Hair or Heart

私の朝は戦いから始まる。
スプレー、ワックス、ドライヤー、アイロンを駆使して自分の髪をセットするのだ。
生まれた時からくせっ毛で、可愛い可愛い言われてきたがそこそこおしゃれに目覚めてきた今ではこの髪が憎くて仕方がない。
毛先は右に左に好き勝手跳ねるし、雨の日は二倍くらい膨張したように髪が爆発する。

ストレートでサラサラな髪になりたい。
だから宍戸君の髪はすごく羨ましかった。

毎日毎日、彼の真後ろの席から髪を見て、ああなりたいなぁと思っていた。
しかしそう簡単になれるものではない。だからせめてその髪を拝むことで気を紛らわしていたというのに、今朝私にとって一大事件が起こった。



「宍戸!その髪どうしたんだ?」

クラスの男子が、登校してきた宍戸君にそう言った。
彼を見れば、昨日まで長かった髪がバッサリと切られていて実に運動部らしい短髪になっていた。宍戸亮といえば長髪の男子というのが今までのイメージだったのに、今の彼からは想像もできなかった。

「色々あってよ」

宍戸君は苦笑いをしてその質問の答えを濁した。私はというと口を開けたままその様子を見ることしかできなかった。

何があったの?もしかしたら誰かに切られた?いじめ?それとも失恋とか?いや、失恋で髪を切るのはさすがに古い?

頭の中で色々な疑問が行き交う。

チャイムが鳴り、宍戸君は男子生徒達を振り切って自分の席の椅子を引いた。
そこで、今日初めて彼と目があう。

「おはよ」
「お、おはよう…」

彼はいつも通り、朝の挨拶を私にして席に着いた。
今までずっと見ていた場所には髪がなくて、代わりに彼のうなじが見えた。



「宍戸君、どうして髪の毛切ったと思う?」

昼休みの時間、学食でご飯を食べながら友人に質問する。
彼女は日替わり定食のコロッケを咀嚼して、考えるそぶりを見せた後ごくりと飲み込んで口を開いた。

「失恋したんじゃない?」

あ、これ適当に言ったな。
次は味噌汁に口をつけて、「私のだけ豆腐が入ってない」と愚痴をこぼしている。
彼女にとって食事が優先されるのは仕方ないとしても、私としては一大事件なのだ。もう少し真剣に答えてほしい。

「もっとちゃんと考えてよ」
「というか、今までの方が不自然じゃなかった?」

味噌汁の中からワカメをすくい上げ口に運ぶ。しかし、何度もお椀の中身をかき回しているところを見るとまだ豆腐を探しているようだ。

「どういう意味?」
「髪伸ばしてる方が変じゃないかってこと。男子で、しかも運動部で髪長い人なんている?伸ばすにしてもそこら辺の女子よりも長かったじゃない」
「まぁそうだけど…」

豆腐の捜索を諦めた彼女はお椀を持ち替え、白米を口へと放り込んだ。一粒一粒味わうように咀嚼して飲み込む。

「気になるなら本人に聞けばいい。宍戸と仲良いでしょ?」
「まぁ、一応話す方ではあるけど…でも宍戸君はその話してほしくなさそうだったし……」

席が近いからよく彼とは会話をする。といっても授業の内容とか、昨日見たテレビの話とかを少しだけだ。取り立てて仲がいいわけでもない。
ただ一つ彼女が勘違いしているとすれば、私がよく宍戸君の髪の綺麗さを彼女に語っていたせいであろう。放課後は、私がいる部室棟からテニスコートにいる彼を拝むことが多かった。
その様子を度々私の口から聞かされることで、特別仲がいいと思われているかもしれない。

「じゃあ聞かなければいいんじゃない?」
「でも気になる…」
「私は目の前のうどんの方が気になるわ」

彼女の言葉に自分のトレーを見れば、食べかけのうどんが汁を吸って伸びきっていた。
雨の日の自分の髪型だな、と自称気味に笑って伸びきったの麺を口に運んだ。





何度見ても宍戸君の髪は短いまま。
そう簡単に伸びるわけ無いけれど、早く伸びてくれないかなと願いを込めて見つめてみる。

ところで私の今日の髪はというとそれはもう最悪だった。
朝から雨が降って、三十分ほど戦ってみたが髪のうねりは真っ直ぐにはならなかった。そのため一つにまとめてお団子にしてみたが、横に垂れた髪はバネのようにくるくるしている。

