その終身雇用ってつまりは結婚では?
皿によそった料理が十分に冷めたことを確認しラップを掛ける。炊飯器には一時間後にご飯が炊きあがるようにセットして明日分の食事はタッパーに入れて冷蔵庫に保管済み。今日は換気扇とトイレの掃除もしたし、なくなりかけていたプロテインも買ってきた。我ながら上出来と言ったところではないだろうか。
「よし、帰るか」
身に着けていたエプロンを仕舞い、自分の荷物を手に取り改めて部屋を見回した。
ソファやダイニングテーブルといった必要最低限の家具にシンプルなカーテン。キッチンには物が揃えられてはいるが自炊はしないのか家主の使った形跡はほとんどない。またこの家には他にあと二部屋あるが用心深い性格なのか鍵が掛けられておりその部屋の掃除はしなくていいと言われている——そのことを思い出しながらつい本音が口から零れ落ちた。
「どんな人が住んでるんだろ」
一ヵ月ほど前から私はこの家のハウスキーパーとして家事全般や買い出しを行っている。しかし知り合いにお願いされたから引き受けただけで家主の顔も知らなければ名前も知らない。この仕事をお願いしてきたというのが自分の叔母に当たる人なのでそのあたりは信用しているのだがやはり気にはなる。でも叔母は一向に口を割ってくれないためただ粛々と指示されたことと許された範囲内での掃除をしているというのが現状だ。
男の一人暮らしとまでは想像できているが年齢は分からない。でもこのマンションは結構いい家賃のところだしハウスキーパーを雇えるくらいだから相当稼いでいるのだろう。事実、先月分の給料も悪くなかったし。誰が住んでいるのは謎だが私としても文句はない。
「お邪魔しましたー……お?」
家主はいないが黙って出ていくのはなんとなく気が引けるので毎度この言葉を口にしている。そしていざ帰ろうとドアノブに手を掛ければそれが勝手に動き出した。
「え?」
「は?」
そして開かれた扉の先にいたのは一人の日本人男性。しかもめちゃくちゃイケメンだった。透き通るような黒髪に海を映したかのようなターコイズブルーの瞳。そしてまつ毛も長ければ背も高かった。こちらを見て唖然としているが見惚れてしまうくらいにはイケメンだ。
「あの、どちら様ですか?」
「テメーこそ誰だよ」
しかしそのイケメンの顔は一瞬にして険しいものに変わった。おまけに殺意とまでに感じるほどのオーラまで放っている。もしかして私、今から殺されます?
——これが糸師凛との出会いだった。
◇
日本を飛び出しフランスに来たのは一ヵ月半ほど前のことになる。
管理栄養士の資格を取り大学を卒業した私はとある企業の商品開発部に就職した。しかしそこが俗に言うブラック企業というところで地獄のような日々を送った。マーケティング部からの無理難題に応えながらの商品開発。管理職からのダメ出しにその商品が売れなければ全部こちらの責任にされる。日付超えるまで帰れないなんてのが日常茶飯事で年間休日は十二日だった。初めに言われていた日数とゼロが一つ足りない。
そんな職場も五年という節目を機にやめてやった。やめるときは色々と揉めたがそこは退職代行を使って上手いこと収めた。
「あんた仕事辞めたんだって?ならウチくる?」
そのことをフランスに住む叔母に伝えれば軽いノリでそんなことを言ってきた。そしてその申し出に、行く行く〜!と二つ返事で返したのだった。
今の私に必要なのは休養。貯金もそれなりにあったし叔母さんも「こっちで仕事紹介するよ」と言ってくれたのもあり、住んでいたアパートも家具も全て引き払いビザを取得してフランスに飛んだ。
「あーついに鉢合わせちゃった?」
それで紹介してもらったのがハウスキーパーの仕事だった。
「タイミング悪く出くわしたよ!しかも通報されかけたんだけど!」
それもフランスの強豪クラブチームで活躍するサッカー選手の糸師凛の家という嬉しくないサプライズ付きだった。
「あははっ!」
「笑い事じゃない!」
叔母の家に居候している私は家に着くなり今日あった出来事を話した。玄関で鉢合わせした挙句、危うく警察にお世話になるところだったと。私が向こうを知らなかったように向こうもハウスキーパーがどんな人間なのかは知らなかったらしい。
「糸師凛のマネージャーと私が知り合いでね。その人に家事全般できる子紹介できないかって頼まれたんだよ。できれば日本人がいいって言われて」
「だとしても向こうが私のこと一切知らないのはおかしいでしょ?!顔は分からなくても名前とかどんな人間かは事前に伝えとくのが普通だよ!」
「彼のマネージャーには言ったわよ?でも本人にそのことは伝えてなかったみたいね」
