禍を転じて恋となす

日本の首都、東京の西に門を構える氷河高等学校。中高一貫の私立高故、生徒数も敷地内面積も都内にしてはそれなりの規模を誇る。

「すんまへん、ちょっとええですか?」
「はい?」

学問だけでなく各部活動にも力を入れているためグラウンドも広く体育館も複数あり部室棟やホールなどの設備も充実している。特に野球部は強豪としても有名で寮だけでなく雨天用の練習場やトレーニングルームまで完備していた。それは都からの補助金とOBからの寄付金から成り年々増築され今に至ると言う。

「野球部の室内練習場ってどこか分かります?この学校広すぎてよぉ分からんくなってしもて」

つまり何が言いたいかって言うと校内は広くて迷いやすいということだ。中学受験を経てそのままエスカレーター式にこの春高校一年になった私でさえ校内で迷ったりする。もう三年も通っているとはいえ自分の生活圏外の場所となると地理が曖昧だ。

「室内練習場……」
「せやねん。昨日案内してもろたけど寮からやのうて校門側から行こうとしたら迷うてもうてなぁ」

馴染みのない言葉遣いから相手が高校からの外部受験組だと分かる。となると、ここは一つ氷河生の先輩として教えてあげたいところではあるが室内練習場の場所が分からない。だって野球部の練習場所なんて吹奏楽部の自分とは縁もゆかりもないんだもの。

「確か体育館の近くにそれっぽい建物があったような……」
「この学校いくつも体育館持っとるやろ」

はい、そうでした。やはり存在自体は知っているものの場所が分からない。でも今この場にいるのは私だけだ。だから他の人に助けを求めることもできない。えーっと、他になんか思い出せることあるかなぁ。

「あっ第一体育館の隣だ!」
「第一体育館?」

半年ほど前に演奏会の練習のため高等部の第一体育館を借りたことがあった。そのとき野球部の人たちがぞろぞろと隣の建屋に入っていくのを見たのだ。きっとあそこが室内練習場に違いない。

「そうそう!校舎に沿って真っすぐ進んでいくと体育館が並んでるんですけどその中で一番小さいやつが第一体育館。で、その隣にあるのが室内練習場です!」
「ほぉ、一番小さい体育館の隣の建屋か」
「はい」
「助かったわ、ありがとう」

その人は左手をひらりと振って私の教えた方へと歩いていった。お〜我ながら実に良いことをした。なんだか徳を積めたような気がする。これはきっと周りに回って自分に良いことが巡ってくるかもしれないなぁ。



「ねぇ見てこれ!新しい体育館めっちゃ綺麗じゃない?」

——と思っていたのが三十分前の私でした。

「ほんとだ!観覧席まであるとかどういうこと?!」
「ここ数年バスケ部は結果残してたからね〜女バスの友だちがこれで狭くて軋む第一体育館とおさらばできるって喜んでる」

春休み中といえど内部受験組で部活動を継続する者には練習が組まれている。だから私も部活に来ていたのだがそこでスマホを見ていた先輩たちの会話が耳に入ってきた。

「一番古くて小さくてボロかったもんね。取り壊すんだっけ?」
「うん、春休み中に工事って聞いたからもうなくなってるんじゃないかな」

やばい、嘘教えちゃった……





朝練を終えて自身の教室へと向かう。中三のときは二階だったが高一に上がると三階の教室に割り当てられるのが地味にキツイ。そもそも音楽室から教室棟の距離が遠いのだ。この距離の移動だけで割といい運動である。

「一年の教室は三階やで」

スクバを肩に掛け直しながらちんたら階段を上っていれば背後から嫌味ったらしい言葉が飛んできた。それは東京では珍しい関西弁で男にしては高めの声だった。
私は二階へと上り切ったところで足を止める。そして反応したくもないが無視すると余計に絡まれることは分かり切っていたので仕方なしに後ろを振り返った。

「知ってますけど」
「ホンマかいな。自分、すでにあれへん体育館をあるとか言うたりするやん」
「だからそれは取り壊されたの知らなかったって謝ったじゃん」
「そもそも校舎に沿いに歩いたとこで体育館なんかなかったけどな」
「うっ……」

