神様なんかじゃないけれど

好きなおにぎりの具はツナマヨ。
でも好きなおにぎりはツナマヨがないあの店のもの。


アーケードを潜り、喫茶店、ブティック、お茶屋に煎餅屋。そこから一つ飛んだ曲がり角にお気に入りの店がある。

ザ下町という名の商店街にある昔ながらの惣菜屋。名物は八十円コロッケで、そのほかにもアジフライやちくわの磯辺揚げ、何故か中華の油淋鶏や揚げ餃子もある変わった店。どん、と大皿に盛られ野ざらしにされた料理からは食欲をそそる匂いがする。しかし、様々な惣菜が並ぶ中、俺の目当てはショーケースの端に積まれたおにぎりだ。

御年八十歳近い老夫婦が営み、昼の十一時から夜二十時までやっている。と言っても売り切れたら店仕舞いをするので大抵は十九時前後にシャッターが降りてしまう。

「いらっしゃい。今日は何にしますか?」
「高菜、明太子」
「高菜と明太子ね。いつもありがとうねぇ」

ある任務の帰りに見つけたその店に、近頃では通い詰めるようになっていた。
のんびりと話しながらもその店の奥さんは手際良くおにぎりを竹皮に包み紐で縛ってビニール袋に入れた。
この店のいいところはおにぎりをラップやプラスチック容器で包まないところ。おかげで高専まで帰る長い道のりでもべちゃっとした食感にならない。コンビニのものも美味しいが、添加物が多く含まれていると知ってからは食べる頻度を抑えていた。

「はい、これはオマケね」

会計を済ませ袋を受け取ろうとした時、一緒にコロッケが手渡された。この店の名物だけれど一度も買ったことはない熱々のコロッケ。それは見かけよりもずっしりとしていて、具材がたくさん詰まっているのが分かった。

「……!」
「いいのよぉ若いんだからたくさん食べないと」

たかが八十円、されど八十円。
貰うわけにはいかないと再び財布を取り出そうとしたが有無を言わせぬように笑顔で断られてしまった。このまま突き返すわけにもいかないのでお礼の意を込めて深く頭を下げる。今度はコロッケも買おうと心に決めて、店を後にした。

「またあの子来たのか?ほら、無口の……」
「えぇ…学生さんがこんな時間にいるなんてね。学校で虐められてるのかしら?」

先程の奥さんと店主である旦那さんの話し声が聞こえた。

別に、今さら何と言われようとも気にしない。
無口故に、他人から勘違いをされることなどよくあること。なんせ、言葉で人を呪える“呪言師”なのだから。

“呪言”は音に呪力を乗せる術式。俺が「ぶっとべ」と言えばそいつの体は吹っ飛ぶし、「眠れ」といえば強制睡眠させることもできる。でもその分反動もあるわけだから「死ね」なんてことは対呪霊であっても簡単に言えやしない。

兎も角、何を話そうとも常に言葉に呪いが乗るわけだから俺は人との会話を控えている。でもせめて意思疎通は出来るよう、呪いのこもらない“おにぎりの具”という絶妙な単語で会話をする。といってもこれが理解できるのは高専に通う仲間たちだけだから、話しをする人間も限られる。
 
「可愛そうな子だな」

他人からの体裁も評価もどうでもいい。
俺が信じている人たちにさえ理解してもらえればそれでいい。

それが俺、“狗巻棘”の人生観だ。





今日も今日とて単独任務帰り。
それにしたって呪術高専の場所は人里から離れすぎている。ここ本当に東京か?ってくらい山奥にあるし周りに学生が遊べるような場所もない。まぁ対呪霊の実践練習もあるのだから人がいない場所に建てるといえば当然のことなのだが、いくらなんでも如何なものか。新入生の釘崎野薔薇が入学当初「田舎すぎィ!!」とぶちぎれていたのも頷ける。

とまぁ、こんな具合なので任務帰りというのはイマドキの学生らしく寄り道ができるちょっとした特別な時間でもあるのだ。
今の時代、服も本も音楽もネットを介して簡単に手に入りはするが偶には当てもなくぶらつきたい。偶然にも何かいいものと巡り合えたりするかもだし。それに呪術師なんてただでさえ浮世離れした節もあるのに、あんな山奥にいたら益々世間から置いてきぼりをくらいそうだ。

任務が早く終わったこともあり、商店街のCDショップや本屋を覗いて回る。渋谷や新宿まで行けば大型の商業施設もあるので目的が一度に果たせそうではあるが、人の多い場所は苦手だ。人が多い場所ほど呪霊が発生しやすいし、何より普通に人混みが苦手。

特に目ぼしいものはなかったけれど、最近気になっているバンドのCDが発売されていたのでジャケットで買った。いつも音楽類はネットからダウンロードしているけれど、ジャケットのデザインに一目ぼれして思わず買ってしまった。こういうのがあるから外へ出るのも悪くない。

きゅるる、と小さな悲鳴がお腹から聞こえた。
時刻を確認すると十五時二十三分。昼過ぎに任務を終え、食事と言えばカロリー摂取の為だけのゼリーしか食べていなかったことを思い出す。

お腹がすいた。あの店のおにぎりが食べたい。
最近はこの辺りでの任務がなかったので一ヵ月ほど訪れていなかった。そんなこともあり、あの味がひどく恋しくなっていた。

数分ほど歩くと例のお店が見えてくる。今は閑散どきなのかいつもできている行列もなく、惣菜も申し訳程度に小さな皿にのせられ奥へと片されていた。おにぎりは残っているのだろうかとショーケースを覗き込む。

「いらっしゃいませ!」

いつもよりも高く、張りのある声色に顔を上げると見たことがない女の子が店頭に立っていた。年は自分と同じくらいだろうか。エプロンの下に来ているワイシャツは学校指定のものらしかった。

「今の時間、あんまりないんです。すみません」

目があえば少し困ったように眉毛を八の字にさせた。そこでようやく自分に話しかけているのだと理解して首を横に振った。

「……梅、鮭」
「おにぎりですね、かしこまりました」

いつものように淡々と注文する。財布を出そうとしたところで、先日のコロッケのことを思い出した。特におばあさんと約束をしたわけではないけれど、次こそは自分で買おうと決めたのだ。事実、揚げたてのコロッケは美味しかったし。

「お待たせしました!…どうかしましたか?」

コロッケはないのかと、背伸びをして店奥を覗いていたのを不審に思ったらしい。竹皮に包まれたおにぎりを持った彼女は不思議そうに首を傾げた。

「コロッケ」

おにぎりの具ではないけれど「コロッケ」という単語に呪いは乗らないだろうと判断し声を発した。彼女は「あぁ!」と納得した様に声を上げ、店の奥から皿を持ってきた。保温管理はされていたのかほのかに白い湯気が見えた。

