後日、私のペンギングッズは全てタコになっていた
この世で最も可愛い生物——それはペンギンだ。
つぶらな瞳にぷっくりお腹、よちよちとぎこちなく歩く姿には言葉では言い表せない可愛らしさがある。しかし一度水中へと潜れば素早い速さで餌を狩り野生としての強さを見せつける。そのギャップにまた心を奪われ私はペンギンを心から愛していた。
「そこのキミ、これ落としたよ」
さて、早く帰って録画したペンギン特集の番組でも見るかと足早に廊下を歩いていたら呼び止められた。振り返れば背の高い男子生徒が一人。そして彼の手にはペンギンのマスコットが握られていた。それは私のリュックについていたもので、どうやらチェーンの留め具が壊れて落ちてしまったらしい。
「あっすみません!ありがとうございます」
七歩の距離を急いで戻れば彼も歩み寄ってくれたのですぐに縮まった。そして彼の手からマスコットを受け取る。埃を払うよう数回撫で、なくさなくてよかったと我が子のように大切にハンカチでくるんでポケットに仕舞った。そしたら「ふふっ」と小さな笑いが降って来た。
「なに?」
「あぁごめん、随分とそのマスコットを可愛がってるんだと思ってね」
「うん。でもこれって言うよりはペンギンが好きなんだ、ほら」
半身を捻って背中を見せる。ペンギンの絵柄がプリントされたリュックにはマスコットの他にもペンギンの缶バッジやキーホルダーがいくつか付いていた。子供っぽい、なぁんて友人達から笑われたりもするが高校生になってもグッズの収集は続いている。
「すごい。中々そこまで集められる人はいないだろうね」
「もちろん本物のペンギンも好きなんだけどさすがに飼うのは難しいからね」
一度、本気でペンギンを迎え入れるために色々と調べたことはあるのだが、まず広い飼育スペースと大きな水槽を用意できなかった。それに餌も魚だけではダメでビタミン不足を補うための錠剤が必要で淡水飼育の場合は低ナトリウム血症防止のために塩分の調整もする必要がある。等々の理由から飼育は流石に諦めた。
「へぇ生態にも随分と詳しいね、ペンギン博士だ」
「ほんと?!実は誰にも言ってないんだけど将来は南極ペンギンの保護を努める団体に入りたくって……」
と、我に返って口を噤む。つい調子に乗って話してしまったが彼とは今が初対面である。しかも落とし物を拾ってくれただけの関係だ。
「じゃあそんな博士に質問です。ペンギンは何が好きか知ってたりする?」
「え?」
しかし彼は意外にも興味を示したようでペンギンについて質問をしてきた。となれば私の口は勝手に動き出す。
「それはペンギンの種類でも違ってくるんだけど餌は基本的に青魚でイカやタコなんかも食べるよ。意外と見た目以上に大食漢だから一日で一.五キロくらいは食べるかな。それと好みとは違うんだけど小石を集めて巣作りをする子もいてアデリーペンギンっていう、」
本日二度目、我に返って口を噤む。目の前の彼は困るでもなく呆れるでもなく、ただ真っすぐにこちらを見下ろしていた。これはいよいよ引かれたに違いない。その顏から「ウザイ」の三文字を読み取った私は慌てて謝った。
「ごめん、なんか一人で語っちゃって」
「いや、聞いたのは俺の方だし。すごく勉強になったよ」
「そう…?じゃあ私はこれで……マスコット拾ってくれてありがとう」
「どういたしまして」
先程よりも速い速度で廊下を歩く。
彼が私の背をじっと見ていたことを知りもせずに。
◇
水の上でぶかぶか浮いているのがカリンとアンズ。くちばしを突きあっているのが番のフウタとユキで、天井に向かって鳴いているのがやんちゃなマツリ。壁に貼られた三十枚の写真を見なくたってこの水族館のペンギンを全て言えるほどには通い詰めていた。
「ペンギンって意外と野太い声で鳴くんだね」
「そうだよ、初めて聞くとびっくりするよね。上を向いて鳴くから『トランペット鳴き』なんて呼ばれることもあるんだ」
「そうなんだ。おや?急にペンギンたちが岩場に上がり出したけどどうしたんだろ」
