人間生まれたときには大した差などない。そこから親からの育てられ方とか生活環境、自分を取り巻く人たちの影響で人格は作られていく。そして小学校後半くらいから社会での自分の立ち位置を知り、その決められた枠の中で生きる。
私はというと両親から一人娘として大切に育てられ、特に競い合うような環境にも置かれず、悠々自適な生活を送ってきた。学校でも目立つことはなく、勉強も中の上くらい。どちらかと言えば“地味”と言われる女の子グループに所属して、人の顔色見ながら相槌打って、平凡な毎日をそこそこ幸せに生きてきた。
そんな生ぬるい人生を過ごしてきた私がたった今、告白の現場を目撃してしまった。
恋愛に少しも興味がないなんて言ったら嘘になる。でもそういう事はドラマや漫画の中だけで満足していた。男子と話すことなんて一日数回程度の私が、現実の男の子に恋愛感情など芽生えたことはないのだ。
「悪いんだけど、彼女として見ることはできないかな。ごめんね」
放課後の図書室前の廊下。夏も終わり、日が暮れるのも早くなった秋色の夕日が、いま断りを入れた男の横顔を染めていた。彼の名前は幸村精市。同じクラスの男子で、長い闘病生活を経てつい最近学校へくるようになった。男子テニス部の部長だった人で、部員からもそうとう慕われていたそうだ。2年の時も同じクラスだったけれど、その物腰の柔らかさとルックスから女の子にモテる。背は高いのだけれど、どこか儚げで繊細そうな面影も彼の魅力のひとつだと私は思う。
「わかりました。聞いてくれてありがとうございます…」
断られたその子は、後ろ姿だったからどんな顔をしていたかは分からなかったけれど、そう言い残して足早に廊下を去っていった。
自分がいる世界とはかけ離れていて、青春ドラマのワンカットを見せられているような気さえした。いつまでものぞき見している訳にはいかず、ずっと手に持っていた借りたばかりの本をしまうため、鞄を開ける。その拍子に、内ポケットにしまっていた鈴付きの鍵が落ちシャンっという軽い音が廊下に響いた。もしかしたら幸村君がまだそこにいるかもしれない。偶々とはいえ、盗み見されていたらいい気はしないだろう。すぐにその場から立ち去るために鍵を拾おうとすれば、開けっ放しの鞄から次々と物が落ちていった。
「大丈夫?」
すぐにしゃがんで荷物を集めるも、動揺していた私がそんなに早く片付けられるはずもなく、先に声が掛けられた。さっき告白を断っていた優しい中世的な声。見上げれば、目の前に幸村君が立っていた。きょとんと不思議そうに私を見る目はあどけなくて、こんな状況にも関わらず可愛らしいなと思ってしまった。
「えっと、鞄開いたままなの気付かなくて落としちゃって……」
言い訳のような答えにもなっていない私の返事を聞きながら、彼は足元に落ちていた本を拾ってくれた。
「もしかして今の見てた?」
彼もしゃがみ、私と目線を合わせてそう言った。綺麗な顔立ちにあるその両目は、真っすぐに私を見た。何もかも見透かされるようなそんな視線。怖いと感じるよりも、嘘は付けないと感じる威圧感があった。
「ごめんね。そんなつもりはなかったんだけど…」
「それは今の君を見ればわかるよ。変なとこ見せてごめんね」
彼が謝る必要など何一つないのに、そう言って困ったように、そして自傷気味に笑った。
「そんなことないよ。海原祭が近いからこういう事も多いだろうし」
「それってどういう意味?」
海原祭とはいわゆる立海大の学園祭で、二日間に渡って行われる。中、高、大と同じ日にちに行われる海原祭は規模も大きく立海で最も盛り上がるイベントである。そのイベントを二人きりで回りたいが為に彼氏彼女を作ろうとする人たちがこの時期は増えるのだ。
