推しの嫁になったけど解釈違いが辛すぎたので国外逃亡してやった

ふと視線を上げれば一人の男と目が合った。

三百人以上のパーティー会場。
彼との距離は約五メートル。
あちらこちらで談笑する声が聞こえるというのに一瞬で世界は私と彼だけになった。

タフィーピンクの髪は会場のどの花よりも目を惹き、翡翠色の瞳は女性たちの煌びやかなアクセサリーよりも美しかった。そしてその顔立ちは彫刻よりも端正で、繊細な造りで。言葉では言い表せないその美貌に息をのんだ。

「失礼」

声を掛けられ、私はそこでようやく現実へと引き戻された。人々の声が再び耳に着くようになり、長時間ハイヒールを履いていた足がつりそうになっていることを思い出す。

「はい、何か?」

にこりと社交場にふさわしい顔を作る。この男とは初対面だ。しかし私は彼を知っている。だからいつかこの日が来るとは思っていた。

「僕の顔に何かついていましたか?」

この世界を生き抜いているだけあって感は鋭いらしい。いや、もしかしたら知らず知らずのうちに熱を帯びた視線を送っていたのかも知れない。

「いえ……ただ、見ていた事は事実です。不快な思いをさせ、すみませんでした」

だから素直に謝った。彼には嫌われたくなかったのだ。

ようやく出会えた。
紙面越しに見ていた彼が今、目の前にいる。

「とんでもない!の方こそ不躾に失礼しました」

…少々の違和感。
一度は聞き流したそれが耳に残った。

「え……?」

二つの理由から私は首を傾げた。
だが、彼に伝わったのはもちろん会話に関する方だけ。

「貴方ではなくが見ていました」

彼の頬が髪と同じ色に染まる。
心臓がぞわりと震えた。

脳内に警告音が鳴り響く。
それはまるで金属探知機のようなもので、地雷の場所を私に教えているようだった。
やめろ。それ以上話すでない。
そうじゃないと、私の中の貴方が…———

「貴方の美しさに見惚れていました」

とろけるような笑みと甘ったるいセリフ。
トドメとばかりのそれで、私の中の『三途春千夜』は音を立てて崩れていった。


あっこれは解釈違いだわ。





私が東京卍リベンジャーズの世界へと転生したことに気付いたのは中学一年生のときだ。進学した学校で『柴柚葉』に出会い、その瞬間脳内にスライドショーの如く断片的に前世の記憶が流れたのだ。と言っても特に面白味のある記憶ではない。

普通の家庭に生まれて普通の学校に通って普通に友達ができて普通に漫画やアニメにハマった。それが成人し社会人になってからも好きだったってだけ。ね?みんなと一緒でしょ?だから敢えてこれ以上は語らないでおく。

さて、ここからは私の推しについて少し語らせてほしい。自分語りよりも推し語りの方が楽しいからな。

それは当時の私の最推しが死んだ日のことだった。
元々、死亡フラグは立っていた。事実、原作の中でも度々死にかけていた。だがその度に「執念深そうだし結局は死なんだろ」とタカをくくっていた。だがしかし、推しは死んだ。やるせなかった。グッズも出る前に死んだのだから祭壇すら作れていなかったのだ。

「そんなに落ち込むなって!それならこれ読んでみなよ」

持つべきものは友である。
生きる屍と化した私に彼女は十二冊の漫画を持ってきた。

「登場人物も多いし新たな相手が見つかるかもよ。とりあえず私の推しが出てくるとこまでは読んでね」

励ましではなく布教だった。でも私は素直に受け入れた。
一冊読んで、二冊目に手をつけて。そして気付けば一夜のうちに十二冊読み切ってしまった。面白かった。そして電子書籍を一括ダウンロードするくらいにはハマった。未だに運命の相手推しには出会えていないが作品として好きになった。

友人の言う通り確かに東リベは登場人物がとにかく多かった。故に一年以上紙面に現れないキャラなんてのもザラにいる。それも相まってか二次創作というものも活気付いていた。現に某サイトの小説のランキング一覧もいつしかツ◯ステ、呪○廻戦から東リベに移り変わっていた。

神々の作品にいいねを百万回連打しつつ水曜日を心待ちにする生活がしばらく続いた。
そしてついに私は『三途春千夜』に出会ってしまった。

しかし正直に言うと初登場回では何も思わなかった。そもそも「性別どっち?」から始まりその後は友人との話題にすら上がらなかった。

だが冷凍倉庫でのおクスリあーんからの拳銃ブッパに私の心は鷲掴まれた。マイキーに拾われたときの描写、将棋を指すシーン、かーらーのー日本刀ザックリは痺れた。ムーチョのことは悔やまれるが、それと同時にマイキーに心酔していることが分かり私の心は打たれた。