「今からご飯の時間だから飼育員さんが出てくるのを待ってるんだよ」
「詳しいね、ここにはよく来るの?」
「うん。お父さんが働いて……えっ」
ペンギンとを隔てるガラス壁に映っていたのは私だけではなかった。肩を震わせ隣を見れば先日マスコットを拾ってくれた彼がいる。友人からも「ペンギンについて考えてるときは意識飛んでるよね」なんて笑われるけれど、彼もまた笑いを押し殺したように私を見ていた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
「一人で来たの?」
「うん。そっちも一人?えーっと……」
「あぁ俺は吉田ね」
自己紹介を済ませると彼もまた一人で来たと教えてくれた。となると吉田君もペンギンが好きなのだろうか。しかしそれを確認する前にガラスの向こう側に飼育員さんが登場し、至高のご飯タイムが始まったためそれどころではなくなった。
「みんなすごい勢いで食べに行くね」
「中には横取りする子もいるよ。ほら、マツリがカリンを押しのけた」
「ねぇ、もしかしてキミは彼らの見分けがつくの?」
「うん」
ここにいるのは胸にある二本の黒いラインが特徴的なマゼランペンギンという種類の子達だ。白いお腹には黒い斑点もまばらに見られるため、その模様を覚えれば見分けることが出来る。
「ここにいる三十羽すべて?」
「分かるよ。あっでも今ここにいるのは二十七羽、ジャックとハナとリオは休養中なんだ」
「休養?」
一ヵ月ほど前、早朝当番の飼育員が檻を除くとそこには羽を食いちぎられ血だらけになったジャックがいたらしい。周りのペンギンたちも興奮気味でその日は水槽にすら移せなかったそうだ。
「縄張り争いや番の奪い合いでもペンギンはそんなに攻撃的な性格じゃないんだけどね」
理由は分からないままその一週間後にハナが、そしてリオも同じように怪我を負った。幸い命に関わるものではなかったけれど羽は歪な形になってしまったらしい。父曰く、職員の悪質な悪戯とみているそうだが私にはとてもそうとは思えなかった。
「もしかして悪魔の仕業だったりして」
ご飯タイムを終えればペンギン達は再び思い思いの行動に移る。中には満腹で寝てしまう子もいるので、いつもはそれを見るのも楽しみなのだが今日は隣りを見た。
「どういうこと?」
「この水族館には悪魔が潜んでいてペンギンを襲ってるんじゃないかってこと」
「なんでそれがペンギンなの?しかも何のために?」
「さぁ?それは俺にも分からないな。でもペンギンが襲われて血を飲まれているのは事実だ」
悪魔は血を好み、また飲むことで自身の怪我を回復できると聞く。でもこんなところに悪魔がいるなんて想像がつかない。しかし同種族同士の喧嘩や職員の悪戯と考えるよりは随分と現実味があるように思えた。
「どうにかしてあげたい?」
「えっ」
「このままだときっと他のペンギンも襲われる。キミは彼らの事を助けたい?」
「もちろん!だって他の子も怪我したら嫌だし!」
「じゃあ俺に協力してくれないかな」
アルカイックスマイルを添え、彼は私の耳元に顔を寄せた。
◇
時刻は丑三つ時を回る少し前。乗ってきた自転車は閉店後のスーパーの裏手に隠し待ち合わせの場所まで走る。海の生物たちが描かれた看板は昼間こそ楽しげに客人を迎えるというのに今はそれがホラー映画の導入シーンのように見えて少し怖くなった。
「こっち」
「うわっ?!……びっくりした」
「そんなに?ごめんね驚かせて」
そして闇の中からぬっと出てきた人影に悲鳴を上げる。口では謝りつつも全くそうは思っていなさそうな吉田君に「わざとやったでしょ?」と意地悪く聞いてみれば「想像に任せるよ」と返された。じゃあ確信犯かな。
「ちゃんと取って来れた?」
「うん。ついでに水族館の見取り図も持って来た」
いつものリュック、チェーンを直したペンギンのマスコットを引っ張ってファスナーを開ける。そして父親から盗……借りて来た鍵と図面を取り出した。
