「越知君!頭危ない!」
ガンッ———
鈍い音が階段下で響いた。
私の忠告は、残念ながら間に合わなかったようだ。
「さして、問題ない」
放課後の掃除時間、昇降口の当番であった私たちは階段下にある掃除用具入れまで箒を片付けに来ていた。階段下ということでとても狭いスペースで、私ですら屈まないと頭がぶつかるくらいだ。
「大丈夫?」
「あぁ」
後頭部をぶつけたようで、そこを手で押さえながらゆらりと立ち上がった。
こんなことなら私が越知君の分まで箒を片付けたらよかった。
同じクラスの越知月光君はめちゃくちゃ背が高い。2メートルは確実にある。教室に入るときは頭を下げ、先生と話す時は申し訳なさそうに猫背で喋っている。髪型のせいもあると思うけど、あまり感情を表に出さない。口数は少なく、さっきの会話が彼の普通だ。背は高いけれど本人に目立ちたい意思はない、そんな人。
私も自分の分の箒を片付け、荷物を取りに教室に戻った越知君の後を追いかける。
さすが背が高いだけあって足も長いから歩くスピードも速い。
「越知君、待って!」
追いついたときには、すでに鞄とテニスバックを持ち教室を出ようとしていた時だった。他の生徒も帰ったのか私の荷物だけが教室に残されている。
「どうした?」
「保健室行こう」
「そこまでの必要はない」
「保健委員長が言ってるんだけど」
お節介と世話焼きが乗じて保健委員長に推薦されたのだから、彼をこのままにしておくわけにはいかない。
急いで教室へと駆け込んで、自分の鞄を持ちだした。もしかしたらすでにいなくなっているかもと思ったが、彼は入り口で私を待ってくれていた。
「ほら、行こう!」
「そこまでの怪我ではない」
「早く行くよ」
「……わかった」
打撲のときはすぐに冷やすことが大切だ。早足で保健室へと向かう。しかしどんなに早足で歩いても越知君の方が速いわけで、気になって後方を盗み見た。そうしたら意外にも彼は歩幅を狭めて私の後についてきていた。
その姿が可愛くて、少しだけ笑ってしまったことは秘密である。
◇
彼が教室にいると安心感が生まれる、と私は勝手に思っている。
教室にいると大黒柱のような太い柱が刺さっているような感じがする。
でもやっぱり目立つのが苦手な彼は、その身を無理やり椅子に収めて窓の外へと視線を向けていた。
「昨日の怪我は大丈夫だった?」
前髪の隙間から私を覗き見て、視線を下げた。昨日ぶつけたところに手を当て、怪我の具合を確認しているようだ。
「痛みは引いた」
保健室にて氷水で冷やしたかいはあったらしい。たんこぶができているとしても、それは自然治癒に任せるしかない。
「よかったね」
「あぁ」
保健委員長の責任は果たせたようだ。
越知君とまともに話したのはこれが初めてかもしれない。せっかくだからもう少し話してみたい。
「部活に支障はなさそう?」
「あぁ。問題ない」
「都大会も勝ち抜いたんだよね」
「あぁ」
「………」
ヤバイ。会話が続かない。
やはり、昨日今日では距離を詰めるには難しかったようだ。
「じゃあ、次の試合も頑張ってね」
「あぁ。それと昨日の礼がまだだった。ありがとう」
「え?う、うん!保健委員長として当然のことだから気にしないで。もう怪我しないでね!」
突然の言葉に、思ったような言葉が出ず可愛げのないことを口走った。
「次はないように気を付ける」
彼特有の間とか、短い言葉での会話。それを不快だとは思わない。
けれど、もっと越知君が喋るところを聞いてみたい。彼の表情が変わるのを見てみたい。
そっぽ向かれると追いかけたくなるのは、世話焼きである私の宿命かもしれない。
彼と仲良くなりたい。
そう思った瞬間だった。
「おい」
「うぉっ!」
驚いて振り返れば目の前に壁があり2、3歩後ずさった。でも距離を取ってすぐにそれが壁ではなく人であることに気付く。
「お、越知君!びっくりした……」
「今の、お前の声か?」
今月の保健だよりの内容を考えながら廊下を歩いていたものだから完全に油断した。
女子とは思えないほどの、おっさんのような声を出した自分を思い出し恥ずかしくなる。
仲良くなる前に可愛らしい叫び声のひとつも出せるよう練習しといた方がいいかもしれない。
「私の声だね…」
「そうか」
また「うぉっ!」と叫びだしそうになり寸前で呑み込んだ。
越知君が笑っただと!?