「残っているお惣菜はこれだけでコロッケは売り切れですね。次の出来立ては十七時になるんですけど……」

当然そんな時間まで待てるわけもない。次いつ来られるかは分からないが買うのは次回にしよう。でもお腹はかなり空いている。この惣菜の香りを嗅いだらさらに食欲中枢が刺激された気がした。おにぎりをもう一つか、それとも別の惣菜を買っていこうか…

「あのっ名物のコロッケはないですけどメンチコロッケも美味しいですよ!男の人に特に人気で!あ、でも百五十円するんですよね…」

俺の表情で何かを読み取った彼女は皿を良く見えるように傾けて一生懸命説明してくれた。百五十円が高いのか?という疑問は残ったがせっかくおすすめされたので買うことにした。こくりと頷けば彼女はメンチコロッケを指さした。

「お買い上げで大丈夫ですか?」
「しゃけ」
「え?」

しまった。
いつもの癖で肯定の意味である「しゃけ」と口走ってしまった。これでは彼女も訳が分からないだろう。事実、鮭のおにぎりはもう購入した。

「おかか!」
「お、おかかのおにぎりはもう売り切れで……」

焦るあまりまた同じ過ちを繰り返す。俺の「おかか」が否定語であることを彼女は知らない。スペースキャット状態に陥りそうな彼女に説明するため、スマホのメモ帳を立ち上げ素早くフリックする。
その画面を彼女に見せればようやく合点がいったのか安心した様に頷いた。

「メンチコロッケお一つですね。すぐに包みます」

会計を済ませ、おにぎり二個とメンチコロッケを受け取る。
呪霊を戦うときは常に気を張り緊張状態ではいるが、日常での緊張は久しぶりに味わった。この子も俺のことをきっと変な奴だとか、会話もできない陰キャだとでも思うのだろう。

「ありがとうございました。今度はコロッケとおかかのおにぎりを用意しておきますね!」

一刻も早く去ろうと背を向けると、彼女は俺の背中に向かって声を張り上げたのだ。
驚いて振り返ると、彼女は「また来てくださいね」と笑顔で手を振った。

社交辞令かもしれないし、ただの営業トークかもしれない。
他人からの評価なんてどうでもいい。

だけど変な奴だと思われなくてよかったと、安堵した自分がいた。





“呪言”は対呪霊に特化しており、特に複数の呪霊と戦うときは戦力として求められる。メガホンを使えば一度に祓えるのだから都合がいいのだろう。
でも、こちらとて限度というものがある。強い言葉を使えばそれなりの反動はくるし、自分に飛ばした呪いが返ってくることだってある。そして言霊を使いすぎれば喉は潰れる。

まさに今日の任務がそうだった。
準一級呪術師とはいえ、こうも都合よく駆り出されてはたまったもんじゃない。しかし、年中人手不足なのだからしょうがない。

帰り道、薬局に寄り喉スプレーを購入しすぐさま喉へと噴射する。よくなったとは言えないが、その場しのぎにはなるだろう。
そういえば水ももうなくなっていた。コンビニよりも自販機を先に見つけられたので小銭を入れて購入した。

するとふわりと醤油と砂糖の甘い香りが鼻腔をくすぐった。この香りはどこからだと辺りを見回すとどうやら近くの民家からのものらしい。「お夕飯できたわよー」という母親らしき人の声が聞こえた。それに続き小さな足音が二人分、その後民家からは楽しそうな笑い声が聞こえた。

あれが所謂“普通の家庭”というやつか。
親がご飯を作り、時間になったら家族で食卓を囲みその日あった出来事を話す。毎日ではないにしろ、誰もが一度はその“普通”を味わったことがあるのだろう。
しかし、残念ながら俺にはない。

呪術師というお家柄はだいたい頭が固く、しきたりにうるさい。それは狗巻家も例外ではなく、血のつながりこそあれ家族の絆のようなものはなかった。自分はまだ術式を受け継いで生まれたからいいが、もし何の力も持たなければ早々に狗巻家から縁を切られていたに違いない。

だから俺は家族愛というものを知らないし、もっと身近に言うなら家庭の味というものもよくわからない。もちろん食事は与えられてはいたが、家政婦が拵えたどこか味気ないものだった。

きゅるる、とお腹が鳴った。
俺の胃は最近音を立てるのが好きらしい。
高専まで帰れば寮の学食がまだ開いてはいるが、なんとなくあの惣菜屋のものが食べたくなった。縁もゆかりもないけれど、あそこの味はどこか懐かしく感じる。
買ったばかりの水をひと口のみ、俺は商店街の方へと足を向けた。



時間帯的にも商店街は帰宅と買い物に来た人とで混みあっていた。
近年ではスーパーや大型商業施設の進出により“シャッター街”なんて言葉もよく聞くがここでは無縁なことのようだ。

慣れた足取りで惣菜屋までたどり着くとやはり行列ができていた。昼間よりも夕方の方が混むらしい。背伸びをしてショーケースを確認するとおにぎりは種類もまだ豊富で綺麗に並べられていた。

「お待たせしました!」
「どうもありがとう。おばあちゃんの具合はどう?」

雑踏の中でも彼女の声はよく通る。
あの時の女の子が今日も店頭に立っていた。

「まだ入院中なんです。本人は元気なんですけど、元々高血圧だったのもあって体の方はよくなくて」
「そうなのね……貴方もあんまり無理しないでね。おばあちゃん、お大事に」
「ありがとうございます」

彼女は努めて明るく笑う。
バイトとは違うのだろうと思っていたが、お孫さんだったのか。親孝行なんて言葉も知らない俺は、祖母のために店を手伝う彼女を見て純粋に良い子だなと思った。他人のために何かをできる人はすごいと思う。身内という前提を差し引いたとしても、やらされている俺と比べたら彼女は純粋で綺麗だ。

「いらっしゃいませ。あっこんにちは」

覚えられていたのかと気づき、小さくお辞儀をする。
にこにこと愛想よくしている彼女に「おかかのおにぎりですか?」と先に言われてしまったので頷いた。

「お゛がが、め゛んだいご、ゴロッゲ」
「だ、大丈夫ですか?」

任務後は喉が痛いことがデフォルトなので、声が出ないことを忘れていた。大丈夫という意味を込めて彼女の前に掌をかざす。喉の不快感を拭い去るため、もう片方の手で服の布越しに口元を覆い何度かせき込んだ。

