墓前には赤いバラの花束を

四十年来の付き合いとなった岸辺と女デビルハンターの話。
(ネームレス/友愛)
※死ネタではありません
※岸クァ・百合描写含みます

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公安の中でもその実力は屈指のものらしい。生まれ持っての体格の良さに打たれ強さも力も兼ね備えている。咄嗟の判断力にも長け若手ながらも倒した悪魔の数はすでに両手では足りないほどだと聞く。しかしその反面、軽薄な性格も目に余り彼と一緒に仕事をしたがる人間はまずいない。

「おい随分といい女がいんじゃねぇか。なぁ守ってやるから俺の女になれよ?」
「えっ嫌ですけど」

彼の名は『狂犬 岸辺』と言った。





公安から支援要請のある任務は正直碌な物ではない。なんせ民間デビルハンターの手に負えなかったものが公安に回されるのだから。もちろんそんな厄介な任務は断ってやろうと思ったのだが向こうが私を名指ししてきたため断るには難しく、また民間組織の上層部の人間が勝手に承諾をしてしまったのだから行かざるを得なかった。

「今日はよろしくお願いします」
「よぉ久しぶりだな。そろそろ俺の女になる気になったか?」
「討伐対象の情報共有をお願いします」

顔を合すのはこれで三度目だ。何度となく掛けられる口説き文句には悪態をつくにも疲れたので聞き流す。そうすれば男は気を悪くする様子もなく「相変わらずクールだな」と軽く口笛を吹いてみせた。

「奴はこの立体駐車場にいる。昨日ここに出向いた民間の奴が三人死んでっからお前は前に出んなよ」
「ご忠告どうも」
「おい待てって」

本気の心配か、それともお得意の格好付けか。どちらにしろその言葉は侮辱にしか聞こえなかった。女は非力な生き物なのだと、暗に言われたようなもの。ようやく女性の社会進出こそ認められ始めてきたが、まだまだその風当たりは強い。特にデビルハンターなんて力がモノを言う仕事に女という性別は不利な条件にしかならなかった。

「あんま急ぐなよ。つーかその靴じゃ転ぶぞ」

だから見た目だけでも強くあろうと思った。足りない身長はヒールで補い、童顔と言われた顔立ちは太めのアイラインと深紅で隠した。あとは結果さえ出せば「女だから」という理由で仕事がもらえなくなることはない。

「余計なお世、…っ!」
「おっと」

本来なら車で走行するスロープ。それは歩道にあるものよりは勾配がキツくおまけに雨風が吹き込むむき出しの造りからか所々コンクリートが抉れている。その溝にヒールがはまり見事に足を取られた。

「あ……」
「ほら言わんこっちゃない」

腰に絡みついた腕が難なく私を支える。その瞬間にその場に似つかわしくない香りがした。柑橘系の夜露のように光る香りが鼻腔を擽り、次いでジタンのタバコが押し寄せる。世界が初めて夜明けを迎えたかのような香りは面のいい男が付けるにふさわしいベチバーだった。

「……ありがとうございます」
「礼は口だけか?」

慣れた手つきで腰が撫でられそのまま体の向きを変えられる。傾斜のお陰でさらに背が高くなった男に見下ろされグッと抱き寄せられた。しかし私達の距離は縮まらない。何故なら男の胸に拳銃を突きつけたからだ。

「ではお礼に一発プレゼントします」
「ははっ同じ一発ならこっちの方が嬉しいかもな」

重力に合わせて体重をかけてくる。下腹部に触れた熱に、やはり男は性的な目でしか女を見ないのかと心底うんざりした。しかし彼の眼はというと夜の色に溶け込んで実際の感情までは読み取れない。染みも傷もない頬を持ち上げ笑う姿は寧ろ不気味に思えるほどだ。だから彼の目の前に銃口を向けた。

「じゃあどちらが先に一発ぶち込めるか勝負してみますか」
「なんだ誘ってんのか?」
「えぇ。では始めましょうか。さん、にー、」
「おい早ぇよ」
「いち、」

パン、パパン——狙いを外さず三発撃ち込む。ベレッタM1934はイタリア人の祖父から受け継いだもの。レバーの位置からか右手だけでは操作しにくいと言われるが慣れてしまえば問題ない。そして何より小型軽量で扱いやすいところが気に入っていた。

「〜〜ッ耳痛ぇ!」
「仕事です」
「分かってる」

私の視線の先——男の背後で蹲る影は『ウWゥウWゥ』と泣いたような声を出して蠢いていた。かつてイタリア陸軍で活躍した拳銃は今やデビルハンターとしての立派な武器となっている。それはこの銃弾が火薬の他に悪魔の肉片を混ぜたオリジナルのものだからだ。

「後方支援は任せた」
「はい」

私の返事を聞く前に飛び出していった男の背は「狂犬」と呼ぶにふさわしい。無鉄砲にも見えるその行動は、しかし黙らせるだけの実力は確かにある。
上背ほどある背中の刀を片手で抜き取り不安定な姿勢でも体幹をぶらさずに切り込んでいく。そして一刀両断できないと分かれば肉を剥がすように刀を振るった。

「核が分かった!次で決めるぞ!」

男に襲い掛かる触手を撃ち落としていく。正直彼一人で事足りた気がしなくもないが指示されたのであれば仕方がない。
一度弾を撃ちきり新たに装填し直す。七発と一発、触手の数と男の速さから一発も外すことは許されない。
男が振りかぶるのと同時に引き金を引いた。



「任務完了だな」
「お疲れ様でした」

岸辺が公衆電話から公安に連絡を入れ後処理をお願いした。そこから民間の組織にも連絡が行くため私自身も直帰できる。では、と踵を返し足早に立ち去ろうとすれば後を追ってくる革靴が一つ。

「なぁこの後飲み行かねぇ?慰労会しようぜ」
「お酒は飲まないので結構です」
「飲めねぇの?」
「好きじゃないだけです」

ヒールと革靴の音が重なって一つになる。こちらがどんなに急ごうとも、そもそも脚の長さが違うため巻けるはずもない。だから無駄な体力を使うことは諦め僅かに歩調を緩めた。

「おっついにその気になったか?」
「前々から気になっていたのですが」
「どうした?」

視線を斜め上へと投げれば当然のように目が合った。そうして改めて見れば随分とハンサムな男であると感心する。それと同時に何故こんな仕事をしているのかと疑問に思う。この顔ならホストでもモデルでもヒモでもなんだってなれただろうに。

「公安のデビルハンターは基本的に二人行動を強いられていると聞きます。貴方にはいないんですか?」

当然、一人よりも二人で悪魔と対峙した方が勝敗も生存率も上がる。そのため公安では二人一組の行動を基本とするバディ制度があると聞くが彼にはいないのだろうか。

「いたよ。先週死んだ」

昨晩の献立を答えるかのように言ってのける。なるほど、どうやら彼にとってこの仕事は天職のようだ。その都度、人の死にまともに向き合っていてはこちらの精神がやられる。それは私も身をもって知っていた。