こんな日は学校に長居せず、さっさと家に帰って引きこもるにかぎる。
そう計画をしていたにも関わらず、こんな日に限って日直だ。しかも今日提出のプリントを出していない人がいるらしい。
その人物からプリントを回収するため、湿度の高い廊下を歩き男子テニス部の部室へと向かった。その相手は芥川君だ。放課後、担任に渡す約束をしていたがそのまま部活に行ってしまったらしい。

窓の外はまだ雨が降っているが、室内にトレーニングルームを持っている男子テニス部は天候に左右されることなく部活をする。それが正レギュラーともなれば当然のことだ。

しかし、トレーニングルームに辿り着く前に芥川君を見つけることになる。
彼はすぐ近くの空き教室で椅子を上手く並べて、その上に横たわっていた。
なぜ見つけることができたかというと彼の大きな寝言が聞こえたから。

「マジマジすっげぇ〜!」

寝言とは思えないほどの大声に驚いた事は言うまでもない。
でもこれで探す手間は省けたわけだ。
空き教室に足を踏み入れ、気持ちよさそうに寝ている彼の肩を揺らし声をかける。

「芥川君、起きて。プリントまだ出してないでしょ」

起きて起きてと言いながら肩を揺らし続ければ薄っすらと目を開ける。一つ大きな欠伸をして上体を起こした彼は目をこすった。

「プリント〜?」
「今日提出のやつ。先生に放課後渡す約束してたでしょ」
「あー…そうだった」

彼は床に置かれた鞄を開いた。
そういえば、芥川君は宍戸君が髪を切った理由を知っているのではないだろうか。幼馴染で同じテニス部。クラスでも宍戸君が芥川君のことを気にかけているところをみると仲が悪いわけでもないだろう。

「芥川君」
「ん〜ちょっと待ってて」

まだプリントが見つからないのか鞄を漁っている。きっとノートの間とかに挟まっているのだろうけど、話がしたかったのでそれは言わないことにした。

「宍戸君が髪の毛切った理由、知ってる?」
「ん〜?」

手を止めて私の方を振り返る。
寝ぼけた彼のとろりとした瞳からは何を考えているかは分からない。
やっぱり聞いてはいけないことだったのだろうか。でもここまできたら引き下がれない。私がずっと憧れて見続けてきたものがいきなりなくなったのだ。興味本位ではあるが、こちらとしては相応の理由を聞きたい。

「えっと…ほら、今まで伸ばしてたのにどうしたのかなって……」

勢いはあったものの尻すぼみ。それは、やっぱり失恋とかだったら聞かない方が良かったのだと思ったから。
芥川君は大きな瞳を私から外し天井を見つめた後、記憶を辿るように口を開いた。

「え〜っと、宍戸が正レギュラーから外されて、またレギュラーに戻るために切ったとかだった気がする〜」

もしかしたら失恋よりも触れてはいけない話題ではなかったのだろうか。
確か氷帝のテニスは、一度正レギュラーから外れれば二度と試合に出させてもらえないと聞いた事がある。
それを自慢の髪を引き換えに手に入れたの?いや、もうこの話題には触れない方がいい。

「そっか。ありがとう」
「あ、見つけたC〜!」

数学のノートの間から、しわくちゃになったプリントを引っ張り出して彼は叫んだ。やっぱりそこにあったか、と頷いてからそのプリントを受け取った。

これで私の用は済んだわけだ。
そして、結局私のここ最近の疑問ははっきりとは解決しなかったわけだがオチは付いた。

“宍戸君の髪はテニスに捧げた”
それでいいじゃないか。
先ほどの事は忘れよう。そうしよう。

「よかった。じゃあこれは私が出しとくから」
「ありがとう。あ、宍戸だ」
「ジロー!こんなとこにいたのか」

驚いて芥川君の視線を辿れば、話題の人物がそこにいる。
一筋の汗が背を伝った。やはり今、宍戸君と会うには最悪感がある。それは興味本位で聞いてしまったという後ろめたさがあるからだ。

