幸福学的空想理論

今日も来た。
そう心の中でガッツポーズをしてわざとらしく本を立てる。対して興味もない植物図鑑は私の身を隠すにはちょうどいい。宛ら尾行をする探偵にでもなったかのようにその影から彼らのことを盗み見た。

「こっち空いてます」
「ふふ、ありがとう」

私と同い年くらいの男の子と学生服を着た女の子。女の子の方はおそらく高校生くらいだろうか。ふわふわの金の髪に蒼の瞳、その日本人離れした容姿は可愛いよりは美人系。私が今まで出会った中で一番綺麗だと思えるような女の子だった。

「どうぞ」

男の子が椅子を引いて女の子を座らせてあげる。そして再び女の子がお礼を言えば男の子はポッと頬を朱に染めた。しかしそれを諭られぬよう顔を伏せてすぐその隣の席に腰を下ろす。その様子を見て私も何故だか恥ずかしくなり開いた図鑑に頭を埋もれさせた。 

「えっ宿題は?!」
「うーん…少しお昼寝」

落ち着きを取り戻し、盗み見を再開する。男の子は机の上に教科書を広げ、片や女の子は腕を枕に上体を机に預けていた。男の子の方は起こそうか起こすまいか迷っているようだ。そんな男の子を見上げ女の子は「五分だけ、ね?」と言って長い睫毛を伏せた。それで男の子を黙らせてしまうのだから美人というのは中々に役得だ。しかし理由はきっとそれだけではない。

一目見た時に気付いた、この子はあの女の子のことが好きなんだって。恋愛小説を百冊以上読んできた私が言うんだから間違いない。ただ、実際の“恋”というものは本の中よりも甘酸っぱくてじれったくて。そしてひどく愛らしいものだった。

図鑑の陰にノートを開き右端に日付を書き込む。今まで読んでばかりいたけれど自分が書き手になろうと思ったのは彼等の影響だった。この二人の関係を他の人にも知ってもらいたい。そしてその本を売り出して大儲けしてやろうと子供ながらも悪趣味であり、あくどいことを考えていた。


これはそんな私が本を出すまでの話である。





その日は日直当番でいつもよりやや遅れて図書館に到着。自分の席の確保よりも、もしかしたらという期待を込めて辺りを見回した。すると私のお話の主人公である彼が一人で四人掛けのテーブル席に座っていた。今日は女の子の方はいないのだろうか。

「そこの席いい?」
「え?……あ、うん」

ならばチャンスだとばかりに私は声を掛けた。本棚から持ち出してきた数冊の本を机に置き彼の真向かいに座る。そしてじーっと見つめて約五秒。私の視線に耐えかねたのかその子は窺うように顔を上げた。

「……なに?」
「私ね、ずっと見てたんだけどもっとちゃんと言葉にした方がいいんじゃないかな。あの人ほわほわしてるしはっきり言わないと伝わらないと思うんだよね。それに高校生?でしょ?なら弟としか見られていない可能性もある」

敢えて言おう、ただのストーカーである。今の年齢であればきっと通報されていたに違いない。しかし当時の私は本当に目の前の事しか見えていなくて、ただ思ったことをつらつらと口にした。

「あの人のこと好きなんだよね、いつ告白するの?」
「勝手なこと言うな!」

ガタッと音を立てて席を立った彼の姿に私の口もさすがに止まる。その子は顔を真っ赤にして、特徴的な吊り目を見開いて私のことを見ていた。それは即ち肯定を意味する。私は彼を落ち着かせるためステイステイとばかりに両手を使って宥めてみせ再び椅子に座らせた。

「大丈夫、私はキミの味方だから安心してよ」
「は?味方?」
「うん。で、これは私のおすすめの小説ね。きっと役に立つよ」
「はぁ…」

そして三冊ほど積み上げた文庫本の山を差し出した。私が厳選に厳選を重ねた心のバイブル達。きっと彼の恋路の助けになるだろう。本当は一冊ずつ私の解説付きで紹介したいところではあるが彼の想い人が来る前にここを離れなければならない。私はあくまで村人B。序盤の道でキズぐすりを渡す程度のNPCにすぎないのだから。

