smoky baby

ゆっくり深く吸い込んで口の中から吐き出した。煙はあっという間に風に吹かれ灰色の空へと消えていく。手元の煙草は残り僅か。あともう一口くらいは吸えるだろうか。

「ここにいたのか」
「岸辺さん?」
「違う」
「……先生」
「よし」

喫煙所を訪れた上司の姿に残り三センチを灰皿へと投げ捨てた。少し惜しい気もするが返って良かったのかもしれない。岸辺さんが来なければ指先が焦げるまで煙草を捨てられなかっただろうから。

「年寄りを無駄に走らせんでくれ」
「ウィスキー片手に何言ってるんですか」
「火ぃくれ」

ジャケットの内側からのジッポを取り出しそれを手渡す。そしたら「先生なんだから火くらい点けてくれよ」と小言を言われた。生憎ここはキャバクラじゃないんでね。チャージ代に二万貰いますよと言ったら結局自分で点けていた。

「最近どう?」

浅く吸って吐き出された煙が私の鼻腔をくすぐった。煙草は三口目までが美味いというのに随分と贅沢な吸い方だ。しかし最早この人にとって味などどうでもいいのだろう。人の死に目にあい過ぎて酒も煙草もやめられなくなったそうだ。そんな上司の姿を見て、こうはなりたくないなという感想が浮かぶ。

「相変わらずの人員不足。有休どころか睡眠時間も取れなくてこの間なんか発狂して家中の皿全部割っちゃいましたよ」
「なら百点だ。お前長生きできるぞ」

デビルハンターなんて仕事をしていればまともな奴ほど早く死ぬ。初めこそ笑い話程度にしか聞いてなかったが三年もこの仕事をしていれば嫌でも自覚した。
隣で煙が吐き出される。空は分厚い雲に覆われ今にも雨が降りそうだ。

「その末路が先生だと思うと嫌ですね」
「つれねぇな」

目の前に三つ折りにされた紙が差し出された。その手を辿り岸辺さんを見るも空を見上げたまま悠長に煙草をふかしている。だから黙ったまま受け取ってざっと目を通した。

「辞表?しかも三枚って……」
「新人二人とお前の同期」
「ああああ!くそったれがぁ!!!」

視界の端に映ったウィスキーをかっぱらい一気に煽る。また辞めた、辞めやがった。でも正直予兆はあった。始めこそやる気はあれど任務に行くたびに新人はやつれていき、同期は民間から声が掛かっていると言っていた。しかし公安のデビルハンターなんて死ぬか民間の二択なのだからどちらにしろ時間の問題だったのかもしれない。

「……っ!うぉお゛えッ」
「そっちの方はまだまともだったか」

琥珀色の液体を流し込み、そして秒で吐き出した。これ本当に本物のお酒じゃん。いや、当然なんだけど。酒に弱いというわけではないが流石に原液のラッパ飲みは食道が焼け体が拒絶した。こんな私にもまだまともな防衛本能が残されていたようだ。

「げほッごほ、……あ゛ー辞めるんなら送別会くらいさせて欲しかったです。そしたら馬乗りになってあいつらの口に酒瓶突っ込んでやったのに」
「お前いい女になったな」
「あははは師にお褒め頂くなんて光栄です」

口の中の唾液をかき集め地面へと吐き捨てる。喫煙所が大分酒臭くなったがきっと数時間後には雨がきれいさっぱり流してくるであろう。

「そんなお前にいい知らせだ。一時的だがバディを用意した」

口元を拭って顔を上げれば真っ黒な瞳がこちらを見下ろしていた。私が姿勢を正せば今までで一番長く息を吐き出す。そして火がついたままのそれを吸い殻入れへと放り投げた。ジュ、という鈍い音の後に細い煙が一筋上る。

「いらないですよ。どうせすぐ死んじゃいますし」
「馬鹿言え、バディは組むのが基本なんだよ」

自分だっていないくせに。まぁ岸辺さんほどの自力があれば逆に足手まといなのかもしれない。それと噂によると昔のバディを忘れられないらしい。でもその事は何度聞いてもはぐらかされるので誰も真相は知らない。

「分かりました。でも魔人はお断りですからね」
「安心しろ俺の弟子だ。若ぇが腕は立つ」
「それはつまり面倒見ろってことですか?」
「そうとも言う」

そっちが本命じゃん。生憎、こちらに若手指導をしている余裕はない。今の私が言えることは精々自分の身は自分で守れってことくらい。まぁ岸辺さんの弟子ならそのくらいは最低限できるだろうけれど。

