はじめましてはお母さん、これからは旦那さま

この世には生を受けた瞬間から記憶を持つ人間もいるらしいが平凡な私はもちろんその限りではない。そんな私の一番古い記憶は四歳のときのこと。その日は母親共々寝坊をし、幼稚園の送迎バスが来る十五分前に起きたのだ。

「ほら!靴履いて帽子被って!」
「ママおなかすいたぁ」
「もうすぐバス来ちゃうわよ!」
「あさごはん……」
「ハンカチも持ったわね?!」
「ごは……んぐっ」
「分かったからこれ食べなさい!行くわよ!」

腹が減ったとぐずる私の口にクロワッサンを詰め込み母は走った。そうして迎えの場所までダッシュし、待っていた園の先生に放り投げるようにして私を預けた。

「すみません!遅くなってしまって……」
「大丈夫ですよ。あら?そのお口にくわえてるのは朝ご飯かな?」
「もが……」
「ふふっじゃあ今日は前の方のお席に座ろっか」

バスの中での席はお迎え順に決まっていて私はいつも真ん中らへんの席だった。でもその時は先生が気を回してくれたのと、また監視も兼ねて一番前の二列シートに座らさせられたのだ。
バスの中での食事を許された私はそのまま、もそもそとクロワッサンを食べ進める。そうしているうちに次の送迎地点でバスは停まった。

「は?」

扉が開いて外の空気と日差しが入り込む。しかし乗り込んできた人物の影が座席を覆った。
残りひと口のパン片手に顔を上げれば同い年にしては体の大きい男の子が一人。その子は目を丸くさせ口を半開きにしてこちらを見ていた。その様子がちょっとおサルさんみたいで可愛くて。名前はきっとジョージくんだろうなぁと思いながら残りひと口を頬張った瞬間、まんまるお目めがドギツイ三角形になった。

「テメーなにシートにパンくずおとしてんだ!その手でそこらへんさわってねぇだろうな?!つーか顏もあらってねーだろ!きたねぇ!!」

これこそ私が人生で最初に記憶した出来事であり、ジョージ……もとい馬狼照英くんとの出会いだった。



結局、彼は私の隣に座ることを断固拒否し幼稚園まで立ったままバスに乗っていた。といっても園児を立たせたままなのも危険なのですぐ傍で先生が「照英くんったら!」と言いながら後ろでずっと支えていたが。この光景は今でもはっきりと思い出せるほどに面白かった。

「しょーへーくん」
「…………あ?」
「さっきはきたなくしてごめんね」

幼稚園に着き顔と手を洗い、そして自由時間となった時に彼の元へと謝りに行った。この幼稚園は各学年二クラスあり彼とは別のクラスだった。
私が声を掛ければ彼はこちらに視線を向け遊んでいたボールを投げ捨てた。そして一歩、二歩と距離を詰め私の顔をじっと見る。それから眉根をぐっと寄せた。

「おれのなまえは『しょうえい』だ」
「しょーへ、ぇ?」
「しょ、う、え、い!」
「しょーぅえぃ?」

目先のことに興味が奪われる幼少期。彼の中では私がパンくずまみれだったことよりも名前の発音の方が気になったらしい。しかし当時舌ったらずだった私に彼の名前は少し難しかった。

「しょ、う、え、い!!」
「しょぇ……ねぇジョージくんってよんでいい?」
「なんで『しょうえい』が『ジョージ』になんだよ!」
「ジョージくんはわたしの友だちなの。だからジョージくんがジョージくんになれば友だちだよね。なかよくしよ」
「だからジョージって……っ?!」
「わっ?!」

友好の証として差し出した右手、それが飛んできたボールに弾かれその反動で私は倒れ込んだ。服は勿論、顔や手も砂まみれ。

「きたねぇ!」

あーあ、また汚いって言われちゃったって思って。倒れた痛みよりもその言葉のせいで少し泣きそうになった。でも砂を握りしめていた汚い℃рフ手を、彼は躊躇いもせずに取ったのだ。

「おら!はやくあらいいくぞ!」

水道で顏や手足に付いた砂を洗い流す。そして服に付いた砂は彼が持っていたハンカチでパタパタと叩かれ払い落された。

「ケガは?血はでてないだろうな?」
「うん。だいじょうぶ」
「血のよごれはおちにくいからな」

彼の中では心配して、というよりは目の前の汚い≠烽フをそのままにしておけなくて私を連れ出したのだろう。現に今は汚れたハンカチを一生懸命水洗いしてるし。そして母親が洗濯物を干すときのように、パンッと大きく広げて風にあてていた。

「ママみたい」
「はぁ?ママだぁ?」
「うん。ママ……じゃおんなじになっちゃうから『おかあさん』ってよんでいい?」
「よぶんじゃねぇ!そもそもおれはおまえのかぁちゃんじゃねーわ!」
「じゃあやっぱりジョージくんかぁ」
「だからおれのなまえは……あークソッ『ばろう』なら言えるか?!」
「ばろーくん」
「よし、それがおれのなまえだからな」
「わかった!ばろージョージくんね!」
「なんでだよ!!」

ということもあり、なんだかんだで人間のジョージこと第二のお母さんこと馬狼くんは私が人生で最初に記憶する友達となってくれた。





幼稚園を卒園後、奇しくも同じ町内に住んでいた私たちは同じ公立小学校に通うことになった。

「ばろーくん!いっしょにかえろ!」
「べつにかまわねぇケドおれは家にかえらねーぞ」
「いえでするの?私もついてく!」
「ちげーわ!サッカーはじめたっつたろ!」

馬狼くんは小学校に上がるのとほぼ同時くらいに地元のサッカークラブに入った。他の子たちよりも体が大きく、運動神経もよかったから彼にぴったりなスポーツだ。

「そうだった!サッカーたのしい?」
「まあまあだな。今は走って体力つけたりボールのけりかた教えてもらってる」
「ばろーくんはどのくらいつよいの?」
「バカ、サッカーは十一人でやるスポーツなんだよ。つよいもよわいもねーだろ」
「たくさん走ってたくさんゴールをきめた人がつよいんじゃないの?」