「そうか。どうりで最近呼び出しが多いわけだ」
「幸村君も大変だね」
ようやく荷物を拾い終え、鞄の中身を確認する。あとは幸村君が拾ってくれた図書室での本を受け取れば全て元通り。そういえば一応2年間は同じクラスなわけだが、幸村君とこんなに話したのは初めてかもしれない。委員の提出物の事で話しかけたことはあるけれど、それは事務的なことで会話と呼べるものではなかった。見かけ通りの人だったなぁと思いながら、彼から本を受け取ろうとすれば、その手が不意に高く上げられた。
「君にちょっと頼みがあるんだけど」
にこやかに微笑まれてそう言われた。もしや拾ってもらったお礼に何かしろということなのだろうか。それとも、本当は盗み見したことを怒っているのだろうか。どちらにしろ今日は持ち合わせが少ないから奢る系のお願いなら後日にしてもらわないと困るのだけれど。
「えっと……何でしょうか?」
「俺の彼女になってくれない?」
今まで平々凡々に過ごしてきた私の日常が、彼の一言で一瞬にして崩れ去った。この人の頭は大丈夫なのだろうか。さっき女の子を振っておいて切り替えが早すぎない?いや、モテる人はこれくらいの切り替えのよさを持っているものなのだろうか。自分とは真逆の場所にいるような人と話せただけでも私にとっては日常からかけ離れた出来事だったのに、そんなことまで言われては私の思考は追いつかなくなる。
「それは、どういう意味?どういう事?」
「彼女って言っても、フリをしてほしいだけ。海原祭までの期間でいいからお願いできないかな。それとも君は今好きな人がいたりするの?」
彼女のフリか、ってそんなことを言われても納得できるわけがない。私じゃ幸村君に釣り合わないし、彼が頼めば喜んでその役を引き受ける女の子もいるだろう。好きな人なんていないけれど、これだけは引き受けるわけにはいかない。
「好きな人はいないけど……幸村君の彼女のフリなんて私には荷が重すぎるよ」
「そんなに深く考える必要なんてないよ。期間限定だし」
「それでも私みたいな地味な女と付き合ってるってしれたら幸村君にも迷惑がかかるよ」
「荷物拾ってあげたのに俺の頼み聞いてくれないんだ?」
「…ジュース奢るからそれじゃダメ?」
「ダメです」
美形という言葉が相応しい顔に、完璧な笑顔を張り付けて言われてしまえば、これ以上の断り文句が思い浮かばない。でも二つ返事で受け入れられるほど軽い役ではないのだ。
「あ、幸村君じゃん」
もうこの場から逃げちゃおうかな、そんなことを考えていたとき、幸村君を呼ぶ声が廊下に響いた。赤髪と、銀髪の男子生徒二人は親し気な笑みを浮かべ幸村君の方へと向かってきた。確か彼と同じテニス部の丸井君と仁王君って人だったと思う。全国大会出場歴をもつテニス部のレギュラーは校内では有名人であり、一度も同じクラスになったことのない私でも顔と名前は知っていた。
「二人とも久しぶり」
「部活引退してから会わんくなったのう」
「毎日会ってたから変なかんじだぜ。ん?その子誰?」
丸井君の発言により、三人の視線が私へと注がれる。気まずくて引きつった笑いしかできなくなった。いや、でもこれはチャンスかもしれない。丸井君と仁王君がいるのなら、もうあんなお願いはされないはずだ。この機会に帰ってしまえばいい。
「あ、えっと私はこれで……」
「この子は俺の彼女だよ」
「「「え?」」」
三人そろって同じ声が出た。とても自然な流れで発せられたその言葉に、みんな驚きを隠せていない。でもその状況に気付いていないのか、または楽しんでいるのか分からないが彼は言葉を続けていく。
「いま告白したらいい返事をもらえてね。付き合えることになったんだ」
「マジかよ!幸村君!」