「それでも補充は利くでしょう」
「いやぁ俺嫌われてんだよね」
「嫌われてる?」
「俺と任務にあたると命がいくつあっても足りねぇんだとよ」
「確かに」

バディが私のような中距離支援型ではなく彼と同様の接近戦を得意とする場合、付き合わされる方は堪ったものじゃないだろう。狂犬と肩を並べるくらいの実力者でなければ足手まといであるしそれこそ死に急ぐことになる。

「だからさ、お前公安に来ねぇか?」
「は?」
「俺のバディになれよ」

飲料水のCMのように爽やかに言ってみせる。しかし全くと言っていいほどときめかない。断わられる可能性など微塵も思っていないその顔に「いやです」の四文字を吐き捨てた。

「何でだよ」
「公安なんて物騒なところ行きたくないですよ。私は悪魔を倒してそれなりに稼げればいい」

耄碌共が古き伝統と文化を重んじて体裁を変えずに権力をかざす。その中で使い捨ての駒として生きていくだなんて私は嫌。華やかな生活が出来なくともこの都会で女一人生きていけるだけの収入があれば十分だ。

「なら今日のところは身を引くかあ」

気長に口説くとするさ、と付け加え足を止めた。目の前の信号は赤、そして彼の行く先は青を示していた。軽く会釈をすれば手を振って点滅しかけの横断歩道を駆け足五歩で超えていく。その場に残ったのはアーシィーかつスモーキーなラストノートだった。


◇ ◇ ◇


田舎のネズミと都会のネズミ、どちらがいいか。
イソップ童話の趣旨とは逸れるが私は都会のネズミになりたかった。

田舎は静かでのんびりしていて日本の伝統文化が残る場所——そう語る者は本当の田舎を知らない人間だ。戦争を終えた後も異人差別は根強く残り、男耕女織の考えは改めず男尊女卑の陰は残る。田舎の女など親が決めた家に早々に嫁に出され狭い集落で一生を過ごすことが決められている。だから私は都会のネズミになりたかった。



「こちら、向こうのお客様からです」

くびれたワイングラスの横にミントが乗せられたグラスが並んだ。左を見れば画になる男が手元のグラスを持ち上げている。彼はそのまま自分のグラスを持って立ち上がりクラシカルに革靴を鳴らしてこちらに歩いてきた。

「隣いいか?」
「どうぞ」

自分から聞いたというのに岸辺は意外とばかりに目をむいた。
軽い男だとは思うが私は彼の事が嫌いではなかった。口説きこそされど彼は私をデビルハンターとして認めていた。背中を任されることがどんなに嬉しかったことか。しかし言ったら調子に乗ることが分かっているのでこのことは墓場まで持って行くつもりだ。

「よく来んのか?」
「偶にです」
「なぁもう敬語やめてくんねぇ?俺らの仲だろ」
「いえいえ、お役人さんに恐れ多いです」
「ここで会ったら一人の男と女だ」

大した食事もしていないのに手元の食後酒をひと口。それはワインを絞ったブドウの果皮から作られたブランデーで当時の日本では珍しいものだった。

「酒は好きじゃねえんじゃなかったのかよ」
「これは特別」

グラッパを飲むと祖父の顔を思い出す。イタリア旅行に来ていた祖母に一目惚れをし日本まで来てしまうような人だった。あの田舎で肩身も随分と狭かったろうに一生をあの地で過ごし、そして日本に骨を埋めた。

「昔の男を思い出すとか?」
「まぁそんなところ」
「えっ?!」
「意外と初心なんですか?」

手元のクラスを飲み干して岸辺にもらった酒に口を付ける。ミントの葉が飾られたそれはほんのり甘く爽快なライムの香りが鼻を抜けた。ここに来てもいつも決まったものしか飲まないから何のお酒かは分からない。ちょうど目の前にいたバーテンダーに聞けばそれはモヒートと教えてくれた。

「揶揄うなよ……あっ同じものをもう一つ」

最後の一滴まで味わって新しい酒を頼む。悪酔いがしそうなその飲み方に止めに入ろうか迷ったがやめた。そして私に声を掛けた真の意図を見極めてグラスを揺らした。

「恋人に振られたんですか?」
「はぁ?」
「それとも浮気がバレたんですか?」
「なんでその二択なんだよ」
「頬が腫れてる」

左右対称のバランスの取れた顔が僅かに歪んでいた。こちら側からでは分かりづらいが改めて見ると口の端も切れている。悪魔相手なら他にも怪我はあるだろうし彼の場合は女関係のトラブルと考えるのが妥当だった。

「あークソ、格好付かねぇ」
「で、正解はどっちなんですか?」

個人的には浮気に一票だ。岸辺はこれ見よがしに大きなため息をついてから新しい酒をまた一気に煽った。そうしてコースターの染みに沿ってグラスを戻し吐き捨てるように啼いた。

「俺ん新しいバディがよぉ『守ってやるから俺の女になれよ!』つったら殴られた」

何故それでいけると思ったのだろうか。だがここで口を挟むと話が長くなるので相槌ひとつで聞き流す。そして尚も語られる男の話を聞けばそのバディは絶世の美女でものすごく強いらしい。

「そんなに強いんだ」
「素手での殴り合いだったら俺と同等かそれ以上かもしれねえ」

岸辺がそこまで言うとなると私の興味もそそられた。それはなにより性別が女だったからだ。公安と民間で立場は違えどそれだけで自分に味方が出来たようで少し嬉しくなった。

「また公安と仕事をする機会はない?」
「なんだ?俺が余所の女んとこ行ってヤキモチか?」
「まぁ」
「…本気で言ってんのか?」
「その人に会ってみたい」
「そっちかよ」

ため息一つつき、手元の酒を一気に煽る。それを横目に自分も残りを飲み干した。そしてグラスを下げに来たバーテンダーを呼び止める。

「すみません、お会計で」
「いい、ここは全部俺が持つ」
「この一杯で十分」
「格好付けさせてくれよ」
「そんなことしても二人の仲は取り持たない」
「つれねぇこと言うなよ」

しかしこんな会話をしているうちに岸辺がバーテンダーに数枚の万札を渡しそれでお会計を済ませてしまった。ともなればお礼を言わざるを得なくなり借りまでもできてしまった。

「じゃあまた近いうちに会おうぜ」

ジャケットを左手に持ち肩に掛けるようにして立ち去った。その姿に、あのハンサムを殴ったバディの顔が見たいと本気で思った。





その機会は思わぬ形ですぐに来た。

「失礼、そこのお嬢さん」
「はい?」

随分と古典的な呼び掛けに振り向けばそこには予想に反して異国の女が立っていた。ライダースジャケットにタイトスカートを合わせた彼女は白魚のような脚を惜しみもなくさらけ出している。無造作に括られた銀髪は早朝の新雪よりも煌めき、右目を隠す眼帯も相まって周囲が一歩引くほどの強烈な美しさを放っていた。