「死んでも私に文句言わないでくださいよ」
「そんな軟な奴じゃねぇよ。今も先に荒川の事件に行かせてる」
「荒川?」
「あ?言ってなかったか?荒川の住宅街で悪魔が立てこもり事件起こしてるって」
「聞いてないですけど?!」

ポケットの中を探れば煙草の箱と車の鍵が出てきた。これなら部屋に戻らず直ぐにでも車を出せる。岸辺さんを見れば流暢に二本目の煙草を取り出していた。そしてこちらに手を伸ばす。しょうがないなぁ。でもいいか、もう私には必要ないし。ウィスキーを勝手に飲んだお詫び兼ねてジッポを渡した。

「おい、ライター」
「もういらないんで差し上げます」

代わりに煙草の箱は握りつぶしてポケットの奥へと仕舞い込む。曇天の下駆け出せば雫が一つ鼻に落ちた。そういえばあの日も今日みたいな息が詰まるような空をしてたっけ。

鼻から湿った空気を吸い込めば紫煙が詰まった肺が痛みだす。
それに気付かぬふりをして一人車に乗り込んだ。





小雨が降る住宅街のど真ん中で堂々と違法駐車をする。場所が場所だけに野次馬も多いかと思いきやそこまで人は多くなかった。すでに警察が追い払ったのだろうか。その理由は分からないが規制テープの張られた民家まですんなり辿り着くことが出来た。

「すみません、遅くなりました」
「あっお疲れ様です」

ちょうど近くにいたのが顔なじみの警察官だったのもあり、あっさり中に入れてもらえた。しかし、悪魔がいるというのに随分と静かだ。ただ冷静に考えてみると今回の悪魔は立てこもりを実行するだけの知能、あるいはそれだけの力があることが予想される。となるとこの静寂も怖いくらいだ。

「中の状況は?人質はいますか?」
「それが悪魔は既に死亡が確認されていまして…」
「え?」
「民間のデビルハンターを名乗っているのですがあの人をご存じですか?」

警官の視線の先を辿れば黒髪の青年が一人。その子は別の警官二人に挟まれて質問をされているようだった。民間のデビルハンターとも何度か任務に当たったことはあるが見覚えはない。

「この件は公安のデビルハンターに対処命令が出されていた悪魔だ。何故、民間のキミがここに?」
「一時的に支援するよう言われてるんです。公安の岸辺という男に確認してもらえば分かります」
「本当か?偶に公安のヤマを横取りする民間がいるんだよ」
「失礼、公安のデビルハンターの者ですが」

手帳を見せ名乗り出ながら三人の間に割り込んでいく。私の登場に警官二人は軽く頭を下げる。その中で彼らの頭一つ分高い青年と目が合った。髪と同じく真っ黒な瞳に服の上からでも分かる体格のよさ。どことなく上司と雰囲気が似ている。その姿を見て先ほど教えてもらったばかりの名を口にした。

「もしかしてキミが吉田ヒロフミ君?」
「はい」
「お知合いですか?」
「ええ、実は今日付けで公安で雇うことになったデビルハンターなんです」
「そうなんですか?こちらに報告は上がってきていませんが……」
「急なことで現場にまで伝達ができていなかったようです。ご迷惑をお掛けしすみませんでした」

私が頭を下げれば渋々納得のいったような顔をして立ち去っていった。岸辺さんも現場に行かせるならその手の申請と根回しくらいはしておいてほしかったな。いくらデビルハンターとして強くて有名であっても所詮は公務員なのでやることやらないと周りがうるさいのだ。

「ありがとうございます、助かりました」

小さくため息をついた横で青年が頭を下げる。どうやら最低限の礼儀はわきまえているらしい。逆に食って掛かろうものなら突っぱねてやったのに。調子が狂う。

「いや、こっちもついさっき貴方が来ることを知ったからね。配慮できてなくてごめん」
「ということはアナタが俺とバディを組んでくれる人ですか?」
「あぁ、うん」
「じゃあ改めて吉田です。よろしくお願いします」
「……よろしく」