「ん?お前もこんなとこで何してんだ?」

宍戸君の瞳が私の姿を捉え、不思議そうに首を傾げた。
背筋を伸ばし、先ほど受け取ったばかりのプリントを時代劇の印籠のように宍戸君の前に掲げる。
やましい事はしていませんよ、という今できる最大のアピールだ。

「私は先生に頼まれて芥川君からプリントを回収しにきたの」
「そっか。お疲れ」
「宍戸はどうしたの〜」

彼の興味が芥川君へと移り、ほっとする。
これを職員室に届けて、当初の予定通り早く家に帰ろうではないか。

「どうしたの、じゃねーよ。跡部が呼んでるぜ。部室でミーティングだとさ」
「分かったC〜」

彼らの会話にも区切りがつき、芥川君は床にまで散らかした鞄の中身を、また無理やり鞄に押し込む。それに対し、宍戸君がお小言をいう姿を見守り自分が教室を出ていくタイミングを探る。

「じゃあ、私は職員室に行くから二人とも部活頑張って…」
「宍戸〜彼女がね、どうして髪切ったのか知りたがってるよ」
「ちょっと!」

私が大きな声を出せば「怒られる〜!」と脱兎のごとく芥川君は廊下に駆け出していった。
最悪だ。しかも私達だけこの空間に残してくれちゃって、今すぐにでも逃げ出したい。

「俺が髪切った理由?」
「えっと…」

彼はジャージを着て、青い帽子を被っていた。髪の毛はその帽子にすっぽりと隠れていて、尚更髪の短さを感じさせる。
目を丸くしている彼に向って、一度深呼吸してから口を開いた。

「だってあんなに長くて綺麗な髪だったのに、バッサリ切っちゃったからどうしたのかなって思って……ほら、私の髪こんなでしょ?この髪すごく嫌いで…だからずっと宍戸君の髪に憧れてたの。だから気になって……でも、話したくなかったらいいからね」

極力失礼にならないよう言葉には気をつけたつもりだ。
でも、そもそも宍戸君に隠れて聞いていたのだからそこを最初に謝るべきだったかもしれない。

宍戸君はというとそれは驚いた表情をしていた。
うん、やはりこの話題はやめよう。

「…やっぱ今の質問忘れて。私、芥川君のプリント先生に届けてくる」
「おい、待てって!」

彼の呼び止めも無視して廊下に飛び出し、湿気の含んだ床を蹴って進む。職員室でお茶をすすっていた担任にプリントを渡し、お礼の言葉も聞き終わらないうちに部屋を出た。

その後も校舎を駆け抜け、今もまだ雨が降り続ける空に向けて傘を開き校門を出た。
その頃にはお団子頭はくずれて、はみ出した毛先が右に左に顔を出していた。

最悪だ。
髪型も、興味本位で聞いてしまった自分も。
頭の上のお団子をぐしゃりと握りつぶす。
案の定、形は崩れて私の嫌いな髪が顔を隠した。





「おはよ」
「おはよう…」

どんなに気まずくても、席が前後の私達は必然的に顔を合わす。
いつも通り挨拶してくれた宍戸君に対しても、私の方がそわそわしてしまう。

「昨日はよ、その…驚かせてごめんな」

それを彼も感じたのか、先に言葉を続けてくれた。
宍戸君は何一つ謝る事なんてないのだ。寧ろ私が謝らなければいけないのに…。

「いや、私の方こそごめんね。勝手にこそこそ探ったりして…」
「別にそんなの気にしちゃいねーよ。それよりも、お前が俺の髪の事あんな風に思ってくれてたのはその……嬉しかった、な」
「あんな風?」
「長くて綺麗な髪だって言ってくれただろ」
「うん」

宍戸君は、そこでようやく椅子を引いて自分の席に着いた。
彼の髪は短くなって、真後ろの席からでも少し視線をずらせば彼の頬から首筋は良く見えた。だから今の彼の頬が少しだけ赤くなっていたことに私は気付いてしまったのだ。

