ブリキの私

私の何がいけなかったのだろう。

そんな答えのない自問自答を何回繰り返したのだろうか。
一つ年上の先輩と付き合っていた。
初めての彼氏で、私の初恋だった。
でもフラれてしまった。他に好きな人ができた、と。
別れたくなかったけれど、あんな悲しそうな顔で言われれば私が諦めるしかない。

結局、彼との別れは「今までありがとうございました」の一言であっけなく幕を閉じた。

私の何がいけなかったのだろう。



「どうしたの!?大丈夫?」

放課後の教室で机に突っ伏していた私に声が掛けられた。
心配はかけたくないけれど、とてもじゃないが人に見せられるような顔ではない。

「ごめんね、大丈夫だから…」
「そんな事ないでしょ?調子悪いの?」

容姿端麗、ピアノが得意で2年生にしてテニス部の正レギュラー。性格も良くて人脈も人徳もある。君は本当に優しいね、鳳長太郎。

「ちょっと寝てただけだから気にしないで」
「教室じゃ風邪ひいちゃうよ。保健室行こう?」
「…っ!」

上半身を起こし、うつむき気味に話していた私の顔を彼が窺うように覗き込んだ。
心配そうに見る彼の瞳には、充血した目の私が映っていた。

「心配してくれてありがとう!今日は帰るね」
「あ、ちょっと……!」

その場に居たくなくて、荷物を持って教室から飛び出した。

酷い顔を見られたから。鳳君の優しさを無下にしたから。弱っている自分を人に見せたくなかったから———。
理由は何とでも付けられる。
でも今は自分の事が大嫌いで、彼の事が大好きだったという感情しかないのだ。
そんな状態で人と接するのが怖くて逃げだした。

ごめんね、鳳君。



家に着けばただいまも言わずに階段を駆け上がり、荷物を放り投げて布団に包まった。
何かが落ちた音と、お母さんが私を呼ぶ声がしたけど、そんなことも全て無視して泣いた。

いつの間にか寝ていたのか、時刻を確認したら朝の4時で外がうっすらと明るくなり始めている。昨日から着たままの制服が不快に感じた。
シャワーを浴びるためベッドから立ち上がろうとしたら足下でカシャンという音がして、手探りでサイドテーブルのライトをつけた。

そこには、いつもならサイドテーブルに置かれている人形が転がっていた。お父さんが海外出張の際、路上販売で買ったと言っていたお土産だ。青いオーバーオールに赤い蝶ネクタイと帽子、そばかすが特徴的な男の子の人形。身をかがめそれを拾い上げると、背中の塗装が剥げてしまっていることに気が付いた。おそらく拾ってきた人形に上からさらに色を付けて売っていたのであろう。そこから全ての塗装が剥がれないように慎重に人形を戻して部屋を出た。

朝から心配そうに話しかけてくる母に適当な言い訳をし、朝ごはんを胃に詰めて家を出る。

元気になった、とは言えない。本当は学校にも行きたくなかった。
でも鳳君の事が気がかりだった。昨日は逃げるように教室を出て行って、きっといい気分はしなかっただろう。だから事情は話さないにしろ、彼に謝りたかった。

学校までの道のりをノロノロと歩いていたら登校時刻ギリギリになってしまった。いつもは早く学校に着いているせいか、この時間は朝練終わりの生徒たちの姿が目立つ。

ちょうどテニスコートの方から校舎へと向かう人影が見えた。長身に優しい色合いの髪色。
重い足を気合で前へと動かして彼の元へと駆け寄った。

「鳳君、おはよう」
「あっ!おはよう。昨日はごめんね」

控えめに声を掛けたら、彼は私の顔を見るや否やそういった。
意味が分からず鳳君を見たら、申し訳なさそうに眉尻を下げて私を見ていた。

「謝るのは私の方で、なんで鳳君が謝るの?」
「だって俺が余計なこと言ったから……」
「どういう事?」
「気にしないでって言われたのにしつこく話しかけて、君のこと泣かせちゃったでしょ?だから本当にごめん」