「助かるよ、ありがとう。じゃあキミはここで待っててね」
「えっなんで?」
必要な物を受け取って吉田君は水族館の裏口へと歩いて行こうとする。それを腕を掴んで呼び止めた。ここまで来て置いてきぼりはない。
「私も一緒に行くよ」
ペンギンへの被害は悪魔の仕業ではないかと吉田君は言った。だから夜の水族館に忍び込んでその悪魔をやっつけようと私に提案してきたのだ。そこで職員である父親から裏口の鍵を拝借し誰もいないであろうこの時間に落ち合った。
「俺がキミに頼んだのは父親から鍵を借りてくるところまでだよ。それに中は危険だ、連れて行けない」
「それなら尚更一緒に行くべきでしょ?」
「あの程度で驚くような子は連れてかないよ」
「なっ…!……確かにあの不意打ちには驚いたけどこれでも色々と策は考えて来たから大丈夫!」
「その心意気は買うけど一人で十分。だから手を離して」
「デビルハンター部の人でもさすがに一人は危ないよ」
そこまで言えば押し黙った。しかし説得できたわけではなかったらしい。吉田君は私の手をやんわりと払いのけてから体をこちらに向けた。
「俺はデビルハンターだよ」
「うん、デビルハンター部に入ってるんだよね?」
「確かにそうだけど公安所属のデビルハンターでもあるんだ。今までも悪魔はたくさん殺してきた」
だからついてくるな、と目がそう言っていた。街灯の光も届かない夜の中。だけど真っ黒な彼の瞳だけは何故かよく見えた。なんでかな、ペンギンも黒目がちだからかな。
「あのさ、水族館のろ過装置や餌を補完する冷凍庫がどこにあるか分かる?海の生き物が夜どういう行動を取っているのか知ってる?」
突然始まったクイズショーに吉田君は真顔になっていた。といってもいつも通りの顔だけど。でもこれらの答えが「分からない」ということが分かったのでそれで十分だ。
「吉田君は確かにデビルハンターですごい人かもしれないけど水族館のことや生物には詳しくないよね。悪魔に地の利を逆手に取られたら危険だと思わない?」
弱い奴はいらないというのは苛めと言うよりは自然の理ともいえる。特に海という物騒な世界に住んでいる彼らを思うとそれはなお理解できた。だから私は自分にできることを精一杯アピールした。そして何よりペンギン達を助けたい気持ちは吉田君よりは大きい。
「未だにその悪魔が捕まってないってことは相当隠れるのが得意ってことでしょ。この水族館の裏方も何度か入ったことがあるし私がいた方が早く見つけられるかもしれないよ」
黒目にじーっと見つめられたのでそのまま瞬きせずにいたら大きなため息をつかれてしまった。そしてこれ見よがしに顎に手を添え「どうしたもんか」と考えるそぶりを見せている。その煮え切らないその様子に、一緒に行ってもいい?と形だけの疑問符を付けて言い切った。
「分かった。但し俺の言うことは聞くこと、いいね」
「了解!」
呆れの混じった失笑にはこちらも苦笑せざる終えないがまぁ良しとしよう。
裏口の扉に鍵を差し込めばガチャリと景気のいい音を立て簡単に開いてくれる。しかし非常灯しかないのであたりは薄暗かった。そこで持って来た懐中電灯で照らしてやれば「準備がいいね」と早速お褒めに預かれた。よし、今だ。
「あのさ吉田君。寄れたらでいいんだけどペンギンが休んでいる部屋に行けないかな?ぜひとも安眠しているペンギンが見たくって」
危険がない水族館のペンギンだからこそ見せる姿。ぜひお目にかかりたいものだし何なら写真に収められないかとカメラも持ってきていた。だってこんな機会はもう一生訪れないかもしれないから。
「本当はそれが目的だったな」
「それも目的だった、が正しいかな」
「はぁ」
遠慮もないため息をついた彼の肩には手を置いてあげた。ほら、元気出して。
暗がりの廊下を歩き、目についた部屋の扉を一つ一つ開けていく。こんなあてずっぽうな探し方で見つかるのだろうか。だから私は早速役に立つべきリュックの中からタッパーを取り出した。
「吉田君」
「なに…ってそれは生肉?」