「この店の場所が分かるだろうか?」

受取った一枚の紙を広げればそれは手書きの地図だった。道路はざっくりと書かれてはいるが目印となる建物のおかげでおおよその見当はつく。この店に行ったことはないが辿り着けそうだ。

「案内します」
「恩に着る、ありがとう」

三分ほど歩けばその店はすぐに見つけられた。そこは中華店であり店に近づけば鶏ガラスープのいい香りがして食欲中枢を刺激される。そしてそれを教えるかのように、くぅと切なくお腹が鳴った。

「すみません……」
「昼はまだなのか?」
「はい」
「そうか。なら一緒に食事をしないか?案内してくれた礼をさせて欲しい」
「いえ、その気持ちだけで十分です」
「そう言わないでくれ。女一人で店に入るのも肩身が狭い。私を助けると思って頼めるだろうか」

同じように食事に誘われたというのにどこかの狂犬とはえらい違いだ。彼は彼女の爪の垢を煎じて飲んだ方がいいと思う。
彼女の魅力的な誘いに頷いて二人で中華店の敷居を跨いだ。

「そういえば名前を聞いていなかったな、なんと呼べばいい?」

注文を終え、互いに軽く自己紹介をする。その銀髪美女はクァンシと名乗った。仕事の関係で最近この辺りに引っ越してきたらしい。ジャケットを脱いだ彼女は顔に似合わず筋肉質な腕をしていた。何の仕事をしているのかは気になったがこの場限りの関係であるので触れなかった。

「キミはずっとここに住んでいるのか?」
「いえ、出身は北の方です。私も仕事の関係で数年前からこの地に住み始めました」
「じゃあこの辺りでキミの好きな場所やよく行く店を教えてほしい。なんせまだ土地勘がないからな」

と言っても行く場所といえばスーパーと薬局と行きつけのバーくらいしか思い浮かばない。あとは半年に一度セール品の服を買いにデパートに行くくらいか。あぁでも店先を通ったら必ず立ち寄る場所はある。

「そこの角にあるお花屋さんは種類が豊富なんですよ」
「花が好きなのか?」
「はい、祖父の趣味が園芸だったんです」

異国の種を取り寄せてはそれを庭の隅に埋め大切に育てていた。季節ごとに様々の花が咲き乱れ、殺風景な田舎町でそこだけが色づいていた。その景色が好きで、言いつけられた仕事をサボっては祖父の家に遊びに行った。そして祖母が亡くなった後はその花を摘んで毎日墓前に供えていた。

「私も今度行くとしよう。ところでキミの好きな花は——」
「はい、お待ちどう!」

中年の女性が二つのラーメンをテーブルに置いた。続けて十個の餃子が乗せられた皿を中央に並べる。これはクァンシが二人で分けて食べようと言って注文したものだ。

「早速食べるとしよう」
「そうですね」
「クァンシ?それにお前も……なんで二人が一緒にいるんだ?」

いただきますを遮って男の声が割って入る。クァンシの視線の先に目を向ければそこには口を開けた岸辺が立っていた。同じように唖然としてしまったが、そんな私達を余所にクァンシは既に麺を啜っている。その様子に「つれねぇな」と溢し岸辺が当たり前のようにクァンシの隣に座った。しかし彼女は食べる手を休めない。というか見えていないのか?

「お前らどういう関係?」

岸辺はそんな彼女を横目で見ながら私に問い掛ける。ただそれと同時に「早く食べないと伸びるぞ」と促され一口食べてからその問いに答えた。

「さっき会った。向こうの通りで道を聞かれて」
「あぁ、彼女とはついさっき会った」
「そうか。つーか飯食いに行くなら声掛けろよ。あっ同じものをもう一つ」
「お前こそ彼女とはどういう関係だ?」

店員を呼び留めラーメンを注文する。その間もクァンシは我関せずと麺を啜っていた。目の前に並んだ美男美女を見て先日の岸辺との会話を思い出す。だから岸辺を無視して彼女に聞いた。

「もしかして岸辺を殴ったのがクァンシさん?」
「おい!」
「ん?」

そこからは話が早かった。彼等は確かにバディを組んでいて今や最強の名を欲しいままにしているらしい。そしてクァンシに至っては「始まりのデビルハンター」と呼ばれるほどの大物だった。となると実際の年齢、はたまた人間なのかというところは疑問に残るが、それでも私にとっては嬉しい出会いだった。

ラーメンと餃子、そしてデザートの杏仁豆腐を注文してしまうほどには長居して三人で話をした。そしてクァンシが用事があるということでお開きに。岸辺が度々彼女の肩を抱こうとし、その度に肘鉄を喰らう姿は中々に面白かった。

「また会おう」
「ぜひ」
「じゃあ次は三人で飲みだな」
「お前は来るな」
「ひでぇ」

声を出して笑ったのは都会に来てから初めての事だった。





それからは本当に三人で会うようになった。私がバーにいるときに二人が来ることもあれば、仕事帰りに食事に行くこともあった。あの二人がいれば民間の私などいらないだろうに、そこは岸辺が上手いこと根回しをして私を指名し仕事を振った。まごうことなき職権乱用。

「お前はもう来るな。私は彼女と二人で飲みたい」
「美女が二人でいたら悪い男に言い寄られんだろ」
「まさに今だな」

岸辺の恋路を応援する気はないが彼とクァンシとのやり取りが好きだった。だから二人を近い席に座らせたかったのにクァンシがいい顔をしなかったため席の並びはいつも私が間に座らされた。



「岸辺は?」
「あいつは怪我をしたからしばらく来ない」

出会って一年ほど経った頃、彼は大怪我をした。骨は何本も折れ左目も潰れかけ、そして左頬には今もその縫合の痕が残る。その話を聞いた時はさすがに心配になったが負傷しても尚クァンシへの告白は忘れなかったそうなのでまぁ大丈夫だろうと楽観視した。



「なぁ、どうしたらクァンシは俺を見てくれると思う?」

岸辺がクァンシへの片思いを擦らせ早三年。出会った頃では考えられないくらい彼は奥手になっていた。そして見た目にも頓着がなくなった。髪は襟足まで伸び整髪料も付けずに風に遊ばれている始末。シャツもクリーニングに出さないのか皺が目立ち襟元も黄ばんでいた。そしてかつてのベチバーは薄れヤニの匂いが濃くなった。

「高嶺の花だったんだよ」

その夜クァンシはいなかった。中国からの仕事の依頼で日本を離れていたのだ。だから久しぶりに二人で飲んでいた。彼等との付き合いで酒にも強くなり今は五杯目に口を付けている。

「んなの初めから分かりきってるわ。つーかあいつ男に興味あんのかよ」

その台詞にグラスを落としかけた。そしてクァンシとの夜を思い出す。私達は二年前から関係を持っていた。岸辺がいなかった日のこと、クァンシに勧められるがままに飲み、そして目が覚めた時には彼女の家のベッドで互いに裸だった。

