年下の彼に恋された拗らせ女の恋愛模様

ぐっと伸びをして見上げた空に星なんて見えなくて、高層ビルの明かりだけがいやに眩しく目についた。

本日で三日連続の残業である。
先に言っておくがうちの会社は決してブラックではない。月の残業時間は基本四十時間以下、土日祝日は休みという現代社会においての超ホワイト企業だ。

しかし、今月から産休に入った人の仕事が私に回るようになり定時に上がるのが難しくなった。
来月には派遣の人が来てくれるとのことだったのでそれまでの辛抱だが、残り一ヶ月私はこんな感じで保つのだろうか。

時計を見ると十九時過ぎと決して遅くはない時間。しかし、帰って夕食を作る気力はない。コンビニにでも寄ろうかと思ったが昨日の夕食も今日の昼もそうだったため何か味気ない。

職場から家までは徒歩二十分ほどの距離。その間にある飲食店を脳内で幾つか挙げてみる。どこかいいところはなかっただろうか。
そこでふと、最近情報誌で見たおにぎり屋が頭に浮かんだ。
若い店主が経営するおにぎり屋がすごく美味しいと特集されており、会社の近くに出来たから行きたいねと職場の人と話していたのだ。

スマホで検索し、営業時間を確認する。夜は二十時までやっているようだ。場所を確認すれば、家とは反対方向だが五分ほどで着きそうな距離である。
私は回れ右をしてそのお店に向かう事にした。


大通りから一本入った裏道に、そのお店はひっそりと佇んでいた。
店前の提灯には“おにぎり宮”と書かれており、テイクアウト用のショウウィンドウもあった。確かにおにぎりならテイクアウトの客が殆どなのだろう。電気の消えたショウウィンドウから視線を移し、提灯が照らす柔らかな灯りを頼りに扉に手を掛け横へと音を立ててスライドさせた。

「いらっしゃいませー」

店内はカウンター席とテーブル席が二つほどあるこじんまりとした空間だった。
店内にはサラリーマンが一人いて、私と入れ違うように店を出て行った。
お好きな席へと言われたので奥側端のカウンター席へと腰を下ろす。目の前のメニュー表を見て悩んでいると、温かな緑茶とおしぼりが置かれた。

「ご注文決まりましたか?」
「おにぎり定食お願いします」
「具はどうしますか?」
「梅と高菜で」
「かしこまりました」

注文を取りカウンターの奥へと引っ込んだのは若い男性で、あれが噂の店主かと一人納得した。
このお店が有名なのはおにぎりが美味しいだけではなく、経営者が若くてイケメンというのも理由の一つらしい。
確かに背は高く、顔立ちも整っていた。しかし、それよりも私は彼の若さに驚いた。恐らく自分よりも若い。その年で店一つ持とうとした度量に感動すら思えた。
心の中で小さな賞賛を送っていると、美味しそうな味噌汁の香りが鼻腔をくすぐった。

「お待たせしました。おにぎり定食です」
「ありがとうございます」

ほかほかと湯気が立ち上るお椀にはネギと豆腐が浮かんでいて、いくつかある小鉢には色鮮やかな漬物や副菜が乗せられている。小さめの焼き魚にはミョウガまで添えられていて色のバランスもよかった。そしてメインのおにぎりは米粒一つ一つに艶があり、巻かれた海苔も萎れることなくピンと端が立っていた。

「いただきます」

手を合わせて、まずは味噌汁を一口飲みはぁと息をつく。兵庫特有の粕汁は、関東出身の自分からしたら癖があり苦手ではあったが、ここの店の粕汁はまろやかで美味しく感じた。
そしておにぎりを一口頬張る。米はほろりと口の中でほどけ、一粒一粒の甘さが舌に溶けた。

「美味しい…」

そう言わずにはいられなかった。
そもそも食事にこうも向き合ったのは久しぶりで、私は無心でおにぎりを食べた。
家ではテレビを見ながら、昼はスマホやPCを見て、外食をすれば友人とお喋りをして。
食事はおまけだった。
それが今はどうしようもなく申し訳なく思えて、私は一口一口噛み締めて、最大の誠意を持って「ごちそうさま」と言った。

「ありがとうございました」
「ごちそうさまでした」

お会計をし、店を出る。

話題性だけのお店かと思ったが、確かに美味しかった。
強いて言えば、店主の愛想がもう少し良かったらなと思う。イケメンなのに仏頂面は勿体ない。まぁ私は美味しいおにぎりが食べられればいいのだけれど。
家へ帰るには少し遠回りだが職場からも近いし今後も利用させてもらおう。

さて、休日まではあと二日ある。
疲れがたまっていた水曜の夜が少しだけ晴れやかな気持ちになった。





私はすっかりおにぎり宮の味に惚れ込み、二週間も経たないうちに四度目の来店をしていた。
定位置となったカウンター奥の席に座りメニューを見る。すると新米入荷の大きな文字が目についた。

「ご注文決まりましたか?」
「おにぎり定食お願いします。中身は梅と、あと具なしってできますか?」
「塩でええですか?」
「はい」
「かしこまりました」

運ばれてきた緑茶に口をつける。
今日も今日とて店主に愛想はないが、新米が食べられるのは楽しみである。
ぼーっと湯呑みを両手で包み込み暖をとっていると、ガラガラと引戸が開く音がした。

「やってるか?」
「いらっしゃいませー…って北さん!」

平日の夜にお客さんは珍しい。
そう思い入り口へと視線を受けると一人の青年が立っていた。店主と同い年くらいのようなので友人なのだろうか。

「今日は食べにきた。新米の味も気になるし」
「ありがとうございます!空いてるとこ座ってください!」

敬語だから先輩かな?というか、今まで無愛想に思えた店主がめっちゃはしゃいでる。ようやく年相応に見えた彼の姿が何だか微笑ましく思えた。

「ここ、失礼します」
「どうぞ」

注視していたためか、入店した青年の方と目が合い軽く会釈する。その人は私の隣を一つ空けてカウンター席に座った。
視線を立て掛けられているメニュー表へと戻し、再びお茶を啜る。
しばらくぼんやりとしていると、味噌汁の香りとともに膳が運ばれてきた。

「お待たせしました!夜のおにぎり定食です!」
「あ、ありがとうございます」

いつもよりテンション高めの店主に驚きつつお礼を言い「いただきます」と挨拶する。
今日の味噌汁の具は大根だった。しっかりと味が染みていて美味しい。そして魚の切身は鯖の塩焼きで皮までカリカリに焼き上がっている。新米を使ったおにぎりはいつもよりも艶があるように感じられ、味噌汁に負けない香りに唾液腺を刺激された。
一口頬張れば口の中でほどけ、米の甘さと程よい粘り気で咀嚼速度を後押しする。おそらく、いつもと握る力を変えているのだろう。今までよりも米粒の存在が感じられる食感だった。

「新米、美味しいですか?」

無心で食べていれば隣から声を掛けられる。
先程店主と親しそうに話していた青年は「突然すみません」と付け加えて私の顔色を伺った。

「すごく美味しいですよ。お米一粒一粒がしっかりしているけど柔らかくて甘くて。それと握り具合も丁度良いです」
「ほんまですか」
「ここ最近の食事で一番今が幸せです」
「そうですか。それはよかったです」
「北さんお待たせしまし……た?」

自分の事のように嬉しそうに笑う青年。そしてその彼と話す私の姿が意外だったのか店主は不思議そうな顔をしていた。

「何やってるんですか?」
「消費者の声を聞こう思て。生産者はあまり接点があらへんからな」
「あの、もしかしてこのお米を作った人ですか?」
「そうです」

まさか農家さんだったとは。それにしても若い。今時の子は何に対しても挑戦的なのだな、と数歳しか違わないであろう彼らにそんな感想を抱いた。

「お若いのにすごいですね。これなんて品種なんですか?」
「“ちゃんと”言います。まだ生産量も少のうてここにしか下ろしてへんのですけど」
「そうなんですね。ここでしか食べられないと分かると益々美味しく感じます。それと握り方が上手なおかげですね」
「やって。よかったな治」
「おおきに」

