。
だって、もう我慢しなくていいのだから。

『待って!』

彼の制服の裾を掴む。
そしてキスした時同様、力任せに引っ張って私は彼に抱き着いた。

『ごめん、行かないで。私、今までずっと嘘ついてた。自分にも禪院にも。だって私は先生だし、禪院にはもう相手もいたし…でもやっぱり無理だ、離れたくないし離したくない。あの時の禪院の言葉の続き、私から言ってもいい?私はね、ずっと貴方のことが———』

大人になって初めて泣いたかもしれない。
でもそれほどまでに手放したくなかったのだ。
体裁もプライドも見栄も、全部捨てでも彼の隣にいたかった。

この先、どんな困難が待ち受けていようとも。



「———て、あんまりにもあいつが泣いて縋るもんやから俺は婚約破棄して迎えに行ってやったんよ。せやけど時間が掛かってなぁ。その間にけったいな男に捕まって監禁させられとってな、可哀そうやろ?せやから俺が助け出したってん。ほんなら大泣きして一生離さへんって言うてぎゅーって抱き着いてきてなぁ…俺も抱きしめ返して一生守るって誓うてん」
「おとん、めっちゃかっこええなぁ!」
「待て待て待て待て、何一つ真実が語られていないんだが?」

家事を終え風呂に入り、さて可愛い我が子でも寝かしつけようかと部屋に戻ってきてみれば旦那がある事ないこと息子に吹き込んでいた。

「婚約破棄したのは事実やん」
「その前後が全部嘘なんですけど!?私は泣いて縋ってもないし、自分から抱き着いたこともない。というか監禁させられてたって、監禁したの間違いでは?」
「なぁ“かんきん”ってなに?」
「おい、子供の前で“監禁”とかいう物騒な言葉連呼しいひんでくれる?」
「先に言ったのはそっちでしょう?!」

片や興味津々に、片や不服そうに私のことを見てくる。この親子は顔の造形がそっくりすぎて同時に見られると少しビビる。というかこの二対一の構図、私が悪者みたいになってない?私が一番の被害者なんですけど。

「おかんはおとんとの思い出話あらへんの?」

立ち上がりてとてとと歩いてきた息子は私の手を引っ張った。そうして強制的に座らせると膝の上に跨って私のことを見上げる。自分のペースで物事を進めるところも見事に父親に似てしまったらしい。そんなことを頭の片隅で思いながら私は記憶を遡った。



高専を卒業し、家に戻った禪院は特別一級術師となった。もう高専関係者でもないため会うこともないだろう…と思いきや、毎日のように電話が掛かってくるようになった。
電話の内容は本当にどうでもいいこと。仕事はどうだ、休めているのか、怪我してないか等の日常会話。しかし、それが次第に行きたい場所はないか、見たい映画はないか、食事に行かないか、会いたい、顔が見たい——と重くなっていった。

流石に距離を置いた方がいいと判断し電話に出ないでいれば高専にまで乗り込んでくる始末。授業中に窓ガラスを突き破って現れたときは柄にもなく悲鳴を上げてしまった。

驚くことに禪院は四年生の時点で色々と手を回していたらしい。卒業式を迎える頃には婚約者もいなかったのだとか。そうして気付けば彼は家の人間に話を付け、私の両親にも根回しをし、そして私が考えうる断わり文句をすでに潰していた。お付き合いという期間を省き、早々に私と結婚する気でいたというのはつい最近知ったことだ。

だが当時の私は婚約指輪を渡されても尚、彼と共に生きる決心が付かなかった。何年経とうが教え子であったことに変わりはない。年も離れているし、向こうは御三家の次期当主候補。私よりも若くて可愛らしくて家柄も確かな女の子を選べる立場の人。そんな人が私を好きになるなど、一時のまやかしだ。長年の片思いを擦らせて私に言い寄ってくるだけ。そういう人はきっと結婚がゴールになっている。自分の手中に収まったと分かれば満足して私へ興味を示さなくなるだろう。

でも好意を向けられれば気を良くしてしまうというのが私という人間でもある。真正面から彼の気持ちを無下にすることが出来なかったのだ。そして、そのままずるずると関係は出来上がっていった。でもやはり私への興味がなくなるのが怖い。だからどれだけ愛を囁かれても、何度肌を重ねても、向こうへ気持ちが揺らがないようギリギリのところで踏ん張った。

そして妊娠していると分かった時、私は彼から本格的に逃げることを決意した。産めば一生後戻りはできなくなる。でもこの子は産んで育てたいと思った。生まれてくる子供に罪はないのだから。

誰にも行く先を伝えずに、日本一周するくらいの勢いで逃げ回った。
西へ東へ、北へ南へ……そして十月十日が経つ頃、予定日通りに元気な男の子を生むことが出来た。私もこの子も、これから先の人生はきっと茨の道だ。それでもこの子を大切に育てていきたい、たくさん愛してあげたい。そうして出産の疲れと無事に生まれたことへの安心感からか、深い眠りについた。

