貌鳥が名前を呼ぶ日

「白石君、ちょっとええかな?廊下で女の子が呼んでるんやけど…」

今日ほど彼に声を掛けた日はない。
私の言葉を聞いて、教室の後ろ扉へと視線を移した彼は苦笑した。

「あぁ…行ってくるわ。ありがとう」

本日の日付は二月十四日———
そう、つまりはバレンタインデーだ。

友チョコや義理チョコが大半であっても、やはり今日という日に好きな人にチョコレートを渡す人は少なくない。
特に中学校生活最後のバレンタインデーともなれば、好きな人にチョコを渡して告白する子もいる。
何故なら、仮にフラれたとしても二ヶ月後に別の高校に進学してしまえば、相手と気まずくなることもないからだ。

重い足取りで教室を出てった白石君の背中を見つめる。
同じクラスの白石蔵ノ介はとにかくモテる。
文句の付けどころのない容姿に加え、成績も常に上位。さらには全国大会レベルの男子テニス部の部長も務めた。
こんないい男を、女の子がほっておくわけがない。

そして、言わずもがな私もそのうちの一人である。

「白石は相変わらずやな〜。これで何人目や?」
「十人目やったと思うよ」

今はお昼休み。
まだ半日でこの様子だときっと放課後は大変なことになるだろう。

先ほどまで白石君と話をしていた忍足謙也も、私と同じく白石君が出ていった扉の方を見ていた。
白石君と親友でもある謙也君は特に驚くわけでもなく、寧ろ先ほどの歪んだ白石君の顔を思い出して笑っていた。

「さすが白石や!それにしても、自分も毎回呼び出し係りにされて大変やな」
「私は別に…一番廊下に近い席やからしょうがないよ」

廊下側の一番後ろの席である私は、よく他クラスの子に白石君を呼ぶようお願いされる。今日に限らず、日常的にだ。
その子たちの大半は白石君の事が好きな子たちで、全員が告白のためではないけれど教科書を借りたいだとかテニス部の試合の感想だとか…何かと理由を付けて彼を呼び出す。
その度に私は、まるで伝書鳩のごとく白石君に声を掛けてそれを知らせるのだ。

「俺も、一回くらい女の子から告白されてみたいわ」
「謙也君ってモテるんやないの?チョコたくさん貰うとるやん」

彼の机の上には今日貰ったであろう、袋や箱が山積みになっていた。きっとクラスの男子の中では一番の量であろう。
本来なら喜ぶべきところであるのに、謙也君は盛大なため息を付いた。

「ぜーんぶ義理に決まっとるやろ!しかもこの中の大半がゴリラの形したチョコやねん!皆お笑い狙いすぎて被っとんねん!」
「謙也君らしいね。でも貰えないよりはええやん」
「アホか!義理チョコ百個より好きな子からの一個の方が嬉しいもんや」
「なんや二人とも、面白い話ししとるんか?」

謙也君の見かけによらない繊細な恋愛観の話を聞いていれば、いつの間にか白石君が戻ってきており、私達の輪に加わった。
でも私は彼を呼び出した女の子の事が気になり、バレないように廊下へと視線を向けた。しかし、すでに彼女の姿はなかった。

「白石もう戻って来たんか?というか手ぶらやんけ」
「チョコレート、貰わへんかったん?」

彼の手元を見てみるとチョコレートはおろか、手紙の一つも持っていない。
白石君を呼ぶよう私に声を掛けてくれた女の子は可愛らしくラッピングされた箱を持っていた。それは明らかに白石君に渡すものだと思ったのに、違ったのだろうか。

「断ってしもうたからな」

困ったように眉尻を下げて、彼は両掌を広げて私たちに見せた。

「なんでや!?毎年告白断ってもチョコだけは受け取ってるやん!」

私が質問する前にせっかちな謙也君が前のめりに白石君に詰め寄った。
そう、謙也君の言う通り白石君は去年大量のチョコを持ち帰っていた。
「付き合うことは出来なくても、貰う事で相手が満足してくれるんなら断れへん」と彼は言っていたのだ。

「うーん…もう無理せんでもええかなって」
「無理ってどういう意味?」

せっかちな謙也君が話し出す前に、私が白石君に質問した。
だって、私の鞄の中には白石君に渡すためのチョコレートが入ってたから。

「いや…その、今年はどうしても貰いたい子がおんねん。その子以外からは受け取らへんって決めたんや」

――好きな子からの一個の方が嬉しいもんや――

先ほどの謙也君の言葉が頭をよぎった。



放課後、受験真っただ中の私は下校時刻ギリギリまで図書室で勉強をする。
白石君も、どこで勉強をしているのかは分からないが私と同じく下校時刻ギリギリまで勉強しているようで帰りは昇降口で時折会う。

