僕のこと見てよ先輩

プリントの四隅を整えレタートレーにまとめて置いた。これで溜まっていた分の仕事は片付いたはず。おかげで私の昼休みはほぼ潰れたわけだが放課後ここへ来る必要がなくなったと思えばさして問題ない。

「お疲れ様です先輩」

ぐっと伸びをして凝り固まった肩を解していれば不意にガラリと引き戸が開けられた。その突然の出来事に、危うく椅子ごと倒れるところではあったが寸でのところで踏み止まる。現れた男子生徒は「大丈夫ですか?」と声を掛けつつも、含みを持たせた笑みを見せながら静かに戸を閉めた。

「吉田君また来たの?」
「はい。眠気覚ましにコーヒーを飲みに来ました」

デビルハンター部生徒会室をまるで自分の部屋かのように利用している彼は吉田ヒロフミという。ここに来ればタダでコーヒーが飲めることを知ってからよく顔を出すようになった。そんな彼はラックから慣れたように紙コップを用意しそこに粉末のコーヒーを入れていた。「先輩もどうですか?」と勧められるがそもそも吉田君が自由に飲めるものではないからね。

「ここはお茶しにくる場所じゃないですよー」
「硬いこと言わないでくださいよ」
「ハルカにバレたらうるさいよ」

二つのカップにポットから熱湯を注ぎその一つを私の前の机の上に置く。律儀にプラスチックのマドラーとスティックシュガー一本まで添えて。私のコーヒーを飲む時の組み合わせを覚えてしまう程には吉田君は既に通い詰めていた。

「じゃあこれで内緒にしてください」

目に掛かるほどの黒髪。その隙間から覗いた黒目が僅かに細められる。口元には綺麗な弧が描かれ、そのすぐそばのほくろが妖艶さを演出する。第一ボタンまで閉めた学ランからは確かに優等生と思わせるほどの雰囲気はあるのに、だからこそ耳に付けられた六つのピアスとのアンバランスが際立っていた。ミステリアスかアンニュイか。ともかく、彼がイケメンと呼ばれる部類に入ることは明らかなのだが、だからこそあまり関わりたくはなかった。

私としては地味に目立たず、内申点だけを稼いで平穏な高校生活を終えたいような考えの持ち主だ。しかしそれにしては吉田君は私の平穏な日常を揺るがすような人物だと思っている。でも彼がここへ来る以上、どうしたって会話は増える。

「しょうがないなぁ」
「ありがとうございます」

髪が垂れないように付けていた髪留めを外す。それからカップに砂糖を入れてよくかき混ぜてから飲んだ。吉田君はというと丸テーブルを囲むように置かれて椅子の一つに座り脚を組みながらコーヒーを飲んでいた。ブラックのままよく飲めるなぁと感心していれば不意に目が合う。

「先輩もこっちで飲みませんか?」
「いいよ、これ飲み終わったらすぐ戻るつもりだし」

残りの昼休みだって長くはないのだ。それにこの部屋には二人しかいないわけで、少し離れた席に座っていても十分に声は聞き取れた。

「午後の授業は移動教室ですか?」
「ううん、英語だよ。そっちは?」
「古典です」
「うわー絶対寝ちゃうやつだ」
「だから貰いに来たんです」

脚の長さに対して高さの合わない椅子の上で窮屈そうに座っている。そして立ち上がる湯気に息を吹きかけて紙コップに口を付けた。安いインスタントコーヒーを飲んでいるだけなのにえらく様になる。そういえばうちのクラスでも話題になってたっけ。下の学年にものすごいイケメンが転校してきたぞって。

「コーヒーが飲みたいからって貴重な休み時間にこんなところまで来なくていいのに」

この部屋は特別教室扱いの為、私達がいる教室からは別棟にある。その分移動にも時間が掛かるのだ。

「コーヒーが飲みたいっていうのは建前ですよ。本当は先輩に会いに来てるんです」

カップの中身はほとんど飲んで残りは三分の一ほど。しかし彼の発言で一気に飲んでやろうとした手は止まった。じんわりと湿り気の帯びた視線、促されるように顔を上げれば吉田君と再び目が合った。その瞳は底の見えない海のようだった。

「またまたぁそうやって女の子を口説きまくってるんでしょ」
「してないですよ。先輩にしか言ってません」
「ってところまでが口説き文句なんだね。はい、ときめきもご馳走様でした」

カップの中身を一気に飲み干す。お陰で舌が少し火傷したが構ってはいられない。ゴミはまとめてゴミ箱へ。そうして吉田君のカップを確認すれば彼もまた空になっていた。

「そろそろここ閉めたいから吉田君も自分の教室に戻って」
「また来てもいいですか?」
「コーヒー飲みに来るだけならダメです」
「僕の話聞いてました?先輩に会いにですよ」
「私を口説いたってコーヒーのご所望には預かれないからね。ほらもうすぐ予冷なっちゃう」
「はい」

ガタリと椅子から立ち上がりゴミ箱へ潰したカップを投げ入れた。
二人して部屋を出て、持っていた鍵で施錠する。放課後になる前にこの鍵はハルカに返さないとな。

「先輩って彼氏いるんですか?」

てっきり先に教室に戻ったのかと思いきや吉田君は後ろで待っていた。そしてとんでもない爆弾を投げつけてきた。

「え、なに急に」
「ずっと気になってたんです。ほら、デビルハンター部の人と仲良さそうじゃないですか」

それは私の幼馴染の事を指しているのだろうか。生徒会長でありデビルハンター部の部長でもある伊勢海ハルカ。母親同士が幼児教室で知り合って、そこから家族ぐるみの付き合いが続いている。そして高校も同じところに進学し、ハルカに頼まれ生徒会にまで入ってしまった。しかし今さらどうにかなる関係ではない。

「ただの幼馴染だよ。そして生まれてこの方、彼氏がいたことございません」

絶対にモテるであろう人の前で自分の恋愛歴を語りたくはなかったけれど変に思われても嫌なのでありのまま伝える。吉田君は表情は変えずに、しかし口元だけには弧を描いて「そうですか」と静かに言った。その間の取り方はちょっと怖い。

「それじゃあまた」

しかし最後には爽やかな笑みを見せて立ち去っていった。





今日だけで何回『チェンソーマン』という単語を聞いたかは分からない。以前、一度の会話でどれだけ言うのかと思い脳内カウントをしたことがあるのだが、二十を超えたあたりで『チェンソーマン』がゲシュタルト崩壊をしたため諦めた。ただ一つ言えるのは、それほどまでにハルカがチェンソーマンを好きだということだ。

