今すぐ記憶飛ばされるのと俺の彼女になるの、どっちがいい?
気付いたら駆け出していた。
肩がぶつかり脚はもつれ、それでも人の流れに逆らって脚を動かした。真っ昼間の街中に突如として現れた悪魔。五階建てのビルよりも背が高く二車線の道幅よりも図体がデカい。それが唸り声をあげて暴れ回る中で瓦礫の影に蹲る一匹の猫を見つけた。そして気付いたら駆け出していた。
「にぁア、にャ」
揺れる地面に人々の叫び声、それに恐怖していたのだろう。すっかり委縮していた体にそっと触れて抱き上げてやる。どうやら怪我はしていないらしい。でもひどく体が震えていた。首輪もしていないからおそらく野良猫なのだろう。
「もうだいじょ……っくしゅん!」
人への恐怖心が少しでもなくなるよう胸元へと引き寄せた拍子に盛大なくしゃみをしてしまった。慌てて顔を自分の肩口へと押し付けるが収まらない。そして瓦礫による粉塵も相まって尚も止まらぬくしゃみに視界までもが歪んでくる。そんな場面で目の前に突如として大きな手が伸びて来た。
『ニンゲン!ニンゲン!』
「は?え、ちょっと…!はっくしゅんッ」
その手は猫ごと私を掴んで持ち上げた。叫びたくても叫べないこの状況で猫だけでも逃がせないかと考える。ただそうするまでもなく、急に拘束が緩みそのまま地面へと落下した。
「まずは腕一本もぉらい!!」
背中は痛むものの猫も私も無事である。なんとか起き上がり周囲を確認したところで切り落とされた腕が転がっているのを見つけてしまった。その断面は些か直視できるものではなかったが見事なまでに垂直に切り落とされている。そして同じように細切れにされた肉片が隕石のような形で次から次へと降って来た。
『オマエ、…ハッ……チェンソーマン?!』
「おーおーよく知ってんじゃねぇか!んなら殺される覚悟もできてるよなぁ?!」
それを生み出しているのは顔がなくて額の位置から電動鋸の刃が生えている男だった。見た目こそ異形だがそれは人間の脅威になる悪魔ではない。いまやテレビでも取り上げられているヒーローだった。
「チェンソーマン?!」
悪魔の断末魔が天高く木霊する。なぎ倒された電柱に崩壊したビル、血と内容物で染まった地面では白線の位置すら不明瞭。そんな地獄の真ん中でイチゴジャムよりも真っ赤に染まっている電鋸男に向かってそう叫んだ。
「あ?……うぉっ人じゃん?!しかも女!よっ!」
意外とフレンドリーだなと無駄に感心していたところでパッと人の顔が現れた。えっそれってそういう仕組みなの?そしてそこには私と同い年くらいの男の子の顔があった。というか同じクラスの人だった。しかし色々と尋ねたいことはあるはずなのに口から出たのはこの場に似つかわしくない言葉だった。
「あの、ハンカチ使いますか?」
「おーサンキュ」
にャ〜、とこれまたお気楽に腕の中の猫が鳴いた。
◇
同じクラスのデンジ君、明るい色の髪の毛でギザギザの歯が特徴的。いつも制服を気崩していて余程お金に困っているのかクラスの女子相手に人間椅子の商売をする変わった子。私自身、特に目立った会話をしたことはなかったけれどまさかクラスメイトがチェンソーマンだったなんて。
「ねぇ、ちょっといいかな」
あんな惨劇を見た翌日でも学校に来たのはやはりデンジ君に話を聞いてみたかったからだ。昨日、ハンカチを受け取った彼はパトカーのサイレンを聞き早々にいなくなってしまったから。だからこそいつもより早起きして学校に来たというのに校門の前で呼び止められた。
「はい?」
振り向くも相手の身長が想像よりも高かったようで学ランのボタンくらいしか見えない。仰ぎ見るように首を傾けていくと目にかかるくらい長い前髪の男子生徒がこちらを無機質な目で見下ろしていた。
「えーっと…どちら様で?」
「俺の名前は吉田ね。今少しだけ話せる?」
「いいですけど」
「ありがとう。こっち来て」
あぁそうだ、吉田ヒロフミという人だ。イケメンが転校して来たぞ、って当初は話題になってたっけ。そんな有名人が私に何の用なのだろうか。呼び出しと言えば告白が定番なのかもしれないが彼とはこれが初対面である。加えて特段美人でも目立つわけでもない私にそんなイベントが起こる可能性は低く、変な汗をかきながら彼の後を着いて行った。
「単刀直入に聞くけどさ、キミはチェンソーマンの正体を知ってる?」
「え?」
校舎の裏手、季節の花が植えられている花壇の前で吉田君はそう聞いてきた。予想の斜め上どころか一周回って虚無顔しかできなかった私は何も悪くないと思う。すると吉田君はもう一度同じ質問をしてきた。その僅かに与えられた時間で頭をフル回転させる。
「噂程度だけど」
何故咄嗟に嘘をついたのか、自分でも分からない。でもこのまま正直に話すのは少し躊躇われたのだ。だって吉田君の口元は笑っているのに目は自らの感情を何一つ映し出せていなかったから。
「噂って?」
「デビルハンター部の誰かがそうなんじゃないかって」
「へぇそうなんだ。じゃあキミは誰だと思うの?」
「いや、私はデビルハンター部の人じゃないから分からないよ」
どうしてだろう、吉田君がこちらに距離を詰めて来た。彼が一歩踏み出す度に私も一歩後退する。そうして一定の距離を保ちながらも会話は続けられる。
「その部の人じゃなくてもいいよ。キミは誰だと思う?」
「だから分からないって。全く思い浮かばない」
「キミィ嘘は良くないなぁ」
「嘘じゃな、っ」