そう、元の取り壊された第一体育館の場所すら私の記憶とは大いに違った場所に建っていた。そしてあの日道を聞いてきた人は野球部の室内練習場に辿り着くのにかなりの時間を要したらしい。迷った挙句、自分の勘を頼りに歩いたところ見つけられたのだと耳にタコができるほど聞かされた。

「そんなどえらい方向音痴が自分の教室まで辿り着けるとは到底思えんでなぁ俺が道案内したろか?」

そしてその時のことを相当根に持っているのか会う度にこのように絡まれる。会う度と言うよりは毎日と言った方が分かりやすいかもしれない。だって私たちは奇しくも同じクラスなのだから。これに関しては周りに回って不幸の巡り合わせとしか思えない。

「お気遣いありがとうございます。でもお気持ちだけで結構ですので」
「遠慮せんでええのに」

ケタケタと笑っては隣に並ぶような形で階段を上っていく。追い抜かしてくれたって構わないのに足の運びは遅い。だから結局、一緒になって教室にまで行くことになった。

「そうゆうたら来週からコンビニで抹茶祭りやるんやて」
「えっ抹茶?!」
「ドーナツやらモンブランある言うて部員が話しとったわ」
「絶対美味しいやつだ!来週から通い詰めないとだなぁ」

朝からめんどくさいのに絡まれたって正直思っていたけれど有益な情報を教えてくれたことで一瞬にして掌は返った。当時、誤った場所を教えたお詫びとして抹茶のお菓子をあげたことから私が抹茶好きだと察したらしい。そしてそれは大当たりだ。

「和菓子かてあれへんのに抹茶やったら何でもええんか?」
「うん。抹茶とつくものはとりあえず食べることにしてる」
「単純なやっちゃなぁ」
「あっおはよう」

単純で何が悪い、と私の掌が再び返ろうとしたところで教室に辿り着いてしまった。後ろの扉から入れば廊下側の席にいた子がこちらを振り返る。その可愛らしい声とキラキラした表情に荒れそうになった情緒は沈静化した。

「おはよー」
「おはよう」

なんたって彼女はクラス一、というか最早学年一可愛いとまで言われている子だからだ。中等部の頃から彼女のことを知ってはいるがそのモテようと言ったらすごかった。週一で告白はされていたし原宿に行けば芸能事務所から何枚も名刺をもらったとも聞く。

「ふたりはいつも一緒に来てるよね?付き合ってるの?」
「全くもって一ミリもそんな関係じゃないよ」

だからこそみな彼女への関心も高いためその影響力も凄まじく下手な勘違いをされたくはなかった。彼女がカラスは白いと言えば黒いカラスも白くなる。

「ちゃうよ、コイツが方向音痴やから一緒に来てやってんねん」
「はぁ?」

本当にやな奴だな。マジでコンクリートロードに埋めたろか?どんだけ昔のこと引きずってんの。いや、昔って言っても二週間くらいしか経っていないのだけども。

「えー?自分の教室なのに?」
「せやでー」

彼女との会話を切り上げて早々に自分の席へと歩いていく。そして私もその後を追いかけた。何の因果か、はたまた運が悪いのかも分からないが私たちは前後の席なのだ。

「適当なこと言わないでよ」
「嘘じゃあらへんやろ」
「もう過去のことだから」
「ハイハイ、自分ワンパターンの返ししかしてこんから飽きてもうたわーこれなら小テストの勉強した方が有意義やな」

こいつ…!と思いつつその言葉を聞き時間割りの書かれた黒板へと目を向ける。窓側の一番後ろの席から目を凝らして確認すれば一限目には英語の文字が書かれていた。そして思い出されるのは英単語の小テストの存在。

「やばっ忘れてた!」

スクバをひっくり返して単語のテキストを探す。そして恥を忍んでテスト範囲を聞いた。

「二週間前どころか二日前のことも忘れとるやん」

そして案の定、嫌みが返ってくる。そうなってしまえば私もワンパターンの返しをするほかなかった。

「うっさい桐島!」
「うっさいのは自分やろ」

前の席の桐島秋斗は鼻で笑ってそう言った。





顧問の先生による合奏練を終え今日の部活は終了となった。と言っても残って練習する部員は数多くいて私もその一人だ。しかしどこの練習部屋にも人が多く残っていたので自分の楽器と譜面台を持って人の少ない廊下へと移動した。

