想い想われ追い追われ

兄というのはこの世で最も鬼畜な生き物である。

リビングで遅い朝食をもそもそと取っていたところで兄が姿を現した。日曜休日にも関わらず朝から元気にバイク弄りに興じているらしい。飽きもせずによくやるなぁなんてぼけーとしながら水道でコップ一杯の水を飲む兄を見ていればパチッと目が合って。「オマエ暇だろ?」と聞かれたので、生きるのに忙しいかなと大欠伸を決めながら答えたらパシリ役を命じられてしまった。

「やだよ。自分で行って来ればいいでしょ」
「千円渡すから帰りに好きな菓子でも買ってこい」
「すぐ行ってくる」

バイトの給料日前だからしょうがない。
ということでD&D MOTOR CYCLE SHOPと書かれた店に来た次第である。
通りに面したガラス張りの店内には何台かバイクが並んでいた。売り物、というよりは預かり物のバイクらしい。近くには作業着姿の男の人が工具を持ってその一台の外装パーツを外していた。

「ん?いらっしゃい」

店の扉を開ければ声を掛けるより先に作業をしていた人に迎えられた。目が合ったその人は長い黒髪を一括りにした辮髪スタイルで、刈り上げられたサイドには龍の刺青が彫られていた。それに加えて背も高くてガタイもいいものだからすっかり委縮してしまった。

「あ、えっと」
「何かお探しですか?」

よくもこんなところに送り込んでくれたな、と兄を恨んでしまったがそれも一瞬の事だった。目の前の人はその見た目とは裏腹にとても丁寧な口調で話しかけてくれた。だから私も表情を緩め兄から渡された注文書を取り出した。

「この商品を引き取りに来たんですけど」
「あぁ、じゃあ調べるんでちょっと待っててください」

注文書を渡せばその人は店の奥へと引っ込んでいった。となると今この店内にいるのは私とメンテナンス中のバイクだけ。私自身、バイクは乗らないし特別詳しいわけでもない。でもこの圧巻の光景には興味を持たずにはいられなかった。派手な配色のもの、ハンドルが高いもの、タイヤのデザインが特殊なもの——そして一台のバイクの前で足が止まった。

「かっ……こいい」

思わず言葉が零れ落ちるほどだった。特段大型バイクというわけでもないのだがウイングシールドから機体の横に掛けて龍のような蔦のようなデザインが施されていた。後方には二人乗りが出来るよう黒いシートが設置されているが背もたれまで付いている。その高さとウイングシールドの比率が絶妙で車体全体のバランスが良いように見えた。

「何か?」
「っ?!」

排出口のマフラーはどうなっているのだろうとしゃがみ込んで見ていれば上から声が振って来た。パッと顔を上げれば先ほどとは違う男の人がこちらを見下ろしている。しかし、どうやらこの人もバイクショップの店員らしい。先ほどの人と同じつなぎを着ていた。

「すみません、ちょっと気になって見ていて」
「そうなんだ」

大きな工具箱を床に置いてその人が私の左側にしゃがんだ。このバイクの整備でもするのだろうか。それなら早く退いた方がいいに決まってる。でも私の腰は一向に上がらなかった。何故ならその人の横顔に見入ってしまったから。

くっきりとした平行二重にその下には空よりも澄んだペイルブルーの瞳。色白の肌に筋の通った鼻で女性と見違えるほどの美しさがある。しかし髪の隙間から覗く顎から耳にかけてのフェイスライン、僅かなふくらみを持つ喉仏が雄々しさを語っていた。

「ごめん、それ取って貰っていい?」
「え……」

不意に彼がこちらを向く。その時、初めて左側に大きな火傷の痕があることに気が付いた。目にかかるほどその痕は皮膚の変色具合から随分と古いものだというのは見て取れる。しかしだからいって彼の第一印象が変わることはなかった。

「そこの黒い袋」
「あ、はい」

二度も見入ってしまったがその言葉により我に返る。後輪の近くに置かれていた長方形の黒い袋を持ち上げれば意外に重かった。それを彼に渡したところで私もその場から立ち去る決心が付いた。