トン、と背中に硬いものがぶつかった。いつのまに花壇の手入れ道具が仕舞われている倉庫まで追い詰められていたらしい。未だにこの状況を理解できていないが私の第六感が今すぐ逃げろと言っている。後ろへの道が断たれたのなら横をすり抜けるまで。
「じゃあ俺が当ててあげる」
「わっ?!」
しかし新たな退路も目の前に伸びた彼の腕により一瞬にして断たれた。肘のあたりから辿る様に視線を上げていけば真っ黒の瞳と目が合う。その距離は十センチにも満たなくて風に吹かれた彼の前髪が私のおでこを擽るほどだった。
「それはね、」
「は?……っ」
そして私の頬を掠めていった。唐突に縮められた距離に胸元で両手の拳をぎゅっと握りしめる。背中は壁にめり込むくらい強く寄せているけれどそれでも距離は縮まるばかり。視界は学ランで埋まり完全に硬直した。
「キミのクラスのデンジ君」
「ヒッ?!」
吐息と共に耳元で囁かれ変な声と共に一気に肌が粟だった。心臓が煩いくらいに音を立てているがこれは決して彼にときめいたからではない。この感覚は悪魔を目の前にした時と同じ、恐怖を感じての事だった。
「なんで……」
体勢は変わらずに顔だけが離された。そして窺うように私を見下ろす。しかし、もはや確認しなくても分かっていた結果なのだろう。
「その顔は前から知ってたね。嘘つき」
息を吐き出すように声だけで笑ってみせた姿に内側から熱いものがせり上がって来た。それはときめきでも恐怖でもなく、苛立ちからだった。
「確かに嘘はついたけどだから何なの?」
私が付いた嘘は悪意のあるものではない。それに初対面である彼にこうも責め立てられる筋合いもない。それなのに何故、私は彼から説教じみたことを言われなければならないのか。
「それは——」
彼が言葉の続きを発しようとしたときチャイムが鳴った。あと五分でクラスの朝礼が始まってしまう。ここから走って教室へはギリ間に合うであろう距離。皆勤賞を狙っている身としてはこんなことで落としたくはない。
「時間ないからもう行くね」
「時間ないから最後の質問ね」
互いの声が重なり不覚にも見つめ合う形になってしまった。しかし流暢に話をしている暇などない。咄嗟に身を屈め彼の腕の下を潜り抜ける。そしてそのまま駆け出そうとすれば腕を掴まれ強制的に振り向かされた。
「ちょっと!」
「質問というか選択になるんだけどどっちか選んでね」
人好きの良さそうな笑みを浮かべた彼に対して苦虫を嚙み潰したような顔で答えてみせる。しかしそんなことはお構いなしに淡々と言葉を続けた。
「今すぐ記憶飛ばされるのと俺の彼女になるの、どっちがいい?」
またしても予想の斜め上どころか一周回って飛んできた質問に、貴方こそ理性を飛ばされたんですか?と問いたいくらいだった。しかし、そもそもこんな会話にこれ以上付き合う気はない。完全無視して腕を振りほどこうとするがどういうわけかびくとも動かなかった。そしてミシ、という床鳴りのような変な音が聞こえた。
「意味わかんな、い”?!」
私の腕から二度目の床鳴りの音がした。決して人体から発せられないであろう音が二度も聞こえてしまえば答えざる負えない。でも記憶飛ばすって何?ただそれは明らかに物理的な方法でってことだよね。顔に似合わないこの怪力で殴られでもしたらこの場は真っ赤なイチゴジャムに染まるであろう。全てを察した私に彼は再び口を開いた。
「もう一回だけ聞くよ。今すぐ記憶飛ばされるのと俺の彼女になるのどっちがいい?」
「彼女でお願いします!!」
もう答えは決まっているようなものだった。
◇
チャイムが鳴り教室内が一斉に騒ぎ出す。生徒達が待ち侘びた昼休みの始まりである。しかし私は未だにノートを開いたまま鉛筆を走らせていた。
「な、なぁ?ちょっといいか?」
頭上から声を掛けられ慌ててノートを閉じる。授業の内容であればいくらでも見せられるのだがあいにく書き込んでいたものは今朝の出来事の打開策であった。通称、吉田対策ノート。
「な、なに?」
同じように吃りながら顔を上げれば渦中の人物であるデンジ君が立っていた。彼は首元に手を当てながら視線を忙しなく動かしている。「あのよぉ、」とやや言葉を詰まらせながら私の前に一枚のハンカチを差し出した。
「これありがとよ」
それはチェンソーマンに貸したものだったが随分と様変わりして返ってきた。元々は淡いブルーの色だったはずなのだけど所々に黒い斑点があり、また全体的に色むらがあった。斑点とは逆に真っ白に脱色しているところなんかもある。
「汚れがとれなくてよ。んで色んな洗剤混ぜてみたけどダメで……すんません」
「大丈夫だよ、気にしないで」
元より戻ってくることを期待していたわけじゃない。それに返ってきたとしても使うことは躊躇われた。だから私の言葉は気遣いでもなんでもない、ただの事実だったのだけどデンジ君はいいように捉えたらしい。
「アンタ良い奴だな!」
「そうかな?でもお礼を言うのは私の方だよ。あの時助けてくれてありがとう」
「まぁ当然のことをしたまでよ!」
「まさかデンジ君だったとはね。テレビで言ってた通りの正義のヒーローでびっくりした」
今まで正体を明かさなかったからにはきっと訳があるのだろう。だから敢えて「チェンソーマン」という名を口にせずに感謝を伝えた。しかしそんなことなどお構いなしに彼自身の口で「オレってチェンソーマンなんだぜ」と語り出した。
「あ、うん。そうみたいだね」
「他の奴に言ってくれてもいいんだぜ!オレが今話題のチェンソーマンだってな!」