——キィイィィィン

電子メトロノームを相棒に自主練をしていれば外から鋭い金属音が聞こえてきた。一体何事かと窓枠から乗り出し確認すればグラウンドには帽子を被った人たちが何人も見えた。彼らの練習着からその人たちが野球部員であることはすぐに分かる。

「ん?桐島……?」

既に時刻は夕方とも言える時間帯。でも夏を待ちわびている太陽は未だに顔を出している。そのお天道様の光を背負って桐島は皆の真ん中にいた。

「よく見極めろー!」
「球速自体は速くねぇぞ!」
「次に回すな!」
「三振で抑えろ桐島ー!!」

そこにいる人を何と呼ぶか、野球のルールすら曖昧な私でも知っているポジション。桐島ってピッチャーだったんだ。しかも左利きってすごいんじゃなかったっけ。

「あっこんなところにいた!」

ついつい見入っていれば同じパートの先輩が小走りにやってきた。聞けばもう音楽室を施錠する時間になっていて早く楽器を片付けて欲しいと急かされてしまった。いつの間にか時間が経っていたらしい。先輩に謝り荷物をまとめつつも窓の外の景色が気になって仕方がなかった。



「自分、こんなところで何しとん?」
「うわっ?!」

だからか出来心でついグラウンドにまで来てしまった。でもまさか本人に会うとは思ってもいなく後ろから声を掛けられ挙動不審になってしまう。そんな私に対し桐島は小首を傾げた。

「誰かに用か?」

何かにつけて絡んでくるようないつものテンションではなく最低限のことだけを述べる。その様子に部活のときの桐島って色々とギャップがあるな、と感じつつも嘘をつくとややこしいことになると思い正直に白状した。

「桐島があそこの窓から見えてさ」
「ん?……ああ、特別教室棟の三階か」
「そうそう。桐島がピッチャーなこと知って近くで見てみたいなーって思ってたらここまで来てた」

へらりと笑ってみせれば桐島はどういうわけか狐につままれたような顔をしていた。なにその顏、前世の親のものまねか?確かに桐島って狐味あるもんね。いつもは口角高めに薄ら笑いを浮かべている印象があるが案外こっちが素顔なのかも。

「ずっと見てたんか?」
「ずっとでもないけどね。それにしても桐島すごいね、三振?も取ったりしてたよね」

限られた知識の中で己の感じたことを言語化する。バッターが当て損じたのって球の軌道が変わったから?とか、変化球投げられるんだ!とか、桐島って足も速いんだ体育祭ではリレー選抜間違いなしだね!などなど……私なりに桐島のすごさを絶賛した。

「なんやうっすい感想やなぁ」

が、それに対しての反応がこれである。腕を組み左手を口元に添えながらどこぞの評論家のような顔をする。怒っていいかな?

「喧嘩なら買いますけど?」
「冗談やて、野球分からんなりによう見てくれてたことは分かったわ」

ありがとう、と関西訛りで言われた言葉に今度は私が狐につままれたような気分になった。いや、むしろ化かされてる?しかし桐島はこちらの気も知らないで私の横を素通りする。

「次の週末に行われる他校との交流戦、」

目で追うように振り返れば西の空には太陽が沈みかけていた。オレンジと言うよりはピンクに近いグラデーション。水彩絵の具を混ぜ合わせたような空には星も瞬き始めていた。

「監督から先発ピッチャー任されたわ。自分も部活やと思うけどウチでやるからあの窓からなら見えるやろなぁ」

特別教室棟の三階を見て、それから私へと視線を向けた。
その時の桐島は認めるのが悔しいほどにかっこよくて、綺麗だった。

「気ぃ向いたら見てな」

それだけ言って桐島は部室の方へと言ってしまう。一体何様のつもりだろうか。しかしこうなったらしょうがない。次の週末までに野球の知識を身に着けて原稿用紙三枚分の感想は言ってやろう。
だから、覚悟しといてよね。





三限授業後の昼休みに早弁をし出す生徒は割と多い。といってもその大半が運動部の男子生徒だ。だがしかし私はこれ幸いにとその波に乗っかりスクバの中から朝手に入れたものを取り出した。