だから今日は少し早めに切り上げて白石君を待つ予定でいたのに、昼休みの話を聞いて私の勇気は削がれてしまった。
告白、まではいかなくてもチョコは渡したかった。私が今までしてきた片思いを、チョコを渡すことで終わらせたかったのに今年はそれもできないらしい。

結局いつも通り下校時刻ギリギリまで勉強をして昇降口に向かう。すると、揺れる人影が見えた。
私が見間違うはずがない。

「白石君?」

自分から声を掛けた。
人に頼まれたからではなく、自分の意志で今日初めて彼の名を呼んだ。

「お、君か。まだ残ってたんか?」

予想よりも明るい声が帰ってきて少し驚いた。
今日は彼の険しい表情しか見れていなかったから、いつもの優しい表情がやけに嬉しく感じた。

「うん。白石君もまだ残ってたんやね。勉強?」
「まぁそんなとこや」

彼は下駄箱に寄りかかっていた背筋を伸ばし、私をみた。
もうすっかり日が暮れているというのに、白石君の淡い色の髪が揺れてキラキラと光っているように見えた。

「わかった、謙也君待っとるんやろ?」

もう少しだけ話したくて、自分から質問をした。
白石君と謙也君は仲がいいから、きっと謙也君の名前を出せば何か反応してくれるかなって。

「それはちょっと違うかな…」

白石君は歯切れの悪い返事をした。
散々、女の子からのチョコレートを断り続け疲れてしまったのだろうか。
それとも私の質問がうざかった?

……いや、違う。
きっと好きな子を待ってるんだ。

断るのが大変なら、早く帰ればいい。
それなのにここに居るという事は、きっとまだ貰えていないということなのだろう。
その事をあえて聞くことはしない。
私は彼を困らせたくはなかったから。

「それ、」
「え?」

不意に声が掛けられた。
彼の視線は私が持っていた小さな紙袋。

「チョコレート、やんな。誰に渡すん?」

後ろに隠すも既に遅い。
シンプルな上質の紙袋に、赤いリボンが付けられたそれは本命であることは明らかだった。

白石君のために作ったもの。
白石君に渡すはずだったもの。
そして、白石君に告白するはずだった。

負け試合でも「好き」と伝えるべきかもしれない。
でも、それよりも私は白石君の申し訳なさそうな辛い顔を見たくはなかった。

「これは、渡すつもりやったけど渡せんくなったやつで……」
「どういう意味や?」
「えっと、もう帰ってしもうたみたいで……」
「それ本当か?」

これ以上、うまい答えを思いつきそうにない。
私は彼の横をすり抜けて、下駄箱から靴を取り出す。

「あ、でも今から追いかければ間に合うかもしれへんね!また明日、白石君」

靴を履き、たたらを踏みながら外へ出た。
その時ちらりと見えた彼の顔は、まだ何か言いたそうだったけれど気付かないふりをした。



「おっ!自分も今帰りか?」

足早に校門までたどり着いた時、私のテンションとは真逆に元気よく呼び止められた。
すぐに誰だか分かり、足を止めて振り返る。

「そうだよ。謙也君はすごい大荷物だね」
「さっき部室に顔だしたら男からも貰ったわ〜!もちろん全部義理やけどな!」

自転車の前籠にこれでもかと詰め込んだ紙袋や箱は半分ほど潰れていたがそれは彼にとっては大した問題ではないのだろう。

「そういや、白石には会うたか?」

心の隅に追いやっていた感情が、また引きずりだされた気がした。

「まぁ……何で?」
「いや、だってその〜……」

聞いてきたのは謙也君なのに、その後の言葉は続かない。
再度、謙也君の自転車籠を見る。
義理であろうとも、受け取ってほしい人に届けられたチョコはなんて幸せなのだろうか。