「どこが気になったの?」

しかし伸ばしかけた膝は再び曲げられる。隣の彼は胡坐をかき、床に敷いた布の上に工具を並べながら淡々と聞いてきたのだ。一瞬自分に向けられた言葉だと気付かずに唖然としていればまた目が合って。急いでバイクへと視線を逸らして言葉を続けた。

「背もたれが付いたシートって初めて見たんで気になったんです。あと車体のデザインがかっこいいなって」
「そっか。キミもバイク乗るの?」
「私は乗らないんですけど兄がバイク好きで」
「お待たせしました……ってイヌピー戻って来てたのかよ」
「あぁ。先に昼休憩ありがとな」

先程の男の人が戻ってきてやや驚いた表情で私達を見ていた。手にはおそらく兄が注文したであろう商品の入った袋が握られている。それを受け取ってしまえばもうここに用はない。だから最後に一目だけでも視界に姿を収めようと思ったところで隣から声が掛けられた。

「またいつでも来ていいよ」

淡く微笑まれたその瞬間、私は完全に落ちた。彼の後ろには薔薇が見えた。即落ち二コマ。そしたら私のとるべき行動は一つだった。

「あの、お兄さんのこと好きになったんですけど私と付き合ってもらえませんか?」





中学の頃、一つ上の先輩に恋をした。同じ部活だったからその人には色々と教えてもらったし可愛がってもらった方だと思う。でもそれだけじゃ満足できなくなって告白する機会を窺ってた。もしフラれても互いに気まずくならないタイミングがいいかなって。

「そういやオレ、彼女出来たんだよね」

しかしその機会が訪れる前に別の人と付き合っていた。

高校の時は同級生。自分で言うのも何だけど結構いい関係だったと思う。好きな音楽も見るテレビ番組も似ていたし、時間が合えば放課後一緒に帰ったりもした。友達からも「そろそろ告白されるんじゃない?」なんて言われていたのに告白されていたのは彼の方だった。

「なんか断るのも申し訳なくてさ」

以上、これが彼氏いない歴=年齢の私が経験してきたこと。だから次に好きになった人には迷わず好意をぶつけようって思った。窺う恋愛も待つ恋愛ももうやめだ。私のコマンドに“攻め”以外の選択肢はない。



「こんにちは」
「おーいらっしゃい」

もう何度目かも分からない訪問。臆することなく足を踏み入れればドラケンさん出迎えられた。どうやら今日はドラケンさんが先に昼休憩を取ったらしい。バイトも雇わない二人経営のこの店では交互に休憩を取るのが常だった。

「今日は梨のお裾分けに来ました」
「おっいいのか?」
「はい。親戚から大量に頂いたので」

大きな梨の入ったひと袋をドラケンさん渡す。いつでも来ていいとは言われているが流石に客でもないのに居座り続けるのも申し訳ないのでこういった差し入れは何度かさせてもらっている。

「イヌピーなら奥にいるよ」

そして私の見え見えの下心を察してドラケンさんにはいつも笑われてしまう。だからそのお言葉に甘え店の奥の休憩スペースへと向かっていく。そこに着くまでの独特のオイルの香りがいつしか好きになっていた。

「こんにちは乾さん!」
「……ン、」

元気に挨拶をすればちょうど食事中であった。コンビニで買ったであろう唐揚げ弁当を持ち、口の中で白米を咀嚼している。タイミングが悪かったことに謝りつつも定位置となっている斜め向かいのソファに腰を下ろした。

「食事中にごめんなさい」
「いつもの事でしょ」
「まぁそうですけど……でも今日は梨のお裾分けに来ました」

口の中の物を嚥下してペットボトルのお茶を飲む乾さんの前に梨を並べる。「デケェな」と感心している彼に向けて、食べますか?と聞きつつ折り畳みの果物ナイフを取り出せば「準備よすぎだろ」と笑われた。だってこの辺りで家事が出来るアピールをしときたかったんだもの。

「家で食うよ、ありがと」
「はい!」

私が梨を袋に戻している間に乾さんはお弁当を食べ終えていた。空になった容器に割りばしを入れそれをビニール袋の中へ入れる。そして口を堅く結んでもう一度ペットボトル縁に口を付けた。

「そういえばいつもお弁当かカップ麺ですよね」
「まぁな。食いに出るとドラケンが店一人になっちまうし」
「いやそうではなくて自炊したりとかはしないのかなって」
「めんどくせぇ」
「じゃあ私が作ってきましょうか?」

