同じクラスの吉田君から悪徳勧誘を受けました

授業間の僅かな休み時間、次の授業もそのまま教室で行われるため皆穏やかに過ごしていた。

「お願いだから聞いてきてよ!」
「嫌だよ自分で行きなよ!」
「だって恥ずかしいじゃん!」
「私だって恥ずかしいよ!」

しかし一転して廊下はこんな具合で騒がしかった。彼女の視線の先には机の上で突っ伏している黒髪の男子生徒が一人。中学からの同級生である彼女は彼が登校してきたという噂を聞きつけわざわざ私のクラスまで足を運んでいた。

「同じクラスなんだしいいでしょ?」
「だって話したことないもん。それに今寝てるみたいだし」
「ちょっと起こしてチラッと聞いて来てくれるだけでいいからさ!」
「その難易度の高さ分かってないでしょ……」

それならせめて起きてる時に、と思ったが彼の場合は早退するという可能性も大いにある。遅刻、早退、欠席はかなり多く、朝から来ている今日は恐らく転校して来てから三度目くらいのことだった。

「学校に来てるだなんて早々ないんだからさ、だからお願い!」
「えー……」
「この前忘れた教科書貸してあげたよね?」
「それはそうだけど」
「小テストの山も教えてあげたよね?」
「うっ……」
「あとは——」
「分かったって!」

日頃お世話になっている身としては友人のお願いを無下には出来ず自身の教室に足を踏み入れる。そして窓側前から三列目の席まで辿り着けば風に吹かれた黒髪がふわりと揺れた。その髪を見つめながらどう起こそうかと考える——でもやはり迷惑だろうと判断し友人のもとへと戻ろうとしたところでその上半身がゆっくりと持ち上がった。

「……何?」
「あっごめん、起こしちゃった?」
「別に。何か用?」

目元に影を落とし瞬き三回。上から見下ろすことで意外にも長い睫毛であることを知る。そして真っ黒な瞳が私へと向けられた。

「えっと、ちょっと聞きたいことがあって」

つい最近転入してきた吉田ヒロフミ君はかっこいい。それは初日にクラスに入ってきた瞬間に女子たちの黄色い悲鳴が上がるほどだった。ただ本人はというとそういったことに関心がないようで基本的に物静かで、そして体が弱いのか休みがち。友達がいないわけでもないようだが積極的に関わろうとしている姿を見たことがない。だからか同い年の男子よりも大人びていてミステリアスに見え、その雰囲気がさらに女子人気を加速させていた。

「どうぞ」

しかし私はというと正直苦手だった。だってミステリアスって聞こえはいいけど何考えてるのか分からないってことでしょ。実際に今だって起こされて怒っているのかどうかも分からない。そうなると私も出方に迷う。それにいくらなんでもピアス付け過ぎ。

「物凄く大したことじゃないんだけどね」

そこで言葉を区切り吉田君を盗み見る。彼はやはり眠たいのか怒っているのかよく分からない表情でこちらを見ていた。黙ったまま、じっと。その視線から逃げるようにして詰襟へと目を滑らす。彼は同学年でも珍しく正しく制服を着ていた。

「吉田君って彼女とかいる?」

授業が始まるまで五分を切った。教室内には先ほどよりも人が増えたように思える。現に吉田君の後ろの生徒はすでに着席をしていた。だから周囲には聞こえない程度に、でもはっきりとした発音で訊ねた。

「どうしてそんなこと聞くの?」
「友達が知りたがってて」

質問に質問で返されるとは思ってもみなくやや声が上ずる。おまけに手はじんわりと汗で滲んだ。私は黙ったまま彼の言葉の続きを待つ。そうして心の中で五秒カウントしたところでようやく答えが返って来た。

「いないよ」
「そうなんだ」

これは今気付いたことなのだが吉田君は人の目を見て話すタイプらしい。これに関してはその方が誠実だし、寧ろマナーだとは思う。でも私は苦手。それは吉田君だからとかじゃなくて女友達であってもそうだった。どこか気恥ずかしさを感じてしまう。だから私は人と話すとき、その人の首や胸元を見て話す。

「それだけ?」
「あ、うん」

そしてこの時、私は吉田君のことが苦手であると再認識した。これで会話は終わりであろうと分かりきっているはずなのに未だにこちらをじっと見てくるのだ。いや、私の方がさっさと退散すべきかもしれないが、それもそれで失礼なのでは?と過剰適応してしまう。

「吉田君、飴食べる?」

ポケットの中に手を突っ込んで常備している飴を取り出す。いつもは二種類くらい持っているけれど昨日ほとんど食べてしまったので一つしかなかった。
彼の返事を待たずしてイチゴの絵柄が印刷された包みをころん、と机の上に転がす。

「これあげる。変なこと聞いてごめんね」

授業開始のチャイムが鳴った。それに助けられ急いで自分の席へと戻る。友人はすでに廊下にいなく、昼休みにでも報告しに行くことにした。

廊下側の一番前の席に着くと同時に先生が教室に姿を現す。英語は来週小テストがあるからちゃんと授業を聞かないと。しかしどこからか感じる視線に、どうにも集中することが出来なかった。





家に帰って洗濯物を取り込んで、夕食のカレーを作っておく。数時間後に家を出る母を起こし、自分の胃は一先ず賞味期限切れの食パンと牛乳で膨らまして家を出た。

「おはようございます」
「おっちょうどよかった!来て早々悪いんだけどそこのビール瓶外出しといてもらえる?」
「分かりました」

そして向かった先は新宿雑居ビルに店を構える居酒屋だ。うちの学校では禁止されているが実はここでバイトをしている。仕事内容は主に皿洗いと簡単な料理の盛り付け。開店時間から高校生が働ける二十二時までの間おおよそ週四で働いている。

「今月はほぼ毎日シフト入ってるけど平気か?」

店の営業は十七時から。来客に備えてお通しの料理を小鉢に盛り付けていたところで店長に声を掛けられた。私が高校生だと知り、ホールには出さずに裏方専門として雇ってくれたいい人だ。ただし校則でバイトが禁止になっていることは話していない。