サッカーのルールなんてせいぜいゴールを決めたら点が入り、得点の多い方が勝つことしか分かっていなかった。だからより目立つ人がすごいと思っていたし、団体競技のポジションの役割も理解していない私にとって、点を取る=強いの方程式ができあがっていた。

「まぁ、一理あるわな」
「いちり……」
「おれはクラブで一番……いや、日本で一番のストライカーになってやる」
「おー!すごい!」

自分で焚きつけた割に彼の言っていることの半分は理解できなかったが、それでも「一番」という言葉に胸打たれた。私が拍手を送れば「フン」と鼻を鳴らしてその足が速くなる。どうやらさっそく筋トレを始めたらしい。それに後れを取らないよう、負けじと私も着いてった。

そしてその言葉を有言実行するかのように、馬狼くんは弛まぬ努力と共にサッカーの才能を開花させていった。

まず、馬狼くんは自分のルーティーンを崩さない。学校がある日もない日も同じ時間に起きて同じランニングコースを走る。クラブチームのウォーミングアップの他にも自分用のトレーニングメニューを組み立てていてそれをきっちりこなす。睡眠時間もきっかり十時間で、年末年始であっても自堕落な生活をすることはなかった。



「おい、」
「あれ?どうしたの馬狼くん」

その頃には舌ったらずも抜け私たちは小学四年生になっていた。そしてその日は学校で珍しく馬狼くんから話しかけに来たのだ。雪が積もり底冷えするような廊下を歩き三つ先の私のクラスへと顔を出した。

「……い………貸せ」
「ん?聞き取れなかったからもう一回いい?」
「…………社会の資料集、貸せ」

小学校生活で初めて、というよりは人生で初めて馬狼くんが忘れ物をした。大抵はいつも逆の立場なのに。それで馬狼くんから小言を浴びせられるのが通例だったのに。

「いいよ!全然貸すよ!」
「お、おう……」

でもこの時一番に私を頼ってもらえて嬉しかった。ただ、自分がそうしたように何か言われると思っていた馬狼くんには少し意外だったらしい。食い気味で返事をしたら少し引かれた。

「はい、これ!今日はもう使わないから返すのはいつでも大丈夫だよ」
「意外とキレイだな」

手渡した資料集を見てそんなことを言われた。半年以上は使ってるから表紙は色褪せていたり傷があったりすると思うんだけどな。でもラクガキはしてないしページの端は折れないように気を付けていたからそういった意味ではキレイだったのかもしれない。

「勉強しながらお菓子食べたりしないもしないから安心してね」
「そンなんあたりめーだ!……お前、膝どうした?」

彼の視線は資料集から足元へ。私の右膝には破れたタイツの上から横三枚に並べて絆創膏が貼られていた。思いのほか出血がひどくて一枚では足りなかったのだ。手持ちの救急セットではこれが限界だった。

「昼休みに渡り廊下で転んだ」

保健室に行かなかったのは大ごとにしたくなかったからだ。うちのクラスでイジメが起きてるなんて言われたくなかったし、そう思われたくもなかった。それにそうしてくるのは一人だけで、他の子はみんな優しい。

「どんくせぇな。気を付けろよ」
「はーい、お母さん」
「誰がお母さんだ!!」

だから馬狼くんにも詮索されたくなくて、大股歩きで帰っていく彼の背を見送った。

……そしてどういうことかそれが気に入らなかったらしい。お昼休みに私のことを後ろから押してきた男の子が放課後にまで絡んできた。

「はいはーい!ここを通るにはお金が掛かります!通行料百万円でーす!」

校門を出てしばらく歩くと、その子が後ろから追い越してきて私の前で大きく手を広げた。

「そんなお金持ってないよ」
「じゃあここは通っちゃいけませーん!」
「何でそんなこと言うの?他の人は通ってるよ」
「お前はダメなの!」

なんで私ばっかり。少し前に隣同士の席だった時はよく話したし仲良くなれたと思ってたのにな。

「もう勝手に帰るからいい!」
「おい待てよ!」

ちょっと嫌だけど歩道の端に除けられた雪の上を通れば避けられる。そう思い一歩踏み出そうとしたのだが彼の手が伸びてくる方が早かった。

「あ……ぶっ?!」

バランスを崩した私はそのまま雪の上へと顔面ダイブ。そしてランドセルに付いていた防犯ブザーが男の子の手に引っ掛かったのかその場にけたたましい電子音が鳴り響いた。幸か不幸かそのお陰で彼は立ち去ったらしい。といっても雪に顔が埋まっているので「お、お前が自分で転んだんだからな!」という捨て台詞でしか状況を理解できていないのだが。というか新雪にはまって身動きが取れない。もしかしてこのまま死ぬのかな。

「おい!大丈夫か?!」

しかしそんな私を助けたのは他でもない馬狼くんだった。彼は私のコートのフードを引っ張り雪の中から立ち上がらせた。しかし足元が濡れていたせいで今度は尻もちを付いてしまった。

