Strawberry×Kiss

一つ年上のその人と初めて会話をしたのは私が生徒会に入ったとき。
やる気がある同学年たちとは違い、担任に言われて立候補した私はその雰囲気に気後れしていた。でもそんな時、彼は私に優しく声を掛けてくれた。
「分からないことがあったら何でも聞いてくれ」と。

それから彼に褒められたくて、力になりたくて、生徒会の仕事を必死に頑張った。思えばそれからずっと彼の事を見続けていた。
だから新役員を決めるとき、書記に立候補した。理由は単純。だって現役職の彼と話す機会が増えると思ったから。





「柳さん、おはようございます!」
「あぁ、おはよう」

テニス部に所属している柳さんに朝会う確率は非常に低い。サラサラの髪に、切れ長の目、丁寧な言葉遣い、そして笑顔であいさつをしてくれた彼に私のテンションは朝から上がる。

「今日の朝練はお休みですか?」
「あぁ。昨日の雨でまだぬかるんでいたから諦めたよ」

ちょっと困ったように話す柳さんがとても愛おしくなる。
お堅くて近寄りがたいと感じる人もいるみたいだけれど、不意に見せる色々な表情が私は大好きだ。

「柳先輩!おはようございまぁす!」

このままもう少し話が出来ると思っていたのに、私たちの間に割って入ってきた人物がひとり。
強めのワックスの匂いが鼻につくこの男の名は、同じクラスの切原赤也。朝から柳さんに会えたと思ったのに、こいつのせいで台無しだ。

「おはよう。朝から元気だな、赤也」
「今日は髪型が上手く決まったっすからね!あ、アンタもおはよ!」
「おはよう切原…」
「なんか元気ないんじゃねぇの?」

あんたが来たからだよ!という言葉をその場でなんとか呑み込んだ。
同じクラスの切原赤也は柳さんと同じく男子テニス部に所属しており、また同じくレギュラーである。彼のテニスを私は見たことがないのだけれど2年生エースとまで呼ばれているのだからかなりの腕なのだろう。そしてこれは最近気づいたのだが、切原はかなり柳さんに懐いている。私たちが生徒会室で仕事をしていれば、それが終わるのを待っていたり(大抵は真田副部長に怒られて先に部活に連れ戻されるのだが)、朝練後に一緒に校舎の方へ来るのも何度か見たことがある。

切原に悪気がないのは分かっている。しかし柳さんとは生徒会でしか接点がない私にとって、今日偶然会えた貴重な時間を潰してくる彼は邪魔者でしかない。

「そんなことないよ。切原にしては朝来るの早すぎじゃない?」
「はぁ?!俺はいつもこのくらいの時間には学校に来てるっつーの!」
「赤也が小テストの勉強をしていない確率90%」
「うげっ!なんで分かったんすかぁ!」

柳さんの発言により、さっきまではしゃいでいた切原が一瞬にして青ざめる。
話題に上がったのは2限目にある英語の小テストの事だ。英語の先生は厳しいことで有名で、赤点の場合は放課後に補習もやらされる。だからみんな一週間ほど前から必死に勉強するのだがこの表情を見る限りやってきてないようだ。

「赤点を取ったら一週間放課後は補習だよ」
「苦手な英語だからマジでヤバイんだって!」
「弦一郎にも叱られるだろうな」
「副部長に殴られたくねぇっすよ!そういやアンタ英語得意じゃなかった?」

切原が私の方に振り返り、一歩近づいてくる。
確かに英語の成績は悪くはない。でも切原にそんな話をした記憶はないのだけれど…。

「まあまあ得意だけど……」
「頼む!俺を赤点から救ってくれ!」

彼は私の両手をぎゅっと握り、涙目になりながら頼み込んでくる。ちょっと柳さんの前で必要に近寄ってこないでよ!と叫びそうになった時、柳さんが先に口を開いた。

「悪いが赤也が一週間も部活に出られなくなるのは避けたい。できる限りでいいから力になってくれないか?」
「分かりました!」

本当ならこんな約束なんてしたくなかったのに、柳さんの頼みなら断るわけにはいかない。私が勢いよく返事をしたことで、急に明るくなる切原。いやいや喜んでいる場合じゃないでしょ。

