推しの幼馴染になったけど身の危険を感じたのでおにーさんのところに逃げてやった
私が来年から小学校に通うこのタイミングで我が家もついにマイホームを建てることになった。閑静な住宅街の一角に立つ新居は交通の便もよく、近くにドラッグストアやスーパーもあるので生活しやすそうである。となると家も相当な値段がしたことが窺え、改めて両親の所得の高さに驚いた。それと同時に親ガチャ大当たりだなぁなんて俯瞰してみている自分がいる。
「お母さん準備できたー」
「あらそう?じゃあお隣さんのところにご挨拶に行こっか」
玄関で靴を履き、母親と共に外に出る。そして一分もかからずに辿り着いたお家のインターホンを鳴らした。するとちょうど家にいたのか朗らかな声が返ってくる。母が用件を伝えれば家の扉が音を立てて開かれた。
「お待たせしてすみません」
「こちらこそ突然すみません。この度、隣に越してきた者になります。工事中はご迷惑をお掛けしましたが、これからどうぞよろしくお願いします」
「まぁ!わざわざご丁寧にどうも」
母親が手土産を持って挨拶をすれば出て来た女性はにこやかな笑みを返す。そしてその人は丁寧にゴミ出しの場所や資源回収の日なんかを教えてくれた。その様子を母親の後ろからじっと見ていれば不意に目が合う。そして女性が嬉しそうに笑った。
「あら可愛らしい子」
「こんにちわ!」
母親に背中を押されたので元気に挨拶をして名前を言った。ついでに、好きな食べ物はチョコアイスです!と答えたら母親には「この子ったら!」と小突かれた。えー今のは我ながら五歳児らしい答えだと思ったのに。
「ふふっ素直な子ね。うちにも同い年くらいの子がいるんだけど……凛ーちょっと来なさい!」
りん、という響きにそのときは同じ女の子だと思った。だからここらで仲良くなって『五歳女児』の教えを乞うつもりでいた。私自身、月の戦士をリスペクトして育ったので今の流行とかよく分からん。私が『私』として文字通り第二の人生をスタートするにあたり悪目立ちはしたくなかったのだ。
「もう一人息子がいるんですけど今は主人と出掛けていて……ほら凛、お隣に越してきた子よ。ご挨拶して」
精神年齢がおおよそ親世代であることを悟られてはいけない。
「りん、です。こんにちは」
私が前世の記憶持ちあることは絶対にバレてはならない——と思っていたのだが、
「は?やばっ推しじゃん」
前世の推しを前にした瞬間、あっけなくボロが出た。
◇
この世に生を受けた時からどうにも違和感があった。
人の顔を認識するのが早かった。周囲を飛び交う言語を理解できた。好奇心が働く前に危ないことはしないよう自衛できた。夜中に泣いたこともなかったし、不満があるとすれば食事が薄味だなと思う程度。
しかしそこまで来ると逆に気味悪がられ大人たちからは変な目で見られることになった。いや、こちとら人間として良識ある行動をしているだけだが?とふてくされてテレビでもつけようとしたとき、その真っ黒なディスプレイに反射した自分を見て驚いた。えっ私子どもじゃね?と。
子どもというか赤子だ。ようやく一人歩きできるようになった十三ヵ月の赤ちゃんが今の私。そしてそれを自覚すれば、じわじわと前世の記憶が思い出された。
ごくごく一般的な家庭に生まれ、その成長と共に色んなものを好きになった。
クレパスで絵をかいたり虫取りをしたり。美少女戦士ごっこもしたし初恋は土井先生だった。中学では当たり前のように風紀委員に所属しノート端に書き溜めたポエミーな文章は今や黒歴史。
高校生になりネットにまで手を出すようになれば私の世界もまた広くなった。アニメや漫画を自宅で楽しむだけでなく、mixiのコミュニティで集まった仲間たちと劇場版作品の鑑賞会なんかも開いたりした。また、即売会なるものには宝の地図片手に朝早くから会場入りしたものだった。
大学は東京の学校を受けた。なぜなら大抵のイベントは東京で開催されるからである。今までは痛かった遠征費用も東京に住めばその分、推しに貢げる。しかし将来のことを何も考えていないわけでもなく、就職先の選択肢が広がるようにできるだけ偏差値の高い学校を目指した。推しのATMと言う名の公式のパトロンになるため稼げる仕事には就きたかったのだ。
卒業後はそれなりの上場企業に就職し、都内住みの一人暮らしを謳歌した。疲れ切った平日はpixivの神々の作品を読み漁り声優さんのYouTubeチャンネルを見ながら寝落ち。週末は基本的に溜め取りしたアニメの消化やソシャゲのイベントに忙しくしているがコラボカフェや期間限定のポップアップストアで限定グッズが発売されれば朝イチから活動を開始した。
リアルには友達もいたし彼氏がいたこともあったけれど年齢を重ねるごとに人付き合いがめんどくさくなりそういった交友は細くなった。その代わり青い鳥の縁にて知り合った同志との仲は深まっていった。年齢や職業、またその人の生い立ちをも気にせず好きなもの同士で繋がっていられるこの場所は私のオアシスだ。
『今期のアニメあたり多すぎ!特にブルロ最高!』
『気付いたら支部がリベからbll一色になってるんだけどw』
『黒崎一護と禪院直哉いるね』
今日も今日とて我がオアシスでバタフライしながら情報収集をしていれば同志たちがとある作品で色めき立っていた。
『どんな作品なん?』
『イケメン達が閉鎖された空間でバトルロワイヤルする話』
『人死ぬの?!呪で推しが死んだからその手の作品トラウマなんだけど!!』
『いや、サッカー漫画www』
覗き見しているようで申し訳ないと思いつつもリプで会話している相互さんたちのツイートを遡っていく。なるほどなるほど、それは青い監獄≠ニいう作品らしい。最近は仕事が忙しく週末も睡眠時間に当てていたため今期のアニメを追いきれていなかったのだ。
『とりあえず神絵師さまの作品RTしとく!』
急速に動き出すTL、この布教という波に攫われ私は見事沼に沈むこととなる。これが俗に言うオタクの受動喫煙だ。そして私は糸師凛という男に落ちた。
アニメを見た時の第一印象は、女受けしそうな顔してんなぁ!CV.内山昂輝は狙ってますねぇ!(ゲス顔)とどこぞの評論家のように高みの見物をしていたのだが原作を読んで無事に沼落ちを果たした。可愛らしい幼少期のギャップに実の兄との確執、主人公に向けるマジもんのヤベー殺意に、私だけが凛の味方でいるからね…!とアイタタタな乙女心をくすぐられ推そうと決めた。
そこからはグッズ集めはもちろんのこと二次創作も軒並み漁ったし毎週水曜を心待ちにする日々が続いた。新英雄大戦′繧ヘしばらく出番がなかったもののドイツVSスペイン戦後に突如描かれたその姿に発狂し、そしてフランス戦が始まってからは毎週のようにTLを汚した。相互さんは少し減った。
しかし幸せな日々は長くは続かず、唐突に最期を迎えることになる。
あれは確か取引先の打合せのために全力で表参道を走っていた時のこと。春休み期間であるのも相待って若者で混み合う道を早足で進んでいた。職場で印刷してきた資料を手元で捲りながら内容を確認する。
「あ…ごめん」
だからか、注意散漫になっていた私は正面から歩いてきた人にぶつかってしまった。
「いえ……あっ!」
その衝撃で持っていた資料を落とす……だけならよかったのだがそのうちの一枚が風に攫われ舞い上がった。やばい、このままでは情報漏洩でクビになる…!