「じゃあ頑張って」

満足気に親指を立てた私に対し彼は珍獣でも見たかのような顔をしていた。残念ながら私は動物園から脱走したジャイアントパンダではないのでそんな目で見ないでほしい。
役目を果たした私は席を立つ。その時、黒のランドセルに付けられた名札が目に入った。

『九井一』

そうか、この子は九井くんというのか。
主人公の名前が決まった瞬間だった。





私が的確なアドバイスをしてあげたというのに九井くんの恋は一向に進展しない。起承転結の“承”がいつまで経っても起こらない。これは由々しき事態である。なんせ本が完成しないことには私に印税が入らないからだ。

「ここの席、いい?」
「うわっ何しに来たんだよ」
「座るね」

私は九井くんの返事を待たずして彼の正面へと座った。ここ最近では珍しく彼は一人だった。そして自分の荷物を隣の机にまで広げているところを見るに、きっと彼女は来ないのだろう。そう見込んで私はあの日振りに彼に声を掛けたのだった。

「あれから何か進展した?」
「それは……」
「言えるときに言わないと後悔するよ」
「…ッ、ンなこと分かってるよ!つーかアンタには関係ないだろ」
「あるんだなぁそれが」

うんうんと頷いて私は本棚から持ち出してきた一冊の本を差し出した。その上にページ番号を控えたメモ用紙も一緒に乗せる。私が彼のために読み直して、そして彼のために書き写してきたものだった。

「この小説で参考になりそうなページ書いといたから読んでね」
「マジで何なんだよ……」
「応援してるから頑張って」

彼女が来ないからと言ってここに長居するつもりはない。今の私はあくまでシスター。お告げを言い渡したらそれでお役御免なキャラなのだ。

そして九井くんはやはり純粋な少年なのか数日後には行動に移していた。しかもそれは私の予想を遥かに上回る大胆な行動でこちらが恥ずかしくなってしまうほどだった。

「チューは好きな人と…だよ」

寝ている女の子にキスをしようとしたのだ。生憎、私の位置からでは二人の会話までははっきりと聞き取れなかった。しかし、視力二.〇で見た光景から今後の展開も大いに期待できるのではないかと思った。だから二人を尾行することにしたのだ。
言わずもがなこの行動はストーカー行為なのだが、この場では割愛しておく。

「——オレ…一生好きだから!大人になったら結婚してください!!」
「…じゃあ大人になるまで待ってるネ」

そして瞬きの間にエンディングまで迎えてしまった。
なるほど、実際の“恋”というものは本の中よりも展開が早くて分かりやすくて。そしてやっぱり愛らしいものだった。

塀の陰に隠れていた私は心の中で何度も、おめでとうと手を叩いた。これで本の完成である。でも、このままだと一冊分には満たない文章量だから後日談も考えないとなぁなんて妄想を膨らせて。そしてスキップしながら家に帰った。


今思い返してもこの時の私は本人たちよりも浮かれていたのだと思う。だからこそ、その後ろで黒煙が上がっていることなど知る由もなかったのだ。





九井くんはパッタリと図書館に姿を現さなくなってしまった。いや、今までだって毎日来ていたわけではない。でも一週間経っても、十日を過ぎても図書館には現れなかった。そして女の子の方も見なくなってしまった。もしや私の知らぬ地で二人仲良くやっているのだろうか。



「「あっ」」

しかし、それは私お得意の妄想であった。ラブストーリーは突然に、と言うわけではもちろんないが何の前触れもなく少女漫画さながらの再会を果たしたのだ。
経済学コーナーの棚から本を取り出そうしたところで手が触れる。そうして横を見ればブレザー服の男の子が。なるほど、九井じゃねーの。