曰く、今までも他の人にハウスキーパーを頼んだことはあったらしい。でも家主が糸師凛だと分かると猛アプローチを仕掛けてきたり洗濯物を盗まれたりと散々な目にあったのだとか。職種的に女性が多いだろうしあれだけのイケメンで有名人ときたらそういう人もいるのだろう。ただ自分の場合はスポーツに疎いので彼がサッカー選手というのは後に知ったことだった。
「本人に女って知られたら拒否すると思ったから?」
「だろうね。でもマネージャーとしては彼の私生活の負担を減らしたいわけで苦肉の策だったんじゃない?」
「だけど得体のしれない人間が家に出入りしてるほうが怖くない?それに私の作った料理も食べてるわけでしょ」
「プライベートルームには鍵を掛けてるみたいだから窃盗対策は取ってたってことでしょ。それに食事に関しては毎回マネージャーが最初に毒見をしていたらしいわよ」
いつの時代の皇族だよ。しかしその様子を聞くに前に相当嫌な思いをしたんだな。それに関しては同情する。だけど秒でスマホを取り出して警察に連絡しようとしたことはちょっと恨んでる。
「まぁもういいや。どうせ私はクビでしょ」
ソファの上で伸びながら人生二度目の無職に浸る。叔母さんを当てにするんじゃなくて普通にバイト探そうかなぁ。でもフランス語は大学の時に趣味で専攻していただけであとは独学で身に着けた日常会話くらいしかできないからそれなりに働くとなると厳しいかも。
「まだそう決断するのは早いんじゃない?」
スマホと睨めっこして求人サイトを漁る私を横目に、叔母はまた笑っていた。
◇
クビを確信した日から二日後、なんと私は再び糸師凛の家へと訪れていた。
「……改めてよろしくお願いします」
「ン」
そして今日は家主も在中である。
改めて自己紹介をすると彼は表情を一切変えることなく短い返事をした。イマイチ彼が何を考えているのかが分からないがこちらが話し出さないことには会話が進みそうにない気がする。だから意を決して口を開いた。
「継続してハウスキーパーを希望されるとお聞きしたのですが私でよかったのでしょうか?」
「ああ」
いいんだ……でもそうじゃなきゃわざわざ呼んだりしないよね。それにこんな形で顔を合わそうとは思わないし。
「仕事内容としては今まで通り私室以外の掃除と食事の支度、あとは指定された物の買い出しでよろしいですか?」
「それでいい。ただこれからは俺と直接連絡を取れ」
差し出されたスマホのディスプレイには携帯番号が表示されていた。どうやら個人の連絡先を教えてくれるらしい。その番号を自分のスマホに登録し、そして私の携帯番号も教えた。
「必要な物があればこっちから連絡する。あと家に来た時と帰る時にはメッセージで連絡入れろ」
「わかりました」
「俺は今から出掛ける。あとは頼んだ」
「はい」
要件だけ伝えれば彼はとっとと家を出て行ってしまった。私は一人リビングに残される。そして改めてスマホの連絡先を見て頬が緩んだ。
うわぁやばい。有名人の連絡先手に入れちゃった。さすがにプライベート用ではなく仕事用で使っているスマホの方だと思うけどちょっとテンション上がる。悪用するつもりもなければ糸師凛のファンでもないけれどミーハーなのでこういうことにしゃいでしまう私はいる。
「よし、やるか」
とはいえ雇用継続してもらったからには仕事はちゃんとしなければ。まずは掃除からと気持ちを切り替え掃除機のスイッチを入れた。
直接連絡を取るようになってから糸師凛がどんな人間なのか次第にわかってきた。
まずは食べ物。基本的に何でも食べるけど酸っぱい物が苦手らしい。一度、タコとわかめの酢の和物を作ったところ「二度と出すな」と個別で連絡がきたくらいにはダメらしい。だが和食、特に鯛茶漬けが好きらしくこれに関しては逆にリクエストをもらったほどだ。
「ふんふん〜♪ふふふ〜ふ〜♪」
「……あんま上手かねぇな」
「うわっ?!」
一ヵ月もすると私がいる時でも平然と帰ってくるようになった。そして一言二言会話を交えるようにもなった。しかし今日ばかりはキッチンで鼻歌を交じりに上機嫌にご飯を作っていたため危うく包丁で指を切るところだった。
「びっくりした!今日は早いんですね?!」
「オフ日だからトレーニングも早めに切り上げた」
「そうでしたか。連絡くださったら時間ずらしたのに」
「別にお前がいようがいまいが気にしねぇ」
さいですか。ともあれキッチンはこのまま占領していてもいいらしい。引き続き手を動かし切った野菜を鍋に投入していく。その間にも別の品を作るべくもう一つの鍋に火を掛けた。
「甘い匂いがする」
二十分ほどして再びリビングへと戻ってきた彼の髪は濡れていた。どうやらシャワーを浴びてきたらしい。初めは散々警戒されていたというのに随分と心を許されたものである。
「林檎のコンポートを作ってたんです。この時期の林檎は酸っぱいものが多いですが煮詰めることで食べやすくなりますし何より加熱した方が栄養価も高まりますので」
「ふぅん」
「……っ?!」
うぉっ冷た?!
