フィルター越しの君へ

嘘だ。こんなところにいるはずがない。
でも気付いたら駆け出してた。

人混みをかき分けて、ぶつかってかは謝るの繰り返しをしながらその背中を追いかける。

「待って!!」

髪型も背格好も、そして腕を掴んで振り向かせたその顔もそっくりだった。
信じられなくて白昼夢でも見ているのかと思った。でも私はしっかりと彼の腕を掴んでいてそれが幻ではないんだと教えてくれた。

彼の瞳は揺れていて、薄い唇が僅かに震える。
早く呼んでよ。昔みたいに。
私の名前を貴方の声で。

「赤音さん……?」

しかし私の耳に届いたのは知らない女の名前だった。





お風呂から上がって髪を乾かしてたら玄関のチャイムが鳴った。ドライヤーを切って時間を確認すると二十二時を過ぎている。こんな時間に尋ねてくる人など一人くらいしか思いつかないけれど念のため覗き穴から確認する。うん、やっぱり彼だ。

「来るときは連絡してよ」
「電話もメールもしたわ。っつーかドア開けるときはチェーン掛けろって言っただろ」
「ちゃんとここから確認したよ」
「それでも、だ」

覗き穴を指さして説明してみたが納得してもらえなかった。しかしこのまま玄関口で言い争っていても近所迷惑になるので彼を招き入れる。

いつも通り靴を脱ぎ、靴をそろえて端に寄せてくれた。『彼』はちゃんと靴を揃えてくれたと文句を言ったら彼も同じようにしてくれたのだ。まぁ揃えなくてもいいのだけれど、私はこの時に見える『彼』の項が好きだった。

そして扉の鍵をかけてチェーンまで引っ掛けてくれた。これに関しては『彼』ではなく彼の意思だった。『彼』はここまでする人じゃなかったけれど、この行為自体は決して悪いことではないので私は何も言わない。

「ご飯は食べた?カレーの余りならあるけど」

彼がうちに来る理由は二つ。
ひとつはお腹が空いたとき。ぱっと見細身だけど意外にも大食漢なのだ。初めて一緒に外食をしたとき大盛りをぺろりと平らげていて驚いた記憶がある。
もうひとつは人恋しくなった時。人間は脆い生き物だからひとりじゃ生きていけない。そんなときは誰かに会いたくなったりするものである。

「飯食いに来たんじゃねーよ」

今日は後者の理由だったらしい。
彼は私の腕を掴んで引き寄せた。
抵抗する気もない私はそのままポスンと彼の腕の中に収まる。

「赤音さん……」

首元に顔を寄せられ、すんと匂いを嗅がれた。お風呂に入ったばかりだからシャンプーの香りが鼻につくかも。それはきっと彼が望んでいない『私』の匂いだ。

「どうしたの?一くん」

だからせめて声色だけでも私は『赤音』さんを演じる。
『赤音』さんはゆっくりおっとり喋る人だったんだって。そして彼を「一くん」と呼んだのだそう。

「あの時、助けられなくてごめん……」

私も謝りたい。
目の前で私を庇って死んだ『彼』に。

「謝らないで。怒ってないよ」

彼の背に腕を回して抱きしめた。
一くんに言った言葉だったけれど、それは私が『彼』に言われたかった言葉だった。

九井一と私は、互いに死んだ想い人のフィルター越しに相手を見ている。





一くんは私の死んだ恋人とそっくりだった。
そして私は今は亡き一くんの好きだった人にそっくりだった。

私達が一緒にいるのは完全な利害の一致だ。互いに好きだった人の面影を重ね、そのフィルター越しに互いを求め合う。

一緒に出掛けるし、連絡も取りあうし、手も繋ぐし、ハグもする。
でも恋人ではない。
そんな歪な関係を半年近く続けている。



一くんから「デートしよう」というメッセージが届いた。“デート”という言葉を使った呼び出しは初めてで思わず吹き出す。だから揶揄い半分で「恋人らしくカップルシートで映画でも見ちゃう?ww」と返信してしまった。そこで、やらかしたことに気付きスマホを落としそうになった。