「そういえば、謙也君にまだチョコ渡してへんかったね」

ずっと持っていた紙袋を、自転車の前籠に押し入れた。

「残り物で悪いけど、受け取ってもらってええかな。もちろん義理やから」
「は?!こんなええ物、他に渡す奴いたんじゃ……」
「じゃあ、また明日ね」

先ほど謙也君の名前をだしに使ったお詫びも兼ねてだと、心の中で言い訳をした。
そして足早にではなく、今度は駆け出して校門の外へでる。

ケーキ屋さんの前を通れば、店員さんがValentineと書かれた赤い看板を片付けていた。
そこに残っていたチョコレートの香りは、胸焼けするくらい甘かった。





チョコレートは白石君に渡さなかった。
告白はしなかった。

またいつも通りの日常に戻るだけ。
受験のことだけ考えて、学校に行って勉強して、家に帰っても勉強して、眠って、そしてまた朝が来る。

フラれたとして、毎日教室で顔を合わせるわけだから告白しなくてよかったかもしれない。
残り約二ヶ月の学校生活を気まずく顔を合わせるよりはマシだ。
そう自分を正当化して今日も放課後は図書室へと向かう。

私が使うのはテーブル席ではなく、壁に向かって置いてあるカウンターテーブルのような場所。
細長いテーブルと合わせて四脚ほど椅子が置いてあるがこの場所を使う者はあまりいない。何故なら一人で勉強したい人は自習室を使用するからなのだが、かえって穴場にもなっている。

鞄から荷物を取り出し、苦手な理系科目の教科書を開く。
まずは化学からやろうと手を付けてみる。が、化学式の羅列を見てすぐに手が止まりため息がでる。

「隣、ええですか?」

二度目のため息が出そうになった時、息が止まった。
その声は、静かな図書室ではいつもよりも鮮明に聞こえた。

「白石君…」
「隣ええか?俺もここで勉強したいんやけど」
「もちろん、ええよ」

広げすぎてしまった荷物を動かしてスペースを作る。
一度も白石君の隣の席になれたことなんてなかったのに、まさかこんな日がくるなんて思わなかった。

「えらい大きなため息やったな」
「ごめん。その、化学が分からなすぎてつい……」

隣に座った彼は、私が広げた教科書を覗き見た。その時、白石君の髪がふわりと揺れ、爽やかな香りがした。

「あぁ、先生が今日解説してた応用のとこやろ。あれ分かりにくかったよな」
「白石君もそう思ったん?」
「せやねん。だってこれは——」

そういうと、彼は教科書に書かれた文字をその綺麗な指でなぞった。
つい見惚れてしまったが、はっとして彼の言葉に耳を傾けた。
まさか、勉強を教えてもらえる日が来るなんて思いもよらなかった。

「どうや?」
「ありがとう。すごく分かりやすかった、です」

辿々しく答えれば、白石君は満足気に口角を少し上げて優しく微笑んだ。

「分からんとこあったら、俺でよければ教えるわ」

そう言うと白石君は自分の教科書を広げて、視線をそこへ移した。
図書室端の一角。
自分の心臓の音が聞こえてないか、心配になった。



その日から、白石君は毎日図書室へ来るようになった。
そして決まって私の隣に座る。

「分からん事あったら気軽に声かけて」と言ってくれた白石君に、初めは遠慮していたけれど一つ聞けば十の事を教えてくれて私の勉強は捗った。

「なんで、白石君は私に勉強教えてくれるん?」

一緒に勉強するようになり、一週間。
遂に私はその疑問をぶつけた。

「え?」
「やって、白石君なら一人で勉強した方が効率ええやろ?だから…」

控えめに言えば、白石君は優しく微笑んだ。

「それは正直俺の為というか……ほら、俺ら同じ高校受けるやん」
「本当?!」

つい大きな声を出し、慌てて口を塞ぐ。幸い近くに人はいなかったため注意はされなかった。

「そうや。それに俺らのクラスであの高校受けるんは俺と君だけや。四月にぼっちで高校行くのも寂しいやろ」

少し恥ずかしそうな白石君の顔を見て、嬉しくなった。それと同時に、やっぱり白石君の事が好きだなぁって気持ちと、告白しなくて良かったなって気持ちが入り混じって苦しくなった。

「確かにぼっちは嫌や。私も受かるように頑張るね」
「俺もや。一緒に高校行こうな」

試験まで残り僅か。
ふと窓の外を見れば、二羽のツリスガラが身を寄せ合って私達の事を見ていた。





明日が試験日という事で、部活の後輩から差し入れをもらった。ホッカイロやお菓子、それにお守りなど。それらを有り難く受け取って、昇降口へと足を向けた。

図書室に寄らなかったのは、担任から明日に備えて今日は早く帰りなさいと言われていたからだ。

白石君ともう勉強することもない。
"あたりまえだ"になりつつあった日常も、昨日で終わりだったというわけだ。

校舎から出て空を見上げれば、以前よりも少しだけ空の青が濃くなっているような気がした。お日様からの日差しも、温かさが増している。
まだまだ冷え込む日はあるけれど、確実に季節は移り変わっている。

