美しきキャンバス

真っ白なキャンバスに埋めるだけの思い出が、果たして私にあっただろうか。

8月にある美術コンクールへの出展にて、私たち美術部員は引退となる。
コンクール自体のテーマは自由だが、顧問の先生からは"3年間の思い出"という課題が出されていた。

林間合宿も修学旅行も文化祭も楽しかった。
でもそれをまとめても"3年間の思い出"と胸を張って言えるものではなかった。

他の子達はすでに描き始めている。
描きたいものすら決められていない私は、部活休みの今日も美術室へと足を運んだ。

だからといって何をするわけでもなく、白いキャンバスを見つめて溜息をつくばかりだ。

「何をサボっている。グランド20周追加だ」

自分の事を言われたかと思い、何度目かの溜息を飲み込んで背筋を伸ばした。
すぐに窓の外から数人の男子生徒の声が聞こえ、ほっと息をついた。

ゆっくりと窓辺へと向かい外を見ると、よく見知った人物が部員たちに指示を出していた。
同じクラスの手塚国光はやはり人にも厳しいらしい。

彼とは同じクラスであるが会話らしいものをした事はない。しかし、授業中はそのよく通る声で話し、生徒会長とテニス部部長を兼任するすごい人という印象くらいはある。

部員たちに指示を出した後は他の部員とテニスコートで打ち合いをしている。

彼からしたら、きっとこのキャンバスすら容易に埋めてしまうくらいの思い出はあるだろう。
それが羨ましくも感じ、スケッチブックと鉛筆を手に取った。

テニスをする彼の姿をスケッチする。
静物よりも生物を描くほうが好きだ。ひとつひとつの動作が、仕草が美しく、二度と同じ表情は見せない。その一瞬の端切れでもいいから形として残したいと私は思う。
ここからでは表情までは分からないが、その姿だけでも充分に美しかった。

描きたいものすら見つけられていないけれど、彼の姿を描いていたら心が少しだけ満たされた気がした。
その日は彼がテニスコートからいなくなるまで、ずっとスケッチを続けた。





ここ数日、放課後は窓を開けずっと彼の事を描いていた。
そんな事をしていたからか、風邪をひき一日学校を休んでしまった。元々、季節の変わり目は体調を崩しやすい体質なのだ。母親にはこの時期には散々心配させてしまう。

放課後、昨日休んだ分の課題の提出をするため職員室へと向かった。
今年は受験もあるのだから気をつけるようにと担任と顧問の先生にまで気遣われた。

「おい、」

ちょうど職員室から出たタイミングで声が掛けられた。
そのよく通る声で名前を呼ばれ、振り返るよりも先にピンと背筋が伸びた。

「手塚君?」

何とか平常心を取り戻し、その人物に返事をした。眼鏡越しの瞳に見つめられれば、先生と話す時よりも緊張してしまう。

「体調は大丈夫か?」

何を言われるのか身構えていれば、その表情からは想像できないような優しい意味合いの言葉が投げかけられた。
一瞬、理解ができず固まっていれば「どうした?」と言わんばかりに小首が傾げられる。

「あ、うん。もう大丈夫だよ。ありがとう」

何時も通りの声色でお礼を言う。
しかし、顔がちゃんと笑えていたかは分からない。

「よかったな。それと……」

彼が言い淀む姿を見てこれが本題でなかったと気付く。
だから私はやっぱり背筋をピンと伸ばして次の言葉を待った。

「最近、よく美術室からテニスコートを見ていないか?」

一筋の汗が背中を伝った。これが冷汗というものだと初めて分かった。
何時から知られていたのだろう。
テニスコートではなく手塚君を見ていたと言ったら何と思われるだろうか。

「あの、ごめんなさい」

どう思われているにしろ、気付いた時点で迷惑がられていることは当然である。
そう考えて、彼から次の言葉を聞く前に謝った。
こんな謝り方をしたのは、むかし祖父の家で障子に穴を開けた時以来だろうか。

「いや、別に怒っているわけではない。ただ気になって聞いただけだ。驚かせてすまない」

今度は手塚君が謝る番であった。
でも彼が謝る必要は何一つないのである。その光景が私の中で罪悪感を生んだ。
勝手に描いていたのは私だ。
見られていたのが知れていたのなら、話すことが一番の謝罪になるだろう。

「実は美術コンクールの絵が描けなくてテニスコートを見てたの。テーマが"3年間の思い出"なんだけど、手塚君ならたくさんあるんだろうなって思って手塚君を描いてたんだ」
「俺を描いていた?」

今度は冷汗どころではない。背筋が凍った。

そういえば、手塚君は一言も自分を見ているとは言っていなかった。
絵が描けなくてテニスコートを見ていた、までで話を止めておけば良かった。

「ごめんなさい!」

本日二度目の謝罪を彼にして、廊下を走り抜けた。
生徒会長の彼の前で中々の行為であるが、そんな事も言っていられない。



誰もいない美術室に飛び込んだ。
部活休みである今日はここには誰もいない。布が掛けられた他の部員のキャンバスと、私の真っ白なキャンバスが置かれている静かな空間。
締め切られた美術室の、独特の油絵の具の匂いを肺に取り込むと少しだけ安心できた。