「コウモリの悪魔とゴキブリの悪魔を同時に相手にする強さ!そして猫を救うという利他の精神!チェンソーマンは人喰いアクマなんかじゃない、正義のヒーローさ。キミもそう思わないかい?」
「はいはい、そうだね」
「だろう?当然視聴済みかとは思うが昨日のチェンソーマン特集番組も中々に興味深かくてな。今日の部活ではその録画を部員全員で視聴し悪魔との戦い方とチェンソーマンへの理解を深めたいと思っている」
「部活動の一環とはいえそんな理由で視聴覚室の鍵は借りられないと思うんだけどな」

昼休み時間、図書室から出たところをハルカに捕まった。連日テレビで流されるチェンソーマン活躍のニュースに興奮冷めやらぬ様子で先ほどからずっと喋っている。それに関しては最早慣れたもので適当な相槌を打ちながら廊下を歩いた。

「だからキミにも職員室に来て欲しいんだ。僕だけでは先生方に煙たがられて追い返される可能性もあるからな」

通常は生徒会役員=デビルハンター部員なのだが私の場合は部活動の方には所属していない。そもそも生徒会役員にもなるつもりもなかったがハルカが「放課後は校外に出ることも多いからキミには学校のことを任せたい」と言い出して、私の返事も待たぬうちに先生に話を付けてしまったのだ。

「わかったよ。でも私は隣りにいるだけだからね」
「ありがとう、恩に着る」
「着いてくんじゃねーよこのストーカー!」

目的地である職員室へと続く廊下から些か穏やかでない声が聞こえてきた。それに反応したハルカの歩くスピードも上がる。確かに彼はチェンソーマンに心酔してはいるがその根源は彼の正義感の延長線上に存在するものである。故に悪魔絡みでなかろうとも問題が起きればすぐに行動を取る。

「俺だってこんなことはしたくないよ。でも目を離すとデンジ君はすぐ周りに言いふらそうとするじゃないか」
「テメーにゃあ関係ねーだろ」
「キミたち一体何を騒いでいる!」

ハルカの一声で揉めていた二人がこちらを向く。一人はくすんだ金髪の男子生徒でもう一人はなんと吉田君だった。

「あ?なんだテメー」
「なんだテメエだ?口の利き方がなってないな。まあいいだろう聞きたいなら教え」
「先輩こんにちは」
「えっあ、こんにちは」

その場に三歩遅れて到着した私に、吉田君はいつも通り礼儀正しく挨拶をした。生徒会室以外では滅多に会わないから不思議な感じがする。しかし私以上に不思議な顔をしていたのはハルカで、自分の言葉を遮られたのもあり眉間に皺を寄せてこちらを見た。

「キミは彼らを知っているのか?」
「だってデビルハ」
「廊下で騒いですみませんでした。それじゃあデンジ君、俺達はそろそろ行こうか」

吉田君を見れば見事なアルカイックスマイルを決めており、何となく察せた。おそらく彼はデビルハンター部員ではない。しかしそのことに関しては彼の口からはっきりと聞いたことはなかった。以前、吉田君が生徒会室に来たことがあり、また彼が本物のデビルハンターという噂から勝手に部員だと思い込んでいただけだ。

「ヤダね!…っ、おいクソッ引っ張んじゃねーぞ!」
「ふん…今なら見逃してやってもよかったというのに実に往生際の悪い生徒だ。悪魔にでも憑かれているのか?せいぜいチェンソーマンの厄介になるのだけは勘弁してくれよ」
「チェンソーマン〜??」
「デンジ君……」
「ハルカもうやめなって!」

ハルカ自身、小さい頃から物覚えもよく何でもそつなくこなせる子だった。ただその反面、人を見下すような発言も見られるため万人受けするような性格ではない。

「キミはチェンソーマンの事を知らないのかい?まぁ見るからに頭の悪そうな人間にチェンソーマンを理解しろと言うのも難儀な話か」
「ハあ!?テメーにチェンソーマンの何が分かんだよぉ!」
「チェンソーマン協会高校生支部部長、チェンソーマン早押しクイズ大会二位、チェンソーマングッズは全て持っている僕は何でも知っているさ!キミよりも遥かにね」

彼自身性格が悪いというわけではない。ただ一度のめり込むと周りが見えなくなるのだ。小学三年生の頃に誕生日プレゼントで望遠鏡を貰ったときには毎夜彼の天体観測に付き合わされたものである。そして今の対象は星からチェンソーマンに変わった。

「へぇ〜!じゃあ良い事教えてやるよぉ!これ聞いたらゼッテェ腰抜かすかんな!ア〜言っちゃおう!遂に言っちゃお!言ってやる!」
「デンジ君……」

何度も囁かれる吉田君の呼び掛けには何の反応も示さずにデンジ君は身を乗り出した。しかしハルカはたじろぐことなく顎を上ずらせたまま黙って見下ろす。デンジ君は一度大きく息を吸い込むと左手でバン、と自身の胸を叩いて歯を見せた。

「俺がチェンソーマンなんだ!」

………おそらくこの場にいた全員の脳内には三点リーダーが綺麗に並んだことであろう。見事に思考停止した我々を余所にデンジ君は「どうだ!俺がチェンソーマンだ!」と連呼していた。

確かにチェンソーマンが高校生だという噂は聞いたことがある。でも仮に彼がそうだとしても自分から名乗り出るものだろうか。いやしかし、今は彼が本物かどうかはどちらでもいい。そのことをハルカの目の前で言ったことが問題だ。そして私の嫌な予感は見事的中し、ハルカは仰け反りながら大口を開けた。

「あっはっはっは!キミがチェンソーマンだって?随分と面白いことを言うじゃないか!」
「あ?嘘じゃねーよ!」
「んふふっそれはこれを見ても言え」
「それは本当にやめて!」

右手が学ランの裾を掴んだ瞬間、抱き着くような形で腕を抑えた。ハルカはチェンソーマンに心酔するあまり手術をしてまで自分の胸にスターターを取り付けたのだ。表立って言いふらすようなことはしていないが、機会さえあればスターターを見せびらかしている。敢えて言う必要もないがもちろんハルカはチェンソーマンではない。

「なっ?!いきなり何をするんだ!」
「それはこっちの台詞だよ!廊下の真ん中で脱ごうとしないで!」
「百聞は一見に如かずと言うだろう?」
「おい!目の前にあのチェンソーマンがいるっつうのにイチャつくんじゃねえ!」
「信じられてないんだよデンジ君。ほら教室に戻ろう」

なんか散歩途中の飼い犬同士が出会ったような騒々しさがあるな。そういえば前にも似たようなことがあったっけ。

その時は同じく生徒会でありデビルハンター部の亜国セイギ君が吉田君と話をしていた。知り合いなのかなぁと遠くから見ていたのだが聞き耳を立ててみれば重役出勤をしてきた吉田君を正義感の強い亜国君が注意していて。そこで吉田君が「仕事だったんです」と公安の手帳を見せたため騒ぎが大きくなりかけていたのだ。