「お疲れさん」
「白石君!」

ほぼ同時に声を上げ、言葉が重なった。
今日はもう会えないと思っていたのに、彼は校門の入り口に立っていた。
駆け足で彼のところに向かい、僅かに空いていたその距離を詰めた。

「後輩達に捕まとったな。モテモテやな、自分」
「そんな事あらへんよ。あの子らが世話焼きなだけや」

先ほどの様子を見ていたのか、おどけた様にそう言った。
私も笑えば、いつもの優しい笑みを向けてくれる。
この笑顔があればホッカイロいらずだ。今日の白石君はお日様の温かさに負けないくらいのぬくもりがある。

「なぁ、この後少し付き合ってもろうてええか?」

その言葉を理解できなかった私は固まって瞬きを繰り返した。
理解が追い付かず、私の周りだけ時が止まってしまったような感覚。でも遠くから聞こえた鳥の鳴き声がそうでないことを教えてくれた。

そのまま固まっていれば、それが断りの合図だと思った白石君が慌てて言葉を続ける。

「あ、変な意味やあらへんよ!少しだけ、そんな時間取らせへんし、今日どうしても行きたい場所があんねん!そこに一緒に来てほしくて…」
「わ、分かった。ほな、行こうか」

慌てて話した白石君と共に学校の外へと出た。
私達の様子を笑うかのように、先ほどよりも高い鳥の鳴き声が聞こえた。



「こんなところ、あったんや」

学校から歩いて十分ほどの場所。
住宅街にちょこんと現れたのは小さな神社であった。
賽銭箱と社だけの小さな神社。
鳥居がなければきっとそのことすら分からなかったであろう場所だ。

「驚いたやろ。小さいけどここのご利益は半端ないんやで。ユウジがここで祈願したらお笑いトーナメントで優勝したんやって。あとは姉さんに彼氏ができたやろ、それに宝くじで一等が当たったいう噂もあるんや」
「それはすごいね」
「やろ!だから明日の祈願ができたらな思って連れてきてしもうた」
「ありがとう。じゃあお参りしよっか」

お財布から五円玉を取り出し、投げ入れた。
二拝二拍手——

目を閉じて、願いを心の中で言った。
無事に私と白石君が同じ高校に行けますように。

最後に一礼をし、隣を見る。
同じタイミングで白石君と目が合い、笑いあった。

神社から出るとき、梅の木が植えられていることに気づいた。
外からでは分からないくらい小さな木だったけれど、メジロがせわしなく動いて花の甘い蜜を楽しんでいた。





今日が合格発表日。どんなにこの日を待ちわびたことか。
でもそれは結果が分かるというだけでなく、久しぶりに白石君と会えるからだと気付いたのは、彼の笑顔を見た時だった。

「久しぶりやな」
「本当やね」

試験が終わってからは、学校は自由登校。そのため白石君に会ったのは受験日以来だろうか。
受験校の校門前で偶然にも再開した私たちは、掲示板を目指して歩みを進めた。

「緊張するわ…」
「本当や。でもあれだけ勉強したから大丈夫やろ」

人混みを掻き分けて、受験番号が張り出されている掲示板まで進む。
もうすでに結果を見終えた子たちは、喜んだり泣いたりとせわしない。
私の心臓も徐々にその音を大きくしていった。

「着いたで」
「うん」

ようやく見える場所まで辿り着き、深呼吸して顔を上げた。
上から順に目線を動かし、番号を探す。
私の番号は——

「あっ……」
「あった!君の番号見つけたで!」

私が声を発するより前に、彼は掲示板を指差した。
手元の受験票と掲示板の番号を何度も見返して間違いがないか確認する。
そこには一桁も違わない私の番号が確かに書かれていたのだ。

「本当や…」
「おめでとう!」
「あ、白石君の番号は?」
「もちろんあったで」

白石君が指さした先を辿っていけば、彼の番号も記載されていた。

「おめでとう!本当に、本当によかった」
「なんや、自分の時より喜んどるやん」
「だって嬉しかってん!それに白石君も先に私の番号見つけてくれたやろ」
「せやね。本当よかったわ」