どうやら彼は自分のせいで私が泣いていると勘違いをしているらしい。そう思うと一層昨日の事が申し訳ない気がしてくる。

「それは鳳君のせいじゃないよ。実は友達と喧嘩しちゃって…。でももう仲直りしたから大丈夫。昨日は驚かせちゃってごめんね」

これ以上心配を掛けたくなくて、少しだけ嘘を混ぜて謝った。
私の言葉を聞いて安心したのかほっと胸を撫で下ろして表情を緩めた。

「そうだったんだ。それは良かったね」
「うん。心配してくれてありがとう」


日常の会話から、なんとか普段通りの私を演じて他愛のない話を続けた。
課題の事とか、先日のクラシック番組の事とか。
そうしたらこわばっていた気持ちが少しだけほぐれていくのが感じた。





時間が経てば少しずつ立ち直れていった、と思う。
でも流石に相手の顔は見たくなくて食堂や図書室など、他学年と会うような場所は避けて過ごした。
今日も購買でお昼ご飯を買って教室で友人と食事をする。最近、食堂に行かないねという会話に曖昧に頷いて日々をやり過ごしている。

そんなことが当たり前になった頃、食堂から帰ってきた子が一番に私に駆け寄ってきた。

「最近、貴方の彼氏が3年の女の人と一緒にいるところ見るんだけどどういう事?」

3年の女の人。きっとその人が彼が選んだ相手なのだろう。私と別れた後に告白でもして、無事に付き合えたのだろうか。
自分の目で見る前に友人から聞いておいて良かったかもしれない。

「実はこの前フラれちゃったの。言ってなくてごめんね」

私が苦笑いをすれば、彼女たちから様々な質問が飛んできた。
なんで別れたのか。いつフラれたのか。もう立ち直れたのかetc…
一度に色々と聞かれすぎてどんな質問があったか全ては思い出せない。
でも返した言葉は覚えている。

「もう吹っ切れたから大丈夫」

自分でも虚勢を張ったことは分かっている。でも彼女たちが安心したように頷いてくれたから私は張り付けた笑顔のまま頷いた。

だってそうでもしてないと、この場でまた泣き崩れてしまいそうになるからだ。
考えたくもないのに、私の頭の中では彼の隣に知らない女の人がいる姿が描かれる。
それが辛くて悲しくて苦しくて、虚勢の一つでもなければこの場にいることすらできないのだ。


「話し中ごめんね。ちょっといいかな?」

無理に上げていた口角が痺れてきた。そう思った時、鳳君が私達の輪に入ってきた。そして申し訳なさそうに、私に視線を向ける。

「先生に呼ばれてるんだ。俺と一緒に来てもらってもいい?」

先生からの呼び出し。それも鳳君と一緒の用事とは一体何なのか。
見当もつかなかったけれどこの場から離れられることに安堵した自分がいる。

「分かった。ちょっと行ってくるね」

友達に断りを入れて席を立った。
廊下に出て職員室に向かう。かと思いきや、鳳君は逆方向へと足を向け歩き始める。

「どこに行くの?」
「あ、えっと、職員室じゃないんだ」

まだ昼休みは残っているので特に問題はない。
歯切れの悪い言いようを不思議に思いつつ、彼の後ろに付いて行った。

三年生の校舎へと続く階段が見えたので後ずさりしかけたが、それと同じタイミングで彼は足を止めた。

氷帝学園には学年ごとに使うことができるテラスが設置されている。生徒たちはそこで、勉強をしたりお喋りをしたりお菓子を食べたりと用途は様々だ。今の時間は昼食を食べ終わった生徒が何人か見受けられる。
さらにそのテラスの壁際まで移動して、彼は私と向き合った。

「ごめん。実は先生に呼ばれてるって嘘なんだ」

背が高い鳳君がその身を折りたたんで頭を下げる。
優しい色合いの髪が目の前で揺れて、ほんのりミントの香りがした。

予想外の行動に思考が追い付かなくなったが、冷静になり今の状況を考える。彼は無意味な嘘をつくような人ではない。だからこそ、その嘘をついてまで何故ここまで連れてこられたのか疑問だった。