ここにハルカも加わればさらに面倒なことになる、そう直感して二人の間に割って入り亜国君を適当な理由を付けて引きずり帰った記憶がある。思えばあれが吉田君との出会いだった。

「フン!僕も多忙な身だからな、今日のところはこのくらいにしておこう」
「うっせー早くどっか行け!」

ようやく事が収まり巻き付けていた腕を離す。模範的な生徒に戻ったハルカはデンジ君と吉田君の横を黙って通り過ぎていった。その姿にこちらもようやく安堵し後を追いかける。
その時ふと、誰かに呼ばれたような気がして振り返れば吉田君と目が合った。なんとなく逸らしずらいし、だからといって会釈だけなのもちょっと冷たい気もする。

『なかよくね』

声には出さずに言ってみた。だって吉田君にまさか友達がいるとは思わなかったから。

『     』

……? 彼もまた声を出さずに言ってくれたようだが読み取れなかった。気になるのでもう一回の意味を込めて人さし指を立ててみる。ワンモアチャンスプリーズ。
しかし吉田君は笑みを浮かべるだけでその場を立ち去ってしまった。





生徒会室に置かれているコーヒーの類は確かにデビルハンター部の部費から落ちているのだが私には飲むことが許可されている。それもそうだ。何故なら忙しい彼らの代わりにこれらの補充は私が行っているからだ。

「ちょうどよかった」
「うわっ?!」

学校近くのスーパーでの買い出しから戻り生徒会室の扉を開錠した時だった。待ち伏せでもしていたかのように吉田君が姿を現した。その不意打ちに思わずビニール袋を手放すが床に落ちる寸でで吉田君がキャッチする。そして「運びますね」と言ってそのまま鍵が開けられた戸をスライドさせた。

「またコーヒー飲みに来たの?」

今は昼休みではなく放課後だ。ここはカフェじゃないですよ、と口を尖らせれば荷物を机に置いた吉田君が振り返る。そして二本の缶コーヒーを見せつけられた。それは私がスーパーで買ってきたものではなく校内の自販機で売られているものだった。

「そう言われると思って今日は持参してきました」
「それなら来る必要ないじゃない」
「先輩に会いに来てるんですよ」
「はいはい」
「本当ですって。それに今日は大切な話があるんです、聞いてくれますか?」

言葉選びこそいつも通りだが雰囲気が違う。光すらも消してしまう瞳を見つめ返して頷いた。

丸テーブルを挟むように向かい合わせに座る。吉田君から貰ったコーヒーは微糖で、彼はブラックだった。お礼を言ってプルタブを開け、そこでチョコレートを買ってきたことを思い出した。これは私がおやつとして購入してきたもの。個包装のチョコを三つほど渡したが、お礼を言われただけで袋は開けられなかった。

「改まってどうしたの?」
「先輩はチェンソーマンの事どう思ってます?」
「チェンソーマン?」

缶コーヒーの微糖は甘すぎる。上唇に付いた液体を舐めとってオウム返しをした。そしたら吉田君もまた同じ言葉を復唱した。どう思うと聞かれても私はデビルハンター部の人間ではないのでチェンソーマンの行動理念や彼の正体に関する考察はできない。

「そういうのは私よりハルカや亜国君達に聞いた方がいいよ。取り次ごうか?」
「僕が聞きたいのは先輩の意見です。率直にどう思っているのか教えてください」

そこで吉田君はようやく自分の缶を開けて一口飲んだ。二つの缶が開けられたことでほのかにコーヒーの香りが漂う。しかし香りに関しては一カップ当たりの単価が安いインスタントコーヒーの方が優秀だった。

「そうだなぁ。悪魔を倒してくれる良い存在だとは思ってるよ。でも正義のヒーローとまでは言えないかな」
「どうしてですか?」
「目立ちすぎてるから。確かに悪魔を倒してくれてはいるけどどこかパフォーマンス染みてるところがあると思ってる」

趣味で悪魔を殺しているだとか、女しか助けないだとか、犬や猫を食べているだとか色々な噂があるけれどそれはただの噂だと思っている。彼がどうして悪魔を倒しているかは分からないが、私としては最近の彼の行動がどこか人間に媚びているような感じがした。

「でも嫌いじゃないよ。この前だって猫助けてたし。猫好きに悪い人はいないからね」
「なるほど」

右手を顎に添えて撫でるような仕草をする。吉田君って表情は読みづらいのに手の動きだけは分かりやすいよね。だから彼の考えがまとまるのをコーヒーを頂きながら待った。

「実は僕、チェンソーマンの正体知ってるんです」
「はい?」
「それはデンジ君です。ほら、この前僕と一緒にいた彼です。彼がチェンソーマン」
「は?」

最早、は?という音しか口から出てこなかった。それに対し吉田君も「デンジ君がチェンソーマンです」としか言わない。どうやらお次は私が考えをまとめる番のようだ。

「デンジ君がチェンソーマン…?」
「はい」
「なんでそれを吉田君が知ってるの?それでどうして私に教えたの?」

フッと息を吐き出すように笑われた。私自身、学校生活は穏やか過ごしたいという考えの持ち主だ。だからこそ厄介ごとには関わりたくないし、これ以上首を突っ込むべきではないことは分かっている。でもチェンソーマンの正体を明かされて大人しくいれるほど私は世間に無頓着な人間ではない。

「僕は公安に所属するデビルハンターなんですけど今はチェンソーマンの監視に当たる任務をしているんです。監視と言っても決して物騒なことではなく、ただ平穏な生活を送れるよう見守っていると言った方が分かりやすいですかね」

吉田君の言葉が右から左に流れていく。自分でも理解できているのかいないのかはよく分からないが続きを促した。

「でもどうやらデンジ君は自分がチェンソーマンだって世間にバラしたいみたいなんです。そうなれば彼の平穏な生活は終わってしまう。そうなると僕も困るんです」

確かにチェンソーマンの正体がバレればマスコミ関係者が学校にまで押し寄せ大変な騒ぎになるだろう。そして吉田君の任務とやらも失敗したことになる。うん、言いたいことは何となく分かった。

「なら尚更私にバラさないほうが良かったんじゃないの?」
「それは違いますよ。これは二つ目の質問の答えにもなりますが先輩には協力してほしいんです」
「協力?」
「はい。デンジ君がチェンソーマンだとバレないように周囲に気を配ってもらいたい。特にデビルハンター部の人達は厄介そうなんでね」

それは分かる。現にハルカも先日のチェンソーマン発言を受け、信じてはいないようだがデンジ君の顔は確実に覚えたはず。そしてこれ以上デンジ君が目立てば彼に突っかかるだろうし下手したら監視し出すかも……そうしたら正体がバレる日もきっとくる。