「キミ!女の子をイジメるんじゃない!どこの小学校だ?!」

そこで防犯ブザーの音を聞きつけた大人が一人二人と集まってきてしまった。慌ててブザーを止めるも時すでに遅く、そしてそんな彼らからしたら馬狼くんが私を怪我させた人物に見えたのだろう。絆創膏が剥がれた右膝からは赤い血が流れていた。

「この悪ガキめ!見るからに素行の悪そうな顔をしてる!」

本当は違うって言いたかった。でも足の痛みと馬狼くんへの申し訳なさと怒鳴る大人が怖くて、泣くのを我慢することで精一杯だった。泣けばもっと馬狼くんが責められることになる。

「あ?ウッセェなジジイ、この場合は手当てが優先だろーが!」
「ジ……!なんだその口の利き方は!」
「怒鳴るだけの無能は邪魔だっつってんだよ!」
「……ッ、このことは学校に報告するからな!」

馬狼くんの剣幕に押され声を掛けて来た男の人は早々にいなくなり、そして遠巻きに見ていた人等も蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。
馬狼くんはというとその人達のことは完全無視して私の前にしゃがみこんでいた。そして泥が混ざり込んだ雪の上に躊躇いもなくランドセルを置いた。教室の床にすら荷物を置かない彼がだ。

「血ィ出てんじゃねーか」
「うん」

取り出した巾着袋の中から消毒液と絆創膏を出して怪我の手当てをしてくれる。その間、いつものお母さんみたいな小言はなかった。
そうして自分でやったときよりも丁寧な処置がされ、投げ出された体操着袋まで取って来てくれた。

「立てるか?汚ねェから早く立て」
「うん……」

伸ばされた彼の手を掴みにいけば勢いよく引っ張り上げられる。それからランドセル以外の荷物は全部馬狼くんが持ってくれた。お礼を言わないと。でもそれより先に口から出たのは謝罪の言葉だった。

「ごめんね」
「なんでお前が謝んだよ」
「だって馬狼くんが悪者になっちゃったから」

寧ろ助けてくれたのに最悪の汚名を彼に着せてしまったのだ。身体が大きい馬狼くんは良くも悪くも学校で目立つ。そして普段の言葉遣いも荒いから先生に目を付けられやすかったりする。

「くだらねー」
「え?」

吐き捨てられたような台詞に、驚いて顔を上げる。馬狼くんから続けられる言葉がちょっと怖くて体が強張る。でも繋がれた手に力が込められたから私は黙って続きを待った。

「お前が立って歩けて、ンで泣いてなきゃ他はどうでもいいんだよ」

そんな私基準の評価でいいのかな。先生に怒られるかもしれないし成績に響くかもしれない。でもそこまで言ってくれたのならもう自分がしょげている場合ではない。

「馬狼くん、ありがとう」
「……フン」

全くもって包容力が偉大である。といってもキレイ好きの彼の場合、掃除面においてその懐はミジンコ並の小ささしかないけれど。ともあれ、面倒見は良い。

「馬狼くんはやっぱりお母さんだ」
「おい、あんまふざけたコト言ってっと置いてくぞ」
「拾ったなら最後まで責任とって面倒見てよ」
「めんどくせー」

その後、近隣住民から学校にこの件で報告が入り馬狼くんは呼び出しを喰らったが終始飄々としていた。そしてその時には私も着いてってちゃんと説明をした。これで馬狼くんが悪者でないと証明できたはずだった、のだが……

「おいテメー」
「えっな、なんだよ……?」

放課後に馬狼くんがうちのクラスへと乗り込んできた。そして私のことを押し倒してきた男の子の前で足を止めて見下ろした。体つきもしっかりしていて身長差もある。だから彼からしたら馬狼くんはきっと巨人のように見えたはずだ。

「目障りだから金輪際、俺様の視界に入ってくんじゃねーぞ」
「ヒッ……」

迫力に圧倒され彼と揃ってクラスの皆は震えあがった。そして教室の温度は氷点下まで急降下した。

「おい帰んぞ」
「え?」
「この前は俺様が荷物を持ってやったんだ。今日はお前が荷物持ちだからな」

そういって給食袋を投げつけて来る。それは大した重さもなくて、ランドセルに括りつけられるほどには軽い。

「待ってよ!」

馬狼くんとの身長差は入学当初よりも広がってしまった。今では自分の頭半分以上は高い。でもどうしてだろう、歩く歩幅は昔よりも揃っていた。

「今日もクラブチーム行くの?」
「あたりめぇだろ」
「雪でサッカーできなくても?」
「サッカーできなくてもやるべきことはあんだよ」
「私も行っていい?」
「見ててもつまんねぇと思うぞ」
「そんなことないよ。それに馬狼くんが怪我したら今度は私が手当てするからね」
「どこかのおてんば、、、、一緒にすンじゃねぇ」

この日からなんとなく馬狼くんと帰る機会が増えた。おかげでその後は彼に絡まれることはなくなったが、女の子の友達には「あんな野蛮な人と関わらない方がいいよ」と心配された。この前の一件ですっかり怖いというイメージがついてしまったようだ。

あんなに優しい人なのに。
そして私の中では世界で一番かっこいい人だ。





小学校を卒業後もやっぱり私たちは同じ中学校に通っていた。
馬狼くんは相も変わらず規則正しい生活を送っており、変わったことといえばトレーニング内容がよりハードなものになったことと睡眠時間が八時間に短くなったことくらいだった。といっても長い方だと思うけど。

そして体力だけでなくサッカーの知識もより身に着けていった。スマホを手に入れてからは動画を見て有名選手の動きを真似てみたり、自分が得意とするプレーを編み出していった。
そんな彼に憧れと尊敬を抱く者も少なくなく、一年生ながらサッカー部のレギュラー入りをしてしまえば彼を中心にチームは回った。