「ほぅ。幸村が意外じゃのう」
頭の中が真っ白になった、ってこういう事をいうんだなと思考が途切れかけている頭の隅で思った。二人ともとても意外そうな目で私を見ている。当然、こんな地味な女が彼女と聞かされれば相応のリアクションである。
「ね、俺は君の彼氏ってことでいいでしょ?」
「は、はい………」
この時点ではっきりと否定すれば良かったのに、それができなかった。二人の視線と、幸村君の笑顔、それをここで壊す勇気もなくて気付けば彼の思惑通りに話は進んで行ってしまっていた。
でもさすがにこれ以上、踏み込んだ話題に触れられるのは不味いと思ったのか、一言二言の言葉を交わして幸村君は二人を追い払った。再び私達だけの廊下になる。
「じゃあ、これから彼氏としてよろしくね」
「本気ですか?」
「もう後戻りはできないでしょ?そういえば本を返してなかったね」
先ほど返されなかった本を、今度はしっかりと手渡される。鞄に収まるほどのその本がやけに重く感じた。
「俺達、気は合う方だと思うけど。あとその本は間違って書かれている部分もあるからあまりおすすめはできないかな」
そして彼は、今日は用事があるから帰ると言い加えて、軽快な足音を鳴らしながら廊下を歩いて行った。私は受け取ったばかりの本へ視線を落とす。“花の肥料と栽培方法”と書かれたその本は過去の失敗を再び繰り返さないように借りたものだけれど、それを読む気力もなくなってしまった。
◇
「一緒に帰ろうか」
その一言で放課後の教室がざわついたのは言うまでもない。
昨日あんなことが合って、でも今朝教室で顔を合わせたときはいつも通りだったのだ。おはようという言葉すら交わさなかったから、てっきり悪い冗談だったのかなって思っていた。でも今、私の目の前には鞄を肩にかけてにっこりとほほ笑む幸村君が立っている。
「やっぱり、本気だった…」
「もちろん。あ、荷物持ってあげるね」
周りの突き刺さるような視線を感じながら皆に聞こえないような小声で尋ねたのに、私の事などお構いなしに彼は机の上に置かれていた私の鞄を持ち、周囲を気にすることなく教室を出て行った。荷物を持って行かれた私も、彼を追いかけないわけにも行かず急いで彼を追いかけた。
「俺ここに行ってみたいんだけど付き合ってもらえないかな?」
「は、はい……」
荷物を返してもらってからも、彼は周りからの視線も、私の態度も気にすることなく自分のペースを貫き通す。引き受けてしまった以上、私もこれ以上ぐちぐち言ってはいけないと思い覚悟を決めて幸村君の横へと並ぶ。
スマホを操作しながら彼が行きたいというお店のHPを見せられる。それは今年の春にできたカフェであり、パンケーキやフレーバーティーを売りにしているお店だ。開店当初に友達と一度だけ行った覚えがある。
「ずっと気になってたんだけど一人じゃ入りずらいし、部員と一緒に行くのもね」
「男の人だとちょっと入りずらいよね」
「君は行ったことあるの?」
「うん。その時はフラワーパンケーキっていうの食べた」
薄めのパンケーキを三枚重ねて、その上にメイプルシロップと粉砂糖を降りかけ、薄ピンクの花びらを散らしたそれは、とても華やかであった。そのとき、添えられていた花まで食べようとしたら友達に変な目で見られたっけ。
雑談をしているうちにお店へと着き、店員さんにテラス席へと案内される。開店当初は行列までできていたが、平日の午後とあってお客さんはまばらであった。幸村君はフラワーパンケーキを、私はバナナパンケーキを注文した。
「いろんな花が植えられてるね」
「うん。俺も学校の花壇をもう一度こんな風にしたいな」