「うん、牛肉。それとアジも。これで悪魔を誘き寄せられないかなぁと」
鶏と豚とも迷ったけど一番血生臭そうな牛肉にした。そして水族館に住み着いていることから魚も用意してみた。悪魔は血を好むのでもしかしたら来てくれるかもしれない。お陰で今月のお小遣いは全て飛んだがこれでペンギンを救えるなら安いものだ。
「本当に準備がいいね。でも蛸にも探させてるから大丈夫だよ」
「蛸?」
「ギャアアアアアァァ!!」
蛸って何の謎々?と思っていたところですごい悲鳴が聞こえて来た。ガシャンガシャン、と何かが暴れる音までも聞こえる。それは廊下で乱雑に響きどこから発したかは分からなかったが吉田君は確信的に走り出した。その後を慌てて追いかける。
「逃げられたか」
辿り着いたのはペンギンの宿所、そこでは興奮気味にペンギンが泣き喚いていて床には血痕の跡が見えた。それはさらに先の通路へと続いている。
「キミはここにいて」
「え、」
「墨」
その呼びかけと共に視界が黒い霧に閉ざされたと思ったら吉田君の姿も消えていた。こうなっては追いかけることもできないので大人しく待つことにする。しかしペンギン達の大合唱で耳が張り裂けそうだ。そこでアジの存在を思い出し宿舎にばらまいてみた。一羽二羽と魚の存在に気付いたペンギンが大人しくなり床の魚を飲み込んでいく。
「ん?」
そんな姿をほっこりと見守っていれば扉の外へと走っていく小さな影を見た。もしや脱走か?それは流石に見過ごせず走って追いかける。しかしペンギンの割にはその速度が意外にも早い。扉を蹴破りコンクリートの通路を抜け、階段を上りそして展示用水槽の真上まで来たところでようやく追いついた。
「待って!」
『こ、ころさないで…!』
プルプルと体を震わせ床にへたり込んだのはペンギンのような生物だった。大きさは私の膝くらいの背で水かきの付いた黄色い脚と些か飛べなさそうな小さな羽がついている。でも顔は鵜に近かった。そういえば図鑑で『ペンギンモドキ』という絶滅した飛べない鳥の絵を見たことがある。
「えぇっと、貴方は何者?」
『ペンギンの悪魔!』
しかし言葉を話している時点で生物でないことは明らかだった。こんな悪魔もいるのかと感心しつつも一歩下がって距離を取る。
「水族館のペンギン達を襲ったのは貴方なの?」
『ちがう、襲ってない!一緒に遊ぼうと思ったら傷つけちゃっただけ!』
きゅぅぅ、なんてイルカのような声を出して項垂れる。そして悪魔は『友達になりたかった』『ボクもかわいいって言われたい』『悪魔だけどペンギンだよ!』なんて言いながらぴえぴえ泣いていた。その目の前にタッパーから取り出した牛肉を投げ捨ててみる。
『アッ!血だ肉だ!!魚臭ぇ血にはもう飽きてきて……ハッ』
いとも簡単に化けの皮が剥がれた姿にこんな悪魔もいるのかとジト目を向ける。するとそれはバツが悪そうに『ウソウソ!冗談!』なんて言いながら羽をばたつかせていた。可愛げは無駄にあるな。
「おいで」
『えっ…わー!』
膝を折って悪魔と同じ目線に。そうして腕を広げれば、てとてと短い脚を懸命に動かして走って来た。そしてあと一歩のところで悪魔が勢いよく飛んだ。小さかった羽を大きく広げ空中で羽ばたき、獲物を狩る目で睨まれる。
『死ね!!』
「ペンギンは空飛ばない!」
『ガッ?!』
その顔面目掛けて思いっきり懐中電灯を投げた。それは見事クリーンヒットし大きな音を立てて悪魔は床に転がる。立て直す隙も与えぬよう大急ぎで駆け寄って羽の下に手を入れ持ち上げた。
「吉田君!悪魔捕まえた!!」
そして大声で叫んだ。その声は無機質なコンクリートに跳ね返りエコーのように建物中に響いていく。おまけに水中にまで聞こえたのかすぐそばの水槽で魚たちが水面を揺らしていた。
『なっ?!ボクを助けてくれないの?!』
「襲っておいて馬鹿なこと言わないでよ!そもそもペンギン達を傷つけた時点で信用してないから!」
『ハッあんな奴らオレ様のエサで十分なんだよ!図に乗るなこの人間風情が!!』