「馬狼くんお疲れ」
「まだ残ってたのかよ」
「そっちこそ。なんだか久しぶりだね」

小学校の時ほど頻繁に帰ることはなくなったがそれでも時間が合えば同じ歩幅で帰路を辿る。また身長が伸びたらしい彼は校門を出るや否や学ランの前のボタンを全部開けた。

「あんまそんな気はしねぇケドな」
「二年になってから帰りが一緒になるのは初めてでしょ?」
「グラウンドで毎日見てっからな」

サイズが合わなくなったのだ。そしてズボンは丈は足りているものの太腿の辺りが苦しそうである。確実にサッカーをしている人の体に近づいていた。

「えー?でも私がどれかまでは分からないでしょ」
「何年見てると思ってんだ、一番どんくさくて抜けてる奴がお前だろーが」

気付けば十年以上の付き合いである。その中でも私が転んだのは数回程度だし忘れ物をした回数だって片手で数えられるほどなのに、それを今でも言われたりする。

「これでも二年の中じゃ一番足が速いんだよ」

中学では陸上部に入った。元より体を動かすことは嫌いではなかったが、数字が証明する足の速さは周囲の折り紙付きで入部を決意した。トレーニングに励む馬狼くんの傍らで自分もやってみようかなって感じで真似て走り込みをしてきた成果の賜物である。

「運動出来ねぇ奴がどんくせぇわけじゃねぇ。目が離せねぇ奴がそうなんだ」

この時の馬狼くんの言葉の意味はよく分からなかった。でも目が離せないという意味は何となく分かった。それは先日、先輩に言われた言葉と同じだったから。

「そう?最近他の人にも言われるんだよね」
「他人に隙見せんなよ」

隙ってなんだ?私はアサシンにでも命を狙われているのだろうか。生憎、家も中流家庭だから身代金の割にあわないと思う。しかし物騒な世の中であるので何があるかは分からない。そう、例えばこんな風に。

「隙あり!ぎゃっ?!」

脇腹に向かって軽い右ストレート。しかしこちらの拳が届く前にひらりと交わされ、お返しとばかりに手刀が頭に落とされた。

「お前の考えなんざお見通しなんだよ。おてんばも大概にしとけ」

そう鼻で笑われてしまえば言い返す言葉も見つからなかった。



「片付け手伝うよ」
「部長!大丈夫ですよ、そんなに数ないので」
「遠慮しないで。ほら、半分貸してごらん」

そう言って部長は私が持っていたハードルを半分以上引き取ってくれた。私が遠慮しようとすれば「男なんだからこれくらい」と笑ってみせる。先輩に持たせてしまって申し訳ないと思いつつもその言葉に甘えさせてもらった。部長曰く、私は目が離せない後輩らしいので。

「ありがとうございます」
「怪我されたら困るからね」

どうやら入部してから雨の日も雪の日も毎日朝練に来ているかららしい。でもそれはサッカー部のエースにも言えることなので私に限った話ではない。

「そこまでどんくさくないですよ?」
「そういう意味じゃなくて心配だから言ってるんだよ」

気が利いて周りからの信頼もあり、東京に遊びに行ったときにはモデルにスカウトされたこともあるらしい。陸上の大会の時には観覧席に女の子が殺到するし、バレンタインは告白の催事場になる。

「部長は優しいですね。女の子にモテるのも分かります」

恋愛ごとに興味が湧くお年頃。私の周りにはいないけれど同学年の中にはお付き合いしているカップルもいる。漫画やドラマの中だけで見てきた恋愛が中学校には存在した。

「ありがとう。でも本当に好きな子には振り向いてもらえないんだ」
「えっ好きな人いるんですか?!もしかして部員?!」

そしてもちろん私も興味のある人間の一人。だから部長ともあろう人の恋愛には興味があった。

「うん」
「えーっ!ほんとですか?!誰だろう…あ、大丈夫です!絶対に誰にも言いませんので!」
「あははっそんなに意外だった?」
「はい!」

ハードルを片付け倉庫には鍵を掛けた。すでにグラウンドに部員はおらず先輩と並んで校舎へと戻る。その間にも私は興奮しっぱなしだった。あの先輩かな、それとも二年の子かなと思考を巡らせる。でも個人まで特定するのは無粋である。ただ聞いたからこそ協力したい。

「私でよければこれから相談に乗りますからね!場合によってはお手伝いもしますし何でも言ってください!」

日頃お世話になっている部長の為ならばと力強く言ってみせる。でも微妙な表情をされた。彼氏もいない後輩の私では役不足だっただろうか。

「もしかして、とは思わなかった?」

校舎の前で部長が立ち止まる。着替えのために更衣室に向かうのでここからは逆方向に進むことになる。だからこのタイミングで足を止めたことに、さすがの私でも勘づいてしまった。

「えっと……」
「遅ぇぞ。俺様を待たせるな」
「わっ」

ぬっと現れたぬりかべに、肩を肘置き代わりにさせられる。部活終わり特有の嗅ぎ慣れた制汗剤の匂い。どうやらお母さんのお迎えが来たようだ。

「早く着替えてこい」
「うん。……部長すみません、先に帰りますね。お疲れ様です」

それから高速早着替えを行い急いで馬狼くんのいる場所に戻る。馬狼くんはスマホを弄りもせずに校舎側を向いて待っていてくれた。だから部活で鍛えた俊足ぶりをみせ駆け寄って、そして開口一番お礼を言った。