差し出された手に躊躇いがちに触れればグッと力を籠められ数秒間の握手をする。変な子、というのが正直ここまでの感想だ。少なくとも言うことは利いてくれそうだが扱いづらそうではある。口元は笑っているのに目が死んでいるのがその証拠。

「雨強くなってきましたね」

鬱陶しいくらいの小雨が次第にザァザァ降りへと変わっていく。寧ろこの時間までよく持ち堪えたなと言いたいくらいだった。さすがにこれ以上雨脚が強くなるのが分かっていてこの場にいる気はない。とりあえず先ほどの悪魔の事を聞くためにも彼を車へと案内した。

「で、さっきの悪魔は吉田君が一人で倒したの?」
「はい」

フロントガラスには雨が打ち付けている。あと三十秒でも車内に入るのが遅れていたら二人揃って濡れ鼠になっていただろう。ジャケットに着いた雨粒を手で払いながら私は質問を続けた。

「何の悪魔だった?」
「鏡の悪魔ですね。手こずりましたけどまぁ何とか」
「さすが岸辺さんのお弟子さんだね」
「それはそっちもでしょう?」

湿った髪を鬱陶しそうに手で払いながらこちらを向く。一瞬だけ目が合うが直ぐに逸らして車のキーを差し込んだ。エンジンをかけシートベルトを着けるように促す。

「私の事聞いてたの?」
「えぇ。育てた犬の中じゃあ割と長生きな方だと」
「それは照れるね」

部下に対する言い方よ。そしてそれを直接本人に言ってくる彼自身にも驚きを隠せない。まぁこれくらい図太い神経の持ち主なら簡単には死なさそうだな。現に実力はあるみたいだし。

「身近い期間ですが色々と学ばせてもらえればと思っています」
「私が教えられることなんてないよ。それより仕事として来てるんだからちゃんと働いてよね」

周囲の安全を確認してアクセルを踏む。とりあえず公安に戻ればいいか。悪魔を倒したんならその事務処理もしないといけないし。デビルハンターと言えども事務仕事もそれなりにやらねばならないところが残業の原因の一つでもある。

「分かってますって。ところでまずはバディとしてお姉さんに——」
「先輩ね」
「……あぁ、先輩に聞いておきたいんですけど何の悪魔と契約してるんですか?」

なんか距離感近いなぁ。熱血系よりはマシだけどこの青年の見た目といい、結構女引っかけてそう。彼のプライベート何て知ったことではないが仕事以外ではできるだけ関わりたくないな。

「それは岸辺さんから聞いてないんだ」
「さすがに」
「じゃあ教えない」

右折レーンに入り赤信号で止まる。外が暗いせいで夜でもないのに皆がヘッドライトを付けている。対向車線の流れる白色の光が車内を外よりも明るく照らしていた。

「何故ですか?」
「契約している悪魔を教えるだなんて自分の手の内を明かすようなものじゃない」
「俺達バディじゃないですか」

笑いを含んだ彼の声に、こいつは食えない奴だなと嫌みの一つが浮かぶ。人を馬鹿にしているわけではないようだが腹の内を見せないこの感じ。こちらが信頼を寄せるにはまだ早い。

「じゃあそっちの契約している悪魔を教えてよ」
「秘密」

ほらね。彼もまた友好的に見えてこちらを信頼していない。でもそれが特段不快に感じるわけでもない。寧ろ似た者同士。だからこそ岸辺さんは私のバディに彼を選んだのだろうか。

「まぁ別に何でもいいんだけどさ。私が言えることは一つ」

信号が代わり弧を描くようハンドルを切る。雨が強く視界が悪い。こちらが目を凝らして前を見ているというのに隣からの視線のせいで気が散って仕方がない。だから前の車のテールライトを睨んだまま口を開いた。

「自分の命は自分で守って。悪いけど貴方の面倒までは見切れない」

隣からフッと息を抜くような声が聞こえ車内の空気が緩む。相変わらず窓ガラスには雨が打ち付けていて煩いというのに一瞬、無音になったような気がした。横目で彼を盗み見れば分かっていたように目が合ってそれがまた面白くなかった。

「足手まといにはなりませんよ。それに俺はバディとしていますから先輩の背中も守ります」
「随分と男前だね」
「男ですから」

私が鼻を鳴らせば彼もまた笑う。既に調子は幾度となく狂わされてきたがだいぶ慣れてきた。ともなれば少なからず情も湧いてくる。もうこの交差点を曲がれば公安へと辿り着く。そしたらもうこの子は帰してあげられない。だから忠告と我儘を言った。