「危ないッ!!」
植木を乗り越え手を伸ばし紙を掴んだ。よかった、と思った瞬間に右側から強い衝撃を受ける。それから脳内の隅にドンッという大きな音が聞こえ、視界が真っ暗になった。痛みすら感じないほどの一瞬の出来事であった。
あぁ、そうか私死んだんだ。
そりゃそうだよね。急に道路に飛び出して走ってくる車を避けられるはずもない。それを避けられるのなんて精々スパイダーマンか忍者か歩く死神こと小さな名探偵くらいであろう。あーあ、それにしても私の人生ここで終わりか。ワンチャン、事故の衝撃で転生しないかなぁ。
——と思ってたらマジで転生果たしてました。
で、現在に至る。
「冴くん、凛ちゃん頑張ってね!」
「おう」
「がんばる…!」
しかも転生先はちょうどどハマりしていた青い監獄≠フ世界。加えて前世の推しのお隣さんとしての激ウマポジションで生まれ変われオタクの私は大歓喜である。
「二人ともいけー!!」
推しとの再会を果たして早数年が経ち、凛もサッカーを初め試合に出るようになった。そして私は試合がある度に応援に行っている。
「凛、行くぞ!」
「うん!兄ちゃん!」
生で見る試合には毎度心が躍らされる。そして凛には確かに才能があった。
ドリブル、キック力、パスワークの技術はもちろんのこと冴から指摘を受ければそれを即座に理解し修正する。幼いながらも凛と冴がパスを回しゴールを決める姿は圧巻である。それと同時に二人の未来を思うと胸が苦しくなった。しかし二度と見られないであろう同じチームで活躍するこの二人は目に焼き付けておかねば。
「冴くん、凛ちゃんお疲れ様!」
そしてこの日の試合も冴が二点、凛も冴からのアシストで一点決めてチームを勝利へと導いた。それを喜びやんややんやと騒ぎ立てる私を余所に冴は相変わらずクールで「まだあと一点は取れた」と返す。片や凛は嬉しい気持ちもある反面、冴がいる手前手放しに喜べないといった様子。
「冴、テレビ局の人来てるぞ!」
「兄ちゃんよばれてる」
「チッまたかよめんどくせぇな」
「兄ちゃ……」
「着いてくんな、ここで待ってろ。お前は凛のコトちゃんと見てろよ」
「はーい」
追いかけようとした凛の腕を掴んで引き留める。どうやら私の思っていた以上に凛はお兄ちゃんっ子だったらしい。サッカーをしているとき以外はずっと引っ付いている。
「冴くんのインタビューが終わるまで一緒に待ってよ」
「うん。兄ちゃんはやっぱりすごいなぁ」
そして冴のことが大好きだった。アナウンサーにマイクを向けられ淡々と答える冴の姿を凛はきらきらとした目で見ている。その瞳には曇り一つなかった。
「確かに冴くんはすごいよね。でも凛ちゃんも同じくらいすごいよ!」
「おれ?」
「うん!だってあの冴くんと一緒にパス回しが出来てるんだよ?それに視野も広いしボールだけじゃなくて相手の位置もちゃんと見えてる。それを踏まえてポジショニングもできてるから凛ちゃんも十分すごいよ!」
小学校低学年ではおおよそ理解できないような内容とオタク特有のマシンガントークで凛は半分も理解できていないようだった。でも褒められていることは分かったらしい。やわこい頬を桜色に染め、ぱぁっと花の咲いたように笑った。
「ふふっやったぁ!おれもっとがんばる!!」
「はぅッ…!」
そのプライスレスの笑顔に私の心の臓は止まった。なんだこの天使は。守りたいこの笑顔。もはやサッカーのスカウトよりも早く芸能事務所から先にお声が掛かるのではないだろうか。というか誘拐されるのでは?
「どうしたの?だいじょうぶ?」
「だ、大丈夫!私は凛ちゃんのこと一番に応援してるから!そして何があっても絶対に守ってあげるからね!」
今までは、いち凛推しのオタクだったけれど同じ世界で生きる今となってはモンペと言った方が正しいかもしれない。この笑顔は誰にも穢させない。まぁ闇落ちイベントは確定しているけれども。
「なに騒いでんだ。帰るぞ」
取材を終えた冴が戻ってくれば「兄ちゃん!」と凛が駆け寄る。そして半袖シャツの袖を掴んだ。冴はポケットに両手を入れているからそこを掴むしかなかったのだろう。身長差がありながらも凛は掴んだ手を離さずに冴の歩くスピードに着いていく。
「ん?」
その光景をはじめてのおつかいに出掛ける我が子の背中を見守るような気持ちで浸っていれば凛が唐突にこちらを振り返った。そして冴の服から手を離しこちらに走ってくる。兄弟の時間を邪魔したくなかったから着いて行かなかったのだが何かあったのだろうか。どした?忘れ物か?