「ありがとう」
「何がだ?」

と言ってはいるが、私の話を聞くつもりはないらしい。ズボンに手を入れて大きなスポーツバッグを揺らしながら先を歩いて行ってしまう。

「色々と」

馬狼くんのバッグは着替えの他にもウェットティッシュやら救急セットやら消臭スプレーなんかが入っているので大きい。でもその重さに体が傾くことはない。その姿を見ては成長したなぁとお次は私が母親のように見てしまった。でも変わっていないところもある。

「あんまフラフラしてんじゃねぇぞ」
「真っすぐ歩いてるよ」
「チッ」

相変らず優しくてかっこいい。
そして、悪役ヒーローは今も健在である。





高校は流石に違うところ……というわけでもなくスポーツ推薦を得て同じ学校に通うことになった。私は馬狼くんのように陸上に人生を捧げるつもりはないけれど、正直勉強が苦手なので受験をしたくない一心でその推薦を受け入れた。

「推薦っつっても他に学校あったろ。あそこ治安よくねーぞ」

私としてはまた同じ学校に通えて嬉しかったのだけど馬狼くんはそうでもなかったらしい。確かに悪童学院高校はその名の通りやんちゃな生徒も多いし、制服もどことなくヤンキー染みている。おまけに元男子校のため全校生徒の三割ほどしか女子はいない。

「だって家から一番近いのが悪学だったから」
「そうゆうトコが抜けてンだよ」
「もしや私は今怒られている?」

馬狼くんから脅しのような忠告を散々聞かされ、びくびくしながら入学式へ。しかし噂よりも学校生活は穏やかであった。確かに派手な子は多いけれど性格がねじ曲がっている子はいなかった。

「好きです!俺と付き合ってください!」
「ええっと……」

しかし穏やかな学園生活は入学して二ヵ月で終わった。同じクラスの男子生徒に告白をされたのだ。性根がねじ曲がっていない分、ストレートな告白を真に受けびっくりしてしまったがそれは丁重にお断りさせてもらった。だが、翌日には隣のクラスの男子生徒に告白された。あーん、これがモテ期ってやつじゃねーの?と他人事のように感心していたのだが、さらにその一ヵ月後にはそうも言ってられなくなっていた。

「週八でバイトしてるんで金はあります!だから俺と付き合ってください」
「週八…?!というか、どちらさまですか?!」

他学年であろう知らない人にまで声を掛けられる事態になっていた。中には乙女ゲーかって具合に三人同時に頭を下げられたこともあった。しかも最近はからめ手とばかりに一発芸をされたり歌を贈られたりして正直困っている。もはや告白大喜利大会である。なるほど、女子生徒が少ないとこんな感じに的になるんだな。

「馬狼くーん!」
「あ?なに部活にまで来てんだ。校門で待ってろつったろ」
「この前お断りした人に待ち伏せされてたから逃げて来た」

どうしたもんかと馬狼くんに相談したら友達と帰る日以外は一緒に帰ってくれると約束してくれた。そういう時は今日のように連絡を入れて待ち合わせ場所を決める。でもサッカー部の方には顏を出すなと言われていた。曰く、飢えた、、、男子が多いかららしい。

「あ゛ークソッあと十本打ってやめっからそれまで待っとけ」
「ありがとう」

馬狼くんは一人でグラウンドにいて、部活の皆はすでに帰ってしまったようだった。でもそれは練習に疲れたからという理由だけではない気がする。

「さっそくレギュラー入りしたんだよね?おめでとう!」

サッカーの強豪校である悪学でも馬狼くんは一年生ながら背番号を貰っていた。しかしあまり良い噂は聞いていない。それは彼のワンマンプレーが原因だった。

「ここには才能ナシの能無し共しかいねぇんだ、あたりめーだろ」

馬狼くんは自分に絶対の自信を持っている。それは尊大な言動に恥じないシュート技術に前線に突破できるほどのフィジカルを持っているからだ。中学ではチームの皆がそんな彼を尊敬し着いて行ったが、ここでは妬みを買ってしまっているらしい。

「やっぱりサッカーは一人でやるもの?」
「ピッチの上じゃあ王様か愚民かだ。ボールはさしずめ王冠、王様キングこそが所持するにふさわしい代物…だ!」

足元から強烈なミドルシュートが放たれゴールを揺らす。数ミリのブレもない正確なシュートは彼の努力の賜物だ。馬狼くんは確かに体格には恵まれていたが類まれなるサッカーの才能があったわけではないと思っている。

「じゃあいつかはサッカー界を天下統一しちゃう?」
「その言い方だと日本だけの話になんじゃねーか。俺は世界を目指す、だから世界征服だ」

彼は努力を続けられる才能の持ち主だったってだけだ。ただ、それだけ。しかしそれがどんなに難しいことなのか、努力し続けることを諦めた凡人には分からないし気付かない。

「悪役みたいな言い方だね」
「生きたいように生きて勝ちたいように勝つ。これが俺の——…帝王学だ!」

ボールが吸い込まれるようにゴールが決まる。それに拍手を送れば夕日をバッグにニヒルに笑う。周りにどう思われていようとも私は彼のサッカーが好きだった。



それから一年、二年と時が経ち私たちは最高学年へ。馬狼くんはこれまたぐんぐんと成長し身長は一八七にまで伸びた。最近では見上げると首が痛くなって困っている。
そしてこの三年間、彼のワンマンプレーとも言える王様サッカーも、その文句なしの実力に反乱を起こす者も現れずにチームは良くも悪くもまとまった。そして試合では目覚ましい結果を残していった。

「お前、将来どうすんだ?」

北風が吹きつける歩道には落ち葉が舞っていた。初雪こそまだだけれどこの時期の風が一番冷たいと思っている。でも私の隣には逞しい風よけがいるので寒さもほんの少し和らいだ。