首筋を慌てて触ればそこには水滴が付いていた。そして彼が思いのほか近くにいてびっくりした。どうやら鍋の中のコンポートに興味津々らしい。
「食べてみますか?」
冷蔵庫に入れられるほどの熱は取れていないが火傷しない程度には冷めている。だから煮詰まった林檎をスプーンで一口大に切り取ってそれを差し出した。
「どうぞ」
……いやちょっと待て。この状況はあまりよくないかもしれない。
つい家にいる時の感覚で叔母にするようにスプーンを差し出してしまったが相手は男。しかも雇用主。そしてハウスキーパーの女にトラウマを持つ人間。絶対嫌な顔されるだろうし最悪今度こそクビになるかも。
「んっ」
しかしこちらの不安をよそに握りしめたスプーンの先端は大きな口の中へと仕舞われた。そして乗せていた林檎だけをなくし再び戻ってくる。
「……美味い」
食べた。食べられた。平然と食した。そしてその顔は心なしか満足げである。特に何も感じていないようだ。
「よかったです。タッパーに入れて冷蔵庫に置いておくのでヨーグルトに乗せて食べてみてください」
「わかった」
そして案外聞き分けがいい。そういえば糸師凛って私の二個下なんだっけ。初めこそ俺様野郎な印象があったけど関わりが増えるうちに子どもっぽさも目に付くようになった。
例えば今みたいなこととか、あとは食べるときは口いっぱいに頬張ったりとか。あのシュッとした顔がハムスターのようにパンパンになるのだから初めて見たときは吹き出しそうになった。
「では今日は上がりますね。次はいつも通り明後日でいいですか?」
「ああ」
「わかりました、また買ってきて欲しいものがあれば連絡入れてください。では失礼します」
軽く頭を下げれば「お疲れ」の一言が飛んでくる。
以前にはなかった仕事した≠ニいう実感と充実感に満たされながら部屋を後にした。
◇
いつも通り合鍵を使って家に入るがその瞬間に違和感が私を襲った。
脱衣所の扉が半端に開けられており廊下の先のリビングがやたらと暗い。まだ昼の時間帯でいつもはカーテンが開けられているから日光でそれなりに明るいはずなのに。
「糸師さん、いるんですか……?」
おそるおそるリビングの戸を開けて声を掛ける。返事はないが布の擦れる音を聞き人の気配は感じた。もしや泥棒でもいるんじゃ……しかし家の治安を守るのもハウスキーパーの仕事だと腹をくくり手を伸ばして部屋の明かりをつけた。
「えっ糸師さん?!」
そしてびっくり。なんと糸師さんがリビングのラグの上に倒れていた。倒れている、というよりはソファから落ちたと言った方が近いのかもしれない。
私は慌てて駆け寄ってその肩を揺らした。
「どうされました?どこか痛いですか?」
「……ッ、あたま」
もしかしてソファから落ちた衝撃で頭でも打ったのか。それとも本当に泥棒と鉢合わせて殴られた?