「どうだろ」

自分が同性愛者なのか否か。しかしそんなことはどうでもよく思えるくらい彼女と交わるのは気持ちが良かった。性欲のままに腰を振る男とは違い、愛されていると実感できる溺れるような夜だった。

「はぁ…長期戦か……」

今の岸辺に彼女との関係は言えない。
代わりにその日の酒代は奢った。



新月の夜だった。何故それを覚えているのかといえば彼女の銀髪がより一層美しく夜風に靡いていたからだ。

「クァンシ?」
「突然すまない。これをキミに」

彼女は自身の顔が隠れるほどの大きな大きな花束を抱えて私に会いに来た。白色をベースにした花束は花嫁が持つブーケのようにも見える。白いユリが綺麗だった。

「嬉しい、ありがとう。でもどうしたの?」
「日本を離れることになった」

部屋に上がりもせずにクァンシはそのまま玄関で話しを続けた。そして発つ日を聞けば明日にでも、と言う。随分と早急ではあるがある意味彼女らしいとも思えた。

「一緒に来てくれないか?キミに不自由はさせない。幸せにする」

クァンシの事は確かに好いていたけれど私は最後までそれが恋愛なのか友愛なのか分からなかった。体の関係もあったのに、いざとなるとその手が取れない。でも一つだけはっきりと言えることはクァンシのことも、そして岸辺のことも私にとって大切な存在ということだ。

「ごめん」
「何故?」
「日本にも大切な人がいるから」
「そうか」

最後にキスをした。私達の間にあった花は潰れ、クァンシの服はユリの花粉で汚れた。

「再见,爱的人」

月のない夜は星も見えなかった。



その日の彼は浮浪者という言葉がふさわしかった。髪はボサボサで髭は伸び、シャツはだらしなく出てベルトを隠していた。昔は男前だったのよ、と教えたらきっと皆が鼻で笑うだろう。そんな男の右隣に腰を下ろした。

「クァンシのことだけど」
「やめろ」

彼女は一人で日本を去った。連絡先も聞いていない。きっと三人で飲む日はもう二度と来ないのだろう。だから彼の諦めがつくよう精算することにした。

「キスしたことがある」
「やめろ」
「寝たこともある」
「やめろ」
「彼女、女が好きだったみたい」
「知ってたよ……」

ごめん、と続けたら泣かれた。涙は出ていなかったけど。
後にも先にもへこんだ彼を見たのはこの一度だけだった。

私はバーテンダーに声を掛け、酒を注文した。年代物のバーボン、今の手持ちで出せる一番高いボトルだ。それを氷の入ったグラスに雑に注ぎ岸辺に差し出す。

「今日は朝まで付き合う」
「お前いい女だな」

付き合いの年数など、もう数えるのは止めた。


◇ ◇ ◇


クァンシが日本を去り、岸辺は公安で出世した。そして私は平穏な日々を送っている。田舎に連れ戻されたのだ。

長年連絡が途絶えていた両親からの知らせ。そして夫と言われ紹介されたのは七つ下の男だった。こんな田舎だ、最近では私のように外に出ていく人間も少なくない。その中でも年が一番近いという理由だけで私はこの地に連れ戻された。しかし嫁ぎ先で歓迎されることはない。三十過ぎて帰って来た家出娘というのは煙たがられるには十分すぎるほどの理由だった。

子供は三人産んだが育てたのは義母だった。私の仕事は三度の飯の支度と洗濯掃除、そして旦那の送り迎えだった。毎日毎日同じことの繰り返し。偶にこっそり家を抜け出して木の実を的に引き金を引くのが唯一の息抜きだった。

悪魔が出ることもなく危険な仕事もしなくていい。
田舎のネズミはこれを幸せと呼んだのか?

無気力に生きる日々。
あとは寿命を迎えるのを待つだけだ。
しかし状況は変わった。
理不尽に。突然に。



朝の空気が冷たくなり薄っすらと霜が下りていた。直に本格的な冬が来る。豪雪に見舞われたらこの地は陸の孤島と化してしまう。だから早めの冬支度をしておこうと軽トラックで街へと降りた日の事だった。

十一月十八日 
銃の悪魔 日本に二十六秒上陸
五万七千九百十二人 死亡

その日、銃の悪魔によりおおよそ五分で百二十万人あまりの人間が殺された。

私は無事だった。しかし銃の悪魔が通過した集落には人も建物も何も残らなかった。その田舎で生き残ったのは私一人だった。

天涯孤独となり、どこか安心した私は薄情な人間なのだろうか。
家族が、夫が、そして自分の子が死んでも涙は出なかった。しかし、思えばあの家で私はそもそも存在しない人間だったのだ。名前はおろか「妻」とも呼ばれずに「おい、」という嘆詞が呼称だった。三人の子供が初めて喋った言葉は皆「ママ」だったがそれは義母を示した名詞だった。

これで私は自由になった。
そして一通の手紙と共に私の第二の人生が始まった。





『いつもの場所にいる』と締めくくられた手紙を片手に扉を開ける。私達が会うのはいつもここだった。

「久しぶり」
「おう、よく来たな」

岸辺の右隣の席へと腰を下ろす。あれから約十年、彼はまた随分と変わっていた。
自身に満ち溢れていたあの日の面影はなく目は虚ろで覇気はない。髪は色が抜けたのか染めたのか、ともかく豊かな黒は消え失せてこざっぱりとした髪型に。腰をかがめて酒を飲む姿に狂犬の面影はなかった。

「とっくに死んだのかと思ってた」

モヒートを一つ、岸辺を見たら飲みたくなった。作られたものを手に取りグラスはつけずに乾杯をする。久しぶりの日本酒以外の酒は美味しかった。

「馬鹿言え、今じゃ最強のデビルハンターで名を通してんだよ」
「最強はクァンシの肩書だ」
「やめろ。昔の女の話はすんじゃねぇ」

彼女が生きているのかすら一般人となった私は知らない。岸辺は知っているのだろうか。しかし今さら詮索する気はなかった。

「田舎暮らしはどうだった?」
「最悪」
「違いねぇ」

ボソボソと話しては喉に魚の骨が引っ掛かったような嗄れ声で笑う。
岸辺は酒を注文した。私が来てから三杯目だった。

それからぽつりぽつりと互いの事を話していった。岸辺の話はやはり仕事にまつわる事。この数年の間に内情は良くも悪くも目まぐるしく変わったらしい。それでもまだ公安にいるのは彼なりの正義だろうか。

「お前からの手紙も読んだ。ご家族ことは残念だったな」
「別に。自分の子供が死んでも涙の一滴も出なかった」
「そうか」
「イカれてるのかな。まだ私にもデビルハンターの素質はあるみたい」