「めっちゃ抹茶の匂いすんねんけど」

周囲の目が気になるお年頃、早弁していることに多少の気恥ずかしさはあったので机の下で袋を開けたのだがまさかの匂いで気付かれた。後ろを振り返った桐島は「どうせ自分やろ」と確信をついてくる。

「バレました?」

正直に白状し机の下に隠していた物を取り出す。それは私が朝コンビニに寄って買って来たもの。いつもより三十分以上早起きして町はずれのコンビニまで行きでようやく手に入れたものだった。

「この抹茶メロンパンだけずっとどこも品切れだったんだけど今日やっと買えたんだ」

以前、桐島に教えてもらったコンビニ限定の抹茶スイーツ。その最後の一つがこのメロンパンだった。そしてお昼を前に耐えきれなくなった私は袋を開けた。早起きした分、朝ごはんも早かったからお腹空いちゃったんだよね。

「えらい執念やな」
「なんせ期間限定の抹茶商品だからね。んーっ美味しい!」

四限前の休み時間はそう長くもないので早速一口頂く。どうやらパンの生地が抹茶と言うだけでなく中のクリームも抹茶という贅沢っぷり。うん、ものすごく美味しい。早起きして手に入れた甲斐があった。

「ハハッめっちゃハムスターみたいに食べよる」

桐島は椅子の背に頬杖をついて夢中で頬張る私を見ていた。人が食べる姿を見て何がそんなに楽しいのか。そういえば桐島は早弁しないよね。他の野球部の人たちが昼休み以外におにぎりや菓子パンを食べる姿を見たことあるが桐島に至ってはそれがなかった。

「桐島はさ、お腹空かないの?」
「昼前やしそれなりに空いとるわ」

でも食べないよね。間食はしたくないタイプかそれとも食べた後は絶対に歯を磨きたい派か。だけど他の子にもらったお菓子とかはその場で食べたりするしな。ってことで私はバッグの中からウェットティッシュを取り出した。

「桐島も食べる?」
「は?なんで?」

片手で器用にティッシュを取り出して手を清潔にする。そしてまだ自分が口を付けていない部分をクリームが垂れないように千切って差し出した。

「私が抹茶情報を逃さなかったのは桐島のおかげだからね。そのお礼」

どうぞ、と差し出せば私とメロンパンを交互に見て「ならもらうわ」と淡白に言う。そして一口で頬張ったその姿に、急いで〜食べると咽せるよハム太郎〜と無理やりリズムを合わせ歌ってやれば豪快に咳き込んでいた。だから言ったのに。そして「そこはハム太郎やのうてこうしくんやろ!」とツッコまれた。いや知らんけど。





制服のブレザーがなくても快適に過ごせるようになった頃、誰かが席替えをしようといった。新しいクラスにも慣れそろそろ変化がほしくなったのだ。その生徒の意見に担任も快く承諾し席替えが行われることとなった。

「ついに桐島ともお別れか」

席決めのくじを引き終えた桐島が戻ってくる。その姿を見ながらもう出会ってから一ヵ月以上も経ったんだなぁとしみじみ感じてしまった。

「なんや寂しいんか?」
「いや別に。ただ小テスト範囲やノート見せてくれる人が身近にいなくなるのは困るんだよね」
「なら安心しい。また席が近なっても自分には何も教えんから」
「薄情者め」
「それは自分やろ」

数字の書かれたくじを開ける桐島を横目に自分も引きに行く。箱から取り出した紙に書かれた番号は『1』だった。それは今の席から最も遠い廊下側の一番前の席を表す番号だ。

「うわっ机移動めんどくさ」
「どこやったん?」
「廊下側の一番前。桐島は?」
「ここ」

と言って私の机をその長い人差し指で叩く。移動も少ない上に一番後ろとか大当たりじゃん、いいなぁ。

「ほな自分は椅子運び」

クラス全員のくじ引きが終わり皆が席から立ち上がり移動を始める。早く移動しないと、と思い立ち上がると私よりも先に立った桐島が机を両手で掴んでた。

「え?」
「横通るで」

そして私の机を軽々持ち上げては重さを一切感じさせない動きで運んでいく。中にはまだ教科書も入っているのに、だ。
私は桐島の席を一つ分後ろに動かしてから自分の椅子を持って後を追いかけた。