「そうなの?」
「あの、君が居づらそうにしてたからつい声をかけちゃって……俺の勘違いだったらごめん」

頭の中でクエスチョンマークが行き交った。
確かに友達からの質問に嫌気がさしていた。無理やりの笑顔もつくり、虚勢も張った。しかし今までだって大抵の事はそうやって誤魔化してきたのだ。だから今回に限ってそれが鳳君に知れただなんて思えなかった。

「えっと、そんな風に見えてた?」
「うん。無理して笑ってるように見えた」

素直に発せられたその言葉が胸に突き刺さった。
だからこの時の私はひどい真顔になっていたんだと思う。

「ちょっと友達に質問攻めにされて疲れちゃったのかも。心配してくれてありがとう」

顔の筋肉が動かなくなってしまった私は、言葉で何とか自分を繕った。

なんで彼女たちではなく鳳君がそれに気づいたのか。
彼の一言で、“私”を取り繕ってきたものにひびが入るのを感じた。

だから私は彼の事が怖いと思った。
今まで繕ってきた自分という人間を見透かされるのが怖かった。
だって私の中身は空っぽで、身体を偽善のメッキで固めなければ立っていられないほどに脆いのだから。

昼休みも終わりに近づいたのかテラスからは人がぽつぽつと移動していく。
まだ心配そうに私を見る鳳君に、今度は笑顔も張り付けて声を掛けた。

「私はもう大丈夫だから教室に戻ろう」
「うん。戻ろうか」

最後に何か言いたそうにしていたけど、それすらも作った笑顔で言わせなかった。
これ以上、私のメッキを剥がさないで。

その顔は今までで一番、“完璧な”笑顔だった。





鳳君が怖かった。
鳳君と話したくなかった。
鳳君に見られるのが嫌だった。

そんな私の気持ちとは裏腹に、彼は毎日毎日私に話しかけてきた。
その度に空っぽの自分をありったけの言葉で繕って、笑顔の仮面を張り付けて彼と話すのだ。

決して自分の中身を見せないように。



「これ、この前言ってたピアノ協奏曲のCD。もしよかったら聞いてみて」

距離を置きたいと思っているのに、今日も彼は私に話しかけに来てくれた。
先日のクラシック番組で流れていた曲が素敵だったという会話を覚えていてくれたらしい。

「いいの?」
「俺はもう何回も聞いてるから気にしないで。返すのはいつでもいいから」

購買で新発売のお菓子が出れば分けてくれたり、課題で分からないところがあれば教えてくれたり。そんな些細なことがずっと続いている。

「あの、もしかして迷惑だった?」

CDのジャケットを見て固まっていた私を見て、申し訳なさそうに声が掛けられた。

「そんなことないよ。題名の英語が難しくてなんて読むのか考えてたの。貸してくれてありがとう」

すぐに笑顔を張り付けて、私はそう言った。
鳳君はしばらく窺うように私を見ていたけれど、いくつか会話をしていくうちにそれは薄れていった。

彼といると自分が何もない人間だということを思い知らされる。
純粋に優しい彼がそばに居ては、偽善でしかない自分が責められているように感じるのだ。



「ごめん、顧問の先生から用事頼まれてて片付けお願いしてもいいかな?」

歴史の授業が終わり年表を片付けていたら同じ係りの子にそんな事を言われた。とても急いでいるようだったので、快く承諾して世界地図も片付けた。

「運ぶの手伝おうか?」

筒状になった年表と地図を持ち上げたとき、そう声を掛けられた。
声の主はやっぱり鳳君で、私は振り返る前に仮面を顔に張り付けた。

「大丈夫だよ。意外と軽いし」
「でも大きいから大変でしょ?片方持つね」

返事より先に、地図が手の中から抜き取られた。私よりも完璧な笑顔を向けられては断ることなどできなかった。
それに彼の笑顔は“本物”で裏も表もなくて、純粋なものだからさらに私をみじめにさせるのだ。