「じゃあ早く行こうぜ!」
「え!?ちょっと…」

握られていた手がそのまま引っ張られ、彼は急ぎ足で教室に向かう。階段を上る際にチラッと後ろを振り返れば、柳さんが笑いながら手を振っていた。


教室に来るもまだ誰もいなく、締め切られていた教室はどこか埃っぽい。彼は何事もなかったかのように私から手を離し、窓際にある私の前の席へと堂々と腰を下ろした。いや、そこは切原の席ではないのだけれど。

「よし!じゃあさっそくやろーぜ!」

彼の後に続くように自分の席へと向かい、窓を開けてから席に座る。

「そこ切原の席じゃないでしょ」
「細かいこと言うなって!」

彼は椅子の向きを変え、私の机の上に英語の教科書を広げる。本人が頼んできただけあってやる気はあるらしい。彼の気持ちに応えるのももちろんだが、あの柳さんにも頼まれたのだから良い点数を取ってもらわないと困る。
しかし英語の授業は2限目だ。今の時間と1限目後の休み時間を合わせても、まともにやっていたのでは間に合わない。
私は自分の鞄からノートに挟んであったプリントを数枚取り出す。

「普通にやっても間に合わないよ。このプリント全部覚えて」
「これってもしかしてアンタの手作りかよ!」

そう、それは私が今回の小テスト対策用に作ったプリントだ。今回のテスト範囲で重要となる慣用句と引っ掛かりやすい文法まとめたもの。大した物ではないが、テスト前の見直しにはちょうどいいのだ。

「今回はライティングだけだから、最悪このプリントを丸暗記すれば赤点は免れるはず」
「えーっと…ごちゃごちゃして全部同じように見えるんすけど……」
「ひとつずつ解説していくから頑張ろう」

プリントを見るなり弱音を吐いたものの、いざ私が解説を始めればメモを取りながら理解しようとしていた。そんな彼を見ていたらこっちが手を抜くわけにもいかなくなり、教室に他の人が入ってきたのも忘れ勉強に集中していた。

「おぉ!なんとなく分かった気がする」
「littleの使い方は色々なパターンで出してくると思うから気を付けてね」
「あの…そろそろどいてもらってもいいかな」
「悪りぃ!」

予鈴ギリギリまで勉強していたら、私の前の席の男子生徒が困ったように立っていた。切原はすぐに荷物をまとめて席を立つ。あとは切原の記憶力にかけるしかない。

「ありがとな!あとこのプリント本当にもらっていいのか?」
「いいよ。その代わり赤点は取らないでね」
「任せとけって!」

何が任せとけなのか、意味が分からず笑ってしまう。彼と同じクラスになって2か月ほどしか経っていないのだが、今日が一番彼と話せた気がする。





「手ごたえどうだった?」

2限目の小テストが終わり、自分の机の上でぐったりとしていた切原に声を掛ける。テスト内容からして割とヤマは当たっていたと思うのだけれど、彼の様子を見ていると少し心配になる。

「あ……」
「あ?」
「ある!手ごたえめっちゃある!!」

いきなり顔を上げた彼にびっくりする。かなり疲れているようだったが、目は眩しいくらい輝いていた。

「今までで一番詰め込んだ勉強しかしてないのにめっちゃ自信ある!」
「それは良かったよ」
「アンタのおかげだよ!本当にありがとな!」

正直柳さんのために教えたのだけれど、こんなに感謝されれば悪い気はしない。
小テストは、昼休みに学習委員を介して返却される。結果はまだ分からないとはいえ、切原がここまで言うならひとまずは安心だ。


そして昼休み、今日はお弁当を持っていないから学食に行こうと友達と話していたら学習委員がプリントを持って教室に入ってきた。それはもちろん2限目の小テストだ。みんなお昼休みの気分はどこへやら、順番にプリントを取りに行く。返却された者たちを見てみると、ほっと胸をなでおろす者もいれば、膝から崩れ落ちるものもいた。