「ありがとう」
「別にええよ、自分の細腕じゃあ運ぶのに時間かかるやろ」

相変わらず一言余計だな。でも助かったのは事実。だから私はお礼にとバッグの中から抹茶のお菓子を取り出しプレゼントしようと思ったのだがそれはやんわりと止められた。

「俺の労働が菓子ひとつで足りるワケないやろ」
「いやいや消費カロリー的にこれで十分でしょ」
「そうゆう問題じゃないねん。この借りは別の機会に返してもらうわ」

親切の押し売りか。ならばこっちも別の機会に勝手に返せばいいか。例えば桐島のノートもまとめて提出してあげるとか……ってもう前後の席じゃないんだった。

立ち去った桐島の背中を目で追えば自分から一番遠い席へと腰を下ろした。
……教室の端と端って意外と距離あるんだな。



部活の朝練は強制ではない。だから寝坊をしてしまった私は音楽室に行くことなく教室へと直行することにした。
部活に顔を出すには遅い時間だが教室に来るには早い時間帯。だからかクラスにはまだ数人ほどしかおらず各々自由に過ごしていた。

「おはよう」

そんな中でも私の後ろの席の男子生徒は真面目に勉強していた。しかし入ってきたことが気配で分かったのか顔を上げて挨拶をしてくれる。

「おはよー…えっ今日って小テストあったっけ?!」
「違うよ、数学の課題。昨日やろうとしたんだけど気づいたら寝落ちしてて……それにしてもこれ難しくない?」

そうだ、私が寝坊したのもこの課題のせいだった。昨夜は教科書と睨めっこし何とか答えを導き出し眠りについたのだ。

「応用問題だしね。私でよければ教えるから声掛けてよ」
「あっじゃあ早速なんだけど」
「頼るの早いな」

彼に聞かれるままに解き方を教えてあげる。ただ、本人も答えを教えてもらう気はないのかポイントさえ押さえるとすらすらと解いていた。

「おっ解けた!」
「おめでとう。でもその様子だと私が教えなくても解けたと思うよ」
「そんなことないって!ありがとう!」

助けになったのなら何よりである。無事課題を終えた彼はシャープを机に置いた。しかしまだ何か言いたそうに口をまごつかせている。それがどうしても気になって、どうしたの?と聞けば彼は視線を窓際の後ろの方へと向けた。

「あの子のことなんだけどさ、」
「うん?」

教室内に人は増えたが彼が誰を見ているのかはすぐに分かった。ちょうど桐島の前の席、そこには学年一の美女が読書を嗜んでいた。窓から入る風が撫子の黒髪をさらい、その空間だけが聖域のようにキラキラとして見えた。

「彼氏っているのかな…?」

そうか、つまりはそういうことね。理解した。

「今はいないと思うよ。でもこの前二年の先輩に告られたって話は聞いた」
「マジか……」

確か彼は外部受験組だったか。だとすると彼女の今までのモテにモテた武勇伝も知らないのだろう。彼の心を折りたいわけではないがありのままあった撫子の歴史を教えてあげた。

「やっぱり高嶺の花なのかなぁ」
「うーん……でもワンチャン可能性もあると思うんだよね。あの子の歴代の彼氏ってみんな背が高い運動部の人だったから」

見た目だけで言えば水泳部で身長が一八〇近くある彼は十分候補になるだろう。おまけに部活で鍛えられた体は服の上からでも逞しいのが分かるし肩幅も広く男らしい。

「そうなんだ!」
「うん。あとは話すキッカケだけどミステリー好きみたいだから本とか映画の話題出すと盛り上がるかも」

目の前の恋バナに楽しくなってついつい饒舌になってしまう。やはりこの手の話は面白い。加えて男子目線というのが新鮮で自然と彼の恋路を応援したくなる自分がいた。

「今なんか映画やってたっけか」
「えーっと……あっ来週公開のこれとかそうじゃない?」
「ホラー寄りだけど彼女見るかな?」
「あー…ホラーは苦手かも」
「ならこれは?洋画だけど大学生が主役の——」
「おはよう」

ガタリ、と机が揺れて自分の脚に当たる。何かと思い捻っていた体を戻せば桐島が私の机に左手を乗せこちらを見ていた。

「おはよ」
「なんや自分、今日は朝練行かへんかったんか」
「うん、実は寝坊しちゃったんだよね」
「ほぉ」

なんだろう……口元は笑ってるのに目が笑ってない気がする。朝から何を怒っているのか。というか朝のあいさつにしては自己主張強すぎでしょ。私の机はインターホンでもないんだからね。