メニュー表からテラスに置かれたプランターに視線を移し、そこに咲く花を一つ一つ眺めていた幸村君に初めて自分から話しかけた。まだわずかな暑さが残る9月の午後、時折吹く風が花を揺らし金木犀の香りを運ぶ。その香りを肺に取り込めば秋がすぐ近くまで来ていることを感じさせた。
「屋上庭園とか?」
「よく分かったね。昨日本も借りてたし、君も花は好きなんだよね?」
疑問というよりは確信に近い聞き方をされ、昨日の本が頭に浮かんだ。でもそれは決して花好きだからというわけでもなく、負い目を感じて育てている花のために借りたものなのだ。
去年の12月、年末の大掃除ということで私たちのクラスから数人が屋上庭園の掃除を任されていた。確か今年一番の冷え込みになると天気予報で言われていた日だったと思う。雪こそ降ってはいなかったが、そんな日に外の掃除なんて誰もやりたがるはずもなく、くじ引きでやる人を決めた。
くじでアタリを引いてしまった私以外の人は全員男子で、私は一人で黙々と掃除をしていた。その時、屋上庭園の花々が枯れてしまっているのを目のあたりにした。遠目では何も植えられていないように見えたのだが、よく観察するとわずかなに色づいた花が土の上にへたり込んでいる。もうほとんど壊滅状態であったその花壇の端に、それでも頑張って生きようとしている花を見つけた。名前も知らないその小さな白い花たちを放っておけなくて、人目を盗んで鉢植えに移し替え家で世話をした。結局その花は二度と元気な姿を見せることはなかったのだけれど。
幸村君が屋上庭園の花の世話をしていると知ったのは彼が退院してから、「俺がいない間に屋上庭園の鉢植えが一つなくなってたんだけど。花壇の一部も掘り返されていて腹が立ったよ」と彼がテニス部の柳君と話していたのを聞いたとき。
鉢植えも持って帰ったままで、尚且つ花壇を荒らし大切に育てていた花まで枯らしてしまったとはとても言えなかった。だから、償いでもないのだけれど、同じ花を買いそれを移し替えて少し育ってからひっそりと返そうと計画していたのだ。
もう少し大きくなれば、花壇に植え替えてもきっと強く咲くことができる。でもこれは幸村君にバレるわけにはいかないのだから隠し通さないといけない。
「最近興味が出てきて…育ててる花があって、そのために本を借りたんだ」
「へぇ。なんて花なのかな?」
「白色のカランコエって花」
「あぁ、あの小さい花がたくさん咲く可愛い花だよね。あれは次々と花茎が出てくるから花が3割くらい枯れてきたら思い切って花茎の付け根から切り落としたほうがいいよ」
「そうなんだ。まだあんまり咲かせてないからもう少ししたら気を付けてみる」
「なんでその花を育てようと思ったの」
「え?」
それは幸村君が大切に育てていた花だからだよ、なんていう事も出来ず言葉がつまる。どうしようかと目線をさまよわせていれば、ちょうど店員さんが私たちのテーブルに注文したものを運んでくるのが見えた。
「幸村君、パンケーキきたよ」
運ばれてきたお皿を見て、幸村君の瞳が輝いた。すごいね、と言いながらスマホで写真を撮る姿は、私よりも大分女子力が高いと思う。私もこの日の思い出にと、数枚写真を撮った。幸村君と食事をするのなんて、きっと今日が最初で最後なんだと思う。
「エディブルフラワーがとても綺麗だね」
「エディブルフラワー?」
聞きなれない単語に首をかしげる。お皿に散りばめられている花の名前だろうか。
「食用の花の事をそう呼ぶんだ。このゼラニウムとか少しだけ甘い香りがして美味しそうじゃない?」
彼は一口大に切ったパンケーキと一緒に薄ピンクの花びらをフォークで刺して私の前へ差し出した。食べるわけじゃないのに…と思いながら鼻を近づければ、メイプルシロップとは別の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「ほんとだ」
