紫丁香花は氷羊の夢を見るか?
髪を乾かすのもそこそこに自室の扉を閉めてメッシュ生地の椅子に腰を下ろした。そして足元に置かれた機材のスイッチを押せば目の前の二台のモニターに明かりが点く。しかしちょうどパソコンの更新が入りすぐには立ち上がらなかった。あーもー早くやりたいのに。しょうがないので起動するまでの間スマホを弄る。
「イベントも終盤か……マッチングできるか微妙だなぁ」
無意識に独り言をつぶやきながら今やり込んでいるネトゲの情報を攻略サイトとSNSから収集する。イベントとテスト期間が被りSNSのチェックすらままならなかったのだ。そこでフォローしているVtuberのリンクから動画サイトに飛びイベントの攻略動画は流し見する。その間にゲームのアップデートも済ませ約一週間ぶりにログインをした。
「とりあえず先にデイリーやっとこ」
感覚を取り戻すためにも難易度低めのものを選び攻略していく。初めのうちは指が思うように動かなかったりもしたが二面程クリアすれば元のようにキャラを操作することが出来た。
《ice sheepがログインしました》
デイリー報酬を受け取ったところで画面の右下からポップアップが出現する。ゲーム内フレンドがゲームを始めるとこのように通知が入るのだ。私はこれ幸いにとマイクをオンにし画面を見つめながら話しかけた。
「ヒツジさん、お疲れ様でーす」
ゲーム仲間のice sheepさん、でもそれだと長いので「ヒツジさん」と呼ばせてもらっている。一度ランダムマッチで共にボス討伐をしてからは仲良くさせてもらっていた。
『おっライラやん。久しぶりやな』
私もゲーム内では『Lilac』というニックネームを使っている。でもやはりこれも長いので「ライラ」と略して呼ばれることが多かった。
「久しぶり」
『最終ログイン日が一週間前になっとったから他のゲームに移ったん思うてたわ』
「違う違う。昨日今日で学校のテストが合ってさ、勉強しなきゃだったからゲームできてなかったんだ」
『そうやったんか。テストお疲れさん』
ヘッドホンから柔らかな関西弁が聞こえ、それと同時に画面上にキャラが現れる。その頭には『ice sheep』との表記があった。私が今いるサロンではプレイヤー同士の交流ができるのだ。
「ありがと。ところでヒツジさんはイベントやり終えた?」
『おん。序盤はソロでもなんとかなったけどIVから難くなってな、ラストステージは鮫肌さんとAZさんと一緒にやったわ。それでもギリやった』
「マジか」
鮫肌さんは大学生であるがバイト代をすべてゲームにつぎ込んでいるらしくとにかくキャラが強い。またAZさんはプロゲーマーでこのゲームは本業とは別に息抜きでやっているだけらしいが言わずもがな上手い。そしてヒツジさんも派手なアクションこそないものの視野が広くて戦略を立てるのが上手いためチームの牽引に優れている。そんな三人が集まっても難しかったのか。
『ライラは今からやるん?』
「うん、周回は無理でも初回報酬くらいはもらっときたいからね。でも難しいんだ……」
『僕でよければ手伝おか?マップは覚えとるからキャリーくらいならできんで』
基本的にはソロプレイで攻略可能なコンテンツとは謳っているが高難易度はそれこそかなり上手い人でないと立ち回りが難しい。マルチの場合は敵の体力が増えたりマップが広くなるというデメリットこそあるが、やはり手数が増えるので攻略は楽になる。
「えっいいの?さすがヒツジさん、優しい!」
『めっちゃ食い気味やん。そもそも自分そう言ってもらえるの待っとったろ』
「実はね」
『ふふっ素直やな』
ヒツジさんに釣られてこちらも思わず笑ってしまう。そして改めてお礼を言ってキャラの装備を整えた。
『準備できたんならTからやってこか。キャリーとタンク役は任せとき』
「お願いします!」
『ほな、いのちだいじにいきまひょか』
『ice sheep』と『Lilac』の文字が横に並ぶ。
顔も本名も普段は何をしているのかも知らないけれどヒツジさんには絶対の信頼を寄せている。そして一緒にゲームをしているこの時間が何よりも好きだった。
◇
塾から帰ってきて玄関の扉を開ければそこには二足の靴が並んでいた。黒い革靴と五センチヒールのエナメルパンプス。そしてリビングから飛んできた怒鳴り声にがっくりと肩を落した。
「期末のこの時期は忙しいって貴方も知ってるわよね?!」
「出張なんだから仕方ないだろ。それにそっちは忙しくても時間休くらいは取れるだろ」
「はぁ?!それで売り上げが下がったらどうしてくれんの?次の査定に響くんだから結果を残さないといけないの!」
「それはお前の頑張り次第だろ。そもそも子どもを作るとき、お前が面倒見るって約束だったじゃないか」
「貴方だって父親としての責務は全うするって言ったじゃない!」
「こうして働いて家のために生活費を入れてやってるだろ!」
「私だって働いてるんだから同じだわ!」
あーヤダヤダヤダヤダヤダヤダ。
思考を全てシャットアウトし音を立てずに自分の部屋へと直行する。
あの二人は顔を合わせるといつもこれだ。特にここ最近で一番ひどかったのは父親の仕事の都合で関東から大阪に引っ越すことになったときだろうか。それでも二人が離婚しないのは互いの社会的体裁が悪くなるから。だから大阪に引っ越してきてからは仮面夫婦よろしく表面上は穏やかな日々を送っていたというのにその仮面も今や崩壊しつつある。そして今回の喧嘩の原因は私らしい。おそらく来月の三者面談にどちらが出席するかで揉めているのだろう。
「いい?入るわよ」
急かすようなノックが二回、そしてこちらの返事を待たずして部屋の扉が開けられる。久しぶりに見た母親の顔はどうにも老けたように感じられた。といっても私が意識的に親の顔を見たのなんて数えるほどしかない。
「来月の三者面談だけどこの日は無理だから第一週木曜の一番遅い時間にしてもらって」
「日時変更は無理だって担任が言ってたんだけど」
「ちゃんと頼んでみなさい。でもその日以外はいけないから変えられなかったらアンタ一人で進路の話をしてきなさい」
「わかった」
「それと大学のことだけど、」
「わかってるって」
「ならいいけど。……はぁ」
そのため息が私に向けられたものなのかそれとも父親に向けられたものなのかは分からない。しかし一度も目が合わなかったからきっと誰に対して向けたものでもなかったのだろう。
「……ダルすぎ」
バッグの中からコンビニで買って来た飲料ゼリーを取り出してキャップを開けた。塾に行く前に買った夕食の残りだ。それを咥えてベッドの上へと転がる。今部屋から出てあの人らに鉢合わせるは嫌で、かといってゲームをする気にもなれなかったので寝転がったままスマホでSNSを立ち上げた。
『イベントまであと二日!一周年記念のリアルイベント、来場者様への追加特典情報!』
そして目に飛び込んで来たのは絶賛ハマっているネトゲの公式アカウント情報。そういえば週末に大阪でリアイベやるんだっけ。電車の乗り継ぎはあれど家からそれほど遠いわけでもない。でもこういうのはやっぱり男の人が多いから行きづらいんだよね。