両親が共働きだから自然と家事をやるようになった。凝った料理は出来ないけれど味と量には自信がある。それに男心を掴むならやっぱり胃袋からでしょう。

「いいよ」
「遠慮しないでください!肉じゃがとか生姜焼きとか、茶色い料理は大体美味しく作れます」
「何その色の基準」
「醤油みりん砂糖を使った料理が得意なので」
「フツー食材だろ」

フッと息を吐き出してその口角が僅かに上がる。普段、感情を大きく表に出さない乾さんが表情を緩めるこの瞬間が私は一番好き。

「乾さん、今の顔に惚れたので私と付き合ってもらえませんか?」
「またかよ」

しかしその顔は一瞬で、スンと真顔に戻ってしまう。初めての告白の時はそれこそ宝石のような瞳が零れ落ちるくらい驚いてくれたのに今ではそれすらない。しかし会う度に言っているのでもう慣れてしまったのかもしれない。

「ダメですか?」
「……つーかもう敬語とかいいから」

絶妙に話題を逸らされてしまった。いっつもそうだ。でもこんなことでめげる私ではない。長期戦は覚悟の上だ。

「乾さんの方が年上なんですからそうはいきません」
「あとその『乾さん』ってのも呼び慣れなくて気持ち悪りぃ」
「えー……」
「ドラケンのことはあだ名で呼んでんだろ」
「龍宮寺さんだと長いからですよ」

いやいや、好きな人をあだ名呼びなんて恐れ多いから。だからといってドラケンさんに敬意を払ってないわけではないのだが「イヌピーさん」なんて呼んでしまえば変に意識してしまう。

「ふぅん」

そうつまらなそうに呟いてゴミ袋を持って立ち上がる。そろそろ休憩は終わりなのだろうか。それならばと私も一緒になって立ち上がる。そして後を着いて行くように店内まで戻りそのまま出入り口の取っ手に手を掛けた。

「……帰んの?」
「はい。今日はこの後に美容室の予約をしているので」

いつもはカットとカラーだけだけど今日は奮発してトリートメントも予約済み。少しでも可愛くなって絶対に振り向かせてやる。しかし、そう意気込んでいたものの乾さんがこちらを無言で見つめてきたので帰りづらくなってしまった。

「どうしましたか?」
「そういうのは早く言えよ」
「早く言うと何かいい事でもあるんですか?」
「分かってればお……」
「あっ待って!当てます!」

この以心伝心ゲームに勝利できれば距離が縮まるかもしれない。だから冷ややかな視線を受けながらうんうん頭を唸らせる。そして一つの結論に辿り着いた。

「乾さんの好みのタイプを教えてもらえるってことですね!」

美容室というキーワードから推測するにこの答えしかない。しかし私の回答に対し乾さんは無言だ。ということは正解ってことだよね。答えは沈黙、それは緋の眼の彼が教えてくれた。

「乾さんはショート派ですか?それともロング派?前髪はあり?なし?髪色はどんな感じが好きですか?」
「好きなようにしたらいいんじゃない」
「私は乾さんの好みの女性になりたいんです!」

じっと見つめて答えを待っていれば視線を逸らされる。だから回り込んで顔を伺おうとすればまた逸らされた。そうしたら意地でも見たくなり回り込む。それを見ていたドラケンさんに「子犬のワルツじゃねぇか」なんて笑われたけど犬なのはどちらかと言えば乾さんなのでは?

「ほら、美容室遅れるよ」

そう言って追い出されたので渋々店を後にする。しかし三メートルほど歩いたところで大切なことを伝えそびれていたことに気付き急いで戻りガラス扉を開けた。

「なに?忘れ物?」
「今日も好きですよ」

捨て台詞のようにそう言って今度こそ店を後にした。





繁華街の雑居ビルにあるチェーン居酒屋が私のバイト先。十九時台から客足が伸び始め週末ともなれば予約客で席が埋まる。また二次会としてうちの店を利用する人もいるので日付が変わるまで客の出入りは続く——ともなればそれなりのトラブルも起きる。

