群青色に溶ける君

立海大付属——それは中学テニス界においての強さの代名詞である。勝ち続けることが宿命であり、全国から王座を狙われながらそれを守り通している。
しかし15年連続関東大会優勝の記録を、今年は青春学園の勝利にて途絶えさせてしまった。だが、まだ全国三連覇という夢は消えていない。部長である幸村精市が戻ってきた今、立海に“敗北”という文字はない。


その全国大会に向けて部員たちは日々練習に励んでいる。私もマネージャーとしてテニスコートと部室を行き来していた。今までの仕事はもちろん、データ収集や整理も少しだけだが最近では任されている。こういった類いは柳君の仕事なのだが、彼も自分の練習に時間を割いているため微力ながら私が協力を買って出たのだ。

夕日が差し込む部室には、部活時間が終わったのにも関わらず、テニスコートからボールを打つ音がいくつも聞こえてくる。その音に耳を傾けながら私はノートにペンを走らせる。レギュラー軍の今後の課題やそれに対する練習法など箇条書きにして書き出していく。これがそのまま練習メニューになるわけではないが役には立っているらしい。みんなが頑張っているのだから全国三連覇のために私だって少しでも力になりたい。

「探したよ。ここにいたんだね」

扉がゆっくりと開き、私だけしかいなかった部室に優しい声が響く。私はちょうど書き終えたノートを閉じ、扉の方を見た。オレンジ色の夕日を受けてほほ笑む彼の顔は、本当に綺麗で女の私ですら羨ましいと思うほどだ。

「幸村部長。何かあったの?」

彼はゆっくりと椅子に座っていた私の後ろに回りこみ、包み込むように抱きしめる。

「ちょっと、ここ部室だから…!」
「誰もいないからいいでしょ?それに二人の時は名前で呼んでって言ったよね」

部活中、私たちは名前で呼び合わないようにしている。それは以前、真田君に部活中の不純異性行為はやめてくれと言われたからである。たかが名前を呼ぶだけで…とも思ったが、真田君が集中しきれず練習に支障ができてしまったため、私たちはそのようなルールを作った。

彼に耳元で拗ねたように囁かれる。くすぐったいのと恥ずかしいのとで体温がどんどん上がっていくのが自分でもわかった。やっと退院できたと思ったらすぐに全国大会への練習で、しばらくは二人きりで過ごす時間はなくなっていたのだから無理もないかもしれない。そしてこれは彼なりのヤキモチだ。

「赤也たちのことは名前で呼ぶのに」
「……精市」
「もっと」
「精市」
「もっと」
「……好き」

そういった瞬間、腕にこもる力が強くなる。

「く、苦しいんだけど……」
「もう我慢できない。ねぇ、キスしていい?」
「ダメ!みんな来ちゃうから…」
「付き合ってることはみんな知ってるから問題ないよ」

彼の腕を振りほどくように動くも、到底力ではかなうはずがなく、そのまま唇を寄せられる。そして……

「みんなでラーメン食いに行きましょうよぉ!ジャッカル先輩のおごりで……」

唇が触れる寸前、赤也の手により部室の扉が勢いよく開けられた。私たちの様子を見て赤面した後、一瞬にして血の気が引いたように真っ青になった。
精市は私を解放し、ゆっくりと立ち上がる。

「赤也、部室に入るときはノックしろっていつも言ってるよね?」
「ゆ、ゆきむらぶちょ……」
「何やってんだよ。早く入れよ」
「後ろがつまってるんだが」

赤也が一歩下がれば後ろに立っているであろう、ブン太とジャッカルのブーイングが飛んできていた。しかし赤也はそのブーイングを押しのけ外へと駆け出した。

「すんませんでしたぁ!!」
「待ちなよ、赤也」

そして颯爽と赤也を追いかけ精市も部室から出て行ってしまった。今の一部始終を見ていたブン太とジャッカルが部室へと入ってきて私の顔を見る。ブン太はいつものように風船ガムを膨らましながら全てを理解したようにニヤッとした。

「なるほどねぇ。幸村君の彼女も大変だぜぃ」
「部室ではほどほどにしとけよ」
「ごめん…。えっと、私、柳君のとこ行ってくる!」

二人から軽い冷やかしを受け、先ほどのことを思い出し赤面する。書き終えたばかりのノートを持ち部室を飛び出した。後ろからは彼らの笑い声が聞こえてくる。だから部室ではやめてって言ったのに…。

しばらく走っていくとテニスコート近くの水道に人影が見えた。水道台の上に置かれたラケットからすぐに私の探していた人物だということが分かる。

「や、柳君!」

部室から全速力で走ってきたため、息が切れ裏返った声が出てしまった。そんな私に焦らなくてもいいと言いつつ手を顎に当て、探るように私を見る。

「今の君の様子。そして先ほど赤也が精市に追いかけられているのを見た。またここ最近の精市の様子からして……。ヤキモチでも焼かれたのか?」
「え!?」
「やはりな」

図星をつかれ、息を整える間もなくまた声が裏返る。いつも目を細めており、感情の起伏が分かりにくい彼であるが、この状況を少し面白く思っているのはすぐに分かった。私がムッとして睨みつければ、すまないと言い謝ってくれた。でも内心ではきっとまだこの状況を楽しんでいるのだろう。
私は深呼吸をし、本来の目的を思い出し手に持っていたノートを柳君に差し出す。