「大丈夫です。来月に備えて稼ぎたいので」
「あー弟さんの誕生日だっけ?」
「そうです!」

父親は早くに他界し、母親が夜の仕事で生活を支えてくれている。家族三人なんとか生活は出来ているがお金はいくらあっても困らない。それに五つ下の弟にはひもじい思いをさせたくないという姉心があった。

「誕生日ケーキとプレゼントを買ってあげたいんです」
「きっと喜んでくれるよ」
「はい!」
「四名様入りまーす!」

厨房に声が響き来店を知らせた。今から約五時間、お金を稼ぐために今日も働く。今話題のドラマを見ることも、ゆっくり食事をとることも、学校の友達と放課後遊ぶこともできないけれどこの生活が苦だと思ったことは一度もない。これが私の日常。



お客さんの入れ替わり時間である二十一時過ぎになると洗い物が溜まってくる。ささくれた手でスポンジを持ちグラスから順に洗っていく。そうして半分ほど洗い終えた頃、店先から物凄い音が聞こえて来た。

「悪魔?!いや、魔人!魔人が出たぞ!」

物が壊れる音と人々の叫び声。どうすればいいのか分からず呆然としていれば「逃げるぞ!」と店長に背中を押され裏口から外に出た。

店の外は大分騒がしく隣の店先からは黒い煙が立ち上っていた。近くにいた人たちの話を聞くに、魔人は建物の中へと入っていったらしい。しかし既に誰かが通報したらしくすぐにデビルハンターが来てくれるのではないかとのこと。

「ここも危険です!一般市民の方は下がってください!」

先に到着した警察官に大通りの方へと誘導される。しかし身一つで飛び出してきた私はある事に気付いてしまった。まずい、お財布ロッカーに置いてきた。あの中には今月の生活費が入っている。もし隣の店の火が燃え移りでもしたら紙幣も灰になってしまう。

「おい、キミ!」

警察官の脇をすり抜け、裏口に向かって駆け出した。



棚は倒れビール瓶は砕け散り、辺りはアルコールの匂いで満ちていた。そしてやや焦げ臭いものの火の手は回っていないようだった。今がチャンスかもしれない。足音は立てぬよう気を付けながら急いで店の奥へと向かった。

「あった…!」

ロッカーの扉はひしゃげておりこじ開けるのには苦労したが無事に財布は手に入った。あとは戻るだけだと立ち上がる。そして振り返った瞬間、息をのんだ。

『人……人間ッ』

三十代くらいの男性、でも彼の頭にはこぶのような角が生えていた——魔人だった。魔人は悪魔が人間の死体に憑依した存在。悪魔より強くはないがその性質は同じ。つまり人を襲ってその血を飲む。

「…っ!!」
『待テ!!』

掴んだバッグを投げつけ、僅かな隙をつき出口に向かって走った。来たときよりも廊下が荒らされている。それでもガラスの破片を踏みつぶしながら前に進む。しかしあと少しというところで濡れた床に足を取られ転んでしまった。

『ガッ?!ギャアアア!!』

後から聞こえた断末魔、びっくりして振り返れば一メートルもない先で魔人が背中から血を出して倒れていた。しばらくは痙攣した様に震えていた体も徐々に弱々しいものになっていきピクリとも動かなくなる。その様子を唖然として見ていれば暗闇の中からスッと人が現れた。

「こんなところで何してるの?」

その声色はこの場に似つかわしくないほど落ち着いていて低く響いた。彼は魔人の死体を跨いで、スニーカーの裏にその血を付けたままこちらに歩いてくる。普段は目を見て話すことはしない私だけど、このときばかりは彼から視線を逸らさなかった。

「吉田君こそ」

私のクラスメイトはいつも通り何を考えているのか分からない顔のまま私を見下ろす。そして一瞬だけ視線を後ろに投げ、ゆっくりと私の前にしゃがみ込んだ。

「アレを倒しに来た」

平然と、コンビニに行ってきたようなテンションでそう言った。だから私も同調圧力とでもいうべきか、そうなんだと無難な相槌しかできなかった。

「それでキミはどうしてここにいるのかな。警察から避難指示が出てなかった?」
「あ……」

黒い瞳を僅かに細めて私を見る。表情は変わらずに、でも口元だけが動いてその口角は僅かに上がっている。それを暗がりであり荒れた廊下で見るのは中々に不気味だった。

「お財布取りに来たの。ここ私のバイト先で」
「バイト?」

しまった、同じ学校の人にバラしてしまった。
吉田君は私を見たまま右手を顎に添える。そして数秒間黙り込んだ後、「校則違反」とぼそりと言った。

「それは吉田君もでしょ」
「え?」

バレてしまったとて学校にまで告げ口されるわけにはいかない。だから私は強気に出た。バイト先は絶賛このような有様であるが私はここを辞めるつもりはない。

「バイトしてる」

吉田君の背後、できるだけ姿を見ないようにして死体を指差した。にわかには信じがたいがおそらく彼はデビルハンターだ。となれば悪魔や魔人を倒してお金を得ているわけでその内容はアルバイトに値する。まぁ私のバイトとはえらい違いではあるが校則違反には変わりない。

「なるほど。確かにね」

手は顎に添えたまま小さく笑う。
私はこの時、初めて吉田君の顔に表情が乗る瞬間を見た。

「じゃあお互い他の人に知られたら困るわけだ」
「うん」

吉田君はそこでようやく顎から手を離して立ち上がった。そして私の目の前に右手を差し出す。その手と吉田君の顔を交互に見ていたら彼の口がまたゆっくりと開いた。

「俺はキミがここでバイトしていることを誰にも言わない。その代わり、キミも俺がやってることを他の人に言わないでくれないかな。俺達だけの秘密ってことにしてほしい」

目の前の手を取ることでこの内容に同意したことになるのだろう。でも迷う必要なんてなかった。

「分かった」

手を握れば、そのまま強い力で引っ張られた。そして勢いで立ち上がったものの私の手は未だに離されない。どういうつもりかと視線を手から彼の顔へと移せば人好きの良さそうな笑みを向けられた。

「これからよろしく」

何が?