「死なないでね」

切実に、そう願う。目の前で何人の人間を助けられなかっただろうか。仲間は数えきれないほど亡くなった。バディはもう五人死んでいる。墓参りの数が増えるだけ眠れない夜が続く。だから私は一人でよかったのに。

「結局二つ言いましたね」

この可愛げのない青年のせいでそれは叶わない。期間が終わるまで、どうかその瞳は黒いままであって欲しい。でも今まで組んできたバディの中で一番デビルハンターの見込みはありそうだ。





バディを組んだからと言って付きっ切りで行動を共にするわけではない。公安の人間であれば話は別だが彼はあくまで民間のデビルハンター。だから派遣的な形で働いている。夕方から夜にかけては頭数としてシフトを組んでいるが、あとは緊急の呼び出しをしない限りこちらには来ない。



「じゃあ今日が二人揃っての初任務ね」

そしてついにバディとしての仕事がやってきた。解体工事中の現場で肝試しをしていた若者から悪魔が出たとの通報があった。目の前には工事用シートを被った建物がひっそりと佇んでいる。

「緊張しますね」
「全くそんな風には見えないけど」
「ならよかった」

夜の作業を想定していない現場には電気も通っていなければ明かりもない。だから月明かりくらいしかないこの場所で口元にだけに笑みを添えた彼は不気味であった。

「よろしくお願いします」と続けられた挨拶に、こちらこそと返事をし中へと入る。もってきた懐中電灯で中を照らせば仕切りもない空間が広がっていた。そして天井を見ると小さな看板がいくつか吊るされている。どうやら元はスーパーだったようだ。

「手分けしますか?」
「いや、二人で行動しよう。この様子だと奥のバックヤードの方にいるだろうから」

建屋としては大きいが部屋数が多いわけでもない。何もないフロアを突っ切りシルバーの扉を押し開け従業員用の通路を歩いていく。搬入口の方まで来たが鼠一匹見つからなかった。

「悪魔と出会ったら俺が前に出ればいいですか?」
「何言ってんの。後衛で私の支援だよ」
「支援って言っても先輩の戦い方を知らないのでどうフォローすればいいのか分からないですよ」
「こっちだって吉田君の悪魔を知らないんだから下手に出させらんないよ」
『やァっと飯の時間ダ』

反射的に飛びのいて一撃目を交わす。手に持っていた懐中電灯は宙を舞い回転しながら四方を光で照らした。一瞬見えた悪魔の体調は三メートルほどで顏は昆虫のそれだった。

「蔦」
「蛸」

悪魔の中でも生理的に無理な風貌だったので一気に片を付けようと思った。しかしそう思った人物がここにもう一人いたらしい。二つの声が重なった。

『アぎャ?!ぐッ……アアア!!』

闇の中から伸びた無数の蔦と蛸の脚。それが悪魔の体に絡みつき絞め付けていく。その脚の根元を目で辿れば吉田君の姿があった。どうやら蛸が彼が契約している悪魔らしい。初めて見る悪魔だ。

「そのまま絞め上げて」
「はい」

しかしいつまでも感心しているわけにはいかない。蛸の脚が絡む隙間を縫って蔦を巡らせる。そして悪魔の口の中に差し込み核の場所を探していく。おそらく肺の入口、そこを突いた瞬間甲高い声を上げたので迷うことなく蔦の棘を食い込ませた。

「植物の悪魔ですか?」

床に崩れ落ちた悪魔の生死を確認しに出口へと歩いていれば案の定そう聞かれた。こちらだけが教えるのは面白くないが今回で彼の契約している悪魔は知れた。それに意外と動ける事も分かったしもう隠すつもりはない。

「ちょっと違うよ。薔薇の悪魔」

悪魔の死亡を確認。現場は派手に汚したが物は壊していないので良しとしよう。器物破損をすると書類が一つ増えるので割と気を付けていたりする。

「なるほど、だから先輩って甘い匂いがするんですね」
「っ?!」

生温かい空気が当たり思わず首筋を抑える。振り返れば目と鼻の先に彼がいて驚いた。というか全く気配がなかった。まさか背後を取られるだなんて。

「急に近づいてこないでよ」
「すみません、良い匂いだったのでつい」
「それって口説きの上等文句?」

シッシッ、と手で追い払う仕草をして出口へと向かう。本当は駆け出して置いてってやろうかと思ったけど意識しているそぶりを見せるのが嫌でやめた。そして彼はお構いなしにと隣に並んできた。