「久しぶり」

一体全体キミはどこに行ってたんだ、と私は親しみを込めて挨拶をした。そんな私に対し九井くんは目を見開いて「……あぁ」と一拍の間を置いて淡白な反応をしてみせた。

「最近図書館来てなかったね。忙しかったの?」
「別に。つーかこれ借りてぇの?」

先ほど触れた九井くんの指先は一冊の本を示していた。私は少しだけ迷って首を横に振る。ものすごく借りたかったわけではない。中学生になってこの先の進路について考えるようになった。うちの家は片親だから経済的な負担を少しでも減らせないかと考え、この辺りの本を見ていただけなのだ。

「どうぞ」
「ン」

それを抜き取れば九井くんはその隣の本も、そしてもう一つ隣の本も抜き取り腕の上に乗せていた。大道芸人さながらのバランス感覚。その動きはひどく機械的で以前の子供らしさは消え失せていた。

「……なに?」

こちらを向いてくれることを期待して見つめていれば、きっかり五秒後に目が合った。しかし眼の下の肌は黒ずんでいてその瞳は私を映してなどいなかった。それにどのような反応をすればいいのか分からない。でもほっとくことなどできなくて、いつもの調子で問いかけた。

「今日は一人なの?」
「だから?」
「それ運ぶの手伝うから相席してもいい?」

そしたら九井くんはコビトカバを見たかのような顔をしていた。そんな彼に対し私は答えを聞く前に積み上げられた本をかすめ取った。そして断わりの返事を断ち切って席へと足を向ける。当然、私の座る場所は彼の向かい側だ。

「…ったく。邪魔だけはすんなよ」
「もちろん」

大きなため息をつき九井くんは積み上げられた本に身を隠すような形で座りページをめくる。そして私は二冊のノートを鞄から取り出した。一冊は数学のノートでもう一冊は通算三冊目になる私の小説ノート。そのどちらを開くか迷って——

「ア?なに?」
「なんでも」

結局、つまらない方のノートを開いた。だってこの時はようやく話の続きが書ける、という喜びより再会できたことに対する感動の方が大きかったから。だから私達の時間を大切にしたいと思ったんだよね。まぁその前に勉強しろという話だが。



九井くんの片想いがどうなったのかは分からない。でも彼と同じ机で行う勉強は中々に集中できた。そして文句を言われないことをいい事に私は彼の向かいに座り続けた。でも本当にそれだけ。互いに会話することだってないし向かいに座ったからといって目が合うこともない。窓から見える空が天色から茜色に、そして夜に染まるまでの数時間を同じ空間で過ごすというだけだった。


そして、そんな私達の関係が僅かに変わったのはこの時だったと思う。


「おーい、もう閉館時間ですよ」

外はすでに藍に満たされていた。別れのワルツが流れる館内では人が一人二人と外へ出ていく。そんな中、一時間ほど前からぴくりとも動かなくなってしまった九井くんの肩を叩いた。

「悪ぃ、迷惑かけた」
「いいって。そういう日もあるよ」

初めて二人揃って図書館を出た。そうすれば館内の電気は落とされ私達の周囲を照らすのは蛾の舞う外灯一本のみ。そんな場所で見た九井くんの顔は真っ白で、でも目の下だけが異様に濃くて幽霊のようだった。

「体調悪いの?」
「別に」

先を行く彼の背を追って階段を降りる。そしていつもなら左へ進むところを、体を右回り九十度へと方向転換しアスファルトに浮かんだ影を踏んだ。そして小走りに追いかけて隣に並ぶ。

「オマエどこまで着いてくんの?」
「家までかな」
「はぁ?」
「だってすごく眠いみたいだしこのままだと歩きながら寝そうだからさ」
「ンなワケあるか」

手で追い払うような仕草をされたが見て見ぬふりしてやった。九井くんのストーカー歴約二年の私を舐めないでいただきたい。いつも気付けば傍にいる、そんな自他共に認めるヤベー女の私には拳銃の一丁や二丁持ってきてもらわないと。