「かえろ!」
忘れ物は私かよ〜!もちろん返事はイエス!!
差し出された手を握れば自分よりも小さな手に握り返された。その柔らかさとぬくもりにこのまま天に召されるかと思った。今日が私の命日だったか。
「兄ちゃんおまたせ!」
「遅せぇぞ。つーかお前は何やってんだよ」」
「あの世とこの世の狭間で夢みてた」
「は?」
凛を真ん中に挟み、三人で並んで帰る。西の空は茜色に染まっていて生温かい風が頬を撫でる。今日の凛はやけにご機嫌でその足は軽いスキップをしていた。かわいい。
それにしてもこの姿はあと何年みられるのだろうか。今のうちに目に焼き付け、近い将来ゼッテェ殺すマンになった凛と比較してギャップ萌えを楽しまないと。
「お前、顔ヤベーぞ」
「えっ?!」
手を繋いでいる凛をガン見していたら冴がクソデカため息をついていた。そしてオタバレが原因で別れることになった前世の彼氏と同じ目を私に向けていた。
「そんな変な顔してた?!」
「あぁ、目がぎらついてて今にもやらかしそうな犯罪者予備軍みてぇな顔してた」
「見間違えじゃないかな?!」
「んなワケねぇよ」
「見間違えってことにしておいて!!」
幼少期は可愛らしい凛とは対照的に冴はなんというか全くもってブレていない。しかしだからこそグッとくるものがある。自信のある発言やそれを有言実行できる姿、頭の回転も速く大人を巻かす様子も見たことがある。
「ふたりともけんかしてるの?」
「いやいやそんなことないから!」
「違ぇよ。帰りにアイス食うかって話してた」
「そうそう!凛ちゃんもアイス食べたい?」
「うん!」
そして案外、面倒見は良かったりする。前世では凛担推しだったから完全にノーマークだったけど冴も冴で沼が深そう。まぁそれは他の登場人物にも言えることだけど。隣の沼は闇よりも深いってやつだ。
「凛はこれで、お前はチョコでいいだろ」
「えっ私?私の分は自分で買うよ」
「うっせぇ。これでいいな」
帰りに立ち寄った駄菓子屋では冴が私の分のアイスまで買ってくれた。凛と一緒に「ありがとう!」とお礼を言って受け取り早速食べ始める。そしてこれまたアイスを食べる凛が可愛らしいことこの上ない。その様子をまたもガン見していたら今度はご本人に気付かれてしまった。
「なに?」
「えっ?!な、なんでもないよ?!」
「?……あっひとくちたべる?」
ここでまさかのイベント発生ですか?!間接キスとあーんイベントが同時に起こるの?!えっいくらなんでもその発想はキモいって?んなこと一番私が分かってるわ!
「いいの…?」
「うんっ」
「おい、凛は食うなよ」
「食べないよ?!」
この世界マジで最高すぎひんか?
転生させてくれた神様に圧倒的感謝ッッ
◇
サッカー選手として日々成長を見せる糸師兄弟を追っていた小学生時代を終え、私は市内の中学校へと入学した。全人類の黒歴史は中学時代に生成されるのが世の理であるが二回目の人生である私は同じ轍を踏まないよう注意を払った。
というのも、せっかく前世の記憶ありで二度目の人生を歩んでいるのだから今世は今世で楽しんでやる気満々だったのだ。前世では入らなかった部活動にも取り組んでみたいし、この時代の流行にだって乗ってみたい。だって私が学生の頃はスマホなんてなかったんだもの。だからか実年齢の年甲斐もなくTikTokデビューに憧れている私はいる。
「帰るぞ。早くしろ」
だが私の第二の人生計画はことごとく崩れ去った。なぜって?それは放課後、毎日毎日ご苦労にも一年の教室まで出向いてくる糸師冴サマのせいである。
「わっ!今日も来てる!」
「やっぱりあの二人って付き合ってるのかな?」
「イケメンすぎる!マジ目の保養〜」
このイベントが定着化したせいで私は部活にも入れず放課後直ぐに家に帰ることが強いられた。因みに冴は学校外のクラブチームに入っているため帰宅部扱いになっている。
「冴くん、偶には私以外と帰ったら?」
「あ?なんでだよ」
「私にも予定があるの」
「ねぇだろ、お前友達いねぇんだから」
誰のせいだと思ってんの?!そうだよ、部活どころかクラスに仲いい子一人すら作れてないよ!