歴史資料室には全学年が使う歴史の資料が収められている。そのためその部屋は3年生の校舎棟にあり少し距離がある。

そこへと向かう間も、彼は私に笑顔で話しかけてくれた。自分の部活の事やこの前食べたお菓子が美味しかったこと。そんな日常的な会話を、“普通”に楽しそうに話せる鳳君はやはり私とは違う人間なのだ。
ずるいとは思わない。でも羨ましいというにも、こんな私では失礼に思えた。

「手伝ってくれてありがとう」
「気にしないで。困ったことがあれば何でも言ってね」

あぁ、その顔。
私を何よりも苦しめる。

綺麗に片付け終えた事を確認し、ドアを開けた。
歴史資料室から出てきたとき、ちょうど廊下を歩いていた人と目が合った。
その人の姿を見て息が止まりそうになる。

「あっ……」
「先輩……」

私が大好きだった人。あの日以来、ほぼ何も変わっていなかった。
隣にいる人が私でなかったことを除いて。

「その子、後輩?」

気まずい雰囲気を感じ取ったのか、女の先輩が私の顔を覗き見た。
私はこの人に負けたんだ。
私の何がいけなかったのだろう。
そんな答えのない疑問が頭をよぎる前に、急いで仮面を張り付けた。

「去年、図書委員だった時にお世話になったんです。急いでるので失礼します。鳳君行こう」
「う、うん」

嘘は言っていない。先輩との出会いは委員会だったから。
図書委員の仕事を教えてもらった。一緒に広報も作った。彼が好きな本を私も好きになった。誰もいない図書室で告白された。

好きだった。
大好きだった。
本当に好きだった。
もう思い出したくないのに、あの人との思い出が溢れ出ていった。
けれど、一番強く思い出されるのはやっぱり別れようと言われた時のあの表情だった。

「ちょっと待って!」

腕を掴まれて立ち止まった。
そこで初めて自分が荒い呼吸をして額に汗が滲んでいることに気が付いた。

「ごめんね鳳君。歩くの早かったよね」
「もしかしてさっきの人、前に付き合っていた人?」

私の顔色を窺うようにそう言った。
バクバクとうるさい心臓に手を当てて、無理やり押さえつけた。
呼吸を整えて、冷静なふりをして口を開く。

「何でそのこと知ってるの?」
「前に君が友達に話してるの聞いちゃって…。ごめん」
「鳳君が謝らないでよ。私は大丈夫だから」

彼から別れ話しをされた時も泣かなかった。
友達にそのことを話した時も、笑ってもう大丈夫と言った。

私は偽善者だ。

誰にでも好かれたいと思っている。自分の嫌なところを見せれば、人が離れていくと思っている。
だから「大丈夫」という言葉と笑顔を使って、“優しい自分”を演じるのだ。

「あの先輩たちを見たとき、すぐに気づいたのに何もできなかった」

お願いだからそれ以上踏み込んでこないでよ。

「そんなの当然だよ。そばに居てくれただけで十分、心強かった」

もう限界なんだ。

「あのね、俺」

偽善者ですらなくなれば、私は何者でもなくなる。

「何?」

だからこれ以上、私を繕っているものにひびを入れないで。

「でも、俺はちゃんと知ってるから」

窺うような目ではなく、真っすぐに私を見た。
仮面が割れた。
言葉が出ない。

「君が誰も傷つかないように大丈夫って言葉を遣うこと、笑顔で自分の気持ちを隠すこと、俺はちゃんと知ってるから。だから、話さなくていいから俺の前で無理することないよ」