店主は照れ臭そうに笑って青年の前に膳を置いた。
彼も「いただきます」と挨拶をしおにぎりを口へ運ぶ。店主は緊張した表情で青年の顔色を窺っていて、「めっちゃ美味しく握ってくれてありがとう」という言葉を聞いてまた子供のようにはしゃいでいた。
なんだ、可愛い一面があるじゃないか。
その光景を横目で見つつもう一つの梅のおにぎりへと手を伸ばす。
再びお米の味を堪能していると、店主が奥へと戻っていったタイミングで再び青年が話しかけてきた。

「ここに来るの何回目ですか?」
「四回目ですかね。職場が近くで最近通い詰めてます」
「御贔屓にしてくださってありがとうございます」
「こちらこそ美味しいお米をありがとうございます」

漬物に手を伸ばしながら会話をしていると青年はちらりと店の奥を見やって私へと視線を向けた。

「治のやつ、あぁ店主のことなんですけどいつも不愛想だったりします?」
「うーん…まぁ淡々としている感じですかね」

無表情がデフォルトだと思っていました、とはさすがに言いづらかったので曖昧に答える。
すると「すまへんなぁ」と青年が謝りながら、その訳を教えてくれた。

青年(名は北信介というらしい)曰く、開店当初はサービス精神旺盛に接客をしていたらしい。しかし、何を勘違いしたのか一部の女性客がしつこく連絡先を聞いてきたり無断で写真を撮るようになったため愛想を振りまかないようにしたのだそうだ。私も、ここ最近よく通うようになった女性客ということで彼としても警戒して接客していたとのこと。
因みに北君とここの店主は高校時代の先輩と後輩らしい。

「そうだったんですね。まぁ私はここのおむすびが好きで来ているのでそういう失礼な事はしません」
「そう言ってもらえると助かります。なんや疑ってしもうたみたいですみません」
「大丈夫です、気にしないでください。それに、私はあのお兄さんのことタイプでもないですし」
「なっ…?!」
「ぐふっ……」

あっ、店主戻ってきてたわ。北君は何かが変なところに入ったのか思いっきりむせてしまっている。
微妙に気まずい空気が流れるがここまできたら取り繕うより行くところまでいったほうがいい。それにこれくらいはっきりと言ってあげた方が店主のためにもなるはずだ。……多分。

「私、塩顔の男性が好きなんです。ついでに言うとあまりの人の良さに高い壺とか買わされそうになるくらい警戒心が薄い感じの人がいいです。つまりはお兄さんと正反対のタイプが好みなんですよ」
「それひどない!?ってか俺一方的に振られた?」
「私は写真も撮らないですし連絡先も知りたくないってことですよ。安心してください」
「もっと他に言い方あるやろ!」
「あっおにぎりはすごく美味しいです。このおにぎりには惚れますね」
「俺は!?」
「だからタイプじゃないですって。それに女に言い寄られるの嫌なんじゃなかったんですか?」
「それとこれとは別や!」
「めんどくさ……」
「ほんま、二人漫才みたいやわ」

今まで無愛想だと思っていた彼は、話せば次から次へと言葉を返して、ムキになって反論した。
それが可笑しくって、北君と一緒になって彼を揶揄った。

「ごちそうさまでした」
「おーきに」
「愛想が足りませんよ、お兄さん」
「おねーさんに愛想振り撒いたところで何の得もないわ」
「損もないですよ」
「喧しい」

そんなやり取りをしてお会計を済ませる。
お茶を啜っていた北君は、また笑いが込み上げて来たのか吹き出しそうになっていた。
引戸をガラリと開け外へと出ると、今まで見送りなんかしなかった店主も後をついて来た。

「いつもありがとうございます」
「こちらこそいつも美味しいご飯をありがとうございます。また来ますね、お兄さん」
「治言いますから」
「はい?」
「名前。おにーさんじゃなくて」
「あぁそっか。じゃあまた来るね、治君」
「おねーさんの名前は?」

急に距離詰めてきたなと思いつつ私も名前を伝える。イントネーションの確認かは分からないが名前を復唱されたので「そうですよ」と言っておいた。
さぁ帰るかと道へと出るとその背中に「またお待ちしてます」と言葉がかけられる。
てっきり嫌われたとでも思ったが、どうやらそうでもないらしい。

次の来店時には私に愛想を振りまいてくれるのだろうか。
そんなことを想像しながら小さな笑みを浮かべ帰路についた。





秋晴れのお昼時、今日は午前の業務が押してしまい時間をずらしてお昼休憩をもらった。

そういえば朝と昼におにぎり宮はテイクアウトを行なっている。今日は天気もいいし、それを買って公園のベンチで食べてもいいかもしれない。

すっかり通い慣れた道を歩き、店を目指す。
提灯を目印に向かうと店の前に人は居らず、なんとなく嫌な予感がして小走りで駆け出した。

「売り切れか…」

テイクアウト用に作られた小窓には“本日分完売”の張り紙が付けられていた。
夜は人があまりいなかったが、やはり人気店なのだと思い知らされる。残念だが昼はコンビニで済ますしかないか。

「昼間に珍しいですね」

踵を返し歩き出そうとすると声が掛けられる。
小窓を開け顔を出したのは治君で不思議そうな表情で私を見た。

「お昼に食べたくなってね。でも売り切れなんだよね?」
「せや。開店十五分で売り切れるよ」
「すごい!おにぎり宮の人気舐めてたわ」
「今日の米も新米やったからな。大盛況や」
「よかったね。残念だけど私は出直すよ。仕事頑張ってね」

新米ならぜひともまた食べたかったが仕方がない。また夜にゆっくり来よう。
名前を呼ばれ、背を向けかけた体を捻る。そうすれば、治君は小窓からではなく店の扉を開けて外に立っていた。

「あの、出来合いでよかったらなんか作りますけど」
「でもお米ないでしょ?しかもお昼はテイクアウトだけだって」
「まぁ常連さんなんでサービスしますよ。時間あるなら中入って食べませんか?」
「じゃあせっかくなのでお願いします」
「どーぞ」

戻るはずだった足を店へと向け、彼の誘いを受けることにした。
というか、この人いきなり距離が近くなったな。自分の懐に入った人間には優しくなるタイプなのだろうか。まぁ根が優しくなければあんな美味しいおにぎりは作れないだろう。

店内へと入るが当然お客さんはいないわけで、今日は奥ではなく真ん中寄りのカウンター席に座った。ここだと中の様子が割と見える。

「アレルギーや嫌いなもんとかないですか?」
「大丈夫です」
「ちょっと待っとって」

五分ほどのんびりと待っていると、二つの膳を持って治君が戻ってくる。
私の前とその隣にそれを置き、治君もカウンター席に座った。

「残りの冷やご飯使った簡単な賄いですけど」
「炒飯だ!すごく美味しそう」

空腹に耐えかねた私は、いただきますと言って大きくスプーンで掬って口の中へと入れた。少しもっちりとしたご飯にふわふわの卵と高菜の塩味が丁度いい。その味は実家で食べた休日のお昼のような懐かしい味がした。
一緒に出された味噌汁は鰹出汁でネギと油揚げが入っていた。これも絶品である。

「いつもめっちゃ美味そうに食いますよね」
「そう?」
「表情にはあまり出えへんけど、食べ方見とったら分かります」

隣で自分の食事をとっていた治君はそんなことを言った。
食べづらくなるのであまり見ないで欲しいのだけれど。

「事実すごく美味しいです。メニューに加えてもいいんじゃないですか?」
「手間もかかるし、本来の米の美味しさ味わえへんので駄目ですね」
「確かに。そういえば治君はなんでおにぎり屋を始めようと思ったの?」