私の一つ上の学年である冴は超有名人である。そりゃあ小さい頃から天才だとメディアにも取り上げられ将来サッカー界で活躍されることが確約されている人物であり、加えてこの顔だ。おまけに中学に入ってから身長も伸びさらなるモテ要素を得た冴を女たちはほっとかなかった。
「冴くんっ!あの、少し時間貰えないかな?」
現に今も二人並んで校門を目指し歩いている中、冴に話しかけに来た女子生徒がいた。制服に入っているラインの色を見る限り冴と同じ二年生の人だ。
「今急いでる」
「少しでいいの!」
「コイツ家まで送らねぇといけねぇから。じゃあな」
「あ……」
さすがの冴サマ、結構可愛らしい人だったのに所詮はモブとばかりに一瞬にして蹴散らした。というかそれができるなら私一緒に帰らなくてよくね?だって冴が私と帰る理由って近づいてくる女子を避けるための虫よけみたいなものだし。
「チッなんだよ隣の女」
「あの一年、調子乗り過ぎだろ」
「一回締めとく?」
そして彼女らのフラストレーションは全て私にぶつけられる。冴に邪険にされた女子生徒の周りには数人の女子がいて。その人たちが私を睨んでいた。こわぁ…この手のイジメって中学が一番エグイ印象ある。ほんと巻き込まれ事故は勘弁してほしい。まぁイジメられたとしてもこっちは社会の理不尽を生き抜いてきた元社畜OL、何かあっても然るべき処置は取らせていただくつもりなので怖くはない。しかしやはりいい気はしない。
「はぁぁぁ」
「隣でデケェため息つくな、辛気臭くなんだろ」
「冴くんはメンタル面で周囲の人間に影響されるタイプじゃないでしょ。そこは男らしく私の辛気臭さを受け止めてよ」
「それやったところで俺にメリットねぇだろ」
「そんなことないよ!なんと私への好感度が上がります!」
「くだんねー」
そりゃないぜ若者よ。この好感度上げのために世の乙女がどれだけ選択肢に悩まされ続けてると思ってるんだ。相手の好みの服装を把握しクラブやバイトで経験値を溜めつつ学力や運動といったパラメーターを上げて……あっ風真くんはちょっと下がってて!他の子との修学旅行イベ起きなくなっちゃうから!
「おらよ」
「え?……わっ?!」
まぁ私としては冴に嫌われさえなければいいので、いつも通り一方的に話し続けていればコンビニに逃げられた。と思ったらすぐに戻ってきた。そして冴にアイスを投げつけられる。それはもちろんチョコアイス。いつも冴が凛の分と一緒に買ってくれるものだった。
「食え」
「は?えっなんで?」
「気まぐれ」
フン、と鼻を鳴らして冴は歩きだす。私は渡されたアイスの袋をごみ箱に捨ててから冴のことを追いかけた。
「すごいよ冴くん、今ので好感度百上がったよ」
「たかがアイス一つでかよ。チョロすぎんな」
「違うよ、冴くんの優しさ含めての評価だよ」
「…………」
「アイスありがとう」
「…落とすなよ」
これが冴なりの気遣いでありデレなのだろうか。凛同様、幼少期から共にいるが未だに冴の解像度が悪いため真意が読み取れないところがある。くそっこんなことなら前世でもっと冴の夢小説を読み漁っておくべきだった。
そしてその年に冴はスペインへと旅立った。昨年、彼らが所属するクラブチームがU-15の大会で優勝しその将来性を高く評価されレ・アール≠ゥらお声が掛かったのだ。原作では一コマ程度にしか描かれていなかった出来事だが周囲の反応は非常に大きなものだった。
「怪我だけには気を付けてね」
「分かってるわ」
「あっ塩こんぶ茶とか梅干しとかインスタント味噌汁とか送るから住所教えてよ」
「そういうのは母さんに頼むからいい」
「録画したちびまる子ちゃんのDVDも付けるよ」
「押し売りかよ」
「そしてなんと今なら私の直筆手紙付き!」
「分かった、あとでLINEしとく」
空港に向かう前にうちに顔を出してくれた冴とそんな会話をした。冴はこれから世界を見て、そして世界一のストライカーになることを諦める。この未来は変えられないだろう。しかし、そもそも十代の少年が知り合いの一人もいない海外に行くことに不安がないわけではないだろう。だからこそ、せめてその孤独だけは和らげてあげたいと一人の大人として思ったのだ。
「冴くん、いってらっしゃい!」
そして冴は「世界一のストライカーになる」と言って旅立っていった。
その時みせた自信に満ちた表情には胸が苦しくなった。
中学で迎えた二度目の春。中一のときはお陰様で友達ゼロ人であったがクラスも変わり心機一転。お一人様の学校生活にも慣れたが二年では修学旅行もあるしやっぱり仲いい子はほしいよね。よし、人生二度目にして初のキラキラアオハルライフを過ごしてやるぜ!
「迎え来た。帰ろうぜ」
だが私のライフプランはことごとく崩れ去った。なぜって?それは放課後、毎日毎日ご苦労にも二年の教室まで迎えに来る糸師凛のせいである。なにこのデジャヴ。兄弟揃って同じことしなくていいから。
「かっこいい〜!一年生かな?」
「あれって噂の糸師冴の弟じゃない?」
「確かに目元似てるかも」
全てを悟った私は処刑台に上がる囚人が如く凛に着いて行った。グッバイ私の学園生活。イマジナリーフレンドと共に私は中学の卒業式を迎えます。だがしかし、推しとの下校イベントは割と嬉しい。
「凛ちゃん、また身長伸びた?」
「そうか?」
「前に会ったときより一センチくらい伸びた気がする」
「よく気付けんな」
「そりゃあ小っちゃい頃から見てるもの。これからもっと伸びるよ」
「兄ちゃんくらいデカくなれっかな」
「寧ろ冴くんの身長抜くくらい大きくなれるよ!私が保証します!」
「どこから来んだよその自信」
小さく笑った凛に、まだこの頃は笑うんだなぁとしみじみしてしまった。少年が青年へと成長する僅かな時間。喉には僅かなふくらみができ、顔は丸みが取れてシャープな形に仕上がりつつある。原作軸に近づきつつあるのが嬉しくもあり悲しくもなってくる。それはあの雪の日に近づいているからだ。
「昨日お風呂上りに食べたアイスからかな」
「単純すぎんだろ」
「これぐらい単純がちょうどいいの!気負い過ぎると疲れちゃうでしょ。凛ちゃんももう少し肩の力抜いていいと思うよ」
そしてその前に凛は大きな壁にぶつかることとなる。冴がいなくなってから凛は今までのようにシュートが決まらなくなっていた。凛のレベルについていけるチームメイトがいないのだ。だから凛はこのチームでは自分を殺し、チームの実力に合わせチームを勝たせるためのサッカーをしなければならない。
「……お前も俺は兄ちゃんがいなきゃ点も取れねー人間だと思ってんのか?」