「保母さんになるよ。地元の短大受けてそのままこの辺りで就職できたらなって思ってる」

小さい頃からの夢。それが叶えられる年齢となり、改めて考えてみてもやっぱり私は保母さんになりたかった。

「あってんな」
「ほんと?」
「精神年齢も大体同じくらいだろ」
「つまりいつまでも若々しいってことだね」
「十代が言うセリフじゃねぇな」

取り留めのない話をして歩く。ここまでずっと同じ学校に通ってきたけれど流石にこれから先、馬狼くんとは別々の道を歩むことは容易に想像できた。きっと馬狼くんのことだから有名大からスポーツ推薦の話も来ているだろう。いや、もしかしたらプロからお声が掛かっているのかもしれない。

「馬狼くんの夢はもちろんプロサッカー選手だよね」
「あぁ。……昨日、俺のところにこれが届いた」

でも私の想像より何倍も速く馬狼くんの夢は現実になりそうだった。

「『強化指定選手に選出されました』……?」

見せられた手紙にはそう書かれていた。送り主は日本フットボール連盟というところ。それがなにをしている機関かは知らないがサッカーに関わる大きな組織だということは察しがついた。

「どういう場所なのかも何をすんのかも分からねぇが行ってみるつもりだ」
「いいんじゃないかな。というかそんなところからお声が掛かるってすごいね、おめでとう!」
「ハッ寧ろ遅ェくらいだわ」

馬狼照英という才能を世界に知らしめる、またとないチャンスだ。それは素直に喜ばしい。でもそれと同時に思うことはある。

「寂しくなるなぁ」

運動部が使うグラウンドは広い。でも馬狼くんがどこにいようとも私はいつも見つけられた。そりゃあ背も高いし髪の毛はツンツンしてるし態度も大きいので目立つ。それでも朝練、部活動中、そして居残り練で姿を見つけては自分も頑張ろうって思ってやってきた。

「別に一生の別れってワケでもねぇだろ」
「でももうこっちには帰ってこないかもしれないでしょ」

私の人生はこの地元秋田で終えてもいいかなって思うくらいには閉鎖的に生きようとしている。でも馬狼くんは違う。地元を、日本を離れて海外に行く可能性の方がきっと高い。

「かもな。でも離れることはねーよ」
「ん?それってなんか矛盾してない?」
「とりあえずお前はこれ預かっとけ」
「ぶっ?!」

そうして顔に布状の物が被せられる。手を伸ばして剥ぎ取ればそれは悪童学院高校サッカー部のジャージだった。

「予備で持ってきたヤツだから汚かねぇよ」
「それに関してはそこまで気にしてないけど……」
「俺が世界征服果たすまでなくさずに持っとけよ」

嬉しい預かり物に、じゃあ大切に押し入れにしまっておくねと言ったら「毎日羽織ってろ」と命令された。なんでも俺様がいつ取りに来てもいいように、だって。それなら多少汚しても文句は言わないでよね。
このジャージがキレイだと思えるうちにまた会いに来て欲しい。



馬狼くんが招集された青い監獄≠ニいう場所はかなりすごいところだったらしい。どれくらいすごいのかと言うとU-20日本代表選手と試合をして勝ってしまうくらいには優秀な選手が集められていた。

その試合には馬狼くんも出場していた。
途中出場の彼は味方すらも喰うプレースタイルでボールを掻っ攫い堂々たるゴールを決めてみせた。湧くスタジアムに彼の咆哮が響く。テレビの画面越しでもヒリつくくらいの熱気のど真ん中に彼はいた。

「でもユニホーム脱いでイエローカード貰ったときは笑っちゃったな」
「うっせぇ」
「脱ぐとペナルティになるんだね」
「FIFAの規則にそうあるからな」
「王様≠ナも守らないと罰せられるんだね」
「もうその話はやめろ」

長い長い青い監獄≠ナの生活を経て、日本代表戦が終わった頃に馬狼くんは地元に帰ってきた。久しぶりに再会した私は先日の試合の感想を早口で喋っては笑った。

「でも馬狼くんがみんなと仲良くやれてるようで安心したな」

そして試合を振り返って思うことはチームでサッカーをしていたことだった。FWばかりを集めた青い監獄<`ームは、確かに皆がゴールを狙っていたけれど馬狼くんのワンマンチームというわけではなかったのだ。

「ダチでもなんでもねぇよあんな奴ら」
「だけど、少なくとも愚民≠ナはないよね」

オレに勝てるのはオレだけだ、とばかりに孤高の王様でいた昔の彼とは違う。そうでなくなった彼はきっとこの先、もっともっと強くなるのだろう。

「……まぁな」

だからまだジャージは返してあげない。
それを今日も羽織って、私は再び馬狼くんを送り出した。





来客のチャイムに起こされベッドから転がり落ちる。残雪こそなくなったものの暖房をつけていない部屋は冷え切っていた。ベッドに戻りたい気持ちを抑え布団の上に投げ出してあったジャージを羽織る。そして急いで玄関へと向かった。

「はぁい、お待たせしましたー……」
「寝起きかよ」
「あれ?馬狼くんだ」
「しかもまたそのジャージ着てんのか」
「すっかり馴染んでもう手放せない存在なんだよね。いつ日本に帰って来たの?」
「昨日な。そんでお前はなに確認もせずにドア開けてんだ」
「うちに来る人なんて馬狼くんか配達の人くらいしかいないからね」
「答えになってねぇんだよ。いいか、家居る時はチェーン掛けてドア開ける前には誰か確認しろ」