このキチガイ、推せる。

そして私はいつもお世話になっているサイトに飛び、来る日も来る日も『三途春千夜』という名を検索にかけまくった。

だがそこで私は知ってしまった。
この世には二種類のタイプの『三途春千夜』がいることを。

先ずはムーチョの部下だった頃の"敬語"ver.の春千夜。二次創作でのこの春千夜はとにかく夢主に優しかったし、また受けとして描かれることも多かった。

そして次に"ヤク中+ヤンキー語"ver.の春千夜。通称『春千夜(梵天のすがた)』とも呼ばれるそれは夢で見かけたとしても塩対応だった。しかし、その分ツンデレとでも言えばいいのか不器用な優しさを持つ男として書かれていた。

確かにどっちも彼は彼。間違いもなければ寧ろどちらも正解だ。人の数だけ解釈の仕方がありオタクの数だけ愛の形がある。他の人を否定する気はさらさらない。しかし、私が推せる!と思ったのは後者の春千夜だったのだ。

だから今世で本物の春千夜に出会えたというのに、私は喜べなかったし受け入れられなかった。

オタク、失格。
この世のすべての三途春千夜推しの方々に土下座したい。死を持って償いたい。でもちゃっかり転生した身でもあるし、今の私にも友人はいるわけでやはりまだ死にたくはない。

だから私は『三途春千夜』から卒業することにした。彼を受け入れられなかった私はもう二度と彼に会わないことを誓おう。それに、そもそも私は原作キャラでもないからあまり関わらない方がいいだろう。

一目会えただけで十分だ。
さようなら、私の推し。



———と思っていた時期が私にもありました。



「どうしたの?」

仕事中、祖父が仕事場に顔を出した。仕事場にと言ってもそこはある意味、我が家でもある。私の祖父は所謂ヤから始まる自由業をしており私はそこの事務員として働いていた。

「実はオマエに見せたいものがあってな」

会長室の革張りのソファに向かい合わせに座れば祖父が一冊のアルバムを渡してきた。アルバムというには薄いそれを片手で受け取る。そうして促されるまま開いたところで私は目を疑った。

「三途という男だ。見合いをしてみないか?」

今世では二度と会わぬと決めた男が写真の中にいた。というか春千夜めっちゃ美しいな。そのピンク柄の蓮の花柄のスーツ物凄く似合ってるよ。着こなせるのは前世でも今世でも来世でも春千夜しかいないだろう。

「歳はオマエと同じでな、若いがあの梵天のNo.2だ。悪い話じゃないだろう?」
「あの、ちょっと待って。今まで結婚にはずっと反対してたよね?」

アルバムを閉じて目の前の祖父を見る。見合い話は今までにも多々あった。しかしそれが私の元へと来る前に祖父が全て断っていたのだ。

というのも、私は早くに両親を亡くし祖父に育てられた。その経緯もあり祖父は私を溺愛している。だからこそ嫁に出すことはもちろん、婿を迎えることすら嫌がる。そしてそんな祖父が私を道具扱いすることもないわけで政略結婚も考えづらかった。

「確かに。でもな、この男は本気でオマエのことを愛している。こいつならオマエを任せられると思ったんだ」

いや、あのパーティーの時しか会ってないからな?どこに惚れられる要素が……いや、待てよ。これは全て梵天によって仕掛けられた壮大なストーリーなのでは?

梵天はうちの組と繋がりを持ちたい→現会長の孫娘である私に目を付ける→同い年の春千夜が駆り出される→政略結婚を持ちかけた。え、めっちゃしっくりくるんですけど。となるとだ。パーティーでのあの言動も全て演技となる。そしてきっと私の利用価値がなくなれば———

「私、結婚する!」
「いいのか?」
「うん!おじいちゃんがそこまで言うなら私も安心だよ。それにこの人すごく優しそうだし」
「そうかそうか!ではすぐにでも話を進めよう!」

スクラァァァップ!な春千夜が見れるってこと!!