一口飲み込んで、またふうふうと炒飯を冷ましながらそう聞いた。
ラーメン屋やカフェを始めようとする人の気持ちは何となく分かる。しかし、おにぎり屋はお弁当屋とも違うし、私はずっとやろうと思った経緯が気になっていた。

「俺、食うの好きでずっとメシ関係の仕事したい思うとったんです。で、どないしよか考えた時にやっぱ米が一番かなぁって。北さんが農業初めるんのもあってこの店開こう決めました」
「なるほど。確かに食事は大切だしお米は毎日食べるもんね」
「ほんまですか?最近の、特に若い女はみんなパンやらパスタやら食べて米食べへんやないですか」
「そうかもね。でも私の朝食は毎日卵かけご飯だよ」
「えっ毎日…?」
「なぜ引いたし」

味噌汁を啜りながら横目で見やる。
卵はタンパク質が豊富なんだぞ。それに卵かけご飯は素早く食べれて腹持ちもいいし美味しいという最強の食べ物だと私は思っている。
「卵だけじゃ食物繊維とビタミンCは取れんやろ」とぶつぶつ言う治君を無視し、炒飯へ再び手をつける。

「まぁ私の話はよくて、これからは店舗拡大とか目指すの?」
「そうですね、東京とか。俺高校の時バレーボールやっとったんです。その時の知り合いも何人かプロになっとって、双子の兄弟も代表選手なんです。そいつらが何処行っても食えるようにしてやりたいってのが今の夢ですね」
「偉い!!」
「何やねん急に!?」

治君の友人にプロ選手がいるだとか、実は双子だったのだとか気になるワードは多々あったが一先ず彼を褒めたい。

店を開くなんてのは簡単に言えるが、事実やろうとすれば仕入れや経理計算、衛生管理など大変なことが山ほどある。
食べることが好きと言う純粋な気持ちから此処に至るまでのことを考えた時に、彼は口で言うよりもかなりの努力をしてきたに違いない。
自分なんか特に夢もなく、せめて食いっぱぐれないようにと上場企業に片っ端から面接に行って仕事を決めたというのに。

「若いのにほんと偉い。私は自分が恥ずかしいわ」
「何言ってるんですか。年も言うほど変わらんでしょ」
「兎に角、私はこれからも食べにくるしこの店の経済は支えるから」
「まぁそれは嬉しいですけど」

センチメンタル気味になりつつも、炒飯は米粒一つ残さず胃に収めごちそうさまでしたと挨拶した。
さて、そろそろ仕事に戻る時間だ。
私はお財布を開きながら席を立った。

「いくら払えばいい?」
「別に大したもんじゃないしええですって」
「いや、この美味しさは払わないと気が済まない。千円で足りる?」
「そんな貰えんですって!」
「じゃあ言い値で」
「えー…そんならワンコインで」
「うそ!十円って安くない?!」
「なんや急に単価下がったな!まぁ別にええけど!」

必死に言う彼が面白くって笑ってしまう。
さすがにそれは冗談なので五百円玉を手渡す。

「今日はありがとう。また来るね」
「おーきに。午後もお仕事頑張ってくださいね」
「治君も」
「うん。いってらっしゃい」

店の外まで見送ってくれた彼から発せられた言葉。
そういえば、誰かに送り出されるのなんて何時ぶりだっけ。

「いってきます」


その日の午後は、彼のご飯のおかげなのか無事に定時に上がることができた。
そして夕飯は久しぶりにスーパーへ寄り、自宅で作った。

簡単なものだったけどそれを噛み締めて、嗚呼やっぱり食事は大切なんだなと改めて思ったのだった。





今週を乗り切れば来月には派遣の人が来てくれる。
だからこの月末を何とか乗り切らねばと必死にキーボードを叩いていた。
締め日の今日は皆忙しなく働いている。自分ももちろんその内の一人であり、十七時過ぎにようやく目処がついてきたところで伸びをして一区切りつける。定時を超えるにしてもそこまで遅くはならなそうだと安堵しかけたその時、一通のメールが届き私は目を見開いた。

「えっもう締め切ったんですけど……」
「どうした?」

私の叫びがちょうど後ろを通った課長にも聞こえていたようで、一緒になってディスプレイを覗き込んだ。

うちの発注書の締めは毎日十六時厳守。それが今届いたのだ。普段であれば明日に回せばいいのだが、この分は今日やらないと今月の売上に立たなくなる。しかもそのお客さんは以前納品遅れでクレームをもらったところだった。

「あーこれ営業三課の新人だ」
「今日に限って……」
「しょうがないな。俺の方で君が持ってる残りの仕事引き受けるからこの処理お願いしていい?」
「分かりました」

簡単に上司へ引き継ぎをし、メールの添付ファイルを開く。新人とあって必要事項が穴だらけで泣けてくる。在籍通知を見れば、今は社内にいるようだったので直接会いに行った方が早そうだ。

「営業部行ってきます」

今日は何時に帰れるのだろうか、とぼんやり考えながら新人さんの所へと急いだ。



時計を見れば二十時半過ぎ。
実に長い一日であった。

発注書の処理だけでなく、今後同じことがないようにと新人指導までしていたらこんな時間である。せめてもの救いは上司も居残ってくれていたことだろうか。奢ってもらった缶コーヒーを飲んで泣きそうになったわ。

本当はおにぎり宮に行きたかったがもう閉店している時間である。
まぁ今日は金曜日だし、コンビニでお酒とおつまみでも買って家で食べるか。

職場から家までの間にあるコンビニに入る。普段は使わない籠をもち、酒売り場へ向かい気になったものを片っ端から入れていった。

「家飲みでもするんですか?」
「うわっ!えっ治君!?」

耳元での当然の問いかけに驚き缶ビールを落とした。無事に籠に入ったので事なきを得たが落ちていたら大惨事だったかもしれない。
けたけた笑う彼をひと睨みすると驚きすぎやわーと悪びれもせず流された。

「どうも。今仕事終わりですか?」
「そう。今日が締め日でね、長引いた」
「そらお疲れさんです。今日は来る思うとったけどそういう事やったんですね」

彼の中で私の来店日は粗方予想できるらしい。事実、今日行こうと思っていたので特に否定はしなかった。

「そんなたくさん買って誰と飲むんですか?」
「一人だよ」
「マジか……っていうか恋人おらへんのですか?」
「い な い で す け ど 何 か ?」
「イエ、ナンデモナイデス」

酒の量を見て引くんじゃない。まだ五本しか入れてないんだから。それに恋人とか、今は別に欲しい気分じゃないので。

「なんか意外です。彼氏居そうなのに」

さらに二本ほどお酒を買い足して惣菜コーナーに向かう。
私の圧にもめげなかった彼は再び同じ話をした。

「半年くらい前に別れたよ。それっきりいない」
「へぇー」
「治君は?」
「俺もいないです」
「へぇー」

彼と同じ調子で返事をする。本当はもっと気の利いたボケでもかましたかったが、空腹と疲れで頭が回らないのだ。

「また作ろうとは思わないんですか?」
「んーまぁいい人がいればね」

いくつかおつまみを入れ、レジへと向かう。確か家にレトルトカレーがあったから夕飯はそれで済ませて今日は飲みをメインにしよう。

お会計を済ませると、治君もすぐ後をついてきた。どうやら欲しいものがあった訳ではなく、私がいるのが見えたのでコンビニに寄ったらしい。

「家この近くなんですか?」
「うん。真っ直ぐ進んで公園の裏を少し入ったところ」
「危ないんで公園のところまで送りますよ」
「いやいや、治君遠回りでしょ?家はお店の近くって言ってなかったっけ?」
「今日はツムが…あー兄弟が実家に戻ってるんで俺も帰るつもりなんです。駅も同じ方向なんで構いませんよ」
「そっか。じゃあお願い」
「ん。それ持ちます」