◇ 


吉田君と互いの秘密を共有することになってしまったが、ただそれだけだ。今まで通り、ただのクラスメイト。これからも話すことなんてないだろうし、しても精々あいさつ程度。だから私の日常は何一つ変わらないんだと思っていた。



「何見てるの?」
「うわっ?!」

学校帰り、コンビニで雑誌を立ち読みしていたところで後から声が掛けられた。ここは学校から離れた場所にあり、きっと誰にも見つからない。そう思っていたのに同じクラスの彼は後ろから手に持っていた雑誌を覗き込んでいた。

「バイト探してるの?」
「なんでいるの?!」

慌てて求人情報誌を棚に戻すもしっかり中身を見られていたらしい。吉田君は前かがみになっていた背筋をピンと伸ばして私と向き合う。今日、学校を休んでいた彼は私服姿だった。

「偶々飲み物を買おうと立ち寄ったらキミの姿が見えたからさ」

だから声を掛けてくれたのか。でも私達ってそんなに仲良かったっけ?ついこの間まで教室で挨拶すらしない関係だったのに。

「そっか」
「あそこのバイト、クビになったの?」

そして想像以上にずけずけと踏み込んでくる。別に吉田君に隠す必要はないからいいんだけどね。でもなんだろう。調子が狂うというか、どう反応すればいいのか分からない。ただクビになったわけじゃないからそのことはちゃんと訂正しておきたい。

「違うよ。しばらくは休業なんだって」

お店もあの有様だ。それに隣の店の火事により、うちのビルの電気系統も合わせてダメになったらしい。だから諸々の復旧作業の関係で約一ヵ月ほど店を閉めるほかなくなった。

「だから仕事探してるの?」
「うん」

再開前までの繋ぎのバイトだから短期の仕事がいい。でも高校生で資格なし、それに入れる時間も決まっているため中々いい求人がない。これだと弟の誕生日にプレゼントどころかケーキすら用意が難しくなってしまう。

「いい仕事紹介しようか」

視線を喉元から口、鼻と辿る様に持ち上げて行けば吉田君と目が合った。その顔は相変わらず何を考えているか分からない。そして言っている事はどこか胡散臭い気がしなくもない。

「危ない仕事じゃないよね?」
「キミなら大丈夫だと思う」

それは答えになってないかな。不信感は募るが仕事を探しているのは事実。とりあえず話だけ聞いて危なそうなら断ればいいか。だから警戒しながらも紹介をお願いすれば「じゃあ着いてきて」と促され二人でコンビニを出た。





聞いてない聞いてない聞いてない聞いてない。

「大丈夫?」
「死ぬかと思った!!」

吉田君の後を着いて行き連れて来られたのは住宅街の路地裏。ゴミ箱の近くでは野良猫が残飯を漁っていて、塀の上ではカラスがそのおこぼれに預かろうとぎらついた目で見下ろしていた。人気も少ないし、もしかしたら怪しいブツの運び屋的なことをさせられるかも…と五分前まで思っていた。

「ごめん、今日は下見のつもりだったんだ」
「だとしても先に言ってほしかった!」

しかしさせられたことと言えばデビルハンターの仕事の手伝いだった。この辺りで悪魔の目撃情報がありその駆除を吉田君が引き受けたらしい。でもその悪魔は中々姿を現さず彼自身手を焼いていた。

「言ったら怖がると思って」
「当たり前だよ!というか囮役だなんて知ってたら断った!」

悪魔の好物は血。そして私は先日転んだことにより膝を擦りむいていた。今も大きな絆創膏を貼りつけている。だから吉田君は私を餌にして悪魔を誘きだそうとしたのだ。

「ごめんね」

私達のすぐ傍には胴体を捻じ曲げられた悪魔が転がっていた。吉田君の後に続いて歩いていたら側溝の蓋を持ち上げてこの悪魔が飛び出してきたのだ。あまりに突然のことで叫ぶよりも先に吉田君の腕を掴んで逃げ出そうとすれば、手が触れる前に彼は「蛸」と言ったのだ。そうすればどこからか蛸の脚が伸びてきてあっという間に悪魔を絞めあげてしまった。

「謝って済むなら警察はいらないんだよ!」
「そうだね、本当にごめん」

そして事の顛末を見届けた私は怒りの矛先を吉田君に向けている次第である。それにしても何故わざわざ私に声を掛けたのか。彼曰く、それは脚の怪我だけでなく私の性格を見込んでのことだったらしい。

「あの時、死んだ魔人を見ても悲鳴を上げなかったでしょ?それに咄嗟に逃げる判断ができる人って案外いないものなんだよ」
「それだけ?」
「あとは俺の秘密を知ってたから。そうなるとキミ以上の適任者なんていないでしょ?」
「まぁ……」
「キミには本当に感謝してる、ありがとう」

と、なんだか吉田君のいいように丸め込まれた気がしなくもないが結果として私は怪我の一つもしていない。それに襲われそうになった時はちゃんと守ってくれたし、囮と言えども見殺しにする気はなかったのだろう。だからもう文句を言うのは止めて彼を許すことにした。

「よかった。じゃあこれは報酬ね」

そして私の目の前に紙幣が差し出された。その枚数は五。しかしその紙にはどれもゼロが四つ印刷されていた。一万円札が五枚、つまり五万円。この金額は先月の私のバイト代よりも高かった。

「金額間違えてない?!」
「少なかった?悪いんだけど今手持ちがないから残りは今度でもいい?」
「そうじゃなくって!」

囮に使われたとて私は吉田君の後ろをただ歩いていただけである。それなのにこんな大金受取れない。しかも高校生のお財布から五万円出てきたことにも驚きを隠せない。デビルハンターってそんなに稼げる仕事なの?