「違うよ。ただ、凛ちゃんに合わせられるのが冴くんだけだったとは思ってる」
「ならどうすりゃいいんだよ。兄ちゃんに追い付きたいのにチームは結果を残せずにどんどんレベルが下がってきてる」
凛と冴の立場が逆だったとしてもきっと同じことが起きていたのだと思う。そう考えると冴はすごく恵まれていたと思う。凛と言うパートナーがいなければ冴はあの若さであそこまでの実績は残せていなかったのかもしれない。
「冴くんがいないチームで結果≠セけを残すなら凛ちゃんが周りに合わせてチーム全体を引き上げるしかないと思う」
「んなの不自由だらけのクソつまんねぇサッカーじゃねーか」
ストライカーとしての成長を放棄してのプレースタイル。不自由で退屈なサッカー。でも凛も現状それが最適であることは気付いているのだろう。イラついてはいるがその言い方は弱々しく、理解はしているようだった。
「それならフィールドを支配するって考えると少しだけ見え方が変わるかも」
「支配?」
「コートは盤、チームメイトは駒。ゴールから逆算して攻撃を組み立てて点を取る。凛ちゃんがシュートを打つ回数は減っちゃうけど凛ちゃんが駒を使ってゴールを決めさせればチームに点は入る」
「衝動じゃなくて思考して動くってコトか?」
「そういうことになるかな」
「……やってみる」
そして凛はストライカーとしての自分を殺し、チームの勝利のためにプレースタイルを大幅に変えた。そうすればチームは再び点が取れるようになり試合にも勝てるようになった。凛の努力は最優秀選手賞という形で証明され、結果だけ見れば着実に冴の後を追っていた。
「おい、なに勝手に帰ろうとしてんだ」
昔ほどクラブチームの練習を見に行くことは減ったがそれでも試合がある時は毎回見に行った。この日は地元のクラブチームとの練習試合であったが結果としては凛たちのチームの圧勝であった。
「えっ凛ちゃん?!なんでここにいるの?」
「現地解散だったから後追いかけて来たんだよ」
相手は思春期真っ盛りの男子中学生。知り合いがいると分かれば嫌がるかもしれないと思い黙って試合を見に来たのだ。推しには愛されるよりも罵倒されたい派の人間ではあるが流石に嫌われたくはない。
「私が見に来てたの気付いてたんだ」
「キックオフの時点ですぐに見つけたわ」
「すごっ」
さすがは空間認識能力の高い男。そのターコイズブルーの瞳はまさに鷲の目…いや、鷹の目といた方が正しいだろうか。この目の呼称を聞くとどこぞのバスケ漫画を思い出すが天帝の眼までは極めなくてもいいかな。
「そういや進路ってもう決めてんの?」
二人並んで家の方へと歩いていれば凛が唐突にそう聞いてきた。友達がいない中学校生活も気付けば残り半年ほどになっていた。そして私は今さらながらあることを思い出していた。それは前世での無念の一つであり、しかし今世はそれがもっと良い条件で叶う事柄であった。
「うん、白宝高校を受けるつもり」
「白宝?聞いたコトねーな」
「そりゃあ東京の高校だからね」
前世での無念の一つ、それはエピソード凪を観る前に死んだこと。だからこそ私は今世で本物のエピ凪をリアタイしてやろうと思ったのだ。現在の年齢的に私は彼らと同い年。時期としては申し分ない。俺だけの宝物を私だけにも見せてくれ。
「は?なんでわざわざ東京の学校に行くんだよ」
「もちろん将来のためだよ。そこの学校偏差値が高くて有名でさ、有名大学との繋がりも多いから大学推薦貰いやすいんだよね」
という建前で親は説得した。だがそれもまた本意である。原作ではまだ描かれていなかったが凛は将来的に海外のクラブチームで活躍するだろう。それなら私はこの世界でも勉強に勤しみ言語力と手堅い職を身に着け、地球の裏側まで凛を追いかける準備をしなければ。金はいくらあっても無駄にならない。
「お前の学力なら市内の進学校でも十分やってけるだろ」
「でもさぁやっぱり東京って憧れない?おしゃれだし可愛いものや新しいものもたくさんあるし」
「鎌倉も観光地なんだから似たようなモンあんだろ。それに毎日自宅から通学すんのも大変だろ」
「そこは学校が持っている寮に住もうかと……」
「あ?」
実はもう一つ白宝を受けようと思った理由がある。それは凛と距離を置くためだった。これは薄々感じていたことなのだが、私の存在が凛にとって大きなものになっていると気付いてしまったからである。前世の記憶を持って転生した身と言えども青い監獄≠ニいう世界においてはただのモブに過ぎない。
「学校も徒歩圏内にあるみたいなんだ」
「集団生活なんてストレスしかねぇんだからやめとけ」
「寮って言ってもアパートを借り上げたところだからほぼ一人暮らしみたいなものだよ」
「それはそれで危ねぇじゃねーか。女の一人暮らし、頼れる奴もいねぇ場所で襲われたらどうするつもりだ」
「そのアパート自体住宅街にあるしそこまで治安が悪い場所でもないかと……それに不審者に狙われるほど大した容姿でもないからだいじょ……」
「あ゛?お前、鏡見たコトあんのか?」
「毎日見てるが?」
私の認識としてはただのモブだからこそ彼らに関わってもどこかで歴史修正がなされ原作通りに事が進むと思っていた。しかしそれが最近になって不安になってきたのだ。言うなれば私は今、時間遡行軍的な存在。柄までぶっすりやられる可能性も無きにしも非ず。
「お前が東京の学校に行くコト俺は認めねーからな」
そもそも凛は冴がスペインに行ってからは独りであるべきだったのだ。不自由さと苛立ちを抱え、内に秘めた衝動を静かに滾らせてブルーロックでそのエゴを解放するはずだった。しかし私という存在が凛の成長の障害になりつつある。
「認めてもらえなくても行くよ。自分の人生は自分で決める」
幼少期の可愛い凛も、兄の言うことを聞く素直な凛も、藻掻きながら成長する凛も、尊い存在だ。でも私が推せる!と思ったのは兄に見限られ潔世一に敗北し、それでも藻掻き醜く喰らいついていく姿に惚れたのだ。
「……も…かよ」
「え?」
小さな声が聞こえ足を止める。振り返れば三歩後ろに自身の足元を見つめ棒立ちになっている凛がいた。前髪のせいでその表情は見えない。
「凛ちゃんどうしたの?」
すぐに駆け寄っておそるおそるその顔を窺う。すると凛はバッ顔を上げて私のことを睨みつけた。そしてその瞳は濡れていた。
「お前もいなくなんのかよ!不自由で息苦しくて楽しくなくなったサッカーだけを残して、兄ちゃんもいなくなったこの場所に俺だけ残していく気かよ!」
な、泣いてる?!えっうそ、割とガチ泣きじゃん?!あの雪の日にすら涙を見せなかった凛が、顔面にキックを喰らっても涙を見せなかった凛が泣いてるだと?