だから、

「一目見た時に運命だと思いました」

都合のいい言葉も、

「何に変えても彼女のことを守ります」

祖父を安心させるための方便も、

「貴方のことを心の底から愛しています」

偽りの愛の言葉も、

「一生、共にあり続けましょう」

籍を入れれば全てが変わる。

さすがに殺されたくはないが、祖父がいる手前そこまで酷いことはされないだろう。
まぁ罵倒くらいはされたいけれど。

兎も角、これでようやく推しに会えるってもんよ!!



———と思っていた時期が私にもありました。



ドアを開ければ玄関には脱ぎ捨てられた靴があった。それは紛れもなく仕事に出掛けた旦那が履いていたものである。しまった、と思うが時すでに遅し。私がドアを閉めればその音を聞きつけた人物がリビングから大慌てで現れた。

「どこに行ってたんですか?!」

声を掛けられると同時に両肩を思いっきり掴まれる。

「えっと、牛乳が足りなかったので買」
「そういう時は僕に言ってください!」
「でもマンション真下のスーパーで」
「だからといって一人で出歩かない!それにスマホも置いてきましたよね?!」
「すぐか」
「僕がどれだけ心配したか!」

解釈違い乙。
そこは「オレに黙って出歩くんじゃねぇ!」と言ってキレて欲しかった。

今にも泣き出しそうな顔で痛いくらいに抱きしめられる。やめろ。私達の間に挟まれている牛乳パックが破裂するわ。

結婚して早三ヶ月。
今か今かと春千夜の荒い言葉づかいとイカれ行動を心待ちにしているのだが全くその気配がない。

「ごめんなさい春千夜…あ、」

そしてもう一つ気になることがある。

「ん?今なんて言いました?」

春千夜が瞬きの間に真顔になり私の瞳を覗いた。

「……ナンデモナイヨ、ハルチャン」

それは「はるちゃん」呼びの強制である。これに関しては私の中で無きにしも非ずなのだが、前世では散々「春千夜」呼びをしていたため違和感が半端ない。

「ふふっよく出来ました」

そう言って私の頭を撫でる春千夜は本当にやさしい顔をしていた。うん、旦那としては百点満点である。これが悪いというわけではない。でも、違うんだよなぁ。

「荷物持ちます」
「牛乳とお財布だけだよ?」
「それでも貴方に持たせるわけにはいきませんから」
「だいじょ、」

ふに、と私の唇に人差し指が押し当てられる。その動きがあまりにも滑らかすぎて一瞬何が起きたのか分からなかった。

「ダーメ。僕の大切な奥さんに無理はさせられませんから」

翡翠色の瞳に至近距離で覗かれて脈が止まった。ほんと、マジで。

「はぅッ…!!」
「えっ?!大丈夫ですか?!」

そして私は春千夜の顔に弱かった。
紙面であれだけの美貌。それが三次元になって動いて喋って立体化した時の迫力を想像頂けるだろうか?マジで美の化身が歩いてるだけだから。

だからこそ私は春千夜に言いたいことも言えないのだ。名前の呼び方だってそうだった。
因みに春千夜には何度か「無理してない?」と声を掛けては本性を引きずり出そうとしたことがある。しかしその度に「貴方の為の無理ならご褒美ですね」や「無理ですか…僕としては夫婦のスキンシップを増やしたいと思っていますが」などと言われ羞恥に駆られてやめた。また、解釈違いによりSAN値も削られた。

「だ、だいじょ」
「だから僕は貴方を一人で歩かせたくないんです!」

いや、元はと言えばお前が原因だからな?
こんなことをしょっちゅう繰り返していたせいで私は春千夜から病弱認定を受けてしまった。しかし先に言わせてもらうと私は今世でも前世でも超健康体である。そうでなければ四十七都道府県かけずり回ってポスターを写真に収めるという所業は成し遂げられなかった。

「そんな大げさに」
「食事の支度は僕がしますから休んでください!」
「ヒッ」

春千夜はよろめいた私を軽々と姫抱きにしリビングのソファまで運んだ。そしてキッチンに立ち、クリームシチューを作ってくれた。それだけでなくサラダやフルーツ、バケットも用意してくれて随分と豪華な食事が出来上がった。

「食べられそうですか?」
「うん。ごめんね、ありがとう」
「いえ、お気になさらず」
「でもね、」
「何ですか?」
「はるちゃんの席は私の向かいだよね?」

四人がけのダイニングテーブル。いつもは向き合って座るはずが隣に春千夜は座っていた。しかも逃がすまいと何故か腰に手が添えられている。見た目の割に力はあるのか身動き一つとれない。というか下手すればこのまま抱き寄せられて春千夜と言う名の玉座に居場所を移されそうなんだが?この状況を三文字以内で説明しろ。