「悪魔一体殺して大体三十万くらい。そこから色々と雑費は引かれるけど今回の悪魔の場合なら俺の手元に二十万くらい入るかな。だからこの金額は妥当な値段だと思う」

そんなにもらえるの?!でも楽な仕事じゃないはずだ。先ほどちらりと見えた蛸の脚はきっと吉田君の力なのだろう。デビルハンターの中には強い力を得るために自ら悪魔と契約する人もいるという。

「でもさすがにこんなには受け取れないよ」

私にとっての五万と吉田君にとっての五万は価値が違うのかもしれない。でもこのお金は吉田君が命を懸けて戦って稼いだお金であって、ただその場にいただけの一般人が受け取っていい額ではないのだ。それに私は吉田君にまだお礼を言えていなかった。

「お金はいらない。吉田君には助けてもらったわけだし」
「キミに危険な役割を負わせたんだからそれは当たり前のことだよ」
「ううん、今回の事もそうだけど魔人に追いかけられた時も助けてくれたから。ずっと言えてなかったけど、あの時も助けてくれてありがとう」

寧ろこれで貸し借りなしだ。私が頭を下げれば視界の端に吉田君のスニーカーが映る。そこには浅黒い血の汚れがこびり付いていた。

「じゃあまた学校で」

彼の顔は見ずに回れ右をして元来た道を早足で辿る。
後ろからの視線には気が付かないふりをした。





昇降口で友達を待っていたらいきなり彼氏を紹介された。全くもって理解が追いつかない。しかしどうやら話を聞くに彼の方がずっと彼女のことが気になっていて、先程告白をされ付き合うことにしたらしい。

「吉田君はいいの?!」
「だって今の彼氏、私の事めちゃくちゃ好きみたいだからさ」
「はぁ」
「このあともカラオケ奢ってくれるんだって!じゃあまたね」

それでいいのか友人よ。生憎私は告白したこともされたこともないのでそういった感覚がイマイチ分からない。でも彼女が幸せそうだからいっか。まぁそのお陰で一人で帰る羽目になるのだけれど。

「ちょうどよかった」

二人を見送り、ひとり昇降口を出たところで声が掛けられた。そちらへと視線を向ければ吉田君の姿が。でも今日は確か欠席のはずじゃなかったっけ。

「今来たの?」
「うん。キミに会いにね」
「はい?」

意味が分からず首を傾げれば差し出されたのは一通の茶封筒。躊躇いながらも受け取り裏を見る。封もされていなかったので指を入れて中身を取り出した。しかし出てきたものを見てすぐさま吉田君に突き返した。

「いらないって言ったじゃん!」

あの時受け取らなかった五万円、それが向きを揃えて入っていた。吉田君の手に封筒を押し付けるも受け取る気配が全くない。そしてあろうことか私の手首を掴んでその勢いのまま引き寄せた。

「それ受け取ってほしいんだけど」
「囮にされたことならもういいって」
「それだけじゃないよ。キミの力をこれからも借りたいからその分も含まれてる」
「え?」
「とりあえず着いてきてもらっていい?」

怪しさ百点、不敵さ満点の笑みを添えた彼には相変らずの胡散臭さが漂っている。でもあまりの距離の近さにたじろいだ私は、彼の喉ぼとけを見つめながら頷くしかなかった。



また路地裏にでも連れて行かれるのかと思いきや向かった先はハンバーガーショップだった。そこに行くまでに何やら延々と語られたが要約すると勉強を教えて欲しいとのこと。
カウンターで二人分の飲み物を注文し四人席に向かい合って座った。

「じゃあノートを見せてもらえるかな」
「どうぞ」

数学のノートを渡せば吉田君は自分の教科書と並べながら紙にペンを走らせた。その動きは時折止まり、思考時間を経てからまた動き出す。どうやら丸写しをするのではなく考えながら解いているらしい。意外と真面目だ。

「ねぇ、」
「えっ」

滑らかに動くシャープペンの先を眺めていたところでトン、と長い指がノートの罫線を叩いた。意識を戻して彼の言葉に耳を傾ければ「ここなんだけど」と言葉が続けられる。応用問題の計算式が分からないとのことだった。

「あーここは……」
「よければこれ使って」
「ありがとう」

吉田君からシャープペンを受け取ってノートの端に分解した計算式を書く。教科の中でも数学は得意だったりする。それはきっと日頃から家計簿をつけているので数字を見慣れているというところが大きいのかもしれない。

「———で、こうなるんだけど分かった?」
「うん、すごく分かりやすかった」
「よかった」

シャープペンを返せば吉田君はもう一度同じ問題を解き始める。下を向けば長い前髪が目元を隠してしまったがその隙間から覗くアンニュイな表情に思わず見入ってしまった。今までこんなにも間近でじっくりと見ることなんてなかったけれど確かに友達の言う通り吉田君はかっこいい。整った眉に大きな瞳、筋の通った鼻にくすみのない肌、口元のほくろは色っぽい。こんな整った顔立ちをしている人はアイドルでも中々いないんじゃないかな。

「解けた」

予兆もなし持ち上げられた瞳に僅かに心臓が跳ねる。慌ててノートへと視線を落せばきれいな数式が出来上がっていて答えが導き出されていた。それを見て正解、と先生にでもなったつもりで短く言えば小さく笑われる。そして私の視線の先で再び指先がノートを叩いた。

「今見惚れてたでしょ」
「気のせいだよ」

声が上ずればまた笑われた。いや、実際に笑い声が聞こえたわけでもないし表情を確認したわけでもない。でも確実に彼は笑っていたはずだ。

ノートは既に今日の授業のところまで写し終えていた。それなら私にもう用はないだろう。そう思い自分のノートを返してもらおうと手を伸ばせば触れる前に大きな手が被せられた。反射的に顔を上げる。

「ようやくこっち見てくれた」
「なっ……?!」

体温が上がったり下がったりしているのが自分でも分かる。現に頬は扇ぎたくなるくらい火照っていたのに握られた手の中は汗で湿って冷たくなっていた。慌てて引き抜けばあっさりと解放され彼の口角が僅かに上がる。それを見て、そういえばこういう人だったなと妙に納得できた自分がいた。

