十年越しに桜の下での約束を
その惨状に思わずウォーキングデッドの世界に迷い込んだのかと思った。
しかしここは紛れもなく平和な日本で、そして私が塾帰りにいつも通る公園だった。
廃材にパイプ錆びた車輪、銘々に色づいた血液の跡。黄色いコーンに釣り具の針と左手には金属バッドも転がっている。これには白黒曖昧な正義のヒーローもびっくりだろう。そしてその中央に転がっていたのはパンダでもない白いジャケットを着た金髪の人だった。
「だ、大丈夫ですか?」
「うっ……」
恐る恐る近づいてそっと肩に触れてみる。すると意識はあるのか薄く目が開けられた。しかしその焦点は合わず、瞳孔は小刻みに揺れている。そうしている間に「ゴフッ」と濁った咳が発せられ血の混じった唾液が吐き出された。
「すぐに救急車を……ん?」
ストラップを引っ張り折り畳み式の携帯を取り出す。しかし一のボタンを押す前に電子音が鳴り響いた。それは私の手元からではなく少し離れた場所に落ちていた携帯から発せられている。その音に反応したのか横たわった彼の瞼が再び持ち上げられた。相変わらず焦点は定まっていないが探し物をしているのは明らかだった。
「っ、もしもし?」
『……あ?誰だオマエ』
地面に転がっていた携帯を手に取り、切れる前に慌てて出る。若い男と思われるその声には不信と警戒の色が見えた。本当は持ち主に代わってあげたいところではあるが喋ることは難しそうなのでこのまま会話を続ける。
「この携帯の持ち主の知り合いですか?」
『おい、先にこっちの質問に答えろ。オマエは誰で携帯の持ち主はどこだ?』
「えっと、通りすがりの者なんですけどこの携帯の持ち主が血だらけで倒れてて……」
『っ?!場所は?』
公園の名前と目印になる建物を教えればすぐに向かうと言って電話は切られた。再び訪れた静寂。そして思い出したように自分の携帯を取り出したが救急車を呼ぶ気にはなれなかった。倒れていた人は裾の長く、所謂特攻服というものを着ていて明らかな不良だったし、また電話越しの彼の様子から公にしない方がいいと判断した。
数分後——金髪の彼は未だに頭から血を流しながらも会話ができるまでに落ち着いていた。
「水とか買ってきますか?」
「いや、いい……もういいからどっか行け」
「でも、」
「イヌピー!!」
どこかで聞いた声。それは先ほど電話口で聞いた声よりも私の耳に深く馴染んでは覚えていた。電話越しだとしても気付けないだなんて私もまだまだだな。
「大丈夫か?!……ってなんでオマエがいんだよ」
「九井くんこそ」
振り返ったその先には私の好きな人がいた。
◇
待ちに待ったお昼休み、お弁当片手に三つ先の教室へと大急ぎで向かった。そして後ろ扉に一番近い席の人に声を掛ける。三日連続この問いかけを受けた男子生徒は小さく笑って「今日は来たよ」と教えてくれた。そして窓際にいた彼を呼ぶ。
「九井、お客さんだよ」
「客?」
「ずっとオマエが学校来るの待ってたみたいだぞ」
廊下から小さく手を振れば目を細めてじっと見られた。一見睨んでいるようだけど目が悪いからそうしてしまう癖を私は知っている。だから嫌な気は一つもせずに大袈裟に手招きをして呼び寄せた。
「なんか用か?」
「用というか積もる話もあるでしょ。一緒に食べない?」
中三のときに同じクラスで、中高一貫の学校だから高校も同じだった。でもクラスは別々になってしまいこのまま関係は途切れてしまうのではないかと思っていた。しかし先日、思わぬ形で話すキッカケができ、私としてはこのチャンスを逃す手はなかった。
「構わねぇけど飯持ってきてねぇから購買行ってくる。遅くなんぞ」
「大丈夫。じゃあ私はテラス席確保しとくから」
またあとで、と付け加え来たときと同じ速度でテラスへと向かった。
好きになったキッカケが何かと聞かれても正直はっきりはしない。初めての席替えで隣になっても会話と言えば朝の挨拶程度だった。でもある日、私が最近見たミステリー映画がつまらなかったと友人に愚痴っていたところそれを聞いた九井くんがあとから話しかけてきたのだ。「原作はおもしれぇぞ」と。
それから半信半疑で本屋で小説を手に取ったのだが、確かに原作は面白くてあっという間に読み切ってしまった。その感動を九井くんに伝え、他にも面白いもの教えてよと言ってから話す機会が増えたように思える。九井くんは色々なジャンルの本を読んでいたようだったけれど私に合わせてミステリー小説をいくつかおすすめしてくれた。
それからは小説を半分ほど読んでから九井くんに推理を披露した。「大ハズレ」なんて笑われることもあればヒントを与えられて犯人に辿り着けたこともあった。そんな交流を続けていくうちにいつしか好きになっていた。
「待たせた」
裏庭に植えられた金木犀から甘い香りが届けられる。日に日に肌寒くなってはいるが晴天の今日は温かな日差しが降り注ぎテラス席で昼食を取ろうとする生徒は多くいた。
「いえいえ。欲しいパンは売ってた?」
「ビミョー。甘いモンしか残ってなかったわ」
確かに九井くんが買ってきたものはメロンパンやクリームパンなどの菓子パンが主だった。だから、唐揚げ食べる?と聞いてお弁当箱の蓋の上に乗せて差し出した。そしたら渋い顔をされたのでもしや手作りが苦手だったのかとヒヤリとしたが「いいのか?」と聞き返されたので笑顔で頷いた。
「美味い」
「ほんと?よかったぁ」
「もしかしてオマエの手作りだったりすんの?」
「うん!中々でしょ?」
「マジか」
九井くんが二個目の唐揚げを口に運んだのも見届け自分もお弁当に箸を付ける。同じクラスの時でも一緒にお昼を食べたことなんてなかったから緊張した。話があると言ったのは自分なのに会話も上手くできなくて。結局、本題に触れたのは九井くんの方だった。
「この間はありがとな。イヌピーの事」
特攻服を着た金髪の人は九井くんの友人?仲間?だったらしい。噂ではあるけれど九井くんが同級生の柴大寿とつるんで不良チームを作っていることは知っていた。イヌピーという人もその一人で、あの日は敵対するチームに不意を突かれて襲われたらしい。
「ううん。それより怪我は大丈夫だった?」
「あぁ。まだ完治してねぇのに自分を襲った相手に殴り込みに行くくらいには元気だわ」
「それ本当に大丈夫なの?!」
イヌピーなら大丈夫だろ、と笑った顔はきっと彼の事を信用している証拠なのだと思った。そんなイヌピーくんには少し嫉妬してしまう。でも頭の中から邪心を振り払い気になった事を聞いてみた。
「九井くんも喧嘩したりするの?」
「喧嘩?」
「うん。殴ったりとかそういうの」
高校に上がってからは学校も休みがちのようだった。ということはつまりその分、不良行為をしているわけで。イヌピーくんのように九井くんが大怪我することだってあるかもしれない。
「そっちは大寿とイヌピーの専門だからな。オレは基本裏方で表に立たねぇよ」
「そうなの?」
「あぁ。じゃあご馳走さん、あとこれはやる」
お弁当箱の蓋が返されその隣にクッキーが置かれた。私も一度買ったことがあるそれは購買で売られている物だ。
「イヌピーを助けてくれた礼な、これで貸し借りチャラ。じゃあな」
「え、ちょっと待ってよ!」
食べ終わったお弁当箱を片付け急いで九井くんの後を追う。歩くのが早くて追い付いたのは教室へと戻る階段の踊り場だった。聞こえているのかいないのか、呼んでも足を止めてくれないので腕を掴む。その拍子に彼が持つゴミの入った白いビニール袋が揺れた。。