「ほんなら明日は俺がモーニングコールでもしたろか?」
「野球部はオフの日以外スマホ禁止でしょ」
「アホか、家まで迎え行ったる言うてんねん」
「見返り怖そうなんでお断りします」
「いけずやわぁ」

私に絡むのにも飽きたのか桐島は自分の席へと向かっていく。するとそれに気付いた彼女が本から顔を上げて「おはよう桐島くん」と笑顔を向ける。そして桐島はそれを返し一番後ろの席へと座った。

「うわぁ……」
「どうしたの?」
「桐島って偶に怖いときあるなって思って」
「分かる。笑いのセンスに取り憑かれて無茶ぶりしてくるときなんて狂気しかないよ」
「いや、そういう意味じゃないんだけど……」
「そうなの?」

再び桐島の方へと視線を向ければ前の席の彼女と何やら楽しそうに話していた。その表情に先ほどの不機嫌さは一切なくなっている。まぁ可愛い女の子と朝から話ができたら誰だって浮かれるよね。

ただ、少し前まではあそこに自分が居たからか傍から見るのは変な感じだった。





すごい、ここまでくると逆に感動してしまう。
私は今、過去一不味い抹茶商品を口にしていた。

「これで三百円以上するなんて詐欺だ…!」

部活帰り、母親からの『醤油買ってきて!』のメッセージに従いスーパーに立ち寄ったところ初めて見るメーカーの抹茶ラテを発見した。もちろん私は嬉々として買ってみたのだがそれがアホみたいに不味い。煎茶に砂糖溶かして飲んだ方がまだ美味しい気さえする。

「ごめんね、寮生なのに送ってもらっちゃって」

捨てるわけにもいかないので飲みつつも苦虫を噛み潰したような顔で帰路を辿っていれば数メートル先に自分と同じ制服の生徒を見つけた。一人は撫子の君と、そしてもう一人はなんと桐島だった。

「別にかまへんよ。ちょうど俺も本屋に行こう思ててん」

学校と寮は隣接しているため普通なら野球部員が部活帰りにこんな場所まで来たりしない。

「桐島くんも本読むの?」
「いや、俺の場合は野球関連の雑誌やね。毎月買うてんねん」
「そうなんだ。すごく勉強熱心だね」

これは後をつけてるんじゃない。私の進行方向に二人がいるだけ。でもどうしたって忍足になって距離を詰め過ぎないよう計る私はいた。

「それを言うなら自分もやろ。毎朝、本読んどるやん」
「本が好きなのは確かだけど実は他にも理由があったりして」
「そうなん?」

二人が足を止めたのと同時に電柱の影へと隠れる。最早考える間もなく脊髄反射で身を隠した。女の勘とも言うべきか、彼女の先に続く言葉が何か分かってしまったからだ。

「朝一番に桐島くんにおはようって言いたいからだよ。だって私、桐島くんのことが好きだから」

胃の中がムカついて吐き気を催すような感覚。きっとこの抹茶ラテのせいだ。万が一にも吐き出すかもしれない。それを理由に私はその場を駆け足で離れた。





朝練に行ったとて、必ずしも教室へ行くタイミングが桐島と被るわけではない。だから会わないことを祈っていたのに今日に限って運悪く鉢合わせてしまった。

「おはよう。今日は寝坊せんかったんやな」

しかし当の本人は露ほど思っていないのかいつもの調子で絡んできた。

「もう三日連続朝練には行ってるんだけどまだ言うか」
「慣れた頃にしやすい言うやろ。車の運転と一緒や」
「免許持ってないでしょ」
「例え話や。自分、想像力足りひんで」
「最近、夢の国に行けてないからイマジネーションが足りてないんだろうね」

そしてちんたら歩く私に合わせて階段を上る。なんだか今日はやけに教室までの道のりが遠い気がする。桐島が隣に来てからはなおさらそう感じた。もしや生霊でも憑けられたせいで足取りも重くなっているのではなかろうか。