彼女は奥へと引っ込み、すぐに物を包んで戻ってきた。自分の後ろにもまだ人は並んでいるし早く会計を済ませようと財布を出す。ビニール袋を受け取り、お釣りを受け取るために手を出すとそこに小銭以外のものが一緒に乗せられた。

「この飴、すごく喉に効くんです。お大事にしてください」

ありがとう、という言葉は出なかった。
それは決して喉が潰れているからというわけではなく呪言師だからだ。

後ろの人に押され、列から外れる。すでに彼女は次の注文を取っており俺はその場を去るしかなくなった。

出来立てのコロッケよりも先に、飴玉を口へと放り込んだ。
いつも自分が使う喉スプレーとは違う、薬品っぽくない甘い味。蜂蜜の甘みの中にリンゴの酸味があってくどくはなかった。唾液と混ざったそれがじんわりと喉へと伝っていく。


言葉にするのもおかしいが、俺の“懐かしいもの”の中にその飴もこれから含まれるのだと思った。





その日は朝から雨が降っていた。

昨日からどんよりとした雲が空を覆っていて、今朝になってようやく降ったなという雨が地面にいくつもの水溜りを作っていた。風はないから雨粒は垂直に地面に落ちて水面に波紋を作る。しとしと、というよりは少し強めの雨だった。

こんな日は人の心も暗くなるのか、あちらこちらに負の感情が渦巻いていてこちらも気が滅入ってしまう。地下鉄に乗ったら案の定、人酔いをして本来よりも一つ手前の駅で降りてしまった。

学園長のお使いということで、とある呪具を届けに出ていた。無事にそれを受け渡した帰り道、時間をスマホで確認すると大雨警報が発令されたと通知が着ていた。
階段を登り外へと出ると今朝よりも雨が強くなっていた。歩くのもしんどいが、地下鉄にすし詰めにされるのもしんどい。どうやって帰ろうか。

ズベシャャアァ———
そう考えていたらまるで漫画の効果音のような音が聞こえて思わず顔を上げた。
駅前のそこそこの人通りがある場所で、一人の女の子が盛大に転んでいた。
無情にもすれ違う人は彼女を笑い、同情こそすれ手を差し伸べる者はいなかった。

俺は雨降る空に向かい傘を開き、その子の元へと急いだ。なんせ彼女は俺に飴をくれたその人だったのだから。

「っすみません、ありがとうございま…あっ」

彼女が濡れないように傘をかざし、声を掛けることはできなかったので顔を上げるまで待っていた。
そうしてようやく目があった彼女の瞳は雨と涙で濡れていた。膝元からは鮮やかな血が流れている。
しかし、それよりも驚いたのは彼女の足にツタのようなものが絡まっていたことだ。嫌な気配がしたのですぐさまそのツタを掴む。呪言を使うまでもなくそれはあっけなく黒い灰と化した。

「この前のお客さん!すみません、ありがとうございます」

慌てて立ち上がる彼女に合わせ傘を移動させる。それと同時にそばに転がっていた彼女の傘を拾い上げた。歩けはするようだがその膝元はやはり痛そうだった。

「雨のせいですかね、滑って転んじゃったみたいで恥ずかしいです」

お礼を言って傘を受け取った彼女はバツが悪そうに笑っていた。
制服もずぶ濡れで怪我もしている。それに先ほどのツタのこともあるし、この子を一人にしてはおけなかった。
ポケットからスマホを取り出して「〈家まで送ります〉」と打ち込んだ。雨のせいで画面が濡れて操作しづらかった。

「そんな、悪いんでいいですよ」
「おかか!」

あ、またいつもの癖で喋ってしまった。
今回はどう頑張ったって誤魔化しがきかない。スマホを操作しようにも雨と傘のせいで思うように早く打ち込めない。

「お腹空いてるんですか?」

危うく「おかか!」と再び叫びそうになったが、さすがに同じ失敗は踏まずにぶんぶんと首を横に振る。
赤の他人のことに首を突っ込むべきではなかったのかもしれない。そんな後悔が頭を過ったが、それはすぐに彼女の笑い声で払拭された。

「ではお礼におにぎりをご馳走するのでお願いしてもいいですか?」

今度は縦に何度も頷いた。
歩くのが辛そうだったので俺が遠慮がちに手を差し出せば、その上に彼女の一回り小さな手が重ねられた。初めて触れたときは雨でひどく冷たかったのに、ぎゅっと握ればだんだんと暖かくなった。それがどちらの体温のおかげだったのかは分からない。

酔いそうなほどの人ごみの中を、彼女の手を引いてゆっくりと歩いた。



辿り着いた場所は彼女の家ではなく、すっかり馴染みとなった惣菜店の方であった。珍しく今日はシャッターが下りていて“臨時休業”という張り紙が貼られていた。
裏手から鍵を開け「少し待ってて」という言葉と共に玄関へと上がらせてもらった。

木造建築特有の木と土壁の匂い。そして湿気に混じった畳の匂い。靴箱の上に並べられた各地方の統一感のない置物には薄っすらと埃が被っていた。

「これタオル!使って」

自分の方がずぶ濡れだというのに彼女は先に俺にタオルを渡した。彼女が歩いてきた道筋には水滴がいくつも落ちている。
とてもじゃないが見てはいられず、受け取ったばかりのタオルを広げて彼女の頭にかけてやった。身振り手振りでその意図を伝える。彼女にも俺の気持ちが伝わったようで「ありがとう」と小さく言った。
もう一つのタオルをもらい、自分も濡れたところを拭いた。

彼女は着替えと手当てをしてくると言って奥の部屋へと引っ込んだ。俺は居間へと案内されそこで彼女が戻ってくるのを待つことにした。

他人の、しかも一応は男なわけで、さすがに彼女の警戒心のなさに心配になった。しかし、だからこそ変なものに憑かれたのだろう。
先ほど祓ったのは呪霊の一部に過ぎない。人間でいえば抜け落ちた一本の髪の毛程度の存在だ。しかし、それがきっと彼女を転ばせたのだ。そう考えるとアレの本体はかなり位の高い呪霊だ。
残穢で追うこともできなくはないが、この天気に加え彼女がいたのは駅前の人混みの中だ。足取りを掴むには骨が折れるだろう。

「待たせてごめんね、改めて送ってくれてありがとう」

しばらくすると彼女はシャツとズボンという簡単な服に着替え、盆を持って戻ってきた。その上には湯気を立てた湯飲みとおにぎりが二つ乗せられていた。
「どうぞどうぞ」と勧められるがあれは言葉の綾であってそんな気はなかったのだ。しかしわざわざ作ってもらったので断るわけにもいかず、有難く頂くことにした。