「何?まだなんかあるわけ」
これ以上関わるなと、言われているのは分かった。でも今この手を離したら後悔すると思った。きっと九井くんは私の手の届かない所へ行ってしまう——漠然とそんな気がしたのだ。
「私がクッキー一つで済む安い女と思わないで!」
「は?」
切れ長の目が見開かれまん丸の瞳が向けられる。それこそ鳩が豆鉄砲を食ったようだった。でもこの隙を逃さずに畳みかけるように言葉を続けた。
「あの日は帰るのが遅くなってお父さんには怒られたし、次の日公園を通ったら警察に事情聴取されてすっごく大変だったんだから!」
「お、おう」
「だから九井くんが最近読んだ中で一番面白いと思った本貸して」
「いや、なんでだよ」
「なんでもかんでも貸すの!」
今この場において確実に私の方が不良指数は高いだろう。ただ、関係を切らせないために直ぐに思いついた案がこれだった。
腕を掴む指先にわずかに力を籠める。ブレザーに皺が出来てその下の腕の筋肉が形もって現れる。想像よりも筋張っていた。
「分かった。じゃあ帰りに本屋で好きな本買ってやるよ」
「違う、私は借りるの。九井くんの本を貸して」
「なんで貸すんだよ、貰った方がオマエにとって得だろ」
「そういう問題じゃない」
「分けわかんねー」
ため息交じりの言葉が発せられたところで予鈴が鳴る。次は移動教室だった。早く教室に戻って向かわないと遅れてしまう。
「ちゃんと返すから明日持って来てね」
「おい、」
「これは決定事項だから」
そう言い切り九井くんを残して階段を駆け上がる。廊下を曲がる前に呼び止められたが後は振り返らなかった。
こちらが言いきってしまえばきっとどんなに理不尽であっても約束は守ってくれる。そう思っていたからだ。
◇
東京に雪が降った。クリスマスの時にも降っていたし今年はよく降るらしい。そして出会ってから数ヵ月しか経っていないのにイヌピーくんともよく会うようになった。
「また来たのかよ。ココに怒られんぞ」
「最近では呆れられて何も言われなくなったよ。今日は一緒じゃないの?」
「ココは他の奴と話してる」
九井くんとイヌピーくんは元いたチームから東京卍會というチームに移ったらしい。そのためか着ている特攻服も白から黒に変わった。因みにこの経緯を教えてくれたのはイヌピーくんだ。
「色々大変なんだね、はい、これあげる」
ここに来るまでに買ってきたホットのカフェオレ缶を渡す。
お礼を言われれば、プルタブはすぐ開けられた。乾いた空気にその音はよく響く。
「本ならオレから返しとくぞ」
「いい、会いたいから私から返す」
「ココの事好きなの?」
「うん」
「ふぅん」
友人にすら打ち明けたことのない恋心を簡単に白状した。でもこんなにも九井くんに会うために毎度不良のたまり場に足を運んでいたら嫌でも気付くだろう。何度も本はやると言われたが読み終わる度に返しに行っては次の本を欲しがった。そしてそれを一番近くで見てきたのはイヌピーくんだ。
「私じゃ勝算ないかな」
「分かんね」
「勝ちたいからなんかアドバイス頂戴」
「そこは自分で考えろよ。つーかココの考えてることならオレよりも分かんじゃねぇの」
九井くんが私から距離を取りたがっていることは分かる。でも彼を近くで見る機会が増えて、私は益々放っておけなくなってしまった。ガラの悪い大人と会っている現場を見る度に、仲間を使ってリンチし動けなくなった男から財布を取る姿を見る度に、そして彼がお金を回収する横顔を見ては、いつかふらりと消えてしまうのではないかという危うさを感じていた。
「うん……だから私は九井くんから離れないよ」
「そっか。頑張れ」
「応援してくれるの?」
「オレは応援も邪魔もしねぇ」
「えーケチ」
「うっせぇ」
「また来てんのかよ」
その声を聞いて辛気臭い顔から一転、口元に笑みを添える。そして鼻と耳先を赤くした九井くんの頬っぺたにカフェオレ缶を押し付けた。「んだよ!」とオーバーリアクションをした彼に、私のぬくもりでーす!と返せば何とも言えない表情で受け取ってくれた。そして小言が飛んでくる前にバッグの中から本を取りだす。
「これありがとう。中に感想書いたメモ挟んどいたから見てね」
「オレはもう読まねぇからやるよ」
「それと冬休みに読みたいから年内にまた一冊貸してね」
「ならまず図書館行けよ」
「自分じゃどれが面白いか分からないよ、だから九井くんから借りたいんだ。約束だから。じゃあね」
一方的な約束をしてその場から立ち去った。所々白く染まった道を歩く。そしてマフラーに首を埋めて身震いをした。寒いのは苦手だから早く暖かくなって欲しいのに麗らかな春はまだ随分と先のようだ。戸建ての庭に埋まっている桜の木には薄っすらと雪が被さっていた。
「ココ」
「なんだよ」
「一人で帰していいの?」
「まだ暗くもなってねぇし大丈夫だろ」
「このカフェラテすっげぇ温りぃんだけど」
「だから?」
「冷めちまうまで待ってたんじゃねぇの」
「あー……くそ」
——追いかけてくる足音が一つ。
それはまだ早すぎる春の訪れのようだった。
◇
嫌な予感がした。
横浜に出張に行っていた父が帰ってくるなり「向こうで不良同士の物騒な事件があったみたいだぞ」なんて言ってきて。東京と横浜じゃあ距離もあるのに何故だが胸騒ぎがしたんだ。
でも予兆はあった。一月に九井くんと会ったとき、彼は大怪我をしていた。体中が痛いのか歩き方もおかしくて、左頬には湿布が貼られていた。理由を聞いても教えてくれるはずもなく、ただ代わりに十冊も本を押し付けられた。
「これで当分は時間潰せんだろ」
返すことを譲らなかった私の悪手だった。その本は二月になっても読み終わることが出来ず、そして三月になる頃には九井くんはぱったりと学校に来なくなってしまった。
「やっっと見つけた!」
「は……イッテェ?!」
「あっごめん」
コンビニに止められた派手なバイクに目がいった。白地の車体にはBDの文字と龍を模した絵が描かれている。そしてその持ち主がコンビニから出て来るや否や猛ダッシュで向かい背中を叩いた。
「っとにマジで何なんだよ」
「本当にごめん…会えたのが嬉しくってつい」
「そういうレベルじゃねぇんだけど。オレに恨みでもあんのかよ」
「それは無きにしも非ず」
「おい」
よくよく見ればイヌピーくんも怪我をしているのか口の端にカサブタが残っていた。それでようやく重症なことに気づき慌ててもう一度謝れば「そんな軟じゃねぇよ」と何食わぬ顔で返される。その様子がいつも通りで少し安心した。
「ココの事か?」
そして核心を突いた。と言っても私がイヌピーくんのところに現れるのはいつも九井くん絡みの時だったからそう聞いたのもある意味必然の事だった。都合がよくて申し訳ない。でもイヌピーくんしか頼れる人がいないので一つ頷いて口を開いた。
「最近学校にも来てなくてさ。イヌピーくんは九井くんが何処にいるか知ってる?」
「さぁな」
「二人は会ってないの?」
「あぁ……オレらはそれぞれの道を行くことにした」
横浜で起きた総勢四百人以上の不良同士の抗争——関東事変とも呼ばれるそれを経て二人は互いの人生を歩むことにしたらしい。……なにそれ。例えそうだとしても決別する必要ある?今まで通りじゃいけなかったの?