既に食事を始めた生徒もいる教室はあちらこちらで談笑の輪が出来上がっていた。友人達も私を待たずして机をくっつけてお弁当を広げている。だからデンジ君がどんなに意気揚々と話そうともその内容を聞いているのは目の前の私だけだった。
「言っていいの?そういうのって正体を隠してた方がいいんじゃない?」
「なんで?」
「だって正義のヒーローは皆正体を隠してるでしょ」
M78星雲から来た者も仮面を被った彼もそしてセーラー戦士でさえ確かその正体は一般人には隠していたはずだ。それに少し謎があった方が興味を引かれるし何よりかっこいい気がする。そう付け足せばデンジ君は「難しいことは分かんねぇ」と言っていたが、何かを閃いたかのように急に身を乗り出した。
「アンタはオレの事かっこいいって思ったんだよな?」
「え、うん」
「じゃあ付き合いたいって思った?」
「付き合う?うーん……」
それがどうして付き合うという結果に行き着いたのかは疑問である。というかこの人は私のこと好きでも何でもないよね。とりあえず彼女が欲しいのだろう。そうなるともちろん断りたいのだけどどう伝えたらいいのか分からない。だって告白なんて一度も受けたことな……いや、今朝あったな。
「どう?どう?」
「えーっと……」
「デンジ君」
「っ?!」
その現実を思い出していたところで横から黒い影が飛び出してきた。思わぬところからの不意打ちに肩を震わせれば数時間振りに再会した吉田君の姿が。なぜここに来たのかという質問は私の代わりにデンジ君がしてくれた。
「俺は迎えに来ただけだよ」
「迎えだぁ?野郎と飯食う趣味はねぇよ」
「デンジ君じゃなくて彼女のことだよ。俺達付き合ってるから」
「はぁ?!」
ここでもまたデンジ君が私の声を代弁してくれたわけだがそのせいで驚くタイミングを失ってしまった。そしてそのまま「じゃあ行こうか」と吉田君は勝手に話を進めていく。色々と言いたいことはあるがここで話すには流石に躊躇われる。
「うん」
だから覚悟を決めて吉田君の後について行った。
無秩序な建築物の隙間からビル風が吹き抜ける。屋上であっても周囲よりも低いここは陽の光が届きにくい。しかし太陽が真上から覗き込む正午という時間帯においてここは意外にも居心地のいい空間となっていた。
「キミが意外と賢い人間で助かったよ」
黒髪を靡かせながらそう言った彼に小さくため息をつく。人見知り体質というわけでもないが何となくこの人と話すのは抵抗がある。それはもちろん第一印象のせいでもあるけれど彼の掴めどころのない雰囲気が尚更その感情に拍車をかけていた。
「吉田君はさ、私に何をさせたいの?」
「話が早くて助かるよ」
誰もいない屋上で二人向かい合う。傍から見たら今から決闘でも行われるのかと勘違いされそうな光景だ。まぁそれも私の心持としては間違っていないのだが。
「デンジ君の事は黙っててほしいんだ」
「彼がチェンソーマンだってこと?」
「そう」
次いで声に出さずに口の動きだけで「嘘つき」と言ってくる。だからこちらは声に出して、黙ってたんだからいいでしょと言ってやれば「そうだね」と何故か笑われた。
「別に他の人に言うつもりはないけどなんで吉田君が口止めするの?」
「俺はある組織に所属していてね。彼の正体が世間的に知られると色々と困るんだ」
「何それ?ドラマか何かの設定?」
「ははは、そう言われても仕方がないかな」
その話が嘘か真かは分からないがこの状況でふざけるような人には見えない。でもこの様子だとこれ以上何も教えてはくれないのだろう。だから私はもう一つの疑問を解決すべく話題を変えた。
「じゃあ吉田君と付き合うって話はなんだったの?」
「それはデンジ君への牽制かな」
「牽制?」
「彼ってモテたくてチェンソーマンの正体をバラしたがってるんだよね。だからキミに正体を知られたら近付いてくると思ったんだ」
なるほど、だからデンジ君は色々と聞いてきたのか。でもモテたくて正体をバラそうとするだなんて随分と変わってるな。まぁある意味、男子高校生らしいともいえるが。目の前の人物を見ていると尚更そう思った。
「それで二人が付き合って学校中にチェンソーマンの正体を言いふらされでもしたら困るからね。だから俺と付き合ってることにしてデンジ君には諦めてもらおうかと」
そんな先の先の事まで考えていたなんて。吉田君がそうまでしてチェンソーマンの正体を隠したがる理由は未だ謎だが彼のやりたいことは分かった。
「そっか。そういうことなら私はチェンソーマンの正体を他の人に言うつもりはないし彼と付き合うつもりもないから安心してほしい」
「本当?」
「うん。約束は守るよ」
「よかった、ありがとう」
もう昼休みは半分もない。友人たちは既に食事を終えているだろうが私も早く教室に戻ってお弁当を食べたいところではある。それは吉田君も同じであろう。だから一声かけて立ち去ろうとすればそれより先に呼び止められてしまった。
「実はキミを見込んで頼みがあるんだけど」
「えー……」
ここでついに私の心の声が漏れてしまった。しかし彼はお構いなしに「ごめんね」と形だけの謝罪を口にして会話を続けた。
「デンジ君の監視役をお願いできないかな。さすがにクラスが違うと教室での彼の様子まで把握できないからさ」
「なんで私が……」
生憎そこまでの義理を買って出るほど私は優しい人間ではない。それにチェンソーマンの正体を言いふらさないのだってある意味保身のためである。怖いことには巻き込まれず、極力平穏穏やかに生きてきたい人間なので。