『キャラクターのオリジナルエモートまたゲーム内チャットで使えるアイコンを配布!そして星4素材アイテムを各十個プレゼント!』
マジか。星4素材はゲーム内でも手に入るがドロップ率が低く合成するにしても低ランク素材がアホみたいに必要になってくる。これは割と欲しいかもしれない。
『素材ほしい!現地行こっかな!?』
思わずそう投稿すればすぐさまネトゲ仲間からリプが飛んでくる。が、生憎交流のある人たちは皆地方らしく『楽しんできて!』や『今度新エモート使ってネタ写真撮らせてw』といったものしかなかった。ということはやはり一人参戦か……
そういえばヒツジさんは来るのだろうか。ゲームをやっている時も基本的にプライベートなことは話さないので住まいは知らないが口調的におそらく関西住みであろう。試しに本人のSNSのプロフ欄に飛んでみるが特に情報もなくここ最近の投稿もなかった。
ヒツジさんなら男だけど話しやすいしゲーム内で暴言を吐くような人でもないので安心できる。だから一緒に来てくれないかなぁと思いつつも、そこまで特別仲がいいかと問われると微妙である。それに向こうの方がランクも高いから特典も興味なさそうだし……
結局、DMを送るほどの勇気は出ずに一人でイベントに向かうことにした。
◇
大阪府内のイベント会場は夕方だというのに未だに多くの人で賑わっていた。特典の素材コードの配布はもちろんのことゲーム内BGMの生演奏やら製作陣のトークショーなども行われていたからだろう。しかしそれには興味がないので敢えて遅い時間に行ったのだがまだまだ客は引いていなかった。
『出遅れたけどイベント来た!』
一応記念に入り口に建てられた看板を撮りSNSに投稿しておく。看板の隣りにイベント会場図もあったのでついでに確認すると特典コードを受け取れる場所は展示ブースの先のようだった。とりあえず賑わっている方へと向えば辿り着けそうである。
「もしかして『Lilac』さん?」
「はい?」
あまり下調べをせずに来てしまったがゲーム内モンスターの等身大フィギュアやレプリカ武器などが飾られていて案外面白い。そんな感じで夢中で見入っていたところで自分のゲーム内ネームが呼ばれた。隣を見れば二十代後半くらいの男性がいる。
「やっぱりそうだ!いつもSNS見てるよ、イベント来てたんだね!」
笑みを浮かべてフレンドリーに話しかけられたがもちろん知らない人である。私自身、ネットでの交友関係はかなり狭い方だ。何度か一緒にやってみて言動やプレイが荒くない人としか繋がらないようにしていた。
「失礼ですけどどちら様ですか?」
「あぁ自己紹介が遅れちゃったね。これが俺のアカウントで……ほら、前に秘境マルチで一緒に千年海獣討伐したでしょ?」
スマホ画面に表示されたゲーム名を見て嫌な思い出が蘇る。確かこの人、私が女だと分かってからめちゃくちゃウザ絡みしてきた人だ。ネトゲを出会いの場と勘違いしている男の人は少なからずいる。
「そうでしたっけ?すみませんが急いでいるので失礼します」
「もしかして今から配布コード受け取りに行くの?俺もまだだから一緒に行かない?」
ゲーム内では二度とマッチングしないようブロックしていたがSNSまでは盲点だった。そしてリアイベで出くわすことももちろん想定外。しかしこちらがあからさまに嫌な顔をしているのに尚絡んでくる。また、足早に立ち去ろうとしても人が多くて巻ける気がしなかった。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫ってどういうこと?っていうか本物のライラちゃん可愛いね。声の想像通りだったよ」
「はぁ」
「遅れてすまへん。大阪慣れてへんから道迷てしもたわ」
適当に受け流しながら逃げる方法を考えていたところで、ポンと後ろから肩を叩かれた。
もう聞き慣れたと言っても過言ではない京都弁だった。
「え……?」
顔も知らないけれど確認せずにはいられない。
私は振り返ってその人のことを見た。
「来場特典でレア素材ばら撒くとか運営も随分と太っ腹やなぁ。まぁそのおかげで手持ちの武器強化できるからええねんけど」
群青色を透かしたようなライトブルーの髪に、同じ色の大きな瞳。お人形のように整った顔立ちには目を見張るものがあるが何より驚いたのは背の高さだった。おそらく一八〇は超えている。
「そ、そうだね」
「もうコードは貰うたん?」
「まだだけど……」
「ほな行きまひょか」
こちらを安心させるように淡い笑みを浮かべた姿に心奪われた。そして気付けば私に声を掛けてきた人はすでにいなくなっている。どうやら私は目の前の人物に助けられたようだ。というかこの人ってやっぱり……
「もしかしてヒツジさん?」
「せやで。ほんでキミはライラで合うとる?」
柔らかな京都弁に男性にしては高めのトーン。声は勿論だが一目で彼が『ice sheep』であると断言できた。
「そうそう!ヒツジさんも今日のイベント来てたんだね。何も言ってなかったからてっきりスルーなのかと思ってたよ」
「ギリギリになってしもうたけど都合ついたから来れたんよ。それよりもこれはあかんよ」
そしてパッと目の前に見せられたのはスマホ画面。そこには数十分前にSNSに投稿した私の写真が表示されていた。
「どういう意味?」
「自分の現在地をリアルタイムでSNSに発信したら危ないやろ。こんなんは帰ってからやり」
確かに。さっきの人然り、最近では知らない人にフォローされることも増えていた。これってやっぱり自分が女だからだろうか。ともかく今日のようなことがあった以上、用心しておくに越したことはない。
「軽率だった、ごめんなさい……あと、助けてくれてありがとう」
「気にせんといて。それに僕もこのおかげでキミを見つけられたようなもんやし」
バツの悪そうに言ったヒツジさんは想像通りの人だった。でも見た目は想像していた容姿を遥かに上回っていた。もっと細くて背も低くて気が小さいような人だと思っていたのに顔は整ってるし身長も高い。それにスポーツもやっているようだった。
「部活帰り?」
二人で特典コードがもらえる場所へと向かいながら改めてヒツジさんを見る。上下ジャージで背中には大きな黒いリュックを背負っていた。
「部活やのうてクラブやな。大阪のクラブチームでサッカーやっとる」
「スポーツやるんだ。ゲーマーなのに意外」
「ゲーマーなのにってとんだ偏見やな」
「だって私がそうだし」
「確かにキミは運動苦手そうやな。特に球技はさっぱりやろ」
「えっなんで分かったの?!」
「エイム下手やからな」
「それは関係ないでしょ!」
今まで声だけだったのがその表情も見ることで今までの倍以上に会話が楽しくなる。そしてヒツジさんは意外といじわるなのかもしれない。
「特典コードの配布はこちらでーす!順番にお並びください!」
目的の場所に到着しそれぞれ配布コードを受け取ってまた合流した。
私の目的はこれだけだったので受け取ったら早々に帰るつもりでいた。でもせっかくならヒツジさんともう少し話したい。
「ヒツジさんはこの後……」
「! すまん、電話や」