私はもちろん赤点にはならなかった。そして私の次にプリントを受け取った切原の様子を見てみると、プリントを見たまま固まっている。もしかしたら赤点だったのだろうか。あれだけ自信があると言っていた手前、赤点であればさぞかしショックであろう。

頭の中で彼への励ましの言葉をいくつか考えていれば、ちょうどプリントから顔を上げた切原と目が合った。そして私の心の準備もままならないまま、勢いよくこちらに向かってきた。

「切原はよく頑張ったよ!たとえ赤点でも……」
「見ろよこれ!今までで最高得点だ!」

目の前にプリントを突き出され、一瞬焦点が合わず、瞬きを繰り返す。点数は56点、その点数の横には小さく「切原にしてはよく頑張った!」と先生からの激励の言葉が書かれていた。点数としては高くないにしろ、あの短時間で苦手教科に対しここまでやれたのは確かにすごい。

「やったね!やればできるじゃん!」
「アンタのおかげだって!そうだ、学食奢ってやるよ!」
「いや、それはさすがに…」
「こいつ、今日俺と昼めし食うから借りてくな!」

そばで私を待ってくれていた友達にそう言い残し、返事も聞かずにそのまま教室から連れ出された。
そういえば、今日はやたら切原に手を握られる。こいつにデリカシーというものは備わっていないのだろうか。でも不思議とこれが柳さんだったらいいのに、という気持ちにはならなかった。なんか小さい弟に引っ張られているような感じ?まぁ、私に兄弟はいないからよく分からないけど。

食堂に着けば、すでにピークは越えたのか割と空いていた。

「俺はラーメンにしよっかなぁ〜アンタはどうする?」
「本当にいいの?」
「おう!好きなの頼めよ!」
「ありがとう。じゃあナポリタンにする」

彼に食券を買ってもらい、ナポリタンが乗ったトレーを受け取り向かい合わせに席に着いた。

「ラーメン大盛なんだね」
「大盛じゃねぇと部活までもたねぇもん。っつーかオムライスにしなかったんだな」
「え?」
「いやっ、あの、この前のアンタの弁当オムライスだったから…」
「ちょっと変なとこ見ないでよ!」
「ごめん…」

私はお弁当の場合は毎回自分で作ってきている。作ると言っても大抵は夕飯の残りを詰めているのだが、どうしてもお弁当が必要で作らなければならない場合はオムライスを作るのだ。だって楽だし美味しいし…でもその場合は可愛げのないタッパーに詰め込んでくるのだから仲のいい子を除いては見られたくはないものだった。

「今日ナポリタンにしたのはこれが食べたかったから」

私はトレーに乗ったナポリタンとは別のお皿に乗っている苺を指さす。ナポリタンは女子生徒が多く注文するだけあって、季節の果物をセットでつけてくれるのだ。6月にもなった今の季節に苺が付くなんて思ってもみなかった私はすぐにそれを注文したのだ。

「苺好きなのか?」
「うん。でも季節的に、もうこれが最後になるかも」
「ふーん」
「赤也、テストはどうだったんだ?」
「あ!柳先輩!」

二人で食事を取っていれば、食べ終えたトレーを持った柳さんに声を掛けられた。一日に二回も、偶然で彼に会えるなんて今日はなんてついているのだろうか。邪魔者だと思っていた切原が恋のキューピッドじゃないかと思えてくるほどだ。

「赤点にならなかったっす!しかも今までで最高得点とれました!全部こいつのおかげっすよ」
「それは良かった。赤也の面倒を見てくれてありがとう。…ん?」

柳さんにも感謝の言葉を述べられたところで、不意に彼の手が私の顔に伸びてくる。そして唇の端を、その綺麗な細い指で撫で、私の顔を見て困ったように笑う。

「ケチャップが付いていたぞ」
「え?!あ、すみません!」

私はすぐにナプキンで口を拭く。恥ずかしさと、嬉しさと、気持ちがごちゃごちゃになり一気に顔が熱くなる。まさか柳さんにこんなことされるなんて思いもよらなかった。
大人な雰囲気の柳さんに子供っぽい姿なんか見せたくなかったのに。でも、ちょっとだけラッキーと思ってしまう自分もいる。