「なんや今日はえらい大人しいなぁ」
「そう?それよりもさ、桐島は私にあいさつしていいの?」
「どういう意味や?」

やっと二階まで辿り着いた。そこで一度手すりは途切れる。手持ち無沙汰になった右手を宙に浮かせながら私は言葉を続けた。

「どうせなら可愛い子と朝一のあいさつ交わした方が運気上がりそうじゃない?」
「安心しい。自分も可愛いで」
「そう言えって意味じゃないから!私が言いたいのは…——」
「二人ともおはよう」

桐島の隣からパッと黒髪を揺らした撫子が顔を出す。そのキラキラとした表情はまさにヒロインにふさわしい。ならば脇役は引っ込みますか。

「おはよう」
「おはよー……あっやばい!音楽室にペンケース忘れてきた!」
「そうなの?大丈夫?」
「ダッシュで取りに行ってくる!二人は先行ってて!」

それだけ言って急いで階段を下っていく。あーあ朝からこの階段を往復する羽目になるなんてね。ほんと嫌になる——本当に、自分が嫌になる。



「卑怯だとは思うけど俺は勝負を仕掛けることにした!」

こちらのテンションに反比例して後ろの席の彼は元気いっぱいであった。
午前授業の合間の短い休み時間に声を掛けられたと思ったらいきなりそんなことを宣言された。私は自分の席に座ったまま通路側に脚を伸ばし半身を捻った体勢で後ろの席の彼に耳を傾ける。

「と言いますと?」
「彼女を映画に誘おうと思って」

撫子の君は教室に不在である。しかしいつ戻ってくるかも分からないので声量は最小限にとどめながら話を続けた。

「この前言ってた洋画のやつ?」
「そうそれ!実はダメもとで試写会の抽選に応募してみたらペアチケットが当たったんだよ!」
「それはすごいね」
「だろ?それでさ、誘い方なんだけどどうやって声掛けたらいいと思う?」

彼氏いない歴イコール年齢の自分にそこまで明確なアドバイスを求めないでほしい。だがしかし乗り掛かった舟であるので今更突き放すわけにもいかない。だから脳内のドラマや漫画の知識をかき集めて策を考えた。

「うーん……普通に誘えばいいんじゃないかな」
「一緒に映画見に行きませんかって?」
「そんな感じ。向こうは声掛けられ慣れてるだろうしストレートに言った方が誠意が伝わるかと」
「なるほど!確かにな!」

彼の背中を押したところでふと桐島のことが頭に思い浮かぶ。そうだ、彼女は桐島のことが好きなんじゃん。寧ろ付き合ってるとさえ思える。となると彼は確実にフラれる。

「あのさ、」
「誘うなら早い方がいいよなぁ」
「うん……それでそのことなんだけ——」
「傷心中の彼女を狙う奴は多いからな」
「ん?」

そう息巻く彼に疑念の目を向ける。どういう意味かと問いかければ彼はケロリとした様子で「失恋したばっからしいからさ」と言ってみせた。

「えっそれ誰に聞いたの?!」
「隣のクラスの友だちだけどそいつも誰かに聞いたらしい」
「その話って信ぴょう性あるの?」
「そいつが言うには彼女がファミレスで泣いとったらしいんよ、フラれたーって」
「フラれたって言葉だけじゃなぁもうちょっとなんかないの?」
「一緒にいた子たちには、ずっと好きだったのにって話してたらしい」

ほな失恋か。じゃなくて、

「そう、なんだ……」
「だからさ、ちょっと卑怯な気はするけど完全フリーな今距離を縮めようかと」
「うん、いいんじゃないかな」

彼の話はもう頭に入ってこなかった。ついでに言うならその後の授業もさっぱりだった。



「桐島、ちょっといい?」

朝から悶々としていたこの気持ちを清算するためお昼休みに行動に出た。
思い立ったが吉日、昼食を取り終え食堂から出てきた桐島に声を掛ける。すると桐島は一瞬呆気にとられたような顔をしたが「ええけど」と言って一緒にいた友人に断りを入れ着いてきてくれた。

「なんや?購買に行きたかったん?」

そして桐島とともに購買へ。昼時を過ぎたお弁当コーナーは物寂しく利用客もまばらである。そんな店内の文房具コーナーとお菓子コーナーを突っ切って一番奥の冷蔵コーナーへ。陳列棚から紙パック商品にしては高めの一本三百円以上する抹茶ラテを手に取って会計をした。