「まさか」
「怒らないから本当の事言ってみなよ」
「本当ですよ。ただ初めて会ったときはヤニ臭い人だなって思いました」
「先輩にはもう少し気を遣った方がいいよ」
「言ってること矛盾してません?これが俗に言うパワーハラスメントってやつですか?」
「社会の厳しさを教えてやってんの」

現場を後にして近くにあった電話ボックスに入る。悪魔を倒したことを報告し後処理をお願いした。そしてもう一度掛け直し今度は岸辺さんに掛ける。今日は意外にも早く繋がり三コールで出てくれた。

『どうだった?』

堅苦しい挨拶なしの第一声。口調こそいつも通りだが連絡を待っていたことは何となく分かった。

「無事に終わりましたよ」
『アイツは使えそうか?』
「残念ながら使えそうです」
『だろぉ?』

人の恐怖が悪魔の餌となる、だから頭のネジをぶっ飛ばして悪魔が理解できぬデビルハンターになれと師は言う。しかし実のところこの人は誰よりも人間臭くて情に厚い。そうでなければ愛弟子の初任務後に連絡を入れろだの言ってこない。

「まぁ……さすが先生の弟子ですね」
『おーその調子で上手くやってくれ。あとついでに社会人としての教養も教えといてくれ』
「なんで私がそこまで」
『上司の言うことは絶対だろ?』

これが俗に言うパワーハラスメントか。忌々しい縦社会に奥歯を噛み締めていれば外にいる吉田君が視界に入る。そしてこちらの様子に気付いたのか自身を指して「俺?」と口を動かした。いえ、お呼びでないです。

「本音と建前くらいしか教えられませんよ」
『それでいい。だから今から飯でも行って来い』
「はぁ?」
『先輩らしく奢ってやれよ』
「ちょっ…!」

不快な電子音だけが耳に残る。あーあ、言い逃げされた。でも確かに初任務を終えた日は先輩に飲みに連れて行ってもらったっけ。

「報告終わりました?」

電話ボックスから出るとすぐそばに吉田君はいた。今のところ言うことは聞くし十分使える。まぁ食えない奴だとは思うけど。

「うん。あのさ、」
「はい?」

首をやや傾けた様子からは従順さが窺える。だけど私は知っている。彼が私と岸辺さんの今の会話を聞いていたことを。

「今からご飯行かない?」

分かっていたであろう誘いに、彼は当然の如く頷いた。





手ごろな大衆居酒屋の暖簾を潜れば賑やかしい声が飛んでくる。満席状態で追い返されることも懸念したがちょうど客が入れ替わる時間帯ですんなりと席に通してもらうことができた。店奥のテーブル席へと通されて向かい合って腰を下ろす。先に吉田君にメニュー表を見せたのだが「何でもいい」と言われたので適当に頼むことにした。

「大根サラダとだし巻きと唐揚げ、あと焼き鳥の盛り合わせ。飲み物は生ひとつと…吉田君は?」
「ウーロン茶で」
「私の奢りだから気にせず飲んでくれていいのに」
「大丈夫です」

最近の子はあまり飲まないと聞いてはいるがそれは本当のようだ。普段の飲みなら若い奴なら率先して飲め、なんていう嫌な風潮があるが公の場でもないし無理強いはさすまい。
そして早々に運ばれてきたお通しを前にして一杯目のグラスをかち合わせる。「お疲れ様」と声を掛け合い居酒屋特有の喧騒の中で酒を煽った。

「はい、どうぞ」

運ばれてきたサラダを吉田君が当たり前のように取り分ける。これも岸部さんの指導の賜物かと一瞬目を見張るが自分は二日酔い時のゲロの吐き出し方しか教わらなかったことを思い出しそれはないなと考えを消した。

「吉田くんってさ、」
「はい?」
「彼女いるの?」

そうとなれば女の線を窺うしかない。彼のプライベートにさして興味はないが酒の席での話題はやはりこの手の物に行きつく。それに一般人も利用するこの店で仕事の話をするのも憚られるしな。