「あのよ!」
「な、なに?」

勢いよく後ろを振り返った彼からは、頬の赤みは引いていた。
でも今度は私の方が、顔が赤くなっていたかもしれない。

「次の土曜、うちで他校との練習試合があるんだ。その、…見に来ないか?」
「えっと…部外者が行ってもいいの?」
「うちの学校の生徒なんだから問題ねぇよ」
「じゃあ、行く」
「おう」

短な返事を残して彼は前へと向き直り、鞄の中身を机の中へと移していた。

今日の私の髪はアイロンとスプレーで二十分かけてセットしたストレート。
まだ朝だから髪の先までまっすぐなのに、心はくるくるふわふわ。
雨の日の髪の様に躍動感溢れていた。



「ねえ、ちょっと聞いて!」
「おっ、今日は髪型決まってるじゃん」

休み時間に友人を捕まえて、女子トイレに引きずり込む。
いつもなら喜んでその言葉を受け止めるけれど、今はそれどころじゃない。

「週末にテニス部の試合見に行く事になった」
「おぉ!」

あまり感情を表に出さない友人が少しだけ声を大きくする。

「どうしよう…」
「何が?」
「なんか緊張するっていうか、宍戸君から声を掛けてもらえるとは思わなかったから…」
「ふーん…」

友人の気の抜けた返事。でもそれはどうでもいいとか、そういうのじゃなくて考え事をしているときの彼女の癖でもある。

「とりあえず試合は屋外でやるから髪はまとめてった方がいいんじゃない。それであとは差し入れ持ってく」

何時になく的確なアドバイスに目を見開く。

「なるほど!差し入れって何持ってけばいい?」
「スポドリとか軽食とか?」
「うんうん。…ていうか一緒に来てくれるよね?」
「私、その日は部活あるから無理」

バッサリと振られたものの、そこまで気持ちは沈まなかった。
それは宍戸君を間近で見られる機会を得られたことがよほど嬉しかったからであろう。

「そっかぁ。じゃあ一人で行くよ。土曜日楽しみだなぁ」
「宍戸の髪が短くなっても近くで見たいと思うんだね」
「え?」
「授業始まっちゃう。早くもどろー」

確かに髪は短くなったよ?
でも、それでも近くで見たいと思う。彼の揺れる髪が好きで、部活中の彼を見ていくうちにテニスする姿も素敵だなって思ったんだから。

週末はどんな髪型にしていこうか。
でもそんなことよりも、差し入れを何にするかの方が考えるのに時間がかかりそうだ。





髪型はポニーテール。
毛先はアイロンで整えて、でも崩れにくいようにサイドは編み込みにして髪を束ねた。
これは私が最初にできるようになった髪型。初めは本当に不器用で、何度も何度も練習した甲斐があり今では数分で作れるようになった。

慣れたこの髪型にしたのにはもうひとつ理由があって、それは朝に差し入れを作るためだ。
ハム、チーズ、卵、ツナ、レタス…見栄えも気にして作ったサンドイッチを箱に詰め紙袋に入れる。テレビ画面左上に表示された時間に驚いて慌てて家を出た。



宍戸君が言っていた通り、私の他にも試合を見に来ている人たちは多くいた。大半は女子生徒で、その間を縫うように進んで宍戸君の姿を探す。

ようやく見つけ出した時には試合は始まろうとしていて、宍戸君の隣には背が高い男の子が一緒にコートに入っていた。
どうやらダブルスでの試合らしい。

ボールを追いかけてコートを走る彼には、以前の様に靡く美しい髪はなかったけれど、私は目が離せなかった。
彼らがコートの中央で握手を交わすことで、初めて試合が終わったことに気付く。
審判の声も耳に入らず、勝負の行方すら気にも留めていなかったが、笑顔でダブルスを組んでいた彼と話しているところをみると勝ったようだ。

