雑音の中で愛を囁く

少しうるさいくらいがちょうどいい。

家のリビング、公園のベンチ、電車の中そして学校のサロン。
これは私がいつも読書をしている場所だ。


だから放課後も、図書室で本を借りてからサロンへと移動する。図書室は静かすぎるから、人がいて多少雑音がある場所の方が私にとっては居心地がいい。

サロンに置かれている席をぐるりと見まわす。四人掛け用と二人掛け用のテーブルに、窓際にはカウンターテーブルが置かれている。ここでのお気に入りの席は一番奥にあるカウンターテーブルの席だ。壁際は落ち着くし、一人で座るにはちょうどいい。

テーブル席を縫うように進んでいき、お気に入りの席に腰掛ける。
借りてきたばかりの本を開き、ページをめくった。
今日私が借りた本は、先週実写映画化された恋愛ものの原作だ。先日、友達に誘われて見にいったのだが、原作の方も気になって借りてみることにした。


「隣ええか?」

しばらく本を読み進めていたら耳元で声が聞こえ、危うく本を落としそうになる。
驚いたのは突然声を掛けられたからというよりも、あの人の声だったから。いつも教室で聞く、関西なまりの言葉。
驚いて顔を上げれば、すぐ近くにあった眼鏡越しの瞳と目が合った。

「お、忍足君…」
「近かったな。自分、本に集中しとったみたいやったから…すまへん」

彼は私と距離を取って困ったように笑った。
どうやら何度も声を掛けてくれていたのに私は気付けなかったらしい。本に集中しているときは良くあることだ。

「ごめんね。席だよね?どうぞ…」
「おおきに」

私は隣の椅子を彼の方へと差し出した。
お礼を言って座った彼も本を開いたところを見ると、私と同じく読書をしに来たらしい。
まさか忍足君とこのように席を並べる日が来るとは思いもよらなかった。

同じクラスの忍足侑士は目立つ存在だ。本人にそういう気がなくとも、周りがほっとかない。そんな彼を私は教室の隅っこでこっそりと見ている。どんなに人が多い場所でも、彼の姿は鮮明に見え、声はクリアに聞こえる。そう思えるのは私が忍足君の事が好きだからだ。

でも彼と私とでは住む世界が違いすぎて、まともな会話などしたことはない。しいて言えば今初めて会話らしいものをしただろうか。

彼が私の気持ちに気付かないよう、再び本を開き視線を下に戻した。





映画よりも原作の方が面白かった、というのが読んでみた感想である。
本の方が細かな描写まで描かれていたからそう感じたのかもしれないけれど、何より表現の仕方が映像よりも気に入った。

それを知ってから恋愛小説に興味がわいた。今まであまり読んでこなかったジャンルだが、その優しい世界観に自然と引き込まれていった。



今日は放課後に委員会があったため、サロンに来るのが遅くなってしまった。新しく図書室から借りてきた恋愛小説を持って辺りを見回すもほぼ席は埋まっていて、残念ながらカウンター席も満席であった。

今日は諦めて場所を移すしかない。そう思ったとき、ぱちりと眼鏡越しの瞳と目が合った。やはりどんなに人が多くても、私は自然と忍足君を見つけられてしまうらしい。
何となく逸らすことができなくて会釈をすれば、その綺麗な指を動かして私を手招きした。

その相手が私だとは信じられなくて後ろを振り返るが、対象になりそうな人はいない。
もう一度目が合えば忍足君は小さく笑って私の名前を呼んだ。

サロンは他の子達の話し声で溢れかえっているのに、彼の声だけがはっきりと耳に届いた。

「こんにちは」
「はい、こんにちは」

クラスですら滅多に言葉を交わさないのに、名前まで呼ばれてしまえば緊張しないわけがない。そして、何を話そうか迷って出た言葉はとても社交辞令的なものになってしまった。それにも関わらず、彼は親しげな友人に向けるような笑顔を私に向ける。