「あのっやめてください!」
「はぁ?客を満足させんのも仕事だろ」

半個室のテーブル席から些か穏やかではない声が聞こえてきた。思わず柱の陰から中を覗けば二人組の男と先日入ったばかりのバイトの子がいた。男たちはすでに相当酔っているのだろう、顔が真っ赤で声がやたらと大きかった。その男の一人が彼女の名札を読み上げて笑っている。

「へぇ可愛い名前してんじゃん。そういやこの前会ったキャバ嬢も同じ名前だったわ」
「スゲー偶然。じゃあ今夜はこの子にアフターしてもらえば?」
「じゃあこっちのご奉仕もしてもらおっかなぁつって!」
「失礼します」

下品な笑い声を遮って彼女との間に割って入る。そして彼女には小声で厨房へ戻る様指示した。

「ご注文を承ります」
「なに?キミがオレらの相手してくれるわけ?」
「本日お席が大変込み合っております。もう料理もお酒もないですし注文なさらないようであればおあいそ願います」
「あ?」

酔っぱらい客には今までだって絡まれたことはある。でもこんなにも態度が悪く下品な客は初めてだ。怖くないと言えば嘘であるが肝は据わっているほう。私の兄も学生時代は随分とヤンチャしていたから。

「おーおーお客サマに向かって随分な物言いだなぁ」
「どうぞお引き取りを」
「ンだよこの店はよぉ!」

ガシャン、とお冷の入ったグラスが足元に投げつけられる。お陰でスニーカーとズボンの裾がびしょ濡れだ。相当な音であったが込み合う店内ではその音もただの雑音に過ぎない。

「警察呼びますよ!」
「その前にテメェの面かせや」
「さっきからうっせぇんだケド」

決して大きくはないがはっきりとした声が耳に届いた。それは向こうも同じだったらしい。その場にいた皆がそちらを向けば斜め向かいの席からこちらを見ている人がいた。黄と紫の髪をハーフアップに束ねているその人は三人分の視線を集めても何一つ表情を変えなかった。

「あ?」
「うっせぇつったの聞こえなかったワケ?」
「聞こえねぇなぁ!」
「おい、待てその人は…」

仲間の言葉を無視し一人の男が立ち上がる。しかしそれよりも先に黄と紫が視界に入り込んだ。ユラリ、と蜃気楼のように現れたその人物に男は椅子の上に尻もちを付く。その様子を唖然として見ていれば後ろから肩を引かれた。

「えっ乾さん?!」
「どうも」
「なに?知り合い?」
「おい!無視すんな!」

尻もちを付いた男が立ち上がり拳を大きく振る。その瞬間、乾さんが庇う様に前に立ったので何が起きたかは分からなかった。でもガタン、と大きな音が聞こえ足元を見ればその男が盛大に床に倒れていた。

「うっ……、ぐッ」
「オニーサン達相当酔ってるみたいだしもう帰ったら?」
「は、はい!」

倒れた男が仲間を引きずる様にして席を離れていった。そして去り際に「白豹…!」とぽつりと言い残していく。だがしかし、生憎この店でジビエは取り扱っていない。

「怪我は?」
「あ、大丈夫です。助けていただきありがとうございました!」

またも蜃気楼のように現れたその人にお礼を伝える。そうすれば彼の視線は一度私から逸らされ斜め上を向く。そしてもう一度私を見て、「あぁ」と何かに納得したような表情を浮かべた。

「この子がヨメか」
「ワカクン!」

ヨメ、という単語が上手く変換できず脳内でコスモが広がる。読め、夜目、余め……と手当たり次第に漢字を当てはめていったところで一つの答えに辿り着く。だから私は食い気味にその人の言葉に乗っかった。

「いえ、まだ違いますよ!まだ!」
「スゲー強調してくんじゃん。どうすんの青宗」
「あー……」
「大丈夫か?!」

そこで騒ぎを聞きつけたバイトリーダーが来てくれてこの件は無事に収まった。
そして残りのバイト時間も乗り切り店から出ればそこにはなんと乾さんの姿が。思わず見間違えかと思い立ち尽くしていれば小さく手を振られる。だから未だに冷たさの残るスニーカーで駆けていった。

「帰ったんじゃないんですか?」
「待ってたんだよ」
「えっ好き」

感動のあまり思わず告白すれば何とも言えない表情をされる。そして一拍の間の後「送る」と短く言った。それに対して「好き」ってまた言っちゃった。最早イエスと同意語である。