瞬きをしたら、いつもの表情に戻っていてそれを確認することはできなくなってしまった。
でも視力2.0の私が見間違うわけがない。確実に笑った。
頬が緩んでわずかに口角が上がった。前髪の隙間から細められた目が見えた。
普段の彼と比べたら、それが笑顔であると確実に言い切れる。
「これ」
「え?」
驚きが抜けきらない私の前にお茶のペットボトルが差し出される。意味が分からないまま、それを受け取った。
「昨日の礼はしていなかった」
「ここまでしなくていいのに……」
ペットボトルの冷たさがひんやりと手に伝わる。どうやら買ってきたばかりのようだ。
お礼と言われてもしたことといえば氷水で冷やした程度だ。さすがにこれは貰いすぎてしまったような気もする。
そこで一つの案が私の頭に浮かんだ。
「そうだ、今度試合の時に差し入れ持ってくよ」
これをキッカケにすればいいのだ。
彼は首をかしげて不思議そうに私を見ている。
近所の野良猫に似ていると、その様子を見てふと思った。少し慣れれば近づいてきてくれる猫みたいな存在。
「ほら、今年のテニス部頑張ってるんでしょ?越知君が部長なら全国大会も夢じゃないよ」
越知君は姿勢も表情も変えずに私を見下ろしている。
出過ぎたマネをしたかもしれない。でも今私から歩み寄らなければ彼は野良猫のように警戒心を取り戻し人に近づかなくなってしまう。
この機会を逃してたまるか。
「好きな食べ物とかある?」
「更科そば」
「そばは差し入れには向かないよ……」
「では水」
「水!?」
これは越知君風のボケなのだろうか。いや、でも彼の顔色は何一つ変わっていない。
下手に笑って気分を害するのもいけない。これは難しい選択だ。
「そろそろ部活へ行く」
結局正解を見いだせないまま、越知君は私の横を通り過ぎる。
まだ野良猫への親密度が足りなかったようだ。いきなり距離を詰めたら逃げられてしまう。
「おい」
がっくりと肩を落としかけたとき、廊下の先で声が聞こえた。驚いて顔を上げると、越知君が立ち止まっていて揺れた髪の隙間から目が合った。
「来週が関東大会だ。アリーナテニスコートで行われる」
野良猫は最後にそうひと鳴きして、青い尻尾を揺らして姿を消した。
週末に静岡・山梨辺りの山へ水を探しに行った方がいいかもしれない。
そんな当てもない計画を頭に描いて、近所の野良猫用にネコ缶を買って帰った。
◇
探すまでもなく、背が高い彼は自らの場所を教えてくれていた。
他校の生徒も、そして審判達ですらその背の高さに圧倒されている。なぜかその表情を見て私が誇らしくなってしまった。
その日、初めて越知君のテニスを見た。
手足も長くてリーチもある。頭上から打たれるマッハレベルの速さのサーブ。そしてその気迫に圧倒されるように相手選手はミスを連発していた。
夢中で見ていたらあっという間に試合は終わって、周りからは「今年の氷帝はヤバイ」という声がいくつも上がっていた。
「越知君めっちゃすごかったね!かっこよかったよ!」
部長である越知君の手が空くのを見計らって、声を掛けた。試合が終わってから随分と時間が経っていたのに興奮は冷め止まない。
「速すぎて何がどうなってるのか分からなかったよ。相手選手もびっくりして固まってたよね。っていうかこれで全国大会の出場が決まったんだっけ?さすがだね、おめでとう!」
矢継ぎ早に話す私を無言のままじっとみている。
先日のおっさんボイスに驚かなかった彼が今さら私に引く要素はないだろう。だからそのままの勢いで言葉を続けた。
「周りの人たちも氷帝すごいって言ってたよ!越知君は嬉しくないの?」
彼の顔を覗き込むように聞いたら、顔を背けられてしまった。でもめげずにさらにその横顔を見続ける。そしたら降参するように両手を挙げられてしまった。
「そんなに見ないでくれ」
「なんで?」
「いや、その、だな………」
そこで初めて越知君の頬がほんのりと赤く染まっていることが分かった。
髪の色がそれと対照的だからやけに頬が色づいて見える。
「照れてるの!?」
「………」
その無言は十分すぎるほどの肯定を表していた。
「無言だから嬉しくないのかと思った」
「お前がそんなに喜んでいたとは思わなくてびっくりした。自分が喜ぶタイミングも忘れるほどに」
落ち着きを取り戻したのか、手は下げられ背筋は真っすぐに伸ばされていた。しかしまだ顔は背けられたままだ。
「ごめん、私の方がはしゃいじゃって……」
「いや、そうではない。俺は、感情を表に出すのが苦手だ。寧ろ俺の代わりに喜んでくれて感謝している。礼を言おう」
その長身を綺麗に折りたたんで彼はお辞儀をした。