「おもろいなぁ。初め自分が呼ばれたか分からんかったやろ?」
「うん。他の人かと思った」
「あんな熱い視線送っといて無責任やな」
「目が合っただけだよ」

忍足君こそ無責任だ。そんな甘い言葉を簡単に使わないでほしい。
まだ貴方に名前を呼ばれたことすら信じられずに、心臓がうるさいくらい音を立てているのだから。

「席探しとったんやろ?ここ座り」

彼はテーブルをはさんで真向かいにある椅子を指さした。
普段私が使わないテーブル席用の椅子、カウンター席よりも低めの椅子がやたら立派に見える。

「誰か来るんじゃないの?」
「いや、そこは空いとるよ。この前、隣座らせてくれたお礼や」

再度、席に座るように優しく促される。
お礼と言われるほどの事ではなかったけれど、その誘いを断る理由などない。

緊張で小さくなってしまった「ありがとう」の言葉はきっと周りの音にかき消されたに違いない。それでも私が椅子に座れば、彼は静かに微笑んだ。

テーブルをはさんで、彼との距離は1メートルもない。

女の子のお喋りも、スマホからの音楽も、全く気にならない。でも唯一、忍足君がページをめくる音と彼の呼吸音だけが鮮明に聞こえる。

その音に耳を傾けて、やはり私は緊張していることが気付かれないように本を開いた。





久しぶりに図書室ではなく、駅前の本屋へと足を運んだ。
特に欲しい物があるわけではないけれど本屋にはふらりと立ち寄る事がある。
ファッション雑誌や旅行誌のコーナーを通り過ぎ、文庫本の棚を物色していると、奥の本棚にいた一人の人物が目に付いた。

「忍足君」

頭に浮かんだ彼の名は自然と口からこぼれ落ちた。慌てて口を塞ぐも時すでに遅し。
条件反射の如くこちらを見た彼と目が合った。

「まさかこんなところで会うとはなぁ。自分も本探しにきたん?」
「そんな感じ、かな?」

並べられた本の背表紙を見ていく。
どうやらここは恋愛小説のコーナーのようだ。図書室で読んだ本もあるし、"映画化決定"というポップの付いた本は平積みにされている。

「この前も恋愛小説読んどったし、好きなんか?」

気付けば私のすぐ隣に来ていた忍足君がそう言った。いつもは椅子に座っていたから分からなかったが、近くで見れば身長は思ったよりも高くて驚いた。

「最近、興味が出てきて読んでるの。忍足君は読むの?」
「せやな。男なのにって笑われるかもしれへんけど好きやねん」

彼は自称気味に笑ったけれど、私はそうは思わなかった。

「笑わないよ。好きな物を好きって言えるのはいい事だよ」

私はあまり自分の事を話さない。
それは話したくないからではなく、他人に理解してもらおうとも思わないからだ。

私だけの世界で、自分が満足できればいい。

だから忍足君が、私にどう思われるのかも覚悟した上で話してくれたのなら、それはすごく素敵な事だと思う。

「ありがとう。君にそう言われるんは嬉しいわ」

彼があまりにも綺麗に笑うから、黙って頷いた。

その仕草ひとつひとつに私がどれだけ驚かされてるか、きっと貴方は知らないのでしょう。
恋愛小説コーナーには私たちしかいなくて、静かなはずなのにやけにうるさい。

それは私にしか聞こえない。
心臓の音だ。

「この本なんか俺の好きな作者が書いとるやつや。時代背景が古いねんけど感動するで」

私では背伸びをしないと届かない位置にある本を、彼は簡単に引き抜いて私に見せた。

初めて聞いた作者で、初めて見たタイトル。でも表紙の優しい色合いから、手に取ってみたくなった。
しかし、何よりも一番の理由は彼が好きだと言ったからだった。

「その本、読んでみようかな」
「ほんまか?」
「うん。忍足君のおすすめなら」

私は彼から本を受け取って、表紙を撫でた。
本を通じて彼の心が読み取れたら、少しは近づけるかもしれない。

「読んだら感想教えてな。また明日学校で」
「また明日」


忍足君の背を見送って、姿が見えなくなったところで息を吐き出した。
ちらりと本棚を見たら、平積みにされていた本に付けられたポップが目に飛び込む。

"運命の出逢いを、貴方は信じますか?"

その答えに「はい」と答えてしまう自分がいる。

私の隣の席が空いていたのも、目が合って向かい合わせで本を読んだ事も、そして彼の好きな本を知れた事も、全て運命であってほしい。

そうすれば、きっと恋愛小説のように最後は結ばれるのだから。





最近では特にサロンで読書をするのが楽しみになっている。それは恋愛小説を読み進められるのも勿論だけれど、忍足君と会えるからだ。
互いに毎日そこへ行くわけではないけれど、会えれば彼の方から声を掛けに来てくれ近くの席に座る。
教室でも会えるけれど、会話ができるその場所は特別である。


彼おすすめの本が面白かったと言えば他のおすすめを教えてくれたり、本の感想を話すこともあった。最終的には自分の本をそれぞれ読むのだけれど、無言の時間すら特別で愛おしい。

彼がいるだけで私の世界に音が増える。
私の心臓が心地いい音を刻んでくれる。



しかしここ最近はサロンに行けていない。そして今日もそれは叶わなそうだ。

私は校外活動委員なのだが、来週にある社会科見学のための仕事が立て込んでいた。しおりの内容を考え、印刷を掛け、今日はその資料をまとめる予定でいた。
しかし一緒の委員会の子が風邪で欠席をしてしまい、教室に残ってひとりで作業をしている。単純に考えてひとつの仕事に二倍の時間が掛かるわけで、なかなか終わらない。