「ココがオレの傍にいたのは赤音の事があったからだ」
「赤音……?」
「オレの死んだ姉貴。そんで———」
ココが好きだった人。
イヌピーくんはお姉さんについて教えてくれた。図書館によく行っていたこと、火事のこと、莫大な治療費のこと、そして最期は目覚めることなく旅立ったこと……九井くんとの関係はお姉さんが好きだった以上のことは教えてくれなかったけれど何となく察せた。彼ならきっと彼女を救うために努力したはずだ。お金を見つめる九井くんの横顔が不意に頭を過った。
「イヌピーくんはこれっきりでいいの?」
「あぁ。ココにもはっきり言われたしな」
「私は嫌だよ」
イヌピーくんよりも付き合いが浅い自分が言える立場じゃない。それに私では思い出の中の赤音さんには勝てない。でもこれからのずっとずっと先の未来まで考えたらこんなところで引き下がれない。
「根性あんな」
「そう?でも喧嘩とかは怖いからすぐにギブアップするよ」
「そういうのじゃねぇよ」
イヌピーくんは左手で首の後ろを擦りながら視線を足元へと落とす。そして数秒の間の後、宝石のようなブルーの瞳を私へと向けた。
「いるか分かんねぇけどココの行きそうな場所は知ってる」
場所を教えてもらいすぐさま行こうと決意した。ありがとう、とお礼を言って走り出す。「頑張れよ」の台詞には大きく手を振った。もう後ろは振り返らない。
◇
一日が経ち、一週間が経ち、そして春休みに突入して、三月も最後の一日となった。
九井くんに借りた十冊の本はもう二周してしまった。それらの本を持って今日も図書館へと向かう。しかしこの日も一人で閉館のBGMを聞くことになった。
「九井くん!」
でも神様は私を見放さなかった。薄暗くなった外へと一歩踏み出した時、懐かしい背中を見た。日中は暖かくても日が暮れてしまえば肌寒さが残る。だから桜の開花宣言がなされた日を過ぎても私は未だにマフラーを手放せずにいた。そのマフラーを靡かせ追いかける。
「……何?」
不意の呼びかけに驚いたのも一瞬ですぐに怪訝そうに眉を顰められた。久しぶりに顔を合わせたからか、あんなにも会いたいと思っていたのに中々言葉が見つからない。だから手に持っていた紙袋を差し出して、返すと短く言った。
「あぁ」
そしたら彼も短く言って紙袋を受け取った。微かに触れた指先は冷たかった。
そして間髪入れずにもう一言。
「貸せる本はもうねぇからこれで終わりな」
拒絶されたというよりは切り捨てられた感覚だった。まるで目の前に飛び越すこともできない深くて大きな溝が出来たようで、平坦な地面であるのに足がすくむ。でも反射的に腕を掴んだ。
「…っ、まだなんか」
「お花見しない?」
「はぁあ?」
「貸してくれた本の中に桜の下に死体を埋める話があったんだよね。その描写がすごく良くてさ、だから本物が見たくなっちゃって」
「オマエの感性大丈夫か?」
「お陰様で磨かれていますが?」
九井くんが言葉を探しているのが分かる。思わず掴んでいる手に力を籠めれば、それに気付いたのか振りほどかれた。でも本当は彼が腕を振るより先に私の指は離れていた。その仕草が拒絶されたように思えて自分から先に放してしまったのだ。
「行かねぇよ」
「穴場スポット知ってるんだよね。とりあえず明日十時に学校前集合で」
「オレは忙しいんだよ」
「来るまで待ってるから」
私の最後の悪あがき。
そして、これが本当に最後のチャンスだったのだ。
建築系の現場監督をしている父が自然災害の影響で急な転勤が決まった。今までにも家を空けることはあったけれど今回は期間の目処がつかなかった。うちは父子家庭なので単身赴任も難しく私も着いて行くことに。そして明日の夕方には新幹線でこの街を出ることが決まっている。
「約束だからね」
賭けだった。でももしこの賭けに勝てたら私は告白をするつもりでいた。自分の気持ちを全部伝えて。付き合えても、振られたとしても、今の貴方が好きな人間もいるよって。そう彼に知ってほしかったのだ。
勝算はあった。だって九井くんは私との約束を破ったことがなかったから。
でも私は彼の姿も桜も見ることもなく、この街を出て行った。
◇
その日はとにかく朝から忙しかった。十人分のフルコースなんて結婚式の二次会に比べたら料理数ははるかに少ない。それに今日の来店はその一組だけ。しかしその相手と向え入れる客人が問題だった。
「いいか!盛り付けの一つもミスるなよ!それと出来た料理は必ず料理長に一品ずつ見せること!」
全スタッフが集められオーナーに渇を入れられる。その顏は私達料理人よりも緊張しているようだった。
「今日のお客さんってそんなにすごい人なんですか?」
蝦餃に使う海老の下処理をしながら隣に並ぶ先輩にこっそりと声を掛ける。
専門学校卒業後は広東料理を学ぶために中国へと留学した。そして留学期間後も本場の店で修業させてもらい、帰国したのは一年ほど前になる。そのためこの店のことはまだあまり分かっていない。
「すごいっていうか…ほらうちって
「こっち?」
「マ……ア、だよ」
「あー」
銀座の一等地に構えるこの店は古くからの歴史があり要人対応にもしばしば利用される。とくに中国からの要人をもてなすとなると高い確率でこの店が使われ、その中には裏の世界で名を轟かせる人もいる。
「まぁそっちの人間をもてなすのは特段珍しいってわけでもないけどさ、うちの店予約してきたのが梵天ってことでオーナーもピリ付いてんだよな」
久しく日本を離れてはいたがその名は聞いたことがあった。賭博・詐欺・売春・殺人のどんな犯罪にも裏には彼らがいると言われ、今や日本最大の犯罪組織とまで謳われる。
「ここ数年の間に日本も随分と物騒になりましたね」
「なに他人事みたいに言ってんだよ」
「確かにおっかないですけどいきなり拳銃ぶっ放してきたりはしないでしょう」
「いや、交渉具合に寄っちゃあここも血の海よ」
「えっ?!本当ですか?!」
「おい!喋ってないで集中しろ!」
些か笑えない冗談に声を上げればオーナーから怒られる。そこで慌てて二人して料理の下準備に戻った。
数時間後——店の入口が騒がしくなり厨房に来たスタッフより来客が到着したと知らされた。ここからは時間とタイミングとの戦いで、給仕が来るのに合わせ出来立ての料理を作っていく。
「蝦餃を作った人はどこにいますか?!」
滞りなく料理は出され、コース終盤の海鮮炒飯の準備がなされている厨房に給仕スタッフの声が響く。皆の視線が私に集まりそれに促されるようおずおずと手を挙げた。