ガンッ——

不意に鈍い音が聞こえ、目の前を見てみると切原が飲み終えたコップを思いっきりトレーに叩きつけていた。そしてすごく不機嫌そうに私たちを睨んでいるではないか。
私の阿保面に怒っているのか、それとも切原以上に柳さんと親しく喋ったことが原因かは分からないが、そうとう苛ついているのは分かった。

「切原どうしたの?」
「別に!俺もう食い終えたから行くわ」

いつの間にかに完食したトレーを持ってそのまま席を立ってしまった。状況がつかめず唖然としていた私とは裏腹に、柳さんはその綺麗な唇に弧を描いて笑っていた。

「少しやりすぎてしまったな」
「どういう意味ですか?」
「まだ君には教えられない。では俺もそろそろ行くとしよう」

一人取り残された私には訳が分からずに頭にクエスチョンマークが浮かんだまま。

その日の苺はやけに酸っぱく感じた。





「こっちこっち!」

渋滞のために少し遅れてきた私に、友人は自分の場所を示そうと手を振ってくれていた。保冷剤が入ったバックを握りしめて彼女のもとへと向かう。

今日は男子テニス部の神奈川県大会。テニス強豪校として有名な立海の応援には例え県大会であっても学校を上げて応援に行く。人をかき分けていけばちょうどD2の試合が始まろうとしていた。試合に出る柳さんと切原がコートに入っている。

「柳さんの試合に間に合ってよかったね」
「本当だよ〜。何とか間に合った」

柳さんがダブルスとは珍しい。そのパートナーが切原だったのもまた意外であった。
でもテニス素人の私でも、その試合を見ていて分かったことがある。二人の息がとても合っているのだ。切原が前に出て攻撃してもそれを上手く柳さんがカバーしている。冷静な柳さんがいてこそだとは思うが、そこにいる切原はいつもと違い真剣に、そして楽しそうにテニスをしていた。

「切原かっこいいね」

気付けばそんな言葉がこぼれ落ちた。
素直にそう思った。教室でも、食堂でも、一度も見たことがない彼の表情。目が離せなくなる。

「そこは柳さんじゃないんだ?」
「え?」

思わずつぶやいたその言葉を聞き洩らさずにいた友達が不思議そうに私を見る。
彼女は私が柳さんを好きなことを知っている。私だって今日は柳さん目当てに応援に来たのだから、今の自分の発言を不思議に思う。

「柳さんはもちろんかっこいいんだけど、切原のテニス初めて見たからさ」
「ふーん」

「ゲームセットウォンバイ 柳・切原ペア」

私たちがそんな話をしていれば審判が立海の勝利を告げる。そしてこの試合で立海の勝利が決まったのか、テニスコートから切り上げてきたレギュラー軍に女の子たちが駆け寄っていく。レギュラー軍は柳さんも含め、かなり人気でファンも多い。彼女だって今日は丸井先輩目当てに差し入れを持って来ているのだ。私も柳さんに渡そうと持ってきたバックを見る。その中には保冷材によって冷やされたスポーツドリンクが入っている。

「ねぇ、ああゆうの見てヤキモチとか焼かないの?」

彼女は女の子に囲まれている柳さんを指さした。彼は戸惑いながらもその差し入れに丁寧にお礼を言いつつ受け取っている。

「さすがは柳さんだなぁって思うけど」
「それってさ、“好き”ってことじゃなくて“憧れ”なんじゃないの?」

彼女の言葉が心に突き刺さる。否定をしようにもそれができなかった。だって“憧れ”という言葉がぴったりと当てはまったように思えたから。

「あ、ブン太先輩も出てきた!私いってくるね」

彼女は丸井先輩を見つけるなり、私の事などほっぽり出して行ってしまった。

柳さんへの気持ちは“憧れ”なのだろうか——

彼を見つめていた視線をずらしていけば片付けをしている切原が目に入った。彼も差し入れをもらっていたが、他のレギュラーの人たちのオマケのような渡され方をしている。あんなすごい先輩方がいたのではそれくらいが当然なのだろう。

私も選手たちがいるところまで行って、バックの中からスポーツドリンクを取り出す。保冷剤をたくさん入れてきただけあって、手がかじかむくらい冷えていたそれを、目の前にいた人物の首へと押し当てた。