「いつも徒歩でここまで来てるの?」
「……あぁ」

そして折れたのはやっぱり九井くんの方だった。彼は先ほどよりも少しだけ歩幅を狭め速度を落とす。

「ねぇ知ってる?あの角にあるコンビニの店長ヅラなんだって」
「クソどうでもいい情報な」

私から話しかけなければきっと会話は途切れてしまうのだろう。でもそれは全く苦ではない。いつも物思いにふけっている分、九井くんといるときくらいはこのくらいがちょうどよかった。

「今度見に行こうよ」
「オレにそんな暇ねぇよ」

私は割とのんびりこの会話を楽しみたかったのに九井くんは違ったらしい。というか中学生のくせに何を生き急いでいるのやら。死に急ぎ野郎ならぬ、生き急ぎ野郎である。人生まだまだ長いんだからそんなに焦って生きなくたっていいのにさ。

「オマエももう帰れ」

通りに沿って歩き大通りの信号前でそう告げられた。そこで私は不思議なことに気付く。確かに図書館を出た時は家の方角と逆方向に進んでいたはずなのに今いるのは私が帰るときに使う道だった。

「あの、」
「青なんだから早く行け」

私の言葉に被せるようにそう言って。そして背中を押されてたたらを踏んだ。その勢いのまま白線の上をいち、に、さん、と跳ねるように渡りきり点滅する信号を背にして振り返った。

「またね!」

信号が切り替わり車の列が私達の間を走り過ぎて行く。そんな雑踏の中、私の声が届いた保証なんてない。でも微かに動いた彼の口元を私は都合よく捉えたのだった。
 




季節は廻り、気付けば中学三年生になっていた。土曜日である今日は午後の授業はなく、誰もいなくなった教室で私はパンフレットと睨めっこしていた。それはつい先ほど担任の先生からもらったもので、授業料免除の特待制度がある高校の案内だった。いつまでも空想に耽っていないで私も現実を見るときがきたのかもしれない。



「すっご……」

いつもより重いスクールバックと共に図書館へと向えば窓際の本棚の上で寝ている人を見つけた。着ている白い上着の肩の部分には『狂乱麗無』の四文字。ハイヒールを履いてはいるけれど見える足首や骨張った手からその人が男だということが窺えた。

「ん?」

興味津々でその人のことを観察していたところで私の頭の中で一人の女の子の姿が思い浮かぶ。ふわふわの金の髪に長い睫毛。寝ているため瞳の色こそ分からないがあまりにも彼女に似すぎていた。

カツン、カツン———

固い床を靴底が鳴らす音が聞こえ直ぐそばの本棚に身を潜める。別に隠れる必要もないのだけれど、いけないものを見てしまったかのような後ろめたさがあった。とはいえ、こんなところで暇を持て余している場合ではない。受験生にとって今この瞬間の一分一秒が貴重なことには変わりないのだ。

「イヌピー」

しかしその一秒はいとも簡単に私から消え失せた。棚の陰から覗き見れば九井くんが先ほどの私と同じように睫毛を伏せている彼の横顔を見つめていた。その時間は瞬きするよりも長い時間で、呼吸をするよりも短い時間だった。そして外からの風によりカーテンがはためいた瞬間、私は見てはいけないものを見てしまった。

「…、っ?!」

直接見たわけではない。でもカーテンの向こう側で二人の顔が重なったのだ。心臓がうるさいくらい音を立て私は本棚の縁に手をかけてずるずるとその場に座り込んだ。いやいや、落ち着け私。今や多様性の時代、私が知らないだけでそういう人達は五万といるのだろう。まさか九井くんがそっちの人だとは思わなかったがきっと私の知らないところで色々とあったに違いない。図書館に姿を現さなくなったあの期間、ダーマ神殿に行きジョブチェンジ的な儀式だってしていたのかもしれない。