「私ですが……」
「お客様がお呼びです」
「えっ?!」
お客とはつまり、反社会組織の面々でありそんな人物からの呼び出し。料理が口に合わない、ゴミが入っていた、広東料理を舐めてんのかコノヤロー等々嫌な予感しかしない。でもここで行かなかったら店全体の名誉と存続にかかる。被っていた帽子を両手で握りしめながら宴会場へと向かった。
「失礼致します」
左右で龍が向かい合わせになるようデザインされた重厚な扉が開かれる。その先には円卓テーブルが一つあり十人の男たちが腰を掛けていた。この人数で、しかもこの個室しか使わないにも関わらず店を貸切るという徹底ぶり。それほどまでに彼らは人に見聞きされたくない話をしていたのだろう。
「蝦餃を作った料理人をお呼びしました」
二十の目が一斉にこちらを向けば足がすくんだ。顔や頭皮に彫られた刺青、髪は白だったりピンクだったりスキンヘッドだったりと様々だ。その様子に気圧されながらも、なんとか自分を奮い立たせテーブルへと近づいた。
「ご紹介に預かりました当方の料理人にございます。私をお呼びされた方はどちらに…」
「オー!」
誰とも目を合わせたくなかったのでテーブルに乗った薬味に視点を合わせていた。しかし椅子が引かれた音と声に反応し顔を上げる。上座に座っていた大柄な男が足早にこちらへとやって来た。そして肩を掴まれた瞬間、殴られると思い咄嗟に目を瞑った。
「す、すみませ…!」
「スッゴク美味シカッタデス!」
「…………え?」
金歯を見せ笑った男は私の両肩をバシバシと叩いた。てっきりタコ殴りにされる覚悟でいたのだがどうやら料理の感想を伝えたかったらしい。彼はたどたどしいながらも日本語で「オイシイ」と「アリガトウ」を連呼した。
「お口に合いまして何よりです。お褒めの言葉、感謝致します」
「ウンウン!コレ受ケ取ッテクダサイ!」
男は胸に着けていたブローチを取り外し私の手に押し付けてくる。それは金の装飾がなされ真ん中に大きな青い石が埋め込まれていた。もしこれが本物だとしたらゼロ七個はくだらないであろう。それには流石に男の仲間たちも驚いていたが手渡した男が宥めていた。
「おい、もういいだろ」
決して大きくはないがはっきりとした声が響く。その途端、あたりはフッと静まり返った。身を固くしながらも視線を水平に移動させていく。声を発したのは首の後ろに花札のような刺青がある小柄な男性だった。しかしその人よりも隣の人物から目が逸らせなくなった。
最後に会ったのはもう随分と前だ。中学の卒業アルバムも見返さないし成人式の時も見ていない。だから顔を思い出そうとしても朧気だ。でも少なくとも銀髪ではなかったし剃り込みこそ入れてはいたけれど刺青なんて入っていなかった。
「まだ隠してることがあんだろ?とっくに調べはついてんだよぉ、なぁ九井……おい」
「…っ、あぁそうだな」
ピンク髪の男に話を振られ見開かれた目が逸らされた——それは九井くんだった。くすぶっていた記憶が鮮明さを取り戻す。髪型も装いも雰囲気も私の記憶からは大分かけ離れている。でも驚いた時の目の感じや声は変わっていない。それに気付いたら鼻の奥がツンとした。
「……失礼します」
控えていた給仕にも会釈をし一人部屋を出た。そして数歩歩いて廊下の端に崩れ落ちる。
緊張の糸が切れ、それと同時にドクドクと心臓が騒ぎ出す。会えて嬉しかったのかも、良かったのかも分からない。でも何よりも何故こんなところにいるのかが気にかかった。昔も悪いことはしていたけど今やっていることは確実に、犯罪だ。
後片付けもミーティングもほっぽり出して地下駐車場へと急いだ。既に車はほとんど出払っている。しかしそこで一台目を引く車を見つけた。ぱっと見でも分かる高級車、その運転席からスマホの光が漏れていた。
「まだ見つかんねぇのか?……分かった、すぐ向かう。三途にはまだ殺すなつっとけ、じゃあな」
「九井くーん!はーなーそっ!」
「うぉっ?!」
スマホの画面が暗くなったのと同時に窓ガラスを啄木鳥並みの勢いで叩いた。もっと違う声のかけ方があったのかもしれない。でも私は以前と同じように振舞った。互いに大人になって見た目も立場も変わったけれど私達の関係は変わってないって。多分、そう気付いて欲しかったんだと思う。
「……んだよ」
「久しぶりだね」
「そうだな」
運転席の窓は開けられたが降りては来ない。それを淋しく思いながらも先ほど一瞬しか見れなかった顔を改めて見た。
元より細身の体であったがそこから十代特有の顔の丸みは消え、顎骨が浮き彫りになっている。シャープになったというよりはやつれたという表現が正しいか。明かりの届かない車内にいる為か顔色も幽霊を彷彿させるほど青白く、目の下の隈が一層濃く見えた。その些か健康的ではない様子に体調面が心配になった。
「元気してた?ご飯はちゃんと食べれてる?」
「あぁ。つーかオマエに心配されることは何もねぇよ」
「ならよかった。それにしてもまさかこんなところで会えるとはね」
「オレもびっくりしたわ」
本当は聞きたいことがたくさんあるのに上手く言葉が出てこない。だってきっとここでひとつでも間違えてしまえばすぐに会話を切り上げられてしまうから。だから慎重に言葉を選ぶ。でも私のそんな気持ちを読み解いたのか九井くんの表情が僅かに緩んだ。
「料理人になることが夢だったんだな」
「え?」
「昔から自分で弁当作ってたろ」
この道を選んだことに深い意味はなかった。就職には困らないように何か資格は持っといた方がいいかなぁと漠然と考えていたくらい。そしたら晩酌をしていた父が「料理得意なんだからそれを仕事にしちまぇよ」と軽いノリで言ってきて。それもありかもしれないと専門学校へ行き、結果的に留学までしてしまった。
「うーん…正直成り行きっぽいところはあったけど今はなれてよかったって思えてるから夢だったのかも」
「なんだよそれ」
料理人になったのは確かに勢い任せなところはあった。でもその中でも中華料理を選んだのにはちゃんと理由がある。一度だけ九井くんに食べてもらった唐揚げ。あの時の「美味い」の一言が忘れられなくてその道を究めようとしたのだ。ただ唐揚げが中国ではなく日本発祥だと知ったのは専門学校に入ってからだったけど。
「九井くんは自分の夢叶えられた?」
彼の夢は何だったのだろうか。ただ学生の頃から頭が切れる人だったからどんなことでも卒なくできる印象はあった。その結果が犯罪者というのは褒められたものではないけれど何か理由があったのかもしれない。