ずっしりとお酒が入ったビニール袋を、私の返事を待たずに治君は持ってくれた。正直かなり重かったので有難かった。
お礼を言い、二人並んで歩き出す。

「兄弟ってバレーボール選手の?」
「そうです。いま、高校の時試合した奴らとチーム同じらしゅうて色んな話聞かせてくれる思います」
「それは楽しみだね」
「はい。なんやその話聞いとると高校ん時の思い出蘇るんですよね。やってた頃はそんなんどうでもよかったのに」
「それが思い出ってやつだよ。っていうか北君から聞いたけど全国大会常連校のレギュラーだったんでしょ。今は社会人チームとかでやろうと思わないの?」
「高校の時にやり切ったんでもう充分です。それに半端な覚悟でやりたくはないんで」

彼の声色が真剣で、ふと横顔を見上げたら目が合ってしまった。

「“治君、めっちゃかっこいい!”って思ったろ?」
「思った思った」
「うわテキトー」
「思ったってば。でも私が言わなくても他の人にたくさん言われてるでしょ?学生時代はさぞモテたのでは?」
「分ります?」
「否定しないんかい」

そんな話をしていればあっという間に公園までたどり着く。遊具はブランコと滑り台くらいしかない小さな公園だ。

「あの、日曜って時間ありますか?」

お礼を言って荷物を受け取ろうとした時だった。
伸ばしかけた指先が宙を切り、私は一度手をひっこめた。

「まぁあるけど…」
「実は最近気になってる定食屋があってそこ行きたいんです。一人で行くのも味気ないんでよかったらどうですか?」
「私でいいの?北君とか兄弟誘ったら?」
「あー……北さんは農家で忙しいしツムは明後日からまた練習やから。…どうですか?」

別に断る理由はない。どうせ家にいても動画見るか寝るくらいしかやることないし。

「いいよ」
「本当ですか?じゃあまた時間とか連絡するんで連絡先教えてください」
「あれれ〜?女に連絡先知られるの嫌なんじゃなかったのかなー?」
「他人に聞かれるのが嫌なんです!…そんな意地悪言わへんでください」
「ごめんごめん」

突っかかるような言い方をしたのは、彼があまりにも可愛すぎたから。

家に帰り、食事の準備をしながらメッセージアプリを立ち上げる。
真っさらなトーク画面に『今日は送ってくれてありがとう』と簡潔に送ればすぐに既読がついた。
『いえいえ。あんま飲み過ぎないでくださいね』
という文章と共にキツネが目を回しているスタンプが送られてきた。
それにまた笑みをこぼし、私は缶ビールを煽った。





治君が言った定食屋は電車に乗って二駅ほど移動した街にあり、そこからさらに徒歩十分ほどの繁華街の中にあった。

京都から兵庫へと進出してきた店らしく、所謂“おばんざい”を提供するお店らしい。昼時間をずらしてきたが、できたばかりとあって店の外には行列ができていた。女性客が多いから、確かに男性だけでは来づらかったかもしれない。

「すごく並んでる。結構人気のあるお店なんだね」
「味が気になるところやな」

並び始めてから店内に案内されるまでの時間。それから注文して運ばれてくるまで合計一時間以上の時間があったというのに私たちの間で会話が途切れることはなかった。
店で話すときは世間話程度だったけれど、お互いの仕事のことや学生時代の話など話題はいくらでも出てきて広がっていった。話す量は治君よりも私のほうが多かったけれど、彼は嫌な顔一つせず時々余計な茶々を入れながら話を聞いてくれた。
相変わらず表情は乏しいほうかもしれないが、意外と彼は人好きではあるようだ。

「お待たせしました」

ようやく運ばれてきた膳にはいくつもの小鉢が並んでおり、どれから食べようか迷うほどであった。
いただきます、と挨拶をし各々食べ始める。
これは何の野菜か、味付けは?などと私も参考になるような意見を出しつつ箸を進めた。

食事が終わり店を出ようとすると、治君が奢ってくれた。さすがにそれは申し訳ないと断ろうとしたが誘ったのは自分だからいいと言われた。
そこは素直にお礼を言い、有難く奢られておいた。

「まぁ人気の理由はわかったわ」
「そうだね。少量ずつ色々な物が食べられるのはいいよね。嫌いな物があっても好きな物の方が多ければお客さんも満足するし」
「なんや自分、めっちゃ言うやん」
「だってあの干し椎茸すごく不味かったから」
「あーあれな。お酢と何混ぜたらあんな味になるんやろうな」

二人で繁華街の中心へと歩き出す。この後の予定は特に決めていないけど。

「茄子の煮浸しは美味しかったなぁ。実家のとは少し味が違ったけど」
「関東と関西だとやっぱり違います?」
「地域というより、家庭の違いって感じかな。鰹節も入れたまま煮詰めるのが我が家流」
「話しとって思ったけど、料理結構できますよね。その煮浸し食べてみたいです」
「プロに振舞えるほどの腕はないって。それに、やっぱり関西の人の口には合わないかもだし」
「美味い不味いの問題ではなく、知りたいって思たんです」

その“知りたい”の中に私は別のことも含まれていることに気づいてしまった。
横からの彼の視線が気になる。
自分の思い違いかもしれないが、いたたまれずに慌てて話題を変えた。

「あっそうそう、でもご飯と味噌汁は宮の方が好きかな」
「嬉しいこと言ってくれますやん」
「今度は油揚げと豆腐の味噌汁が食べたいな」
「おねだりか?」
「リクエストって言って」
「まぁ考えとくわ。っと、危ない」

振り向くより先に腕を引かれ、治君の方へ倒れ込む。そのすぐ直後、後ろから自転車が速度を飛ばして私たちを追い抜いていった。

「危な、歩行者見ろって」
「びっくりした。ありがとう」

治君から離れようとするが、彼は私を掴んだ手を離さない。

「髪の毛、乱れとる」
「ほんと?」

治君の手が僅かに触れてくすぐったい。
ようやく彼の手が離れたところでお礼を言う。そうしたら無表情で固まってしまったので、どうしたのかと問いかけた。

「今の行為でなんか思うことないんか?」
「思うこと?あぁ、“あれ?今まで友達だと思ってたのに。この胸の高鳴りは…?きゅんっ”って事にはならなかったけど」
「真顔で“きゅん”言うなや。鳥肌ものやわ」
「治君こそ“あれ、こいつめっちゃええ匂いする。そうか女やったな。…きゅんっ”って思ったんじゃない?」
「まぁ思わんでもなかった」
「いや、ここは笑うか引くか突っ込むかしてくれないと困るんだけど」

なぜここにきて治君の無表情が発動するのか。最近ではそれなりに表情をコロコロ変えていたくせに。相手の感情が読み取れないんじゃこれ以上揶揄えない。
それにこの空気はおそらく私としてあまりいいものではない。

どうしたものかと気まずい空気が流れた時、治君のスマホが鳴った。仕事関係だろうか。
彼は私に断りを入れて少し離れたところで電話に出た。しかし、それも僅かで直ぐに戻ってくる。

「北さんからで、知り合いの農家さんにたくさん野菜もろうたから一緒に取りに来えへんかって」
「私も?」
「一緒に居る言うたら、せっかくならどうぞって」

ここで断るのも変だったので頷いた。
北君の家はここから近いらしい。少し歩くけど大丈夫かと聞かれたが、今日は歩きやすい靴で来たので問題ない。

「それなら手土産買って行ってもいい?」

流石に私がタダで貰うわけには行かない。
この辺りは買い物ついでに散策にも来るので、美味しい和菓子屋さんを知っている。

「そんな気にせんでもええと思うけど」
「私が気にするんだって。ちょっと寄り道してもいい?」
「ええよ」

念のため地図アプリで場所を確認し、スマホ片手に進む。治君は「転ばんようにな」と言いながら道路側を歩いてくれた。

迷わず和菓子屋さんに着いたことに安堵し、治君を待たせては悪いと思いささっと目当てのものを購入した。芋羊羹というあまり可愛げはないが味は確かなので大丈夫だろう。それに北君は見た目よりも味重視っぽいし。