「はい、あーん」
「え?」
自分の間の抜けた声が出たと思ったら、その僅かに開かれた口の隙間にパンケーキを押し込められる。それを丸飲みにしないよう、なんとか口の中に留めて咀嚼すれば花の味がわずかに舌の上で感じられた。
「お、美味しいです……」
「ね。そうでしょ」
彼は満足げに私の表情を見ながら自分もパンケーキを頬張った。もっと上品な人かと思ったけれど、昨日今日で彼の印象が大分変った気がする。2年生の初めの頃はこんなに人と慣れあうような人物ではなかったと思うのだけれど。
「幸村君って意外と無邪気だよね」
「ん?無邪気っていうのは初めて言われたかな」
「えっと、子供っぽいって言いたいわけじゃなくて、なんかこう人生楽しんでるなぁみたいな」
「まぁある意味、一度死にかけたからね」
そこまで話して、私のナイフを動かす手が止まった。病気の事は彼が一番話したくない話題であろう。彼が学校に再び登校するようになったときも、それについては触れないようクラスの暗黙の了解となっていたのだ。
窺うように幸村君を見ると、彼は変わらない様子でパンケーキを口に運んでいる。このまま、彼の発言を無視することもできたが、当然そんなことはできるわけがない。
「ごめん、幸村君。そう言いたかったんじゃなくて…」
「わかってる。君も俺に気を遣わなくていよ。やっと退院できて人並みの生活を送れるようになった俺を笑ってるんだろ?先生もクラスの奴らも“あたりまえ”の事をさも特別な事のように綺麗な言葉を張り付けて俺に押し付けてくるんだ」
「みんな幸村君のことが好きだから、今を幸せに過ごしてほしいだけだよ」
「違うよ、みんな綺麗事を言う自分が好きなんだ。自分より弱い者に優しくして優越感に浸って自分に酔っている」
昨日から仲良くなった程度で、しかも期間限定の恋人で、私が彼の心にこれ以上踏み込むべきではないことは十分わかっている。
でも、彼の自暴自棄になっている発言に、私の中の何かがふつりと切れるのを感じた。人望もあって、テニスも上手くて、私なんかよりももっともっと人生を楽しんで生きるべき人なのに。周りからの優しさを素直に受け取らない彼に。
「幸村君が学校で過ごせなかった半年間、それを普通の学生として過ごしてもらいたいからそうしてるんだよ。私なんかよりたくさんの物を持ってるのに、人の善意を無視して……そんな風に捻くれてる暇があったら花壇のひとつやふたつ、綺麗な花でいっぱいにしてよ!」
カシャンと食器が触れ合う音で我へと返る。目の前の幸村君の手元を見ると、食べかけのパンケーキが刺されたままのフォークがお皿の上に転がっていた。本人はというと、その綺麗な紫色の瞳を揺らしていた。これは本気で怒らせたかもしれないと思っていたら幸村君が突然笑い出した。
「あはははは!俺に怒るのは真田くらいだと思っていたのに、君は面白いね」
男の人が、いや、あの幸村君がこんなに声を上げて笑うところを誰が想像しただろうか。目の端を濡らして肩を揺らす姿は、その容姿からはとても想像できるものではなかった。
「色々言ちゃってごめん……怒ってないの?」
「怒る?そうだな、強いて言えば“私なんか”と言ったことかな」
目の端の涙をその綺麗な人差し指で拭ってそんなことを言った。
「君はとっても素敵な女性だよ。自信をもっていいのに」
「いや、そんなことは全然ないよ…」
「つまり君を選んだ俺も、“俺なんか”かなぁ」
「それは違うよ!」
「じゃあ君も違うね」
お皿の上に落してしまったフォークを持ち上げ、一口パンケーキを口の中に放り込む。ゆっくりと咀嚼して私に微笑みかける。