「ほら本性現した!」
「よく見つけたね」
懐中電灯が転がった廊下の照らす先にフッと現れた。吉田君の腕の中には怪我をしたペンギンがいて血痕はその子のものだったらしい。しかし命に別状はないのか吉田君に静かに抱かれていた。
「ペンギンの悪魔だって」
『ころさないでくれ!ボクはみんなと友達になりたくて……キミなら分かってくれるだろ?』
そう本物のペンギンに語り掛けるもその子は完全無視して吉田君の服を突いていた。というか吉田君懐かれてない?羨ましいなそのポジション。ぜひとも私の持つ生物と取り換えて頂きたい。
「所詮悪魔は悪魔だ。ここで死んでもらうよ」
『クソッオレ様を無視しやがって!こんなとこで死ねるかよ!』
「いっ…?!」
左手の甲に激痛、くちばしで突かれた場所からは血が滲んでいた。悪魔は一瞬の隙を付き私の手から抜け出して吉田君へと襲い掛かる。しかしどこからか現れた蛸脚が簡単に悪魔を叩き落とした。それでもまだ生きてはおり羽ばたきながら蛸脚の追撃をかわしていく。
「いい加減、観念しなよ」
『それなら……』
蛸脚の隙間を潜り抜け悪魔は手すりに足を掛けた。そのすぐ傍には大きな水槽がある。そして悪魔は何のためらいもなくその中へと飛び込んだ。
『戦略的撤退!』
「待て!逃がすか!!」
「ちょっと、まっ」
手すりを飛び越え大口を開けた水槽へとダイビング。視界は泡で満たされた。
濡れ鼠という言葉がしっくりくるくらい全身水び出し状態だった。この状態では帰ることも難しいため一先ずタオルを借りるために休憩室へと向かう。因みにペンギンも一緒だ。もちろん本物の方。
「俺との約束を破り悪魔を追いかけサメの水槽に飛び込んで助けられた今のキミの感想は?」
「すみませんでした!」
「返事だけは良いよね」
「よく言われます!」
「反省してくれないと困るんだけど」
温度のない目で見下ろされさすがにバツが悪くなり、すみませんでしたと頭を下げる。吉田君が使役する蛸を使って助けてくれなければサメに食べられていたかもしれなかった。因みに悪魔はあっけなく蛸脚で絞殺されていた。明日の朝には警察が来てその死骸回収もしてくれるらしい。
「ほらタオルあったよ」
「ありがとう」
受取ったタオルで絞った服からさらに水分を拭き取っていく。しかしそれもすぐに水び出しになってしまえばまた新しいタオルを渡された。そうして自分の服を拭いている間に吉田君は私の髪を拭いてくれる。
「大丈夫、自分でできるよ」
「早く拭かないと風邪ひくでしょ。それとある程度乾いたら手の手当てもするから」
「出血ほど酷くないから平気。それよりペンギンは?」
「もう止血はしたから大丈夫。それより今はキミの話。海洋生物がいる水の中には多くの微生物が存在するけどそれらがいた水槽なんてばい菌だらけだとは思わない?」
「お願いします!」
「うん、素直でいい子」
髪は丁寧に乾かされ同じく部屋にあった救急セットを借りて手当てをしてもらう。しかしその間、私の興味は別の物へと移っていた。それはこの空間にいるもう一つの存在、羽にハンカチを巻かれたペンギンのジロウだった。
「ねぇ吉田君、ジロウの抱き心地はどうだった?」
「ジロウ…?あぁ見た目よりも硬くて驚いたかな。あと結構臭いがきつい」
「いいなぁ」
「なにが?」
ジロウは休憩室に興味津々らしく置いてあるテーブルの下や棚の隙間を行ったり来たりしていた。左手には大きな絆創膏が張られ「これで終わり」と言った吉田君にはお礼を言ってすぐに床にしゃがみ込んだ。
「おいでおいで」
なるべく怖がらせないように優しい声色で呼び掛けてみる。しかしジロウは一瞬だけこちらを向いただけでまた部屋の探索を始めてしまった。その姿にがっくりと項垂れていれば上から笑い声が落ちてくる。そうして顔を上げればすぐ隣に吉田君が同じように座っていた。
「来てくれない…!」
「もっと可愛らしい感じで呼んでみたらどうかな」
「ジロたんおいで〜怖くないでちゅよ〜……吉田君も笑ってないでやってよ」