「もちろんタダでとは言わないよ。代わりに一つだけキミの願いを叶えてあげる」
「何でも?」
「俺が出来る範囲でのことにはなるけどね」
「じゃあ逆立ちで校内一周してほしいって言ったらやるの?」
「キミっていい趣味してるね」
乾いた声で笑い「それくらいならやるけど」と平然と言ってきた彼を慌てて止める。本当にされでもしたら逆に私が皆から白い目で見られそうである。正直見返りもいらないので監視役は断りたいところではあるがふと今朝の事を思い出す。どうせ逃げ出そうとしてもまた強制的にやらされるんだろうな。
「分かった」
「キミならそう言ってくれると思ったよ」
「でも私が出来ることにも限りがあるからね」
「もちろん分かってるさ。それより願いは決まった?」
「それは保留ってことにしといて」
授業前の予鈴が空に響いた。これはもうお昼ご飯は諦めた方がいいらしい。げっそりとした私を余所に吉田君は少しばかり晴れやかな表情をしていた。
「分かった。じゃあこれからよろしくね」
この人は太陽の光が似合わないなと思いながら私は曖昧に頷いた。
◇
随分と安請け合いをしてしまったがこれは実に面倒くさいことだった。クラスの誰かがチェンソーマンの名を口にする度にソワソワし出すデンジ君を制しさせたり、定期的にその様子を吉田君に報告したり。そして極めつけはこれ。
「実は彼女いるんだよね、だからキミとは付き合えないかな」
なんとあの時の「付き合う」という選択肢が現在進行形で実行されていた。その話はてっきりなかったことにされていると思ったのにそんなことはなかったらしい。持ち前の顔の良さでモテる吉田君は告白の断わり文句として私をダシに使っていた。
「これっていつまで続くの?」
このまま良いように使われるのは御免だ。だから定例報告の場となっている放課後の屋上にて吉田君に不満をぶつけた。手すりに寄りかかりながら項垂れている私を余所に吉田君は肘を付いてビルの隙間を眺めていた。
「少なくともキミがデンジ君と別のクラスになるまでかな」
「長い……」
魂が抜けるほどの長いため息をつけば「幸せが逃げるよ」と小言が飛んできた。じゃあ捕まえてきてよ、と言えば「わかった」と返って来たので慌てて学ランの裾を引っ張った。
「なに?」
「今本気で飛び降りようとしたでしょ?!」
「だってキミが言ったから」
嫌ならはっきりと言えばいい。でもそれができない理由が今のような出来事に結び付く。吉田君は私の願いを本当に一つ叶えてくれるらしい。だから軽はずみなお願いを言おうものならすぐに実行に移そうとする。一見冗談だと思われるだろうが前に、購買で売られてる幻のメロンパン食べてみたいんだよねと世間話をしたところ本当に行ったらしく「明日は絶対手に入れるよ」と言われたため断った記憶がある。
「今のは例えみたいなものだから!やらなくていいから!」
「そう?でもキミがここまで頑張ってくれてるのに俺は何もしてあげられてないから申し訳ない気持ちもあるんだ」
「じゃあ今すぐこの関係やめない?」
「それだと俺はどんな手を使ってもキミの記憶を消さないといけないからなぁ」
「え……」
「チェンソーマンのことバラされたら困るからね」
それは些か笑えないジョークだね。隣を見れば真っ黒な瞳を細めて笑われたのでこれ以上は触れまい。手すりを握りしめたまま上体を仰け反って肩の筋肉を解す。見上げた空は晴天で絶好のお出かけ日和だ。
「分かったって」
「ありがとう。ねぇ今日はこの後暇?」
「……特に用事はないよ」
「一瞬は警戒するのに本当の事言うんだね」
「だってもう嘘つき呼ばわりされたくないから」
ほんの少しだけ毒を含んだように言ったものの何の効果もなかったらしい。吉田君は「いい心がけだね」と諭すように言った。
「この後出掛けない?日頃のお礼に何かプレゼントするよ」
「いいよ、いらない。欲しい物もないし」
「もちろんこれは最初に言った願い事とは別にだよ」
「だとしてもいらない」
「遠慮しなくていいのに」
そうじゃないって。どうやらお次は私が吉田君を諭す番のようだ。改めて吉田君の方へと体を向ければ彼も気付いたらしい。手すりから離れて私と向き合った。
「吉田君。確かに貴方みたいなかっこいい人と出掛けられてプレゼントまで貰えたら大半の女の子は喜ぶと思うけど私はそうじゃないから」
「俺の事嫌いなの?」
「そうじゃないけど腹の底が見えなさ過ぎてちょっと苦手……かな」
意気込んではみたものの最後の言葉は尻すぼみになってしまった。感情は顔に出やすいものの言葉にするのは苦手だったりする。だから負の感情を口にしたことで胃の中から罪悪感がせり上がってきたのだ。
「じゃあやっぱり出掛けようか」
えっ今の話聞いてましたか?私の後悔など余所にその強靭なメンタルにこちらは口を半開きにすることしかできなかった。そして同じ口の形で思ったことを言った。
「なんで?」
「キミの信頼を得たいからね」
「信頼はなくても約束は守るってば」
「これは俺の問題」
私の返事を待たずして吉田君は歩きだす。その場から動かずにその背を見守っていたところで屋上の入口でこちらを振り返った。かと言って何を言うわけでもない。吉田君は知っているのだ、無言に耐えきれなくなった私が後を追ってくることを。思い通りに動くのは癪だけれど結局根負けした私は彼の元へと走っていった。
行きたい場所があるのかないのか分からないが吉田君の後ろを着いていく。そこはちょうど先日悪魔が暴れた場所であり今は修繕工事の為、道幅が大分狭くなっていた。だから隣に並ぶことが出来ずそれが返って有難かった。