「あぁ、お陰で今は相当稼げてるぜ」
でも返って来た言葉は答えではなかった。
「じゃあ稼いだお金は何に使うの?」
「は?」
「港区に豪邸でも建てるの?それとも島一つ買うつもり?世界一周旅行とか宇宙にでも行きたいの?」
「そんなの欲しくもねぇし行きたくもねぇよ」
「じゃあなんでお金を稼いでるの?」
好きなことをしてその対価としてお金を得るなら分かる。やりたいことがあるからお金を稼ぐために働くなら分かる。
「金がありゃ何でもできるからだよ。それ以外の理由はねぇ」
「それって変だよ。お金はやりたいことを叶える手段であって目的じゃなくない?」
「あ?なんでンなことオマエに言われなきゃなんねぇんだよ」
まずい、と思ったときには既に遅かった。声がワントーン下がり空気がひりついて、喉の奥がきゅっと絞まる。今までも睨まれたことはあったけれどこれは完全な拒絶だった。
「もう話すことはねぇ。じゃあな」
「ちょっと待って!」
「おい危ねぇから手退けろ」
咄嗟に閉まりかけた窓硝子に手を置いた。このままじゃまた同じことを繰り返すだけだ。そして今度こそ一生会えなくなる。これは想像じゃなくて確信だ。学生の時ならそれでもまだ追いかけたら手の届く範囲にいた。でも私達の世界は広がって普通にしていたら交わることもないほどの距離が出来てしまった。
「これはいいの?」
先程、中国客からもらったブローチを取り出た。中央にはめられた石が駐車場の照明を反射して九井くんの頬を青く染める。
私はこのブローチに自分の人生をベットすることに決めた。
「オマエが貰ったもんだろ。好きにすりゃあいい」
「これを見ても?」
ブローチを握りしめた手を高く上げ勢いよくコンクリートに叩きつけた。地下に響き渡る耳を刺すような音、地面には青いガラスの破片が散らばった。そしてその中から出てきた十円玉ほどのチップを摘まみ上げる。
「九井くん達が探してるものってこれでしょう?」
傷がつかないようご丁寧に特注のケースにまで入れられていたそれ。このSDカードの中に彼らが欲しい情報があるのだ。九井くんが慌てて車から飛び出してきたから間違いない。
「なんでオマエがそれ持ってんだ?あいつらとグルだったのかよ!」
「違う!これを渡されたときにあの人たちが話してるのを聞いたの!」
一度この女に預ける、事が済んだら殺して奪い返せ——梵天がこれを狙っていることが分かったから隠そうとしたのだろう。何も知らない人間に自然な形で渡すために料理人を呼び出した。その相手が私であったのは偶然だ。
「中国語分かんのかよ」
「留学してたからね」
こんな恐ろしいもの本当は手にしたくなかった。でも今回に限って私は幸運だったと迷いなく言える。そうでなければ九井くんと再会なんて出来なかったから。
「……まぁいい、それを寄こせ。中国の奴らはオレらが拘束してっしオマエがそれを持ってたと知る人間はオレしかいねぇ。今なら見逃してやれる」
「嫌だって言ったら?」
だからこのチャンスを私は絶対に逃さない。
「おい、いつまでもふざけてんじゃねぇぞ」
「本気だよ」
指先に力を籠めればケースがパキリと音を立てる。それと同時に九井くんの眉毛がピクリと動きゴールドのピアスが揺れた。
「分かった、ならそれをオレが一千万で買う。これでいいだろ」
「お金はいらない。その代わり私の条件を飲んで欲しい」
「条件?」
明日十時に学校前集合——
あの時、待ってちゃいけなかったんだ。
「私を梵天に入れて」
「は……っ、いや、マジで何言ってんだよ」
「中国語はできるし何なら料理も作れるよ。だから梵天で雇って」
逃げるんだったら追いかけるまで。
九井くんの手が腰元に伸びる。きっとそこには銃があるのだろう。でも私は見つめたまま視線を逸らさない。それは彼なら撃たないという確信があったからではなく、撃たれてもいい覚悟があったからだ。人生を賭けた一世一代の大勝負、負けの代償にはそのくらい付きものだ。
長い沈黙——そして、勝者は私だった。
◇
モンブランが食べたい、油を一切使わない料理を作れ、オムライスに旗付けんのは当たり前だろぉ?と言われ早一年が経ちました。いま、シンガポールにいるお父さん。おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。
「おいなんでピンクの肉まんなんだよぉオレが言ったのはどら焼きだろ!」
「それ肉まんじゃなくて桃饅頭です!この前ボスも美味しいと言ってくださったんで大丈夫です!」
「なに勝手に得体の知れねぇモン食わせてんだ!」
「なぁオレが注文したモンブランまだ?この前みたいに生クリーム多めで栗の味しなかったら許さねぇからな」
「あー腹減った!飯〜」
私はいつから寮母にでもなったのだろうか。中華料理が専門だと言っていたのにそんなことはお構いなしにと彼らは自分たちが食べたいものを要求してくる。そしてそれは育ち盛りの高校生でもなければ寮暮らしの大学生でもない、日本最大の犯罪組織である梵天の幹部様方だ。
「なら三途さんの分もあるんで食べてください!それと灰谷さん用のモンブランはこれで……口直し用に銀座でも買ってきたので不味かったらこれ食べてください。で、こちらの灰谷さんには棒棒鶏サラダです」
三途さんには二段のせいろを押し付け、灰谷さんには二つのモンブランとコーヒーを差し出す。そして弟の灰谷さんには予め用意して冷蔵庫で冷やして置いたサラダを出した。もちろんプロテインドリンク付き。
「マイキーが食わなかったらテメェの顔面に投げつけるからな!」
「おーこの前よりはいいんじゃね?つーか竜胆のやつ美味そう、兄ちゃんにもくれよ」
「あーもー!いっつも兄貴はオレのを横取りする!」
さて、とりあえずこちらは片付いたところで数時間後に帰ってくる望月さんと鶴蝶さんのために夜食を作っておくことにする。あの二人は好き嫌いせず何でも食べてくれるから楽だ。スペアリブと大豆を二時間煮詰めたスープはあるのでその他に海鮮炒飯と野菜多めの八宝菜を作った。
あとはナムルや余りの棒棒鶏を少量ずつ分けて冷蔵庫に用意する。これは見た目よりも食が細い明司さん用だ。あの人はちゃんとした食事を摂らない代わりに冷蔵庫の中身を盗み食いするのでその対策。
「私は少しここを離れるので食器はそのまま机に置いといてくださいね」
準備をしている間に茹でていた麺を二つのどんぶりに分ける。そこにスープを入れて別に作っていた野菜あんかけを乗せた。一人で厨房を回すようになりマルチタスクで料理を作れるようになった。まぁその分工程も短縮しているが。