でも周りからしてみれば「大男に頭を下げさせる女は何者だ」と言わんばかりの視線が私に突き刺さり、慌てて越知君をつれて場所を移動した。
「どうしたんだ?」
「いや、ちょっとね……。あ、これ約束していた差し入れです」
ずっと手に持っていたバックを、そのまま越知君へと差し出した。
山へと足を運ばなくても、今ではネット通販という大変優れたものがある。そこで日本の銘水シリーズから5本ほど厳選して持ってきた。500ml×5本は相当な重量であった。炎天下の中、よく持ってきたな自分。
「いいのか?」
「もちろん。お望み通りのお水です」
ペットボトルのラベルをまじまじと見つめている。
本当にこんな差し入れでよかったのかとも思ったがその横顔で安心できた。
感情を表に出すのは苦手だと言うけれど、私には充分越知君の変化がわかるよ。なんといっても視力2.0ですから。
「越知君、笑うと可愛いね。なんか猫っぽいし」
肩をびくりと揺らし私を見た。ちょっと臆病なところもそれっぽいよ。
「初めて言われた」
「そう?笑った時優しい目をしてるよ」
前髪を手で整え、彼は目を隠した。
「どうしたの?」
「小さい頃から目つきが悪いと言われていた。試合中、俺が相手を見れば精神が破滅しミスをするようになる。“精神の暗殺者”なんて呼ばれている」
「すごい二つ名だね。私はそうは思わないけど」
「本当か?」
「じゃあ私が新しいの考えるよ。越知君は猫っぽいからー……」
「遠慮しておく」
少しだけ屈んで、私に視線を合わせるようにそういった。でもやっぱり越知君の方が背が高いから、見上げるようにしていたら髪の隙間から瞳が見えて、吸い込まれそうになった。
全然、怖くなんかないよ。
「そろそろ戻る」
「そっか」
「……この後はどうするんだ?」
「え?うーん。もう少し他の試合見てから帰ろうかなって」
「帰りは送る。待っていろ」
越知君は優しい。
でもこの優しさは、私にしか分からなくていいと思った。
何故そう思うのか。その理由もしばらくは知りたくなかった。
◇
全国大会ベスト16——
それが今年の氷帝学園テニス部の結果となった。
その結果よりも、“氷帝学園”の名を全国に轟かせることができたことに学園は彼を称えた。
「全校集会で表彰されてるとき、越知君笑ってたね」
「そうか?」
シャツの上にカーディガンを羽織るようになって、金木犀の甘い香りがするようになった。
運ばれてくる落ち葉の量が増え昇降口の掃除が大変になった。
けれど越知君と話す時間が増えたと思えば憂鬱になんてならなかった。
「榊先生にはもっと笑えと言われた」
「前髪あげたらいいんじゃない?ヘアピン持ってるよ」
「本気で言ってるのか?」
「絶対かわいいよ」
「ごみを捨ててくる」
落ち葉が詰まったゴミ袋を持って私に背を向けた。その背中を駆け足で追いかけた。
「お前はよく喋る。が、飾らずに言えるところは長所だな」
「友達からはうるさいって言われるよ」
「近所の犬に似ている」
「犬だったらプードルが好きだな。越知君は?」
「犬は苦手だ」
「じゃあ私も苦手?ショックだー」
ゴミ置き場に袋を投げ入れて、スライド式の蓋を占めた。
棒読みの声でわざとらしく肩を落とせば困ったように私を見ていた。
「そういうわけではない」
「犬苦手なんでしょ?」
「犬は苦手だが、お前は違う。一緒にいると安心する」
「ほんと?じゃあ今日は散歩に連れてってもらおうかな」
「一緒に帰るという事か?」
「当たり!どうですか?」
「わかった」
こんな他愛もない会話も、特別ではなく普通に感じられるようになった。
それくらい言葉を交わすようになり、一緒にいるようになった。
「箒片付けるから貸して」
「自分で片づける」
「テニス選手にまた怪我させるわけにはいかないよ。高校でも続けるでしょ?」
2本の箒を並べてしまって、戸を閉めた。頭をぶつけないように階段下から廊下に出て、越知君と目が合った。
「どうしたの?」
「お前には先に言っておきたいことがある。U-17日本代表候補合宿に誘われた」
「なにそれ?」
「テニス界の日本代表選手の育成を図る合宿だ。絶対になれる保証はないが行こうと思っている」
普段は髪で瞳を隠しているのに、右にずらして左目だけではあるが私の事をしっかりと見ていた。
「すごいね。おめでとう」
「ありがとう」
「でも寂しくなるね」
「そうか?」
「せっかく懐いた野良猫が急にどこかに行っちゃう気分」
「お前は、」
乾いた風が砂埃を巻き上げ、窓をカタカタと揺らした。
かき消されかけた彼の言葉を、私は聞こえなかったふりをした。
お前は、行ってほしくないのか?