何も言わずに酒をひと口、「まともな奴ほど死ぬからな」とぼそりと言ってグラスを置いた。彼は笑わなかった。

「覚悟はできてんのか」
「でなきゃここに来ていない」
「公安に来ちゃくんねぇか」
「分かった」

岸辺はタバコとライターを取り出し一本ふかした。一筋の紫煙は彼の吐き出した息によりすぐかき消される。しかしすぐにまた真っすぐに天井に向かって伸びていった。

「でもその前に一つ教えて。何故私に?」

現役からはあまりにも離れすぎている。銃の悪魔による被害規模から人手不足と言えども引退した人間に声を掛けるだろうか。あの時代よりもデビルハンター自体の数は増えた。ただ、金目当ての人間が多いため使えるかどうかは別の話だが。

「あぁそれもちゃんと話す——どうも公安内がきな臭ぇ」

公安の上層部、内閣官房長官、総理大臣……国家規模で怪しい動きがみられるのだと。さすがに岸辺一人で全て調べ上げれるわけでもなく疑心暗鬼になっているようだった。

「あそこにいる連中はもう誰も信じらんねぇ。だからお前が欲しい」

ようやくまともに口説けるようになったか。このくらい言えていればきっとクァンシだって……平手打ち程度で済ませただろうに。なあんて、この二人のやり取りを想像しては笑ってしまう。僅かににやけた口元をグラスで隠し、飲み干した。

「期待に添えられるかは分からないけど力になる」
「大した期待はしてねぇよ。ただ直ぐ死ぬのだけはやめてくれ」

また酒の量が増える——ぼそりと言って七杯目のグラスをテーブルに置いた。





泥の付いたスニーカーは捨てハイヒールを。そして昔ほど濃くはないが以前同様にアイラインはしっかりと引いた。その姿を周囲は「ワルプルギスの魔女」と呼んだ。これって揶揄われてる?と文句を言えば「アル中ジジイよりかはマシだろ」と言われた。岸辺、それはただの悪口だ。

しかし武器だけは同じものを使い続けるわけにはいかなかった。
銃の悪魔の存在も相まって日本の銃刀法はより厳しくなった。警察とデビルハンターであれば所持も可能だが、それでも厳しい管理の元に使用が許可される。特に公安ともなれば任務ごとに申請書を書く必要があり民間にいた頃のようにグレーゾーンの見逃しはしてくれなかった。それに体も以前ほど動けるわけでもない。だから私は悪魔と契約した。





「本日分の書類です」
「確かに」
「それとこれも……」
「辞表?公安辞めるの?」
「すみません……」

岸辺の後ろ盾もあり公安に来てから数年のうちに一つの課を任されるまでになった。ある意味年功序列と言ったところか。しかし公安のデビルハンターは一年足らずで死ぬか民間に流れるかの二択なので私は早くも古参の仲間入りをしてしまった。

「謝らないで。今までありがとう、元気で」

受取った辞表を一先ず引き出しに仕舞えば机の上の黒電話が鳴った。岸辺からの呼び出しだ。

指示された場所に足を運べば彼の隣には若い女がいた。背が高く髪も短いものだから初めは男かと思った。しかしよくよく見ればあどけなさが残る美人で、万華鏡のような綺麗な瞳が印象的だった。

「姫野だ。俺が指導して少しは使えるように育てた。お前と同じ悪魔と契約させたい、頼めるか?」
「分かった」
「お願いします!」

ここには公安が生け捕りにした悪魔達が収容されている。こちらが対価を支払えば悪魔はその力を貸してくれる。しかし強い悪魔ほどその契約内容は惨いものとなる。

「貴方が今から契約するのは『幽霊の悪魔』。割と融通は利くから契約内容はよく考えて」
「先輩はどういう契約をしたんですか?」
「先輩……?」
「あっすみません!ここに来てから初めて女の人を見たから嬉しくって」

昔の私と似ている。でも私よりも純粋で可愛らしい。いい意味で普通の子だった。

「好きに呼んでいい。それで契約内容だったね。私の場合は味覚と嗅覚、それと左耳の聴覚を渡した」
「ひぇ〜そんなに」
「これで私はゴーストの両手が使えるようになった。さっきも言ったけど融通は利くからよく話し合って」

延々と続く廊下にある扉のひとつで立ち止まる。そして暗証番号を入力しロックを解除した。公安が悪魔を生け捕りにしていることは知っていたがこんなに多くいることはここに来てから初めて知った。手名付けるにも苦労がいるだろうに。一体誰がこれほどの悪魔を管理しているのやら。

「ここに悪魔が?」
「そう、それで入る前に一つだけ。幽霊の悪魔には目がないから恐怖心を見る。だから姿を見ても平常心で」
「そんなこと急に言わないでくださいよ!」
「じゃあ頑張って」

そうして姫野はその美しい瞳を一つ引き換えに幽霊の悪魔と契約した。



それからしばらくの間は私の課の所属となりバディも組んだ。さすがは岸辺が直接指導しただけあり基礎的なことは申し分ない。私は主にゴーストの使い方を教えたがそう長く時間をかけることなく彼女は独り立ちをしていった。

「せんぱ〜い!またご飯奢ってくださいよ!」

特別優しくしたわけでもなかったけれど懐いてくれていたように思えた。廊下で会えば声を掛けられ食事にもよく行った。クァンシとは違った距離の近さに初めこそ戸惑ったが彼女の天真爛漫な姿は嫌いじゃなかった。

「もっと強くならないと」

彼女は誰かのために戦える子だった。

「佐原くんがっ…、私のバディだったのに…!」

仲間が死んだら涙を流せるような子だった。

「あーあこれで五人目。使えない雑魚だから全員死ぬんだよね」

口ではそう言っても毎月バディの墓参りに行くような子だった。

「悪魔に仕返しできる力がないから私にあたりたくなるのも分かるんですよね」

遺族の苦しみも一緒に背負えるような子だった。

「民間の話?あぁ、アキ君に断られちゃったからまだここにいることにしました」

六人目のバディを随分と可愛がっていた。

「アキ君がタバコ吸ってくれるようになりました!」
「無理やりピアス開けたらアキ君すごく困った顔してて」
「私の家宝見ます?酔ったテンションでアキ君から手に入れたんですけど」

彼女は純粋で可愛らしく、それはデビルハンターになった後も変わらなかった。

「どうしたらアキ君をやめさせられるかな」

そして悪い意味で普通の子だった。



一人で飲んでいれば右隣に人が座った。彼はいつも通りウイスキーをロックで頼むと早々に半分ほど一気に流し込んだ。それを見ながら同じものを頼もうとすれば制される。虚ろな目は確かに私を見ていた。

「らしくねぇな」

そう言った岸辺を私は虚ろな目で見返した。彼は自分の弟子を「犬」と呼ぶが情がないわけではない。死んだ仲間の名前を全員言えるほどには人間臭い一面がある。いつだったか育てた犬が死ぬ度に酒の量が増えると言っていた。彼にとっての飲酒はいつの間にか頭のネジを飛ばすための手段になっていた。