ジャージのポケットからスマホを取り出して少し距離を取ってから電話に出ていた。そして一分も経たずして通話を終えこちらに戻ってくる。
「大丈夫?」
「親からやったわ。夕飯に鶏むねと鶏ササミどっちがええかっちゅうしょうもない電話」
「へぇ……」
しょうもなく、なんかないと思うんだけどな。少なくとも夕飯何がいいかなんて聞かれたことなんて記憶の限りでは一度もない。そして高校生になってからは食事代だけをもらう日々が続いている。それに比べたらよっぽど彼は愛されてると思う。
「僕もう帰らへんと。キミはどないする?」
「展示もあるみたいだし私はもう少し見て回るよ」
「一人で大丈夫か?」
「うん。もう逃げ方は覚えたから大丈夫」
勝手に親近感を覚えていたからか、少しだけ幻滅してしまう。そんな自分が嫌で反射的に距離を取ってしまった。
「気ぃつけてな。ほなまた」
「またね」
この「また」はゲーム内で会うということ。おそらくもうリアル≠ナ会うことはないんだろうな。でもきっとこのくらいの距離感でいた方が楽なのだ。
◇
高校二年の夏休みといえば羽を伸ばして遊ぶことができる実質最後の夏休みになるのではないだろうか。とはいえ私の予定といえば塾とゲームくらいか。しかし夏休みに入ってすぐの日は明確な予定で埋まっていた。
「今日はほんまありがとう!」
七月では夕方を過ぎた時間帯であってもまだまだ日も高く気温も高い。そんな中、私はクラスの友人とバスの列へと並んでいた。
「いいよ、どうせ予定もないし。それよりルール全然知らないんだけど大丈夫かな?」
「そんなん気にせんでええよ。気楽に楽しんでや」
バスに乗り揺られること十五分。目的地であるスポーツ施設へと辿り着く。今日はここで日本クラブユースサッカー選手権(U-18)大会の試合が行われる。
「中ってこんな感じになってるんだ」
「せやで。まぁ今日はグループステージやしそこまで客も多くはあれへんやろうけどな」
彼女の家は家族揃ってサッカー観戦が趣味であり今日の試合チケットは彼女の父親が伝手で手に入れたものらしい。ただご両親は仕事で都合がつかないということで彼女が一緒に行かないかと声を掛けてくれたのだ。
「あれ?もう試合って始まるの?」
「いや、開始は十九時からやよ」
「じゃああの人たちは何してるの?」
サッカーの知識がまるでない私は会場を含め色々なことに興味津々であった。そしてあれこれ彼女に質問しているうちにユニフォームを着た人たちがフィールド上に現れたのだ。当然、私の興味はそちらへと移る。
「あれは試合前のアップやね。ああやって身体を慣らしておくんよ」
「へぇ〜」
試合前だというのに走ったりボールを蹴り合ったりと意外にも激しい運動をしている。私だったらきっとあれだけでバテてしまうだろう。スポーツ選手だけには一生なれないな…と己の体力のなさを痛感していたところで不意にライトブルーが飛び込んできた。
「ねぇ、あの人誰か分かる?」
「どの人?」
「縦縞のユニ着た水色頭の……ほら、今ボール持った二十三番!」
「確か選手名ならネットに出てた気ぃするけど」
会ったことは一度しかないけれどあの後ろ姿には見覚えがある。そして大阪のチームでサッカーをしているという情報から確信に近いものがあった。
「あ、おった。二十三番はFWの氷織羊って人みたいやな」
ice sheepってまんまじゃん!
さすがに声には出さなかったが心の中でツッコミを入れるくらいには面白いものがある。そっか氷織羊くんって言うんだ。こんな形でまた会えるとは思わなかった。と言っても私が一方的に眺めているだけだけど。
「知り合いなん?」
「一応……まぁ向こうはそう思ってないかもだけど」
「そうなんや。でも知っとる人おると見応えもあんで!それにこの人FWやしとりあえず目で追っとけば楽しめると思う!」
試合が始まり、友人の助言通り『氷織羊』くんを目で追った。そしたら素人目でも面白いくらいに彼にボールが集まっていてびっくりした。研ぎ澄まされた素早いボールタッチに針の糸を通すような正確な味方へのパス。彼がゴールを決めることはなかったけれどチームの勝利へと貢献したプレーだった。
「三対〇での圧勝だったね!」
「せやな!グループリーグ突破どころかバンビ大阪の優勝もありえんで!」
友人と盛り上がりながら帰路に着き興奮冷めやらぬままSNSをチェックする。そしたらすでに画像やら試合動画なども上がっていて夢中になって見漁ってしまった。そしてひしひしとヒツジさんってすごい人だったなと痛感する。思えばスタメンでずっと試合に出てたもんなぁ。
「あ、デイリーやってなかった」
夏休み故の怠惰を謳歌していたところでデイリーボーナスの存在を思い出す。すでに日付は超えていたがまだ間に合うためPCを立ち上げた。そして慣れた手つきでゲームにログインする。
『こんばんは。この時間におんの珍しいなぁ』
そしてデイリーミッションを終えサロンに戻ってきたタイミングでボイスチャットが繋がれた。画面には『ice sheep』の文字が移っている。数時間前に本人を見たからか話しかけられて思わずドキリとした。
「こんばんはー今日は出掛けててやるの遅くなっちゃったんだ。そっちこそ珍しいね」
『そうか?割とこの時間でも起きとるよ』
「だって疲れてると思ったから」
『……疲れてる?』
しまった、と気付いた瞬間には時すでに遅し。ボイチャを繋いでいても互いに話さないことは今までだってあったのに一瞬の沈黙が妙に重かった。
どうしよう。ただのゲーム仲間が日常の話をするのってあんまりよくないかな。特にヒツジさんの場合は自分のことをあまり喋らないし。でも嘘をつくことで今の関係性が拗れてしまう方がもっと嫌だ。
「ごめん、実は今日サッカーの試合を見に行ってたんだ」
『それってもしかしてユースサッカーの試合?』
「そう。それでヒツジさんも出てたの知ってたから今日は疲れてゲームはしないと思ったんだ」
正直に白状すれば『そうやったんか』と納得したように溢した。私は画面越しと言うことも忘れてそのまま黙って頷く。
「なんかごめんね」
『なんで謝るん?自分はなんも悪いコトしとらんやろ』
「そうだけどネットで知り合った人間に私生活見られるのって抵抗あるかと思って」
私だってイベント会場でネットで出会っただけの人に話しかけられてびっくりした。さすがにあの人と比べたらヒツジさんとは何倍も仲がいい自信はあるけれどそれでも踏み込んでいいボーダーラインはあると思っている。
「だから偶然とはいえプライベートを盗み見ちゃって、ごめん」
画面には『ice sheep』と『Lilac』の文字が並んでいる。そしてゲーム内のアバターたちは待機モーションのひとつとしてストレッチや伸びをしていた。
『自分はほんま素直やな』
「え?」
ヘッドホンの奥でヒツジさんが小さく笑う。そして画面の中のヒツジさんのアバターも床に転がって笑っていた。これは先日のイベントで配られた限定のエモートである。完全にネタだ。
『適当に誤魔化してもよかったんに正直に話してくれた上に謝られるなんて思わんかったわ』
「だってヒツジさんとは喧嘩なんてしたくないし」