その様子をじっと見ていたら不意に宍戸君と目が合って、手を振って小走りでこちらに来てくれた。
私も小さく手を振って彼の方へと向かう。

「来てくれたんだな」
「もちろんだよ。あの、試合お疲れ様。かっこよかったよ」
「おう。ありがとな!」

彼の首筋には汗が伝い、いつもより少しだけ色っぽく見えた。

「あと、これ、差し入れ」

教室で見る彼と違ったからか、恥ずかしくなって紙袋ごと前へと差し出した。
そこから取り出した箱を開けて彼は嬉しそうに声を上げた。

「すっげぇ!これ、わざわざ作ってくれたのか?」
「うん。嫌いなものとかあった…?」
「ねーよ。寧ろ好物ばっかりだ」

彼はそれを再び紙袋に戻して、後輩たちの試合を見るために別のコートへと走っていった。
そして彼は一試合ごとに後輩に声を掛けていた。内容までは聞こえなかったけれど、後輩たちの表情を見る限りアドバイスをもらったり褒められたりしたのだろう。

彼のその姿に、私は目が離せなかった。
だからもう宍戸君の試合はなかったけれど、すぐに帰る気にはならなかったのだ。





随分と日が長くなり、下校時刻になってもまだ空は明るい。
夏休みに入った今ではこんな時間まで残る生徒は少ないが、それでも三年生ともなれば学校に長居せずにはいられない。
夏休みが開ければ本格的な受験勉強が始まる。だからこそ中学最後の夏は皆、部活に時間を注ぎ込むのだ。

私もその一人であるが、帰りが遅くなったのは部室で友達とずっとおしゃべりをしていたからだ。残念ながら前者のような輝かしい理由ではないけれど、私にとってはこの時間も青春の一ページになりえるのだ。

友達と校門へと向かっていると、遠くから軽快な音が聞こえてくることに気付く。
茜色の空を突き抜けるようなその音は、友達は気にも留めていなかったけれど私にとってはこっちにおいでと呼ばれているように思えた。

「私、部室に忘れ物しちゃった。先に帰ってて」

友達に嘘をついて、校舎へと向けた足先をさらにテニスコートへと転換させる。

おいでおいでの音が次第に大きくなって、私の視線の先には青い帽子を被った彼がいた。
この前までは長髪が彼のトレンドマークであったのに、青い帽子を見てすぐに彼だとわかったのは、きっとそれほどまでに最近の彼をよく見ていたからなのだと思う。

壁打ちをしている彼の様子を、柱の陰からこっそりと見守る。
ボールを打つ時の力強い声と、彼の体を伝う汗は、今までの様に遠目から見ていただけでは分からなかっただろう。

「宍戸君、こんな遅くまで練習?」

籠の中のボールがなくなって、彼がベンチの上のタオルを手に取ったのを見計らって声を掛けた。

「おう。お前もまだ部活やってたのか?」

「今までおしゃべりしてました」なんてことは当然言えなくて、曖昧に笑った。
男子テニス部の事だ。きっと朝から部活があったのだろう。それに加えて居残り練習をしている彼を前にしては、そんな自分が少しだけ恥ずかしい。

「テニスの事は詳しくないけど、そんなにたくさん練習して大丈夫?」
「そんなやわじゃねーよ。それに、俺は頑張らねぇといけないからな」

彼はペットボトルから水分を補給して、濡れた唇を首に掛けたタオルで拭った。

「あのさ、宍戸君」
「ん?なんだ?」
「テニスのために、髪の毛切ったんだよね?」

もうこのことは聞かないと決めたのに、どうしてもその質問をしてみたくなった。
でも前と違ったことは、その理由が興味本位ではなかったこと。

知りたいのは髪を切った理由じゃない。
どうしてテニスにそこまでのことをするのか、だ。

私の様子を見て、彼もそれが分かったのだろう。
だから帽子を外して少し照れくさそうに口を開いた。

「まぁ、結果的にはそうなるかな。一度レギュラー落ちして、跡部の後押しがあって長太郎と一緒にコートに立てるようになった。その覚悟の証ってとこだな。激ダサだな、俺」

彼が首に掛けてあったタオルを外した時、髪についていた汗の雫が夕日に光った。
それは本当に綺麗で、彼がすごくかっこよく見えた。

「俺には特別秀でたセンスもねぇし、体格に恵まれてるわけでもねぇ。俺には何もないから…でも、だからこそ人一倍努力して、皆の力にはなりてぇんだ。勝つのは氷帝だ」
「宍戸君はすごいよ。天才だね」