どうしよう。泣きそうだ。

なんでそんな簡単に私の気持ちを理解してくれるか。
なんで私が一番欲しい言葉をくれるのか。

色々な疑問が頭に浮かんだけれど、私が欲しいのはその答えではなかった。

「ごめんね、本当は全然大丈夫なんかじゃないんだ……」

人気のない廊下で顔を手で覆った。そして私はほんの少し涙を流した。
本当に欲しいのは、心を許せる場所だ。

鳳君はそれ以上なにも言わなかった。ただ黙ってそばに居てくれた。
それが、とても心地よかった。





最近、上手く笑えなくなった。
自分では分からないけど、友達からは「体調が悪いの?」とよく聞かれるようになった。
どうやって笑っていたか思い出せない。



「鳳君、ちょっといいかな?」

放課後、委員会の事で職員室に行った帰りに榊先生に声を掛けられた。明日の音楽で使う楽譜が部室棟の自室にあるから取りに行き、音楽室に用意しておいて欲しいとのこと。
榊先生の“自室”というのは、男子テニス部部室棟にある場所で一人で行くには中々に勇気がいる。しかもフロアマップには“会議室”と表記されているため場所も曖昧である。

「榊先生の部屋なら分かるよ。一緒に行こうか」

今日は部活も自主練ということで彼も手伝ってくれることになった。

鳳君の前で弱音を吐いたけれど、それからも彼はいつも通りに私に接してくれた。
きっと彼の事だから私が上手く笑えなくなったことにも気付いている。それでも何も言わなかった。

「ありがとう。もう楽譜も手に入ったし後は大丈夫だから」
「音楽室まで俺も行くよ。自主練日だけどここ男が多いし」

そんな気遣いをされてはやっぱり断れなくて曖昧に頷いた。
2階の廊下の窓からはテニスコートが見えて、ちょうど試合をしていた。
そういえば鳳君がテニスをしている姿は見たことなかったな、とぼんやり思っていたら何かにぶつかり思わず顔を上げた。そしたら鳳君が間近にいてすぐに距離を取った。

「ごめん、前見てなくて…」
「いや、話しかけても返事がなかったから立ち止まったんだ。俺の方こそごめん。怪我はない?」

優しい君はやっぱり謝って、一番に私を心配してくれるんだね。

「……鳳君はさ、なんでそんなに優しいの?」

そんな言葉がこぼれ落ちた。
何も考えずに出た言葉に自分でも驚いた。

「ごめん、何でもない。今のは気にしないで」
「俺だっていつも優しいわけじゃないよ」

鳳君はそう言って、ちらりと私を見て窓の外へと視線を向けた。
どうやらまだ試合は続いているらしい。しかし彼の瞳にはテニスコートではなく、いつかの思い出が映っているように見えた。

「試合で嫌なことされれば怒るときもあるし、思うように結果が出せなくて苛立つ時もある」

一瞬顔が歪んだけれど、すぐに穏やかな表情になって私に向けられる。

「それに誰にだって優しいわけじゃない。優しくしたいと思う子にだけそうしてるんだよ」

その言葉を信じることができなかった。
こんな私にまで優しい彼なら誰にだって優しくできるはずだ。

自分の気持ちが顔に出ていたのか、鳳君は私を安心させるように目を細めた。

「皆を平等に優しく、愛してあげられる人なんて神様しかいないんだ。俺は神様じゃないし君もそうでしょ?」
「そうだけど、私は全然優しくない。自分が傷つきたくないから、嫌われたくないから、都合のいいように優しいふりをしてるだけだよ」

初めて自分の気持ちを口にした。
以前に入ったひびの痕が疼いた。

「俺はそうは思わないよ」

ひびが少しずつ大きくなるのが分かった。

「それって結局、周りの人のためにしていることなんだよ。君は十分優しい人だよ」

笑顔の仮面も、取り繕う言葉も、私を守るものがなくなっていった。

「君が頑張った分、俺は優しくしてあげる」


涙がこぼれないように、下を向いて手の甲で押さえた。
自分を守るものがなくなった代わりに、私の頭に大きな手が乗せられた。
メッキが剥がれる音がした。



寝る前にサイドテーブルの明かりへと手を伸ばせば、また人形を落としてしまった。床には剥がれた塗装が落ち葉の様に散らばった。慌てて拾い上げると背中の塗装はかなり剥がれていて、その下に文字が書かれているのを見つけた。それが気になって悪いと思いつつも塗装を剥がしていった。

“The smile is the beginning of love.”
「笑顔は愛の始まり」

確かマザーテレサが残した言葉の一つに似たようなものがあった気がする。
背中の塗装がほぼ剥がれ落ちた人形をサイドテーブルに置いて、電気を消した。
まどろんだ意識の中、頭に乗せられた手のぬくもりを思い出した。