「分かった」
「えっ」
「え?」
「いや、随分とあっさり信じるんだなと」

自分で言っておいてなんてことを言うんだ。確かに信じがたい話ではあるが吉田君が意味もない嘘をつくとは思えない。それにそう考えれば吉田君がここへ頻繁に出入りしていたことにも納得がいった。

「これでも吉田君のことはそれなりに信用してるからね。それに生徒の悩みを解決するのも生徒会の仕事だから」

包みを開けてチョコをひとつ口の中へと放り込む。アソートセットで買ったそれはアーモンド入りのチョコレートだった。

「ありがとうございます」

にこりと上品に笑った吉田君に、思わず口の中のアーモンドを噛み砕いた。今までで一番の笑顔だったかもしれない。だって背後に薔薇を背負ってたもの。イケメンとはなんとも罪な生き物だ。

「でも急に話があるだなんて言うから身構えちゃったよ」
「先輩は何の話だと思ってました?」
「えぇ?そうだなぁ…ここのコーヒーをインスタントから豆に変えて欲しいって言ってくるのかと」

身構えていた割にその予想はしていなかったので取ってつけたような答えになってしまった。でもこれは十分あり得そうなことだった。
しかし先ほどとは一転、吉田君の目は弓なりに細められた。

「男が女性を呼び出すときの理由なんて大抵ひとつでしょう」

薄く笑ってそんなことを言ってくる。さすがに恋愛偏差値五十以下の私でも彼の言わんとしていることは分かった。というか今回はその例外だったというのにどの口が言うだろうか。

「でも吉田君の場合はそれに当てはまらないじゃない」
「どういう意味ですか?」
「だって呼び出す側じゃなくて呼び出される側だから」

今まで何人の女の子に告白されてきたのやら。そういえばうちの学年でも一人吉田君に告白した子がいたんだっけ。どうやら振られてしまったらしいが「話ちゃんと聞いてもらえて増々好きになっちゃった」と言っていたから告白慣れしているのだろう。それなのに未だ彼女がいないということは吉田君の理想はかなり高いに違いない。そうなると今回の呼び出し理由に『告白』という選択肢はないのだ。

「先輩って俯瞰して物事を考えられないタイプですか?」

そう名推理を披露してみせれば、目の前の何とも可愛らしくない後輩は死んだ魚の目をしながら私に剛速球を投げつけてきた。え、なにこの子。

「もしかして今喧嘩売られてる?」
「違いますよ。忠告的なものです」

吉田君も包みを開けてチョコを一つ口の中へと放り込む。その中身はホワイトチョコだったのか「甘すぎ」と言ってすぐにコーヒーで流し込んでいた。

「先輩のアーモンドチョコ貰ってもいいですか?」

急に太々しいな。
そんな吉田君には追加でホワイトチョコを押し付けた。


◇ 


全く興味もなかったけれどコンビニで見つけたのでつい買ってしまった。シールを集めるともれなくグッズが当たるチェンソーカレーマン。グッズ集めが熱心な幼馴染のお陰でグッズこそ見たことがあれどパン自体は一度も口にしたことはなかった。

「あっ」
「あ?……あー!この前の!」

ビニール袋を引っ提げて外に出た時だった。噂のチェンソーマンことデンジ君がいた。しかし彼はコンビニに入ろうとしていたわけではないらしい。デンジ君の右手にはトングが握られていてその先端にはタバコが摘ままれている。ゴミ拾いだろうか。初対面こそチンピラという印象しかなかったのだがまさか校外で奉仕活動をしているだなんて意外過ぎる。

「デンジ君、だよね?こんにちは」
「こ、コンチワ……今日はアイツいねぇのかよ」
「ハルカのこと?今はデビルハンター部の人達とパトロールに行ってるからいないよ。それとこの前はごめんね、ハルカが変な絡み方しちゃって」
「いや、まぁ、別にもういいっすけどね!俺気にしてねーし!」

先日の食って掛かるような態度とは裏腹にギザギザの歯を見せ実年齢より幼く笑ってみせる。その様子にデンジ君の本質が知れたような気がした。そうなると彼自身の事もまた気になってくる。

「ゴミ拾いしてるの偉いね、まだやるの?」
「え、あ〜…っともう大分集まったんで一度公園に行くつもりっす」
「そうなんだ。あのさ、私も一緒に行っていい?」
「…………は、」

今日一日の彼の行動を見れないだろうか。誰に言いふらすつもりもないけれどチェンソーマンの意外な一面をもっと知りたい。そんな軽はずみな気持ちと好奇心だけで申し出た。
デンジ君は三白眼を見開いて口をあんぐり開けている……どうしよう、もしかしたらものすごく失礼なお願いだったかもしれない。やっぱりやめよう。

「ぜ、…んぜんいいっすよ」
「え?」
「いいっす」
「あ、うん」

意外にもOKだったらしい。チンピラだったり少年だったり、かと思えばいじらしくなったりと中々に忙しい子だ。しかしそんな顔を知れたことも嬉しく思える。他に何が知れるのか、そう期待しながら猫背気味に歩きだしたデンジ君の後ろを着いて行った。



てっきりゴミを捨てるために公園に来たのかと思っていた。しかしデンジ君がやり出したことと言えば拾ってきたタバコの吸い殻の解体だった。ベンチの両端にそれぞれ座り、その間にタバコの葉が出されている。そして新しい紙の上でその葉をくるくると巻きだした。

「それどうするの?」
「二十四本を一箱に入れるんすよ」
「それで?」
「売る!」

へへっと笑った彼は上機嫌なようだがそれってあんまりよくないことなんじゃ……こんなとき正義感のある人間ならば注意するだろうが生憎私はそこまで意識の高い人間ではない。また生徒会の人間ではあるが、ここは校則の届かない場所でもあるので何も見なかったことにしておいた。

「お金が欲しいの?」
「おーうちに友達みてーな…妹みてえなヤツがいんだけどよ、ソイツ大学行けるくらい頭いーの。だから金稼いで行かせてやりてぇんだよな」

もしかしてご両親がいないのか?まさかデンジ君にそんな背景があったなんて。でも今や二十人中七人がある日突然悪魔に殺されると言われている。彼の家族がそうだったとしても何ら不思議ではない。

「だからチェンソーマンしてるんだね」
「チェンソーマン??」

あっしまった。感傷に浸り、つい口から出てしまった。これは本人に言ってもよかっただろうか。でも、もしかしたら吉田君から私のことを聞いているのかもしれない。
しかし、どうやらそんなこともなかったようで「そうだ!俺がチェンソーマンなんだぜ!」とチェンソーマンムーブをかましてきた。