「ああゆう客って結構いるの?」

比較的街灯が多い夜道を歩く。しかし夜が更ければ車も通らぬほどの静かな道だ。だから乾さんの声がよく響いて心地のいい夜だった。

「あー…偶にいますね。やっぱりみんな飲んでますし」
「なら一人で解決しようとすんな。今日だってワカクンが間入ってなかったらヤバかったよ」
「はい、次は気を付けます」

確かに軽率な行動だった。二人がいてくれなかったら騒ぎがもっと大きくなっていたし、乾さんが庇ってくれなかったら怪我をしていたかもしれない。

「でも、」

少しだけしょぼくれていたら静かに声が掛けられた。一度切られた言葉を不思議に思い、隣を見上げる。

「スゲェかっこよかった」

かっこいいよりは可愛いって言われたかったな。まぁでもしょうがないか、今はジーンズにパーカーだし。でもその言葉一つで私は単純に浮かれてしまった。

「ついに惚れてくれました?」
「ハイハイ」
「もー!私は本気ですからね!」

うーん、まだ一歩及ばずか。

でも私のバイト先を知ってからか乾さんがよく来てくれるようになった。一緒に来るのは若狭さんだったり、その方と同じジムを経営しているベンケイさんだったり。そしてどういう縁かは知らないがモデルの柴八戒を連れて来たときには店が湧いた。

「バイトお疲れ」

そして帰りは一緒に来ていたお友達と別れて外で待っていてくれる。それが嬉しかった。でもその理由は私が恩着せがましいことをやっているからかもしれないが。

「オレのアイスだけトッピング増やすのやめろよな」

デザートのアイスをこっそり豪華にしている。

「私の愛が溢れ出た証拠ですね!ということで私と付き合ってくれませんか?」
「酔ってんの?」
「失礼な!バイト中に飲みませんよ」

しかし安定の塩対応に、相変わらず距離は縮まらない。





兄というのは仕事から帰ってきた瞬間に妹を罵倒する生き物である。

「おい、テメェふざけんな」

お笑い番組を見ていれば後ろから躊躇いもなく小突かれた。ちょっと今好きな芸人さんがネタやってるんだけど。しかし文句を言うより先に机の上に弁当箱の入ったバッグが置かれる。あぁ、今日は乾さんのお弁当を作るついでに兄の分も作ってあげたんだっけ。

「痛いんだけど。急になんなの?」
「気色わりぃ弁当持たせやがって」

全くもって意味が分からない。心当たりがあるとするならばおかずが真っ茶色なことくらいか。でも兄の好物である唐揚げも入れたので文句はないと思うんだけど。

「今どき米の上にハート書く奴がいるか」

は?何言ってんの。愛妻弁当の定番でしょうが。一先ず、妻じゃないだろうというツッコミは置いておくが、先日桜でんぶをスーパーで見つけて買ってきたのだ。これぞ分かりやすい愛のカタチ。だからこそ乾さんのお弁当に——って二人のお弁当間違えて渡した?

「あと手紙!『乾さんの横顔は…』」
「あー!やめて!!」

そしてお弁当を渡すときには毎回短い手紙を付けているのだがそれも当然兄に行き渡っていた。

「きっしょ!つーかオマエ重すぎ!」
「だって全然意識してもらえないんだもん!」
「ンなら興味ねぇってことだよ!」
「はぁ?!自分が彼女にフラれたばっかだからって八つ当たりしないでよ!」
「それ今は関係ねぇだろ!」
「アンタ達うるさい!!」

いい歳した兄妹喧嘩は母の一括により終焉を迎える。しかし尚も睨み合いは続けたまま。だがそれよりも母の鋭い眼光が光ったので互いに黙ってそっぽ向く。夫婦喧嘩で毎度敗北する父の姿を見ているので。しかし兄は捨て台詞として強烈な一言を放っていった。

「好きでもねぇ奴の好意ほど気持ち悪りぃモンはねぇよ」





今日も今日とてバイクのメンテナンスをする乾さんの御尊顔を目に焼き付ける。この日はお昼時ではなくバイト前にお店に寄った。閉店時間も近いため客はおらず、ドラケンさんも配達に出てしまったので店内には二人きりだった。