一人の教室は静かすぎて苦手だ。

プリントが擦れる音と、ホッチキスを止める音だけが規則正しく聞こえる。

「ひとりで何しとるん?」

男の人の低い声なのに、その言葉はやけに響いて私の耳に届いた。
返事をするようにパチンという音を鳴らして、手に持っていた一冊になったしおりを机に置いた。

「忍足君。委員会の仕事をしてるんだよ」

彼はふらりと私の目の前に現れて出来上がったしおりを見る。「あぁ、社会科見学の」と内容を理解したかと思えば、彼はごく自然に隣の席へと座った。
そこは忍足君の席じゃないよ、という的外れな疑問を解消する前に彼はまとめられていないプリントを手に取って私を見た。

「俺も手伝うわ。これまとめてけばいいん?」
「そうだけど、一人でできるから大丈夫だよ」
「仕事しながらでええから話し相手になってくれへん?ちょうど暇してん」

返事を聞く前に彼はプリントを順番に並べて私に渡す。
気遣いすら感じさせないその行為にお礼を言って彼に手伝ってもらうことにした。
彼と過ごせるならサロンでなくてもいいのだ。

「自分、茶道とか華道とかやってたん?」

その言葉の通りに彼は私とお喋りする気があったらしい。
本の内容でもない会話をするのは初めてで少し緊張する。

「やってないけど、どうしてそんなこと聞くの?」
「自分、本読むときとか板書するときの姿勢めっちゃええやん。歩く姿も綺麗だからなんかやっとたんかな思て」

男の人に綺麗だなんて初めて言われた。そして、それが容姿でなかった分お世辞の様には聞こえなかった。いや、例えそうだとしても忍足君から貰える言葉ならそれすらも嬉しい。

「忍足君は良く見てるんだね、クラスメイトの事」

パチンパチンと、先程より速度が上がった規則正しい音の中に自分の声を乗せた。
自分の心臓の音も相まって、静かすぎた空間が心地良くなるのを感じる。

「でも全員のこと見てるわけじゃあらへんで」
「そうなの?」

落ち着きを取り戻した心臓の音は徐々に静かになり、ホッチキスの音だけがまた聞こえるようになる。
また静かになったこの空間だけれど、嫌いじゃない。それは忍足君の呼吸する音が聞こえるからなんだと思う。

「まぁな。それに自分の方が良く見とるんやない?」
「そんなことはないと思うけど…」

少しだけホッチキスを止める速度を緩めた。
だって彼との会話を終わらせたくなかったから。

「この前、日直が消し忘れてた黒板消してくれてたやろ?それに部の大会が近い子の代わりに掃除当番かわとったし、あとは……」
「忍足君の方がよく見てるじゃない」

今までの何倍も丁寧にできたしおりを、束になった上に置いた。
忍足君は私よりも私の事を知ってくれてるように思えた。それが嬉しくもあり、恥ずかしくもあり、頭の中はごちゃごちゃだ。

「素直に褒められとき。あと、自分頭ええよな」

今見られては顔が真っ赤なことに気付かれてしまう。だから彼から手渡されるしおりを淡々と受け取って何事もなかったかのように振舞う。

「私、勉強は忍足君よりできないと思うよ」
「いや、そういう意味やない。言わなくても、その人の気持ちを読み取って気配りできるのは天才でも中々できひんよ」

最後のしおりを受け取って、仕事が終わった彼は横目で私を見た。
一瞬目が合った気もしたけれど、すぐに手元に視線を戻して口を開く。

「それは忍足君の頭がいいからだよ。クラスメイトをそこまで評価できるのは、忍足君がたくさんの事を見て知ってるからだよ」

パチリと最後のホッチキス止めをした。

「やっぱり自分、頭ええよ」


音がなくなった教室。
だからこそ自分の心臓の音が大きく聞こえた。

「ありがとう」

小さな声でそう言った言葉が彼に届いたかは分からなかった。





“運命”という言葉を信じたくなった。
もしかしたら貴方も私と同じ気持ちなのだと、自惚れてもいいですか?