ちょっとイラっときたので代わりにゲーム内のアバターで怒りを表現する。顔を真っ赤にして頭から煙を出す仕草も配布されたものだった。
『すまへん、ちょい言い方悪かったな。全部が予想外過ぎてびっくりしてもうたんよ。でも、ちゃんと話してくれてありがとう』
笑い転げていたアバターは一転、飛び散るほどに涙を流していた。だから私も同調するように同じエモートを選択する。アバターがオーバーリアクションなだけで本当に怒っているわけではなかった。
「うん」
『ただそんな気にせんでええよ。大阪に住んどるのは知っとったしこないな日ぃが来ても不思議やない。寧ろライラにやったら知られてもよかったすら思てる』
「なんで?」
場を和ますためアバターを床に転がせて笑わせていれば、先ほどとは逆にヒツジさんのアバターが怒りだす。これに関しては互いの感情の表現と言うよりは遊び≠ノ近い感覚だった。
『やって今日のコトに負い目感じて僕に優しゅうしてくれそうやもん』
ふふっといたずらに笑ったヒツジさんは私より上手だ。というかここまでくるとSっ気が強いと言ってもいいかもしれない。
「私は今までもこれからもずっと優しいですー」
『ほんま?なら今度超高難易度のバベルの塔<}ルチで付きおうてな』
「えっあれ無限ダンジョンじゃん!無理だってこのドS!」
『人聞きの悪いコト言わんといてや。ほんで実は自分もやりたいんやろ』
アバターに怒りを表現させようとしたらコマンドをミスりバク宙して喜びを表現させてしまっていた。その隣でヒツジさんのアバターもバク宙を始める。なんだかどんどんカオスになってきた。
「私のプレイスキルじゃあ百階も行けずに死ぬよ?」
『別にええねん。ライラとやったらおもろそうやからやりたいんよ』
それって後方支援しつつ私のキャラ操作見て楽しむやつじゃん。ヒツジさんってこんなキャラだっけ。それともこれが本来の彼の性格なのか。『ice sheep』ではなく『氷織羊』の…——あ、そうだ。
「私、ヒツジさんに伝えたいことがあるんだった」
『伝えたいコト?』
「うん。私の名前」
『Lilac』ではない自分のフルネームを伝えた。ついでにチャット機能を使って漢字も教える。そしたら今日イチの声量で『アホ!』の二文字がヘッドホンから飛んできた。なぜ?
『自分ほんまアホなん?!ネットで本名言うやつがどこにおるん?!』
「ここにいるけど。というか誰にだって言ってるわけじゃないよ、ヒツジさんにだから言ったの」
『なんでまた急に……』
「だって私だけヒツジさんの本名知ってるのもフェアじゃないでしょ」
ヒツジさんにとってはどうでもいいことかもしれないけれど私にとってこれは大事なことだった。だってヒツジさんとはこれからも一緒にゲームしたいし対等でいたかったから。
『ほんまに自分はええ子やねぇ』
「別に普通だよ。じゃあこれでお互いに隠し事は一つずつなくなったってことで」
『せやね。でも危ないさかい本名は気軽に口にしたらあかんよ』
「はーい……え?」
『これって……』
分かりやすいよう敬礼モーションでもさせようとしたところで自分のアバターが画面内でダンスをしていることに気付く。そしてヒツジさんのアバターも隣で同様に踊っていた。
「今ネットでバズってるやつじゃない?!喜怒哀楽≠フ裏エモートだよね?」
『そうや!てっきりフェイクかと思っとったけどほんまにあるんや!』
イベントでもらった限定エモートである喜怒哀楽≠すべてやらせた後に低確率で出るダンスモーション。これは余程珍しいらしく先日もとあるVtuberが二時間かけてこのモーションを出すという生配信をやっていた。それほど珍しいものが今目の前で二つ同時に起こっている。
「やば!スクショしよ!」
『僕は録画しとくわ!』
どこまでもふざけたネタでしかない動作。それでもこの時ばかりはこのおふざけエモートに感謝するしかなかった。
◇
元よりヒステリック気味な人だとは思っていたけれど、ついにやった≠ゥって感じ。
「その顔どしたん?!」
公園の水道でタオルを濡らしていれば慌ててこちらに走ってくる人物が一人——初めて会ったときと同じようにジャージに黒のリュックを背負って現れたのは氷織羊くんだった。
「びっくりした。今日も試合だったの?」
「普通に練習や、クラブチームの拠点は大阪やねんから……それより鼻血も出とるで!」
「えっうそ?!」
慌てて鼻の下に手を伸ばせば指先には赤い液体が付いていた。家を飛び出して公園に駆け込んできたものだから自分の顔を確認することすらできていなかったのだ。
「ごめんね、ありがとう」
熱を帯びた頬を濡らしたタオルで冷やしながら貰ったティッシュで鼻を抑える。十分もすればおそらく血も止まるだろう。
「しばらくは動かん方がええよ」
「うん」
「とりあえずそこ座り」
ベンチへと腰を下ろし上を向けば空には三日月が浮かんでいた。時刻は夜の七時過ぎ。九月半ばともなれば残暑も和らぎ日が暮れるのも早くなった。そのため公園の光源は四つの街灯だけだった。
「こんな時間まで付き合わせてごめんね。もう大丈夫だからヒツジさんは早く家に帰った方がいいよ」
「アホか。女の子一人ここにいさせるワケないやろ」
砂利を踏む音と風の動きで彼が隣に座ったことが分かる。しかしさすがに練習終わりの人を付き合わせるわけにはいかない。大阪から京都の家に帰るのだって時間が掛かるだろう。
「大丈夫だよ、ここ住宅街だし治安も悪くないし」
「そうゆう問題やない。それにウチには居残り練で遅なる言うたから心配あらへん」
「ヒツジさん優しすぎるでしょ」
「なに?僕が友達見捨てるような酷い奴だと思うてん?」
「そういう意味じゃないって!」
「ふふっ分かっとるよ。それと顔合わせてる時にそう呼ばれるの変な感じするなぁもう名前でええよ」
知っていても呼べなかった『氷織羊』という名前。でも彼の一言で羊くんと呼ばせてもらうことになった。苗字よりも下の名前の方が馴染みがあったから。
「それなら僕も名前で呼ばせてもらお」
「どうぞどうぞ。あっでもマルチの時は呼ばないように気をつけるから」
「せやね。言うて最近キミとくらいしかマルチやらへんけど」
そんな雑談をしている内に時間も経ち、汚れたティッシュを捨て様子を見てみる。鼻に血の塊が詰まっている感覚はあるが出血は止まったようだった。
「もう大丈夫っぽい」
「早めに止まってよかったわ」
念のため濡らしたタオルで顔全体も軽く拭いておいた。頬の痛みはまだあれど触ってみれば腫れも少しは引いたようだった。ただ帰ったら湿布くらいはしておきたい。
「……あのさ、」
「うん?」
これ以上、羊くんをここに呼び止めることはできない。私もいい加減、家に戻った方がいいだろう。しかしだからこそ最後に聞いておきたいことがあった。
「何があったか聞かないの?」
あんなに慌てて走ってきたくらいだ。余程ひどい有様だったに違いない。きっと気を遣って触れずにいてくれているのだろうけれどそう聞かずにはいられなかった。
「それは僕が聞いてええコトなん?」
羊くんは私の頬あたりをじっと見つめながら静かに聞き返す。
私は羊くんに自分の話を聞いて欲しかったのだろうか。同情されて、優しい言葉をもらいたかったのだろうか。それが自分でも分からずに何も答えることができなかった。