「私が作ったから塩気が多くても許してね」

口元のファスナーをわずかに開け、蛇の目が見えないように気を付けておにぎりを頬張った。
そうはいったが、おにぎりは十分に美味しかった。もちろん言葉では伝えられないので、ぐっと親指を立てれば「よかった」と彼女は笑った。

それにしてもこの家の老夫婦はいないのかと、彼女が出てきた襖の方へと目をやった。しかし、人のいる気配はない。
俺の視線で言わんとしていることを察したのか彼女が口を開いた。

以前耳にしたように、惣菜屋の老夫婦は彼女の祖父母で今は入院中の祖母に代わって彼女と彼女の母親が住み込みで手伝っているらしい。学校が終わってからが彼女の手伝いの時間だ。今日は入院中の祖母の見舞いに母親と祖父が出ているから彼女がここの留守を任されたらしい。

「おばあちゃん、最近調子が良くないみたいなんだ」

持病もあったし、もう年だから…と付け加えたが彼女はどこか納得していないようだった。俺としては病気でも老衰でも、普通、、に死ねるだけで納得はできる。それは人として十分に全うな死だ。
でもそう思わないところが呪術師と非呪術師の違いでもあろう。

きっと俺と彼女は一生交わらない人生を送る。
今の関わりは偶々二人の道が交錯した点であってここからまた離れていくのだろう。

「なんか暗い話しちゃってごめんね」

俺は首を横に振る。でも、さすがにこのまま黙って聞いているのも悪いのでスマホに文章を打ち込んだ。

「〈後悔のないようにね〉」

彼女は目を見開いた。

早く良くなるといいね、きっと大丈夫、また戻ってくるよ———
優しい言葉はいくらでもあるけれど、全部綺麗ごとであるのを俺は知っている。
人間いつかは死ぬし、それが予期せぬ出来事で唐突に人生を強制終了させられる人もいる。だからこそ、ある程度の未来が分かっていればそれに備えるに越したことはない。

冷酷なことを言った自覚はある。でも本当に大切な人の死だからこそ、彼女には向き合ってほしいと思った。
彼女は純粋で綺麗だ。だからこそ人の死を乗り越えて強くなってほしかった。その先に待つ幸せを掴む権利を彼女は持っているのだから。

「ありがとう。そういえば貴方の名前は?」

俺は少し迷ってスマホに文字を打ち込んだ。
彼女は俺のことを「狗巻君」と呼んでくれたが俺は首を振って「〈棘って呼んで〉」とお願いした。
呪言師の家系である狗巻家。彼女には呪術師ではなく一人の人間として関わりたかったから名前で呼んでほしかった。

「じゃあ、棘君ね」

高専と狗巻家の人間以外からそう呼ばれるのは初めてのことで少しこそばゆかった。
でも、仲間とは少し違う“友達”ができたようで嬉しかった。





呪霊は恨みや後悔、恥辱など、人間の身体から流れた負の感情が具現したものだ。故に学校や病院など、負の感情の受け皿となりそれが積み重なりやすい場所に発生しやすい。
その中でも質が悪いとされている場所が神社だ。

神社は本来、人の願いを引き受けそれを神へとつなぐ場所。その願いの中には人の欲望も混ざっている。また、鳥居はあの世とこの世の境界線でもあり具現化したばかりの弱い呪霊の通り道にもなりやすい。

しかしその場所が一重に呪霊の巣窟にならないのは神主のおかげである。
神主の祈願はもちろんのこと、神社の行き届いた掃除と管理。それさえしっかりと行われていけば呪霊の方から逃げていく。そうでなければ初詣のたびに呪霊の被害が出ているだろう。

だからこそ怖いのは人々から捨てられた神社だ。
日本全国には約八万五千の神社がある。未登録の数万の小神社を含めると、日本各地には十万社を超える神社が存在している。その全部に神主がいて管理されているわけではない。だからそうした小さなお社を寝床にする呪霊も多い。

まさに今、彼女が出てきたところがそれだ。

色褪せた朱色の鳥居をくぐり、苔が生えた石畳を靴を鳴らし歩く。真っすぐと伸びる参道の突き当りには本殿がある。拝殿と一緒の役割を担っているのか、賽銭箱も置かれていた。参道を外れれば手水舎もあるが柄杓はなく落ち葉が浮いた水は濁っていた。

手水舎の後ろと、茂みの影、本殿の壁をすり抜けていった呪霊を見るに今は蠅頭の巣になっているようだ。人を殺せる呪力もないのですぐにどうこうする必要もないが、何故彼女はこんなところに足を運んでいたのだろう。
低級呪霊であるが念のため祓っておいた。この程度なら喉が痛くなることはない。

本当なら彼女の様子を知るために後を追いたかったが、生憎この後用事がある。
遠目で見た限り何かに憑かれている気配はなかった。きっと、大丈夫だろう。
後ろ髪を引かれる思いで俺は彼女とは逆方向へと足を向けた。



もっと早く様子を見に行くつもりだったのに、実際に惣菜店に行けたのはその一週間後だった。

呪術師であっても高専に通う学生である。その時はちょうど学生の本分である期末テストと時期が重なった。しかもテスト内容は通常教科のみならず呪術の実技もあるのだからなかなか過酷だ。無事に合格点はもらえたが、寝不足と喉の痛みは今もある。

テスト最終日、学校を半日で終えた俺は急いで彼女に会いに行った。
商店街ですれ違う人を避けながら、いつもより速足で惣菜店へと向かう。

大皿に積まれた揚げ物に、食欲中枢を刺激する匂い、そして会計を待つ数人の列。
いつもと同じ光景であるのに、異物が三匹———低級呪霊がその店の屋根にへばり付いていた。

店頭には彼女の姿が見えた。にこやかな笑顔を覆うように一匹の呪霊が彼女の目の前を通り過ぎ肩へとのしかかった。一般人には見えないソレ、しかし影響はあった。そのまま尾のような体を彼女の腕に巻き付ける。客へと渡す小銭を彼女は落とし、音を立てて小銭が地面に散らばった。

自分も列へと並び、順番を待つ。
改めて彼女と向き合えば、目の下には隈ができており彼女の白い腕にはいくつかの打撲の跡とガーゼが貼られていた。

「いらっしゃい棘君。久しぶりだね」

幸い、後ろに人はいない。昼のピークも終えた頃だから客足も引く時間だ。
俺は予めスマホに打ち込んでいた文章を彼女に見せた。

「〈怪我大丈夫?〉」
「あぁ…なんか最近よく転んじゃうんだ。足がつったり、誰もいないのに後ろから押されるような感覚があったり。疲れてるのかな?」

彼女がバツの悪そうな顔で笑ったところで、店の奥から声が聞こえた。おそらく彼女の祖父だろう。
俺に断りを入れて奥へと引っ込む。
———しばらくして彼女は戻ってきた。