「吉田君、意外と意地悪だって言われない?」
「今初めて言われたかな。もしかしてキミに嫌われた?」
「そんなことはないけど」
「じゃあ英語と化学のノートも写させてほしいな」

ここまで言われようやく揶揄われただけだと気付き、途端に全てが馬鹿らしく思えてきた。というか本当はこれが目的だったな。普通に言ってくれても見せたのに。それに英語と化学は明日の授業にないからノートを貸したって構わない。

「こっちは教えてくれないんだ。やっぱり嫌われちゃったかな」

私はどうやら吉田ヒロフミという人物を見くびっていたらしい。想像を上回る意地の悪さと周到さに頭が痛くなってきた。しかしここでも日本人の性とも言うべきか、人に良く思われたいという自分が出てきてしまい、ソンナコトナイヨと結局は答えてしまった。

「吉田君も食べる?」

疲れた時には糖分を。お店の中だし持ち込み禁止な気もするけど飴の一つくらい大目に見て欲しい。
ポケットから取り出した二つの飴。一つは三角形をしたイチゴミルク味でもう一つは丸い輪っかの形のパイナップル味。この二つはお気に入りでバイト帰りに食べる用に常に持ち歩いていた。

「じゃあもらおうかな」
「どっちがいい?」
「どっちでもいいよ」

その答えが一番困る。夕飯に何食べたい?と聞いたら「何でもいい」と返してくる弟くらいには困ってしまう。こんな時は天の声に身を任せるに限る。私はテーブルの下で飴を一つずつ手の中にしまい、それを改めて吉田君の前に差し出した。

「どっち?」
「うーん…じゃあこっち」

ツン、と指先で手の甲をつつかれる。その手は先ほど吉田君の手が乗せられていた方で、また変に意識してしまった。
飴を手渡せば彼は包み紙の両端を引っ張って三角形の飴を口の中へと放り込んだ。

「この前ももらったけどこれ美味しいね」
「でしょ」

もう片方の手の中に残った飴の袋をちぎる。そうして同じように放り込んで舌の上で転がした。最近ではこちらを食べていなかったからか、特有の甘酸っぱさがどこか懐かしく感じた。

「そっちも食べてみたいな」

私の唇を見つめて彼は言う。飴の事を言っているのは分かっている。でもなんだろう、この言い表せぬ感情は。

「お喋りはここまでだよ。ほら、早くやろう」
「どうしたの?急にやる気になったね」
「このまま吉田君のペースに飲まれるわけにはいかないからね」

少しだけ口調を強めて言えば「そうだね」と息を吐き出すようにして笑う。その時のイチゴミルクの香りに、飴なんてあげるんじゃなかったと後悔した。


◇ 


おはようの挨拶が定番となり、ノートを貸すのも当たり前になった。そして吉田君が最後の授業まで受けた日には一緒に帰らないかと声を掛けられる。初めのうちは五万円受け取ったしな…ということで断れずに頷いていたが今では吉田君との会話を楽しみに思っている自分がいた。

彼もまた流行やテレビ番組に疎いのか、そういった俗っぽい話をしないところがよかった。高校で新しくできた友達とは会話の内容について行けず、下手な相槌しかできないことが多かったから。



「ごめん、吉田君。今日は一緒に帰れない」
「珍しいね。何か大切な用事でもあるの?」

その日初めて私は吉田君からの誘いを断った。それは弟の誕生日プレゼントを探しに行きたかったからだ。ちょうど今日から近くのショッピングモールでセールをやる。だからそこにいい物がないか見に行きたかった。

「そういうことなら俺も付き合うよ」
「えっでも私優柔不断だし探すのにすごく時間かかるよ」
「じゃあ尚更一緒に行くよ。弟君へのプレゼントなら俺も何かアドバイスできるかもしれないし」
「帰るの遅くなっちゃうかもしれないよ?」
「キミとの時間が増えるなら本望さ」

吉田君といるのは楽しいが、時折彼特有の言い回しに反応が困ることがある。だから今の私は背中に宇宙を背負ったネコみたいな表情をしていたと思う。でもそんな私の気などお構いなしに「じゃあ行こうか」と彼はショッピングモールへの道を歩きだした。



「どんなものを探してるの?」
「普段使いが出来て日常的に役に立つもの、かな」

弟は私から見ても大分大人びている。同年代の子達のようにテレビゲームに興味を示すわけでもなく、かといって毎日泥んこになって帰ってくるわけでもない。随分前に将来の夢は?と聞いたら「公務員になること」と答えるくらいには現実主義者である。

「となるとハンカチとか文房具とか?でもあまり誕生日プレゼントっぽくはないね」
「そうなんだよね」

服屋や雑貨屋を覗いてみるがあまり良いものが見つからない。本も読むのも好きだから推理小説の一、二冊でもプレゼントすれば喜んではもらえそうだがどの本を弟が読んでいないのかが分からないためやめた。

「あっこれとかは?」

うんうん頭を悩ませていたところで吉田君が足を止めた。店頭で何かを手に取った彼の元へと急いで向かえばそこには黒色のキャップがあった。なるほど、帽子か。そういえば区の図書館に行くときに夏場は日差しが辛いと以前愚痴をこぼしていた気がする。

「いいかもしれない。でもこのキャップ、なんか頭から生えてるんだけど」
「それはノコギリのつもりなんじゃないかな。ほら、チェンソーマンって知らない?」

そういえばそんな名前で世間から注目を集めているヒーローがいたっけ。見返りなしに悪魔を倒し人を助ける。しかし実のところ女とネコしか助けないだとか、その正体は悪魔だとか、そもそもアメリカが作ったプロパガンダ等々色々な噂と憶測が飛び交っている。でも世間から注目されているのも確かで今ではこのように商品化までされているらしい。