「あっ」
「なに?」
「ちょっと寄り道」
吉田君の背中広いなぁなんて思いながら学ランの一点を見つめていればそれが急に視界から消えた。そしてちらりとこちらを見てから足早にすぐ傍の路地へと入っていく。その広い背中を追って日も当たらぬ湿った地へと踏み入れた。
「元気してた?」
私がちょうど追い着いたところで吉田君はその場にしゃがみ込んでいた。どうしたの?と尋ねれば彼は立ち上がり体の向きを変えた。その彼の腕の中には手足と鼻先が黒い猫が一匹。それはあの時私が助けようとしていた子で、アーモンドアイをまん丸にしながらひと鳴きした。
「ほらネコ」
「なっ…?!はっくしゅん!まっ…くしゅんッごめ、近付けな……ぐしゅん!」
「え、ごめん」
慌ててハンカチを取り出して口元を覆う。そしてもう二回ほどくしゃみをしたところでようやく落ち着いた。後ろからの「大丈夫?」の声にぐずぐずになりながら大丈夫だと答える。
「キミってもしかしてネコアレルギー?」
「検査とかはしてないけど多分そう」
「よくそれでネコを助けようだなんて思ったね」
「あの時はそんなこと考えられなかったの」
猫アレルギーではあるが猫が嫌いというわけではない。だからこの子が危ないと思った瞬間、気付いたら駆け出していた。本当は家に連れ帰ってあげたかったけれどそれは難しく、だから仕方なくその場で逃がしたのだった。
「キミってかっこいいね」
「でも結局助けてくれたのはチェンソーマンで、うわっ」
「にャ〜」
いつの間に吉田君の腕の中から抜け出たのだろうか。足元で猫が鳴いた。その子は足首に胴体を擦り付けながらこちらを見上げている。その光景はとても可愛いとは思うけれど猫と触れ合った経験がないためどうすればいいのか分からない。
「な、なに?」
「お礼を言ってるんじゃないかなぁ」
「にゃア」
吉田君の言葉に同意をするかのように鳴く。だからその場にしゃがんで口元をハンカチで覆いながら手を伸ばせば猫がじゃれついてきた。頭を優しく撫でていれば同じように隣にでしゃがみ込んだ吉田君に「耳の後ろ触ってあげると喜ぶよ」と言われたので指先でかいてやる。そうしたらゴロンとその場に寝転がった。
「随分と懐かれたね」
「そうなのかな?ふぇ……ッもう限界かもしれない、吉田君パス」
「えぇ?」
猫から逃げるように吉田君の後ろに隠れる。くしゃみが出そうで出なくてじっとしていると回り込んできたのか同じ猫がまた目の前にいた。そして不満げにナァナァ鳴く。私はややパニックになりながら学ランの背を何度も叩いた。
「吉田君、吉田君、猫いる、猫」
「ごめん、俺じゃダメだったみたい」
「諦めないで、早くどうにかして」
「そのためにまずは離れてもらってもいい?」
「わっ?!」
猫が飛び掛かって来たと同時に尻もちを付く。しかし猫が着地したのは私の腹の上ではなく吉田君の腕の中だった。着地というよりは伸びて来た腕に進行方向を塞がれそこにぶら下がっているというような体勢である。
「もうキミの気持ちは十分伝わったからその辺にしといてあげて」
「ニ゛ャー」
「ダーメ、彼女は今から俺とデートなの」
抱けあげた猫を諭しながら路地の奥へと歩いていく。そして十分に離れた場所で吉田君は猫を下ろした。そこには他にも猫がいたらしい。姿は見えなかったがいくつかの鳴き声が聞こえてまた静かになった。
「大丈夫?」
「うん、ありが、…ぐしゅん」
スカートに付いた埃を払いながら立ち上がる。そしたらまたくしゃみをしてしまった。猫はいなくなったがまだ毛が舞っているのだろう。そして付け加えるならば多分吉田君の学ランにも毛が付いている。
「ごめん、吉田君それ以上近寄らないで」
「……あぁそっか」
私の様子を見て察したのだろう。吉田君は私から少し離れた場所で学ランを脱ぎ、それを畳み腕に掛けて戻って来た。
「これなら大丈夫そう?」
「うん。だけど吉田君は寒くないの?」
「俺は平気。あとこれあげる、配ってたやつだけど」
差し出されたのはコンタクトレンズのチラシが入ったポケットティッシュだった。先ほどから鞄の中を探してみても見つからなかったので正直助かる。ありがとう、と言って受け取り早速数枚使わせてもらった。
「キミってお人好しなんだね」
「はい?」
「初めはただの偽善者かと思ってたんだけど違ったんだなって思って」
「はぁ」
鼻をかむのに必死で適当に相槌を打つ。丸めたティッシュは近くにあったゴミ箱にこっそりと捨てさせてもらう。そうしてようやく落ち着いた私を見て「あっでも『猫好し』と言った方が正しいのかな」と自問自答していた。
「あのさ、もう少し分かりやすく言ってもらっていいかな」
「独り言だから気にしないで」
「つまり扱いやすい人間ってこと?」
「そんなこと言ってないよ」
「吉田君の心を読んだまでだよ」
「じゃあ俺が今考えてること分かる?」
それこそ自問自答してくれと言いたかったが自分から振った手前付き合わないわけにはいかない。うーん、と鼻をすすりながら首を傾ける私を吉田君は珍獣でも見ているかのような目で見ていた。
「『コイツいつまで鼻水出してんだよ』って思ってるでしょ」
とっとと終わらせてやろうと自虐気味に答えてみたが外れていたらしい。そのことは言われなくても顔を見ればすぐに分かった。無表情そうに見えて意外と吉田君の感情の変化は分かりやすいのかもしれない。