馬狼くんが日本を離れて早四年、今ではプロサッカー選手として世界で活躍する人物になっていた。しかし私の前では相変わらずのお母さんぶりである。だから会う機会が少なくなっても雲の上の存在に昇華されることはなく、今でも昔のように会っている。

「わかった、これからは気を付けるね。部屋散らかってるけど上がってく?」
「おう」

どうぞ、と中へと招き入れてから自分は洗面所へと向かう。さすがに顔くらいは洗っておきたい。

「冷蔵庫開けていいか?」
「いいよー」

スキンケアだけを簡単に済ませ部屋に戻る。馬狼くんはというとこれまたお土産をたくさん買ってきてくれたらしく一部を冷蔵庫に移していた。その間にローテーブルの上を片付ける。

「またロクに飯食ってなかったろ」

マスキングテープは色別に並べて百円ショップで買った収納ケースに。ハサミやペンも定位置に戻して画用紙の切れ端はゴミ袋にまとめた。

「バレました?」
「冷蔵庫には調味料以外になんもねぇし冷食のゴミと戸棚のカップ麺の数見りゃ分かるわ」

高校を卒業して短大を出てからは市内のこども園で保育士として働いている。社会人になってから始めた一人暮らしではあるがそれなりに自炊もしていた。でも、昨日が卒園式でその準備を家でもしていたため最近は手を抜いていたのだ。

「仕事が忙しくて」
「ったく……なんか作ってやっから部屋片づけとけ」
「はーい」

ただ、散らかってはいるが食後の食器が放置されているわけでも脱いだ服が散乱しているわけでもない。昔に言われた「汚い」の言葉がトラウマ過ぎてそういった汚れ物はすぐに洗うようにしている。掃除機も掛けてるし、平日で帰りが遅くなった日でもラグにコロコロくらいは掛けている。

「出来たから場所空けとけよ」
「わかった」

ローテーブルの上をアルコール消毒のスプレーを使いキレイにしてスペースを開ける。そして二枚の座布団をテーブルに沿ってL字型になるよう並べた。

「わっ美味しそう!ありがとう!」
「火傷すんなよ」

お茶碗には小分けに冷凍保存してあった白米が盛られ、お椀の中には具沢山の味噌汁がよそわれていた。うちにこんな食材あったっけ、という愚問はさておき食欲に後押しされ、いただきますと手を合わせた。

「こんなにたくさんの野菜食べるの久しぶりかも」
「おふくろがご近所さんから貰ったんだとよ。お前にも持ってけって」
「おばさん元気?この前、腰やったって聞いて心配だったんだよね」
「今はうるせーくらいピンピンしてンぞ。お前にも会いたがってた」
「次の週末に実家に帰った時、顔出しに行こうかな」
「俺が帰ってくるときより喜ぶと思うぞ」
「そんなことないよ」

白米はなにも掛けずにそのまま口に運ぶ。米どころの県の白米を舐めるな。ご飯のお供がなくともこれで十分美味しいのだ。

「そういや醤油の横にあったあの出汁どうした?」
「あーあれね。去年からふるさと納税始めてそれで届いたやつなんだ。まだあるけど持ってく?」
「いいのか?」
「いいよ。美味しかったから自分でも買ってたくさんあるんだ」
「お前は調味料と出汁の見る目だけはあるからな。前に送ってきた味噌と柚子胡椒も美味かった」
「でしょ?」

私にしては豪華な朝ごはんを完食し、ごちそうさまをする。そして空の冷蔵庫を不憫に思ったのか馬狼くんが買い出しを手伝ってくれることになった。そのお言葉に甘え、食器洗いをしてもらっている間に支度を済ませる。

「もう出れるか?」
「うん。エコバッグ二つで足りるかな?」
「洗剤系は足りてンのか?」
「あー柔軟剤のストックなかったかも」
「ならついでにドラストも行くぞ。重い物もまとめて持ってやる」
「助かります」

スニーカーを履き狭いアパートの廊下を抜け道路に出る。大通りから一本入ったここは住宅が立ち並び通勤ラッシュ以外はほとんど車は通らない。だからかお隣の民家に住んでいる人が外に出て掃き掃除をしていた。

「あらこんにちは『馬狼さん』」
「こんにちは」
「そうそう、知り合いにフキノトウを頂いたんだけど貰ってくれる?」
「いいんですか?」
「年寄り二人じゃ食べきれないのよ。貰ってくれると助かるわ」
「じゃあ後で取りに行かせてもらいますね」
「えぇ。お出かけ前にごめんなさいね」

いってらっしゃい、と見送られ手を振ってお別れをする。
その光景を不思議そうな顔で馬狼くんは見ていた。

「なんだ今の?」
「お隣さん。前に雪かき手伝ってから良くしてもらってるんだ。よくお裾分けしてくれるの」
「じゃなくてお前のこと『馬狼』って呼んでたろ」

あっ、と思ったが時すでに遅し。自分から言うのは気まずいなぁと思いつつも、言い逃れができる雰囲気でもなかったため仕方なしに口を開いた。

「よくあのジャージ着てゴミ出しに行くんだけど、そしたら名前を間違えて覚えられたらしくて」

胸元には『馬狼』という刺繍が入れられている。こちらも名前を名乗ったものの視覚情報から仕入れた『馬狼』の名の方が印象に残ってしまったらしい。何度か訂正も試みたがお年ということもあり、今ではその勘違いされた名前で通している。