「どこ行くんだ?」
「九井さんのところにご飯持って行きます」
「なんで二人分?」
「私も食べるからです」
「へぇ〜」
盆を待って部屋から出て行こうとすれば弟の灰谷さんに目ざとく料理を見られた。そして箸を止め、口角を上げながらこちらを見て来る。
「なに?オマエら付き合ってんの?」
「いえ、そういうのじゃないです」
「高校の同級生だっけ?」
「えっマジで?」
二つのモンブランを平らげた灰谷さんが助け舟を出してくれた。どうやら弟さんの方は私と九井くんの関係を知らなかったらしい。とはいえ雇用形態的には九井くんが雇った家事代行的な存在だ。このラウンジ的な厨房もつい最近作られ、そこからようやく幹部の人達とも話すようになった。
「中高同じだったんです。といっても私が途中で転校してしまったのでそれっきりだったんですけどね」
「なんかスゲェな。つーか数年越しにこんなとこで再会とか運命じゃん」
純粋さの残る灰谷さんは瞳を輝かせていた。確かに偶然の再会は運命的ではあったがここまで来たのは最早私の執着だ。それを勘が鋭い方の灰谷さんには分かってしまったらしい。ソーサー上にカップを戻しながら薄く笑った。
「ンなわけねぇだろ。九井追っかけて来たに決まってんだろ」
「はぁ?だからってこっちの世界に足突っ込むのはなくね?」
「そうですよ」
九井くんも私の気持ちに気付いてると思う。でも何も言わない。そして私も自分の気持ちを言えていない。また手の届く距離に来れたというのに、嫌われるよりもまた突き放されるのが怖くて一歩が踏み出せない。学生の時ならきっと迷わず言えただろうに、大人になって変なところで臆病になってしまったようだ。でも変わっていないことが一つだけある。
「好きなので」
ずっと、昔から。
◇
白磁の汲み出し茶碗に熱湯を注ぎ入れれば泳ぐ様に花開く。空に浮かぶ雲のような白い器の中ではそのピンクが良く映える。先日東京で開花宣言がなされれば、気の早い私は桜を仕入れそれを梅酢と塩で漬けた。桜茶はその見た目から春の訪れを知らせる日本の風物詩だ。
「お茶の用意できたよ。そろそろ休憩にしない?」
「まだやりたいことあるから先飲んでろ」
「今日のおやつはお汁粉だよ。冷めたら白玉が固くなっちゃう」
「オレの分はいらねぇつったろ」
「ボスに九井くんの面倒見るように言われてるの知ってるでしょ」
私がここへ来るより前に過労でぶっ倒れたことがあるらしい。皆も仕事を押し付けていることは自覚しつつも「まぁ九井だし上手くやり繰りしてんだろ」という認識から放置した結果の出来事である。ボスには「アイツ無理してんの隠す癖あっから」と言われお目付け役を命じられた。不調を隠すのが上手いとか野生動物かな?と思ったがこの世界は強き者しか生き残れないのである意味納得してしまった。
「わぁーったよ」
仕事に区切りをつけ立ち上がった九井くんはローテーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした。その前に淹れたばかりのお茶とお汁粉を並べる。このような形で二人で食事を取る機会は増えたけれど未だになれなくて緊張してしまう。
「なんでこの白玉ピンクなんだ…?」
「苺の粉末混ぜて色付けてみたの。紅白で縁起良くない?」
「縁起ねぇ」
「因みに験担ぎの効果もあるんだよ。これ食べたあとにスクラッチやったら当たったんだから」
「いくら?」
「三万」
「思ったよりすごかったわ」
小豆を一粒ずつ掬うようにわざとゆっくり食べる。そして九井くんももちもちの白玉によりいつもより時間をかけて食べていた。食事では温かいうちに食べないと困るであろう麺や雑炊を、差し入れなら片手では食べられないものを作るようになった。それは少しでも二人で居られる時間を作り出すためだ。
「金にでも困ってんの?」
「ううん、それはただの趣味っていうかんじ。そもそも出掛ける機会も少ないからお金使わないし」
梵天の皆さまは毎日が仕事でもあり休日でもあったりする。つまりは自己管理の上で仕事をしている。しかしあのラウンジを回しているのは私一人で、また誰かしらは来ているため基本的に毎日開けていた。
「まぁ表向きはフロント企業の事務員で雇っちゃいるがこのビルに出入りしている時点で目ぇ付けられることもあるからな。出歩かないに越したことはねぇよ」
ただ私が今言いたかったのは休日がないことの不満ではない。ただ出掛ける理由がないってことだ。不規則な生活をしていれば友人と予定を合わせるのも難しく、かと言って一人ショッピングが好きなわけでもない。休みがあっても寝ているかテレビを見ているかだ。でも九井くんには違うように受け取ったらしい。
「あの時の中国組織の連中はこの世にいねぇ。それにオマエが昔努めていた店の防犯カメラ映像も抹消してある。もうオマエが裏の人間と繋がっていた証拠はねぇんだよ、だから早くやめろ」
「でも今ここをやめたら次は梵天が私の事を消そうとするんじゃないの?」
既に内部の事は知り過ぎていた。さすがに彼らの取引相手や密輸ルートまでは知らないが、幹部達の仕事のルーティーンや良く行く場所の情報だけでも欲しがる人間はいるだろう。なんせ彼らは日本最大の犯罪組織なのだから。
「オマエが変な行動起こさねぇように監視は付ける」
「人件費の無駄では?じゃあいっそのこと同じ家に住むとかどう?」
「はぁ?互いにメリットなさすぎるだろ」
「九井くんは監視ができるし何なら掃除洗濯料理の家事全般も任せられるよ」
「ならオマエのメリットは?」
湯飲みの中には八重桜が浮かんでいる。それは確かに美しいが空の下で見る桜には敵わない。房と呼べる程の溢れんばかりの花を付け、地面に根付くその姿は圧巻の一言に尽きる。特に地元の神社の境内に咲く桜は百年以上の歴史があり今も私の記憶の中で五分咲きの花を付けている——あの日から、私はずっと春を待ちわびている。
「一緒にいられること、かな」
そう伝えればバツの悪そうに視線を逸らされた。九井くんが私の気持ちに気付いているように、私もまた九井くんの気持ちが分かっているつもりだ。見た目や言葉遣いに反してやさしい彼は、過去仲の良かった同級生を突き離せずにいるのだ。だから私はそのやさしさに付け込んで決定的な一言を言わせないようにしている。
「ここにいたのか」