「ハズレ。正解は『真剣に考える顔が可愛いな』でした」
「嘘つき」
「本当さ」
とりあえずここから移動しようか、と私に考える隙を与えずに付け加える。どこか腑に落ちないまま路地から出れば太陽が眩しい。そして目の前を歩くシャツの白が目に染みた。
「じゃあデートの続きでもしようか」
「デートじゃないでしょ」
「男女が二人で出掛けたらデートでしょ」
言葉尻を真似てくるあたり揶揄われてることは分かってる。でも嫌な気はしないのは私が吉田ヒロフミという人物に絆されている証拠なのだろうか。でもそれを認めてしまうのもなんか悔しい。ただ私の経験上、猫好きに悪い人はいない。
「ドラッグストアに寄ってもらってもいい?」
「もちろんいいけど、もしかして薬必要なほど辛い?」
「違う、マスク買ってくる。そしたら学ラン着てもらって大丈夫だから」
今だにむず痒い鼻をすすりながら答えれば意外そうな目でこちらを見てきた。かと思えば顎に添えていた手で口元を覆い小さく笑う。
「ティッシュもマスクもいくらでも買ってあげる」
いや、一つで十分なんだけど。それに自分で買うし。
しかしそんな私の気持ちとは裏腹に二つとも箱買いをしてきた吉田君には、最早嫌がらせされたとしか思えなかった。
◇
いつもは楽しみなはずの昼休みが最近では胃が痛くなる。先日、向こうのクラスへ出向いたのは私の方だった。そして昨日と一昨日は何もなかった。だから今日あたりに来るという私の予想は見事に的中した。
「ねぇ彼氏が廊下で呼んでるよ」
教室の出入り口へと目を向ければ吉田君が立っていた。少し前までは彼が姿を現す度に女子たちの冷ややかな視線とヒソヒソ声が背中を刺してきたわけではあるが最近ではそれもなくなった。それほどまでに日常的な光景となっていたのだ。
「何しに来たの?」
「ようやく幻のメロンパンが手に入ったよ。これキミの分ね」
「だからそういうのはもういいって言ったじゃん……」
「いらないの?」
「いる!」
これは決して私が吉田君をパシリにしているわけでも、また貢がせているわけでもない。きっとこのメロンパンはおそらく先日あげたクッキーのお礼なのだろう。
「せっかくだしお昼一緒に食べない」
「えぇ?デンジ君と食べたら?」
「彼はほら、今は椅子になるのに忙しいみたいだから」
「あー……そうみたいだね」
「じゃあ屋上に行こうか」
「あっ私のメロンパン!」
受取ったはずのパンを没収され着いて行くしかなくなってしまった。
こんな物々交換みたいなことが始まったのは吉田君が箱ティッシュとマスクをくれたのがキッカケだった。お金は払うと言ったのに「俺のせいだからいいよ」と言って受け取ってくれなかったのだ。さすがにそれでは私の気が収まらなかったので後日、コンビニで買ったペットボトルやお菓子をあげた。そしたら貰い過ぎたということでお返しに百貨店で買ったであろうチョコレートの詰め合わせを貰って……といった具合にやり取りが続いている。
「唐揚げ食べれる?」
「食べれるよ」
「茄子の煮びたしは?」
「食べれる」
「じゃあこれとこれとこれあげるね」
お弁当箱の蓋の上に唐揚げと茄子とピックに刺さったプチトマトを乗せる。そしてそれを吉田君に差し出した。箸は自分の分しかないのでピックでどうにか食べてもらいたい。
「いいの?」
「人の手作りが大丈夫なら」
「ありがとう」
吉田君のお昼は購買のパンだけだったのでおかずを分けてあげた。それにメロンパンも食べたいから多すぎたんだよね。だから寧ろ食べてくれて助かる。
「唐揚げも茄子も美味しい」
「本当?お父さんには味が薄すぎるって言われたからちょっと不安だったんだよね」
「もしかして自分で作ってるの?」
「うん、うち父子家庭だからね」
母は銃の悪魔が日本に上陸した時に巻き込まれて死んでしまった。幼過ぎて当時のことはよく覚えていないけれど父がいるから寂しいと思ったことはない。
「そうだったんだ。踏み込んだこと聞いてごめん」
「気にしないで。寧ろ私が気にしてないし」
「ねぇ失礼を承知でひとつ聞いてもいいかな」
お弁当を食べ終えてようやくメロンパンを口にできる。袋から取り出せば風に吹かれて甘い香りが漂った。そんな幸福に包まれていた中で吉田君の声がワントーン低くなった。
「なに?」
「チェンソーマンの事を怖いって思わないの?」
「思わないよ」
「彼って今やヒーロー扱いされてるけど悪魔という見方もできるよね。母親を殺されてキミは悪魔の事を恨んでないの?」
お預けを喰らってしまったので手元のメロンパンはまん丸のまま。それを見つめながら私は考える。
「全く恨んでないって言ったら嘘になるけど悪魔って食事の為に人間を襲うんだよね?」
「一般的にはそうも言われてるね」
「となるとそれも一つの食物連鎖かなと」
人が鶏を殺して唐揚げにして食べるのと同じこと。ただ食べられる側の人間が悪魔と対抗できるだけの知能と力があるからこのような戦いが日々起きてるってだけ。だから一概に悪魔を人殺しと言い恨むことなど、理解はできても私自身同じ考えは持てないのだ。
「さすがに自分や大切な人が死んだりするのは嫌だけどね」
銃の悪魔のような無作為な殺戮は確かに許せない。でも私にはそういう悪魔に立ち向かう覚悟も勇気もないのでひっそり平凡に生きていきたいのだ。だから難しいことは敢えて考えないようにしている節もある。
「なるほどね」
「あんまり良い事言えなくてごめんね」
これで会話も終わりかと思い口を開けてメロンパンを迎え入れる準備をする。しかし横から伸びてきた手がそれを許さなかった。