「赤音さん…」

しかしその消え入るような一言で、私のひどい妄想は一瞬にして消え失せた。

狭い町だ、調べたらすぐに分かった。友達の姉の学校で火災に巻き込まれ昏睡状態になっている女の子がいたらしい。そしてその子は目覚めることなく享年十七という若さでこの世を去った。『乾赤音』という名前と、そして修学旅行時の写真を見せてもらい私の想像が確信に変わった。その子は九井くんの好きな女の子だった。





二度目の偶然は必然なのだと言ったのは、一体誰であっただろうか。しかし図書館を第二の家のように使っていた二人が書店で再会を果たしたのはやはり必然であったのかもしれない。

「すみません、この本置いてありま…っ、」
「やぁ」

本棚の在庫確認をしていたところで声が掛けられる。それに対しノールックノータイムで反応をしてみせた私に九井くんはオカピを見たかのようなリアクションを取っていた。すごいよ、九井くん。これで世界三大珍獣が出そろったね。

「なんでオマエがいんだよ」

決してあの出来事があったからではない。でもちょうど時を同じくして母の親戚が受験勉強を見てくれることになり図書館へと通う頻度が減ったのだ。だから九井くんの姿を見ることもなくなった。そして今日が約一年ぶりの再会だった。

「そりゃあここが私の家だからだよ」
「は?嘘だろ」
「嘘だよ。バイト先」
「今なんでくだんンねぇ嘘ついたんだ」

NO MUSIC NO LIFEと言うならば私のモットーはNO ZATSUDAN NO LIFEである。そう持論を唱えれば過去に幾度となく聞いたため息が盛大に吐き出された。見た目はあの時よりもかなり変わってしまったがそういうところは何も変わっていないんだね。だから私はやっぱり彼のことが心配になった。

「今の会話で心の余裕があるのか見定めてたの」
「余計なこと言ってねェでさっさと本探せ」

走り書きがなされたメモを渡される。その本は一度言われただけでは覚えられないような長ったらしいタイトルで、そして些か高校生が読むようなものではなかった。
一度レジカウンターへと戻り検索用のパソコンでタイトル検索をする。そうすればここの店舗にはなく取り寄せという形になった。

「三日後にこの店に届くから」
「わかった」
「メモは返すね」
「いや、もういらねぇ」
「私の連絡先も書いといたからあげる」
「ますますいらねぇな」
「引き換え伝票と一緒にホッチキスで留めといたからさ」
「余計な事すんな」
「どういたしまして」

はい、と二枚重ねになった伝票を渡せばそれは仕方なしに財布の中に収められた。その嫌悪を隠さない姿はいっそのこと清々しくて私に昔を思い出させてくれた。だから勇気をもってもう一度あの言葉を口にした。

「じゃあまたね」
「またな」

そしてあの日聞き取れなかった言葉を私は今度こそ耳にした。





「引き取りに来たんだけど」

カウンターの隅で作業をしていれば手元に影が落ちた。私は手に持っていたペンにキャップを付け顔を上げる。そして店員らしく、いらっしゃいませと微笑めば「胡散くさ」と鼻で笑われた。こちらとしてもスマイル0円で提供しているのだから苦情はお断りである。

「三千百五十円になります」
「ン」

千円札を四枚を出されたのでレジに打ち込み釣銭を用意する。そうして手渡そうとしたところで九井くんの視線が在らぬところに向けられていることに気付いた。それは先ほどまで私が作っていたもの。

「この本面白いんだよ」

私は書きかけのポップと一冊の本を彼に見えるように持ち上げてみせた。平積みになるほどの話題の本に関しては任せてもらえないがおススメの本のポップを作るのは私の仕事だった。

「学年一の美少女に一目ぼれしたヤンキーの恋愛小説」
「フィクションとしてはありがちな設定だな」
「でもお付き合いするまでの過程が面白いんだよ。一日一回告白をするんだけどそれが毎回突拍子もなくて読者の斜め上を超えてくるの。でも最後は女の子が屋上から大声で叫んで告白するんだ。私の予想だと近いうちに映画化されると思うんだけどもしよかったら読んでみない?」
「今盛大なネタバレ喰らったんだけど」
「あっ」

