素晴らしい一日
動画サイトの検索スペースに名前を打ち込めば予測変換だけで彼のすごさが窺えた。
『イサギのダイレクトシュートによりバスタード・ミュンヘンが早くも追加点を獲得!』
『イサギの動きもよかったがヒオリのアシストも素晴らしかった!』
試しに『氷織羊 スーパープレー』というキーワードで上がってきた切り抜き動画を見たのだが素人目でその上手さは十分に分かった。フィールド上のプレイヤーの動きが頭に入っているだけでなく敵味方の次の動きを予測し未来を見据えたようなパスを出す。そもそもブンデスリーガの中でも一、二を争う強豪チームで試合に出られることすらすごいのだ。
そしてさらにネットで調べていけば彼の生い立ちまでも知ることができた。彼の父親は柔道の全日本銀メダリスト、そして母親は走り高跳び日本二位の選手。そんなアスリート一家の元に生まれ幼い頃からサッカーに打ち込んできたらしい。中高も部活ではなくクラブチームに所属するほどの実力で、現に高校時代に日本フットボール連盟からお声が掛り青い監獄≠ニいう場所でその技術を磨いていったのだとか。そして今やバスタード・ミュンヘンにてミッドフィルダーとして活躍している。そんなサッカーに対して情熱を持っているであろう人に対して私は……
——キミはサッカーに興味あらへんの?——
——ないですね——
知らなかったとはいえあまりにも失礼すぎる……しかもあの後の様子も今思えばちょっと怒ってたよね。
そもそもフットボールが熱いドイツにおいてサッカーアンチのような発言自体好まれないのだ。普段は気を付けているが久しぶりに話した日本人に対してテンションが上がってしまった結果である。
「はぁ……」
動画を流していたタブレットの電源を落としベッドの上で寝返りを打ち仰向けになる。
大和さんのお下がりでもらったベッドはセミダブルで一人で寝るには十分すぎるほどの広さだ。そこで大の字になって築五十年を超えるくすんだ天井を見上げた。
「……よしっ」
そして私はひとつあることを決断しスマートフォンを手に取った。
◇
私の自己満ではあるがもう一度氷織さんに会って先日のことを謝りたい。その一心で大和さんにお願いして店の手伝いの日を増やしてもらった。
「あーあ、またヒオリが店に来てくれないかしら」
あの日、鬼の形相で私に詰め寄ってきた彼女もそんなことをぼやいていた。今度はいつ来店してもいいようにロッカーに色紙を常備しておく徹底ぶり。彼女とはまた別の理由にはなるが私も、また来るといいねなんて言いながら窓の外を見ていた。
体力が持つ限りは毎日でも働きたかったが他の人のシフトを減らすわけにもいかないためそう多くも入れない。
「ナマエがビアホールに行きたいだなんて珍しいじゃない」
「偶には賑やかなところで飲みたいなって思って」
「いいわ、行きましょ!」
だから仕事終わりに同僚を誘って飲みに出掛けたりもした。でもこれはあまり意味のないことだったように思える。だって個室の予約すら怠らないような人がこんな大衆居酒屋に来るわけないから。来たとしてもクラブチームで店丸ごと貸し切りにするだろう。
——とまぁここ一ヵ月ほど店の手伝いをしたり外食に出たりしてまた会えないかと窺っていたが現実はそんなに甘くなかった。そもそも有名人が一般人の多くいる場所にふらりと現れる方がレアなのだ。じゃなきゃ私は年に一度のペースで有名人に会えていたことだろう。まぁ私が知っているかはおいておくが……
「忘れ物はないよね……じゃあ行くか」
そしてついに諦めモードに突入した私は久しぶりの休日を満喫していた。ここ最近は予定を詰めすぎて丸一日休みがなかったのだ。
朝六時に家を出て目的地を目指して電車に飛び乗る。そんな私のリュックの中には中古で買った一眼レフが入っていた。これはドイツに来てから買ったもので中古と言えども十万ほどしたのでその質は確かである。
元よりインドア派で日本にいた頃は休日は寝るかゲームをして過ごしていることが多かったがドイツの街並みや風景に惚れこみこのカメラを買ったのだ。特に勉強したわけではないので自分で好き勝手撮っているだけだがこれが案外楽しい。
今日は朝焼けを撮るために池がある自然公園まで足を延ばした。ドイツの日の出は日本よりもだいぶ遅く二月だとおおよそ朝七時半くらいだ。その公園の池はちょうど東側に位置しているため池の水と反射して美しい景色がみられることで有名だった。
「あら、あなたも朝日を見に来たの?」
太陽が昇らぬ今の気温は確実に氷点下であろう。しかし私のように朝日を見に来ている人がまばらにいた。皆言わずとも防寒対策ばっちりだ。現に私に声を掛けてきた初老の女性も顔半分が隠れるほどマフラーをぐるぐる巻きにしていた。
「はい、一度見てみたくて足を運びました。地元の方ですか?」
「ええそうよ。この子のお散歩がてらいつも朝日を見ているのよ」