「もうひとつだけ聞いてもいい?」
「えぇー……」
手首を握られたまま絶望的な顔を向ければ笑われた。失礼な人だな。まぁ今に始まったことじゃないけどね。だから諦めて、どうぞと言って先を促した。
「ネコが危ない目に遭ってたらまた助ける?」
「もちろん」
助ける助けないを考える前に足が勝手に動き出すのだ。というのもおそらく母親の影響なのだろう。話していて思い出したが昔うちでは猫を飼っていた。私がアレルギー体質と知ってからは祖母の家に預けてはいたが母は大の猫好きだった。
「そっか」
「じゃあもうこの話はお終いね」
「分かった。ねぇそのメロンパンひと口貰ってもいい?」
この後に及んでまだお預けさせるのかと叫びたくなったが元はと言えば吉田君が買ってきたものなので文句は言えない。しかし己の食欲が勝り、いいよと言いつつも自分が先に一口食べてから千切って渡そうと考えた。でも「いいよ」の言葉から吉田君の行動は早かった。
「あーーー!!」
「へぇ美味しい。さすが幻だね」
私の手ごとメロンパンを手繰り寄せてひと口かじった。口の端についた砂糖の粉を舐めとって薄く笑う姿に私は初めて“恨む”という感情を覚えた。
「なんで食べたの?!」
「いいよって言ったのはキミでしょ」
「吉田君は待てが出来ないの?!」
「犬じゃないからね」
確かに犬よりは猫っぽい気がする。そう伝えれば「キミは犬っぽいね」と言われた。なるほど、従順でお預けを喰らっても待てができるところかと気が付けば「今回は俺が考えてること分かったね」と頭を撫でられた。こんなことで褒められても嬉しくない。あと私は犬じゃないからやめてほしい。
◇
吉田君は学校に来たり来なかったり。以前より彼が学校をサボりがちである事は知っていたけれど三日ほど顔を見ないと少なからず心配にはなってくる。だから四日目の今日も学校に来なかった彼の居場所を聞くために放課後デンジ君に声を掛けた。
「はぁ?オレが知るかよ」
しかし返ってきた答えは私の期待には添えないものだった。それと私が吉田君と付き合ってるという話を聞いてからデンジ君は少し冷たくなったような気がする。まぁ元々仲がいい方でもなかったのだが。そうしてすぐにそっぽ向かれてしまったわけであるがその時、彼の頬に引っかき傷があるのに気が付いた。
「頬っぺた大丈夫?」
「あ?」
「首とか手の甲も怪我してる。絆創膏あるけどいる?」
「いる!」
現金な性格なのか絆創膏を数枚差し出せばニコニコしながら受け取った。そしてその怪我は猫に引っ掛かれて出来たものだと教えてくれた。
「そういえばそん時アイツと会ったな」
「それっていつ?」
「えーっと昨日!」
その言葉を聞きすぐにあげた絆創膏を取り返した。この素早さはメロンパンを奪われたときの速さに匹敵する。
「おい!何すんだよ!」
「場所知ってるじゃない!どこで会ったの?」
「ただ見ただけだっつーの!新宿の猫がたくさんいる路地裏だよ!」
オレんの返せ!と噛みついてきたデンジ君に絆創膏を渡す。そしたら「アイツに似て性格悪くなったな」とボソッと言われたが気にすまい。自分の鞄を持って急いで教室を後にした。
その裏路地は以前吉田君と来たことがある場所だった。猫の姿は見えないが念のため口元をハンカチで覆い奥へと進んでいく。こんなことならマスクを持ってくればよかったと少し後悔。
「え、血……?」
しかしそれもすぐに気にしていられなくなった。湿り気を帯びたアスファルトの上に点々と赤い水が足跡のように落ちている。恐る恐るつま先で触れて擦ってみるとそれはイチゴジャムでもなく確かに血だった。
「こんなところで何してるの?」
「ぎゃー!!」
その跡を辿り奥へ奥へと進んでいたところで背後から声を掛けられ飛びのいた。自分の叫び声に誰よりも驚いたのは私で、声を掛けてきた本人は眉ひとつ動かさなかった。
「びっくりした」
「それはこっちの台詞だよ!よし……っくしゅん!」
「ごめん。この子足を怪我してて下ろして上げられないんだ」
改めて吉田君を見てみると彼の腕の中には白色の毛を赤く染めた猫がいた。しかしそれよりも驚いたことは吉田君の体が血だらけだったこと。猫が怪我していることを差し引いてでも汚れ過ぎている。
「吉田君はっ…しゅんッ、大丈夫なの?!」
「俺のは全部返り血だから」
「本当?!とりあえず猫はッ…預か、ぐしゅんッ…から!」
「えぇ?」
言い淀んだ吉田君を無視して猫へと手を伸ばせば意外にもあっさり抱えさせてくれた。様子を見る限り怪我は大したものではなさそうだ。なるべく呼吸をしないように気を付けながら吉田君を見る。
「本当に、怪我はない?」
「多少の打ち身はあるけど問題ないよ」
「それなら、私が…くしゅんッ…この子、病院ッ…ぐしゅ、連れてく!」
「目と鼻がすごく辛そうなんだけど」
「だっ、くしゅん!」
くしゃみで返事をするくらい症状がひどくなっているがこの猫を渡すつもりはない。涙で視界が歪み吉田君の姿もよく見えないが「分かった」と無理やり自信を納得させたかのような返事があった。しかし、自分も一緒に行くことは譲らなかった。
血だらけの学生の登場に動物病院の先生を大分驚かせてしまったが「交通事故に遭った人を手当てしていた」という内容で何とか誤魔化した。その事故に巻き込まれた猫ということで診察をお願いしたが見た目よりも傷は浅く直ぐに良くなるとのことだった。
「吉田君は本当に大丈夫なの?」