しまった。楽しくなってつい喋り過ぎてしまった。

「それいくら?」

しかし硬直した私を差し置いてトレーの上には千円札が乗せられた。びっくりして顔を上げれば「足りねぇの?」と言われさらにお札が乗せられそうになったので急いでレジを打つ。そしてお釣りを渡し、二冊分入れた紙袋を差し出した。

「本当に良かったの?」
「暇潰しに読むわ」
「それなら感想はメールで送ってね」
「いや送らねぇけど」


私の接客が心に響いたのか、それから九井くんはよく店に来るようになった。といっても買っていくものといえば小難しそうな本ばかり。その度に私は自分の好きな本を薦めてみせた。打率としては九割五分という高頻度で九井くんは薦めた本を買って行った。なお、一度も感想をくれたことはないので本当に読んだかは不明である。





信じられないものを見てしまった。
コンビニに今月分のガス代を支払いに行った帰りだった。すぐそばの脇道から何やら怒鳴り声が聞こえてきて、興味本位で見に行ったら殴り合いが行われていた。その子たちは白の特攻服を着ていて如何にも不良してます、といった男の子たち。そして彼らに命令を下していたのが他でもない九井くんだったのだ。

「あ、」

そしてバッチリと目が合い、見つめ合うこと約五秒。九井くんはお仲間たちを先に帰らせてからもう一度私を見て「出てこい」と言った。

「その服すごく暑そうだね」
「第一声がそれかよ」

そして改めて九井くんの全身を見たが真夏の夜の特攻服って見ているだけで暑苦しい。そして本人もそう感じていたらしい。上着を脱いで黒のトップス一枚になっていた。

「不良だったんだね」
「悪ぃかよ」
「別に」

九井くんがよく言うように真似してみせればお決まりとなったあの顔をされた。もう珍獣と呼ばれる動物のストックがなくなってしまったのでその顔はやめて頂きたい。

「少し付き合え」

促されるまま後ろを着いて行けば歩く速度が落とされ自然と並ぶ形になる。だから、どこ行くの?と聞けば「コンビニ」と言われたので、まだヅラはいるよと教えてあげた。そしたら鼻で笑われた。私のとっておきの珍獣情報だったのにな。

「好きなの選んでいいぞ」

そしてコンビニでの目的はアイスを買うことだった。しかも奢ってくれるらしい。そんな義理もないので断ってみたが「口止め料」だと言われてしまえば私も納得できた。誰に言うわけでもないけれどそれで九井くんが満足するならば有難くその申し出は受けておこう。

「マジで安上がりだな」
「だって美味しいから」

そして選ばれたのはガリガリ君でした。一本六十三円のソーダ味は今も昔も庶民の味方。駐車場と歩道を隔てる縁石並んで座る。ビニールの包装を開けた私の横で九井くんはお高そうな箱からクリスピーサンドを取り出していた。

「本、面白かった」

そして私のアイスが半分ほどなくなった頃、唐突にそう告げられた。九井くんからの話題提起は今思えばこの時が初めてだったのかもしれない。

「じゃあ次のおすすめはね、親友と同じ人を好きになった男の子の話かな。三角関係だけど男の子同士の熱い友情も見どころの一つなんだ」
「相変わらずベタな話好きだよな」

令嬢と貧乏学生の話、生徒と教師の話、最悪な第一印象から恋愛が始まる話…いっつもそんなんばっか———その言葉を聞き終えた私は、おそらく珍獣でも見たかのようなすごい顔をしていたのだと思う。

「本当に読んでくれてたんだね」

その小説はまだ名前も知らなかった彼に最初に押し付けた三冊だった。

「興味なかったけど逆に気になって読んだわ。ページ数書かれた紙と一緒に渡された本もな」

まさか、と思ったがそれを疑う気にはなれなかった。だって九井くんはそんな嘘をつくような人ではないから。それは図書館で初めて彼と出会ったときから気付いていた。そしてバイト先で再会をした時も先ほどのあの現場を見ても尚、私の九井くんに対する印象は変わらなかった。