足元へと視線を落とせばグレーの毛並みが美しく気品のある犬がいた。確かワイマラナーという犬種だったか。青の手編みのセーターを着せられたその犬は愛想よく尻尾を振っていた。
「そろそろかしら」
お喋りなマダムと懐っこい彼と戯れていれば東の空が色づき始めた。
私はリュックから取り出したカメラを手にシャッターを切っていく。凍った水面に反射して朝日は虹色に輝いて見えた。その光景に息を呑み結局最後の方は肉眼で一日の始まりを見つめていた。
「初めて見た景色はどうだったかしら?」
「今日は素晴らしい一日になりそうです」
「私もだわ」
その後、一言二言言葉を交わし思い出に彼の写真も撮らせてもらった。モデルさながらのカメラ目線を頂いてお礼を言って彼らと別れる。
「お〜中々いいじゃん」
そして公園のベンチに腰掛け撮った写真を確認し自画自賛。帰ったら家のパソコンに取り込んで風景写真の一部はSNSにアップしよう。こんな素人写真家のアカウントでもフォロワーは千人くらいいたりする。
「……はっくし!」
日が出てきたとはいえ気温は低く風も冷たい。写真を撮るために手袋は外していたから手先の感覚はほとんどなかった。
そろそろ帰ろうか……いや、せっかくならこのあたりのカフェで朝食を取ろう。温かいコーヒーを飲まないことには帰る前に凍え死んでしまうだろうから。
「あっ!」
カメラをリュックに仕舞いベンチから立ち上がる。その時、一際強い風が吹き抜けた。その拍子に被っていたニット帽がすっぽ抜け空へと舞い上がる。それは風のいたずらのまま流されて木の枝に引っかかってしまった。
「マジか……」
その一連の出来事に唖然とし口からは乾いた笑いが漏れる。急いで樹木へと近づいていけばニット帽は手が届くか届かないか枝に引っかかっていた。
うーん……私の身長があと二十センチもあれば悠々と取れただろうがそれはないものねだりという話。生憎周囲に踏み台になりそうなものもないし自力で頑張るしかない。
私はいちど樹木から距離を取り助走の幅を確保した。こういうのは勢いとタイミングが大事。ホップステップジャンプ的な感じでトントントーン!のタイミングで高くジャンプする。某ゲームバラエティ番組のようにマジックテープ付きの衣装は来ていないが張り付く勢いで木にしがみ付き帽子を取る。枝を折るわけにはいかないのであくまで幹の方を脚掛けにするイメージで。
「はっはっはぁっ……っい゛?!」
呼吸を整え駆け出したまではよかった。しかし歩幅が合っていなかったのか樹木を前にして足が詰まりおもいっきりおでこを樹木にぶつけた。その痛みに悶絶し思わずその場に座り込む。痛い、痛すぎる。そして恥ずかしすぎる。
「大丈夫ですか……?」
どうやら人に見られていたようだ。今すぐ穴を掘って私を埋めてほしいくらいである。顔すらも上げたくないが心配してくれた人に対してそれは失礼という話。だから私は赤くなった額を抑えながら涙に濡れた目をその人へと向けた。
「はい、大丈夫で……?!」
額の痛みすら忘れるほどに驚いてしまった。だって、なんと、まさか、声を掛けてきたのが氷織羊とは思わなかったから。
「あっやっぱりキミやった」
驚きのあまり声が出なくなった私とは裏腹に彼は平然と日本語で答えて見せた。私と同じように地面にしゃがみ、心配そうにこちらを覗き込む。
私も向こうが覚えていたとは思わずに本日二度目の驚きに見舞われた。
「あ、えっと……こんにちは」
「僕のコト覚えててくれたんやね」
「それはもちろん……」
黒いキャップと動きやすそうな上下黒のジャージ。その服装を見るにこの公園にはジョギングで立ち寄ったであろうことが窺えた。
「それにしてもすごい勢いでぶつかったなぁ頭打ったんとちゃう?」
「おでこをぶつけちゃったんですけど痛みも引いてきたので大丈夫です」
驚きのあまり痛覚がやられたと言った方が正しいのかもしれないけど。でも血も出てないし冷たくなった手で冷やしたおかげで熱も引いたように思える。
「ふっ……」
「ん?」
「いや、ちょっと」
痛みは引いても腫れが残ったら嫌だなぁと額を擦っていたところで氷織さんが口元を手で隠して顔を背けた。その肩は小刻みに震えている。これはたぶん笑われてますね。
「もしかして全部を見てましたか?」
「全部というか、助走付けてるとこから」
「それは全部ですね」
氷織さんは隠すことなく「かんにんな」と言いながらくすくすと笑っていた。私としても変に気を回されるよりはこの方がいっそのこと清々しくて楽だった。
「ウォールクラッシュだったら間違いなく高得点を取れてたと思うんですけどね」
「落ちたらアウトやろ。その前に自分がクラッシュしとったし」
「上手いこと言いますね」
「おおきに」
氷織さんは目元に溜まった涙を拭って立ち上がる。そして「立てそう?」と尋ねながら私に右手を差し出してくれた。有り難くその手を取って立ち上がる。