様々な最悪な状況を想像しながら額へと手を伸ばすとそこは燃えるように熱かった。
「ゲホッケホ……!」
「一先ず座れますか?支えるので体起こしましょう」
ラグと体の隙間に手を差し込んで全身を使って体を支えてやる。体は震えているのにやたらと熱い。そして咳の感じから素人目に見ても風邪をひいていることは明らかだった。
「お水持ってくるので少し待っててください」
ラグに座らせたままソファを背もたれにしてそっとしておく。そして急いでキッキンに駆け込み冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。それをグラスに注ぎ入れ砂糖と塩も追加した。即席の経口補水液だ。
「これ飲んでください」
体を支えながら口元まで水を持っていけばそれを受け取りゴクゴクと飲み始めた。一先ず水分を取ってくれたことに安心する。
「はぁ……ケホッ」
「いつから体調悪いんですか?」
「一昨日の練習終わりに熱が出て昨日はオフで丸一日寝てた。そんで今」
「病院には行きましたか?」
「クラブチームのドクターが昨日家に来て薬置いてった」
どうやら本当にただの風邪のようだ。でもだいぶ悪化しているように思える。冷蔵庫には私の作った料理もほぼ残っていたし食べなければ薬も飲めていないだろうから。
「何か食べられそうなもの作りますから糸師さんはベッドで寝ていてください。立てそうですか?」
「だりぃ……」
「根性見せてください」
「鬼かよ」
先に立ち上がり無理やり腕を引っ張ってなんとか立たせる。そのまま体を支えるような形で寝室まで誘導した。さすがに今日ばかりは部屋に鍵は掛かっておらずすぐに入ることができた。
「私は買い出しに行って来るので寝ていてください。何か欲しいものはありますか?」
「……アイス」
「わかりました。すぐに戻ってきますね」
一人で使うには十分すぎる広さのベッドに寝かせすぐに部屋を後にする。
それから猛ダッシュで買い出しを済ませお粥を作り氷枕を用意して看病を開始した。お粥は半分ほどしか食べられなかったけれどカップのアイスはすぐに平らげてしまった。子どもか。ただ、少しでも胃にものを入れてくれたおかげで薬も飲めるようになったのはよかった。
「私はリビングにいるので何かあったら呼んでください」
食器類をトレーに乗せながらベッドに横たわる糸師さんに声を掛ける。まだ熱はあるが気分は少しよくなったのか彼は寝返りを打つようにしてこちらを見た。
「まだここにいていいのかよ」
「時間だけはあるので大丈夫です」
「……お前、普段なにしてんだ?」
そして私の個人的なことを聞く余裕すらある。寧ろこれは風邪の影響だろうか。判断能力とか警戒心とかそういうのが鈍っているのだろう。こちらとしても嘘をつく理由もないので正直に答えた。
「家事手伝いみたいな?私、いま叔母さんの家にお世話になってるんです」
「それまでは?」
「日本で普通に働いてましたよ。でもその仕事がブラックすぎて辞めて気分転換にフランスまで来たって感じですね」
人生の夏休みみたいな!と笑っていれば「ふぅん」と興味があるようなないような相槌を打たれた。その瞳は水っぽくまた眠いのだと察する。だから話を切り上げ、おやすみなさいと告げて部屋を後にした。
◇
糸師さんの風邪は長引くことなく無事に完治した。これでまた今まで通りの日常に……かと思いきや少しばかり変化があった。
「他にも洗う物ありますか?」
「このタオルも頼む」
食事の準備は今まで通りに、そしてリビングに加えて寝室と私室の掃除掛けも仕事に加わった。洗濯物もタオルやシャツなどは任されるようになり家での滞在時間も長くなった。だからか顔を合わせる機会も増え会話もまた自然と増えていった。それともう一つ、
「夕食用に買った使いきれない分のお肉は冷凍庫に入れておいてもいいですか?」
「どうせなら二人分作りゃいいだろ」
「お腹空いてるんですか?」
「違ぇよ。お前も食ってきゃいいだろ」
こんな感じでご飯を一緒に食べたりするようにもなった。食費とかいいのかなぁと思いつつもこの時間すらも賃金が発生していたりするためこちらとしては文句もない。
「糸師さん、棚の奥から出てきた消費期限切れのお茶捨てていいですか?」
「ああ……いい加減、その呼び方やめろ」
「え?」
あとは言葉遣いが変わったかな。雇われの身であるため苗字呼びと敬語で今まで接してきたのだがそれを変えろと言われた。
「じゃあ『凛くん』って呼べばいい?」
「…………」
「なら『凛ちゃん』?」
「なんでだよ」
「だって他の人からもそう呼ばれてるみたいだから」
「一部のアホだけだ」
「それと私の弟、倫之助って言うんだけど『りんちゃん』って呼んでるから丁度いいかなって」
「お前の弟と一緒にすんな。『凛』でいい」
十ヵ月以上も話し慣れた言葉を変えるなど逆に面倒である。しかしこちらがうっかり「糸師さん」と呼ぼうものなら目力で威圧してくるため嫌でも気をつけるようになった。