しかし、丸一日ぶりに目を覚ますと私よりも先に赤子を抱いている男の姿があった。

「生まれたてってほんま猿みたいや。でも俺と自分の子や思うと愛らしゅう見えてくるなぁ次は自分似の可愛ええ女の子産んだってな」

驚きと恐怖で気を失い、次に目が覚めたら禪院家だった。もう本当に笑えなかった。
これが先ほど会話に出た監禁にあたる部分である。

「口で言っても態度で示しても分からへんならこうするしかないやろ。俺があんなに優しくして下手に出たったんに、それでも分からへんとか自分ほんま阿保やな。もう一生ここから出さへんから」
「禪院、落ち着いて話し合おうよ。私は教え子の貴方をそんな風に育てた覚えは………」
「この家に何人“禪院”がおると思うとるん?名前で呼ばん限り俺は絶対に返事せえへんからな。あといつまでセンセ面するつもりなん?俺は自分のこと、女としてしか見たことないわ」

部屋から出られるのはトイレと風呂の時だけ。しかもその時は最低でも三人の付き人が着き逃げないように監視してくる。術式も両手首に嵌められた枷のせいで使えない。私が会話できるのも彼だけでもちろん外への連絡手段もない。そして一番辛かったのは子供に会えないことだった。息子に会えるのは授乳の時だけで、その時期も終えればついには取り上げられてしまった。

だから私は縛り付きで結婚をすることにした。
一、子供は乳母ではなく私が育てること。
二、子供が呪術師になるかどうかは本人の意思に任せること。
三、女だろうが術式なしだろうが愛してあげること。
四、朝食は家族で食べること。
五、何かあったら私よりも子供を優先すること。

てっきり三の条件でごねられるかと思いきや、五の条件を飲むことに滅茶苦茶渋られた。結局向こうが折れなかったので子供たちは私が守ってあげることにして、四までの縛りを結ばせた。

そして向こうの縛りは一つだけだった。

一、浮気したら殺す。

浮気を心配するのは私の方なのだけど、と言いたかったのだが初めに提示された条件が八十以上あったのでそれどころではなくなった。自分以外の男と喋るな、見るな、触るな、息子であっても接触は一日三分までとよく分からないことを言い出したのでここまで減らすのに三日は費やした。

縛りを結び、式を挙げ、婚姻届を出し今に至る。
縛りを結んだあとの「もう一生離さへんからな」という地を這うほどの低音ボイスは今も恐怖で耳にこびりついている。



「………もう少し大きくなったら教えてあげるわ」

回想の大冒険を終えて私は息子の頭を撫でた。貴方はこんな大人になっちゃだめよ。ちゃんと真っすぐで優しい人間に育ってね。

「えーおかんはけちんぼや」
「恥ずかしがっとるだけなんよ。こいつは俺のことずぅっと一途に愛しとんねんから」

息子同様、私の隣にすり寄ってきた旦那に腹パンを喰らわせてやりたかったが息子の前なので思い留まる。教育上、よくない。

「ほらもう寝ましょう。明日は直毘人さんに稽古をつけてもらうんでしょう?」
「えー!じいじ怖いから嫌や!」
「じゃあ私ね」
「おかんはもっと怖いから嫌や!」
「ほな俺な」
「おとんは弱いから嫌や!」
「おい、表出ろやクソガキ」
「おとんなんか影に閉じ込めたるもん!」

息子が玉犬を二体出したせいで部屋が大変なことになる。
我が息子は、幸か不幸か禪院家相伝の術式である十種影法術をもって生まれた。これにより直哉は正式に禪院家の当主になることが決定している。直哉は兎も角、息子には絶対に逃げることのできない運命を背負わせてしまった。でも私はこの子の母親として、何があってもこの子の味方でいたいと思う。彼がどんな選択をしようとも。

「誰が弱いかもう一遍言ってみ!?」
「だっておとん、おかんの今日の下着の色教えると手ぇ抜くやろ!」
「なっ!?そ、れは…」
「は?白狐、黒狐ふたりを捕まえて!」

素早くお狐様を召喚し二人をとっ捕まえた。因みに玉犬二体はまだまだ呪力が足りず子犬ほどの大きさしかないのでそこまでの脅威はない。現に息子を捕まえれば消えてしまった。

「ほら、もうこんな時間だわ早く寝ましょう」

首根っこを咥え戻ってきた白狐から息子を受け取る。抱き上げてやるがまた大きくなったのか見た目以上に重い。だが首に手を回ししがみ付かれてはもう下ろすこともできなかった。