お会計が済んだのでショウケースを眺めていた治君に声を掛け外に出た。
彼は地図を見なくても場所は分かるのかこっち、と方向を示して歩き出した。てっきり私が彼の後ろを着いていく形になると思ったのに歩幅を合わせてくれた。

「こんな小さな店、よく知ってましたね」
「昔よく来たんだ。上生菓子も美味しいよ」
「和菓子好きなんですか?」
「うん。今日はもう売り切れてたけど、この季節だと竜胆とか椿とかを模った練り切りもあって見るのも楽しいんだ」
「花好きなんですか?」
「うーん。まぁ人並みには?」
「財布に花のチャーム付いてたんでてっきり好きかと」
「えっそんなとこ見てたの!?」
「会計の時、お客さんの財布が視界に入るんですよ」

「こわっ」と小さな声で言ったら「失礼な奴や」と笑われた。ようやく私の知っている彼に戻ったので少し安心した。

そんな事を話していれば、“北”と書かれた表札の家にたどり着いた。
慣れた手付きでインターホンを鳴らした治君に、よく来るの?と聞けば学生時代にはなかったが店を始めてからは頻繁に来るようになったらしい。

玄関から顔を出した北君は笑顔で私達を迎えてくれた。
私が手土産を渡せばやはり「気ぃつかわんといて」言われてしまったが強引に押し付けておいた。
玄関先にある段ボールには、他の農家さんから貰ったであろうレンコンにネギ、ほうれん草や白菜など多くの野菜が詰まっていた。

流石にこれを持って電車で帰るわけにはいかないので北君に車を出してもらうことになった。
おにぎり宮まで送ってくれるとのことで、治君とお礼を言いつつ私は後部座席に乗り込んだ。治君は助手席だ。

「北さん、車出してもろうてすみません」
「こっちが急に誘ったんやから気にせんといて。それにしても二人が一緒に居て驚いたわ」
「新しく出来た店の偵察に誘われたんです」
「偵察って人聞き悪いな。市場調査に行っとったんです」
「ああ、駅近くの店か」

北君も交えてその定食屋の話になり、あれは美味しかったあれは不味かったなどまた感想を言い合った。

「白米は断然、北君の作ったものの方が美味しかったよ」
「そう言ってもろうて嬉しいわ。羊羹もありがとう。あそこの和菓子好きやねん。それにしても、あんな小さな店よく知ってましたね」
「美味しいお店探したりするの好きなんです」
「なるほどな。それでおにぎり宮も見つけたんやな。よかったな、治」
「まだまだ未熟ですけど」
「そこは素直に喜んでよ」
「……おーきに」
「治、照れ隠し下手やな」
「やめてくださいってば北さん!」

バックミラー越しに見えた治君は、窓の外へとそっぽ向いた。
その横顔がわずかに赤く見えたのは、夕日のせいだということにしておいた。

車から荷物を下ろし、北君にお礼を言う。これで当分野菜には困らなさそうだ。
治君が店の奥へと一度戻ったタイミングで北君にこっそりと呼ばれる。何かあったのかと小声で聞くと、彼は嬉しそうに笑った。

「治に付き合うてくれてありがとう。久しぶりにあいつの楽しそうな姿見て安心しました」
「そうなんですか?あまり表情を表に出さないタイプなんで本当に楽しいかはよく分からないんですよね」
「最近、東京出店のことで頭いっぱいみたいやったから、貴方と話すことがあいつのガス抜きになってるんやと思います」

そういえば、東京出店の話が現実味を帯びてきたのだと注文を待っているときに治君が言っていた。私から色々と聞き出すのは失礼だと思い聞き手に回っていたが彼なりに思い詰めているところもあったのだろうか。治君の表情の変化をもう少し見ていればよかったと少し後悔した。

「これからも治のことよろしくお願いします」

北君は治君の母親にでもなったかのようにそういった。よろしくと言われても、所詮は店主と客なのだから私が何かできるわけでもない。
その関係は覆らないし、私は変えようとも思わない。
それでも自然と頷いてしまったのは、彼の夢を私もまた応援しているからだ。

改めて治君と一緒に北君を見送る。
いつもに比べたら遅くはない時間であったがすでに太陽は沈みかけていた。冬の日は短い。
二人で店の中に入って私の分を仕分けてもらい店から出ようとすると、治君から声がかけられた。
やっぱりな、と思いつつ私は彼に作ったような笑顔を向けた。

「家まで送ります」
「いいって。明日早いでしょ?」
「大丈夫ですよ」

手早く身支度をし、荷物を持って出口へ向かう。
私の後ろを慌てて付いてきた治君はどうにも見送りを譲らないらしい。

「いつも一人で帰ってるんだから大丈夫。まだ遅くもないし」
「俺が送りたいんですよ」
「見送りはいいから。東京出店のこととかもあるでしょ?時間は待ってはくれないんだからそっちを優先して」

有無を言わせないよう巻く仕立て、外へと出る。
ヒュウと夜風に首を撫でられ身震いする。さすがに日が落ちると冷え込むかと思っていたら首に柔らかいものが巻き付けられた。

「分かった。ほな風邪ひかへんようにしてください」

治君の匂いがするマフラーは、落ちないようにと彼の手によりしっかりと巻かれた。そして手が離れると同時に乱れた髪を整えられる。
私がそのマフラー外そうとすると、手を掴まれて止められた。

「悪いからいいって」
「次、いつ来れますか?」
「……木曜日、かな」
「待ってますから。その時に返してください」
「ありがとう」

家に帰るためにまずは大通りを目指す。
途中にあったカーブミラーに、彼の姿が反射した。私が無事に表まで出られるか見守ってくれているらしい。
それに気付かないふりをして、振り返らずに歩いた。

角を曲がれば歩く速度をあげる。まさか歩き易いようにとショートブーツで出かけたのが今となってまた役に立つとは。
少し、息が上がり空気を思いっきり吸い込めば冷えた夜風が頭をすっきりさせてくれた。


私は、ずるい人間だと思う。


自転車にぶつかりそうになったときか、料理の話をしたときか。いやそれよりも定食屋に行こうと誘われた時からか、何となく彼の気持ちには気付いていた。
鈍感でいられるほど恋愛経験がない訳ではない。
彼が私を見る目が、お客さんでも友人でもないことに気付いていた。

治君は、私のことが好きだ。

ただ、私はそうではない。
会社に行って帰るだけの日常に、ふと彼という存在が現れた。私はその“イベント”を楽しんでいただけだ。
本気で恋愛感情を持たれることを考えなかったわけではないが、私はこのイレギュラーな日常を手放したくて気付かないふりをした。
今、その恋愛感情が表に出たことで私は治君と距離を取りたくなった。

昔はこんな駆け引きのような、付き合う前の甘酸っぱい日々を楽しんでいた時期もあった。
でも、この年齢になると思うんだ。次に付き合う人とは結婚するんじゃないかって。
事実、半年前に別れた彼氏とはそういう話もしていた。

結婚願望が特別強いわけではない。
でも、恋愛に一喜一憂できるほど私は青くない。こんな打算的な女は彼に似合わないだろう。

しばらくは会わない方がいい。

家に帰り、貰った野菜の整理をしているとメッセージが届いた。

『無事、家着いたか?』
おとんかよ。と、いつもなら返していたかもしれないがもう返信がこないように簡潔に返す。

『家ついた。今日はありがとう。おやすみなさい』

スマホを遠くへ置き、通知が聞こえないようにしばらく放置をして。
お風呂から上がったころにスマホの電源を付けた。
ディスプレイには『おやすみなさい』の文とスタンプが送信されたポップアップが表示された。