◇
「あっおかえりなさい。どうしたの?それ」
「買ってきた」
今日も今日とて家事に勤しんでいれば凛が大きな箱を持って帰ってきた。そしてその箱にはフランスでも有名なパティスリーのロゴが書かれていた。
「たくさん買ってきたね。誰か家に来るの?」
「誰も来ねぇよ」
開けていい、と付け加え凛は私に箱を押し付けて私室へと行ってしまった。
キッチンスペースで箱を開け中を覗き込んでみればミルフィーユやモンブラン、カヌレなどが収められていた。日本のようにフルーツが乗ったものというよりはクリームに彩られたケーキが多い。
「今食べるの?」
「おう」
凛は時折、甘いものを無性に食べたくなる体質らしい。以前もキッチンのゴミ箱に洋菓子が入っていた箱が捨てられているのを見たことがあった。だが実物を前にしてかなり驚いた。まさかこの量を一人で食べていたなんて。
「じゃあ箱のままテーブルに持ってくね。あとはお皿と……飲み物は何がいい?」
「コーヒー」
「わかった」
お皿とフォーク、それとコーヒーの入ったマグカップをテーブルに置く。
しかしそれを見た凛には何故だか睨まれた。スプーンが必要だったのか、はたまたコーヒー用に砂糖とミルクが必要だったのか。しかしその理由は想像していないものだった。
「お前の分は?」
「私?」
「お前も食えばいいだろ」
てっきり一人大食い選手権でも始めるのかと思いきや私の分のケーキも含まれていたらしい。もらってしまっていいのだろうか。でもこのパティスリーの洋菓子は値段もお高い有名店のものだしあやかれるものならあやかりたい。
「ありがとう!」
すぐに自分の食器とコーヒーを用意してテーブルに向かい合って座る。「先に選んでいい」と言われたのでタルトタタンを頂くことにした。
「んーっキャラメルがほろ苦くて美味しい!」
「よかったな」
さすがは美食大国のフランスというだけあってシンプルな見た目ながらも味は確かである。一口一口味わいながら食べている私の向かいでは凛がすでに二つ目のケーキに手をつけていた。
「凛は和菓子も食べたりする?」
「ん?まぁフツーに食うな」
「偶に日本からのお取り寄せで羊羹とかきんつばを買うんだよね。もしよければ持ってこようか?」
「おう」
一度にネットで大量買いするので十分な数はある。それにちょうど先月頼んだものがそろそろ届くころだ。そのとき用に緑茶も買ってきた方がいいかな。やっぱり和菓子にはお茶が合う。
「……なぁ、」
タルトタタンを食べきったタイミングで変な間を取って凛が話しかけてきた。その様子はちょっと普段と違う。相変わらず表情は乏しいがなんとなく凛の感情は読めつつある。だからフォークを皿の上に置いて背筋を正した。
「なに?」
「まだオフレコだが次のシーズンから別のクラブに移籍することになった」
サッカー選手によく聞く移籍の話。凛は今のチームでもかなりの成績を残しているのだから他のチームからお声が掛かってもおかしくはないだろう。
「そうなんだ。フランスのチーム?」
「いや、スペインのレ・アールっつうチーム」
相変わらずサッカーに関して疎いがそんな私でも名前くらいは聞いたことのある有名なチームだ。確かここ数年の間にCLでの優勝経験もあったはず。
「そっか。これはおめでとうって言っていいことなんだよね?」
「まぁな」
「じゃあ、おめでとう!」
強いチームに行くこと、というよりも新しい門出に対して拍手を送る。国を超えての移籍だなんて相当な覚悟がなければ決められないことだと思ったからだ。
「そんでお前のコトだケド」
「あー私のことは気にしなくていいよ。そろそろビザも切れるし日本に帰って普通に働こうかなぁって思ってたところだし」
そして私も覚悟を決める時である。フランスに来て約一年、十分すぎるほど人生の夏休みを謳歌できた。そろそろ真面目に働かないと一生社会に戻れない気もするし私にとっても凛の移籍はいいキッカケなのかもしれない。
「またクソみてぇな会社に就職すんのかよ」
「今度はちゃんと見極めるよ」
凛は手持ち無沙汰にマグカップの取っ手を撫でている。でも視線だけは逸らさずに私のことをじっと見ていた。
「ここで働くのに不満はあったか?」
「え?」
予想外の質問に一瞬頭が真っ白になる。しかしその問いに対する回答は単純明白で考えるよりも先に言葉が溢れ落ちた。
「全くなかったよ。むしろお給料ももらいすぎてたくらいだし」
さすがに企業勤めの時ほどではないがアルバイトとしては明らかに額が多かった。専属のハウスキーパーだからこんなものかなとも思っていたけれどそれにしたって割りが良すぎた。
「ならこのまま俺のとこで働けばいい」
前かがみになっていた状態から体を起こし凛は椅子の背もたれに体を預けた。そして再び箱に手を伸ばしオペラを皿の上に移動させる——いや、話終わってなくない?