まっすぐに宍戸君を見た。
それは彼を含めたこの景色を覚えておきたかったのと、彼に伝えたいことがあったから。

「はぁ?お前いまの話聞いてたか?仮にも天才っていうのは忍足みたいな奴を言うんだよ」
「宍戸君も天才だよ。努力の天才。普通の人はそこまで頑張ろうと思う前にやめちゃうもの。宍戸君は他の人にないものをちゃんと持ってるよ」

不器用に、そして照れくさそうに笑った宍戸君はダサくないし、誰よりもかっこいいと思った。
長い髪もよかったけど、この時は宍戸君が短髪でよかったと思った。
そう思ったのは、きっと“宍戸亮”という人間そのものを私は見たかったからなのだ。





熱い暑い夏が終わった。
今日が過ぎれば夏休みが終わって、明日から授業が始まり本格的な受験生だ。

「夏休み最終日に呼び出して悪かったな」
「いいよ。私も宍戸君と話したかったし」

さすがに今日学校に来ている物好きはいないのか、校舎全体がとても静かで教室にも宍戸君と私以外いなかった。

「あと半年でこの校舎ともお別れとなると、時間が過ぎるのって早えのな」
「そうだね。宍戸君は高校でもテニス続けるの?」
「おう。今年の無念、晴らさねぇといけないからな」

全国大会ベスト八——
それが氷帝学園男子テニス部の最終結果だ。
宍戸君の試合は勝ったけれど、それでも彼がこう言って悔しがるのは実に彼らしくて、こっそりと笑った。

「そっか。じゃあ来年も応援に行くね」
「じゃあレギュラーにならねぇとな。その時はまた、差し入れ持って来てくれるか?」
「サンドイッチでいいの?」
「それがいいんだ」

嬉しくなって手で口元を隠した。

もう夏が終わる。
でも、私の瞼の裏には、彼が居残り練習をしていたあの日の景色が今も焼き付いて残っている。

私は彼に言いたいことがある。
きっと、彼の髪を綺麗だなと思った時点でこの日が来るのは決まっていたのだと思う。

「あと、お前にひとつ聞きたいことがあって…」
「なに?」
「お前は、やっぱり俺の髪は長い方がいいと思ってんのか?」

拍子抜けの質問に、口元を隠さずに笑った。
教室に私の声が響く。

「な、なんで笑うんだよ!」
「ごめん。確かに宍戸君の髪は長くて綺麗だけど、短くても長くてもいいと思うよ」
「本当か?」
「だってどっちの宍戸君も宍戸君だし、私が応援する理由も変わらないから」

今日の私の髪型には時間がかかった。
くせっ毛はそのままに、ハーフアップにして右サイドにお団子を作った。
作り慣れた髪型の中で一番可愛い自信があるこの髪型。何度も鏡で確認して家を出た。
言うなら今だ。

「あのね、宍戸君…」
「俺、」

ほぼ同時に声を発し、互いに息を呑む。
「俺からいいか?」と言われたから黙って頷いた。

「これからもずっとお前に応援して欲しい。恋人として、俺の事見ててほしい。俺の彼女になってくれるか?」

瞼の裏に焼き付いていた景色が更新された。
今この瞬間の光景に。

「私も同じこと考えてた。宍戸君の彼女にしてください」

顔を見合わせて笑いあうと、不意に宍戸君の指が私の毛先に触れた。
大きくてごつごつした指先で、私の毛先が嬉しそうにくるんと一回転する。

「あと、もう一つ」

もう一度私の髪を優しくなでた。

「お前は自分の髪嫌いだって言ってたけど、俺は好きだぞ。柔らかくて、綺麗で、日によって髪型も変えて…可愛いってずっと思ってた」

生まれた時からくせっ毛で、この髪が次第に嫌いになっていた。
でも今ではまた大好きな髪になっていた。

どんな髪型でも、彼は彼であり、私は私だ。
だけど、これからは君に“可愛い”って言ってもらえるように頑張らないとね。

だって君が来年、全国大会優勝校メンバーになったらモテちゃうかもしれないし。
そして誰よりも貴方の事を応援するから、これからよろしくね。



back

top