「二人でどっか行ってまおか」
「えっ?」
先ほどとは一転、わずかに弾んだ声色で言われたその言葉に驚いて顔をあげる。すると羊くんは口元に笑みを浮かべ、そして三日月が浮かぶ夜空を見上げた。
「神戸とかどやろ。意外と一時間かからずに行けんねんで?あと東京にも行ってみたいねんなぁ昔に行ったコトあるけど観光らしい観光できへんかったんよ」
東北、北海道、それからまた南に戻って九州や沖縄。海外だとどこがいいか——そんな夢みたいな妄想を現実と結び付けるように話していた。
「キミはどっか行きたいとこある?」
「親がいないところに行きたい」
だから思わず本音が出てしまった。進路のことで揉めて手を上げるような人のもとに帰りたいとは思わない。自分を不幸だとは思いたくないけれどあの人たちからお金以外の何かをもらった記憶はなかった。
「僕も同感や」
「そうなの?」
「親の期待に応えんの疲れた」
フッと目の光が消えた顔を見て自分がなぜ羊くんには心を許せたのかが分かった気がした。この人は私と同じだ。そう気付いた瞬間、自然と唇が動いていた。
「……うちの母親、二浪しても国立大行けなくてさ、だから私にその夢押し付けてくるんだよね。国立行ったって何が変わるわけでもないのに」
学びたいことがあれば別だけど学歴の肩書き欲しさに大学を決めたくない。だから担任とも話して進学先を検討している最中だった。しかしそれが母親にバレてこのザマだ。
自嘲気味に笑えば羊くんも顔にヘタクソな笑みを浮かべた。
「ウチも似たようなモンや。自分らの叶えられへんかった夢勝手に押し付けられて、なんのためにサッカーやっとるのかよお分からんくなるときがある」
サッカー好きじゃないんだ。思えば先日の試合でも自分でゴールを狙わずにパスを回している姿が強く印象に残っている。それも戦術の一つだと思っていたけれど言われて見れば自分で点を取るという意思がなかったように思えた。
「私たちはアンタらのサブ垢じゃないって言ってやりたいよね」
「なんやそれ」
「だってそうでしょ?本垢で上手くいかなかったからサブ垢に課金して育成し直して本垢で報酬だけもらおうとしてるじゃん。過程をやり込んでこそのゲームなのにそれを楽しめない人間がサブ垢にまで手出すな、本垢の装備見直せって思わない?」
人生と言う名の長いゲームで操作できるのは自分というキャラだけだ。NPCに影響を受けることはあれど最終的に選択をするのは私。その権利をモブキャラに奪われたくはない。
「はははっその解釈おもろすぎるやろ!」
「そう?」
「でも僕も同じ考えや。自分を一人のキャラクターとして俯瞰してみるコトで少しだけ楽になれるような気ぃする」
「楽になれる?」
「生きるコトが」
羊くんの悩みは私よりも深刻なようだった。絶対ではないにしろ才能やセンスが少なからず問われるスポーツの世界において親からの期待と言うのは足枷にしかならないだろう。しかも羊くんの場合、その期待は善意ではなく強要だ。
「じゃあ私たちで同盟組もうよ」
「同盟?」
「そうそう。親という名のボスキャラを攻略するための同盟」
「バグ技もあり?」
「大あり」
「乗った」
まるで現実味のない妄想上の話。でも私たちは大真面目に考えて、架空の装備を作り、存在しない教科アイテムまで作り出した。そして脳内で何度もボスを倒した。殴って斬って撃って貫いた。妄想といえども野蛮なことを考えている自覚はある。それでも心は少し軽くなった。
「励ますつもりが励まされてしもたわ」
「それはお互い様だと思う」
「せやな」
そして空に浮かんだ三日月も楽しそうに笑っていた。
◇
本日練習試合があると知り紙袋を一つ手に持って家を出た。羊くんに会いたいが為にクラブチームのホームページにまでアクセスするなんて我ながら中々のストーカーだと思う。
「下がれ下がれ!」
「二十三番止めろ!」
低いフェンスを隔てたグリーンの芝の上では羊くんが走っている。相手選手の裏をかき、繊細なボールタッチでゴールへと突き進んでいく。数ヵ月前に初めてサッカーの試合を見た時はただただボールを目で追うことに必死だったけれど改めてコート全体を見ると羊くんの視野の広さと技術に驚いた。すごい、これで五人抜きだ。そして左脚が振り切られる。がんばれ、羊くんなら絶対決められる。
「おらぁ!」
「っ?!」
しかし、回転するボールの軌道上に相手選手の足先が割り込んだ。そのせいで数センチ軌道がずれボールポストにヒットする形になる。そして再びボールが自由になった。
「ルーズボール!」
「見てから動くとか凡≠フやるコトやで」
「なんでっ…?!」
予想だにできないセカンドボール。しかし弾かれたボールは黒い影により掻っ攫れた。長い脚が振り切られそれが宙に浮いたボールを仕留めた瞬間、フィールド内では歓声が上がった。点を決めたのは所謂エースナンバーと呼ばれる十番を背負った選手だった。
「ユースチームもええ選手揃っとるなぁ」
「これならバンビ大阪の未来も安泰やな!」
そのまま両者追加点ならず、一対〇で練習試合を終える。練習であってもやはりホームだからか地元の人が観にきていて戻ってきた彼らを温かい拍手で迎えていた。私も見よう見まねで拍手を送る。
「羊ちゃん、惜しかったなぁ」
この後、会えるかなぁと考えていればちょうど前の席に座っていた女性が彼の名前を出していた。羊くんと同じまん丸の水色の頭に、そしてちらりと見えた横顔は瓜二つだった。
「ゴールまでは決められへんかったな。最後まで競り合えるようもっとスタミナつけさせた方がええんとちゃう?」
「それとトレーニングの見直しやな。持久力上げられるメニュー組まんと」
おそらく羊くんの母親なのだろう。そして彼女の隣にいる男性が父親か。その熱心な姿は『息子思いの親』の度を超えていて狂気じみた様子さえある。なるほど、これは私と同じ毒親だ。
「帰ったら家族ミーティングやな!」
「せやね!」
そう言って席を立った二人を横目で見送り再びコートへと視線を戻る。選手たちはクールダウンも兼ねて軽い運動をしているようだった。おそらくこの後はコーチ陣からの指導が入り解散になるだろう。そう考えて出入り口の外で待つことにした。
「腹へったーコンビニ行こうぜ」
ちょうど自販機の横にベンチがあったのでそこに座って待っていれば練習終わりの人たちが一人二人と外に出てきた。待っている間にやり込んでいたスマホゲームを一度閉じて立ち上がる。同じジャージを見ている集団の中でも目立ちそうな水色頭を目で探した。
「コンビニじゃ足りんわ。どっかファミレス行けへん?」
「それええな!あれ?烏と氷織は?」
「便所じゃね?」
「とりま連絡して先行こか」
しかし姿を見つけるより先に目の前を通り過ぎた集団が羊くんの名前を出したことで探す必要はなくなった。どうやらこの後は皆でファミレスに行くようだ。本来の目的はこのプレゼントを渡すことだったから一瞬だけでも会えたらいいのだけど、でもわざわざ呼び止めるのもな……食べ物でもないしまた今度でいっか。
「あっやっぱりキミやった」
「わぁ?!」