「おじいちゃんが病院に出かけるから今日はもう店終いだって。よかったら上がってく?」

相変らずの彼女の警戒心のなさには心配になるが俺はこくこくと頷いた。そして中へと入る前に呪霊は祓っておいた。俺より先に靴を脱いだ彼女の足には、先日と同じツタが巻き付いていたのでそれももちろん祓った。
彼女は確実に、ある呪霊に目をつけられている。

お茶と惣菜、そしておにぎりがテーブルの上に並べられる。「残り物だからお金はいらないよ」と言われたがそういうわけにはいかないので財布を取り出した。再度断られてしまったが、せめておにぎり代だけでもと小銭を握らせた。

彼女の学校も今日は半日だったらしく、昼過ぎから店を手伝っていたらしい。昼がまだだと言ったので、二人で食事をとった。しかし彼女の食の進みは悪い。
俺は行儀が悪いながらもスマホを取り出して文字を打った。

「〈最近、誰かに何かもらったりした?それか、よく行くようになった場所はある?〉」
「もらったものはない、かな。おばあちゃんのお見舞いに病院に行くことは増えたけど……」
「〈神社とかは?〉」
「そういえば——」

核心を突いたであろう俺の言葉に、彼女は記憶をたどりながら口を開いた。

曰く、“後悔しないため”に自分に何かできることはないかと祖母に尋ねた結果、あの神社のことを話されたそうだ。五十年以上も昔の話、夏になればあの神社を中心に夏祭りが行われていたらしい。

「おじいちゃんとの初デートがそこだったんだって。結婚してからも、祭りの日だけは店を閉めて二人で行ってたみたい」

過疎化も進み、出資者もいなくなった祭は数年前から行われなくなった。
そしてあの神社も世間から忘れられるような場所となった。

「もうお祭りはできないけど、あそこを綺麗にして最後におばあちゃんに見せてあげれたらなぁって。再来週には家に帰ってくるんだ。……ここで看取ることにしたから」

睫毛を震わせて彼女は目を伏せた。
だからあの神社に行っていたのか。彼女が視えないのをいいことに、きっと呪いに付け込まれたのであろう。先ほども低級呪霊は祓ったが、あのツタの呪霊は祓えていない。この様子ではきっとまた憑かれるだろう。

「〈俺も手伝うよ〉」
「棘君が?」

呪霊の件もあるが、俺の一言をキッカケに彼女が行動をしたのだ。俺にだって責任がある。
しかし、何よりも彼女の純粋で優しい気持ちを組んでやりたかったという思いが一番強かった。

「〈君のおばあさんに、「コロッケ美味しかったです」ってまだ言えてないから〉」
「ありがとう、棘君」



それからは毎日彼女と会うようになった。
集まった俺たちがやることと言えば、石畳の苔取りや落ち葉の掃除、手水舎のヘドロ取りなど。小さな神社とはいえ二人でやるとなるとかなり骨が折れる。
暗くなると呪霊の動きが活発化するので日が落ちきる前には彼女を家へと送っていった。

「今日も夕飯食べていってよ」

そして夕飯までご馳走になるまでが習慣になっていた。
彼女の祖父はというと、心労が祟って体調を崩したらしい。祖母と同じ病院に入院したのだと彼女は言った。そして彼女の母親は入院中の二人へ着替えなどを届けているのでここ最近は帰りが遅いのだとか。

「おじいちゃん、入院したのにおばあちゃんと同じ部屋になれて喜んでるんだよ?おかしいよね」

祖父の退院もまた、祖母と同じ日らしい。だから彼女はいよいよ張り切って神社を綺麗にするのだと息巻いた。

「あっそのレンコンの煮物、おじいちゃんに教わったものなの。初めて作ってみたけど、どうかな?」

美味しいの意味を込め、俺は全力でこくこくと頷いた。
彼女のつくる料理は総じて美味しかった。煮物もお漬物も味噌汁も、ほっとするような味がする。出汁がどうとか、味噌がなんだとか、細かいことはよくわからないが毎日でも食べたくなるようなそんな味だった。

「今日のおにぎりは変わり種です!といってもコンビニで普通に売ってるけど…」

でも一番好きなのは彼女の握るおにぎりだった。総菜屋で売っているものより小ぶりで、少し柔らかめ。ひと口頬張ると、おにぎりの形が崩れる。

「ツナマヨ…!」

そしてその日のおにぎりの具は俺の大好きなツナマヨだった。コンビニでしか手に入らないのに、それをまさか温かいおにぎりとして味わえるだなんて。塩気とマヨネーズのバランスがちょうどいい。油もお米の中で分離せずに馴染んでいた。

「棘君、おにぎりの具でなら話せるんだね」

夢中で食べていれば彼女はポツリとそう言った。
今更ながらのその言葉に俺は黙って頷いた。

そういえば、彼女は一度だって俺の話し方について尋ねてくることはなかった。口元まで隠れている服も、スマホで一々文字を打つことも聞いてくることはなかった。
因みに、彼女と共に食事をするようになってから、顔の蛇の目はファンデーションで隠している。パンダに言うと色々と煩そうなので真希にこっそりやり方を教えてもらった。

「おにぎり好きなの?」

てっきり、おにぎりの具でしか話さない“理由”を聞かれると思ったのに、彼女は“おにぎり”の話をしてきた。それに面喰いながらも一つ頷けば「そうなんだ」と納得した様に笑った。

「好きな具は?」
「ツナマヨ!」
「そっかぁ」
「しゃけしゃけ!」
「鮭も好きなの?」

しまった、つい話過ぎてしまった。
でも鮭が好きなのも事実なので、そのまま頷いておいた。でも彼女はじっと俺を見つめたままでいる。

「もしかして棘君の“しゃけ”って“そうです”って意味?」
「…っ!しゃけしゃけ!」
「もしかして当たった?」

まさかパンダの通訳なしに俺の言葉を理解できる人間がいるなんて。俺は嬉しくなって首がもげるほど頷いた。

「じゃあその反対の意味を持つ具もあるの?」
「おかか!」
「おかかは“違います”とか“いいえ”って意味?」
「しゃけしゃけ!」

彼女が笑って俺も笑った。
言葉なんて呪うためのすべだ。だからこそ呪術師の中でも俺達みたいなのは“呪言師”と呼ばれ、さらに細かなカテゴリーに分類される。
生まれたときから言霊の強さ、危険さ、術式を嫌というほど覚えさせられた。今さら言葉をコミュニケーションの一つとして使う気などさらさらない。でもだからと言って人付き合いが嫌いというわけではないのだ。