「あーん」

文字起こししなくても状況が分かる満点回答ですね!
スプーンよりも先にそのご尊顔に目がいってしまい食事どころではない。声にならない叫びは何の役にも立たないので必死に顔を左右に振る。しかしどうにも解釈違いの男はこの状況をも解釈違えていた。

「もしかして口移しをご所望ですか?」
「ヒッ」

なにこの夢展開。好きです。

だがしかし、解釈違いである。





春千夜の顔面に目眩を起こし、解釈違いに頭を抱える私だがここで転機が訪れた。

最近、春千夜は疲れた顔して帰ってくる。仕事内容は一切教えてくれないがNo.2様もお忙しいらしい。現に少しやつれたようで私としても心配だ。でも春千夜は気丈に振舞い「帰りは遅くなるので先に寝ててくださいね」という言葉と頬に口付けを落して出ていった。朝からご馳走様です。

ガタ——ガタンッ

夜中、騒々しい音で目が覚めた。
春千夜が私の寝ている時間に帰ってくることはこれが初めてではない。でも毎回、ドアを閉める音一つさせずに帰ってくるのだ。

もしかして泥棒か…?
ベッドから抜け出て廊下へと出る。明かりはついていて床には鞄やスマホ、コートやネクタイが捨てられていた。その物から春千夜が帰ってきている事がわかる。だから一先ず安心し、物音がする方へと歩いて行った。

「はるちゃん…?」
「っ?!」

キッチンのシンクのところ。明かりも付けずに春千夜は水を出しっぱなしにして立っていた。水を飲もうとしたのだろうか。しかし目が虚ろでどうにも様子がおかしい。

「何してるの?」

もう一度声を掛ければ無言のままこちらへと歩いてくる。そのただならぬ様子に一歩も動けなくなる。しかしそれは恐怖ではなく、ついにきたか…!?という斜め四十五度による興奮故のものだった。この時の私はアニメ化が決まった時並みにテンションが上がっていた。

「いっ…!?」

痛いくらいに両腕を掴まれるがこれはこれでいい。長らく推しを前にして推しの供給ができていなかったのだ。このくらいの被虐性は寧ろ喜ばしい。そして今か今かとその時が来るのを待った。が、しかし——

「ぅ、……オ"エ"ェェ"ッ」

次の瞬間、目の前でリバースされた。
顔にかからなかっただけまだマシか。しかし私の体は全身吐瀉物だらけになった。大丈夫だよ、春千夜。私も友人に同じことをやらかしたことあるから。

そう、あれは前世で私の推しが死んだ日のことだ。作中では嫌われ者、SNS上ではネタキャラとして扱われていたが私は彼を本気で好きだったし推していた。そんな彼は「ざけんなや 呪力が練れん ドブカスが」という言葉を残して逝った。世間では「辞世の句(笑)」なんて言われていたけれど私は本気で悲しかった。十七巻の表紙を前に缶ビール三本と赤ワイン、日本酒を一本ずつ一人で飲み干し買い出しから戻ってきた友人にやらかした。

「はるちゃん大丈夫?」

さて、元カレ()の思い出話はここまでにして今は目の前の春千夜である。ぐったりとはしているが全部吐き出せたのか落ち着いてはいる。それにしても相当お酒を飲んできたらしい。固形物は殆どないが、その中で私はあるものを見つけた。

「薬…?」

赤と白のカプセル。もしやこれがA◯TX4869…?!
なるほど、これが切れたから身長の誤表記が発生したんだな。一日にして十二センチもデカくなっていて初めてジョ○ョを読んだ時並みに驚いたんだから。

———と、つい前世の記憶とごっちゃにしてしまったがこれはあまり良くないタイプのおクスリである。へぇーこの春千夜もやってたんだ。てっきり私の前では服用しないし、スーツのポケットを漁っても出てこなかったから飲んでいないものかと思っていた。……いや、ちょっと待て。これを使えば何かが変わるかもしれない。そこで私は二つの仮説を立てた。

まずはパターン一。
今の春千夜がクスリで抑制された姿であるならば、これを取り上げればヤク不足で豹変するかもしれない。

パターン二。
クスリをやっていた事を私が責めれば逆ギレしてくる可能性がある。そうすれば今までの化けの皮を剥がさざる負えなくなるだろう。

今まさに真髄の扉が開かれるとき。
待ってろよ『三途春千夜』!!