「姫野の事、聞いたでしょ」
「あぁ死んだってな。傷心中だったか?」
「まぁそんなとこ」

結局、ウイスキーのロックを頼んだ。公安に来てから馬鹿みたいに飲むようになってしまった。加えて味覚も嗅覚もないものだからそれがさらに拍車をかけた。そして今や飲む理由は岸辺と同じだ。

「可愛がってたもんな」
「私が?」
「俺にはそう見えたぞ」

タバコの煙を長く吐き出してどこか遠くを見ていた。彼もまた傷心中の様だ。だから乾杯もせずに酒を煽った。


どれだけ飲んだかは覚えていないが店から出る頃には足元が覚束なくなっていた。岸辺の支えなくしては立てず、フラフラになりながら店を出る。そしてその五秒後に胃の中の物をぶちまけた。

「そこで待ってろ」

路地裏に残され一人嘔吐く。この時ばかりは味覚と嗅覚がなくてよかったと思えた。そして全てを吐き出した頃に岸辺がビニール袋をぶら下げ戻って来た。

「飲め」
「ありがとう」

水のペットボトルと薬を貰い胃に入れた。しばらく蹲りじっとしていると段々と脳みそがクリアになってくる。岸辺はそんな私を見ながらコンビニで買ってきたであろう酒をまた飲んでいた。

「そういえば、」
「あ?」
「私に話があったんじゃないの?」

膝に両手をついて立ち上がる。ジャケットが汚れるのも構わずに雑居ビルの壁に背を付けた。岸辺は酒瓶の口を閉めながら私の前を通り過ぎてから同じように壁に寄りかかった。

「よく分かったな」
「付き合いが長いから」
「そうだな。今じゃお前くらいしか生きてねぇよ」
「それは私にも言えることだ」

本人は気付いていないが左頬に大きな傷が出来てから彼は人の左側に立つようになった。しかし今は私の右側に立っている。店でもそうだ、右隣はクァンシの席だったのに今では彼の席になってしまった。幽霊との契約内容は話していないのに、だ。岸辺とはそういう男だった。

「どっちが長生きできんだろうな」
「岸辺が先に死んだらお墓に酒を持っていく」
「ひとつじゃ足りねぇからな。一時間おきに一本持ってこい」
「無茶言わないで」

再び酒瓶の蓋が開けられその中身が減っていく。その姿に悪魔ではなく酒とタバコにやられて死ぬ日が来るんじゃないかと思った。そうしたらそれを肴に私はまた馬鹿みたいに酒を飲むのだろう。

「お前は何がいい?」
「花かな」
「意外と普通だな」
「違う花で作った花束を毎日一つずつ」
「墓が見えなくなるぞ」

イカれた事を言って、イカれた奴を演じる。そんな現実からの逃げか、時折三人で飲んだあの日の夜を夢に見る。一番楽しかった頃の思い出だ。

「今回の特異課襲撃、ありゃあ絶対裏がある」

唐突に、声がワントーン落される。
同時刻に特異課の人間だけを狙った今回の銃での襲撃事件。姫野だけでなく人外以外のほとんどが死んだ。しかし本当に公安は何も知らなかったのだろうか。その割に襲撃事件後の対応は早かった。そして人員不足に伴い特異一課、二課、三課が四課と合併し公安対魔特異四課がある人物の指揮下に置かれた。

「マキマが仕組んだと?」
「あぁ」

内閣官房長官直属のデビルハンター。しかし私も、そして岸辺でさえ彼女が契約している悪魔を知らないし知ることは許されない。彼女が力を使う際、その場にいる人間は決まって目隠しをする取り決めになっていた。

「あいつがどんな非道を尽くそうと人間様の味方でいる内は見逃すつもりだ。だが遠くない未来にあいつは何かデカいことをやらかす」
「そう……」
「その時が来たら力を貸しちゃくんねぇか」
「今さら当たり前のこと聞かないで」

地面を汚した吐しゃ物には都会のネズミが群がっていた。


◇ ◇ ◇


マキマが裏で何かをしている。
そう確信するのに時間は掛からなかった。

「異動とはどういう意味でしょうか?」
「言葉通りの意味だよ、貴方には京都に行ってもらいます。これは決定事項です」

岸辺と会った二日後に人事を受けた。些かタイミングが良すぎる。人員が足りないまま、サムライソードとの戦いも控えているというのに私を飛ばす意味が分からない。

「京都で私に何をしろと?」
「同じことだよ。悪魔から一人でも多くの人を救えるよう力を尽くしてほしい。私はより良い世界を作りたいのです」

嘘だ。
マキマは私が疑っていることに気付いている。それだけならまだいいが岸辺との繋がりまで知られていたら面倒だ。マキマへの内通者の存在も考え公安内での接触は必要以上に避けていた。

「……分かりました」
「そんな顔しないで。京都も都会でいい所だよ?美味しい食べ物もお酒もたくさんあるみたい。色々調べて彼にも教えてあげたらいいんじゃないかな」
「彼?」
「ほら貴方と仲がいい、」

マキマは笑みを添えて岸辺の名を口にした。





悪魔の発生率という点では東京と京都で大した差はなかった。通報が入れば現場に出向いて悪魔を殺し、書類を仕上げて上に報告する。部下の指導にも当たったが同じ数だけ死体も見た。酒は一日一升までと決め脳みそのネジは外した。

岸辺とは月に数回手紙のやり取りをした。電話はマキマに聞かれる危険性があったからだ。
姫野たちを殺したサムライソードは特異四課の活躍により拘束された。また、押収した銃の肉片と合わせそれがついに本体に向かって動き出したらしい。

『レゼという女について調べてくれ』

ボムが出た際、岸辺からの依頼でソ連軍について調べる機会があった。そのレゼという少女はソ連軍の実験材料に使われたモルモットの生き残りであることがわかったがそれと同時にソ連の動向が気にかかった。あの国は銃の悪魔の本体を二十八%保持している。これはアメリカよりも大きい数値だ。そして近年での貿易収支は右肩上がり。表向きはエネルギー資源の輸出額が増えたと公表しているが鵜呑みにしていいものか……

沢渡の件から考えられるのは銃の密売。でもそんなことをしたところで銃に対する恐怖が増すだけだ。国際法を破ってまで銃を大量生産する意義は何なのか。これもすべてマキマが絡んでいると考えるのは過剰すぎるだろうか。

『敵か味方か、恐怖デンノコ悪魔!?』

そしてボムの甚大な被害により、公安の報道規制も虚しくチェンソーマンがメディアに取り上げられてしまった。それによりチェンソーマンが日本にいることが世界中に知られることとなる。彼のような悪魔でも魔人でもない存在は貴重だ。そのため色んな国の刺客が日本に来ることが予想された——そしてそのうちの一人にクァンシがいることが分かった。