少しだけ濡れてしまった目元を拭ったら、隣で白石君が笑っていた。
正直、喜びのあまりその後どのような会話をしたかは覚えていないけれど彼のその優しい声は私の耳に残っていた。





三月十四日——
今日が卒業式であり、それが奇しくもホワイトデーだという事は朝のニュース番組で知った。

数日前から天気は崩れがちだったけれど、今日は見事な日本晴れ。
式は最初から最後まで、お笑い好きな四天宝寺らしく涙のひとつも流さない笑いに包まれたものだった。

同級生とアルバムに寄せ書きをして、後輩たちからは花をもらって、クラス全員で写真を撮った。
中央には白石君と謙也君がいる。私は隅の方で背伸びをして写真に写った。

三年間の学校生活のうちの、最後のほんの数週間。
白石君とあれだけ話せるようになったこと自体が奇跡だ。
その思い出を大切にすれば、私の片想いも意味のないものでは決してなかっただろう。

「高校でもよろしくね」って一言白石君に伝えたかったけれど、彼は大勢の人に囲まれていてそんなことを言える雰囲気ではなかった。

靴を履き替え、すっかり人気の少なくなった校舎を後にする。
一度帰って、夜はカラオケ店でクラス会だ。

外の景色は一月前よりさらに色付いて見えた。
さぁ、この校門をでたら全てが“過去”になって、綺麗な思い出になる。

「ちょっと待ち!」

振り向くよりも先に腕を掴まれた。
誰かはすぐにわかったけれど、その名を呼ぶ隙もないうちにぐいぐいと腕を引っ張られた。
回れ右をして、連れ戻される。
でもそれが校舎ではなく部室棟の裏であると気付いたのは足が止まってからだった。

「やっと二人きりになれた」
「ど、どういうこと……」

運動不足であった体には全力疾走が堪えた。そんな私とは裏腹に、白石君は私の息が整うまで優しく背中を擦ってくれた。

「ごめんな、急に連れ出したりして…」
「ううん。私は大丈夫だよ」
「君とどうしても二人で話したくて…こうするしかなかったんや」

まだ状況を読み込めていない私は白石君の言葉に黙って耳を傾けることしかできなかった。
ただ、春の日差しのせいなのか、彼が擦った背中にはまだぬくもりが残っている。

「これ、君に。バレンタインデーのお返し」

差し出されたのは、ピンク色の可愛らしい紙袋。
それを反射的に受け取った。だけど状況が呑み込めない。

「え…?でも私白石君にバレンタインは……」
「ちゃんと貰うたよ、謙也から。本当は直接貰いたかってんけどな」

確かに、白石君のためにチョコレートは作った。
でもそれは謙也君に義理チョコとして渡した。

「その顔じゃあ覚えてないんか。添えてあったカードにはちゃんと俺の名前書いてあったで」

笑った白石君の顔とその言葉でようやく思い出す。
そうだ。白石君はきっとたくさんのチョコレートを貰うだろうと、彼の名前と自分の名前を書いたカードを一緒に入れたのだ。

「そうやった…あぁ、そうや。謙也君に悪い事してもうた……」
「そこはちゃうやろ。なんで直接渡してくれへんかったん?」

彼らしくない、少しムッとした声で怒られる。

「やって、白石君今年は好きな子からのチョコしか受け取らへん言うから…」
「自分だとは思わへんかったん?」
「私、目立つ方でもあらへんし、白石君ともそんな話す方ではなかったやん。だから、その…」
「俺は君に惹かれたんよ。優しくて、気配りができて、真面目で、笑うと可愛ええなってずっと思うとった。……俺は、君の事が好きや」

夢のようなその言葉を、夢だとは思わなかったのは、白石君の声が緊張で少しだけ震えてたから。

「ほ、本当?」
「本当や。やなかったら図書室で勉強もせんし、神社にも連れて行かへんかった。君からのチョコだけ受け取って、君だけにホワイトデーのお返ししたんに、そろそろ俺の気持ち、理解してほしいわ」

困ったように、呆れたように、少し子供っぽい彼の言葉。
好きだったことを“過去”の思い出にしなくてよかった。

「私も白石君のことが好きや」
「ありがとう。ほな、君のこと名前で呼んでええか?」

私の頰を撫でた風は暖かくてとても優しかった。

咲いてはいない桜の枝先に鶯が留まっていた。
まだ上手く鳴けない鶯。
でも、それは確かに春の訪れを教えてくれたのだ。




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