「棘君の秘密、知っちゃった」

あどけなく笑った彼女に、胸が締め付けられた。
いまこの場所が、俺が憧れていた“普通の家庭”だ。





世の中は不条理で不平等で、理不尽だ。

彼女の祖母が亡くなった。
そして後を追うように祖父も亡くなった。
それを聞かされたのは二人の退院予定日の前日だった。

いつものように神社へ行くと、本殿へと上る石階段に彼女は座っていた。
特に泣いているわけでもなく、ぼぅっと沈みゆく夕日を見ていた。
今にも彼女が消えてしまいそうで、怖くなって俺は彼女の手に触れた。

「なんでだろうね。昨日おばあちゃんとおじいちゃんに会ったんだ。二人とも明日には家に帰れるって喜んでたのに」

なんで死んじゃったのかな———
彼女の独り言のようなその問いに、俺は答えることができなかった。

人間いつかは死ぬし、それが予期せぬ出来事で唐突に人生を強制終了させられる人もいる。
しかし、だからといって老衰や病気での死が必ずしもいいというわけではないのだ。

どちらにしたって残された人間の悲しみは変わらない。

隣に腰を下ろし、包み込むように彼女の手を握り直した。

「ありがとう、棘君」

俺は彼女に言葉を掛けられない。
なのに、なんで君は俺にそんなことを言うのだろう。





久しぶりに訪れるとそこにはシャッターが下りていて"休業中"という張り紙が貼られていた。ずっと貼られたままだったのか、黄ばんで端は破れていた。

彼女の祖父母が亡くなり一ヶ月が経った。
あの日以来、彼女とは会っていない。
ツタの件も解決はしていないので会いたいのだが、こんな時に限って偶然は起こらない。今まで店に行ったら会えていた分、連絡先を交換していなかったことが仇になった。
 
高専まで帰る気にもなれず、商店街をウロウロする。特に欲しい物はなかったからいつも通り当てもなく歩く。そこでふと、気になるものが視界に入り呉服屋の前で足を止めた。
店の前のワゴンにはつまみ細工の髪飾りが並べられていた。そして店のガラス戸には"夏祭り"のポスターが貼られている。もうそんな時期だったのかと気付く。

去年はみんなで行く約束をしていたのに、自分だけ任務で行けなかった。でも寮へ帰るとが「お土産だ!」って言って広島焼やらリンゴ飴を俺に渡してくれたっけ。
目に止まった髪飾りを一つ手に取る。白と薄紫のそれは彼女の黒髪によく似合う気がした。

「何してるの?」

横から声をかけられ、手に持っていた髪飾りが落ちた。幸いにもワゴンの上だったので事なきを得る。

「久しぶりだね棘君」

心臓が飛び跳ねてそちらを向くと、ようやく会えた彼女がいた。
いつもの笑顔を見せた彼女は思いの外元気そうで安心した。半袖から伸びた腕には痣もなく、膝にもガーゼや絆創膏は貼られておらず実に健康体であった。ツタもなく、呪霊の気配もない。
その姿にホッとすれば彼女は悪戯に笑った。

「棘君、もしかして彼女いるの…?」
「お、おかか!!」
「彼女さんはいない?」
「しゃけしゃけしゃけ!!!」

必死に答えればくすくすと笑われたので、俺は面白くなくて視線を逸らした。そうすれば彼女は素直に「ごめんね」と言うのだから案の定、簡単に許してしまった。

「夏祭りかぁ。もうそんな時期なんだね」

ポスターを見た彼女は俺と全く同じ感想を言った。
その横顔に、ワゴンに転げ落ちた髪飾りが重なった。やっぱり彼女によく似合いそうだなと思った。

「〈お祭り行きませんか?〉」

彼女の肩を叩きスマホを見せた。
少し見開いた目に、僅かにあいた口からは吐息が漏れた。瞬き二つに、睫毛が震える。
彼女の一挙手一投足を見逃したくなくてじっと見つめた。

「ぜひ、お願いします」

服で顔の半分は見えないというのに、彼女には俺が笑ったのが分かったらしい。少しだけ頬を染めて「楽しみにしてるね」と付け加えた。


彼女と別れて、俺は呉服屋へと足を踏み入れた。
もちろん手にはあの髪飾りを持って。





カラスが家へと帰る夕暮れ時———
その群れとは逆行して街へと下りた。

商店街を抜けて待ち合わせ場所へと向かう。祭り客を引き入れるためか、各店舗一歩前に出て机を並べ品物を売り出していた。

カランコロンと下駄の鳴る音がする。その音の一つがまさか彼女とは思わずに、待ち合わせ場所に着いた俺は目を見開いた。

「棘君、今日は誘ってくれてありがとう」

白地に紺の撫子の花があしらわれた浴衣。薄紫の帯の上には勾玉の付いた帯留めが鈍く光った。
普段よりも高めにまとめられた髪の毛、そのうなじがやけに色っぽく見えた。

「〈浴衣似合ってる〉」

言葉で言えなくてごめんね。

「ありがとう。これ、おばあちゃんの簞笥から出てきたんだ」

確かに、周りが着ている着物よりは落ち着いたデザインかもしれない。でも安っぽい印刷したようなのっぺりとした柄ではなく、それがいいものであるのは素人目でも分かった。
この浴衣に見合わないかもしれない。でも浴衣で来てくれたからこそ渡さなければと俺は先日買ったものを渡した。

「可愛い…!」

いつも笑顔が素敵な彼女だけれど、今日の笑顔は格別だった。一言断りを入れて、彼女の髪に触れる。黒髪にぽっと咲いたかのようなつまみ細工の花は俺が思っていたよりも、美しく、似合っていた。

「もらっていいの?」
「しゃけ」
「ありがとう」

彼女の頬が赤く染まっていたのは夕日以外のせいであってほしい。
そう願いながら祭り会場へと向かった。



この祭りは川縁を中心に開催され地元では有名な祭りだ。案の定、人も多い。日が落ちればもっと人が増えるだろう。
人混みは苦手だけれど、今日ばかりは気にならない。その他大勢よりも隣りに並ぶ彼女にしか気がいかなかった。

「あれ、やってもいい?」

彼女の視線の先には射的があった。
ひとつ頷けば彼女は子供達に混ざってコルク銃を手に持った。
自分で言っただけあって、得意なのか浴衣の袖を捲り上げ台に肘をついた。そこから覗く彼女の白い腕にどきりとする。