———と思っていた時期が私にもありました。



「ごめんなさい!!」

翌日の昼過ぎ、春千夜が私にスライディング土下座を決めた。
どうしよう。こんな推しの姿見たくなかった。

「急にどうしたの?!」
「ぼ、僕はッ…薬やめれっ、なくてぇ…挙句に、ぅぅ……貴方にッ、嘔吐物を浴びせっ……こ"め"ん"な"さ"い"!!」

翡翠の瞳からは大粒の涙が溢れ、嗚咽ししゃくりを上げる春千夜にさすがの私も脳内ツッコミを休止する。慌てて駆け寄れば縋り付くように脚にしがみ付かれた。

「分かったから!はるちゃん落ち着いて!」
「ぼかぁ、本当にッ…人間のクズです"!」

人がツッコミを封印している時に大泉さんのモノマネをするでない。
そんな自分と縋り付く春千夜を宥め、なんとかソファまで移動してもらった。頬を濡らす雫を拭い、頭をよすよすしてあげる。

「大丈夫?落ち着いた?」
「はい…あの、本当にすみませんでした。お詫びに服を百着ほど買わせてください」
「いらないかな」
「そして体は今日から毎日僕に洗わせてください」
「やめてほしいかな」

このブッ飛んだ思考回路がおクスリのせいでないことが一番の脅威である。そのイカレ具合を別方面に振ってほしいのだが何故それをしてくれないのか。ひとつのステータスに対して252までしか振れないという仕様をご存じない?

「クスリ、やってたんだね」

まぁいい。ここからが本題だ。
春千夜を見たら何も言えなくなるので顔を背けながらポツリと言った。隣からは「うっ…」と詰まる声が聞こえた。それは即ち肯定を意味する。そして私は畳みかけるように言葉を続けた。その度に春千夜は呻き、そしてついに無言になった。

これで準備は整った。こちらは遥か古の前世より心の準備はできている。さぁ、来い!!

「こ"め"ん"な"さ"い"!!」

だがしかし、春千夜が再び私にスライディング土下座を決めた。
もう一度言おう。こんな推しの姿見たくなかった。

「はるちゃ、」
「結婚してからは止めたんです!!」
「はる、」
「でも最近仕事ばかりで貴方との時間が少なくなって!!」
「は、」
「魔がさして!!」
「h、」
「離婚しないで!!」

私にも喋らせろ。
最後の方とか英単語の発音練習みたいになっちゃったじゃん。確かに春千夜は日本人よりは欧米人に近い容姿だけど日本語しか喋れないよね。まぁそれも会話が成り立っていないのだけども。

「私の話を」
「いやだぁあぁぁあ!!」
「春千夜!!!」
「っ!?」

顔を両手で包み込んで固定する。これは私が推している『三途春千夜』じゃない。そう断言してしまえば国宝級の顔を前にしてもぶっ倒れることはなくなった。

「私はね、吐いたこともクスリをやってたことも怒ってないの!」
「ほ、本当ですか…?」
「本当!ただね、そうなる前に私に言ってほしかった」

目の前の泣き叫ぶ男は私の『旦那』だった。

「仕事の愚痴があれば聞くし、過ごす時間を増やしたいなら私は起きて貴方を待ってた」

それなら私は『妻』として向き合わなければいけない。

「私にできることは少ないけど、我慢せずにこれからは何でも言ってほしい」

そう言い切れば、春千夜は私の手を剥がして思いっきり抱き着いてきた。痛いし苦しい。でも私に触れている春千夜は温かくて、あぁ生きてるんだなとバカみたいな感想が頭に浮かんだ。

「苦しいよ、はるちゃん」
「うぅ…なら僕はこれから貴方に遠慮しませんから!家を出るときは貴方からキスしてください二日に一回は一緒にお風呂に入りましょう週末は僕の選んだ服を着て食事に出かけましょう寝るときは必ず僕の方を向いてくださいそれで」
「いや、少しは自重しろ?」

まぁ色々あったわけではあるが、これからは良き夫婦として生きていきたいな。



———と思っていた時期が私にもありました。



ホテルの最上階、夜景が見えるレストランで私は真顔の春千夜と向き合っていた。

「今、誰を見てたんですか?」

また始まった、とこっそり溜息をついて私は口を開いた。

「はるちゃんだよ?」
「嘘ですよね。ワインを運んできた男を見てた」

そりゃあ給仕の人がグラスにワインを注いでくれたら目を合わせてお礼くらいは言うわ。

「確かに見てたけどその後はすぐにはるちゃ」
「すみません、食事は全て部屋まで運んでください」
「えぇ?また急にそんな事を…」
「貴方の瞳に僕以外の男を映したくありません。スイートルームも取ってあるのでそちらで食べましょうか」
「はぅッ…!!」