「ニュース番組で聞いたことはあるけどこれってどうなの?」
「随分ユニークな形だと思うけど今や学業成就の神様とも言われてるんだよ。このノコギリで勉強の悪魔を倒してくれるってね」
「勉強の悪魔ってそもそもいるの?」
「さぁそれは俺にも分からない。でもこのキャップはチェンソーマンのイメージにぴったりで中々いいと思わない?」
「そうなのかな……?」
「とりあえず被ってみなよ」
「わっ?!」

そもそも勉強するときにキャップは被らないのでは?
しかしそんな疑問も解消せぬままキャップが深く被せられた。ツバを持ち上げ被り直してみるが、なるほど意外としっくりくる。しかしやはり問題なのはデザインだ。ただ、私は流行に疎いが実は弟もこういったものが好きかもしれない。大人びてはいるものの昔は戦隊ヒーロー番組も見ていたのだから。

「これでもいいかもしれない」
「えっ本気?」
「え?」

ぱっと顔を上げればびっくりした吉田君の顔があった。そしてよくよくキャップのタグを見れば七十%オフにまで値下げされていた。目の前の籠には“在庫処分セール”と大きく赤字で書いてある。

「これ売れ残りじゃん!」
「このデザインはさすがに流行らないでしょ」
「じゃあなんで勧めたの?!」
「だってキミが本気で信じ込むだなんて思わなかったからさ」

また吉田君の口に乗せられた!学習しない私も悪いが彼独特の言い方にいつも熱心に耳を傾けてしまう。その度に悪徳勧誘に捕まった、と内心では思っている。

「ごめんね。好きな子にはつい意地悪したくなる質なんだ」
「そうやってすぐ調子の良い事ばっかり言う」
「真面目に言ってるんだけど」
「私は好きな人には優しくするし優しくされたい派です」
「そうなんだ。とても勉強になったよ」

さすがの自称、真面目君だ。吉田君の真面目発言は聞き流すに限る。被せられたキャップを元の場所に戻していれば横から伸びてきた手に髪を梳かれた。どうやら整えてくれているつもりらしい。でもそれが恥ずかしくて、逃げた。

「自分用に買わなくていいの?」

そんな私を揶揄うように吉田君は追い打ちをかけてくる。そんなの当たり前でしょ。そもそもチェンソーマン自体に興味はないしグッズの一つも欲しいだなんて思っていない。それに私の中で何よりも大きな理由があった。

「チェンソーマンが悪魔なら吉田君の敵ってことでしょ?それならやっぱり私は買わない」

そっぽ向きながら答えれば視界の端にショウウィンドウに並んだ靴が映った。確か弟の靴の底は随分とすり減っていた。サイズも分かるし、プレゼントにするにはちょうどいいかもしれない。

「ねぇあのお店行ってもいい?……吉田君?」
「あぁごめん」

やや遅れて来た彼が私の隣に並ぶ。そして改めて靴を見たいと伝えれば了承してくれた。しかし歩きだしても斜め上から尚も視線が降り注がれる。渋々顔を上げれば案の定、目が合った。

「……何?」
「俺は本気だよ」
「じゃあ吉田君があのキャップ買ったら?」
「そしたらキミにあげる」
「いらないから買わないで」

靴屋に入りあれこれとデザインを選ぶ。そして参考までに吉田君の意見を聞いた。こういうのは同性の意見が参考になるからね。だから一つ気になったものを手に取り聞いてみた。

「これとかどうかな?」
「いいんじゃない」

吉田君、私じゃなくて靴を見て。



買った靴はプレゼント用に綺麗にラッピングしてもらった。そして外に出る頃には太陽は半分ほど姿を隠し、代わりに東の空には白い三日月が顔を出していた。

「お陰様で無事にプレゼントが買えたよ。今日はありがとう」
「キミの役に立てて良かった」

途中まで帰り道が同じなため並んで歩きだす。そして私はポケットから二種類の飴を取り出して一つずつ手の中に隠した。二つの拳を吉田君の前に出しお決まりとなったセリフを言う。

「どっち?」
「じゃあこっち」

左手に隠してあった飴を渡す。それはパイナップル味の方で吉田君が初めて引き当てた飴だった。今日はきっと彼にとっての脱イチゴミルク飴記念日だ。

「初めて食べたけどこれも美味しいね」
「その飴、実は音が鳴るんだよ」

そして私にとっては初の意地悪記念日になるだろう。自身の内に眠っていた悪戯心か、それとも吉田君の影響か。ともかく彼を揶揄ってみたくなったのだ。

「本当?」
「うん、唇で飴を挟んで真ん中の穴に空気を通す感じで吹くの」
「へぇ」

そういって実践するものの、当然ながら音は鳴らない。だってこれはあくまで飴であってフエラムネではないからね。でも音が鳴ると信じてくれたのか必死に鳴らそうとしている。確かに彼は真面目だった。

「鳴らないんだけど」
「それは多分……ふふっ」
「さては嘘をついたね」
「だって本気で信じてくれるだなんて思わなかったから」
「キミが言うから信じたのに」
「ごめんね。でもいつもの仕返し」
「言うようになったね」

ようやく吉田君に勝てたようで少しだけ嬉しくなった。でも揶揄い過ぎるのもよくない。私はどこかの誰かさんと違うので。だから騙したお詫びと今日の感謝の気持ちを伝えるために彼の前に小さな袋を差し出した。

「大したものじゃないけど貰ってくれる?」
「俺に?」
「うん」

付き合ってくれたお礼はしたいと思ってた。そしてちょうどいい物を先程の靴屋さんのレジ横で見つけた。私にしては即決でこれだって思ったんだ。

「紐……あぁ、靴紐か」

この前見た時、彼の靴は汚れていた。今はその時とは違う靴を履いているが職業柄、傷みやすいのだと思う。さすがに靴を買うのは予算的に厳しかったのでどのスニーカーでも使える靴紐を買った。

「それに切れると縁起が悪いって言うでしょ」

迷信かもしれないけれどそういうのは気にしちゃう方。それに大それた信仰心まではないけれど神様という存在も信じてる。あれほどの数の悪魔がいるんなら八百万の神々がいたっておかしくはないと思う。