「そんなに俺に興味があるんですか?」

彼は小皿を片手で持ち、行儀よく食べながら私を見る。その瞳は僅かに三日月型に細められており、内心で揶揄っていることが窺える。でもそんな小さなことに癇癪を起す気にはならない。手元のグラスを傾け、彼の遊び≠ノ乗ることにした。

「あるよ。だって吉田君ってかっこよくて強くて紳士的じゃない」
「そう思われてるんなら光栄ですね」
「だから彼女の一人や二人いるんじゃないの?」
「生憎いません」

取り分けた分を食べ終えた彼は再びトングへと手を伸ばす。私もおかわりはどうかと聞かれたがまだ残っていたので断った。その取り分ける様子を見ながら踏み込んでいく。

「そうなんだ。でもモテるでしょう?」
「全然モテないですよ」
「うそだぁ」
「本当です。それに今気になっている人には意識されていないですし」

取り分けたサラダもそのままに顎に手を添えてじっとこちらを見てくる。思わせぶりと捉えれば可愛らしいが、遊びに付き合っている身としては嫌みにしか聞こえない。だからこそ残り半分だったジョッキの中身を空にして微笑んだ。

「そっか、いつか振り向いてもらえるといいね」
「ですね」

通りすがりの店員さんに生ひとつと灰皿を頼む。彼のウーロン茶は三分の一ほどしか減っていなかったので声は掛けなかった。私の二杯目が運ばれてくるのと同時に他の料理もテーブルに並んだ。

「先輩はいないんですか?」
「何が?」
「彼氏」
「いないよ」

灰皿を手繰り寄せハタと気付く。そういえば喫煙したんだった。どうやら染みついた癖というのはそう簡単には消えないらしい。恥ずかしく思いながら灰皿をそっと隅に寄せるが目ざとい彼はそれを見逃さなかった。

「煙草なら吸っていいですよ」
「いや、大丈夫。もう止めたの」

焼き鳥のモモを一切れ抜き取り口の中へ。気まずさと吸えないストレスを誤魔化すように咀嚼する。吉田君も料理をいくつか自分の皿に移して口に運んだ。そして食べる合間にも会話は続いていく。

「そうなんですか?結構なヘビースモーカーだと思ってたのに」
「なんでそう思ったの?」
「車のシートに匂いが染みついていたので」
「うわぁ…ごめん」
「別にいいですよ。デビルハンターの人ってよく煙草吸いますし」

確かに周りもニコチン中毒者ばっかりだったな。同期の早川も知らない間に喫煙者になってたし。煙草が吸えるようになってようやくデビルハンターのスタート地点に立てたのだというおじさん連中もいる。それほどまでに喫煙者は多い。

「まぁね」
「先輩はどうして吸うようになったんですか?」
「うーん、憧れかなぁ。映画とかで女の人が煙草吸ってるのとかなんかかっこいいじゃん」
「へぇ。俺はてっきり男の影響かと思ってました」

ひと口かじった唐揚げを小皿の上に転がしてこちらを見る。それに対し、私は僅かに動揺してしまった。ジョッキを持ち上げた手が震え食器に当たり割りばしが床に落ちる。それを吉田君はなんて事のないような顔で拾い上げ空の皿の上に置き、私に新しい物をくれた。

「ありがとう」
「図星ですか?」

親切にした代わりに教えてくれと言ったその顔に、こちらとしては渋い顔をするほかなかった。それを見て勝ち誇ったように笑う彼は自身のグラスを傾ける。そして近くを通った店員にウーロン茶とビールを注文した。

「あたり」

ここまでされたら敵わない。観念したように答えれば「やっぱり」と当然のように笑って見せる。ここまでくると憎たらしさよりも茶目っ気が勝って見える。新しい飲み物が運ばれてきたこともありそのまま言葉を続けた。

「昔の男の影響だよ」
「どのくらい前ですか?」
「二週間前」

だし巻き卵に添える大根おろしに醤油は掛ける派。だから醤油瓶へと手を伸ばそうとすればそれを察知した様に目の前へと運ばれた。お礼を言って白い山へ茶色い水滴を滴らせる。そういえばこれもあの人の影響だったな。

「昔って言うには早すぎません?」
「そうかな?でももう死んじゃったしね」

あっしまった。パッと顔を上げれば無表情な彼と目が合う。しかし真っ黒な瞳が僅かに揺らぎ、気まずい思いをさせたことを悟る。こういうのは話している本人よりも聞いている人間の方が敏感になる話題だった。