本屋にあるファッション雑誌を何冊も読んだ。そこに載っていた心理テストもやった、告白の成功法を読み込んだ、相性占いのページも見た。
でもどれも結果がバラバラで、現実では小説の様なシナリオをなぞるようにはいかないと思い知らされる。

サロンに入り、お気に入りの席を確認する前に彼の姿を探す。でも今日は残念ながら忍足君の姿は見つからない。

二人掛けの席に座るべきか、カウンター席に座るべきか。
どちらの席も空いていたけれど、やっぱり勇気がなくて私はカウンター席に座った。

栞を挟んだ場所を開き、文字を目で追う。しかし三行も読まないうちに内容が頭に入ってこなくなる。
適度な雑音の中にいるのに、本の世界に入り込めない。周りの音がやけに気になる。

この前のテストどうだった?
駅前に新しいお店ができたんだって
課題多すぎて終わんないわ
髪の毛切ろうと思うんだ
部活の先輩が怖くてさ


「忍足君への告白、上手くいったのかな?」

突如、雑音の中で聞こえたあの人の名前が耳についた。
耳をそばだてて、意識を集中させる。

「どうだろうね。でもあの子可愛いからきっと上手くいくでしょ」
「だよね。早く報告来ないかなぁ」

忍足君はかっこいいから、告白だって受けたことがあるんだろうなとは思っていた。でも改めてそれを目の当たりにすると、自分とは住む世界が違う事を思い知らされた。

恋愛小説に出てくるふたりは結ばれるのにふさわしい条件を持っている。
幼馴染、部活の先輩後輩、共通の趣味etc……。女の子のシンデレラストーリーなんてのもあるけれど、それは元が可愛くなければ始まらない。

周りの音が遠くに感じる。心臓の音も気にならない。
その世界の中でため息を付いてみる。心が軽くなるわけでもなく、誰かに話しかけられることもない。

ため息の音は一瞬で消えて、私の周りはまた静かになった。



「二人席に座ってくれたら良かったんに」

サロンに行くことをしばらくは避けていた。
家のリビング、公園のベンチ、電車の中など、他にもお気に入りの場所はある。

でもやっぱり一番馴染んでしまったこの場所が忘れられなくて、気付いたらサロンに足を運んで一番奥のカウンター席に座っていた。

私に声を掛けてくれた忍足君は、そのまま断りを入れずに隣の席へと座った。当たり前になっていた出来事だったのに、久しぶりに隣に座った彼の横顔はひどく懐かしく感じる。
サロンには人が多いけれど、席が空いていないわけではない。それでも彼はここを選んでくれた。

「ここで会えへんくて寂しかったわ。何や久しぶりに話すなぁ」

いつも通りの優しい笑顔でそう言われても上手く返事ができない。そんな甘い言葉を簡単に使わないで欲しい。
期待するほど、運命を信じたくなってしまうから。

「私といつも一緒にいると思われたら迷惑でしょ?」

かと言って彼を突き放す勇気もなくて、でもその代わりに素っ気ない言葉が発せられた。

「忍足君はモテるし、声をかけてくれる女の子もいっぱいいるし、」

誰に話しているのか、自分が何を伝えたいのか、それが分からないまま言葉だけがこぼれ落ちる。

「忍足君が優しくしてくれると勘違いする子もいるんだよ」

この場には様々な音が溢れているというのに、私達の周りは別世界のごとく静かだ。もちろん音が消えたわけではないけれど私の言葉だけがこの場に残っている気がする。

一つ、別の音が隣から聞こえたと思えば、忍足君は口元に手を当て声を押し殺して笑っていた。
喉を鳴らすような笑い声は騒音に飲まれるくらい小さくて、それでも私にはその音がとてもクリアに聞こえた。

「忍足君、ここは笑うとこじゃないよ」
「すまへん。いやな、自分その気持ちなんて言うか知っとるか?」

寧ろ怒っていいはずなのに相変わらず彼は笑っていて、少しだけ濡れた目元を拭って私を見た。
眼鏡越しの瞳に見つめられては逸らすことはできなくて、静かに首を横に振る。

「ヤキモチ、て言うんやで」

誰に話しているのか、自分が何を伝えたいのか。
その根本が見抜かれた気がして心臓が音を立てる。

「あともう一ついい事教えるわ」

椅子をずらして真っすぐと私を見た。
心臓がその瞳に射貫かれて音が消える。

「俺、君のこと好きや」

女の子のお喋りも、スマホからの音楽も、全ての音が遠くに聞こえた。
でも彼の言葉ははっきりと私の元へと届く。
とてもクリアに、とても真っすぐに。
先程の言葉が何度もリフレインする。

貴方の息遣いと、私の心臓の音だけが聞こえる。

「私も、忍足君のことずっと好きでした」

声は震えていて、決して大きな声ではなかったけれどはっきりとそう言った。
クリアに、真っすぐに、彼にちゃんと届くように私は言った。

「ほんま嬉しいわ。ありがとう」



きっと彼と過ごす、これからの世界が静かになる事はないだろう。
いつだって、何だって、彼といると心臓がうるさい。
少しうるさいくらいが丁度いい。
彼と一緒なら、なおさらそれが心地良いのだから。



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