しかし、私はそれに既読をつけることもなく、布団へと潜り込んだ。





木曜の夜、マフラーを返すためにおにぎり宮へ向かうと偶然にも北君がいた。
治君と二人になるのが気まずかったから助かった。

紙袋に入れて持ってきたマフラーを返し、そのまま注文を頼む。
その日は珍しく私たち以外のお客さんも来ていて治君は忙しそうだった。
さすがに他にお客さんもいる中、私にだけ特別扱いはできないのか帰り際の見送りはなかった。

しかし、帰宅すればメッセージが送られてきて、無事に帰れたのかの確認とマフラーを洗ってくれたお礼の文章が送られてきた。
いつもは気づけば直ぐに返していたメッセージも私は時間をおいて返すようになった。

私から断ち切らなければこの関係はずるずると続く。
それに、感のよさそうな彼ならいつかは気づくだろう。
“自然消滅”という、たいして築きあげられてもいないだろう関係にそういう終止符を打ちたかった。

私はずるい人間だ。





月が変わり、派遣の人に仕事を教えながら日々が過ぎていった。初めこそ残業は続いたが二週間もすればまた定時に帰れるようになり生活習慣も落ち着いてきた。

おにぎり宮へ通う頻度は減った。
治君からはよくメッセージが届く。その内容を見て、さすがに毎回断るのも申し訳なくておおよそ三回に一度の頻度で返信をして店に顔を出すようにした。

何気ない会話をし、けれど閉店間近で人が増えないことが分かると彼は私の隣に座って引き留めるように会話を続けた。
そうする理由を私は知っているから「今日は疲れたから」「明日も仕事だから」と断りを入れて店を出る。

自然消滅などすることもなく、ずっと彼はこんな調子だ。
そして告白をいつか私にするのだろう。
好意を持たれて嫌なわけではない。でも、私は告白を断るという行動をしたくないのだ。彼の事が嫌いなわけでないから断る事が申し訳なく思えて苦しくなる。
私はずるい人間だ。

「そんでな次は椎茸と唐辛子を使うて佃煮作ろうと思っとる。東京店限定のメニューも考えようかなって。そんで——」
「いいんじゃない。ごめんね治君、そろそろ遅いから私帰る」
「ごめん、また引き止めてもうて……送ります」
「大丈夫」

時刻は二十時十分とそこまで引き止められた訳でもない。しかし、今日も私から席を立ちいつもと同じように彼の申し出を断った。

「ごちそうさまでした。おやすみなさい」
「あのっ!」

いつもなら彼は名残惜しそうに「気をつけて」というはずなのに今日は違った。

「ずっと聞きたいことあったんですけど………俺のこと避けてますか?」
「そんなことないよ。急にどうしたの?」
「店来る頻度もメッセージの返信も少のうなった。それに、話してるとき別の事考えてるやろ?」
「最近仕事が忙しくて……新しく来た人に色々教えてるんだ。だからかも」

息を吐くように嘘を吐く。
私は彼が思っているほど良い人ではない。
自己防衛のための嘘など、簡単に言ってやれる。

「ここに来る回数も減るかもしれない。ごめ——」
「嘘つけ!」

急に大声を出され、身震いをする。
彼は確かに怒っていたがそれよりも泣きそうな表情で私のことを見た。

「ほんまは俺の気持ち気付いてるやろ。それ知ったから避けてる」
「………………」
「俺じゃダメなん?」
「……治君をそういう風には見れない」

ごめん、は言わない。それを言ったらきっと治君もごめんと言うから。

「まだ、好きでいてもええ?」
「時間の無駄だよ。それに恋愛よりもお店の事考えなきゃいけない時期でしょ」

年上の私は正論を言うことで彼の想いを潰した。
本当は「迷惑だ」の一言が言えればよかったのだけど、彼の顔を見ていたらそこまでのことは言えなかった。

「それとこれとは別や」
「事業を広げるということは簡単にできることじゃない。年長者の話は聞いとくものだよ」

私は歩き出す。
後ろは振り返らなかった

その日、私が治君に会った最後の日になった。





年を越し、季節が変わった。

家と職場を往復する以前の日常。
充実した日々とは言えないけれど、別に不幸というわけでもない。
それ以上でも以下でもないような生活。

しかし、自分にぽっかりと穴が空いていたのだと気づいたのは治君とのやり取りをきっぱりと止めて少し経った頃だった。

私は彼のことが好きだったのだろうか。
それとも、今までの生活になかったイレギュラーな彼とのやり取りが単に刺激的だったのか。
今となっては過去の話だ。

平凡な日常。
そこに僅かな変化が訪れたのは、家の近くの公園の桜が咲いた頃だった。

「あっ、久しぶり!」
「え…?あれ、嘘!?何で日本にいるの?」

一年ほど前に付き合っていた元彼と偶然にも再会したのだ。
その日は眼科に行くために仕事を早上がりし、帰りに街をふらふらと歩いていた時のことだった。

「今休暇中で日本に戻ってきたんだ。……あれ?髪切った?」
「切ったけど久しぶりにあった人に分かるわけないでしょ!というか会う度にそれ言うのやめてよー」
「あはは、なんかこのやり取り懐かしいな」

彼との仲は至ってよかった。
二つ年上で、仕事はできるけど家事はめっぽうダメな人だった。私の作る料理を何でも美味しく食べてくれて、嬉しくなって腕を磨いた日々も懐かしい。何か記念日があると必ずケーキとちょっとしたプレゼントを用意してくれるマメな人。

互いの年齢もあり自然と結婚も考えた。
それでも別れてしまったのは、向こうの海外転勤だった。

「仕事はどうしたの?」
「長期休暇もらって帰ってきたんだ。また向こうに戻るけど」
「そっか。ご飯ちゃんと食べてる?」
「社員食堂があるから何とかなってるよ」
「洗濯溜め込んでない?家、ゴミ屋敷になってない?」
「俺がどんだけ出来ない人間だと思ってるんだよ」
「小学生より家事ができない人」
「ひどっ!でもまぁ確かに」

会話の一つ一つが懐かしい。
細めたときにできる目尻の皺、喉を鳴らすように笑うところ、私の目を見て話を聞いてくれる。

「いつまで日本にいるの?」
「一か月くらいかな。休暇後に一週間くらい日本で仕事して戻る感じ」
「いーなー。私も休みほしい」
「羨ましいだろ?」
「その顔むかつく」

昔も今も変わらない。
けれど、彼は少し大人びたような落ち着いた雰囲気になっていた。
いい男になったなぁ、と素直に思った。

「まぁ長期休みは嬉しいんだけど、学生時代の友達も忙しいみたいであんま遊んでくれる人いないんだよね」
「新卒も入ってくる時期だししょうがないよ」

そんな会話を続けていると「そういえば」と彼はスマホをポケットから取り出した。
それを少し操作した後、彼のスマホを渡されて息をのんだ。

「この店知ってるか?」

とある外国人のグルメブログらしい。英語で書かれた文章とおにぎりの写真が載せられていた。そしてローマ字で見知った店の名前が書かれている。

「“おにぎり宮”っていうところ。この人、外国人向けに日本の飲食店を紹介してる有名ブロガーなんだけど、ここのおにぎり絶賛しててさ。東京店に行った時のこと書いてるけど、本店は兵庫なんだろ?お前の職場に近いから知ってるかと思ってさ」
「うん。美味しいよ」
「やっぱり!俺も食べてみたいんだよな。日本食が恋しくて。なぁ、もしよかったら連れて行ってくれない?」