「冷てぇ!」
「切原にあげる」

後ろを振り返り、目が合った切原に改めてスポーツドリンクを差し出す。首筋を抑えている切原は、その冷たさになのかひどく驚いた顔をしていた。

「俺に…?」
「うん。試合お疲れ様」
「柳先輩にじゃないのかよ」

「そんなの私だってそう思うよ。でも今日は柳さんよりあんたの方がかっこよく見えたんだよ」って、当然そんなこと言えるはずもなく中々受け取らなかった切原にスポーツドリンクを押し付ける。

「柳さんは差し入れいっぱいもらってるけど、切原はあんまりもらえてなくて可哀そうだから」

ぶっきらぼうにもそんなことしか言えなかった。
でも、私が何気にひどいことを言ったにも関わらず切原は嬉しそうにそれ受け取り、さっそく開けてドリンクを飲んでいる。

「めっちゃ冷えててうめぇ!ありがとな!」

はにかんだ彼の子犬のような笑顔に胸がきゅっと苦しくなった。
なんだこれ。今まで柳さんに微笑まれて嬉しくなったことはあるけれど、こんな気持ちになったことはなかったぞ。

「そうだ!お礼にこれやるよ!」

彼はテニスバックのポケットから、両端が捻じられた包み紙に包装されたキャンディーをひとつ取り出した。ピンク色の包み紙を見る限り、きっとそれはイチゴ味なのだろう。

「さっき丸井先輩にもらったんだけど、アンタこの味好きだろ?」

差し出されたキャンディーを受け取る。この前の食堂の時の話、覚えてたんだ。

「赤也!真田が集合だってよ」
「今行きますよ!ジャッカル先輩!」

切原はテニスバックを肩に掛けなおし、先輩のもとへと走り出す。

「スポドリ、マジでありがとな!」

彼が去り際に言ったその言葉が再度私の胸を締め付ける。
今までになかったこの気持ち。
きっとこれが“好き”と“憧れ”の違いなのだろうか。

私はもらったキャンディーを、ポケットにしまった。





それからというもの、切原がやけに目に付く。
今までなら朝に昇降口で会いたいと思っていたのは柳さんなのに、彼の事を探してしまう。もちろんクラスに行けば自然と顔を合わせるのだけれど、それでも朝一番に顔が見たい。



「これが歴代の書記に任されているノートなのだが……って聞いているのか?」

放課後になってもそんなことばかり考えていたためか、柳さんに注意されてしまった。
今日は役職ごとに、先輩方から引き継ぎが行われる大切な日。二人きりの生徒会資料室で並んで座り、ノートを見せてもらっていたのに上の空。いつもならやる気に満ち溢れて、こちらから質問してしまうくらいなのに、そんな気持ちはどこかへ飛んで行ってしまっていた。

「すみません…」
「心ここにあらず、といったようだが」

怒るというよりは心配そうに私を見ていた。
そういえば、私が前にプリントの内容を間違えて印刷をしてしまった時も怒らずに心配してくれたんだっけ。

「ちょっと悩み事がありまして…」
「そうなのか。そういえば俺の部活の後輩も悩みがあると言っていたな」
「え?」

私は驚いて柳さんを見る。彼は顎に手を当てて遠くを見るようにゆっくりと話し出す。

「そいつには好きな人がいるのだが、その彼女は別の男と非常に仲がいいらしい。そこで自分に気を向かせるためにはどうしたらいいのかと尋ねられた」

鼓動が早くなり、スカートをぎゅっと握れば、ポケットに入っている固いものが手に触れた。

「だから俺は勉強を教えてもらい、そのお礼に食事でも誘えとアドバイスをした」

ポケットの中から出てきたそれは、あの日もらったイチゴ味のキャンディー。

「それで仲が良くなったのかは分からんが、先日の試合で差し入れをもらえたのだと非常に喜んでいたよ」

勿体なくて食べられなかったそれが、私の手の中で大切に握られる。

「告白したいから相手の気持ちを確かめてくれと言われたのだが、俺はどうすればいいのだろうか」
「柳さん!私っ……」

キャンディーを握りしめたまま立ち上がる。
なんて言葉を続けたらいいのだろう。頭の中ぐちゃぐちゃで、理解も追いついていない。
でもひとつだけ、はっきりしていることがある。