「今日は静かだね」
「え……?」

乾さんは作業用手袋を外しながら立ち上がる。私はその様子をレジ近くのパイプ椅子から眺めていた。

「いつもずっと喋ってるから」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ」

店の隅に置かれていた丸椅子を持ってきて乾さんは私の隣に座った。いつもだったら「好き」という単語が飛び出すくらい嬉しいはずなのにこの時は顔すらまともに見れなかった。

「乾さんはお喋りな子の方が好きですか?」
「そんなにオレの好み聞く必要ある?」
「ありますよ。だって…——」

その先の言葉は喉に痞えて出てこなかった。

「今日はもう帰ります」
「なら送ってくよ」
「いえ、帰りに寄りたいところもあるので大丈夫です」

荷物を持ってガラス扉の取っ手に手を掛ける。そして帰ろうとしたところで一言言い忘れていたことに気が付いた。

「お邪魔しました」

店の灯りから逃げるように暗い夜道を駆けて行った。





今までで一番の攻めの姿勢ではあるけれど、思い返してみると今までで一番脈がない気がしてきた。そして思い出されるのは兄の言葉だった。



「アンタも今から青宗のとこ行くの?」

すっかり乾さんへの接し方が分からなくなりバイクショップに顔を出しづらくなってしまった。でも足は自然とお店へ向かっていて習慣とは怖いものだと苦笑する。ただ、やはり途中で足は止まり自分をごまかすようにコンビニに入ろうとしたときだった。

「あっ若狭さん!」

ちょうど買い物を終えた若狭さんと鉢合わせた。その手を見れば二つの袋が握られている。どうやらお酒と焼き鳥を乾さんに差し入れるつもりらしい。

「昼間からですか」
「マ、今すぐ飲むのはオレだけだろうケド。アンタも来る?」
「すみません、実はこの後用事がありまして」

こちらに向けられたアメジストの瞳から逃げるよう顔を背ける。それでも注がれる視線に狩られる側の哺乳類のような気持ちになった。そんな私の目の前に差し出されたのは強靭な牙ではなく缶ビール。

「一杯だけ付き合ってくンね?」

そうして向かった先はコンビニ裏の公園、その木陰になっているベンチに並んで腰を下ろす。頂いた缶ビールを開け安っぽい音と共に乾杯をする。そして若狭さんは躊躇いもなく私の胸の内を射抜いてきた。

「青宗の事、もう好きじゃねぇの?」
「好きですよ」
「の割に店行ってないらしいな」
「……そんなことないですよ」

手元の缶に口を付ける。アルコールに弱いわけではないのだが日中に飲んだせいかすぐに頬が火照ってきた。これは酔いが回るのも早いかもしれない。

「そういや青宗のどこがすきなワケ?」
「かっこいいところです」
「ふぅん」

若狭さんも手元の缶を傾け中身を減らしていく。そしてなんと全て飲み切ったらしくアルミ缶を潰してみせた。その姿に呆気に取られていればスッとこちらを向いて口角を上げた。

「じゃあ飽きたってワケか」
「飽きた?」
「青宗の顔に飽きたつーことだろ。それかアイツ以上に好みの男でも見つけた?」

大学生なら合コンでいくらでも出会えるよな、と独り言のように付け加えられる。その言葉に私も手元のお酒を一気に煽った。そして分かりやすく深呼吸して若狭さんの方へ顔を向ける。

「私が顔だけで好きになったような言い方しないでください!」

確かに一目惚れだった。でも今はそれだけじゃない。
オチのないような会話に耳を傾けてくれて、かと思えばちゃんと内容を覚えていて後日その話の続きを聞いてくれる。バイクについて一つ質問をすれば十倍の熱量の答えが返ってくる。お弁当箱はいつも洗って返してくれてその中には飴やチョコなんかのお菓子を入れてくれる。バイト帰りだけじゃない、店から出るときも見送りをしてくれるようになったのはいつからだろうか。