「君はとても素敵な考えを持っているのに、それを周りに伝えないのはもったいないよ。それに、もっと前を向いて笑えばいい。人生は一度きりなんだから」
楽しそうにそう言った。悲観するわけでもなく、ただただ私の事を真っすぐと見て、芯の通った声で。
幸村精市とは、病気に打ち勝ち、全国三連覇という期待を背負い部長として復帰した強い男。でもその裏には触れたら壊れてしまうような脆さも持っている人だと知った。そんな繊細な世界で生きている彼を、私は美しいと思った。だからこそ目が離せなくて、自然と彼の周りに人が集まりそれが人望へとつながるのだろう。
◇
秋晴れという言葉がぴったりと当てはまる青空。暖かな日差しを届ける太陽の下で、スコップで土を掘り起こす。
今日の放課後は屋上庭園での苗の植え替えの手伝いを彼にお願いされた。業者に頼んだ花の苗をスコップで掘り起こした土の中に丁寧に植えていく。元々こういう地味な仕事は好きだし、化粧っ気もないから汗をかくのも気にしない。さすがに制汗剤は常備しているけれど。
「ここの花壇は終わったよ」
「ありがとう。じゃあこっちを手伝ってくれないかな?」
幸村君に呼ばれ、彼の隣へと移動する。先ほど教えてもらったダリアという花を植え替えていく。彼の影響だけれど、最近は花を育てるのも楽しいかなと思い始めていた。地道に世話をすればそれに応えて花を咲かせてくれる。普段、人に何かを与えることのできない私にとっては植物こそその相手に相応しいと思った。
「植物のお世話するの楽しいね」
「それは本当かい?女の子は汚れるとかめんどくさいっていう子が多いから。咲いた花だけ見て綺麗と言って、その過程を嫌う子はあんまり好きじゃないんだよね」
「そうだね。でも頑張った人にしかその花の価値を分からなくてもいいんじゃないかな」
「君も言うようになったね」
「幸村君のおかげかな」
カフェに行った日以来、幸村君は自分が思ったことを素直に言うようになったと思う。嫌味って程の事じゃないけど繕わなくなった。他の人たちには今まで通りの完璧な彼を見せているのだけれど、私といるときは稀にこのような尖ったことを言う。
私としては今の彼の方が一緒にいて楽だ。相手の顔色を窺って決められた言葉を吐くよりも、とても生きやすくて居心地がいい。
「これで最後だね」
「あっちの花壇はいいの?」
「そっちには違う花を植えようと思っていてね。海原祭後に届くと思う」
また手伝うよ、という言葉が喉から出かけて呑み込んだ。その花が届く頃、私は彼の横にはいない。そして、私が育てた花を植えるスペースもきっとなくなっているんだ。
今まで通りの生活に戻るだけ。変わらない日常、平凡な毎日をそこそこ幸せに過ごしてきたのにそれじゃつまらないと思ってしまう自分がいる。
全ては彼のおかげであり、彼のせいである。だからと言って責任を取れとはいえない。だから残りの期間、せめてもの思い出作りはさせてほしいと思う。
「この箱片付けてくるね」
「手伝おうか、と言っても君なら大丈夫そうだね」
「もちろん」
彼のあどけない笑顔を胸に収めて、私は空箱を片付けに行った。
◇
約束の二週間はあっという間に過ぎて行った。
私たちが付き合っているという噂はすぐに広がったけれど、それを悪く言うような人はいなかったと思う。私の耳に入っていなかっただけかもしれないけれど、今思えば幸村君が上手く立ち回ってくれていた気もする。
彼と過ごす非日常的な日々も今日で最後。
海原祭前日の今日は教室の飾り付けと備品の最終確認をしてクラス委員が当日のスケジュールを確認して解散となった。
「一緒に帰ろうか」
このセリフを聞くのも今日で最後。
「幸村君、屋上庭園で待っていてくれる?」