「そうみたいだね。本当にすごい、というか偉いね」
「だろ?それにかっこいいだろ?俺スッゲェかっこいいだろ?!」
「う、うん」
「よっしゃぁ!これで俺もモテちまうぜ!アンタも俺の正体言いふらしていいからな!」

んん?なんか雲行きが怪しくなってきたな。そして吉田君と考え方は違うが行きつく先は同じだった。彼の正体は世間に公開しないほうがいいかもしれない。今や正義のヒーローとまでに担ぎ上げられている彼の実態が知れたら幻滅する人は続出するだろう。卒倒する幼馴染の姿が目に浮かぶ。

「あのさ、デンジ君が正体をバラそうとしてるのってモテたいからってこと…?」
「おう!彼女も欲しいしな!」

モテたいから、なの…?その理由を聞いてもなるほどね!とはならないし、だからといって冗談で言っているわけでもないようだ。おそらく彼の中でチェンソーマン=かっこいい=人気がある=モテる、そして結果的に彼女ができるという方程式が形成されているのだ。ある意味、年相応の男子高校生らしい考えである。どこぞの吉田君とはえらい違いで……でも待てよ、ということはつまり——

「因みにデンジ君はどういう女の子がタイプなの?」
「あーうーん……今すぐ彼氏が欲しい子、とか?」
「年上でもいい?」
「別に年齢なんて関係ねーよ」
「じゃあ私はどうかな?まずは彼女候補ってことで付き合ってみるとか……」

デンジ君に彼女が出来ればバラそうとする衝動を抑えることが出来る気がする。これは中々に名案なのでは?そうすればデンジ君の監視も担えるし一石二鳥かも。

「ふぇ……」

しかしこれはあまりにも図々しかっただろうか。明確なタイプこそ言われなかったが彼にだってきっと女の子の趣味くらいあるはず。デンジ君の呆けた顔に、調子に乗り過ぎたことを痛感した。

「なぁんてね。冗談で、」
「っっしゃぁぁあああ!彼女出来たァァ!!」

しかし私の予想をはるかに上回る勢いでデンジ君は大喜びをした。





彼氏彼女の定義も分かっていないがまずはデンジ君と過ごす時間を増やすことにした。といっても学年は違うし放課後は互いに用事があるので時間を取るのは難しかったりする。だから必然的に昼休み時間に会うことが多くなった。

「クソッなんでテメーも着いて来んだよ!」
「俺もここに用があるからさ。お久しぶりですね先輩」

いつもは屋上で食事を取ることが多いけれど今日は生徒会室にデンジ君を呼んだ。昼は菓子パンだけの彼にお弁当を作ってくる約束をして、それなら机があったほうが食べやすいかと思い場所を変えたのだ。そしてデンジ君は吉田君と共に現れた。

「吉田君?本当に久しぶりだね」
「はい、仕事の関係で学校を休んでたので」
「もういいだろ!早く帰れ!」
「それで先輩とデンジ君はいつから仲良くなったんです?」
「えーっと……」
「テメーにゃあ関係ねぇだろ!」
「大ありなんだなそれが」
「俺と先輩は将来的に付き合うかもしんねぇの!だから仲良くしたって構わねーだろ!」
「付き合う?」

しまった。やはり吉田君に了承を得ないまま事を勧めたのが不味かったか。現に彼の目は私を闇に葬ろうとするかのように真っ黒に塗り潰されていた。でも先に協力してくれって言ったのは吉田君だし…一先ず誤解だけは解いておこう。

「お試し期間みたいな感じだよ」
「そうですか」
「なーもういいだろ!早くここから出てけ!」
「じゃあ僕もご一緒していいですか?昼は持って来ているので」
「クソッ!話聞け!」

丸テーブルを三人で囲むようにして座る。デンジ君に作って来たお弁当を差し出せばそれはもう、ものすごく感動してもらえた。しかし食事中も吉田君に話しかけられ終始怒っているという始末。そしてそんなデンジ君に話しかけ続ける吉田君には鋼のメンタルを感じずにはいられなかった。

「ごちそーさまでした!うまかったっす!」
「それはよかった」
「じゃあ弁当箱洗ってきますね!」
「えっそこまでしなくて大丈夫だよ」
「食ったら片付けまですんのが当たり前だろ?ちょっと家庭科室行ってきます!吉田、テメーは着いてくんじゃねーぞ」
「行かないよ。ゆっくり丁寧に時間をかけて洗っておいで」
「初めからそのつもりだっての!」

ガタン、と戸が閉められ二人だけの部屋に静寂が訪れる。しかし隣で盛大なため息を落とされてしまったため空気は重苦しいものになってしまった。やっぱり怒ってたんだな。

「勝手にデンジ君とやり取りしてごめんね」
「先輩って簡単に人に気を許しますよね」
「人を尻軽女みたいに言わないでもらえます?」

まぁ確かに私からデンジ君に声を掛けたので尻軽と言われてもしょうがないかもしれないけど……しかし打算的な始まり方ではあったがデンジ君のことは嫌いではない。寧ろ引かれ始めていたりもする。ちょっと子供っぽいところはあるけれど基本的に優しいし、表情豊かで、何より嬉しいことは全力で言葉で伝えてくれるところがいいなって思ってる。

「そういう意味じゃないですよ、ただ心配してるんです。ほら、あのときも話しかけて来たじゃないですか」

どうやら校内を案内した時のことを言っているらしい。
うちの学校は東京で一番大きいと言われる学校である。そのため私も入学当初の頃は校内で迷ったものだった。そして転校してきたばかりの吉田君も同様の状態になっていた。この棟には普段生徒が立ち入るような教室はないのに何度も生徒会室の前を通っていて。その奇行を見かねて声を掛け、ついでとばかりに校舎を案内した時のことはよく覚えている。しかしこれは後に聞いたことだが吉田君は迷子になっていたわけではなくデビルハンター部の視察に来ていたらしい。

「部屋の前でうろうろされたら気になるでしょう?私じゃなくてもそうしたよ」
「でも僕は先輩が声を掛けてくれるって思ってましたよ。初めて会ったときも助けてくれましたからね」

その真っ黒な瞳は千里眼なのか、それとも私が分かりやすいだけか。ともかく、吉田君にしてみたら私の行動など手に取るように分かるらしい。さらに言うならば扱いやすい人間だとも思われているのかもしれない。まぁそうじゃなきゃそもそもチェンソーマンの正体も私に教えてくれなかっただろう。

「どっちも吉田君が泣きそうな顔してたから声を掛けただけです」
「ははは、優しいですね先輩は」
「そうそう、私は優しい人間なの。だから等しく平等にデンジ君にも優しくしてるの」