今日のところは撤退、と思いきや歩きだした私の横からスッと顔を出したのは羊くんだった。覗き込むように顔を見られて思わず飛びのく。完全に不意打ちだった。
「そない驚かんでも」
「だってびっくりしたから」
「それは僕の方や。こないなとこにおるとは思わへんかった」
くすくすと笑う羊くんの表情は柔らかい。今日の試合の様子を見るに、サッカーは好きでないにしろチームメイトのことは好きらしい。現に試合後に仲間と言葉を交わす姿は良い意味で年相応の姿だった。
「なんや急に走り出した思たら彼女かいな」
そして今度は羊くんの後ろからもうひとり人が現れた。身長は羊くんと同じくらいで泣きホクロが特徴的なその人は本日ゴールを決めていた十番の選手だった。
「テキトーなコト言わんといて。友達や」
「友達ねぇ」
「どうも」
小さく挨拶をすればその人も「ドーモ」と返してはくれたが口角はずっと上がりっぱなしである。しかしそんな彼に腹を立てたのは私ではなく羊くんの方だったようで、肘でその人のことを押し返した。
「烏は早よみんなのとこ行き」
「烏くんやろ。何回言わせんねん」
「僕は行かれへんから烏からみんなにも言うといてな」
彼の方が先輩なのだろうか。しかしそんなことはお構いなしに羊くんはそのまま話し続ける。かといって相手が不機嫌になることもなく「へーへー」と軽い調子で頷いて「ほな」とだけ言って先を歩いて行った。
「よかったの?」
「烏とは明日も練習で会うからええねん。もしかして試合見に来たん?」
「あー……うん、ごめん」
「なんで謝るん?」
羊くんは好きでサッカーをしているわけではない。それを知った上で試合を見に来たなんて知ったらいい気はしないだろうなと、今さらながらに気付いてしまったのだ。それともう一つ、私は彼が嫌がることをしてしまっていた。
「勝手に試合に来たことと、あと羊くんのこと応援しちゃったから。まぁ心の中でなんだけど」
「えっ僕は応援されたらあかん人間なん?」
羊くんの背中には宇宙が広がっていた。それほどまでに私の発言は彼を困惑させてしまったらしい。だから私は脳内で言葉を選びながら、しかし結局はストレートに思ったことを言っていた。
「期待されるのはしんどいかなって思ったんだ。だから応援もされたら嫌なのかなと……」
我ながら人に感情を伝えるのが下手過ぎて悲しくなってくる。もっと他に言い方はあっただろうに。それにこんなことを言われたって羊くんが反応に困るよね。肯定も否定もできないだろうし。
「あははっほんまにキミは素直やね」
そして羊くんは肯定も否定もしない代わりに笑い出した。
「な、なんで笑うの?!」
「やって全部言ってまうねんもん!心ん中のモンまで曝け出すとか正直すぎやろ、おもろいわぁ」
羊くんとは直接話す機会も増えたが未だに笑いのツボが分からなかったりする。だからこそ、もしや笑いながら怒るタイプか?といらない想像をしてしまった私は恐る恐る、怒ってないの?とこれまた正直に聞いてしまった。
「怒ってへんよ。確かに期待されるのは嫌や、でもキミの応援はそれとはちょっと違うねんな。押し付けがましくない言うか……『氷織羊』という人間を見てくれとるからかなぁ」
羊くんの説明に今度は私が宇宙を背負う番だった。今目の前にいるのは『氷織羊』くんで他の何者でもない。だから当たり前のことなんじゃないかって言えば「サッカー選手としては意識してないやろ」と言われた。
「確かに羊くんがサッカーやってるの知ったのはつい最近だし『ice sheep』さんとの付き合いの方が長いからね。ゲーマーの印象の方が強いかも」
卵が先か鶏が先か。きっとそういうことを言いたいのだろう。それだったら視野が広くて戦略を立てるのが上手くて、優しいけど偶にいじわるなことを言ってくる彼のイメージが強い。そこにサッカーの要素は一ミリもなかった。
「それでええよ、キミとはそうゆう関係でいられるのが一番楽やから。せやからキミの応援は苦にならんよ」
「よかった」
その一言に肩の荷が降りる。思いのほか緊張していたのか体はだいぶ強張っていたようだ。だからこそ力の抜けた腕が揺れたことで手に持っていた紙袋がガサリと音を立てた。
「あっそうだ、これを羊くんに渡しに来たんだった」
「僕に?」
「色々お世話になったから」
公園で親への不満をぶちまけ、あれからかなり楽になったのだ。親との関係は相変わらず付かず離れずではあるが救われたのは事実。
「僕は大したコトしてへんよ」
「私にとっては大したことだったんだよ?だからもらってくれると嬉しい」
「ほんなら、おおきに」
紙袋を受け取った羊くんはさっそく「開けてもええ?」と聞いてきたので二つ返事で頷いた。中身は保温マグカップである。これからの時期にきっと重宝すると思ったから。
「ネットで見てちょうど欲しい思てたんよ」
「よかった。それと同じの私も使ってるんだけど温度変わりにくいからおすすめだよ」
「同じってコトはお揃いやね」
「あっごめん!そこまで考えてなかった!」
「ん?別に怒っとらんよ、むしろ敢えてそうしたんかと思ったんやけどちゃうの?」
こてん、と首を傾げた羊くんはちょっといじわるな顔をしていた。しかし当の本人にその自覚がなさそうなところがちょっとずるい。
「ちゃう……かな?」
「いけずやわぁ」
それはこっちの台詞だけど。でも羊くんが嬉しそうお礼を言ってくれたのでもうどうでもよくなった。
◇
『やっぱこのメンツが一番周回安定しますな!』
「私が一番死んでたよね……ごめん」
『いやいや、ライラが第二形態のヘイト全部買って出てくれたのマジ助かったから!あとヒツジの回復とシールドな!』
『二人が火力出しはってくれたからサポートに専念できたんよ。おおきに』
『おかげでノックバックせずに戦えましたわ』
『よし!んじゃあもう遅いしぼちぼち解散しますか。お疲れ様でしたー!』
「お疲れ様です」
マイクを切ってマルチ画面から離脱する。今期のイベントも中々に手強い敵が沸いていたが羊くんを初め、鮫肌さん、AZさんと攻略したため必要素材は集め終えることができた。これなら週末は別ゲーに時間を割けそう。
《ice sheep:この後少し話せる?》
素材だけ整理して落ちるかと考えていたところで画面の端からポップアップが出現する。羊くんがわざわざ個別でチャットを飛ばしてきたらしい。私は、いいよーと返事をしてマイクを繋いだ。
『ごめんな、急に声掛けてもうて』
「大丈夫だよ。どうかした?」
この時は大したことなど考えていなかった。別の素材集めを手伝ってほしいとか新しい別ゲーへのお誘いとか、そんな感じかなって思ってた。でも羊くんが切り出したのは彼が好きでもないサッカーの話だった。
『日本フットボール連合ゆうところから手紙が来た』
「それってサッカー協会みたいなとこ?」
『まぁそんな感じやな。そんで強化指定選手に選出されたらしいんよ』
おそらくそれはものすごいことだろうに羊くんは淡々と他人事のように話していた。きっと彼の両親の方が余程喜んでいるに違いない。そしてそれを見て羊くんがどんな顔をしたのかまで想像がついてしまった。
「選出されたってことは合宿みたいな形で練習するのかな?」