「すみません」
「あーごめん!ほらこの世界にいればこんなことザラだし私はもう過去として受け入れてるから気にしないで!」

食べて食べて、と料理の皿を押し付ける。吉田君はだし巻きを一切れ摘まみ自分の皿へと移動させた。そして何もつけずに半分に割って口に運ぶ。その様子を見ながらまた一つジョッキを開けて次にハイボールを注文した。

「それって前のバディの人ですか?」

新しいグラスが運ばれてきたタイミングでそう聞かれた。そうだよ、と答えてからハイボールで流し込む。ひんやりとした炭酸が胃をまた刺激した。

「その人とは一年くらい組んでたかな。過去のバディの中じゃ最長だったね」

私の一年先輩で、互いに同時期にバディを失ったものだから組むのも必然だった。そして付き合い出したキッカケは今思い出しても笑ってしまう。初任務で互いの足を引っ張り合い居酒屋で反省会という名の大喧嘩をした結果、朝チュンしてた。朝起きてホテルの一室で互いの素っ裸を見た瞬間、阿保みたいに笑ったっけ。

「もしかしてその人、埼玉との県境で起きた山火事で死にました?」
「よく分かったね」
「あんな大規模火災を『大型トラックによる事故』で片付ける方が変ですよ」

報道としてはそう処理されたがもちろん悪魔により引き起こされた火災だった。それは民間人への悪魔への恐怖心を抑制させるための一種の報道規制。実際のところ彼の他にも数名のデビルハンターが亡くなった。

「私もあの場にいたんだけどね。役立たずで前線から下げられちゃったから運よく生き延びれたんだ」

全身に炎を纏っている悪魔だった。となると薔薇の悪魔と相性が悪い。だからバディとして隣に立つこともできずに、次に再会を果たした時には彼は灰になっていた。

「もしかして負い目でも感じてます?」
「実はね、笑っちゃうことにそれは全く感じてない」

私が乾いた哂いを漏らせば彼もまた笑う。こんなことで一々責任を感じていたら私はとっくに鬱になってそれこそ辞表を出している。ただ一つだけ彼に謝りたいことがあるとするなら、亡くなったと分かってもその死に涙することができなかったことだ。彼の葬儀は無声映画のようにつまらないもので気付いた時には終っていた。

「それはよかった。傷心により動きが鈍って後からザックリ、なんてのは嫌ですからね」
「あれ?私の背中は守ってくれるんじゃなかったの?」

別に大した期待もしてないけどね。アルコールの息を吐き出しながら笑えば不服そうな顔をされた。と言っても表情の差分は僅かだ。でもなんとなく、彼の感情が読み取れる様になってきた。

「例え話ですよ」
「そっかぁ。じゃあもし本当にそうなったら吉田君は負い目を感じてくれるのかな?」
「そうですね、先輩が死んだら声上げて泣いてあげますよ」
「じゃあ少しでも大きな声で泣いてもらえるよう可愛がっておかないとね」
「ん、」

生意気に青年の口に焼き鳥の串を突っ込んだ。



会計をして店を出た。時刻は二十三時を過ぎたあたりだが土曜の夜とあって繁華街は多くの人で賑わいを見せている。頬を撫でる夜風は生温く夜がまだ長いことを教えてくれた。

「どうする?もう一軒行く?」

久しぶりに明日はまともな休みだ。公安は通常日曜休日だがここ一ヵ月余りはまともに休みも取れていなかった。だから今夜は明日の事は何も考えずに酒が飲める。

「いえ、俺はもう帰ります」
「なんで?終電気にしてるの?」
「週明けにテストがあるので」
「テスト?」

テストってあれか、免許の試験の事か?それならお酒を飲まなかったのも納得がいく。しかしそう聞けば首を横に振られた。そして次に発せられた言葉に私の心臓は止まった。

「出席日数ギリギリなんで赤点取ったらまずいんですよね」
「ちょっと待って。もしかして学生だったりする?」
「はい、現役の高校生です」
「は…………?」
「高校生」

脳内に宇宙が広がった。そして「高校生」というワードが何度もリフレインする。自分より年下である事は分かっていたが高校生?この顔、この風貌で高校生?え、普段は学ランかブレザーで路上を歩いてるの?