断ればよかったのだ。
私は彼の彼女でもないし、友達というほどの関係性が今あるわけでもないのだから優しくする必要もない。

でも、そのブログを見て治君のおにぎりがひどく恋しくなったのだ。
そして彼は私の知らぬ間に東京へ進出するという夢を果たしていた。
今更だけど「おめでとう」と言いたかった。

「いいよ。何時にする?」

今更どんな顔で会いに行けばいいのか分からない。
連絡も返さないで、メッセージの通知マークは赤く着いたまま。

会いに行ったら怒鳴られるかもしれないし、それとも顔色一つ変えずに注文を聞かれるのだろうか。
でも一言だけ伝えたい。
これは私のただの我がままだけれど。





私の予定次第であったので日にちはすんなり決まった。
そして、約束の日はあっという間にやってきた。

「ここに出来たんだ。前は何の店があったっけ?」
「もう覚えてないよ」

私が戸へ手をかけるより早く、彼の手が伸びる。
私が着いてきていることを確認して、彼が先に店に入った。この習慣も昔と変わらない。エスコートされるのが苦手だと言ってから、彼は店に入るときは先に入店してくれる。

「いらっしゃいませ」
「二人なんですけど」
「お好きな席へどう、ぞ」

暖かな陽だまりのような照明に、ご飯のいい香り、そして懐かしい声がした。
視線を上へとずらすと治君と目が合った。
彼は大きな瞳をさらに真ん丸にさせて、口を半端に開けていた。動揺していることなど、顔を見るより先に入店時にかけられた言葉で分かった。

当然彼は、私と治君が知り合いだなんてことは知らない。話してもいないし。
だから私たちに気を留めることなく、店の奥へと進んだ。その後ろについていく私は、治君からはどのように見えているのだろうか。

「お茶とおしぼりお持ちします」

カウンターの奥へと引っ込んだ治君の背中を見た。
彼の後姿がもう懐かしいと思えるほどだ。
私から声はかけなかった。

彼は一番奥のカウンター席に座った。私はその隣に腰を下ろして、頼むものは決まっているというのに興味があるようなふりをしてメニュー表を見た。
お茶とおしぼりを二人分持ってきた治君に注文を頼む。治君は淡々と注文を取りまた奥へと戻っていった。

緊張なのか、手汗がすごくておしぼりをずっと握っていた。私の隣で会話を続ける彼の会話は正直半分も頭に入ってこなかった。

お味噌汁の香りがした。そして、膳が目の前に運ばれる。
油揚げと豆腐の味噌汁に、キャベツとしらすの和え物。漬物は彩鮮やかに盛り付けられ、鰆の西京漬けは小ぶりながらも身がふっくらとしている。そしておにぎりは言うまでもなく、膳の主役として鎮座していた。

「いただきます」

ぐしゃぐしゃになったおしぼりで手をふきなおして、おにぎりに手を付けた。
一口食べて、あぁ美味しいなぁって。
もっと気の利いた感想が言えたらよかったけれど、結局は美味しいの一言に尽きるのだ。

「やっぱり米っていいなぁ。というかおにぎりを美味いと思ったの俺初めてかもしれない」
「ほんと美味しいね」

彼は色々と感想を言っていたけれど、やはり私はそれを話半分で聞きながら黙々と食べていった。

「これ、どうぞ」

おかずも半分ほど食べ二個目のおにぎりへと手を付けようとしたとき、膳に小鉢がことりと置かれた。
驚いて顔を上げると治君が表情を変えずに私を見下ろしていた。

「頼んでないですけど…」
「おねーさん、常連さんなんで」
「ありがとう、ございます」
「それ自信作なんでまた感想聞かせてくださいね」

茄子の煮浸しは煮詰めた鰹節を乗せたまま、薄っすらと白い湯気をまとっていた。
それを見た瞬間、その湯気の中に幻影を見た気持ちになった。
彼と冗談を言い合っているとき、食事をしているとき私はどんな顔をしていたのだろう。きっととても幸せそうな顔をしていたに違いない。

「お前、店員に顔覚えられるほど来てたのかよ」
「まぁね…」
「その茄子のやつ、昔お前が作ってくれたのに似てるな」

茄子を一切れ、鰹節を落さないように口へと運ぶ。優しい出汁の味と、すっと鼻に抜ける香り。じわじわと心が温かくなる。

「全然違うよ。私が作ったのよりもずっと美味しい」

治君はひとりでこれを完成させたのだろうか。いや、私がいたとして教えることなど何もないのだけれど。
そう思うと彼と距離をとってしまった罪悪感が膨れ上がり、とてつもなく胸が苦しくなった。

彼が一緒にお会計をしてくれようとしたけど私はそれを断った。
もう恋人でもないのだから奢ってもらう理由もない。彼は付き合ってくれたお礼だと言ったけれど、寧ろ私がここへ来るために彼を利用したのだから本来なら私が奢るべきだったのかもしれない。

店を出ると治君も一緒に出てきた。
彼をちらりと見て、私に向かって「またお待ちしてます」といった。

彼と一緒に歩きだす。
彼は駅の近くのウイークリーマンションを借りているらしく、通り道だと私を送ってくれた。

家の近くの小さな公園、ここまでで大丈夫だと言えば彼は私の名前を呼んだ。

「あの時、俺と一緒に来て欲しいって言ったらお前は着いてきてくれたか?」

海外転勤が決まった時、彼は私に「お前はこの先どうしたい?」と聞いた。
彼は良くも悪くも私の気持ちを優先してくれる人で、私のしたいようにしてくれと言った。
その時私が「着いていく」と言ったら、きっと今頃結婚していたのだと思う。
でも“どうしたいか”と聞かれ、私は迷ってしまったのだ。そして少しだけ彼を恨んだ。決断を私に委ねて、未来への責任を押し付けられたような気がしたから。

「そうかもしれないね」

もし、彼が言うように“来てほしい”と言われていたならば私はそれを受け入れていたかもしれない。

でもそれはもう過去のこと。
昔の思い出に浸るほど私は感傷的な人間でもないし、その思い出自体やはり“過去”なのだ。
彼に名前を呼ばれたとき、懐かしいとは思わなかった。
それは過去の自分に掛けられた言葉であって、今の私ではないのだと感じたから。

「なぁ、俺たち———」
「私はあの時“着いていかないこと”を選択した。そのことに後悔してないし、昔も今も答えは変わらない」
「そっか…」

薄暗い街灯に照らされた彼の顔は、悔しそうで、でもどこか吹っ切れたような顔をしていた。……私が都合よく解釈しただけかもしれないが。

家に入り、コートを脱ぐよりも先にメッセージアプリを開く。下にスクロールしていって、ようやく見つけた右に通知マークが着いたままの連絡先をタップしてトーク画面を開いた。
数か月前から動いていないそこに、メッセージを打ちこむ。

『今までごめん。煮浸しすごく美味しかった』

馬鹿みたいな捻りのない文章。
やっぱり書き直そうと思い、送ったばかりのメッセージを削除しようとしたところで既読が着いた。
どうしよう、と次のことを考える前にスマホが震え私は反射的に通話ボタンを押した。

「っもしもし」
『……もう一生会えへんかと思ったわ』

先ほどの店への態度とは裏腹に、治君は消え入りそうな泣きそうな声でそう言った。
いよいよ私も今までの罪悪感が爆発して、何度も「ごめんね」と繰り返した。
弱々しく話す治君を宥めながら話していると段々と怒りの方向へ感情がシフトしていったのか、慰めるどころの話ではなくなっていった。

『人の気も知らんで勝手なことして。ほんっとろくでなしや!』
「うん。ごめんって言葉で済まないと思うけど、本当にごめんなさい」
『それに男連れてきて、俺への当てつけか?』
「いや違うよ。あれは元カレで、」
『あ゛ぁ?』