「そんな一生の別れってわけじゃないんだから泣かないでよ。東京から鎌倉なんて一時間くらいの距離しかないんだから」
「そーゆー問題じゃねぇ!俺から離れんな!一人にすんじゃねーよ!」
よしよしと背中を擦ってみるが泣き止む気配はない。マジか、どうしよう……というかここまでくると解釈違いなんだけど。エゴイストの弱っている姿がダメとかじゃなくて、たかがモブである私一人にここまで依存していることが受け入れられないのだ。
「凛ちゃ……」
「一番に応援してるって言ったじゃねーか!」
「うっ……」
だがしかし、この様子に心を揺さぶられないわけではない。思えば一時期、監禁ものやヤンデレ作品ばかりを読み漁っていた時期もあったしな。
「お前がいなくなったら俺は……」
「わかった、わかったから!高校は市内のとこ受けるよ!」
「ほんとか?」
「うん!勉強はどこでもできるしね!」
凪と玲王の姿を間近で拝めなかったことは心の底から悔やまれるがこの状態の凛を放ってはおけない。それに凛がこうなってしまった責任は私にある。だから凛がもう少し大人になるまでは傍にいようと決めた。
「これからも傍にいろよ」
「わかったよ。ほら、今日は凛ちゃんの好きなアイス何でも買ってあげるからコンビニ寄って帰ろ」
いつかの時のように凛の手を取って歩きだす。その手はもう私よりもはるかに大きくなっていた。
◇
その夜は前線の影響で鎌倉でも珍しく雪が降った。白い雪がはらはらと舞い、夜との対比が美しい。星が見えない夜空では雪が主役。そしてそれが照明の光によって照らされればより幻想的に見えた。
「四年ぶりだっけ…?てか…明日帰国の予定じゃなかった?」
「ああ、早まった…」
その世界の真ん中に二人はいた。
「なぁ凛…世界は広いぞ。俺よりもすごい人間はいる…」
そして私は近くの茂みから対面する二人を見守っていた。
そう、これは糸師凛と糸師冴を語るうえでは外せない例の出来事が起こるシーンである。ファンの心すらも抉った第百二十四話から百二十五話で描かれた『ナイトスノウ』がいま目の前で起きている。
「俺は…世界一のストライカーじゃなく世界一のミッドフィルダーになる」
このシーンを実際に見るかどうかはかなり迷ったけれど気付けば私はマフラーを巻いて家を飛び出していた。この場面を見ずにして糸師兄弟は語れない。
「俺が一緒に夢見たのはそんな兄ちゃんじゃない…!!」
そして始まった一発勝負の一on一。
「凛、お前は俺のいないこの四年間ここで何をしてたんだ?」
それは瞬きの瞬間さえも与えずにすぐに決着がついた。圧倒的センスと技術、世界トップレベルの実力が凝縮されたワンプレー。今の凛に世界を見せつけるには十分すぎるほどの一瞬だった。
「兄ちゃんと夢追えないならもう…サッカーする理由が…俺には無いよ…」
「だったら辞めろ」
「……え」
続く冴の言葉を聞きながらマフラーに顔を埋める。前世では凛贔屓でこのシーンを見ていたが冴の表情と声色から彼もまたこの時、相当苦しい思いをしていたことが窺えた。そりゃそうか。凛の才能を見い出しそれを磨き上げたのも冴だ。もちろん凛の努力があってのことだけどサッカー選手に必要なものを凛は持っている。
「クッソ反吐が出るぜ。もう二度と俺を理由にサッカーなんかすんじゃねぇよ」
それは冴すら持たない才能も含まれる。分かりやすいところで言えば身長と体格。またU-15の決勝戦ラスト三分でみせた姿がそれだろうか。
「——……消えろ凛。俺の人生にもうお前はいらない」
だから冴の発言が一括りに酷いものだとは思えなかった。そして推しではなかったにせよ、少なからず今世では冴とも交友を築いていたためほっとけない自分がいた。この出来事があったすぐ後の描写は凛視点では描かれていたけど冴について描かれてはいなかった。
「冴くん!」
「お前なんでここに……」
だから私は冴の後を追った。サッカーコートから離れたここは照明の光も届かず薄暗い。それでも冴の顔がやつれていて濃い隈があるのが分かる。それは世界で戦ってきた確かな証拠だった。
「凛ちゃんの様子を見に来てたんだ」
「じゃあ今のも聞いてたよな」
「うん。盗み聞きしてごめん」
私が謝ると冴は音がないため息をついた。それはどこか悲観しているような、雪よりも冷たいものだった。
「ならさっさと凛のとこ行け。俺はアイツを捨てたんだ、お前が拾ってやれ」
それだけ言って冴は再びキャリーケースを引きずって歩きだす。おいこらちょっと待て、まだ私の話は終わっていないだが?というか始まってもいないんだけど。
去り行く背中を追いかけて手を伸ばす。お節介であることもウザイ行動であることも承知のうえでキャリーケースの持ち手を掴んで引き留めた。
「おい、なにすん……」
「冴の選択は間違ってなかったと思う」
私の中で凛の存在も冴の存在もすごく大きなものになっていた。それはもう、推しとかそういう次元の話じゃない。だからこそ冴に対して言いたいことはいくつもあった。
「ミッドフィルダーになるのを選んだことも凛ちゃんと夢を追うのを辞めたことも、間違ってないよ」
「は?サッカーも出来ねぇ世界も見てねぇお前に何が分かんだよ」
「でも冴くんが悩んで決めたことくらいは分かる」
「は……」
口が悪くて短気でも考えなしに行動する人ではない。それはみんな知っている。
「これからも冴くんのこと応援してるから」
「お前の中の一番は凛じゃねぇか」
「私は寛容な人間だからね、一番の枠は二人分あるの!」
凛だってわかっているはずのことだ。今日の出来事は一生凛の心に残るだろうし冴を憎む気持ちも変わらないだろう。でもこの日の冴の行動を理解してくれる日が来ることを願っている。
「ハッよく言うわ」
「ほんとだって!いつかスペインまで冴くんの試合見に行くからレギュラーから落とされないように頑張ってね」
「そん時はチケット送ってやるよ」
その日が来るまで、私はこの兄弟の傍に居たいと思うのだ。
◇
皆さんは命の危機に瀕したことがあるだろうか?