「なるほど」
「もう少しお洒落なものとか渡せればよかったんだけど生憎センスがなくて……」
「そんなことないよ。それに俺の事を考えて選んでくれたんでしょ?」
「まぁ……いざという時に転んじゃったら危ないしね」
「それだけで十分すぎる。ありがとう」

よかった、と安心していれば吉田君がまたこちらをじっと見てきた。その様子にやや身構えていれば、くすりと笑って口元に綺麗な弧を描いた。

「優しくされちゃった」

含みを持たせたその言い方に、やっぱり吉田君には敵わないなと思った。


◇ 


屋上から見える景色は案外と狭い。それは周囲の建物が高すぎるからだ。違法建築を積み重ねた住宅区域が学校の周りに広がっているため、右を見ても左を見ても同じような景色が広がっている。しかし上を向けば透き通るような青空から温かな日差しが降り注いでいた。

「ご馳走様でした」
「お粗末様でした」

学校の屋上で吉田君とお昼を食べた。というのも私が彼の分のお弁当も作って来たからである。今日は弟が学校行事の為お弁当が必要で昨日の帰り道に、お弁当の二人分は慣れてないから作り過ぎちゃうんだよねと話したところ「弟君が羨ましい」と言われたので作って来たのだ。

「そういえばね、来週から営業再開するんだって」
「そうなんだ、よかったね」
「うん。また働いてたくさん稼がないと」

バイト先の工事もようやく終わり以前の日常が戻ってくる。毎日シフトを入れる気はないけれどまた週四くらいでは働きたい。そう話しながら二つのお弁当箱をバッグに閉まっていれば吉田君がフッと私の顔を覗いた。

「ところでキミの将来の夢って何?」
「夢?」
「うん。いつも周りの人を優先しているからキミの話を聞きたいと思ってさ」

早く手に職つけて働きたいとは思うが資格くらいは取っておきたいとも思っている。その方がいざって時に食いっぱぐれないし就活にも有利だ。でも具体的に何かと聞かれると答えが出せなかった。

「うーん……なんだろ」
「料理人とかは?お弁当美味しかったし」
「買い被り過ぎだよ。私の腕は精々一般人レベル」
「そんなことないと思うけどな。味はもちろん、彩とかバランスも考えられたからさ」
「それはバイト先の影響かな」

居酒屋で盛り付けを担当しているからかそのあたりのセンスは磨かれたのかもしれない。それに料理をするのも嫌いじゃないしアリよりのアリかも。専門学校なら大学ほどお金もかからない。

「それか、」

うーん…と真剣に考えだした私の隣で吉田君が言葉を区切る。何かと思い横を向けば彼は片膝を立てた状態で壁に寄りかかっていた。しかし私の視線に気付けば片膝の上で腕を組み、さらにその上に自分の顎を乗せ私を見た。

「花嫁さんとか?」

十分すぎる間の後に唇を微かに動かしそう言った。上目遣いでこちらの様子を伺ってくるところがどうにもやらしい、、、、。だから私は立てた膝の内側に両腕を通し、突つかれたハリネズミになったような格好で縮こまった。

「……もしかして吉田君って亭主関白タイプ?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「将来の夢として花嫁を上げてくるあたりそんな感じがした」

いつもは見上げることが多いというのに今は同じような体勢で話しているせいか目線が同じであった。だからいつもより距離が近く感じる。それは物理的にも言えることだけれど。

「気を悪くさせたならごめん。ただ俺は単純に花嫁って幸福の象徴のように思ってたから聞いてみたんだ。女性からしたらそれは夢に入らないものなの?」

結婚願望がないわけじゃない。でもそれを夢と称するほど私の世界は狭くない。

「幸福を求めた結果の一つが花嫁であってそれを夢にするのは違うのかなぁって。それに私は結婚しても働きたいかな」

子供ができたらまた考えは変わるかもしれないけれど家でじっとしているのも性に合わない。それに女手一つで育ててくれた母の背中を見ているから、いざというとき自分も支えられるような人間になりたいと思う。

「そうなんだ。それなら家事も分担できた方がいいよね。例えばキミが食事と洗濯担当で俺が掃除とゴミ出しをやるとか。もちろん忙しい日があればその都度相談に乗るし互いに協力し合えたらいいよね」

吉田君はなぜか時折ものすごく饒舌になる。元より無口なタイプでもないのだけれど一度スイッチが入ると堰を切ったように話し出す。その度に私は背中に宇宙を背負い、彼が一通り話し終わるのを下手な相槌を打ちながら待つのだ。

「もしかして私はいま悪徳勧誘を受けている…?」
「熱烈なアプローチを受けてるんだよ」
「すぐそう言う……、ふぁ」

吉田君の話が長すぎて思わず欠伸が。失礼だと思いつつも生理反応には抗えずにもう一つ出てしまった。

「眠いの?」
「少しね。今日はいつもより朝が早かったから」
「寝ていいよ。時間になったら起こすし」
「うーん……ではお言葉に甘えて」

膝を抱えるような体勢を取り、両ひざの上に顔を埋める。五分だけ、五分だけ眠ろう。そう思っていたのに私の頭を撫でる手があまりにも優しいので油断してしまった。

「おやすみ」

意識は次第に、深く深く沈んでいった。





カクン、と頭がずり落ちてゆっくりと意識が浮上する。視界に映るのは無機質なコンクリートと自分の脚、そして黒色のズボンだった。おや?と思い慌てて身を起こせば肩から何かがずれ落ちる。それは男子生徒用の学ランで吉田君の物だとすぐに分かった。そして当の本人はというと私に寄りかかって眠っている。というか状況を考えうるに互いに寄りかかって寝ていたらしい。

「よ、吉田君!起きて起きて!」

目の前の膝を叩きながら声を掛ける。すると「ん、」という短い返事の後、もそりと肩に乗った頭が動いた。

「……おはよう」
「おはようじゃなくて今何時?!」
「さぁ?」

起こすって言ったのに!しかし爆睡していた私が文句など言えるわけもなく吉田君を支えながら起こした。そうして壁に彼を寄りかからせて屋上の手すりのところまで駆けていく。そこからグラウンドを見下ろせば体操着姿の生徒達が走っていた。