想像でしかないけど『赤音』さんは文章にwwなんて使わなそう。それに私達は恋人なんかじゃない。
何か言われるかなと、トーク画面を開いたままぼーっとしてたら「見たい映画でもあんの?」と斜め上の返信がきた。まぁ見たい映画があったのも事実なので素直にそれを伝える。

その後も待ち合わせ場所や時間を決めるためダラダラとメッセージのやり取りをする。当日のことが決め終わったのでベッドの上で寝る支度をしていたら一くんからメッセージが届いた。おやすみのメッセージを送ったからもう今日は来ないと思っていた。いつもは私が送ってはい終わりって感じなのに珍しい。

「デートなんだから自分の好きな格好で来いよ」
確認した文面にはそう書かれていた。なんだそれ、と不思議に思い布団の中へと潜り込む。
そういえば、外に出かけに行くときは一くんにどんな服装がいいのか聞いてたっけ。だって私たちが互いに求めていることはそういうことだから。
だけど私の好きなものでいいという。どういう意味?
しかしそんな疑問も眠りの世界へ落ちればすぐに消えてなくなった。



「ごめん、待たせた」
「まだ待ち合わせ時間より早いでしょ?気にしないで」

走って私の元まで来てくれた一くんに笑顔を向ける。息を整えた彼が一瞬固まって、そして足元から視線を上げていって私の顔を見た。

「今日の服、いーじゃん」
「えっ……」

私の好きな色の靴にお気に入りの洋服、バッグは先日買ったばかりのもので耳には華奢なピアスが揺れる。“私らしい”と言える服装。その言葉に一瞬ドキリとする。だけど落ち着こう、これはあくまで“コーディネート”を褒められただけで私が褒められたというわけではないのだ。

「デートらしくていいな。可愛いし似合ってる」

前言撤回、私が褒められている。
なんだこれ、なんだこれ。『彼』だってこんなに褒めてくれたことはなかった。そしてそう言ってほしいと私が一くんに頼んだわけでもない。なんでそんなこと言うの?しかもまたデートって言った。

「あ、りがと……」
「よし、じゃあ行くか」

そして当たり前のように手が差し出される。これに至ってはいつものことだ。私が出掛けるときは手を繋ぎたいと言ったから。その手を取るときはいつも『彼』の面影を重ねていた。

でも今日は違った。
私の手を握ったのは『九井一』という男の手なんだと妙に意識してしまった。

映画はすでに一くんが座席を抑えてくれていた。これに至ってはカップルシートでなくてよかったと安心した。
二時間ほどの映画を見終わり、感想を言いながら手を繋いで歩く。時間はお昼時ということで何か食べようという話になった。

「ここだと結構いろんなお店あるよね。何か食べたいものある?」
「うーん……ハンバーグ、かな」

私は立ち止まった。手は繋がれたままだったので一くんも私に引っ張られるようにして立ち止まる。「どうした?」と聞かれたので私は首を横に振った。

「一くんが食べたいもの教えて」

ハンバーグが好きだったのは『彼』なのだ。いつだったか家にご飯を食べに来た一くんにもそう話したことがある。
そういえば、私は九井一がどんな人なのかよく知らない。まぁちょっと悪めな友達がいるとかよく食べることくらいは知っている。でも好きな食べ物とか誕生日とか、半年も一緒にいるのにそんなことも分からなかった。

「オレの?」
「九井一が好きなものを教えて」

一くんは瞬きを繰り返して、少し——というには長すぎる三十秒ほどの時間をかけてようやく口を開いた。

「ラーメン、とか……?」
「よし、それじゃあお昼はラーメンにしよう」

再び歩き出した私を次に引き留めたのは一くんだった。クンっと腕を引っ張られ思わず振り返る。

「いや別のもんでいいって!せっかく可愛い恰好してんのにラーメン屋とは入りずれーだろ!」

なんで私の心配してくれるの?いや、『赤音』さんに対してそれを言ってるの?
でもそんなことどうだってよかった。“私らしい”私でいる今日、一くんと一緒にここにいるのは『赤音』さんじゃなくて『私』なんだから。