「ありがとう」
「別に」

思い返せば九井くんとは長い付き合いなのかもしれない。離れたと思ってもどういうわけか再会する。そういえば出会いに関して、一度目は偶然、二度目は必然、そして三度目は運命だと聞いたことがある。それなら四度目は何というのだろうか。

「腐れ縁じゃね?」

九井くんは食べ終えたアイスの箱を握り潰しながら答えた。その答えは的を射ているようだが私のストライクゾーンからは外れていた。だってあまりに夢がなさすぎる。そうむくれて見せれば「じゃあなんだよ」と質問が質問で返って来た。

「えーっと……運命共同体、とか?」
「また『運命』って言葉入ってんぞ」
「あれ?」
「……ブッ!」

私の方がひどいくらいに空振りをしてしまった。でも彼にとってはストライクゾーンど真ん中だったらしい。急に噴出したと思ったら九井くんは肩を震わせ笑っていた。

「そんなに面白かった?」
「オマエ、『共同体』の意味ゼッテェ分かってねぇだろ」
「はい?こう見えても学年模試は毎回一位ですけど?」
「人は見た目によらねぇな」
「本当そうだよね。目つきが悪くて不良で言葉遣いが荒くてもやさしい人がいるんだから」

隣にいる彼はあの日見た男の子とは似ても似つかぬ不良少年になっていた。髪は伸びたし、特攻服着てるし、意地悪く笑うようになった彼に可愛げはない。

「……見る目なさすぎ」
「あるよ」

でも、彼がやさしい人という事実は今も昔も変わらない。証拠が欲しいというなら引き出しの奥に眠っている黒歴史ノートを私は彼に渡してあげてもいい。

「ほら見てよアイス当たった!やっぱり見る目はあったでしょ?」

最後の一口を頬張れば残った木の棒には『アタリ』の文字。高級アイスにはないこの感動、だからガリガリ君はやめられないとめられないのだ。そしてこのアタリ棒は私にアイスと共にもうひとつ景品を与えてくれた。

「今引き換えンのかよ」
「うん、だってまだ話足りないから」


もう一本分、私はお喋りがしたかった。





寒い日だった。
冬は雪が降るよりも降らない日の方が寒い。その理由の一つとして雪が降っているときは分厚い雲が地上の熱を逃がさないから温かく感じるのだとか。だから一等星のシリウスが簡単に見つけられるほど澄んだ夜はものすごく寒い日だった。

「何してるの?」
「……ッ?!」

見知った後ろ姿に声を掛ければ、肩をびくつかせて振り返った九井くんと目が合った。
公園を突っ切るルートは家への近道。外灯が少ないためいつも帰るときは使っていないのだけれど、その日は寒くかったので小走りで遊歩道を駆けていた。その道中、一人ベンチでぼーっとしていた九井くんの姿を見つけたのだ。

「オマエこそ何やってんだよ」
「バイト終わり」
「いつもはこんな遅くなんねぇだろ」
「引継ぎでちょっと忙しいんだよね」

来年度には人生で二度目の受験を控えている。二年間で貯めたバイト代に加え奨学金を借りるにしても親への負担はどうしたって掛かってくる。ならばやはり大学も授業料を抑えられる特待枠を狙うしかない。そのため学業を優先するため今月で辞めることにした。

「受験か…」

てっきり九井くんも進学するものだと思ってた。不良だけどあんな難しい本を読むくらいだ、きっと頭もいいし勉強だって嫌いじゃないはず。でも他人事のように発せられた言葉からはとても気のあるようには思えなかった。九井くんには将来の夢もないのだろうか。