それは私が切原の事を好きだってこと。

「仕事の引継ぎは明日でいい。先に俺の後輩をなんとかしてくれないか?」
「はい!すみません!」

私は扉の方へと駆け出した。ドアに手を掛け、資料室から飛び出そうとした時、柳さんがポツリと呟いた。

「丸井が好きなのはオレンジ味のキャンディーで、イチゴ味は食べないぞ」

その言葉を確信にして、私は走り出す。



放課後にいる場所と言えばテニスコート。そこへと向かう途中、外周を走る彼の姿を見つけた。練習前のウォーミングアップなのだろう。

「切原っ!」

部活中にも関わらず、気付けば彼の名前を呼んでいた。

「え?今日は柳先輩と一緒に生徒会なんじゃ……」
「えっと……」

気持ちは確かなのに、言葉が見つからない。
ずっと握りしめていたキャンディーは手の熱で溶けてしまうのではないくらい、私の体温は上昇していた。
私が中々言い出せずにいたら、切原の後ろから怒声が聞こえてきた。

「やべぇ、真田副部長だ!逃げるぞ!」
「え?」

いつの日かの朝のように手を握られて二人で走り出す。
あの時は手なんか握られてもなんとも思わなかったのに、今日はそれがとても嬉しく感じる。
そのまま校舎裏の茂みの影に飛び込んで、身をかがめて息を殺すも追ってくる者はいなかった。

「巻いたか?」
「部活中にごめん」
「別に構わねぇけど…あ、手握ったままだった!」

離されそうになった手を、そうさせないようにしっかりと握る。上手く彼の顔を見ることはできなかったが、息を呑むのはわかった。
深く息を吸い、もう片方の手に握られたキャンディーを見て勇気をもらう。

「私ね、好きな人がいるんだ」

その言葉に反応して、彼の手に力がこもる。

「今まで好きだった人は“憧れ”の好きだったんだけど、本当に好きな人を最近見つけることができた」
「そいつってどんな奴?」
「英語が苦手で、子供っぽくて、でもテニスの事になるとすごく一生懸命になれる人」

きっと私の気持ちの半分も伝わってない。でも今言わなきゃダメなんだ。

「私、切原のことがす…」
「俺、アンタの事が好きだから!!」

勇気を振り絞って言った一番大切な部分が彼の大声によってかき消された。
びっくりして彼を見れば、切原も私と同じくらいびっくりした顔をしていた。

「え?」
「いや、だってこういうのって男から言うもんだろ!でもアンタが先に言おうとするし……」

両想いだったことの喜びよりも、彼の焦り方に気持ちが持ってかれる。

「言っとくけど俺はずーっとアンタの事が好きだったんだからな!アンタが美味そうに飯食う姿も、英語の発音がめちゃくちゃキレイなところも、笑うと超かわいいところも、全部知ってて好きになったんだからな!」

こんなに褒められているのに、照れより笑いが先に込み上げてくるのはなぜだろう。

「人が真剣に言ってんのに何笑ってんだよぉ!」
「私、切原が単純でちょっと馬鹿っぽいところが一番好きかも」
「出てこんか、赤也ぁ!!」

再び聞こえてきた怒声に、茂みの中でさらに小さく屈みこんだ。
気付けば切原の顔が、唇が、とても近くにあったのでかすめる様にキスをした。

「はぁ!?ちょっ、いきなり何すんだよ!」
「なんかしたくなっちゃって…」
「初めてのキスはイチゴの飴食べた後にしようと思ってたのに!」
「何それ?」
「ファーストキスはイチゴ味って言うだろ!」
「赤也!そこにいたのか!」

それを言うならレモン味だよ、切原。
そんな私の返事も聞けずに、真田副部長に見つかった切原は強制的に連れてかれてしまった。

ずっと握りしめていたキャンディーの包み紙を広げ、それを口の中に放り込む。


なるほど、確かに。
ファーストキスはイチゴ味だ。



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