それが彼の夢なら全力で応援したい。
行ってほしくないというのは私の勝手な我儘だ。
だから自分の気持ちに蓋をして、私は彼に笑顔を向ける。
「でも、どこか行っちゃうところが野良猫らしいところだよね」
◇
今年最初の初雪が観測された。
朝にうっすらと白さが残るほどの雪を降らせ、日が沈めばはらはらとまた雪が降り始めた。残念ながら私の視力をもってしても雪の結晶は見られなかった。
校門付近の切れかけた外灯。それでも背が高いその人は、私が待っていた人だとすぐに認識することができた。
「部員に別れを惜しまれた感想はいかがでしたか?」
「さして興味はない。が、こんなに慕われていたとは思わなかった」
道路と歩道を分けるコンクリートブロックの上に乗り、平均台の上を歩くようにバランスをとって歩いた。しかしコンクリートブロックに乗っても尚、越知君の身長を抜くことは出来なかった。
「危ないぞ」
「大丈夫だって。越知君はこれよりもっともっと高いところから世界を見てるんだね」
きっと私なんか猫くらいの大きさに見えて、その猫は鼠くらいで、鼠は蟻くらいに見えてるんだろうな。
「私も越知君の高さから世界を見てみたいな」
コンクリートブロックが途切れて道がなくなった。
しょうがなく歩道に降りようとした時、制服の袖がツンと引っ張られた。
その犯人は、私より随分と背が高いのにまるで子供の様にちょこんと袖を持つものだからあやすように声を掛けた。
「どうしたの?」
「俺の高さから世界を見たいか?」
「見れたらいいなと思ってるよ」
手を放し、ぐるりと私の前へと回って彼は腰をかがめた。
途切れたコンクリートブロックの先には彼の背中が目の前にあった。
「乗れ」
「嘘でしょ!?」
「見たいんだろう?」
「いや、重いし無理だって!」
彼は一向に屈んだまま静止している。
少しでも身を軽くするため、ポケットの中の物を鞄にしまって地面に置いた。
「後悔しても知らないからね」
彼の肩に手を乗せて、その大きな背に身を預けた。
膝の裏に手を掛けて、体制を整えてからゆっくりと背をただす。
家の塀よりも高く、一時停止標識に頭がぶつかりそうで、歩行者用の信号が同じ目線。
雲の隙間から見える空が、星が、月が、とても近く感じられた。
そして、何よりも越知君の顔がすぐ近くにあって息を呑んだ。
私と同じ景色を見ていた彼の横顔はとても綺麗で、とても優しい目をしていて、せっかく見せてくれた世界よりも私は引き込まれてしまった。
「俺の高さから見た景色はどうだ?」
「越知君が綺麗だと思った」
思ったことを口にした。
迷うことも、恥ずかしがることもなかった。
だって感情を飾らずに出せることを長所だと言ってくれた彼に対しての言葉だったから。
「お前はすぐそういうことを言う」
「本当にそう思ったんだもん。月よりも綺麗だよ」
「………ありがとう」
雪が越知君の髪に落ちては溶けて、落ちては溶けて。
青色のメッシュをキラキラと輝かせていた。
「明日、U-17の合宿地へと出向く」
「うん」
「そこで日本代表選手として世界の舞台に立てるかもしれない」
「越知君なら大丈夫だよ」
「根拠は?」
「ない。けど、何となくそう思う」
「お前が思うなら十分な根拠だ」
冷たい風が髪を揺らし、今までで一番越知君の顔をはっきり見ることができた。
その顔は暗殺者なんかじゃない。テニスに青春を捧げる普通の男子中学生だ。
「越知君、もっと広い世界を見せてくれる?」
「それは本物の世界を、ということだろうか」
「うん」
「俺が日本代表選手として世界に立つまで、待てるか?」
「もちろん。従順な犬ですから」
同じ高さから空を見上げた。
3年後、貴方から届いた手紙を握りしめてオーストラリアまで行きます。
そこには今日に負けないほどの眩しさで、新たな仲間と共にテニスをする貴方がいることでしょう。