重苦しくなりかけた空気はノックもなしに開けられた扉の向こうへと流れていく。そしてこの場にボスと三途さんが姿を現した。ボスは相変わらず色白で目元の隈は濃いままだが今日はまだマシ方。きっと九井くんに話が合ってきたのだろう。だからテーブルの上の物を片付け急いで出て行こうとすれば呼び止められた。
「アンタに用があるんだけど」
「私にですか?」
「あぁ。中国語できるつったよな、明日の取引に通訳者として来て欲しい」
「おい待ってくれボス」
私が返事をするより先に九井くんが割って入る。その様子に三途さんが口を挟もうとしたがボスが手だけでそれを制した。そしてその真っ黒な瞳をこちらに向けた。
「予め雇っていた奴が怪我をして来られなくなった。裏の取引で使える人間も限られてるし、その点コイツは身元が割れてるから信用できる」
「つっても専門用語までは分かんねぇよ。相手方怒らせるよりは日程組み直して確実な交渉をした方がいい」
「おい九井、テメェなにマイキーに口答えしてんだぁ?いつからンな偉くなったんだよ」
「交渉と金周りの管理任されてんのはオレなんだよ。外野は黙ってろ」
「あぁ?」
「いいですよ、私やります」
九井くんと三途さんが言い争いをしている間もボスは私から目を逸らさなかった。初めから私としか会話をする気がなかったのだろう。だから私が言いきってしまえばそれはもう決定事項だった。
「オマエなに勝手に決めてんだよ!」
「難しい言葉は翻訳機を頼らせてもらうことになりますが基本的な会話内容は分かりますので」
「助かる。場所と時間は追って連絡する」
用件が済めばボスはペタペタとサンダルを鳴らしながら部屋を出ていった。三途さんもそれ以上、九井くんに突っ掛かることもなく部屋を出ていく。そして再び二人きりになった部屋に盛大なため息が落とされた。
「なんであんなこと言ったんだよ」
「私でできることなら役に立ちたいと思ったから」
うそ。本当は梵天と深く関わることで自分を組織から抜け出せなくしようと思った。外の世界とも断ち切って、九井くんがこの世界で生きていくというならば私もこの世界で生きる。
「ゼッテェ後悔すんぞ」
後悔しないために私は今ここにいる、なんて言ったらさすがにかっこ付け過ぎか。それかついに重すぎて引かれるかもしれない。だから、一千万以上の働きはしてみせるよと言うことにした。自分にはブローチの中身以上の価値がある、そう伝えることで九井くんが私を引き取った罪を軽くしたかった。私がここにいることに九井くんは何の責任もないのだから。
だから私の言葉には「バカ言ってんじゃねぇぞ」とか「ハイハイ」くらいに軽く流してくれてよかったのに。
何故だか、九井くんは泣きそう顔をしていた。
◇
交渉と言うからには以前のように店を貸切って行うかと思いきや連れて行かれた先は港だった。湾岸沿いにいくつも並んだ倉庫。夜であることも相まって同じところをずっと歩いているような気さえ起きて来る。しかし先頭を歩く三途さんの足取りは確かなものだった。
「こっちだ」
この場にいるのは三途さんとお兄さんの灰谷さんと九井さんと私。向こうから少人数で来るよう指示があったのだ。でもこんな分かりきった罠に嵌るような犯罪組織集団ではない。この交渉の場こそが囮であると梵天は考えている。
この場に一部の幹部達を集め、戦力がそがれている間に梵天が所有している武器庫を襲うのではないかと睨んでいた。ただ、設けられた交渉の場も梵天の利益になることから穏便に済めば万々歳、もし武器庫の襲撃を受けたら交渉決裂という流れになる。
「なんでマイキーじゃなくてテメェがいんだよぉ」
「元よりボスが行くなんて言ってなかったろ。話はちゃあんと最後まで聞こうなぁハルちゃん」
「ぶっ殺す」
じゃれ合っている二人の後ろを九井くんと着いて行く。いつもと変わりないと言ってしまえばそれまでだけど九井くんの口数は圧倒的に少なかった。おまけに眉間には三本皺がくっきりと刻まれている。
「オレより前に出んじゃねぇぞ」
視線は前に向けたままそう言われる。交渉をするのは九井さんで、三途さんと灰谷さんは護衛の役割と「梵天幹部が三人この場にいますよ」と彼らにアピールするために着いてきていた。
「分かった」
「今から会う連中は自国の裏社会でも嫌われてるような奴らだ。なに仕出かすか分かんねぇ」
「大丈夫だよ、なんせ今日はスクラッチが当たったからね。物凄く付いてる日だから」
「いくらだ?」
「二百円」
「最低金額じゃねぇか」
「おい、着いたぞ」
二百円であっても当選確率が十%であることを熱弁しようとしたところで一つの倉庫前で立ち止る。そうすれば前にいた二人が左右に除け九井くんに道を譲った。その背に自分も着いて行く。
「もう後戻りは出来ねぇぞ」
とても小さな声で、独り言のようにそう言った。
「私の戻る場所はここだよ」
だからはっきりとした声で言い返した。
想像以上に穏やかな空気で交渉は終わった。
向こうも交渉役が一人、そして護衛が二名と予め連絡を受けていた通りの人数でおり、取引内容についても申し分ない。深読みのし過ぎだったのでは?と思ったが用心に越したことはない。
「……?」
全員で倉庫から出て私達は迎えの車が止めてある場所へと向かう。しかしその時、焦るように話す中国語が耳に飛び込んできた。
『全滅だと?!』
その言葉に反応し振り返ったのがまずかった。一人の男と目が合えば瞬きの間に銃口が向けられる。この間、十メートルにも満たない。銃を扱いなれている者であるなら外すことの方が難しいであろう距離。だから放たれた弾丸は私の心の臓へと真っすぐに届けられた。
「……ッ?!」
「は?……おい、どうした?!」
「チッやっぱりこっちは罠だったのかよぉ!」
「撃たれたのか?!」
「一先ず下がれ!」
その衝撃で重心が後ろに持っていかれ背中から地面に倒れ頭をコンクリートに打ちつける。そして続けざまに発砲音が響き、そこでようやく自分が撃たれたのだと理解した。
遠くで九井くんの声がする。頭上では正に銃撃戦の真っ最中だというのにその声ははっきりと耳に届いた。
「クソッ蘭離せ!」
「オマエにここで死なれちゃ困んだよ。三途、向こうの様子は?」
「武器庫を襲った連中は三人拘束して他は殺ったとよ。だからこっちは全員殺して問題ねぇ」
発砲音の後、異国の言語が混ざった断末魔が反響した。乾いた夜空がそれを吸い込めば星がチカチカと瞬く。
「アイツの安否を確認させろ!撃たれても処置が早けりゃ助けられる!」
「落ち着けって九井、とりあえず三途が仕留めるまで大人しくしとけ」
「テメェは仕事しろ!」