「取れた!」

嬉々として戻ってきた彼女の手にはパンダのキーホルダーが握られていた。景品そのものではなく、的を倒すことで手に入れることができたらしい。

「棘君はパンダ好き?」

パンダと言われて思い浮かぶのは動物園の人気者ではなく、同期のお調子者だった。
嫌いではないけれど、どうにもそのパンダがチラついて「しゃ、しゃけ」と曖昧な返事をしてしまった。

「もしよかったら貰ってくれない?髪飾りと誘ってくれたお礼」

手を差し出すとその上にちょこんと乗せられた。小さなぬいぐるみでもあるそれは、同期のパンダよりも遥かに小さく可愛らしかった。

「しゃけ!ツナマヨ」
「貰ってくれてありがとう」

それをなくさないように大切にポケットへしまった。
スマホを確認すればもうそろそろ花火が上がる時間だった。ここからは少し離れた見晴らし台まで移動したい。花火大会のおすすめスポットなのだと、ここに来る前に同期のパンダに教えてもらっていた。

高台の方を指さすと彼女にも意図が伝わったらしい。彼女も「いいよ」と言ったので、先導して歩こうとしたら服の袖をクンッと引かれた。
驚いて振り返れば頬を染めた彼女がいて、

「手、繋ぎたい。はぐれちゃうといけないから」

一瞬だけ目が合って逸らされた。

俺は彼女の手を取って人混みを縫うように進んだ。
いつかの時とは違って繋がれた手は暖かかった。
その手の温もりが自分の体温なのだと、今日の俺は気付いてしまった。

雲一つない夜空には冠菊、千輪、菊が咲く。
見晴らし台にはカップルが多かった。俺達も周りから見たらその中の一組に見えるのだろうか。
繋がれた手は最後まで放さなかった。

「今日はありがとう」
「ツナツナ」

彼女を家まで送る帰り道、スマホがなくても会話ができるまでになっていた。
彼女は話し上手でもあり聞き上手でもあると思う。一緒にいて心穏やかになれる。

「棘君、あのね」

もうすぐこの時間が終わってしまう。
そう思ったのと同時に彼女は歩みを止めた。
時が止まったような静寂が訪れた。

「最後にあの神社に行きたい」

呪術師の俺は「駄目だ」と言ったが、狗巻棘は〈行こう〉と言った。



深い闇の中、道路脇の心許ない街灯の灯りだけを頼りに石畳を歩く。
カランコロンと彼女の下駄音だけがいやに響く。

数日振りにも関わらず、彼女と一緒にここへと訪れると懐かしいと感じた。
まだそこまで荒れた様子も見られずに、多少葉や枝木が気になったがおおよそ綺麗と言える状態だった。しかし、秋が来てまた手入れされない状態が続けばすぐに元の様に戻るだろう。

彼女は紺色の巾着袋から財布を取り出し小銭を賽銭箱へと投げ入れた。小銭は木の隙間にぶつかりながら転がったが、湿気を含んでいたので音はそこまで響かなかった。
そして静かに手を合わせ、目を閉じた。
その姿を俺は黙って見守った。

時折、葉の揺れる音と虫の羽が擦れる音が聞こえた。
まるで彼女の生得領域にいるようだ。いや、きっと彼女の場合はもっと美しくもっと綺麗な場所なのだろう。それを見てみたいとも思うし、見たくないとも思う。彼女には俺達の知る世界とは無縁の人生を送ってもらいたいから。

「付き合わせてごめんね」
「おかか」

もうお祈りは済んだのか彼女は俺の横を通り過ぎて、数段の石階段を下りた。
そしてまだそこに立ったままの俺を見上げて「ありがとう」と言葉を繋いだ。

「〈何をお願いしたの?〉」

石階段を下りてスマホに打ち込んだ文字を彼女に見せた。
人のお願い事など聞くべきではない。そんな最低限のモラルを守るよりも俺は嫉妬してしまった。本当に在るかすら分からない神様に。
彼女とは出会ってからそんなに時間が経っていないけれど、ぽっと出の神様よりは彼女のことを知ってるつもり。

「おばあちゃんとおじいちゃんが向こうでも仲良くできますように、かな」

不条理で不平等で、理不尽であっても彼女は彼女だった。
今までもこの先もきっと彼女は変わらない。
ずっとずっとこのままでいてほしいと思った。
ずっとずっと傍にいたいと思った。

《ヤゃさァアァァしィネェ イイ子だネェ 一緒ぉに行キィましょぉおぉぉネェェェ》

うそだろ?!

「えっ………きゃああぁ!?」

呪霊だ。しかも、恐らく一級クラス。

何処から来た?
気配はなかった。

大きさはニメートルほどでそれほど動きは機敏でない。しかし、力が強い。突如現れた呪霊は四本ある腕のひとつを鞭のように操り彼女の体を掴んだ。

『動くなッ』

言霊を飛ばし呪霊の動きを止める。

『離せ』

そして続け様に術を使い、彼女の救出を試みる。
僅かに浮いていた体は石畳の上に音を立てて倒れ込んだ。  

呪霊本体の動きは止めたが、その呪霊から派生したツタは自己を確立しているのか俺の言葉と反して彼女を拘束しようとした。
それを素手で薙ぎ払い、彼女を抱え上げて走った。

一級の呪霊だが早々に術が解除される事はない。
そう分かっていてものんびりしている暇はない。
彼女の意識があるのかどうか気掛かりであったが、それに応えるように胸元の服がぎゅっと握られた。

境内の裏手、大木の裏に彼女を下ろす。
追っ手がきていないか確認し、ポケットから喉スプレーを取り出し喉の奥に噴射した。
流石は一級、まだ二回しか術式を使っていないというのにだいぶ喉に負担がかかっている。

次の手立てを考える。
ここに隠しておくのも手であるが、あの呪霊の目的は彼女だ。それならひとりにしておくべきではない。

「大丈夫?腕が……」

彼女の視線は呪霊に切り裂かれた俺の腕にあった。僅かに血は滲んでいるが、それよりも彼女の膝の方が悲惨だった。
俺の言霊により倒れた際、膝を強く打ち付けたのだろう。浴衣の隙間から覗いた足は痛々しかった。

「…っ!!」
「うわっ?!」

頭上から気配を感じ、彼女を再度抱え上げ距離を取る。
大木は切断され、ガサガサといいながら他の木を巻き込み林の中へと倒れる。

「木が……」

彼女には呪霊が見えない。それにこの膝で走って逃げろというのが無理な話だ。
帳も降りていないのだから、騒ぎを聞きつけ誰かが来てしまうかもしれない。そうなれば被害はさらに拡大する。