「病み上がりに走って大丈夫か?」

息をつくのも束の間、息が止まるかと思った。
走った分も相まって心臓がバクバクする。

「あの、本当にごめんなさい」
「勘違いはするな。怒ってはいない」

彼はきっと早歩きで追いついてきたのだろう。それでも先ほど同様顔色一つ変えることなく、淡々と言ってのけた。
怒ってはいないと言われても、その声と表情からは残念ながら信じられなかった。

「でも、勝手に描かれたら嫌でしょう?」
「その絵を見せてくれないか?」

質問に質問で返され、何も言えなかった。
ここまで自分勝手なことをしておいて彼のお願いを断るわけにはいかない。
美術室の、鍵もかけられていない自分のロッカーを開けてスケッチブックを取り出す。
ここ数日の彼の絵も描かれているそれを両手で差し出した。

彼は「ありがとう」と一言添えて、その長い指で一枚一枚めくっていった。
紙が擦れる音がするたびに、私の心臓が飛び跳ねるように波打つ。

「これが俺か?」
「うん。顔はここからじゃよく見えないから描いてないけど…」

彼の様子を伺うように表情を盗み見た。
真剣に私の絵を見ている。部員たちにも、先生にも、じっくりと絵を見られたことはあるけれどそれよりもその瞳は真剣に感じられた。

「お前には俺がこのように見えていたのか?」
「え?」

スケッチブックから顔を上げた彼と目が合った。
その真剣な瞳が今は私に向けられている。

「上手く言葉にはできないのだが…。俺はこの絵が好きだ。描いてくれたことに礼を言おう」
「私も、描かせてくれてありがとう」

まさかお礼を言われるとは思っていなくて、その後に続いたセリフはなんとも不思議なものになってしまった。

「“3年間の思い出”か」

私の真っ白なキャンバスに視線を移してポツリと言った。

「私、思い出といえるものが見つからなくてまだ何も描けていないの」
「君は俺にたくさんの思い出があると言ったが一番の思い出はまだないぞ」

キャンバスを見つめている目を僅かに細めて呟くように言った。

「そうなの?」
「俺たちの目標は全国大会優勝だ。それを合わせて初めて“3年間の思い出”と言える」

そう言った手塚君はやっぱり美しかった。
手元に紙と鉛筆があったら確実にスケッチをしていた。

「手塚君はすごいね」
「何がだ?」
「そういう目標とか気持ちも含めて思い出だよ。それを絵にしたらすごく綺麗だと思う」

頭の中で描いてそこに色を乗せる。
きっと私の技術ではその美しさを表現しきれないと思う。それでもできる限り鮮明に頭の中で描いてみた。

「俺でよければ絵にしてみるか?」

ちょうどコバルトブルーで塗った時、彼はそう言った。
筋の通った声というよりは、いつもより柔らかく発せられた言葉に驚いた。
背筋はピンと伸びなかった。

「いいの?でも手塚君の思い出はまだ……」
「絵は自由に描けるだろう。君が描いてくれれば全国大会への励みにもなる。…図々しかったか?」
「そんなことないよ。えっと、じゃあよろしくお願いします」
「あぁ」

あの手塚君が嘘のように少しだけ笑った。
でも瞬きをしたらいつものような顔に戻って、夢かと思ってしまった。

彼は最後にスケッチブックを私に返して、美術室を後にした。

油絵の具の匂いを吸い込んで白いキャンバスの前に立つ。
私の頭の中で描かれた絵をどこまで表現できるかは分からない。

でも、私はようやく鉛筆をキャンバスへと滑らすことができた。





イメージが固まり始め、少しずつ描き起こすことができている。
しかし、窓から見えると言ってもテニスコートは遠いわけで最近では描くスピードが落ちてきている。
手塚君に都大会優勝おめでとうと言えば、絵の進歩を聞かれてしまった。

「最近あんまり進んでないの」
「そうなのか?」

放課後の教室で日誌を書いていた手塚君がペンを置いた。
私は日直ではなかったけれど、手塚君と話がしたくて残っていた。
本来なら、絵のモデルである彼にこんな話までするのではないのだろうけど気付けばそんな言葉がこぼれ落ちた。

「描きたいのにイメージが固まらない。って、こんな話をされても困るよね」

今までは描きたいものを描いてきた。
でも描きたいのに描けないのは初めてで、ひどくもどかしい。

「今日、練習を見に来るか?」

いつの間にかに書き終えた日誌を閉じて、彼は席を立った。

「でも、手塚君にも部員のみんなにも迷惑なんじゃ…」
「俺は構わないが。そうか部員か……」

“手塚君”から“部長”の顔になって、彼は考え始める。

「では部室棟の近くからではどうだ?美術室からよりはよく見えるだろう」

私の返事を待たずして、彼は教室を出て行こうとした。
なかなかその場から動かない私を見て、「行かないのか?」と問いかける。
背筋を伸ばすよりも先にその場から駆け出して彼の後を追った。