待ち合わせ場所の高架下へと急ぐ。そこにはすでにタバコをふかす岸辺の姿があった。そして私に気付けば残り四センチを躊躇いなく踏み消した。

「いつこっちに戻った?」
「昼過ぎに。有休取って無理やり来た」
「マキマに勘づかれるぞ」
「彼女は今それどころじゃないでしょう」

チェンソーマンに対人護衛を付けることになり、京都からも人を派遣した。しかし彼らが東京の地まで辿り着くことはなった。

「うちから出したスバルさんと黒瀬、天童が殺された。あれもマキマが?」
「いや、発見された遺体は銃殺だった。マキマならもっと上手くやる」

刺客にやられたのだろうと岸辺は言った。各国からの手練れがすでに日本に来ているらしい。その中でも一番警戒すべきはドイツのサンタクロースだ。生きているかも定かではないが、最悪の事態に備えチェンソーマンを囮にビルに誘導する計画がなされているらしい。その騒ぎに便乗した他の刺客たちも一網打尽にすると岸辺は教えてくれた。

「私も参加する。亡くなった三人の穴埋めで来たと言えばマキマも納得する」
「中国からはクァンシが来る。お前はやれんのか?」
「それはそっちもでしょう」
「真っ向から素手で殴り合ったら負けるだろうな」
「そうじゃなくて、」

そこで言葉が詰まる。私よりも岸辺の方が辛いはずだ。しかし自分が行くとまでは言えなかった。いざ彼女を前にして、きっと自分は何もできない。
そのまま黙り込んでしまった私を前に全てを察した岸辺が口を開いた。

「クァンシとは交渉をする」
「交渉?」
「あいつを味方に付ける」

クァンシ本人ではなく彼女が可愛がっている魔人を人質に取れば交渉の席に着かせることはできる。そしてマキマ殺害の為の協力を仰ぐと言った。しかしマキマは地獄耳だ。これはつい最近分かったことだがマキマはネズミや鳥の下等生物の耳を借りて常に周囲を警戒していた。

「そこは上手くやる。お前はあいつが身を隠せる場所を用意してほしい」
「……分かった。他に準備することは」
「いい酒買っとけ。また三人で飲もう」

震えた唇をきゅっと結んで一つ頷く。
そして、その日のうちに京都に帰った。



数日後、私の元に来たのは岸辺一人だった。
チェンソーマンは奪われなかったし殺されなかった。そしてドイツのサンタクロース——人形の悪魔も処理することが出来き、公安としてみれば十分な成果だった。

「マキマにやられた」
「そう」

そしてクァンシは死んだ。それはもちろん悲しかったが岸辺が無事に帰ってきたことに安堵した。
必要最低限の家具しか置かれていない殺風景な部屋に案内する。ソファを勧めたが岸辺はラグの上に胡坐をかいて座った。三人で飲むはずの酒を二人で開ける。

「死体は?」
「見てねぇ。だがマキマの奴が回収してったらしい」

岸辺のペースは早かった。土色の顔からはさらに血の気が引いてこのままミイラにでもなってしまうのかと思った。一点を見つめながらいつも通りボソボソと喋る姿がひどく可哀そうに見えた。でもそうさせたのは私だった。

「ごめん」
「何がだ?」
「全部背負わせた」

一緒に行くと言うべきだったのだ。三人でいたいと誰よりも望んでいたのは私だったのにその役目を押し付けた。公安に誘ってくれたのに肝心な時に私は安全な場所にいた。都会のネズミになりたいなどと聞いて飽きれる。

「思い上がんな。こっちは元より使命感なんざ大層なモン持ち合わせちゃいねぇんだよ。元バディが死んだ、それだけだ」

まるで自分に言い聞かせているようだった。そして虚を見つめていた瞳がこちらに向けられる。黒い瞳に自分の顔が反射した。

「お前は俺の前で死ぬんじゃねぇぞ」
「岸辺こそ」

涙は流さず、二人で泣いた。


◇ ◇ ◇


近くにある銃の悪魔の討伐遠征。それにはさすがにお声が掛かった。しかし、それと同時に銃の悪魔はすでに倒され拘束されている情報が一部の人間に開示さる。今から行われるのは国同士のただの戦争だ。全てはマキマ——支配の悪魔が描いたシナリオ通りに。

「六人確保した」
「悪いな。嫌な役やらせちまって」
「大丈夫、皆快く承諾してくれた。これで地獄の悪魔は召喚できる」

筋書き通りにならないよう水面下ではずっと準備をしていた。その結果として岸辺は対マキマ対策部隊を作った。もちろんマキマにバレないよう秘密裏に。この計画にもちろん私は積極的に協力した。何故ならばこの日の為に彼は私に声を掛けてくれたのだから。

「俺が直接マキマを討つ。お前には現場の指揮を頼みたい」
「分かった。それといくつか隠れ家も用意しておく」
「助かる」


そして、物語のプロローグが始まる。


一九九七年 九月十二日
アメリカが銃の悪魔を召喚
同日 マキマ観測上 二十九度目の死亡

しかしマキマは死んでいなかった。それどころかさらに最悪の事件が起きた。アメリカ大統領が契約した銃の悪魔、そいつが早川アキの死体を乗っ取り魔人になった。そしてチェンソーマンにとって最悪な死に方を目の前に晒したのだ。

「アキが死んでパワーも殺された」
「マキマにしたらようやく下準備ができたってところか」
「違いねぇ」

悲しくも事はマキマのシナリオ通りに進んでいく。
岸部はいつものバーで酒を煽っていた。私も今日は彼と同じ酒を注文する。今夜がここで二人で飲む最後の日になるかもしれない。

「チェンソーマンは今どこに?」
「マキマの家にいる」
「じゃあ明日の朝か」
「あぁ、マキマを殺して地獄に落とす」

ついにこちらの作戦が実行される。武器も人員も確保した。可能な限りの最高戦力を揃えたつもりだ。それでも勝てるか分からない。でもやらなければ人類に最悪の平和が訪れてしまう。

「マキマの存在を消すことが出来ると思う?」

しかし本当にそんなことが出来るのだろうか。日本は世界で一番諜報員で溢れている。そのため主要国家は既にマキマの存在を知っている。しかし抗う事すら全ての予定調和に過ぎず、その存在を受け入れ始めたほうが平和なのだと信じるようになっていた。

「分かんねぇ。でも誰かがやんなきゃなんねぇんだよ」

まともな事言わないで。明日にでも死ぬような人の台詞を言ってほしくなかった。

「死なないでよ」

隣りからグラスを打ちつける音が聞こえた。驚いてそちらを向けば岸辺が「つりはいらない」と一万円札を投げ捨て帰ろうとしていた。ここへ来てからまだ三十分も経っていない。

「岸辺!」

自分の会計も済ませその背を慌てて追いかける。今も昔も変わらない大きな背中だ。僅か一時であっても彼の背中を預かれたことを誇りに思う。

「守れねぇ約束はしない主義だ。心残りがあるとうまい事あの世に逝けねぇだろ」
「帰って来なかったらキープボトル飲むからね」
「勝手にしろ。但し俺んとこにも酒は持ってこいよ」