沈丁花の香りが桜より先に春の訪れを教えてくれた。
今日は3年生達の卒業式。春休みを終えれば私達が最高学年となる。

体育館脇の広場で先輩の姿を見かけた。でもだからと言って私が何を思う事もなかった。
きっと高等部に上がればまた顔を合わせる機会があるかもしれないけれど、その時の心配ももう要らないだろう。

その背中にさよならを言って、その場を後にした。

最後にもう一度と2年生の教室に足を運んだ。
そうしたら先客がいて、教室に足を踏み入れた私に笑顔を向けた。

「君も来たんだ」
「うん。鳳君も来てたんだね」

窓辺で外を見ていた彼の傍へと近寄った。彼の視線の先にはテニス部の先輩たちがいた。

「もうお別れは済んだの?」
「うん。あそこの帽子被っている先輩、宍戸さんって言うんだけど俺がずっとお世話になっていた人なんだ」

青い帽子を被った人が窓から見えた。跡部前生徒会長たちと楽しそうに話をしている。
運動部らしいその雰囲気もあるけれど、とても面倒見が良さそうに見えた。

「仲間思いの優しそうな人だね」
「そうだよ。だけど自分にはすっごく厳しくて努力家なんだ」

まるで自分が褒められたように、彼は頬を緩めた。

「もう話さなくていいの?」
「俺がいたら他の人と話せないしね。それに跡部さんからもそろそろ宍戸さん離れしろって言われちゃった」

困ったように笑う彼は、背は高いのにすごく可愛らしく愛おしく思えた。
その手触りの良い髪に手を伸ばしたくなったけれど、代わりに風がそれを撫でたので私は掌をぎゅっと握った。

「なんか鳳君といるとほっとするね」
「え?それってどういう意味?」
「むかし犬を飼ってたんだけどね、私がお母さんに怒られたりテストで悪い点とってへこんでるとずっとそばに居てくれたの。心配そうに私の顔見て、隣に居てくれた。その時と同じ気持ちになる」

数年前に亡くなった愛犬を思い出した。しばらくは夜になると布団を頭まで被って泣いていた。その時は本当に悲しかったけど、今になってみれば楽しかった思い出の方が強く思い出された。
きっと先輩との思い出も、もっと時間が経てばそうなるに違いない。

「俺ってさ、君にとってどんな存在?」

彼のお蔭で、肩の荷が降りたように穏やかな日々が送れるようになったと思う。
無理しなくていいんだよって自分に言えるようになった。でも、私より先にそのことに気付くのは鳳君だからいつも彼の優しさに助けられるんだ。

「友達だよ」
「友達?」

彼に復唱され、自分の口から出た言葉が不思議に思えた。
友達と一言で片づけてしまうには大きすぎる存在。

「ただの友達じゃないかも」

先に続く言葉が見つからない。
前の私だったら笑顔で「親友だね」と言ったのだろうけど、そんなんじゃない。
もっと言いたいことがあるのに、メッキが剥がれた私はまだそれを伝える術が分からなかった。

「俺さ、」

彼は大きく息を吸って、真っすぐに私を見た。
その瞳に吸い込まれるような気がして、今まで色々と考えていた頭も真っ白になった。

「気の利いた言葉とか掛けれないし、見かけよりも男らしくない。だけど、君の事は絶対に傷つけないし、辛いときはずっとそばに居る。君の事が好きだから誰よりも優しくする。だから、これからは恋人として隣にいてもいいですか?」

あぁ、どうしよう。
鳳君のせいで涙腺が弱くなったみたい。
そして私はそれに続く言葉を見つけた。

「私も鳳君の事が好きです。これからは、恋人としてよろしくお願いします」

頬に流れた涙はふき取らなかった。そしたら大きくて優しい手が伸びてきて、私の代わりに涙をぬぐった。
泣いてるのに、頬が緩んで笑ってしまった。

その日、本当の笑い方を知った。




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