「そーかよ」
「訂正した方がいいかな?」
「好きにしろ」

市街地の雪はとっくに溶けており路面凍結もない。ゴム底のスニーカーの足音が鈍く響く。空は雲一つない快晴で柔らかな日差しが降り注いでいた。

「じゃあ本当に馬狼って名前にしてもらおうかな」

どこからか聞こえた鶯の鳴き声がいち早く春の訪れを告げる。未だにコートとマフラーは手放せず、桜の開花もまだまだ先だけれど春告鳥は確かに季節の移り変わりを教えてくれていた。

「……意味分かって言ってんのか?」
「うん。だってずっと一緒にいたいから」

幾度となく廻って来た春だけれどこちらの春はいつ来るのか。

「あ゛ーー………」

魂が抜けるほどの嘆き声を聞き足を止める。そして振り返れば私の五歩後ろにヤンキー座りで項垂れる馬狼くんの姿があった。急いで引き返すもつい仕事の癖で、だいじょうぶ?ぽんぽん痛い?なんて聞いちゃって。そしたら「頭が痛ェわ」とため息をつかれた。これは重症だ。だから視線を合わせるように自分もしゃがみ込んだ。

「落ち着きました?」
「落ち着いてはいるが理解は追い付いてねぇ」
「うそだぁ。私の気持ちなんてとっくに知ってるでしょ」
「…………」
「それで馬狼くんも同じ気持ちなんだと思ってるんだけどな」
「なんかスゲー詰めてくんな」
「今なら押せば行けると思って」

別に今さら大きな進展なんて望んでない。ただ今まで通り、傍にいて話したり笑ったり出掛けたりしたいだけ。でもそれが今の関係≠ナは難しくなっていくことは明らかだった。

「私を馬狼くんの隣に置いてくれる?」

物理的な距離は嫌でもある。そんな中で浮ついた関係でいるのはやっぱり不安だ。キッカケがなかった、と言えばただの言い訳になってしまうが、だからこそ今思い立ったこの瞬間に私は自分の気持ちを吐き出した。

「あのなァ」
「いだっ」

しかし帰って来たのは返事ではなく手刀だった。ひどいと思い眉間に皺を寄せれば目の前にはそれよりも深い皺を刻んだ馬狼くんの顔があった。

「お前の気持ちなんざとっくの昔に気付いてんだよ!だからこっちもそれなりにプラン組んで動いてたわ!なのになんでこんな道端のクソみてぇなタイミングでお前の口から先に聞かされなきゃなンねーんだよ!!」
「馬狼くんがいつまで経っても言わないのが悪い」
「あぁ?」
「何でもないでーす」

なんだか後だしジャンケンされた気分。そんなの後からなんだって付け足せるよね。それはちょっとずるいよ。

「もういい」
「待て」

逃げるように立ち上がろうとすれば手首が掴まれた。再び地べたへと引き戻され隣にしゃがむ。いい大人が道の隅っこに寄って縮こまっているのなんて周りから見ればさぞ滑稽であろう。でも幸いにもこの場にいるのは私たちと鶯くらいだった。

「なに?」
「本当は晩飯食った後に夜景でも見せ行って渡そうと思ってたんだが、こうなりゃ前倒しだな。ほらよ」
「え……」

ポン、と目の前に現れたのはベルベッド生地の四角い箱。掌に乗ってしまうほどのそれは初めて見ても中身がなにかはわかった。
そっと手に取り蓋を開ける。そしたらやっぱり指輪だった。赤い宝石が付いていて日差しを受けるときらりと光る。その光景に圧倒されながら視線を馬狼くんへと移した。

「私たち付き合ってたっけ?」
「お前がそれ聞くのかよ」

だって多分これ婚約指輪。今日が私の誕生日でもなければクリスマスでもホワイトデーでもない。そんな日に渡されためちゃくちゃ高そうな指輪は誰がどう見たってそれだ。

「まさかここまで考えてくれていたとは思わなかった」

嬉しいはずなのに感情が追いつかない。
でもそんな私を怒るわけでもなく馬狼くんは淡々と言葉を続けた。

「昔からどんだけ世話妬いてきたと思ってんだ。どんくせぇし隙は多し、自分のコトより他人の心配しやがって。そんで野郎にもモテるから目は離せねぇし。お前には俺が必要だろ」

必要だから一緒にいたいってわけじゃないんだけどな。でもそういう風に言ってくれたことが嬉しかった。

「馬狼くんは私以上に私のことを知ってるね」
「フィールド以外じゃお前のコトしか考えてねぇよ」

そう言って箱の中から指輪を取った。左手を差し出されれば迷いなくそこに自分の左手を乗せる。薬指に付けられた指輪はぴったり私の指にはまった。

「ありがとう!一生大事にするね!」
「あぁ」

しばらく眺めてたいくらいだったけど馬狼くんが立ち上がったことで自分も慌てて立ち上がる。それから本来の目的地であるスーパーとドラッグストアに向かうが私の視線は相変わらず左手の薬指に向けられたままだった。

「おい転ぶぞ」
「指輪がきれいすぎるか、…っ」
「バカ!だから言ったろーが!!」

コンクリートブロックがなくなった側溝に落ちかけたが寸でのところで体を支えられた。ごめん、と謝ったもののあまり危機感はない。だって馬狼くんがいたら絶対に助けてくれるから。

「行くぞ」

ただ私よりも向こうの方が気が気じゃないらしくしっかりと右手を繋がれた。いつもは子どもの手を引く立場なのに今日はすっかり逆転している。でもだからこそこの左手に甘えてやろうと思った。

「ねぇ、」
「あ?」
「帰り道も手を繋いでくれる?」

隣を見上げれば目と目が合う。
そして小さく笑って約束をしてくれた。

「ばぁさんになっても繋いでやるよ」

そっか。
じゃあこれからは、お母さんじゃなくて旦那さまとしてよろしくね。