尻軽でも偽善者でも八方美人でも何とでも呼んでくれ。別に見返りを求めているわけではない。ただ、所属していないとはいえデビルハンター部の人達に囲まれているせいか自分も何かしなければという使命感にかきたてられるのだ。

「等しく平等に、ですか」
「そうだよ」

そこでふと、いつも使っている髪留めの存在を思い出した。それは授業中には髪が垂れて来ないよう付けているもの。でも昨日生徒会室に置き忘れてしまったのだ。
吉田君に断りを入れ少し離れた机に向かう。案の定、レタートレーの横にそれは転がっていた。これで午後の授業は集中して受けられそうである。しかし手に取った瞬間、何の前触れもなくフッとその場に影が落ちた。

「その割には僕に冷たくないですか?」

音もなく後ろにいたから飛び上がりたくなるくらいびっくりした。その場に踏み止まった私を褒めてもらいたいくらいだ。
百八十を超えているであろう高身長を見上げて首を傾げる。

「吉田君が図々しいからそう感じるだけなのでは?」

スッと吉田君から表情が抜け落ちて、ゾワリと背筋が粟立った。何故顔の整っている人の真顔はこんなにも怖いのだろうか。日頃からほぼほぼ無表情ではあるがそこから温度もなくなったかのように見え、まるで蝋人形を彷彿とさせた。

「分かった。じゃあちょっと屈んでもらってもいい?」

今のは私が悪かった。しかし謝ったところでジト目で見られるだけ。そうなれば行動で示すのみだ。いいからいいから、と宥めながら腰を折るような形で身を低くしてもらう。

「何なんですかいきなり」

触れてみれば見た目通り柔らかな髪質だった。高校生にもなると色気づいてワックスを付けだす人もいるというのにそれもない。でもほんのりと良い香りがした。シャンプーか柔軟剤か香水か。その正体は分からないが好きな香りだった。

「全力で優しくしています」
「先輩って意地悪な人ですね」
「何故そうなるの?」
「弁当箱あらっ…ぁぁぁあああ!何してんだ?!」

戻ってきたデンジ君が割って入り私の手は宙に飛ばされた。騒ぎ立てるデンジ君を見る吉田君は先ほどよりも機嫌がいいように思える。

「俺だってされたことないのにィィイ!!」
「ほら落ち着きなよデンジ君」
「おい触んな!ヤローにされたってなんも嬉しくねぇんだよ!」

私の代わりにデンジ君の頭を撫でたのがその証拠だ。すごい、どうやら私の優しさまでもが伝染してしまったようだ。互いに友達は少ないようなのでどうかそのまま友情を育んで欲しい。そう察して部屋から出て行こうとすればデンジ君にはキレられ吉田君からは白い目で見られた。一体何が不満だったのだろうか。最近の子はよく分からない。





デンジ君と出掛けることになった。何でもここの近くの映画館では日によってオールナイトをやっているらしく、深夜二時までミイラ映画が見放題らしい。それも破格のお値段二千円で。ミイラ映画と言うものがイマイチ分かっていないがホラー映画も見れる人間なので多分大丈夫なはず。

「こんばんは先輩、デンジ君」
「だからなんでテメーもいんだよ!」
「いや僕も奇遇さ。偶然映画を見たくなって映画館に来てみたらキミ達がいたというわけさ」

生徒会の仕事があったため十七時に映画館前に集合とデンジ君と約束した。そして当然とばかりに吉田君もいる。最早吉田君がいることがデフォルメになりつつあるので今さら驚きはしない。

「まぁ映画だし三人で見てもいいんじゃない?」
「ですよね」
「クソォォオオオ!!」

ということで早速ちょうどいい開演時間のものを見ることにした。
しかし開始三十分で分かった。私、ミイラ映画無理みたい。

というかダメなのは映像演出なのかも。このミイラ映画は一九三〇年代に公開されたモノクロの洋画だった。そのため当時の技術のせいか映像の繋ぎや画面ブレが今と比べてひどく、また字幕を目で追うという行為により画面酔いをしたのだ。

「先輩」
「え…?」

それでも上映中に席を立つのはまずいと思い耐えていた。しかし隣に座っていた吉田君はあっさりと立ち上がる。そして私の腕を掴んでは強制的に立ち上がらせた。吉田君とは逆隣に座っていたデンジ君はスクリーンに視線を向けたままで私達に気づく様子もない。そのまま吉田君に引きずられるようにシアターを出ることになった。

「吉田君どうしたの?」
「それはこっちの台詞です。気分悪そうでしたけど大丈夫ですか?」

よく気付いたな、と感心しつつも画面酔いをしたことを正直に伝える。すると吉田君は近くのベンチに私を座らせ待っているように言った。

「お水買ってきました」
「あっごめん、お金払うね」
「いいですよ」
「そういうわけにはいかないよ……あ、荷物置いてきちゃった」
「じゃあそのお金で今度缶コーヒー奢ってください。とりあえずこれ飲んで」
「……ありがとう」

押し付けるようにペットボトルを差し出され遠慮がちに受け取る。そして吉田君に促されるままキャップを開けた。冷たい水が食道を通り胃の中へと落ちていく。それと同時に火照った脳もクールダウンしいくらかマシになった。

「ミイラが無理なら初めから断ればよかったのに」
「そうじゃなくて画面に酔ったの」

追加で二口ほど飲んでキャップを締める。よし、もう大丈夫そうだ。じゃあそろそろ行こうかと吉田君に声を掛け、立ち上がろうとすれば手首を掴まれた。

「どこに行くつもりですか?」
「戻るつもりだけど。今ならラストだけでも見られそうだしね」
「バカなんですか先輩。画面酔いが原因ならまた酔うに決まってるでしょう。ほら、帰りますよ」
「え、でも荷物も中にあるし」
「僕が取ってきます」

そう言って足早にシアターへと戻っていく。そしててっきりデンジ君も連れて出て来るのかと思っていたが帰って来たのは吉田君一人だった。置いて行っていいのだろうか。しかしそう訊ねて足を動かせずにいたら「デンジ君なら大丈夫ですよ」と言われ、またも手を掴まれ外へと連れ出された。

「本当に良かったの?それに監視は?」
「そっちは別の奴に見張らせてるんで大丈夫です」

オールナイト上映は再入場不可のためもう一度入るにはまたチケットを買わなければいけない。そのため戻ることは諦めた。

「別の奴って他にも仲間がいるの?」
「まぁそんな感じです」
「もしかして普段からその人もデンジ君の監視に一役買ってたりする?」
「どうしたんですか急に」

もしかして私がデンジ君と一緒に居るのってあんまり意味なかった…?でも、そもそも私はそこまで言われていなかったわけで、ハルカ達さえ変なことをしないように見ておけばよかったのだ。