動物病院に猫を預け日の暮れた道を並んで歩く。夜のお陰で血に濡れた服はあまり目立たずに済んだ。それでもできるだけ街灯の少ない道を選んでひっそりと歩いた。
「そんなに言うなら見てみる?」
「ちょっと服捲り上げようとしないでよ!」
「見たいって言ったのはそっちでしょ」
「言ってないよ!」
吉田君の腕を掴んで止める。確かに服は汚れているがいつも通り歩けているし本当に怪我はしていないようだ。会話の調子がいつも通りなところが何よりの証拠だった。
「怪我の心配はするのにどうして血だらけなのかは聞いてこないんだね」
街灯に集まる虫の羽音くらいしか聞こえない夜道で静かにそう聞かれた。それに関しては何となく予想が付いてるから私は驚かなかった。ほら、私って吉田君の心が読めるからさ。
「デビルハンターなんでしょ」
「アタリ」
今回は外さなかった。でもそれが私にとって嬉しいことなのかどうかは分からない。だってデビルハンターはすごく危険な仕事だから。現に吉田君は悪魔の目撃情報があったためにあの裏路地を張っていたらしい。で、その悪魔をちょうど退治し終えたところで私と出会った。
「真っ向から人間を襲えないくらい弱い悪魔だったからネコを餌にしようとしたみたい」
隠れるのが上手くて手こずったらしいが被害が出る前に処理できたとも教えてくれた。よかった、と私が言えば吉田君も静かに頷く。
「俺がデビルハンターって知ってもあんまり驚かないんだね」
「私が助けた猫のことまで知ってたら何となく察するよ」
猫を助けたことだけならデンジ君から聞いた可能性もあった。でもその猫の特徴まで教えたとは到底思えない。だからきっとあの時も吉田君はあの場にいたはずで、また自ら「ある組織に所属して」と言ったからには彼もまたデビルハンターではないかと思ったのだ。
「そっか。またあの驚いた声が聞けると思ったんだけどな」
「それは残念だったね。ほら私って意外と賢いからさ」
「そうだった」
すごいね、と言って当然のように頭を撫でてくる。その行為に頭の中をクエスチョンマークが駆け巡るが一切の思考を放棄した。
「ねぇ、あの時の約束ってまだ有効?」
でもやっぱり恥ずかしかったから話題を変えた。軽く払えば頭を撫でていた手は簡単に離れていく。
「もちろん。但し俺に出来ることだけだよ」
チェンソーマンの正体を黙っておく代わりに一つだけ私の願いを叶えてくれると言ったあの約束。あれは未だに保留にしてあった。
「じゃあ大丈夫かな。これは吉田君にしかできないことだから」
「うん?」
真っ黒な目をまん丸にした吉田君はようやく年相応に見えた。それが嬉しくて頬が僅かに緩んでしまった。
「無茶しないで、命は大事にしてね」
私の大切な人の中にとっくに吉田君は含まれてるんだから。
吉田君はまん丸の目のまま一拍置いてフッと息を吐き出した。
「このお人好し」
「猫好しじゃないんだね」
「やっぱり聞いてたんだ」
面白くなさそうな顔をした吉田君を見て笑う。勝敗なんてないけれどようやく吉田君に勝てた気がする。でもやっぱり吉田君の方が上手だったらしい。顎に手を添えながら僅かに口角を上げた。
「今二つ言ったよね?無茶しないことと命を大事にすること」
「ほぼ同じ意味だけどね」
「でも内容は違うよね」
そのカウントの仕方はずるくないかな。そして吉田君は「それなら俺もキミにもう一つ頼みごとが出来るね」と言い出した。
「じゃあ今のはなしで」
「えっごめん、よく聞こえなかった」
「ピアスの開け過ぎが原因なのでは?」
「そんなわけないでしょ」
「聞こえてるじゃん」
ダメだ、こうなったらリセットするしかない。周囲を見回し何か硬い物はないかと探す。そしたら私でも持てるくらいのコンクリートブロックを見つけた。本当はバッドとかの方が良かったのだけど仕方がない。よいしょ、とそれを持ちあげて急いで吉田君の元まで戻る。彼はブロックと私を交互に見つめながら小首を傾げた。
「じゃあ人が来る前にどっちか選んでね」
「どういうこと?」
その表情を見てにやける自分がいた。どうやら吉田君の性格の悪さが移ってしまったらしい。でもそうと分かれば成りきれるかもしれない。だから出来るだけ感情を押し殺して淡々と言葉を続けた。
「今すぐ記憶飛ばされるのと私の彼氏になるの、どっちがいい?」
前者の場合はこのブロックの出番である。ただ本当に振りかぶることはできないのでこれは見掛け倒しだ。それでも十分に効果はあったらしい。吉田君は私から顔を逸らしてそれはもうガタガタと肩を震わせていた。おまけに過呼吸にまでなっている。そんなに恐れおののいてくれるとは。でもここまで怖がられると逆に心配になって来た。
「えっさすがに殴ったりはしないよ?」
「それくらい分かってる」
「本当だよ?」
「だから分かってるから。大丈夫、大丈夫」
自分に言い聞かせるようにそう言ってこちらを振り返った彼の口元は弧を描いていた。そしてその口が開いて「従順過ぎて心配になってきた」と言った。こっちだって吉田君にとって私が忠犬ハチ公にしか見えていないようで心配になってきたよ。
「もう一回だけ聞くよ、今すぐ記憶飛ばされるのと私の彼氏になるのどっちがいい?!」
今思えばこの時の自分は大分血迷っていたのだと思う。
後にこの話で何度吉田君に笑われたかも分からない。
「じゃあ彼氏にしてもらおうかな」
しかしその言葉通り本当の彼氏になったと思った吉田君と、片想いのスタート地点に立ったと思い込む私とでもう一波乱起こるのはまた別の話である。