「ありがとうございます」
「で、なんで木にぶつかりに行ったん?」
「ぶつかりに行ったんじゃなくてあれを取ろうとしたんですよ」
私が枝に引っかかったニット帽を指させばようやくその存在に気づいたのか、氷織さんは納得したように頷いた。そして樹木へと近づいていき腕を伸ばせば枝を傷つけることなくニット帽は回収された。
「どうぞ」
「こんな簡単に……」
「意外と身長あるんよ。やから助走は必要なかったわ」
散々揶揄われてはいるが嫌な気がしないのは彼の言葉遣いからか、それともこの中世的な顔立ちのせいか。ともかく私は素直にお礼を言って飛ばされたニット帽を受け取った。
「はな次からは飛ばされんように気ぃつけや」
「あ……ちょっと待ってください!」
そしてこれで用は済んだとばかりに立ち去ろうとした彼を呼び止めた。
今この瞬間を逃したらおそらく二度と会えないであろう。おでこを思いっきり打ち付けてしまったがこのおかげで再び巡り会えたとなれば儲けものだ。
「ん?」
「あのっこの前は失礼なこと言ってしまってすみませんでした」
「失礼なこと…?」
「サッカーは興味ないって。だってあなた、バスタード・ミュンヘンの氷織選手ですよね?」
氷織さんは驚いた顔をしたものの、やはりなぜ謝られたのか分からないようだった。
私は緊張のあまり言葉だけが先走らないよう気を付けながら順を追って話そうと言葉を続けた。
「えっと……だってプロのサッカー選手相手に興味ないって言うのはその競技を馬鹿にされたと思われてしょうがないかなって」
しかし結局上手くまとめて話すことはできなかった。おかしいなぁこれでも仕事は接客業なんだけどな。ただ、まだ言わなければいけないことはある。
「スポーツ全般に詳しくなくて、だからお店に来た時あなたのこともあなたの友人のことも知らなかったんです。もっとなんか話せたらよかったんですけど、ごめんなさい」
このままだと終わりの見えない会話になりそうだったので区切りをつけてもう一度謝罪の言葉を口にした。しばしの沈黙——それを静かに破ったのは氷織さんの方だった。
「寧ろ知らないでいてくれてよかったわ」
いつの間にか俯いていた顔を上げれば氷織さんが穏やかな笑みも浮かべていた。そして遠くを見るように池の方へと顔を向ける。日はまた少し高くなっていて凍った水面に光を注いでいた。
「そうなんですか?」
「有名人扱いされんのは未だに慣れへんしオフの時くらいゆっくりしたいやん」
言われてみればその感覚もわからなくはない。だって氷織さんは私と同じ年齢で、住む世界は違うがフィールド上以外では年相応に遊んだりしているのかもしれない。
「それにサッカー興味なくてええと思う。他にも世の中には楽しいモンたくさんあるし自分の興味あることに時間割いた方がええよ」
そういった氷織さんの横顔はどことなく淋しそうだった。私のことも、自分のことすらも俯瞰してみているようなそんな口ぶり。その不安定な様子を目にし、私は慌てて会話を続けた。
「でも最近サッカーの切り抜き動画を見て、面白そうだなって思ったんです。こうゴールに向かってヒュンッてボールが運ばれていくのとかすごいなって…!」
どうしよう、私ってこんなに日本語ヘタクソだったかな。日本語を一日で一度も発しない日もあるがそれでも身体に染みついている母国語である。でも今思えば学生時代、現国より英語の方がテストの点数高かったしな。これはもはや私の地頭の問題であろう。
「ふっ…あははっありがとう」
氷織さんが今日一の笑顔を見せる。意外と笑い上戸なのだろうか。しかし気を悪くさせたわけではなさそうだったのでその点は安心した。
「今度は切り抜きじゃなくてちゃんと試合見ますね」
「ほんまに?」
「……サッカーの試合って何時間やるんですか?」
「キミ中々の大物やね」
すでに驚きも呆れもしなくなった氷織さんも中々に大物だと思う。さすがにサッカーの基本的なルールくらいは勉強しておこう。
それにしても随分と長いこと氷織さんを呼び止めてしまった。そろそろ別れた方がいいかもしれない。
「キミってあそこの店で働いとるん?」
しかし私のそんな気持ちを余所に次に質問をしてきたのは氷織さんの方だった。
私は首を横に振りありのままを伝える。
「いえ、あの店のオーナーが私の伯父で偶に手伝いで顔出してるんです」
「ならキミもミョウジさん?」
「はい、ミョウジナマエって言います」
私だけが氷織さんのことを知っているのも相手からしたら気持ちがわるいだろう。だから自分の自己紹介も軽くしておいた。
氷織さんは納得したように頷いて「そろそろ行くわ」と公園の小道に出てジョギングを再開させた。その後姿を手を振りながら見送る。
ふと池の方も見れば今も変わらずキラキラと光り輝いていた。
時刻はまだ朝の八時過ぎ。素晴らしい一日の幕開けである。
——そしてその数日後、大和さんの店に私宛の手紙が届いた。