私の場合、前世で一度死んだ身ではあるがあれは一瞬の出来事だったのでノーカンだ。それ抜きで考えるとなると思い出される出来事はひとつ。あれはネット注文した品のお届け先住所を実家から変更していなかった大学生時代。バカデカいダンボールを実家に送り付けてしまったことがあった。中身は当時の推しの等身大パネル。家族に見られたら死ぬ…!と配達完了通知と共に新幹線に飛び乗った記憶がある——そして今、私は同じ過ち犯していた。
「冴くん冴くん冴くん!」
『うっせぇ』
「早く開けて!」
インターホンを押してマンションのセキュリティを解除してもらう。そしてすぐさまエレベータに乗り込み階を選択。扉を閉めるためのボタンは壊れるほどに連打した。
「冴くん冴くん冴くん!」
「うっせぇ。分かったから早く入れ」
「クソお邪魔します!!」
スペイン在住の冴の家へと滑り込む。オートロック式の扉がガチャリと音を立てたことで私はようやく息をつくことができた。
「お前ひとりか?凛はどうした?」
「凛ちゃんから逃げて来たから一人なんだよ……」
フランスからスペイン行きの飛行機に乗り込んだのが三時間前の出来事。その間、私のスマホはうるさいくらいの通知を告げていたが一切見ていない。だって凛がブチ切れていることは容易に想像できたから。
「一緒に暮らし始めて一ヵ月ってとこか。喧嘩か?」
ソファに座り冴の用意してくれたお茶をすすりながら一息つく。隣に腰を下ろした冴は脚を組みながら呆れた目でこちらを見ていた。
「喧嘩ってわけじゃないけど……というかそもそも一緒に暮らすこと自体同意してない!」
時は流れ私は大学を卒業し社会人となった。そして今はフランスを拠点としフリーランスのwebデザイナーとして働いている。こちらに来て二年ほどは一人暮らしをしていたのだがアパート更新のタイミングで凛の家に移った。というか知らぬ間に退居手続きをされていたのだ。そもそもアパート自体、凛の名義になっていた。契約の際、凛に手伝ってもらったのだがその時に名義を自分にしていたらしい。
「生活面みてもらえんなら不自由もねぇだろ。で、なんでお前は来たんだよ」
「通販で買ったものが家に届いたんだけどそれを凛に見られた」
さて、ここで本題に戻ろう。そしてこのタイミングで暴露させて頂くと今世で私はミヒャエル・カイザー推しのオタクになっていた。
「お前またグッズ買ったのかよ」
前世でも、おおっこの新キャラかっこいい〜!潔の次のライバル枠はカイザーか!って感じには一人盛り上がっていた。そしてもちろん二次創作も漁った。ただその中で私はあることに気付いたのだ。彼はあちら側≠フ人間であることを。
「だって本人が印刷されたビッグタオルはファンとして買うでしょ!」
「相変わらず趣味悪りぃな」
まぁ原作で主人公から新手のI LOVE YOUを受け取りあれだけエゴ丸出しの喰いあう姿を見せつけられればそちらの二次創作が多いことも頷けた。だから私としては立ち入らない方が身のためだと判断し対岸から眺めている程度だったのだが、同じ世界線に来た今その認識は変わった。だって実物がクソかっこよすぎるんだもの(チョロ
「つーか一緒に暮らし始めたんなら凛にもアイツのファンだってバレてんだろ?今さらじゃねぇか」
だからと言ってこの気持ちはお近づきになりたいとか付き合いとかそういう類のものではない。誰だって美しい景色には心を奪われ美術品は長時間眺めたくなるものでしょう?それと一緒。そこに前世から引継ぎし収集癖が火を噴いてこうなっただけである。これもまた自然の摂理であろう。
「バレてないよ。引っ越すタイミングでレンタル倉庫借りてそこにグッズは全部隠した」
「なら新しい物を買うな」
「ポチったのは半年前だったんだよ!」
予約注文のしすぎと発売期間までの長さで次配達されるグッズが何か忘れるのはオタクあるある。注文当時は引っ越すことなど微塵も思っていなく当時の住所を登録していたのだが転居届が仕事をして凛の家に届いてしまった。そして本人に中身を見られたのが三時間と三十分前のこと。
「凛は独占欲強いからな。そうゆうのは気にするタイプだぞ」
前世ではバレた先がオタクに理解のある両親だったため事なきを得た。まぁ母親からの『お父さんが組み立ててくれたわよ!』の写真付きのメールには膝から崩れ落ちたけども。しかもなんでおとんは等身大パネルの推しと肩組んどんねん。こんなカプ見たくなかったわ。
「そうだよね。あーもー絶対タオル燃やされてるよ……」
冴もこのあたりには理解がある様子だが凛の場合はそうではなかった。サッカーでも、この前の潔くんのゴールすごかったよね!と言えば「は?俺のが上手いだろ」と返し、雪宮くんのスポーツドリンクのCMかっこいいよね〜と言えば翌月には別メーカーの飲料水のCMに出ていた。またローズの香水を付けてた日には「バラくせぇ」と言われファブリーズをぶっかけられた後に別の香水を渡された。カイザー選手プロデュースの香水であることは言っていないのですごい嗅覚である。それもこれも初めはただの負けず嫌いなのかとも思ったが、強制的に始まった同棲で私は気付いてしまった。
「いい加減、腹くくれ」
凛は私のことが好きなんだ。
「できないって……」
でもそれは喜ばしいことではない。
確かに前世では散々凛の夢小説を読んだ身ではあるが今世で付き合いたいとは思わない。というか恋愛感情すら一切沸いたことがなかった。それはやはり幼馴染として育ったからか弟という認識が私の中で強いからだ。
「幼少期からあれだけ可愛がっておいて今さら捨てる気かよ」
「それとこれとは別だよ」
あとは私の精神面での問題だ。こちらは記憶持ちで転生した身である。前世の年齢+今世の年齢=半世紀越え、である私が凛と恋愛するだなんてどことなく後ろめたさを感じてしまう。そんなこともあり幼馴染以上の関係になろうとは思っていない。
「は?お前、凛のコト好きなんじゃねぇのかよ」
どうしたものかソファに身を預けて考え込んでいれば冴が驚いた顔でこちらを見ていた。本当にこの兄弟は目がそっくりだなぁと感心しつつ冴の言っている意味が分からず首を傾げる。いや、それ今さら聞くこと?