大きな背中はあっという間に闇の中へと消えていった。



明朝、私達の計画は実行された。しかし思い通りにはならなかった。マキマは能力を発動しチェンソーマンと激戦を繰り広げる。しかし彼は死ななかった。彼のバディに助けられ命を繋いだ。それならばまだ可能性はある。

「こっち」
「あぁ……おい、そいつは」
「コベニだっけか?」
「ひぇぇ!」
「道端で腰抜かしてたからとりあえず連れて来た。ここからは声を出さないで」

岸辺とチェンソーマン、そして元公安の東山を連れて歩きだす。いくつか隠れ家の候補はあるがその中でも一番近い場所を目指した。入り組んだ路地を進み地下飲食街の一角へと案内する。

「ここなら少しの間は足がつかない。あとこれは食料」
「あぁ」

岸部にパンの入った袋を渡し、その間に部屋の隅のテレビを弄る。今は少しでも情報が欲しい。それとメディアがチェンソーマンをどのように報道しているのか気になった。

「そっちはどうだ?」
「ゾンビのせいで地上は混乱してる。それとマキマは逃げた」
「逃げた?」
「服が汚れたから帰ったんじゃない?向こうは随分と余裕そうだ」

マキマからしてみればチェンソーマンを見つけるのも時間の問題なのだろう。しかし今のこのような状況は想定範囲内だ。ここからの策も一応はある。しかしこれは私達が想定した一番最悪の場合のシナリオだ。

「一先ず私はここを出る。明朝この建物前に車を回すから」

カチ、とテレビがつき部屋の中が僅かに明るくなる。窓もない部屋だ、テレビを点けなければ今が昼か夜かも分からない。

「すまない」
「謝るなんてらしくないね」
「酒飲んでねぇからな、頭が回んねぇんだ」

昨日の夜からアルコールを抜いているのだろうか。ただ、もう鼻は利かないので本当のことはわからない。でも、一瞬だけベチバーの香りがした気がした。

「うちに四十年ものの高い酒がある」

岸辺との付き合いも確かこれくらいだったか。昨日の事よりも鮮明に民間デビルハンターとして彼と任務に当たっていた日のことを思い出す。

「生きて帰れたら振る舞ってあげる」

古臭い思い出話は何度話したって飽きがこない。
味が分からない今となってはその会話だけが唯一の酒のつまみだ。

「それ飲みてぇから頑張るよ」

それができる相手はもう彼しかいない。


◇ ◇ ◇


悪魔は数えきれないほど殺したし銃の悪魔の肉片を回収する為に血塗れになって死骸を解体したこともある。でもそれが人の形というだけで少なからず罪悪感が沸き上がった。

「今までで一番嫌な仕事だ」
「しょうがねぇだろ。あいつがやりてぇっつうんだから」

支配の悪魔——マキマの体を解体した。
チェンソーマンに食べられた悪魔はその存在事この世から消える。それが本当かどうかは分からないがチェンソーマンは支配の悪魔を食べると言った。その言葉通りに。だからマキマの体を細かく切って部位ごとタッパーに詰めた。

そして彼がマキマを完食するまでの間にもう一つ大きな仕事をした。岸辺が調べて見つけた支配の悪魔の日本への手引き。もちろん正規ルートを使えば国に見つかり第二のマキマが作り出されてしまうため裏の手を使った。

「どうだった?」
「全部食ったってよ。ピンピンしてた」
「支配の悪魔……ナユタは?」
「任せてきた」
「押し付けてきたの間違いでしょ」
「細けぇことは気にすんな」

そしてナユタはチェンソーマンのところへ。今後も定期的に様子を見に行く必要はあるだろうが他に隠しておくよりはいくらかマシであろう。
岸辺がシートベルトを締めたことを確認しシフトレバーを入れた。

「そういや入学手続きの方はどうなった?」
「そっちも済んでる、二人分」
「ありがとよ」

助手席の窓が開けられる。てっきりタバコでも吸うのかと思ったのだがそんなことはなく岸辺はただ空を見ていた。窓枠に肘を引っ掛け頬杖を突きながらただぼぅっと。その目に相変わらず光はないが天気がいいからか空の青が映っていた。

「ねぇ」
「なんだ?」
「行きたいところがあるんだけど」
「どこだ?」
「お墓」

交差点を右折して花屋の前で車を止めた。そしてひとつずつ花を選び出来上がった花束を後部座席に乗せてもらう。その数、七十四。しかしこれはあくまで東京で眠っている仲間の数だ。京都の分も合わせれば弔うべき数は百を超える。

「似合わない」
「馬鹿言え、キュートだろ」
「五十過ぎのキュートはきつい」

潰れてしまうため重ねるわけにもいかず、後部座席に乗らなかった分は岸辺に持ってもらった。十個の花束は彼の顔周りまで埋め、何だか棺桶の中の人間のようだなと思った。その日はまだ来てほしくない。

延々と並ぶ十字架。その中から仲間の居場所を見つけては足を止める。そして一人一人の為に作った花束を添えて、目を瞑る。そうして七十三の墓を回ることにはすっかり日が暮れ西の空が茜色に染まっていた。

「これはどうすんだ」
「光星の彼女に」

青みがかった白色の美しい花束。それはここから少し離れた丘の上に置いてきた。東の空には一番星がひとつ、銀色に輝いていた。

「あー疲れた」
「付き合ってくれてありがとう。これあげる」
「あ?なんだ?」
「お礼」

車に乗り込んで運転席の下に隠していた一輪を差し出した。どの花束にも使わなかった花。その理由は墓に供えるに不向きだからという理由だけでなく、彼にこそふさわしいと思ったからだ。キュートではないその一輪が。

「ハンサムにはこっちの方が似合う」
「年寄りを揶揄うな」
「まだまだ現役でしょう」

私も彼もきっと死ぬまで現役だ。年金生活も目前と言える年にまでなったが今じゃ悪魔よりも隠居してボケる方が怖い。互いに孤独死まっしぐらだ。

「お前の好きな花はなんだ?」

その一輪を見つめながら無機質な声で聞く。相変わらずボソボソと喋るくせに彼の声はどうにか聞き取れた。

「なに?プレゼントしてくれるの?」
「あぁ」

予想外の答えにどういう風の吹き回しかと隣を二度見する。しかし岸辺はそんな視線を気にもせず手元の花をくるくると指先で回していた。単なる世間話の延長か。

「教えたら早死にしそうだから言わない」

墓前に花を添えるのは私だけで十分だ。
しかし、彼には私の答えが分かっていたのだろう。大した耳も傾けずに遊んでいた指先を止めた。

「じゃあこの花束にするか」

クァンシすら選ばなかった赤の一輪を見つめながら。

「私には派手過ぎる」
「バラは美人の方が似合うんだよ」

そして大真面目に言ってくる。

「オバサンを揶揄わないで」
「お前は今も昔も綺麗だよ」

数十年ぶりに聞いた口説き文句に、声を出して笑ってしまった。