『どうやろ。ただ同封されてた地図には東京の住所が書かれてたわ』
「じゃあ参加するなら東京に行かなきゃいけないんだね」
一つ一つ言葉を選びながら会話をする。
ヘッドホンの奥で小さなため息の音が聞こえた。それは諦めと覚悟を決めたような妙な色を持っていた。
『そうやね。せやから僕は行くことにするわ』
その理由はサッカーのためではなく親から離れたいからなのだろう。それを分かった上で私は彼の背中を押すことにした。
「いいんじゃないかな。お土産は東京バナナでよろしく」
『なんやもう、えらいちゃっかりしとるなぁ』
「だって羊くんだけ行くのズルいんだもん。二人で行こうって言ったのにさ」
『あー……』
三日月が浮かぶ夜、夢を見ていたのは私だけだったのか。いつか逃げ出せたらいいなと思っていたのは私も同じ。そこまで自分の生まれを悲観しているわけではないけれど羊くんがいたからこそ救われた部分も大きい。身近に仲間がいるというだけで十分な心の拠り所となっていた。
「バベルの塔≠焜}ルチで付き合ったのになー」
『今回の場合は偶々機会に恵まれただけで僕だって予想外やったんよ?』
「攻略のために普段使わない武器も育成したのにー」
『それにはほんま感謝しとるよ、おかげで百二十階まで行けたしなぁ』
「ふふっ」
語尾の全てに水色の水滴が三つ飛んでいるような話し方についに吹き出してしまった。そこで羊くんも揶揄われていることが分かったらしい。『もー!』と呆れつつもその声色は柔らかい。
「ごめんね、ついいじわるしちゃった」
『出会ったときより随分とええ性格になったなぁ』
「身近にそのお手本がいたからね」
『そうなん?せやったらぜひ僕にも紹介してほしいわ』
画面越しのドSくんはやはり私よりもレベルが高かった。こうなってしまえばもう勝ち目はない。だからひとしきり笑い合った後に彼のことを快く送り出すことにした。
「いってらっしゃい」
『おおきに。ただ、僕は先に行くけどキミのコトを置いてくつもりはあらへんから』
「うん?どういう意味?」
東京に行ったとてネット環境さえあればコミュニケーションが取れる時代。羊くんとはこれっきりだなんて思ってはいないけれど、その含みを持った言い方には首を傾げるしかなかった。
『キミがいつ逃げ出してきてもええように色々と準備しとくわ』
「えっまさか住むところってこと?!」
『えらく気ぃ早いなぁ。まぁそれもそうやけど一人暮らしのノウハウとか?』
「それって羊くんが先輩ぶりたいだけなのでは?」
『どうやろなぁ』
本気とも冗談とも取れないような発言にどう反応すればいいのか分からない。でも羊くんが楽しそうだったので深くは考えないようにした。
『ほな、しばらくはログインできひんようになるさかい皆にもよろしゅう言うといてな』
「うん。東京で迷子にならないようにね」
『マップ把握は得意やねんから心配いらへん』
「そうだね。じゃあ、いってらっしゃい」
『おおきに。いってきます』
マイクを切ってゲーム画面を閉じ、パソコンをシャットダウンした。目の前のモニターは真っ暗になり、そこには今にも泣きそうな自分の顔があった。
羊くんにはすぐに戻って来てほしいという気持ちがありつつも、彼を思うなら戻ってくるなと言ってあげたかった。でもどちらの本音も言う勇気がなかった私は結局、無難な言葉で送り出すことしかできなかった。
ただ、これでひとつ目標が出来たかもしれない。
◇
移り住んで早一年と半年ほど経ったけれど未だに東京での暮らしは慣れないでいる。特に駅がどこもダンジョンで困っている。入ったら最後、目的の電車に乗れても改札出口まで辿り着けないのだ。一体ひとつの駅に何個の改札口があるのだろうか。これなら八番出口で怪異を見つけるほうが余程楽な気さえする。
『もしもし?』
「ごめん!今着いた!」
ようやくダンジョンをクリアし外に出たタイミングで電話を掛ける。そしたらワンコールで出てくれた。八月上旬の猛暑日に待ち合わせ場所を外にしたのが悔やまれる。私は何度も謝りながらどのあたりにいるか電話の主に問い掛けた。
『出てすぐのとこおるよ。黒のキャップ被っとる』
「出てすぐ……横断歩道の近く?」
『ちゃうな』
「じゃあ駅ビル側?」
『ちゃうよ』
「えっじゃあどこ?」
「ここにおるよ」
「ひぇっ?!」
不意に肩を叩かれ夏だと言うのにゾッとした。だってあまりにも不意打ち過ぎて。しかも現れ方がメリーさんのそれだ。
「あははっ思った通りの反応や」
「先に見つけたんなら声掛けてよ!」
「やって僕のコト探してる姿がおもろかったから」
どうやらドイツでの生活を送るうちにだいぶ肝が座ってきたようだ。いや、素は元よりこんな感じだったか。ともかく数年ぶりに顔を合わせた氷織羊という人間はとても生き生きとしていた。
「元気そうだね」
「キミも相変わらずで安心したわ」
黒のキャップのせいで懐かしい水色頭は隠れてしまっていたが瞳のライトブルーは記憶と違わず澄んでいた。でも顔立ちはどことなく大人びたように思える。色白の肌はそのままに、しかしもう『お人形さん』とは言えないくらい男らしい雰囲気があった。
「遅れてごめんね。暑いしとりあえずどっか入ろうか」
「せやね」
地上に出てしまえばこちらのもの。スマホで地図アプリを見つつカフェを探す。幸いにも壁際のカウンター席が空いており二人並んで座ることができた。
「すぐ座れてよかったぁ」
「ほんまやな。ここにはよぉ来るん?」
「今日で三回目くらいかな。友達に教えてもらったんだ」
大阪を離れて東京の大学へと進学した。今では一人暮らしを謳歌しつつ勉学とバイトに勤しんでいる。そして今は大学二年の夏休み中だ。
「そうなんや。随分と洒落た隠れ家的なカフェで落ち着くわ」
「なんか発言がおじいちゃんみたいなんだけど。っていうか羊くんの方が洒落たとこ行ってるよね?」
「どこのコトや?」
スマホを取り出しSNSを立ち上げる。隣で羊くんがアイスコーヒーにガムシロップを入れる傍で画面をスクロールしお目当ての投稿を表示させた。
「ほらこれ!ミュンヘンのクナイペ!」
ドイツで言うところのいわゆる居酒屋で、肩を組んで笑う三人の男性の写真を見せる。潔選手、雪宮選手、そして羊くんが写ったその写真には『#ブルーロック』のタグが付けられていた。
「あーそれは雪宮くんが連れてってくれたんよ」
「他にもこれとか!」
「烏がドイツに遊び来たときのやつやね。烏のやつ意外とロマンチストやから美術館とか好きなんよ」
教会に図書館、広場に公園とどこを切り取ってもドイツの街並みは美しい。高校の修学旅行でアメリカには行ったことがあるが、そことはまた違った海外の雰囲気には惹かれるものがある。
「いいなぁ私も行ってみたいな」
本気で行くとなるとお金や言語等の様々な課題はあるが言うだけタダである。
「……えっどうかした?」
画面越しのドイツに夢を見ていたところで隣から視線を感じた。顔を上げれば頬杖をついてこちらを見ている羊くんと目が合う。そんなに私は変な顔をしていたのだろうか。
「ん?別になんもないよ?」
「だって今見てたでしょ?」
「見てたよ」
えっなんで?