「柳君、これ今日の分」
「あぁ。いつもありがとう」

彼はそのノートを受け取りパラパラとめくり、中身を一通り確認した。

「うん。今日もよくまとまっているな。メニューの参考にさせてもらう」
「よかった」
「……精市の気持ちも分からんでもないな」
「え?」

柳君はノートを閉じ、少し困ったような表情で私を見る。

「いつもの仕事に加え、俺の代わりにデータの整理もやってくれている。精市と一緒に過ごす時間が少なくなっているのではないか?」

さすがは立海の参謀だ。何もかも、彼の分析能力にかかれば私たちのことはお見通しらしい。

「まぁね…」
「精市は気付いていないが、最近の練習も少し苛ついているようだ。他の部員のためにも…な?」

柳君に微笑まれ私の頬も緩む。自分のことでいっぱいいっぱいになってしまって、今一番支えないといけない存在を忘れていた。
私が感傷に浸っていればこちらに走ってくる人影が見えた。足音で気が付いたのか、柳君も自分の後ろを振り返る。しかしそれと同時に、その人物が柳君へとしがみついた。

「柳せんぱぁーいっ!」
「ぐっ…」

柳君は苦しそうな声とともに少し体制を崩しつつもその場になんとか留まる。そして赤也は私の顔を見るなり柳君の後ろに隠れる。ちらりと見えた彼の瞳は怯えた色をしていた。どうやらかなり精市に絞られたらしい。

「赤也、大丈夫?」
「全然大丈夫じゃないっすよ!先輩が部長を構ってあげないせいで、俺にとばっちりがくるんすからぁ!」

もとはと言えば赤也がノックをせずに部室に入ってきたからだ。でも精市の八つ当たりも少しはあったのではないかと思うと彼のことが可哀そうに思えてくる。
赤也にしがみつかれたままの柳君は、彼の頭をポンと撫でた。まるで子供をあやすお父さんのようだ。

「このままでは後輩にも影響が出る。早めの対処を頼んだぞ」
「柳先輩!今日は俺と一緒に帰りましょうよぉ!」

精市に絞られた分、柳君の優しさが身に染みるらしい。ここまでいくと子供というより子犬だ。特に最近では二人でダブルスを練習している分、赤也は柳君にとても懐いている。

「そうだね」
「じゃあ俺たちは先に戻る。行くぞ、赤也」
「はい!柳先輩!」

仲が良さそうに去っていく二人の背中を見ながら、その姿に自分と精市の姿を重ねる。その光景を見ていると非常に彼が恋しくなり、私は彼を探すことにした。


大方、彼が行きそうな場所の検討はついている。特に部活終わりとなればあそこしかない。彼が大切に育てている植物がある屋上庭園だ。

日がさらに傾き始め、橙と青の絵の具を水で混ぜたような色が空の境目をぼやかしている。
その色の中で、白や黄色の花が風になびいて揺れていた。しかしその花々より先に一人の人物に目を奪われる。こちらに背中を向けていてもすぐに誰かわかる濃い紫色の髪。
今度は、私が包み込むように彼を抱きしめた。

「見つけた」
「君か…」
「さっきはごめん。私も、ずっとこうしたかった」
「うん」
「拗ねてる?」
「うん」
「精市…きゃっ……」

私が名前を呼ぶとくるっと後ろを振り返る。彼に抱き着いていた私は体制を崩すもすぐに力強い手に引っ張られ彼の腕の中へと囚われる。きれいな顔してるのに、こういう些細なところで彼が男であると改めて実感する。

「…ヤキモチ焼いてた」
「うん」
「ブン太とか赤也は呼び捨てなのに俺のことは名前で呼んでくれないし」
「うん」
「最近ふたりで過ごす時間もないし」
「うん」
「キスだってさせてくれないし」
「………精市」

彼の名前を呼ぶとともに、私は背伸びをして彼の唇へと口づけをする。少しして唇を離すと、彼は目を見開き、頬を赤く染めていた。さっき私を恥ずかしがらせたお返しだ。
でもすぐにクスッと笑って余裕な笑みにかわる。

「君からしてくれたのは初めてだね」
「もっと照れてくれても良かったのに……」
「駄目だよ。俺は君の照れている顔が好きなんだから」

今度は精市から唇が寄せられる。私がした時より深く深く唇が重ねられる。息苦しくなり唇を離すと互いの唇が濡れていた。

風が吹き、花壇の花の香りが私たちを包み込む。夏と言えども夕暮れ時の風は汗を冷やし、体を身震いさせる。

「風邪ひいちゃうね。そろそろ帰ろうか」
「うん」

そのまま私の手をぎゅっと握りしめ、屋上庭園を後にする。
風になびく彼の髪は、すでに日が沈んでしまった群青色の空に馴染むように溶け込む。
彼を見失わないように、私は握られた手に力を込めた——


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