この場から動きたくても動けずに静かに目を瞑る。その脳裏に、雪道の中追いかけてきてくれた九井くんの姿が思い出された。九井くんが私の事を見てくれてたのなんてあの一度きりだと思っていたのにな。想像以上に大切にされてたんだとつい自惚れてしまった。
「おい九井!」
「バカ!あと二人残ってんだよぉ!」
銃声音が途絶えた一瞬の出来事だった。灰谷さんの焦る声と三途さんの苛立った声が耳に届く。
「
そして九井くんの言葉を聞き、あーもう死んでもいいかもしれない……なんて思ってしまった。今のこの言葉だけでここまで追いかけて来た私の全てが報われたような気がした。
「こ……のい、く」
「喋んな!ゼッテェ助けてやっから!」
星の光に当てられた銀の髪が煌めいて頬に触れた。そんな苦しそうな顔しないでよ。というか再会してからずっとそういう顔させちゃってるよね。私はさ、ただ昔みたいにしょうもない話をして笑ったりしたいだけなんだけどな。
隣の席で過ごした日々を私は今でも夢に見ている。
◇
えっ病院食って不味すぎる。味も薄ければお米も冷めてカピカピだし、色どりも質素で食欲がそそられない。ただ、カロリーと栄養計算はしっかりとされているようなので体にはいいのだろう。これは油分撲滅運動推進者である灰谷さんにとって最良メニューなのではなかろうか。
「灰谷さんに病院食提供したら怒られるかな?」
「はぁぁぁぁ」
幸せどころか魂が逃げだすくらいのため息が落とされた。しかしそんな辛気臭い空気を拭き流すように窓の外からは柔らかな風が吹き込んでくる。今年は例年よりも温暖なためか院内に植えられた桜の木も満開を終え散り始めていた。
「ねぇ九井くんが持って来てくれたゼリー食べてもいい?」
「防弾チョッキ着てたんなら初めから言っとけよ」
サイドテーブルに置かれた箱からガラス瓶を取り出す。その中には宝石のようにキラキラとしたフルーツがぎゅっと詰め込まれていてとても美味しそうだった。これは絶対に一つ千円以上するやつだ。私の料理人としての勘がそう言っている。
「てっきり聞いてるのかと思ったの。だって私の分を用意してくれたのは灰谷さんだったんだから」
「アイツ…!」
防弾チョッキの有難みが分かる貴重な経験だった。でもあれを着ていたとて弾が貫通しないだけで衝撃は受けるのだ。その結果、倒れた拍子に頭をぶつけ脳震盪を引き起こした。しかし大した怪我もなく今は美味しくゼリーを頂けている。
「精密検査の結果待ちだけど明日には退院できると思う」
でもこんな経験は二度と御免だ。どんなに強がってもやはり死ぬのは怖い。そして何より九井くんにはかなりの心配をかけてしまった。現に危険な場にも飛び出していったし、私が気を失っている間も寝ずにずっと付き添ってくれていたらしい。
「でもこれで分かったろ」
「何が?」
「オマエは梵天にとって取るに足らない存在なんだよ」
食べ終わったガラス瓶をサイドテーブルに戻した。同じ机の上には無機質な病室を彩るアレジメントフラワーが置かれている。目が覚めた時にはすでに飾られていた。生憎ガーベラくらいしか品種が分からないのだが私の好みだった。
「でも九井くんは助けてくれたよね」
私の事を良く知る人物がくれたのだろう。それは紛れもなく今私の目の前にいる人だ。頭の回転は速いのに口より先に手が出るのは元不良だからだろうか。しかし彼の場合は殴るのではなく助けるために差し伸べる手だ。存外口下手な彼は命を張って私を助けようとしてくれた。
「だから私は九井くんが好きなんだよ」
ずっとずっと心の中に止めておいた言葉が零れ落ちた。そしたら九井くんは息を呑んで。そして唇をきゅっと結んだ。……あーあついに言っちゃった。別に返事が欲しかったわけじゃないし、これからも私の事は利用してくれて構わない。
「オレなんかやめとけよ」
「無理だよ。だって九井くんは私にとってもうやめたくてもやめられない、かっぱえびせんみたいな存在なんだからさ」
「またオマエはそうやって」
「あんまり深く考えなくていいよ。私は今のままでいいから」
気持ちを伝えるほどに困らせてしまうことは分かってる。
だからこれでいいの。
「よくねぇよ」
「え?」
「オレはよくない」
掛布団の上に乗せたままだった手が握られた。その指先は少しだけ震えていて、そして冷たい。何度も掴みにいった手が、今ようやく触れ合っている。その事実に思考が追いつかなくて言葉が出てこなかった。
「今さら意識するなっつう方が無理だろ。自己完結させんな。つーかオマエはオレより自分の身の安全と幸せを考えろ、勝手に突っ走んなバカ」
えぇー……最後の方はただの悪口じゃん。
でもようやく聞けたその本音に、期待してしまった。
「私の幸せは九井くんがいないと成り立たないよ」
明日の約束すら破られたけど私はもっと先の未来を見ている。一年後も二年後も十年後も、二人で笑い合えたらいい。一緒にご飯を食べて、本を読んで、出掛けられたらいい。
「本当にいいのか?オレといることで今まであった平穏はきっとなくなる。危険な目に遭うかもしれねぇし辛い思いをさせることだってきっとある」
美味しいものは分け合って食べたいし九井くんが大食いチェレンジする姿も見てみたい。夏になったら花火も一緒に見たいけど人混みのある場所は難しいのかな。それだったら線香花火でも構わない。秋はやっぱり食欲の秋になるのかな?読書もありかなぁ。でも運動だけはやめておこうね、翌日の筋肉痛は目に見えているから。冬場は温泉とかどうだろう。一日くらい何にも考えずにのんびり過ごす時間を作るの。そして春になったら今度こそお花見ね。
「九井くんが一緒ならいいよ」
「今あるオマエの幸せを奪うことになってもか?」
「じゃあ私が九井くんを幸せにするから九井くんも私を幸せにしてくれる?」
「それはオレから言わせろよ」
溜め込み続けるのは精神衛生上良くなかったらしい。すっかりタカが外れた私は勢い余ってプロポーズまがいなことまで言ってしまった。これには流石に恥ずかしくなり腕で顔を隠そうとしたけれど重なった手がそれを許さない。
「待って、ごめん、今のは忘れて、こっち見ないで」
「ヤダね」
「むりむり」
「だってもう逃がしてやるつもりねぇから」
「ぁ……、っ」
視界にゴールドのピアスが映り込み銀の髪が頬を撫でる。吐息が、ぬくもりが触れて、呼吸を忘れた。それは雲の隙間を縫って届いた日差しのように細く紡がれた関係で、しかし残雪をも解かすほどの暖かみがあった。
一つ、私達の間を風が抜ける。
どこからか舞い込んだ桜が雪解けの春を知らせた。