「好きだよ。凛ちゃんのことは実の弟のように思ってる」
「それマジで言ってんのか?」
「えっマジだけど。もちろん冴くんのことも好きだよ」
私たちってもはやファミリーみたいなものじゃない?あっでもそう思ってたのは私だけかな。冴と凛の仲は相変わらず歪ではあるが決別しているわけでもない。現に連絡は取っているようで今までも凛の口から冴の名前を聞くことがあった。
「じゃあ文句はねぇよな」
「は……」
フッと目の前に影が落ちる。そしてソファが深く沈んだ。顔を上げれば見知ったターコイズブルーと目が合って息を呑む。そして脳内で冷静に今の状況を分析する。……おや?もしかして襲われてます?
「さささ冴さん?!急にどうしたんですか?!」
「いや、今俺のコト好きっつったろ」
「それは家族のような存在でという意味ですけど?!」
「おい!何やってんだよ兄貴!」
「凛か、早かったな」
私に追い被さっていた冴を押しのけるように凛が割って入る。いや君は一体どこから来たんだ、と思いきや凛の手には合鍵が握られていた。この二人もうそこまで仲が回復してたのか。というかフランスからスペインまでfackに移動してくるんじゃないよ。あっでも私のすぐ後の便に乗って来たのかな。だけど場所までは分からないんじゃ……
「ふざけんじゃねーぞ兄貴!」
「コイツから俺に連絡あった時点ですぐに教えてやったじゃねぇか」
「そうじゃなくて今のこの状況がだよ!」
お前らグルだったんかーい。え、マジで今何が起こってるの?当事者であるはずの私が付いていけてないんですけど。でもただ一つ分かっていることはここに私の味方はいないってこと。
「で、お前はどこ行く気だ」
「えっ?!」
こっそり逃げようとしたところで冴に腕を掴まれた。そして降り注ぐは四つのターコイズブルーの眼光。今のこの状況は大学の新歓コンパでDQNな人らに囲まれたとき並の居心地の悪さがある。
「そろそろお暇しようかと……」
「もう帰るからソイツのコト離せ」
しかし冴の手は離されない。そして凛も凛で私の腕を掴んできた。おいやめろ。君ら二人は背が高いんだから座ってる状態のまま両腕掴まれると囚われた宇宙人みたくなるんだよ。
「コイツは俺らのコトをすでに家族だと思ってるんだと。そうだよな?」
二人の間でひとり囚われた宇宙人ごっこをしていれば冴が突然語り出して私に同意を求めて来た。急になんだってばよ。しかしこの状態が改善されるならと私は一つ頷いた。
「あ、うん。冴くんのことも凛ちゃんのことも家族のように思ってるよ」
そこでようやく冴が手を離してくれた。そして凛も倣うように私から手を離す。その一瞬の隙をついて再び逃げることも考えたけれどここで逃げても何も解決はしないだろう。だからそのまま冴の話に耳を傾けた。
「付き合うだとか恋愛だとか、そういうもん全部すっ飛ばしてコイツは俺らのコトを家族だと思ってんだ。この意味が分かるな凛」
「そうか!わかったよ兄ちゃん!」
いや分からんけども。なんか新興宗教の勧誘みたいな丁寧な語り口だったけど分からんよ?私が馬鹿なのかな。こうも二対一の状況を作られると自分の理解が乏しいのかと不安になってくる。しかし彼らの会話を何度脳内で復唱してもイマイチ分からん。
「ところで移籍の話はどうなった?」
「問題なく進んでる。これから住むところは決めようとしてたケド、三人で住むならマンションより家かな」
「だな。そういやスポンサーの中に不動産取り扱ってるとこがあったな。連絡しておく」
「さすが兄ちゃん」
背後に宇宙を背負いながら二人の会話を傍観していた。口を挟む隙もなければもはや挟む気もなかった。だって彼らは生粋のエゴイストだもの。こちらがどんなに喚いたところで最終的には己のエゴを押し通す。
「それまでコイツはどうするか」
「そうだな……一先ず俺と兄ちゃん、どっちの家に住みたい?」
うん、状況は理解できた。でも生憎サンドは苦手なのよね。そもそも君らのこと恋愛対象として見てないから。だからこれは、なしよりのなしよりのなし。
「一人暮らしがしたいですね」
しかしこちらの思いは通じずに、
「「却下」」
私の人生はどうやらここで詰んだらしい。