「あれうちのクラスだね」

私の隣で同じように見下ろしながら吉田君は小さく笑った。片や私は、あー…と言って項垂れる。うたた寝することはあれど授業をサボったのはこれが初めてだった。

「そんなに体育の授業受けたかったの?」
「違うよ!」

こういうのってやっぱり先生に怒られるのかな。放課後に反省文書いたりとか生徒指導室に呼び出されたりする?サボったことがキッカケでバイトをしていることがばれたらどうしよう……そんなことをブツブツ言っていれば横から「大丈夫だよ」と声が掛けられる。顔を上げれば青空を背景にした吉田君と目が合った。

「俺も共犯だから」

それの何が大丈夫なのだろうか。吉田君って結構適当だよね。調子の良いことばっかり言って。でもどこか憎めない。

「そんなに楽しそうに言わないでよ」

ニッコリ、なんて効果音付きで胡散臭く微笑んじゃって。世の女性はこの甘いマスクに騙されるんだ。でも実際は見た目よりも意地悪で、お喋りで、距離が近くてよく笑う。

「だって楽しいから」
「私は楽しくないよ!」
「はははっ」

そして案外、無邪気だったりする。





お疲れ様でした、と声を掛け店を後にする。学校が終われば寄り道せずに家に帰り洗濯物を取り込んで夕飯を作る。昼夜逆転している母を起こして雑居ビルの居酒屋へ。そこから約五時間働いて、真っ暗闇の帰路に着く。

「やあ、今帰り?」
「わっ?!……なんだ吉田君か、びっくりした」

しかし気が付けば私の日常に吉田君という存在が追加された。またバイトを始めて、もうあの時の五万円のことなどすっかり消化できていたというのに私達の関係は続いていた。

「そろそろ慣れてくれてもいいんじゃない?」
「いつも急に現れるから慣れないよ。またこの近くで悪魔が出たの?」
「いや、出たのは隣の区だよ。ただついさっき片が付いてね、それでキミのバイトが終わる時間帯に偶々ここを通りがかったらタイミングよく会えたってわけさ」
「その話聞くのもう三回目なんだけど」
「違うよ、四回目」

いつもの吉田節もそこそこに改めて彼を見る。足元には私のあげた靴紐が結ばれたスニーカー、そこから視線を上に動かし特に腕を注意深く観察する。前に会ったときは誤魔化されちゃったから。

「どうしたの?」
「また怪我してないか見てた」
「大丈夫だよ、ありがとう」
「本当?嘘ついたら針千本だよ」
「じゃあ確認してみなよ」

やや躊躇いながらも差し出された右腕に触れてみる。袖を捲って確かめてみるもそこに新しい傷はなく、先週手当てをした擦り傷の痕だけが残っていた。そして左腕にも目立った傷はない。

「大丈夫だったでしょ?」
「うん」
「じゃあ帰ろうか」
「あ、」

当然のように指を絡めとられ手を握られる。私の手は吉田君の手の中にすっぽりと収まってしまう。それが居心地が良くて、むず痒かった。

「ダメだった?」
「ダメじゃないけど……」
「けど?」
「なんでもない」

これも揶揄われてるだけだ。意識したら負け。自分の勘違いだったら恥ずかしいし。それにこの関係を失うのだけは嫌だった。



「もう着いちゃった」
「そうだね」

アパート近くの十字路で吉田君とはお別れをする。その時は毎回お決まりとなった「どっちがいい?」の質問をするのだけれど片手がふさがっているのでそれは叶わない。

「これあげる」

だから二つとも彼に渡した。イチゴミルクとパイナップル。そういえばこの前、パイナップルの飴で音が出せたんだよね。吉田君に「キミなら絶対できるよ」と謎の煽りを受けてやってみたらピーって鳴った。本気で驚いて喜んだのに、その正体が隣からか吹かれた口笛だと気付いた時には大層笑われたけれど。

「今日は聞かないんだ」
「分かってて言ってるくせに」
「じゃあこれでできる?」

指が解かれて自由になる。私は暖かみが残る掌にころん、とイチゴの包みを転がしてぎゅっと握った。中身が分かっているにも関わらず、二つの拳を突き出してお決まりの言葉を言う。

「どっちがいい?」
「じゃあこっち」

この日はなんとなくイチゴミルクを選ぶのだと思っていた。というか選んでほしかったのだ。その吐息が私に自覚した日を思い出させるから。

「は、———っ」

でもさすがは吉田君とも言うべきか。彼は意地悪で、周到で、私の予想を超えていく。それにいつも着いていけなくて、置いてけぼり。でもこちらの思考が追いつくまでじっと静かに待っててくれる。つまりそれが、今この瞬間、互いの唇が触れている時間の長さだった。

「ダメだった?」

唇が触れて離れていき、そして同じ時間見つめ合う。

「ダメじゃない、けど」

目の前の艶めいた唇を見つめ生唾を飲み込む。

「けど?」

そして視線を何とか持ち上げた。

「本気だったんだ」
「初めからそう言ってるでしょ」

自称、真面目君は正真正銘の真面目君だった。ただ、この瞬間においてのみだけど。でも私には十分すぎるほどの証明であった。

「私が吉田君のことが好きなの、言ったっけ?」
「好きになって貰えるよう努力したからね」

努力……だったのか、あれは?でも吉田君が淡々と、そしてあまりにも当然のような顔をして言うものだから、もうどうでもよくなってしまった。色々と考えるより素直に受け入れた方が彼は無邪気に笑ってくれそうである。

「吉田君の勝ちだね」
「そういうこと。じゃあ次はキミからしてくれる?」
「え、むり」
「ごめん、よく聞こえなかった」
「あぅ」

彼の手を強く握って背伸びをした。

ようやく結ばれた想いというよりは全てが手の内で転がされていたようにしか思えない。でもやっぱり憎めない。そしておそらく逃げられないのだ。