「はい、これあげる」

そして購買を出て人気の少なくなった廊下でそれを差し出した。
ここより先が特別教室棟になるため普段生徒は寄りつかないのだ。

「どういう風の吹き回しや」
「……気まぐれ」
「こわぁなんやそれ。明日雪でも降るんとちゃう?」
「朝、感じ悪い態度取っちゃったからそのお詫び」
「……さよか」

三音の無機質な声には驚きの色が滲んでいる。
パックの抹茶ラテを揺らしその存在をアピールすればようやく桐島は受け取ってくれた。そして「槍でも降るんとちゃう?」と余計なひと言を添えてから「ありがとう」と言った。

「それ新発売みたいだったから昨日買って飲んだんだけど桐島にも勧めたくて」
「ほぉ」

私の話に耳を傾けながら窓枠に寄り掛かり付属のストローを差し込む。そして透明なストローに緑色の液体が通過するのを横目で確認してから会話を進めた。

「アホみたいに不味かったから飲ませたかったんだよね」
「ブッ……ゲホッゲホ…っ、ほんまやめちゃくちゃ不味い!これなら緑茶に砂糖溶かして飲んだ方がマシや!」
「でしょ?」
「分かっとるならこないなモン飲ませんなや!」
「あははっ」

教室では見られない桐島のアホ面に思わず笑う。クラスの人もきっと彼女すら知らない顔に優越感を覚える。
桐島は不味い不味いと言いつつも渋い顔して飲んでいた。そして「はぁ」と甘い香りを吐き出して真面目な顔をした。

「俺が告られたこと知っとんのやろ」

核心をついたひと言に苦笑する。ああ、全部分かってたんだなぁって気付いて。そしたらこちらも白状するほかなかった。

「……ごめん」
「どうりで今朝、彼女が現れたとき様子がおかしい思た」
「昨日偶々見かけちゃったんだ」
「でも最後までは見ぃひんかった」

紙パックが音を立てて僅かにへこむ。どうやら飲みきったらしい。そして首だけをこちらに向けてはっきりと言った。

「断った」
「なんで?」

断ったことを知っていた≠アとに桐島は驚いたようだった。でも、それならば話は早いと言わんばかりに窓の外へと視線を向ける。その先にはバックネット越しにグラウンドが見えた。

「今は野球に専念したいねん。それ意外に時間も労力も費やしとうない」
「うちの学校の野球部強いもんね。甲子園も夢じゃないでしょ」
「当たり前や。絶対甲子園行ったる」

高校球児なら誰もが憧れる場所。私もテレビ越しに試合くらいは見たことがある。もちろん自分はプレイヤーではないが行ってみたいなぁくらいの気持ちはあったりする。そうなればあのセリフを口にするほかない。

「いいね!じゃあさ、」
「ん?」

パッと体の向きを変え桐島の前に立つ。

「しゅうちゃん、私を甲子園に連れてって?」

甲子園と言えば誰もが知っている野球作品を思い浮かべるであろう。そして当然、桐島も分かるはず。

「…………」

しかし珍しく自ら渾身のボケをかましたというのに桐島は真顔でそれを見てから、スッと左手で目元を隠して天を仰いだ。

「えっなに?笑ってよ」

ちょっとやめてよ。私がめちゃくちゃ滑ったみたいじゃん。それとも天国のかっちゃんと交信でもしてるのか?こちらとしてはたっちゃんくらいの明るさでツッコミを入れてくれるのを望んでるんだけど。

「おーい、帰ってこーい」

交信を断ち切るべく背伸びをして桐島の前で手を振った。そしてゆっくりと手を退けてようやくこちらを見てくれる。

「自分はいっぺん全世界の南ちゃんファンに土下座した方がええで」

確かにツッコミは入れて欲しかったけどディスって欲しいわけじゃないんよな。ただまた前みたいに桐島と話せることは嬉しかった。

「桐島が甲子園連れてってくれたら検討するね」
「言ったな」
「吹部も夏の大会の練習時間削ってまで応援に行くんだから連れてってもらわないと困る」
「せやな。ほな自分のためにも頑張るわ」

顔を見合わせて笑えば、窓の外からは夏の匂いがした。