「えーっと……凛はスペインに行くんじゃないの?」
「ああ」
「私も行くってこと?」
「ああ」
会話が成り立っているようで成り立っていない。隣町に引っ越す感覚で言ってるけど国跨いでるからね。軽く見積もっても五百キロは離れてるから。
「それは難しいよ。住むところもないし言葉もわからないし身寄りもないし」
「俺のとこに住めばいいだろ」
「…………はい?」
私がひとり混乱している中で凛はオペラを食べ切ってしまった。マイペースすぎる。そして言葉が足りない。
「そしたら住むとこに困らねぇだろ。生活費含めて金は渡すし言語は家にいる間に勉強すりゃいい」
私がいくらフッ軽で日本からフランスまで来れる人間であっても決して尻軽な女ではない。ましてや未婚の女が独身の男の家に転がり込み、家事全般やる前提だとしても生活まで見てもらおうだなんて。
「いやいやそれはよくないって!住み込みのハウスキーパーなんて聞いたことないよ!」
「そうか?」
「大昔はあっただろうけど少なくとも今の時代では希少種だって」
「んなコト別にどうでもいいだろ」
凛は冗談ではなく本気で提案しているようだった。その証拠に先ほどから一切の表情を変えていない。そしてこれで話はまとまったとばかりに再度ケーキの箱に手を伸ばした。
「どうでもよくないから」
カヌレを摘んだ手をテーブルの上に押し付ける。凛は一瞬驚き、そしてこちらを見た。だから改めて私は口を開いた。
「いつ追い出されるかも分からない見ず知らずの土地にまで着いて行く勇気ないから」
「追い出すとかありえねぇから」
「もし凛に好きな人ができたらどうするの?一緒に暮らしてる女がいたら邪魔でしょ」
「は?」
不機嫌そうに眉を顰めた凛に手を振り払われた——と思えば、次は私の手の上に凛の掌が重なっていた。そしてそのままテーブルに縫い付けるように強く握られる。
「な、なに?」
「俺のとこで働くなら終身雇用一択だ」
「終身雇用?」
「お前が死ぬまでだ」
とんだブラック企業じゃないか。いや、でも仕事内容はめちゃくちゃホワイトだよなぁ……ってこの場合の終身雇用ってつまり——
「それってけっ……んぐっ?!」
「まだあるから食え」
開いた口にカヌレを突っ込まれてしまえばもう口出しはできなかった。
このことを帰って叔母に話したところどういうわけか大層喜ばれた。そして後日、凛のマネージャーさんにも頭を下げてお願いされた。そして必要な書類やスペインまでの飛行機なども用意してもらえ恐ろしいくらいのスピードでスペイン行きが決まっていた。マジか。
「久しぶりだな凛」
「だな」
「で、そっちがお前の言ってた奴か」
「うん。これから一緒に暮らす」
「式場の手配が必要なら言えよ、伝手はある」
「ありがと兄ちゃん」
「は?」
そしてスペインで凛のお兄さんに紹介されたとき、私は己の外堀が完全に埋められたことを悟ったのだった。