しかし私の疑問は無言で微笑む羊くんによって静かに制された。そして羊くんは一度頬杖をやめ自分の鞄へと手を伸ばす。
「今週は僕の予定に付き合ってくれるんよね?」
そうだ、羊くんが日本にいる間は彼のやりたいことに何でも付き合う約束をしていたのだ。遠い日の公園で思い描いた夢物語の延長線、少しだけ大人になった私たちで遠いところに行こうと約束した。
「うん。じゃあ行くとこ決めないとだよね、どこか行きたいところある?」
だからバイトも一週間ちゃんと休みを取った。今から行く場所を決めて新幹線のチケットや宿が抑えられるかも怪しいがまだお盆前なのでなんとかなると信じている。
「ここに付き合うてもらえる?」
渡された一枚の封筒。まさか先に色々と準備してくれていたのだろうか。行き当たりばったりの私とはえらい違いだ。そう感心しながら中身を取り出せば全く予想もしていなかったものが出てきた。
「ミュンヘン……?」
明日の夜中に羽田空港を飛び立ちロンドンのヒースロー航空を経由しドイツで三番目に大きいとされるミュンヘン行きの航空チケット。もちろん本物だ。
「僕が今住んどる街やね」
「それは分かるんだけど……えっドイツに?なんで?」
もっと他に聞きたいこともあったというのに理解が追いつかずに、なんで?という言葉しか思い浮かばなかった。
「好きな子に自分を知ってもらいたい思うたから」
しかし私の動揺をどこか楽しむように羊くんは笑みを浮かべるばかり。店内は十分に空調が効いているというのに頬は次第に熱を帯びてくる。アイスコーヒーに入れられた氷がカランと音を立てて溶けた。
「前にも話したと思うけど今はサッカーするん楽しいんよ。世界一のストライカーを創生するサッカー=Aその理想≠フ先にある期待≠ェこんなにもワクワクするコトなんやって知らんかった」
宙へと向けられた瞳は自分の夢を語る少年そのものだった。親に押し付けられた期待の先に本物の夢を見つけたのだ。そんな彼は自身の発した言葉通りまだ見ぬ未来に期待≠オている。
「だからそうゆう風に考えられるようになった僕のすべてを知ってほしい」
希望に満ちた目で私を見た。
徐々に心拍数が上がる心臓は私もまた期待≠オているからなのだろうか。だから乾ききった唇を一度結んでから意を決して気になっていたことを確認した。
「あの、その前に好きな子というのは……」
「なに言うてるん?キミ意外におらんやろ」
しかし私の緊張を他所に羊くんはあっけからんと答えてみせる。その様子に面食らいながらはやる鼓動は収まらない。しかし私は一つ心に引っかかってることがあった。
「嬉しいけど、私は羊くんを通して自分を見ていたようなひどい人間だよ」
私と羊くんの境遇は似ている。だからこそこの感情が一種のストックホルム症候群なのではないかと疑心暗鬼になる。
「それを言うなら僕もや。どこか自分を重ねながらキミのコト見てた。親への不満と、自分を人生というゲームのキャラクターに置き換えた解釈にはひどく共感した」
また素直やなって笑われるかと思った。しかしそんなことはなかった。羊くんは表情を変えずに淡々と自分の意見を述べていく。
「せやけどそれって一周回って相手のコトをみてたっちゅうことやろ」
「その考えはちょっと都合が良すぎない?」
「キミがそう受け取るのもしゃあない思うとるけど、少なくとも僕は自分のやりたいサッカーを見つけられた瞬間にキミのコト思い出した」
自分のやりたいことが一つ一つ明確になっていく。その高揚感の中で彼はまた一つ、自分の感情を見つけたらしい。
「その時に自分の気持ちを確信した、この気持ちは本物なんやって…——好きやよ」
先ほどまでに抱いていた不安もとっくに溶けてなくなっていた。春の雪解けを思わせるようなすっきりとした気持ち。もう自分に迷いはなかった。
「このチケットもらっていい?」
「その前にまだ返事聞いとらんのやけど」
「え、もう分かってるんじゃ……」
「ちゃんと聞くまでは安心できひん」
ただでさえ近かった隣同士の席。そこからさらに身を乗り出すようにして体が近づけられた。というか顔そのものが近い。
「羊くんのことが、好き……です」
その圧に根負けするような形で声を絞り出した。
しかしまだ終わりではなかった。
「いつから?」
「えっと、……今思えば初めて会ったときから好きだったかも?」
「どんなとこが?」
「だって優しいし言葉遣いも荒くないし気が利いてゲームも上手いから一緒に遊ぶのも楽しくて……あと、私のつまんない話もちゃんと聞いてくれるところとか」
「サッカーやっとる僕のコトはどう思うとる?」
「私はサッカーのこと全然よく分からないけど羊くんが楽しんでやってるなら全力で応援したいとは……ちょっと待って、私のときだけ質問多くない?」
「焦らされたからその仕返しや」
微笑む姿は男性ながらも可愛いと思える表情なのにどことなく腹黒さが垣間見えるのはどういうことなのか。しかしそれがある意味、素のすがたで、私にだけ見せてくれると思うと悪い気はしなかった。それでもこれはなんというか……
「やっぱりドSだ」
思わず本音を溢せば「なに言うてんねん」と笑いながら言う。だからそういうところだって。しかし『氷織羊』という人間はその枠では収まらない。
「極Sや。これからよろしゅう。」
吹っ切れたような笑顔と共に瞳に灯る炎を見た。
「よ、よろしく……」
「ちゅうわけでこれから覚悟しといてな」
どうやら私はとんでもない人を好きになってしまったようだ。