「ンなモンねぇよ」
「じゃあなりたい職業は?」
「ねぇよ。大学行って就活しなくたって金稼ぐ方法はいくらでもある」

なぜ九井くんの基準はお金なのだろう。いや、確かにお金は生きてく上には必要不可欠なものだし現に私も勤労学生としてお金には困らされている。でもさ、

「お金ってそんなに大事?」
「当たり前だろ。金がありゃ何でも手に入んだよ」
「幸せも?」

お金は必ずしも幸福の基準にはならないと思う。たかが六十三円であってもアイスの当たり棒は嬉しいものだし、あの時得られた時間は決してお金で買えるものではなかった。

「何が言いてぇの?」
「まだ誰にも言ってないんだけど実は小説家になりたくて」
「は……?」

私が脈絡なしで話し始めるのなんていつもの事。今さらお小言なんて飛んでこない。だから私はお構いなしに話し続けるのだ。

小説家で食べていける人なんてほんの一握りだ。その事を中学に上がってようやく気付いた私は小説家の夢を諦めた。印税よりも安定した雇用と収入が保証された公務員になるほうがいいって思ってた。でもそれじゃあ九井くんと変わらない。

「ずっと書きたいって思ってた話があるんだ。一人の男の子が一途に恋をしたり不良の友達と悪いことをしたりして、たくさん悩んだり傷付くこともあるんだけど最後はたくさんの人に囲まれて幸せな人生を送るの。この話を本にしたい」
「ハッ大層な夢だな」

強い語気とは裏腹に、その表情はどこか寂しそうだった。私は九井くんのその顔が好きじゃない。あの時、カーテンの陰から出てきた彼は泣いていた。あんな顔を私はもう二度とさせたくない。

「私、絶対に完成させるから」
「あっそ」

白い息を吐き出して九井くんは立ち上がった。頬を撫でる夜風は相変わらず冷たいというのに私の体は水が徐々に熱されていくように熱くなっていった。だからその思いをぶつけるべく、遠ざかる背中に向かって大声で叫んだ。

「印税でアイス一年分奢ってあげるからね!」

私の精一杯の強がりだった。

「腹壊すわバーカ!」

そして九井くんもまた、精一杯の強がりを大声で叫んでいた。





『現役女子大生』という肩書きは好きじゃない。でもまだ歴史の浅い賞レースにノミネートされただけなのだから、このくらいの宣伝してくれた方が有難かった。

「当然、うちの書店では大体的に宣伝するからね!」

まさか店頭に自分の本が並べられる日が来るなんて。
四年前、ここで同じようにバイトをしていた時からはとても想像ができなかった。そしてあの時には任せてもらえなかった話題本のポップ作成までやるとはね。「作者本人が書いた方がいいでしょ」なんて都合よく言ってきた店長にこんな大人にはならないよう気を付けようと心に誓った。

「それ面白れぇの?」

カウンターの隅で作業をしていれば手元に影が落ちた。私は手に持っていたペンにキャップを付け顔を上げる。そして傍に置いてあった本を手に取り、彼に良く見えるよう持ち上げた。

「うん。一人の男の子の話でね、恋愛小説ってわけじゃないんだけど心理描写がすごく丁寧に書かれてるんだよ。始まりは図書館での出会いからなんだけど、」
「おい、ネタバレはやめろ」

いけない、また私の悪い癖がでてしまった。

「それいくら?」

でも彼は怒る様子もなく財布を取り出そうとした。私はそれに慌ててストップをかける。そして改めて本を持ち直し、まるで表彰状を渡すように恭しく両手でそれを差し出した。

「キミのために書いたんだよ、九井一くん」

そう告げた私に対して目の前の彼は「そぉかよ」と言って僅かに口角を上げた。その表情を見て安心する。だってもう私の珍獣レパートリーは底を尽きたからさ。

「実は続編も考えてるんだけどね」
「気ぃ早すぎんだろ」
「一緒に考えてくれる?」

だって私達はもう運命共同体みたいなものだから。

「じゃあその礼にオマエはオレに何してくれンの?」

だから当然、その答えも私の中で決まっていた。

「私の一生をかけて九井くんを幸せにしてあげる」

そう言ったら九井くんは珍獣を超えて地球外生命体を見たかのような顔をして。
そして、大口開けて笑っていた。