転生したら旦那の束縛が強すぎた件について。
あの日以降、いよいよ歯止めが利かなくなってしまった。それに私が春千夜の顔に弱いことに気付いたのか最近ではそれを利用され意図的に(顔面で)殺しにかかってくる。

「はるちゃん、せめて自分の足で歩かせて」
「僕がしたいからしてるんです。遠慮しないでください」
「はぅッ…!!」

そして当然の如く姫抱きである。くっ…この流れはヤバイ。全て前世で予習済みだ。それにより導かれる今後の展開は……

ヤンデレ監禁ルート待ったなし。

その手の話も私は好きだった。事実、支部で書かれた神作品には二百万回いいねした。
でも、だ。実際にやられたら堪ったもんじゃない。

逃げねば。





春千夜が仕事に行ったことを確認し、クローゼットの奥に隠していた携帯を取り出した。これは普段使いとは別に祖父の名義で契約しているものである。過保護な祖父が万が一にと持たせてくれたものだ。

「もしもし?急にごめんね」
『おっ久しぶりじゃん!元気してる?』

電源を入れお目当ての人物に電話をすれば僅か二コールで出てくれた。この様子だといまは日本にいるらしい。

「元気だけどこの生活ももう限界で…助けて逃げたいそして匿って」
『別にいいけどさぁせっかく推しの嫁になれたってのにいいわけ?解釈違いでも隣で拝めるだけで役得でしょ』
「いや、このままだとヤンデレ監禁ルートのR-18Gに突入する」
『本望じゃん』
「他人事だと思って!!」

けたけたとスピーカー越しに笑うのは私の古き友人。この世界では年齢こそ違うが前世では確かに同級生だった。

『はいはい分かったよ。ちょうど今日の夕方の便で日本を立つ予定なんだけどアンタも来る?』
「え?いいの?」
『友人の頼みとあらば』
「ありがとう『柚葉』!」

そしてオリキャラとして転生した私とは別に彼女の場合は成り代わりだった。一緒にコ○ケ帰りにトラックに引かれて死んだというのにこの差はなんなのか。

『いいって。それに住むとこないならマンションも貸すわ。実は大寿が経営している海外の子会社が上手くいっててさ。いやぁさすがアタシの推しだわ!』

そして彼女は成り代わりらしく原作通りに立ち振る舞ったらしいが、原作に書かれていないのをいいことに梵天軸での未来で好き勝手している。その結果いま現在、彼女は自分の推しである『柴大寿』と良き兄弟仲を築いている。

まぁ私は成り代わりでもないのだからオリキャラという名のモブらしく、この先はひっそりと生きよう。

ごめんね春千夜。
ありがとう春千夜。
私がいなくても達者に生きろよ。

離婚届と指輪を置いて私は家を出た。

これで全て原作通りだ。


———と思っていた時期が私にもありました。





柄にもなく運命だと思った。


稀に視線を感じる時があった。
マイキーに東卍に連れて行かれたとき、将棋を指しているとき、日本刀で人を斬りつけたとき、最近だと冷凍倉庫で裏切り者を断罪したときか。

監視されているというよりは見守られているという視線。
不快、というわけではないが心臓がむず痒くなるような不思議な感覚。

それがなんなのかは、彼女と出会い一瞬にして分かってしまった。

ふと視線を上げれば一人の女と目が合った。

三百人以上のパーティー会場。
彼女との距離は約五メートル。
あちらこちらで談笑する声が聞こえるというのに一瞬で世界はオレ達だけになった。

自分の中の本能が告げた。
これは運命だ、と。

嫌われたくない、好かれたい。
何よりも大切にしなければ。

『三途春千夜』は真綿に包んで殺してやった。





『ア?なんだ?』
「前金で五百万」
『ハァ?』

離婚届と指輪を見てすぐに電話を掛けた。

「成功報酬でプラス一千万」
『しょうがねぇな。で、何すりゃいいの?』

帰ってきたらちゃあんと教えてやらないと。

『———分かった。また連絡する』
「頼んだわ九井」

絶対に逃がさねぇ。