「それは些か笑えない冗談だね」
「本当ですよ」
「いやいや、まさか……」
「学生証見ます?」

返事を言わずして膝から崩れ落ちた。今時の高校生の実態を舐めていた。というか吉田君が特殊事例なのか。こんな色気溢れる未成年者がいて堪るか。そして岸部さん、予めこういったことは言っておいてくれませんかね、本当に。

「大丈夫ですか?」
「こんな高校生がいるだなんて……世も末だ」
「少し待っててください」

念仏のようにブツブツと呪文を唱えだした私を置いて吉田君はどこかへ行ってしまった。
それからどのくらいの時間が経ったかは分からないがまた戻って来た。見覚えのあるスニーカーが視界に映り込み手の甲までもが見えた。顔を上げれば目の前には同じようにしゃがみ込んだ彼の姿。そしてビニール袋の中から水のペットボトルを取り出し蓋を開けてこちらに渡した。

「飲み過ぎですよ、どうぞ」
「ありがとう」

決して酔っぱらっているわけではないのだが差し出された水は有難く受け取る。冷えた水が胃の中に流れ落ち、それと同時に頭もクリアになっていく。清々しい反面、その脳内に流れてくるのは高校生というパワーワード。あー煙草吸いたい。

「あとこれ」

次に差し出されたのは棒付きの飴だった。チュッパ チャップスなんて何時ぶりに見ただろうか。包装紙も巻かれていないそれは茶色の色が混じっていた。

「煙草の代わりには飴がいいらしいですよ。本当はハッカが一番いいみたいですけどなかったんでコーラ味で」
「ふぅん」

生返事で受け取ろうとするも、どういうことか棒を離してくれない。なんでだよ、と睨めば鼻先まで飴が近付けられた。先輩を馬鹿にしやがって。でもその飴がひどく美味しそうに見えたので恥を捨てて喰いついた。

「どうですか?」
「まぁ悪くはないかな」
「よかった。立てます?」

そう言って先に立ち上がった彼が手を差し伸べてくるが完全無視して立ち上がる。これ以上、酔っぱらい扱いされるのは御免だ。そうすれば「大分良くなりましたね」なんて白々しく言ってきて。本当に扱いづらいったらない。

「お陰様でね。じゃあ今日は解散で」
「先輩はこの後どうするんですか?」
「一人で飲み行く」

最近は顔を出す機会も減ってしまったが行きつけのバーがある。そこならお一人様であってもさして気にならない。テスト頑張ってね、と片手を振って立ち去ろうとすれば「それは困るなぁ」と大層棒読みな台詞が私の足を止めた。

「なにが?」
「もう夜の十一時を超えてるじゃないですか」
「そうだね」
「となると補導の対象になっちゃうんですよね」

高校生なんで、とまたもパワーワードに頭を殴られる。だとしてもその見た目なら声かけてくる警官はいないだろうとツッコミを入れたくなるがこの時間まで連れ回したのは私だ。もし本当に補導されたときに私の名前でも出されてしまえば確実にアウト。

「じゃあこれで」

財布の中から一万円札を取り出す。タクシーで家の前まで帰ってもらえば問題ないだろう。しかしそう伝えてお札を押し付けるも受け取ってくれない。そしてあろうことか何故かそのまま私の手首を掴んだ。

「ちょっと何すんの」
「タクシー乗り場の前に交番があるんです。だから一人だと困ります」
「じゃあ広場前の大通りで拾いなよ」
「あそこって実はタクシーの営業区域外なんですよ。公安の人がそれを進めていいんですか?」

頭が切れて弁が立つ奴ほど面倒くさい者はいない。そしてそれが吉田ヒロフミという男である。こちらが何も言い返せないと分かればそのまま手首を引っ張られる。始めこそ散歩を嫌がる犬の如く抵抗していたが敵わないと分かり早々に諦めた。

「もう分かったから離してよ」
「酔っぱらいを一人で歩かせるのも危ないんで」

良くなりましたねって言ってきたくせに。しかしそれを言うのも面倒くさくなり不満をぶつけるように奥歯で飴を噛み砕いた。初めて食べたコーラ味は悪くなかった。

音を立てて噛み砕きながら前を歩く背中を見る。
食えない奴ではあるが意外と頼りになったなと、彼の事を認めた自分がいた。