他の部員たちに迷惑にならないよう部室棟の陰に隠れてこっそりとテニスコートを盗み見た。部員たちは自主練習中なのか、打ち合いや筋トレをしたりと様々に過ごしていた。

そんな様子を見ていたら、着替えを終えた手塚君が部室から出てきた。
ちょうど目が合ったので小さく手を振ってみたら、僅かに笑って頷いてくれた。きっとこの表情は美術室からでは分からなかったんだろうな。

そのよく通る声をテニスコートで発すれば、皆一同に手塚君の方へと集まる。そして彼の指示のもとテニスコートに部員が入り試合を行うことになったようだ。

手塚君の試合が始まった。
近くで見ると何倍にもすごい迫力で、思わず背筋がピンと伸びた。
彼の一つ一つの動きも、息遣いも、打つ時の声も、何もかもが美しかった。躍動感とでも言えばいいのか、それすらも私は絵にしたいと思った。

スケッチブックも鉛筆も、それがなくても私の頭には彼の絵が出来上がっていた。
早くキャンバスに向き合いたい。

「イメージはつくれたか?」

試合を終えた手塚君が、私の目の前に立っていた。コートでは他の部員が試合を始めていて、どうやら人目を避けて来てくれたようだった。

「試合お疲れ様。お蔭様でとってもいい絵が描けそう」

まだカーマインは残っていただろうか、モーブとビリジャンの色も使いたい。
頭の中で必要な色がいくつも浮かんだ。

「よかったな」
「手塚君ありがとう。美術室に戻るね」
「待て」

早くキャンバスに色を乗せたくて走り出そうとした私の手首が掴まれる。
驚くよりも先に背筋が伸びた。

「どうしたの?」

自分を落ち着けるために、いつも通りの声を出そうとした。でも声が上ずって、自分の心臓が波打ったことに気付いた。

「下校時刻ギリギリまで居残るつもりか?」

彼のいつも通りの声色に少しずつ心臓が静かになっていくことが分かった。
下校時刻どころか、描き終わるまで帰りたくないくらいだ。でもそれをしたらきっと明日になるに違いない。

「そのつもりだよ」
「危ないだろう。帰りは一緒に帰らないか?」

彼にしては少しだけ早口にそう言った。
自分の心臓がまた速く波打った。

「うん」
「校門で待っている」

そっと私の手を放してテニスコートに戻った彼は、やはり“部長”の顔になっていた。

キャンバスに向き合って筆をとった。先ほど彼に握られていたところが温かい。
その温かさを乗せて、キャンバスに色を乗せた。





「全国大会優勝おめでとう」
「コンクール最優秀賞おめでとう」

夏休み最後の日。それぞれの顧問に呼び出されていた私たちはちょうど同じタイミングで職員室を後にした。

生徒がいない学校はすごく静かで、でもまだ夏の終わりとは思えないほど暑かった。
ふたりでテニスコートまで来たけれど、制服姿の彼がそこにいるのは不思議な感覚だった。

「見に行けなくてすまなかった」
「それは私もだよ。全国大会もコンクールも同じ日にちだったからね」
「“輝きの片鱗”だったか」

仕上がった絵にそう題名を付けた。
最優秀賞をもらえた。けれど、私は手塚君に謝らなければならないことがあった。

「手塚君、ごめんね」
「何がだ?」

少しだけ目を見開いて驚いたように私を見た。
息を吸って背筋を伸ばした。

「手塚君のこと描き切れなかった」
「だから題名に“片鱗”と付けたのか?」
「うん。だってあんなにすごい手塚君を見たらキャンバスがいくらあっても足りないよ」
「買い被りすぎだ」

良い絵が描けた自信はある。でもそれが彼の全てであるとは言えなかった。

「君は謝ったが、俺は礼が言いたい」
「え?」
「初めて描いてくれた絵を見たとき嬉しかったんだ。部員からは恐れられている俺を、あんなに柔らかく優しく描いてくれた」
「あれが手塚君だよ」
「君にはそう見えているんだな」

目を細めて優しい表情で私を見た。
手塚君が笑った。
心臓の鼓動が少しだけ速くなった。

「テニスは楽しんでやるもの。それを忘れてた俺にあの絵が教えてくれた」
「私は見た通りに描いただけだよ。そんなに大袈裟に言わなくても……」
「だからこそ嬉しかった。間違いなく君の絵は俺の励みになった。それと、」

背筋がピンと伸びた。
心臓が波打った。

「君の事が好きだ。俺を、これから創る君の思い出に加えてくれないか?」

実はもう一つ、手塚君に謝らなければいけないことがあります。
“輝きの片鱗”は確かに手塚君を描いたのだけど、ほんの少しだけ私の色も混ぜました。
貴方の思い出に、私を入れてほしくて色を乗せました。

「私も手塚君の事が好きです。私も手塚君の思い出に加えてくれますか?」

そういえば、自分の“3年間の思い出”はまだ描いていなかった。
今の気持ちを描き表したい。
でも、きっとあのキャンバスじゃ収まらない。




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