「なんか空回ってたなぁって」
「何がです?」
「私がデンジ君と一緒に居る時間が増えれば吉田君が少しは楽になるのかと思ってた」

そしてこれは結果としてデンジ君の気持ちを弄ぶ結果になってしまった気もする。え、私最悪な人間なのでは……しかもデンジ君と過ごすことで逆に吉田君が除け者状態になり監視の手を煩わせた可能性も……やっぱり慣れないことはするんじゃなかった。

「僕の為だったんですか?」

左手に力が込められて、そういえば手を繋いだままだったことに気づかされる。でも放す気もなくて、また放してくれそうもなかったのでそのままにしておいた。

「結果的に足を引っ張っただけだったけどね」

人通りの少ない道でもないはずなのに今日に限っては誰一人おらず、二つの足音だけが聞こえる静かな夜だった。

「ふふっ」

斜め上から降って来た笑いに顔を上げれば月に照らされた吉田君の顔が見えた。元より昼間の太陽は似合わない人だなぁとは思っていたけれど夜は夜で怪しさが二割増しになっていた。でもそれを怖いと思わなかったのは親しい間柄となった証拠だろうか。

「気持ちは嬉しいですよ、ありがとうございます。でもこれ以上は首を突っ込まないでください、危険ですから」
「吉田君は危なくないの?」
「まぁこれが僕の仕事のようなものですから」
「仕事……」
「公安のデビルハンターって言ったでしょう。何かあればいつでも呼んでください」

そうか、吉田君はデビルハンターだったね。平穏に生きていきたい私とは正反対の場所にいる人。学校にもデンジ君の監視に来ているようなものだし放課後の今もこうして私達に付き合っている。彼が休める場所はあるのだろうか。

「特別に、」

だから、

「はい?」
「特別に吉田君には生徒会室でコーヒー飲むこと許可してあげる」

そういう場所を作れたらいいなと思った。

「もしかして誘ってます?」

何故そうなる。
でも吉田君が楽しそうだったのでそういう事にしておいた。





それは本当に突然の出来事だった。

「俺やっぱり先輩とは付き……付き合えない、です」

放課後、デンジ君に呼び出されたと思ったらそんなことを言われてしまった。それなりにデンジ君とは上手くやれていたと思っていた。だから何が原因なのかは全く見当がつかなかった。

「一緒に暮らしてる奴によぉ先輩の事バレちまって……このままだと先輩が殺されちまうかもしれねぇ」

そしてその理由を聞いても全く理解が出来なかった。殺されるって何?それならはっきりタイプじゃなかったと言ってもらえた方がすっきりするんだけど……もしかして監視のつもりで近づいたことがバレてたの?どちらにしろ嫌われたことは確かだと思った。

「あとこれもアイツが壊しちまって…本当にすんませんでしたッ!」

デンジ君に渡されたのは私がいつも使っている髪留めだった。つい先日なくしたと思っていたのに何故デンジ君が持っているのだろうか。しかしその理由も、また壊された原因も聞けぬままデンジ君は走り去ってしまった。



「どうしました?体調悪いんですか?」

デンジ君から告げられた別れに少なからずダメージを負った私は生徒会室のソファで横になっていた。そんな生きる屍となった私の元に吉田君が現れる。誰にも入って来て欲しくなかったから扉に『入室禁止』の張り紙を張っておいたのだが吉田君の前には何の効力もなかった。

「別に……」

しかし文句を言う気にもなれず、ずるずると上半身を起き上がらせる。でも立ち上がる気にもなれずそのままぼーっとしていた。すると吉田君が隣に座った。

「え、なに?」

そうしたら不意に伸びてきた手に頭を優しく撫でられた。時折、髪をすくいながら指先で遊ばれる。

「全力で優しくしています」
「子供扱いしないでください」
「僕にだってしてきたじゃないですか」
「吉田君は後輩でしょ。私の方が先輩だからいいの」

頭の上の手をやんわりと払いのける。吉田君は表情を変えずに自分の膝の上に手を戻してソファの背に体重を預けた。その様子を見ていたら八つ当たりをしてしまった罪悪感がせり上がり、ごめんねと小さく謝った。吉田君は怒らなかった。

「デンジ君に振られたんですよね。あっでも正確にはお試し期間の終了って事になるのかな」
「知ってたの?」
「本人から聞きました」

なんだ全部知ってるんだ。そう分かればまた気が抜けて吉田君と同じようにソファに体を沈める。すると横から腕を引っ張られ重心がゆっくりと傾いた。そして行きついたのは吉田君の肩。そのもたれ掛かるような体勢に目の前が白黒になった。

「デンジ君のこと本気で好きだったんですか?」

そしてそう静かに聞かれた。その問いに対し、数秒じっくり考えてみたが結局でた答えは『分からない』だった。

「元気で行動が読めなくて可愛い子だなとは思ったけど恋愛的に好きだったかは分からないや」
「先輩は可愛げのある人が好きなんですか?」
「うーん…そういうわけじゃないけど」
「つまり僕とは正反対なタイプの男」
「えぇ?それは違うよ。というか吉田君も可愛いと思ってるよ」
「僕が?」

吉田君が私にそれなりに懐いてくれているのは分かる。でもそれはきっと転校当初の彼に親切にしたからだ。それこそ雛鳥が初めてみたものを親と認識するような感覚。だから今もお母さん鳥を心配する可愛い小鳥でしかないのだ。

「いだっ」

そう事実を述べれば頭にゴツンと衝撃を受けた。そしてぐりぐりと強く押し付けられる。吉田君の髪が揺れる度にほのかな香りが広がって、頭と頭がぶつかり合っていることが分かった。

「先輩ってよく鈍いって言われません?」
「あー確かにシューティングゲームは苦手だから反射神経はよくないかな」
「人を困らせたりは?」
「大抵は困らされる側かな」
「周りが見えてないって言われますよね」
「今初めて言われたよ」
「嘘だ」
「本当だよ」
「じゃあ僕のこと見てますか?」

頭がぴったりと付けられたまま静止する。だから吉田君の体を押し返して顔を上げた。その距離は意外と近くて十センチにも満たない。でも相変わらず前髪が長いから目元はほとんど隠れていた。

「見てるよ」
「じゃあよく見ていてください」

そう言って私の手を取り自分の頬に当てる。しかし親指だけは位置をずらされ吉田君の舌唇に這わせられた。私より厚い唇、そして少しかさついていた。私の指先が触れているにも関わらず、吉田君はその状態でゆっくり唇を動かした。

『     』

でもその口からは声が発せられない。いつかの時のワンモアチャンスがまさかここに来て発揮されるとは。脳内で唇の動きを再生しその答えを考える。そして確証を得た私は当て、、にいった。