屋上庭園で、と言った言葉に疑問を抱きつつも彼は先に行ってるねと答えてくれた。すぐに行くからと付け足して、私は昇降口へと向かう。その近くの空き教室、予備の机や椅子だけが置かれているその場所に不自然に置かれた紙袋の中身を私は確認する。今朝自宅から持ってきて隠しておいたその紙袋には、あの日持って帰ったままの鉢植えが入っていた。今は枯れた花ではなく、白い花がその鉢を彩っていた。
「おまたせ」
先に屋上庭園に来ていた彼は、近くの花壇の前にしゃがみ、先日植え替えたばかりの苗の様子を見ていた。
破れないように二重にした紙袋の中に入れてきた鉢植えを取り出し、彼に差し出した。小さな花をその茎の先にたくさん付けて風に揺れる白い花。立派に成長してくれたこの花は、黙って植え替えるには大きくなりすぎてしまった。
「カランコエじゃないか。君が育てていると言っていた花だろう?」
幸村君はその鉢植えを受け取り、花を見つめた。
私は全てを話した。幸村君の花を勝手に持ち出したこと、それを結局枯らしてしまったこと。だから同じ花を育ててこっそり移し替えようとしていたこと。
たった二週間だったけれど、それは私が生きてきた約15年の中で一番密度の濃い日々を過ごすことができた。大げさだと思われるかもしれないけれど、それほどまでに私は今までつまらない日々を過ごしてきたのだと思う。
今日で最後なのだから今さら隠しておく必要はない。ただその思い出をくれた彼に、私はこの花を贈りたい。
「今まで黙っててごめんね」
「ううん。どちらにしてもここにいたらその花は枯れていたよ。でも、この花は俺が育てていたものとは違うね」
「え?」
花の知識がなかった私は、冬に咲く白い花を本で探して苗を買ってきた。枯れかけの花びらからではその種類を判別するのすら容易ではなかったのだ。
「ここに植えてたのはノースポール。カランコエは冬にも咲くけど寒さに弱いから室内じゃないと育たないからね」
「そうだったんだ……」
「ねぇ、カランコエの花言葉を知っているかい?」
人房の花を持ち、その香りを楽しんでいる彼の顔をみた。白い花は嬉しそうにその身を揺らしている。
「分からない」
「いくつかあるのだけれど“幸福を告げる”、“おおらかな心”といった意味がある。でも今一番ぴったりくるのは“たくさんの小さな思い出”かな」
「思い出…?」
「実は蓮二に調べてもらって君が花壇の花を移し替えて鉢植えを持って行ったことは知ってたんだ。その時からかな、君を目で追うようになったのは」
先日植え替えたダリアの花が風に揺れる。優雅という花言葉に相応しく、体を揺らすその姿が、幸村君の瞳に反射して映った。
「ずっと引っ込み思案だった子に、俺が声を掛けたらどうなるんだろうと思って彼女役を頼んだんだ。興味本位で声を掛けたのは謝るよ。でも、今は君で良かったと思っているんだ。一緒に帰ったことも、花壇の手入れをしたのも、怒ってくれたことも……たくさんの思い出を君は俺にくれた」
「感謝をするのは私の方だよ。つまらなかった私の日常を幸村君が変えてくれたんだから」
「まだ足りないよ。次は俺が君にそうさせてくれないかな。まずはここの庭園を、そして数えきれないほどの思い出を君に贈るよ」
彼が持つカランコエが私たちを見て笑った気がした。
「今日までじゃない。これからも俺の彼女でいてくれる?」
「本当に私でいいの?」
「君じゃなきゃダメなんだ」
「じゃあ来年は高校の屋上庭園もお願いできる?」
「随分と言うようになったね。もちろん、君が望むなら約束しよう」
庭園に花が咲き乱れるころにはきっとそれ以上の思い出ができていると思う。
色とりどりの花々に負けないほどの思い出を、私も貴方に贈ると約束しよう。