「おかんはおとんよりも俺のことが好きなんや!」
「アァ!?んなわけあらへんわ!!!」
「子供相手に一々怒らない!」
「怒られてやんの!」
「こら!煽らない!」

私は一人しか産んでいないのだが、既に息子が二人いるような感覚である。
でっかい息子はその場に残し、ちっさい息子を抱きかかえ逃げるように部屋を後にした。



すっかり目が冴え興奮気味だった息子を宥め、ようやく寝かし付けることに成功した。
よかったよかったと思いながら部屋に戻れば物凄く不機嫌な旦那に出迎えられた。今度はこっちか、と溜息を吐きそうになった私は何も悪くない。

「時間掛かりすぎやない?俺が久しぶりにこっちに帰って来たゆうんにあいつにばっか構りよって」

確かに時間は掛かったが相手は自分の息子だ。それに子供なんだから仕方がない。というか何でそっちがキレてるんだ。さっきの下着のこと詳しく聞きたいんですけど。

「貴方が興奮させるからでしょう?それより息子となんて話ししてるの。あれ、外で言われたらたまったもんじゃないわ」
「お前が俺を構ってくれへんのが悪い」

子供かよ、と思ったが事実精神年齢は息子とほぼ同じである。
機嫌を損ねて部屋の奥へと行ってしまったので戸を閉め慌てて追いかける。明日は私も同伴で彼の仕事に着いて行くことになっている。今日中に機嫌を直さなければ明日はもっと面倒なことになるのだ。

「疲れてると思ったから休んでほしかったの」
「疲れてへんし。お前はどうせ俺のこと面倒な男やと思っとるんやろ?」

自覚はあるのかと感心しつつ、このままでは埒が空きそうにない。絶賛反抗期の彼はこちらを振り返りもしなかった。 

そしたらやることは一つだ。
私は広い部屋で少しの助走をつけ、その背に抱き着いた。言葉より行動の方がこの人には効果的なのだと知っているので。

「そっちが面倒な男なら私も面倒な女になろうかなぁ」
「は、えっ、何やねん、急に」

彼のいつもの余裕が剥がれていく。これが可愛いとも思うし私にしか知らない彼だと思うとちょっと嬉しい。まぁ可愛いと言うと怒るので本人には言わないけど。

くるっと前に回りこんで、腕を引っ張り屈ませる。そして彼の首に腕を回して顔を引き寄せた。そういえば似たようなことを職員室でしたこともあったっけ。今思えば随分と大胆なことをしたものである。
懐かしい思い出と共に唇を離す。そしてそのままの体勢で彼を見上げた。

「次は直哉からして」
「〜〜〜ッ!?あーもー!それはあかんやろ!!」

押し倒され——というよりは布団の上に投げ飛ばされた。咄嗟に受け身を取ったが、直ぐに覆い被されたのであまり意味がなかった。

目が合うよりも先に唇が重なって、キスをした。下唇を舐められて、上唇を吸われる。果実を味わうようなそれが繰り返され、舌が奥へと入れられた。私も応えるように舌を絡ませる。キスの最中の呼吸のタイミングだって分かってる。だからずっとずっとしてられた。

でもさすがに長くて、唇が痺れてくる。
解放してほしくて胸を叩けば最後のリップ音と共に離れていった。

「なぁ俺のこと好き?」
「好きだよ」
「愛しとる?」
「愛してる。そうじゃなきゃ自分からキスしないよ」

直哉はよく"答え合わせ"をしたがる。
私は愛情表現が下手なタイプなので、この手の質問が始まればとことん付き合うようにしていた。

「俺意外の男、好きにならんよな?」
「私は直哉のことが好きなんだから他の人のことは好きにならないよ」
「一生側に居ってくれる?」
「もちろん。ずっと一緒だよ。だって私は直哉のことが好きなんだから」

手を伸ばして頬を撫でる。そうするとふにゃりと笑った。いつもの吊り目が柔らかくなる。この顔を知っているのはきっと私だけだ。

もう一度、キスが落とされる。グッと体重がかけられて、私も首に腕を回して応えていれば脚を触られた。そのまま寝間着の裾が払われ、内側を触られた事で私は慌てて直哉を押し返した。

「ちょっと!?」
「完全にする流れやったやろ」
「いや、そこまでは……だって隣の部屋で寝てるし……」
「ここまで煽っといてそれはないやろ」

生脚に硬く熱いものが触れる。びっくりして逃げようとすれば手首を掴まれシーツに縫い付けられた。

「明日、出掛けた帰りにその……ホテルに寄ればいいかと……」
「今日はここで明日はホテルと家でやんねん」
「なんか増えてない?!」
「そろそろ二人目欲しいやろ?頑張ろな」

彼がこうなってしまえば、もう私が何を言っても無駄である。
でもいいか。
だって私が一番言いたいことは、もういつでも言っていいのだから。

「直哉、だいすき」

ちょっと子供っぽかったかも。
でも彼もまた子供のように笑ったので、私は彼の全てを受け入れた。