「見てもないのによく分かったね」
「突き刺さる視線に嘲弄の色が見える」
「馬鹿にはしてないよ。可愛いなって思っただけ」
「そう思うんなら呼んでよ」
「ジロウのことを言ったんじゃないんだけどな」
「あっ」
先ほどまで一切の興味を示さなかったのに一目散に駆け寄って来た。そのちまちま歩く姿のなんと可愛いことか。声にならない悲鳴を上げていれば隣から視線を感じた。どうだ、羨ましいだろ。しかしその可愛らしい生物は私ではなく吉田君の前で急停止し真上を向いて声を上げた。
「えっなに?急に鳴き出したんだけど。もしかして怒ってるのかな」
いや、違う。けたたましい情熱溢れるこの鳴き方は愛の叫び、つまり求愛行動だ。
「違う!寧ろ吉田君が好きなんだよ!」
「いやいや、ジロウは雄でしょ」
「ペンギン界では同性同士も一緒に生活することもあるんだよ!いいなぁペンギンから好きになって貰えるなんて羨ましい!」
両の羽を広げて猛アピールする姿はものすごく可愛い。しかし彼のお相手である吉田君はというと顔から全ての感情が抜け落ちていた。一周回って歓喜の虚無顔かな。
「俺はどうすればいいの?」
「付き合えばいいんじゃないかな。それにペンギンはタコも好きだしきっと吉田君の悪魔とも上手くやれるよ」
「食べられたら困るんだけど」
本当はカメラでこの二人も撮りたかったが水没した為断念した。
その後、休憩室を出てもなお鳴くジロウを吉田君が抱っこしてあやしてあげていた。その姿に思わず「パパ」と言えば死んだ魚の目を向けられた。すごい、吉田君も徐々に水族館に適応してきてるね。
しかし早くも別れの時が来てしまった。ジロウを宿舎へと帰してやれば仲間達に囲まれて嬉しそうだった。特にユカリが嬉しそうでくちばしをせっついていた。あっあれは番同士がやる行為……
「あー振られちゃったね」
「そもそも付き合ってもないし好きでもなかったんだけど」
「どんまい」
「腑に落ちないなぁ」
失恋した吉田君を励まして水族館を出る。東の空は薄っすらと白く霞んでおり一日の始まりを教えてくれた。あとで警察も来るとのことだったが裏口は念のために施錠はする。
「荷物は大丈夫?」
鍵をリュックへと戻すがそれももちろん水を吸ってぐっしょりと重くなっていた。当然、中に入っていたペンケースやメモ帳も水で濡れた。シャープペンって一度水に浸かっても使えるのかなぁ。
「まぁなんとか。学校には他のバッグで行くよ」
「リュックとその中身は弁償する」
「えっなんで吉田君が?落ちたのは私だし」
「俺はキミを利用したからね。それに怪我もさせちゃったしそのお詫びも兼ねて弁償する」
水族館でペンギンを見ていた私に声を掛けたのは、確かに利用する為であったのだろう。でも怒ってはいない。それどころか感謝しているくらいだ。
「いいよ、だって吉田君のおかげでペンギン達を助けられたんだから。それに夜の水族館にも入れてちょっと楽しかったし」
「一歩間違えたら死んでたかもしれないよ。それでも俺を許せるの?」
「助けてくれたんだから寧ろ命の恩人でしょ?ありがとう」
まだ話すことでもあったのか唇が僅かに開けられる。しかし、続けられることはなく、顎に手を添えて押し黙ってしまった。彼の中では納得がいかないのだろうか。
「あっじゃあ今度たこ焼き食べに行こうよ。この水族館の売店で買うとシール貰えるからさ」
残念ながらそのシールはペンギンじゃなくてタコなんだけどね。まぁタコも嫌いじゃないし。それに私を助けてくれたのでタコも好きになった。
「分かった。でもやっぱり弁償はさせてほしい、これは譲れない」
「えー……」
「じゃあ帰ろうか」
きっぱりと宣言して白く染まりかけた道路を歩き出す。その背を慌てて追いかけた。
「シャープペンにノート、キーホルダーと缶バッジでこれがリュックね。ペンケースはまだ見つかってないから今度でもいい?」
「ねぇ、ペンギンは?」
後日、私のペンギングッズは全てタコになっていた。