《カぁアぁぁィイ かァあァァぃい ワタシィの愛孫》
《一緒にぃ 仲良くゥゥ ィイイイこぉネェ》

神様なんかいないんだよ。
どんなに天に祈ろうとも、どんなに徳を積もうとも、どんなに真っ当に生きようとも。

呪いはあるが神はいない。
いや、信仰する人間がいれば呪詛師ですら神と崇められるのだからその境界線すら曖昧だ。

ツタで逃げられぬよう、囲まれる。
黒くて、汚くて、人の形ですらなくなったソレは彼女の祖母だ。
自分の孫がそんなに恋しかったのか。
恐らく祖父を連れて行ったのもコレであろう。

自分の死が近づくにつれ、それを受け入れられない人間というのはもちろんいる。
"なんで自分だけ"
"死にたくない"
"生きたい生きたい生きたい"
その負の感情が病院という地盤を元に大きくなったのだろう。彼女の祖母はきっとその負の感情を溜め込む器として呪霊に漬け込まれた。

可哀想だとは思わない。
ただただ、哀れだと思う。

ここで全てを終わらす。

『手を耳に当てて』
「え?」

こんな簡単な頼みすら、俺が言えば"命令"になってしまうのだから嘲笑えてくる。
耳を覆った彼女の手を、さらに俺の手で覆う。そして呪霊から隠すように胸元へと抱き寄せた。

『爆ぜろ』

パンッ———

風船が爆ぜるような音の後、赤黒い肉片が宙を舞う。
視えていないことは分かっているのに、せめて彼女にこれ以上の光景を見せないように俺は強く彼女を抱きしめた。
呪霊の消滅を確認し、一息つくと喉元からのせり上がりを感じ顔を伏せる。

「うっごほッゴフッ……ウ"ォエッ」

喉が焼けるように熱くなり、激しく咳込む。
動作を封じ込める程度の言霊ならまだいいが、消滅系の言霊はその分自分への見返りが大きい。

「大丈夫!?」

吐血で彼女の浴衣も赤黒く染まっていた。
でもそんなことを気にもせず、俺の背中を優しくさすってくれた。呪霊が視えないのなら、彼女の一番の脅威は俺だというのに。

「すぐに救急車を……!」

首を横に振る。
この一件は彼女のツタを視た日に高専へ報告はしていた。そしてこの神社が危ないということもすでに認知されている。救援だってすぐに来る。この騒ぎだ、呪術の類を知る警察も来れば後はどうにかなるだろう。

しかし、彼等がくる前に俺はどうしても確かめたい事があった。

彼女の手を取り、掌を広げさせる。
目をまん丸にしつつも抵抗しないのをいい事に、俺は指を掌に這わせた。

「"こわくないの"?……棘君のことが?」

指文字だ。たった平仮名六文字だったけれど、言いたい事は伝わったようだ。
俺はこくりと頷く。

だって怖いだろうよ。
視えない何かに吹き飛ばされ、おにぎりの具材しか話さない男に手を引かれ、挙句ようやく口をきいたかと思えば体を拘束されるのだから。

「なんで?私の事いつも助けてくれてたのに怖いはずないよ」

いっそのこと嫌ってくれたらどんなに楽だったか。

「木も倒れてすごい風だったよね。かまいたちだったのかな?」

恐怖を押し殺して笑う彼女を見て、泣きたくなるほど胸が締め付けられたのは何故だろう。

「口元汚れてるよ。……ん?これはペイント?痣?」

彼女が浴衣の袖で俺の口元を拭う。
そして臆する事なく蛇の目にも触れた。少しくすぐったくて、俺は笑ったような泣いたような顔をしてしまった。

遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
もう俺がいなくても大丈夫だろう。

彼女の髪を耳にかけてやる。
髪飾りが揺れた。
汚れた手でごめんと思いながらも、最後だからと言い訳をして彼女の頬に触れた。

「どうしたの?」
『狗巻棘を、忘れろ』
「は……?」
『眠れ』

ぐらりと重心が傾いた身体を抱き止める。
途端、また咳が込み上げ胃の中の物を混ぜ込んで吐血した。

もし俺がここで死んでたら、彼女の祖母のようになるのだろうか。

そうなりたくないから俺は彼女の中から消えようと思った。





アーケードを潜り、喫茶店、ブティック、お茶屋に煎餅屋。そこから一つ飛んだ曲がり角にお気に入りの店があった。
ザ下町という名の商店街にある昔ながらの惣菜屋。名物は八十円コロッケだったけど、俺はそこのおにぎりが好きだった。

特に好きなのはツナマヨのおにぎりで、店にも出てない裏メニュー。
俺だけのとっておき。きっともう二度と味わえないけれど、それこそが俺の家庭の味である。

そういえば常備品である喉スプレーが切れていたことを思い出し薬局に寄った。
棚からいつも買っているメーカーのものを手に取りレジへと向かう。レジ横にはガムや飴玉も売られていて、まだ残りがあるにも関わらずお気に入りを手に取った。蜂蜜にりんごの酸味が加わった飴は俺の必須アイテムだ。

会計を済ませ店から出る。
せっかくここまで来たのだからイマドキの学生らしく街をぶらつくのも悪くない。偶然にも何かいいものと巡り合えたりするかもだし。

「すみません、キーホルダー落ちましたよ」

声に気付き、自分の鞄を見る。確かに俺がいつもつけているパンダのキーホルダーがなくなっていた。ストラップの紐の部分が切れたのだろう。親切な女の子が拾ってくれたようだ。

「それ、可愛いですね」

パンダというとどうしても同期のパンダが脳裏にちらつく。でもこのキーホルダーのパンダは可愛いと思う。そのものが、というよりは思い出補正ともいうべきかキーホルダーを見ると色々と思い出すことがあるからだ。

「どうしました?」

キーホルダーを受け取っても動かなかった俺を不審に思ったのだろう。
彼女が小首をかしげるとつまみ細工の髪飾りが揺れた。制服と和飾りの融合はミスマッチにも思えるが彼女によく似合っていた。美しい黒髪に、白の花がよく映える。

もう関わるべきでない事は分かっている。
彼女の幸せを願うなら。

でも、どうしても最後に一目会いたくなったからこの商店街まで来た。

口元まであるファスナーを僅かに下ろす。
秋風が頬を撫でた。

「ん?それペイントですか?痣……?」

思い出さなくていい。
思い出さないでくれ。

でも、一言だけ。

"ありがとう"

声を出さずに口だけ動かして、彼女に伝える。
すぐにファスナーを戻し、早足で雑踏に紛れた。

「あ、あのっちょっと待って!」

俺は振り返らなかった。
多分もう、あの場所には訪れない。
俺の言葉は呪いだけど、心の中で彼女の幸せを願うことくらい許されるだろう。
神様なんかじゃないけれど、君の幸せをはるか遠くで見守ってる。