もう嘘をつきたくなくて、でも確実に今のは失言だった。

「ごめん。でもただ食べに行っただけでもう彼とは何にもないし」
『ほんまか?』
「……よりを戻そう的なことを言われかけたけど断ったよ」

しばらく無言が続き、心配になってごめんとまた小さく言うとため息をつかれてしまった。

『そんな謝られたらこっちも怒るに怒れなくなる』
「これからは返事も返すし、またお店にも顔出すようにする」
『……本当に本当やな?』
「約束する。それとね、東京出店おめでとう」
『電話越しでの祝いの言葉なんて聞きとうない。直接会って言ってほしい』
「わかった」
『明日の午後は休みやから、会いに来てくれへん?』
「わかった。行くね」
『約束やで、』

治君に名前を呼ばれた。

その時、ぽっかりと空いた穴に何かが満たされたような気がした。
そして治君との関係は過去のことではなくて、まだ思い出として語るには早すぎるのだと私は今になってようやく気付けたのだ。





さすがに手ぶらで向かうことはできず、私は電車に乗ってあの小さな和菓子屋さんへお菓子を買いに行った。桜を模った上生菓子と羊羹を選んで、大切に紙袋を持ちながら緊張した足取りで店へと向かった。

時間ぴったりにおにぎり宮の扉を引く。
本当は十五分前には着いていたけれど、早く行くには迷惑だと思い店の周りを三周も歩いてしまった。

ごめんくださいと声をかければバタバタと慌ただしい足音が聞こえ、彼はカウンターの奥から顔を出した。
私からなんて声をかけようか。何回もシミュレーションしてきたはずなのにいざ目の前にすると喉がひくつく。

「治君、あの——」
「ごめん、俺から先ええですか?」

ふわりと目の前にピンクのガーベラが揺れる。それだけではない。他にも白や黄色の花があしらわれた可愛らしい花束だった。

「俺と、結婚してください」
「は、えっあ、結婚……!?」

人は本当に驚くと頭が真っ白になるらしい。
頭の中で様々な疑問が駆け巡るが言葉として発せられたのはごく僅かなものだった。

「好きです。結婚してください」
「いや、ちょっと待って!結婚っておかしくない?!」

せめて告白でしょうに。
緊張も喉のひきつきもどこかへ行ってしまった私は動揺をそのまま口にした。
私の目の前で揺れるガーベラからは甘い香りがする。かと言って、私の頭が能天気なお花畑状態になれるわけではない。

「好きな人同士がずっと一緒におることが結婚やろ?」
「いや、そうだけどそうじゃなくて……物事には順序ってものがあるでしょう?」
「順序やら踏んで俺があんたのこと落とせる気ぃせえへんかった」
「でも、」
「でもやない」

治君は一歩近づき、ガーベラの花を私の前へと持ち上げた。

「俺、あんたの事幸せにする自信ある。ようやく一つの夢叶えた程度やけど、これから先俺はたくさんのやりたい事を一つずつ叶えていく」

私は瞬き一つせずに。

「前に俺に言ったやんな、恋愛よりも店のこと考えろって。せやけどな、好きな人がおってその人の為に頑張ることって結局回り回って他の事にも繋がってくって思たんや」

彼も瞬き一つしなかった。

「その時に隣におってほしい。俺の作った飯一番に食うて笑顔になるあんたが見たい」

その続きを、今日の私は黙って聞いた。

「俺と結婚してください」

息をするのを忘れてしまうほど、彼の言葉は私の心に突き刺さった。

それと同時に気付いた。
私はずっと誰かにそう言われたかったんだって。

疑問系でもなくて、只々真っ直ぐに想いを伝えて欲しかったのだ。
私は自分が思っているよりもまだ幼くて、そして女の子だったのかもしれない。  

花束を握る治君の手に、自分の手をゆっくりと重ねる。
彼の手がぴくりと震えた。

「はい。喜んで………って苦しい!!」
「ほんま?!ほんまか?絶対嘘だって言わせへんで!」

勢いよく抱きつかれせっかくの花束は丸潰れだ。ついでに手土産の和菓子も反動で床へ落ちた。
こんな感動的なシーンにも関わらず花粉で涙と鼻水が出てくる。まだ今季分の薬は処方してもらっていないのだ。

「なんや、嬉し泣きか?」
「いや、花粉のせいなんですけど…」
「照れんでもええ」
「違いますけど」
「チューしてええ?」
「何故話が飛んだ」
「するで」
「どうぞ」

私は色々と難しく考え過ぎていたようだ。
何かと言い訳をして治君を避けていたけれど、今こんなにも満たされている。

「治君」
「なんや?」
「好き」
「ふっ、ふふ、ふへへ」
「笑い方やば」
「喧しい。嬉しいんやて」


もう一度キスをした。今度は私から。


◇ ◇ ◇


「はぁ!?なんで結婚してくれへんのや!」
「結婚なめんな。もう少し冷静に考えようよ」

花束をもらって数日後、うちに泊まりにきた治は机に婚姻届を広げた。
いや、結婚してくださいとは言われたがマジのプロポーズだとは思わなかった。
私を引き留めるための過剰演出でしょ?と言えば今まさに喧嘩開始のゴングが鳴り響いた。

「大真面目や!もうあとはあんたの名前書くだけや」
「その紙にどれだけの重みがあるか分かってる?というか付き合ってみて合わない場合もあるでしょう?治が私の事嫌いになる可能性だってある」
「あんたが思った事を悪びれもせず言う性格で、芯が強い頑固者で正論で論破してくるところも好きやけど文句あるか?」 
「うわっ心臓に刺さる」

私の事をよく知ってらっしゃる。
と、同時に愛されているなぁとふわふわ考えてしまう。でもこの場のノリで結婚は決めるものではない。

「もう結婚式の引き出物は米にしてもらえるよう北さんに頼んだのに」
「気がはや過ぎだってば」
「もしかして指輪か?婚約指輪渡さんかったのダメだった?」
「指輪は結婚指輪だけで充分です」
「もうこうなったら子供つくって既成事実作るしか……」
「それやったら股間を蹴り上げます」
「ぴえん」
「面白くない。古い。二点」
「はぁもう嫌や……俺がこんなに言うとるのに酷いわぁ」

盛大に床に倒れ込んだ治を見てどうしたものかと考える。
私とて、彼と結婚したくないわけではない。が、まだそのビジョンが見えないから不安なのだ。
彼との将来を真剣に考えるからこそ、私はひとつ提案をした。

「じゃあ同棲しようか」
「同棲…!?」
「お互い生活リズム違うし、そういうとこ慣れてかないと」
「なるほど」
「あと私はこれから経理関係の勉強する」
「なんで?」
「将来的に色んな所にお店出すなら、私が今の職場にずっといるわけには行かないでしょ?結婚するなら治の仕事を——」
「めっちゃ嬉しい!!」

起き上がって抱きついて来た彼を受け止め、よしよしと背中を撫でてやる。
犬なのか何なのか、首元に顔を沈められくすぐったい。

「これからが楽しみや」
「そうだね。まぁ大変なことも沢山あるだろうけど…」
「現実ばっかり突き付けんといて」
「ごめん、現実主義者で」
「別にそうゆうとこ嫌いやないし。それに可愛いところも知っとるよ」
「は?」

唇に柔らかな感触。
ちゅっ、というリップ音は私が女になる合図なのだと思う。
それくらい彼のキスはいつも優しくて私のお堅い部分を溶かしていくのだ。

「今日はめっちゃ優しくする」

頭を優しく撫でられ、頬が緩む。
将来の不安よりも今が幸せで、私は彼の胸元にもたれ掛かった。
見上げるように彼を見ると熱を帯びるような視線と絡まった。

「今日もでしょ?甘えさせてください」
「もちろん」


次は深い深いキスをして、私達は未来への一歩を踏み出した。