「私が、一くんの食べたいものを食べたいの」

九井一を知りたいと、私はこのとき思ってしまったのだ。
一くんのことなどお構いなしに私はぐいぐい手を引っ張って前に進む。ラーメン屋さん、この辺りにあったっけ?と思考を巡らせていれば一くんも追い付いて隣に並んだ。

「ラーメン屋ならこっち」
「そうなんだ、ごめん」
「いや……こっちこそありがとう」

何に対してのありがとうだったのかは分からない。
でも私は繋がれた手をわずかに握り直して着いていった。



ご飯を食べて、買い物して、ゲーセンで遊んで。
そんなことをしていたらあっという間に日が暮れていた。

「ちょっといいか」

私の家の前に着いたところで小さな紙袋を渡された。いつの間に買ったのだろうか。驚きつつもそれを受け取り、促されたので中を確認する。中の箱までラッピングされていたそれを丁寧に開けていったら可愛らしいピアスが出てきた。

「今付けてるのを外せとは言わない。でも、受け取ってほしい」

自分の耳に揺れる華奢なピアスに触れた。これは『彼』から誕生日プレゼントに貰った大切なものだった。そんなこと一くんに話したことはなかったのに、どうやら彼は気付いていたらしい。それもそうか、私はいつもこのピアスを付けてたんだから。

「私にくれるの?」
「うん。『赤音』さんじゃなくオマエに渡したい」

私は手の中にあるピアスをもう一度見た。私には勿体ないくらい素敵なものだ。

「悪りぃ。『アイツ』ならこんなことしねーよな。やっぱり返し——」
「これ、付けたい」

私は自分のピアスを外した。
そして一くんからもらったピアスを手に取る。でも鏡がないせいで上手く穴に通らない。四苦八苦していたら一くんの手が触れてピアスを取り上げられた。彼の指が耳に触れてくすぐったい。
一くんは私の両耳にピアスを付けてくれた。自分じゃ見えないからよく分からない。でも私を見た一くんは嬉しそうに笑ってくれた。

「やっぱり似合ってる」
「ありがとう。嬉しい——っ」

一くんが笑ったから私も嬉しくなった。
そして気付けば視界いっぱいに一くんの顔が近付いてきて触れるだけのキスが落とされた。

「ご、ごめん!オレ帰るわ!」
「待って!」

今にも駆け出しそうな体勢をとった彼の腕にしがみついた。

「いまの、どういう意味?」

私は彼を見上げた。
『彼』ではない『九井一』という男をしっかりと見た。

「オレはオマエこと好きになっちまったんだ。『赤音』さんじゃなくてオマエという一人の女を好きになった」

トクトクと心臓の音が早くなる。

「でも所詮オレはオマエにとって『アイツ』の代わりなんだから無理だって諦めてた。でも、もう抑えらんなかった」

私たちは互いに死んだ想い人の面影を相手に重ねていた。
でも本当は違ったんだ。
自分を愛してくれる人を求めていただけの、ただの脆い人間だったのだ。

「今日、一くんが『私』を見てくれて嬉しかった。だから私も一くんのこと知りたいって思った」

まだ一くんのことを好きと言えるだけの自信はない。
でも、もう『彼』としては見たくないと思った。

「もっともっと一くんのこと教えてよ」

『彼』のことを忘れたかったわけじゃない。
一くんだって『赤音』さんのことを忘れたかったわけじゃない。

「オレ、本気でオマエのこと落としに行くよ。それでもいい?」

でも次の恋を始めちゃいけないなんて誰が決めたの?

「うん」

一くんに一歩距離を詰められて、またキスされるって思った。
でも逃げるつもりもなくて目を瞑って硬直する——がいつまで経っても唇に何かが触れる感触はない。

恐る恐る目を開けると鼻先が触れるほどの距離に一くんの顔があった。

「キスは好きな子とするって決めてるから」

二回目のキスは、一回目よりも深かった。


私だってキスは好きな人としかしないんだから。

なんだ、とっくに答えは出てるじゃない。


私が好きなのは九井一という君だった。