「すきやき?」

そう答えればやれやれと大袈裟に肩を竦められた。そして当然、答えを教えてくれるわけもなく私の手を離して立ち上がった。

「いつか後悔することになると思いますよ」

捨て台詞のようにそう言って生徒会室から出て行った。





あっ止め損ねた。

「ハハハハハハハ!これが答えだ…!」

突如、校内に現れた正義の悪魔。散々暴れ回り校舎を破壊し、そして生徒数名の命まで奪っていった。なんとも残虐な事件であり生徒のメンタル回復と、また建屋の復旧目処がつくまで休校になった。

しかしその正義の悪魔が暴れ回っている時にチェンソーマンも現れたらしい(デンジ君はここの生徒なので元からいたと言った方が正しいかもしれないが)そのためチェンソーマンの手掛かりがあるのかもしれないとハルカが学校へ行こうと言い出した。

そして他のデビルハンター部員と共に来てみたのだが、私達と同様に学校に来ていた三鷹アサという女子生徒に出会った。そこで彼女がチェンソーマンの話題に触れたことでハルカがシャツを捲り上げたのだ。ご自慢のスターターを見せるために。

「新入部員相手にやる必要あった?」
「口で言うより見せた方が早いからな。さて、ここのパトロールも終わったし次に行こうか」

亜国君を含めた他二人の生徒もハルカに続いていく。私はもう帰っていいかな。そう距離を取りながら後ろを歩いていれば啜り泣く声が聞こえてきた。

「うっうっ……うぅ」

おそらく崩壊した校舎の方。生徒の誰かだろうか。どうしよう、ハルカ達を呼び戻してこようか。でもその時「た、助けて…!」と鬼気迫る声が耳に届いた。そうなってしまえば迷っている暇などない。ハルカ達とは逆方向に駆け出し立入禁止のテープを超えた。



中途半端な正義感で首を突っ込むべきではない。そう学んだはずなのに、結局は同じことを繰り返してしまった。

「いWッ……!」
『なぁんだチェンソーマンじゃないじゃない!』

声を掛けた時は確かにショートヘアの女子生徒だった。でも今はどうだろうか。人の形ですらない禍々しい姿をしていた。体はおおよそ校舎二階分くらい。胴と思われる場所から生えた二本の腕こそ人間のそれだが、体の半分を隠すほどの大きな口がついている。真っ赤な口紅まで塗られたそれを『へ』の字に曲げ、長い腕で私の顔を殴った。

『やっと見つけたのにぃぃ!』

どうやらこの悪魔はハルカのことをチェンソーマンだと思っているらしい。チェンソーマンって悪魔から狙われる存在なんだ。そうなると任務という名を使ってまでチェンソーマンの正体を隠そうとする理由も頷ける。ただ、そうであってもモテたいがために己の正体をバラそうとするデンジ君の気持ちは分からないけど。

「はぁはぁッ……あ!」
『勝手に逃げてんじゃないわよ!』

しかしそんなことを考えている暇はない。自分の腰が抜けていなかったことに感謝しその場から駆け出した。でも目の前の悪魔は体も大きければ腕のリーチもある。だから払うように横っ腹を殴られ砂の舞う地面に転がされた。

「うっ、ゲホゴホ…ッ」
『まぁいいわ、アンタを餌にチェンソーマンを誘き出せばいいだけだしぃ』
「え…?や、やだ!怖い!」

そして私の胴体に腕を巻き付け容易に持ち上げる。足は地面からどんどん離れて行き、今や学校の屋上と同じくらいの高さにあった。

『ほらほら泣き叫びなさいよ!』

ぐっと力が込められ胃の中身がせり上がりそうになる。でもここでデンジ君が来てくれたら騒ぎになる。自分の通う学校で顏も姿も見られたらいよいよ言い逃れが出来ない。

「……ぅっ」
『ちょっとちょっとぉいつまでも黙ってんじゃ、……ァエW??』
「え…うわっ?!」

フッと圧迫感がなくなり、そのまま重力に従い垂直落下する。あと地面までは数メートル——思わず目をつぶればまた胴を掴まれた。しかし先ほどよりも優しく、そしてひんやりとしていた。

「大丈夫ですか?」

お尻が地面に着く感触。声を掛けられゆっくりと目を開ければそこには吉田君がいた。そして私の胴に巻き付いていたものがヒュン、と吉田君の背後に隠れる。そしてさらにその向こうでは先ほどまで騒いでいた悪魔が妙な体勢で横たわっていた。何かに締め上げられたように体が捻じれている。一瞬見えた蛸の脚が仕留めたのだろうか……
放心状態だと思われたのか「先輩」と再び声を掛けられた。

「あ……助けてくれてありがとう。まさか吉田君が来てくれるとはね」

結局のところ、やはりチェンソーマンが来てくれるのかと思っていた。でもデンジ君には嫌われてしまったのでそれはないか、と笑いながら言ってみせる。

「俺の可能性は考えなかったんですか?」

声がワントーン下がりその場の空気がひりついた。言葉を飲み込むように笑顔を殺し、先を見る。ゆらりと影が揺れた。

「公安のデビルハンターって言ったでしょ。これでもあんな雑魚悪魔一匹簡単に捻り潰せるほどには実力あるんです。だからいつでも呼んでくださいって言ったのに、ほんとバカなんですかアンタ」

耳に痛い言葉が飛んでくる。でも吉田君がデビルハンターであることは知っていても実際に何かしているとこを見たことはなかったのだ。だから本当に頼っていいのか、私には決め手に欠けた。

「吉田君に危ない目にあってほしくなかったの」

それに私といるときはデビルハンターの役目とか仕事のことを忘れて欲しかったから。平穏に行きたい私が出来ることと言ったら吉田君に『普通の高校生』でいられる場所を作ることしかできない。

「だからってアンタが怪我していい理由にはならない」

彼は片膝をつくような形で私の目の前で腰を下ろした。伸ばされた手が頬に触れ、指先が傷口をなぞる。痛くて顔を背けようとしたけれどそれは敵わない。何故なら吉田君が耳を覆うようにして私の頭を固定させたから。

「僕のこと見てよ先輩」

唇が離れるほどの距離だった。前髪の隙間から除いた深淵がこちらを見ていて目が逸らせない——否、逸らすなと言われている。

「今見てるでしょ」
「そういう意味じゃないって分かってるくせに」

分かってる。コーヒーを飲みに来る理由も、手を繋がれた意味も、音もなく発せられた四文字も、分かってる。でも私がそれに気付いちゃったら吉田君は守るものが増えて大変になっちゃうじゃない。だから今まで通りが一番いいはず、なんだけど——

「ちょっと待っ」

吉田君は違ったらしい。

「後悔しても遅いですよ」

そう言って、食べるように唇を塞がれた。