「そうゆうところ全部ひっくるめて好きなんですから!」
「だってよ青宗」
「え……」

パッと後ろを振り返れば息を切らした乾さんの姿が。どうして?なんて聞くのはもはや野暮なこと。若狭さんの「後はごゆっくり」という言葉が全てだった。

「ワカクンにここにいるって聞いて急いできた」
「そうですか…あの、今の話は」
「ブチギレたところから聞いてた」

はい、死。
これは終わった。絶対に気持ち悪がられた。

「あっおい!」

そしたら私のとる行動は一つ。逃げた。
昼下がりの公園を全力で追いかけっこ。黒服サングラスのハンター並みの速さにこちらもトリッキーな動きで対抗する。しかし痺れを切らしたのか「待てゴォラ!」と些か穏便でない言葉が追いかけて来た。えっ乾さん治安悪くないですか?そういえば昔は相当ヤンチャしてたってドラケンさんが言っていたような……それを証明するかのように私の腕は乱暴に掴まれた。

「逃げんな」
「わ、分かりましたから!」
「本当だな?」
「本当です!というか痛いです!」
「あ……悪りぃ」

先ほどまで掴まれていた腕を擦る。乾さんがもう一度謝ってくれたからこちらも何だか居た堪れない気持ちになって謝る。
公園内を三周回って戻ってきたのは先ほどのベンチだった。だから逃げる意思がないためにも私はそこへ座った。そして一拍遅れて乾さんも隣りに並んだ。

「さっき言ってた事、本当?」
「……すみません、気持ち悪くて」
「どこが?」
「全部です。お弁当押し付けたりとか好きなタイプ聞いたりとか。そもそも会う度に好意をぶつけるのって迷惑でしたよね」

アルコールを一気に摂取して全力疾走したせいか頭がやたらとぐるぐるする。そしてそれに比例するかのように虚しくて惨めな気持ちになっていった。

「オレは嬉しかったよ」

でも単純な私はその一言で脳内の靄が晴れたように一瞬でクリアになった。

「つーか、顔以外で好かれてるとは思わなかったわ」

フッ、と息を吐き出すような笑い。
それを見た瞬間、条件反射のように言葉が零れ落ちそうになった。

「す——、んぐっ」
「ダメ。今日はオレから言わせて」

唇に人差し指が押し付けられて黙り込む。空よりも綺麗な水色は私だけを見ていた。

「楽しそうに喋る姿も笑った顔も可愛いなって思ってたし、手紙も嬉しかった」

空よりも綺麗な水色は私だけを見ていた。

「前に惚れてるかって聞いてきたけどとっくに好きだったよ」
「え、だっていつから……」
「多分初めから」

一目惚れの私より先、とは?

「オレのバイクをかっけぇつってくれた時から」

そんな独り言ひとつで?という台詞が顔に掛かれていたのだろう。私が聞くより先に「一目惚れも同じようなもんだろ」とバッサリ言われた。そうなのかな。でも理由なんてもうどうでもよかった。

「ということは私は彼女になれたってことですか?!」
「いや、まだそっちからは聞けてねぇんだけど」
「はい?」
「オレの事どう思ってんの?」

自分で遮っておいて、分かりきっている答えを聞いてくる。でもこてん、と首を傾げたその仕草を前にして文句の一つも言えなくなってしまった。じゃあいいよ、言ってやる。今まで何十回も言ってきた言葉を。でも勝ち試合だというのに今までで一番緊張して喉の奥に言葉が詰まった。

「えっと、好きで…んっ」

しかしやっと吐き出せたその言葉はいともたやすく飲み込まれてしまった。頬を掠めた睫毛がくすぐったくて目を閉じれば次の瞬間には唇に柔らかい感触。はっとして口を半開きにすれば下唇を甘噛みされて顔が離れていった。

「ここは桃源郷だった?」
「ただの公園だけど」
「えっ夢?」
「じゃあもう一回試してみる?」
「無理無理無理無理!!」
「……そんなに嫌だったのかよ」
「いや、だってその、初めてで……」
「は?」

生まれてこの方、彼氏はいたことがない。それに告白されたこともなかったし私が自分から告白したのも乾さんだけだった。

「初対面で告白して来たのに?」
「あれは勢いですよ!」

だからいきなりこんなことをされたらキャパオーバーなのだ。

「そっか」

フッと息を吐き出して笑う、やっぱり私の好きな顔。でもそれは少しだけ意地悪く歪められた。

「ならこれからはオレのターンだな」

そして今まで言った倍以上の「好き」を受けることになろうとは、この時の私は夢にも思わなかったのだ。